一話 風side
初めての人も、長く通っている人も。若い人も、ご老人も。うちの店にはとにかく沢山のお客さんが来てくれる。とてもありがたいことで、そのお陰でうちの店は上手く回っている。かといって、誰も来ない日がないわけではない。当たり前だけど、沢山人が来る日も、あんまり人が来ない日もある。
この店のコンセプトは『お悩み相談』だ。
マスターである僕は、お客さんの相談に乗る。そして、相談に乗りながらお客さんに合わせたカクテルを提供する。
都心部の中でも、まだわいわいとしていない……どちらかといえば、暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人の逃げ場所であるらしい。
金曜日の夜十時。ドアが勢いよく開いたら、君が来た合図だ。
「こんばんはー!」
ほら、やっぱり。あんなに元気良くこの店に入ってくるのは朝波さんくらいしかいない。
「いらっしゃい、朝波さん」
「いつもと同じあのお酒お願いします!」
朝波さんは、いつも同じ酒を頼む。カーディナルという種類の酒を。僕が一番好きな酒を。
「朝波さんは本当にカーディナルが好きですね」
朝波さんは、いつもは学校の教師として働いている。下の名前である『音』にみやこと読める『都』をつけて『音都』というペンネームで活動している覆面作家だ。
一ヶ月前それを、何故か初対面の僕に教えてくれた朝波さんはちょっと変わった人なのかもしれない。
気になって、彼女を知った日に書店に寄って、何冊か開いてみた。
すると、一気に物語の中に引き込まれた。彼女が紡ぎ出す言葉は、今まで見た事のあるどんな言葉よりも綺麗で透き通っていたのだ。かといって、穏やかな小説なのかと問われればそうではない。
世の中の理不尽さを、風刺する小説。怒りや悲しみが溢れ出す……共感の出来る箇所が多いような小説。それが彼女の作品だ。きっと誰にでもは、創り出せない唯一無二の言葉。
僕は彼女のファンになってしまったのだ。
そういえば、と朝波さんはカーディナルを片手に「明るい人には、その分理由があるんですって」と呟く。朝波さんは時折、よく考えてみたらわかる深い自論を僕に話してくる。
作家ってこんな感じなんだなぁと、つくづく思う。
「どういうことですか?」
「理由なく明るい人なんて、ほとんどいないから」
「……深いけど、ポエマーみたいでもある」
僕がそう少し皮肉を溢すと、朝波さんはくすっと笑う。
「それは光栄ですね。ポエマーは日本語に直すと、詩人という意味だから……私は小説も詩も生み出せるという事になるでしょ?」
皮肉をも、前向きに捉えられる朝波さんが少し羨ましかった。
二話 音side
ずっとずっと覚えている思い出がある。小さい時、幼稚園ぐらいの事だから……きっと、二十年前くらいのことだろう。
公園で、一人で泣いていた時に出会った当時、物凄く大好きだった六つ上の『ふう』という名前の人。一緒に遊んでくれて、優しくて、格好よくて。髪はふわふわで、眼は凄く綺麗だった。私の物語を読んで、面白いと微笑んでくれた。
私の初恋の人だった。知っている名前は下だけだし、顔も覚えていないけど。
二十年前の思い出で覚えているのは朧げなのだった。
とある日、君は家に招いてくれた。紹介されたお酒がとても魅力的に見えて、私は飲みたい飲みたいと駄々を捏ねたのだ。そうすると、彼は“カーディナル”というカクテルもどきを作ってくれた。
本物では無かったものの、それでもすごく美味しかったのを覚えている。
感動する私に、君は『もし、二十歳過ぎたら一緒にお酒飲もう……約束だよ!』と言ってくれた。
君はその二週間後に、引っ越すんだと私に言った。突然の事でびっくりしていた。裏切られたとは思わなかった。ただただ、悲しかった。約束と言ってくれたのも、嘘だったのだなぁと思った。
どこに行くかも教えてもらえないまま、君は引っ越してしまった。
今どこにいるかもわからないけれど、また会ったとしてもわからないけれど。
私はいつも、苦しい時に君の思い出に縋って耐えてきた。もう一度、君に出会えたらと願っても、きっとそんな事は無いとわかっていた。
物語が好きだった君なら、私の作品を見つけてくれるかと思って私は小説を書き続けた。学校の教師を本業に、副業で小説家デビューして早一年。締切に追われる毎日に、私は辟易としていた。
