ティッシュの山を片付け、瞳子(とうこ)は赤い目を上げた。

「うどん、冷めちゃったよね。温め直すね」

 うどんの器を下げキッチンに立った瞳子に、沙也葉(さやは)はダイニングテーブルから声をかけた。
 
「瞳子はこれからどうするの? ここに一人で住むの?」
「うん……維持は大変そうだけどね」

 売り払ってマンションに住み替えることも考えたが、生まれ育った家を簡単には手放せない。

「まず、仕事探さなきゃかなぁ」
「え、仕事辞めたの?」
「お母さんの看病に専念したかったから」

 残業も多いし、グレーな案件もやらされる会計事務所だった。あそこに戻りたくはない。

「いっそ、婚活でもするか」

 悪い考えではない気がする。二十代後半、年齢的にもいい頃合いだ。

「家と土地があって親戚付き合いなくて、私って結構優良物件じゃない?」
「まあ、そうだけど……」

 沙也葉は眉間に皺を寄せた。

「淋しいときにあまり恋愛しない方がいいよ。ソースは私」
「何があったの」
「優しくて頼れる人だと思って甘えてたら、既婚者だった」
「げえ……」
「淋しいと、多少の違和感には目をつぶっちゃうんだよ」

 瞳子は温め直したうどんを運んだ。

「それ、もう大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないよー、傷心だよ」

 沙也葉は改めて、いただきますと手を合わせた。

「ねぇ、瞳子。ちょっと、テーブルにぬいぐるみ出してもいい?」
「いいけど」

 沙也葉はカバンから小ぶりなぬいぐるみを出した。フェルト生地でできたモスグリーンの髪に、ペールオレンジのメッシュ。

「これは……さっきのキャラ?」
「うん、ヒノキのほっぺぷよぬいだよ」

 『ほっぺぷよぬい』は聞いたことがある。ほっぺがぷよぷよしたぬいぐるみのシリーズで、様々なジャンルのキャラクターがぬいぐるみ化されている。

「愛称は、ヒノちです」

 沙也葉はぬいぐるみの短い手足をぴょこぴょこと動かした。

「可愛いね」
「でしょ?」

 沙也葉はヒノちを自分の斜め前に座らせると、うどんをすすった。

「あー、癒されるぅ~」

 瞳子もうどんをすすった。長く浸した麺は少しふやけて柔らかくなっていたが、優しくて温かい。

「ね……瞳子」

 あらかたうどんを食べ終えたところで、沙也葉が改まって口を開いた。

「私、デザインの仕事も在宅で軌道に乗ってきたし、こっちに戻ろうと思ってて」
「ほんと? それは嬉しい」
「でね。私、夢があるの」

 沙也葉はヒノちの隣にもう一体のぬいぐるみを並べ、瞳子に向けた。

「こっちはリュぴ。この子も私の推しぬいなんだけど」

 右だけをアシンメトリーに伸ばした黒髪に、グレーのシャツと紫のインナー。髪で隠した顔の右側には傷があるようだ。これもゲームのキャラクターだろうか。

「私、この子たちにお世話されるのが夢なの」
「……はい?」
「主に、ご飯作ってもらいたい」

 何を言い出すのだろう、この子は。

「ぬいぐるみ、だよね」
「うん」
「無理じゃない?」
「まあ、そうなんだけど」

 良かった。妄想で気が触れているわけではないらしい。

「瞳子……一年だけでいいから、私の夢に付き合ってくれない?」
「どういうこと?」
「下宿代は払うから、ここに下宿させてくれないかな」
「下宿……沙也葉がここに住むってこと?」
「そう」

 それは楽しそうな気もするが。

「別に、お金払わなくても」
「何言ってるの、家の維持費も光熱費もかかるでしょ。それに、仕事を頼みたいの」
「仕事?」
「毎日じゃなくていいから、この子たちが作った形で、お料理を作ってもらえたら……嬉しい」

 ようやく、沙也葉の言いたいことが見えてきた。

「この子たちの黒子(くろこ)になれっていうこと? ゴーストライターみたいな?」

 いわばゴーストシェフ、というところだろうか。

「そう。だってこのうどん、ヒノちのイメージばっちりだったし。瞳子はお仕事休んでゆっくり家事して、私は推しぬいにお世話されて、癒しの一年を過ごすの。良くない?」

 沙也葉は早口で捲し立てた後、ぽかんとした瞳子の表情に気づき、首をすくめてうつむいた。

「………………ごめん、バカな提案で」
「そんなことないよ。びっくりしただけ」

 沙也葉の前で、ヒノちとリュぴがこちらをじっと見ている……ように、見える。

「そういう一年があってもいいかもね」

 沙也葉はぱっと顔を輝かせた。

「ぬいはいいよ。絶対裏切らないから。元メディアがサ終しても声優が不祥事起こしても、ここにいるぬいはピュアなまま残るんだよ」

 沙也葉の言葉には妙に実感がこもっている。今まで色々あったのだろう。
 沙也葉は椅子を下り、床に正座した。

「お願いします、ぬいのふりして私のお世話してください!」

 深々と瞳子を伏し拝む。

「ちょ、土下座はやめて」

 瞳子は戸惑いながらも、抗えないものを感じていた。孤独で空っぽな心にとって、誰かに求められる高揚は甘美だ。
 なるほど、確かに今恋愛したら、ろくでもないことになりそうだ。

「じゃあ、一年。やってみようか」

 苦笑混じりに瞳子が了承すると、沙也葉は顔を上げ、真っ赤になってこくこくとうなずいた。