推しぬいゴーストシェフ

 階下で、ドアを開け閉めする音が聞こえた。沙也葉が帰宅したらしい。

「ただいまー。あれ、瞳子? まだ帰ってないの?」

 階段を上がる音が聞こえ、部屋のドアがノックされた。

「寝てる? 具合悪い?」

 瞳子はドアを開けた。
 沙也葉はほっとしたように微笑んだが、瞳子の表情を見て真顔になった。

「どうかした?」

 沙也葉の眉がいぶかしげに寄っている。
 よほどひどい顔をしていたのだろう。

「……なんで嘘つくの」
「え?」
「実家、いなかったよね」

 沙也葉がハッと息を飲むのがわかった。

「ごめんね。でも、私にも秘密にしたいこととか、あって」

 それはそうだ。沙也葉にもプライバシーはある。
 こんな些細なことで駄々をこねている私の心が狭いのだろう。
 でも、やっぱり嘘は辛い。

「私、別に沙也葉の邪魔とかしないのに」
「それはわかってるよ」

 沙也葉はもどかしげに、爪で爪を引っ掻いた。何かを迷っているようだ。
 言いにくいことを言おうとしているのだろうか。例えば、結婚するから出ていきたい、とか……

「後で話そう。瞳子疲れてるみたいだし、もう少しゆっくりしてて。今夜は夕飯作らなくていいからね」

 沙也葉は踵を返し、パタパタと階段を下りて行った。

 我ながら面倒くさい。沙也葉も呆れただろう。
 いい年をして大人になれない自分が情けなくて、涙がこぼれた。


 高校生のとき、父が脳梗塞で倒れ、亡くなった。
 沙也葉は別の高校に通っていたが、その頃から『朝補習で時間が被るから』と瞳子を迎えに来るようになった。
 毎朝玄関の前で待っている沙也葉と、早朝の電車の駅まで十五分ほど歩いた。会話は他愛もないものばかりだった。

 沙也葉の高校には朝補習などないし、電車より自転車通学が便利な立地だと知ったのは、ずっと後のことだった。
 何か慰めるわけでもなく、ただ一緒にいてくれる。そういう子なのだ。


 しっかり者の瞳子に沙也葉が甘えているのだと、瞳子自身も思っていたが、思い返せば甘えていたのは瞳子だった。

 何も言わなくても、遠く離れていても、沙也葉なら絶対に裏切らない。
 いつも瞳子を肯定して、味方でいてくれる。

 そう信じていたから、嘘をつかれてショックだった。
 沙也葉が嘘をついてまで、自分じゃない誰かと過ごしているのがショックだった。


 でも、彼女の幸せのことを、私は本当に考えているのだろうか?

 沙也葉が東京を引き上げる予定なんて、本当はなかったに違いない。

 孤独にならないよう一緒にご飯を食べて、リアクションで楽しませ、仕事の名目で金銭支援までして。

 あの早朝の電車のように、私に合わせてくれていただけで、本当は……


 私に気を遣わせないように、私を守ってくれていただけ。


 伝えよう。
 私は大丈夫、縛られる必要はないって。
 あの子の幸せの障壁にはなりたくない。

 瞳子は起き上がって、涙を拭いた。