そんな時に見つけた、一つの店。都心部の中でも、まだわいわいとしていない……どちらかといえば、暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人の逃げ場所みたいな所。
私は引き寄せられるように店のドアを引いた。きっと、このバーにはあのお酒がある筈だと直感で分かった。
店内は、人一人すらいなかった。胸を撫で下ろす。
今は一人きりが良かった。
「いらっしゃい、お客様のお悩みは何ですか?」
店の中に入って初めに言われた事がそれ。私は当然困惑してしまった。
「悩み……?」
「えぇ。この店のコンセプトはお客様のお悩みに合わせたカクテルを提供する形なんです」
素敵なコンセプトだ。でも、今は私とそのコンセプトは合わない。私が今飲みたいカクテルは、決まっているから。この気持ちは変えられない。
意を決して「リクエストとかって駄目ですか?」とサラサラとした黒髪で目が透き通った色をしているオーナーに問う。
オーナーはけろっとして「いいえ? 全然駄目じゃ無いですよ」と微笑む。
私は安堵した。「じゃあ、カーディナルお願いしたいです」と注文する。
カーディナルは、私が一番好きなお酒。初めて飲んだカクテルだから。
今すごく飲みたかったお酒。しんどい時に飲んだら落ち着くのだ。
「カーディナル、ですか」
「出来ないですか?」
「いいえ? カーディナルだなんて、良い舌をお持ちで」
くすりと笑うと「少々お待ちください」と、オーナーさんは赤ワインを取り出した。
「お名前は?」
「音です、朝波音」
「お仕事は何をなさっているんですか?」
カーディナルを作りながら、オーナーさんは質問を続けてくる。
「作家を少々……」と呟いてから気付いた。しまった、これは言うべきじゃなかった。誰も居なかったから油断してしまった。でも今更取り消せない。誤魔化しは上手くできない気がする。
「え!?」
オーナーは、敬語も忘れてぱっと嬉しそうに目を輝かせた。
三話 風side
あっという間にカーディナルを二杯飲み干す。朝波さんは嫌な事があったらすぐにお酒に頼る。酒に溺れる、というやつだ。
嫌な事があったら、しんどい事があったら、何かに縋りたくなる気持ちはよくわかる。
でも僕は、三十になってしまった今でも酒には頼れない。酒は心臓に負担をかけてしまうから医者から禁止されているのだ。
幼い頃から心臓が弱かった僕は十歳の時にもっと悪くなって、入院して、手術をした。
一命を取り留めたけれど、完全に心臓が強くなったわけじゃない。だから、酒を飲む事は禁じられている。
そうは言っても、一滴も飲むな!という事では無い。少量なら許されるのだ。
きっと、そうじゃないと僕は耐えられていなかっただろう。
「……! オーナー!」
つい、柄にもなく話している途中にぼーっとしてしまっていた。呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げる。
「すみません、何の話でしたっけ」
「オーナーの名前って何なんですか?って話ですね」
朝波さんは紅潮している顔でふふっと笑う。
「あれ? 言ってませんでしたっけ」
「え、はい。聞いて無いです」
話したような気がしていたのは、どうやら気の所為だったようだ。
僕はズボンのポケットに入っていた名刺ケースを開けて、一枚取り出して朝波さんに渡す。すると朝波さんは「かわいい!」と顔を綻ばせる。
名刺には僕の似顔絵と猫のイラストが載っている可愛いデザインだ。一昨年に妹が作ってくれたこの名刺はお気に入りでずっと使っている。
「よる、なぎ……かぜ?」
「ぶぶー、残念不正解!」
初めて会う人には、この名前を当ててもらえないことがしょっちゅうだ。苗字はわかっても、下の名前は皆“かぜ”と読む。
「え! じゃあなんて読むんですか?」
「やなぎ、ふう」
僕が自分の名前を静かに呟くと、「ふう……?」と朝波さんが反芻する。
ありきたりの名前ではないけれど、そこまで珍しい名前でもないだろう。
朝波さんは「えぇ、本当……やば、それなら凄い巡り合わせじゃん……」なんて言いながら、パソコンを自身の鞄から取り出してカタカタとタイピングしだした。
もう、君に僕の声は聞こえない。
四話 音side
凄い、凄い!
私は今世最大とでも言えるようなほどの胸の高鳴りを抱えている。
普段なら落ち込んでしまうような事も、もう今はどうでもいいぐらいに。早く会いたくて、早くこれを見せたくて。今日は金曜日じゃ無かったけれど仕事が終わってすぐ、夜凪さんの元へと向かった。
「こんばんは」
店には誰もいない。お客さんは誰も。夜凪さん一人だけだ。私的には、都合が良かった。私が今夜この店に来たのは、夜凪さんに新作を読んでもらうためだったから。
「あれ? 朝波さん、今日は静かですね」
夜凪さんに、そんな事を言われてしまって恥ずかしくなる。いつもそんなにうるさくしてるだろうか、逆に今日は指摘されるほど静かなのか。よくわからなくなって、私は夜凪さんの指摘には答えなかった。
その代わりに「新作、読んでくれませんか……?」と印刷してきた小説を夜凪さんに差し出す。夜凪さんはそれを受け取ってくれたけれど、「新作見せるの僕で良いんです?」と微笑した。
私は深く頷いた。当たり前だ、これを読んで理解してくれるのはきっと夜凪さんだけ。絶対、気付いてくれると思ったから。
そうすると、「じゃあ、カーディナルでも飲んで読み終わるの待っててください」とカーディナルを用意してくれる。そして夜凪さんは「今日はこれが代金で良いですよ」と私の小説を指差す。
「ありがとうございます」
そんな大したものじゃ無いのに、夜凪さんは優しいなぁと再確認させられる。
私が新作にしたのは、“私”の物語だ。
物語の始まりは幼少期。幼い主人公と、主人公と仲の良い六つ上の男の子が引っ越していってしまう。ずっと主人公は男の子を探し続けている。また会えると信じて。
そして、時は流れ二十年後。二人はバーで再会する。男の子は主人公が主人公であることに気付いていない。ただ、主人公だけが知っている。
そこで物語は終わっている。続きは、これから始まるから。
読み終わったのか、夜凪さんは小説をテーブルの上に置く。
「朝波さん……いや、音か」
やっぱり、気付いてくれた。私が「ふぅちゃん、だよね?」と聞き返すと夜凪さん……ふぅちゃんはくしゃりと笑う。
やっぱり、夜凪さんはふぅちゃんだったんだ。二十年前私が初めて好きになった人。ずっとずっと好きだった人。
違ったら、凄く申し訳なかったからこれは一種の賭けだったのかもしれない。
「二十年ぶり? なんだよなきっと」
嬉しそうに言う君に、一つ聞いておきたい事がある。
「“優しい嘘”」
突然呟いたそのワードに、ふぅちゃんはぎくっと固まる。
「カーディナルのカクテル言葉。」
お酒が大好きなふぅちゃんが、これを知らない訳はない。
「これだけが、どう考えてもわからなかった。」
あの時、作ってくれたカクテルがこれ。きっと、カーディナルの意味を知っていて私に作ってくれたんじゃ無いかと思った。
やっぱり音は鋭いなぁなんて笑って「……あの時、引っ越すっていったのが嘘」と続ける。
「え?」
「十歳の頃、心臓が弱くて悪くなったから入院するためだったんだけど……心配かけたくなくてね、ちっちゃい子に」
「今は……?」
「今は大丈夫」
そうやって笑う君の顔を見たからか、私はほっとしていた。
初めての人も、長く通っている人も。若い人も、ご老人も。うちの店にはとにかく沢山のお客さんが来てくれる。とてもありがたいことで、そのお陰でうちの店は上手く回っている。かといって、誰も来ない日がないわけではない。当たり前だけど、沢山人が来る日も、あんまり人が来ない日もある。
この店のコンセプトは『お悩み相談』だ。
マスターである僕は、お客さんの相談に乗る。そして、相談に乗りながらお客さんに合わせたカクテルを提供する。
都心部の中でも、まだわいわいとしていない……どちらかといえば、暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人の逃げ場所であるらしい。
金曜日の夜十時。ドアが勢いよく開いたら、君が来た合図だ。
「こんばんはー!」
ほら、やっぱり。あんなに元気良くこの店に入ってくるのは朝波さんくらいしかいない。
「いらっしゃい、朝波さん」
「いつもと同じあのお酒お願いします!」
朝波さんは、いつも同じ酒を頼む。カーディナルという種類の酒を。僕が一番好きな酒を。
「朝波さんは本当にカーディナルが好きですね」
朝波さんは、いつもは学校の教師として働いている。下の名前である『音』にみやこと読める『都』をつけて『音都』というペンネームで活動している覆面作家だ。
一ヶ月前それを、何故か初対面の僕に教えてくれた朝波さんはちょっと変わった人なのかもしれない。
気になって、彼女を知った日に書店に寄って、何冊か開いてみた。
すると、一気に物語の中に引き込まれた。彼女が紡ぎ出す言葉は、今まで見た事のあるどんな言葉よりも綺麗で透き通っていたのだ。かといって、穏やかな小説なのかと問われればそうではない。
世の中の理不尽さを、風刺する小説。怒りや悲しみが溢れ出す……共感の出来る箇所が多いような小説。それが彼女の作品だ。きっと誰にでもは、創り出せない唯一無二の言葉。
僕は彼女のファンになってしまったのだ。
そういえば、と朝波さんはカーディナルを片手に「明るい人には、その分理由があるんですって」と呟く。朝波さんは時折、よく考えてみたらわかる深い自論を僕に話してくる。
作家ってこんな感じなんだなぁと、つくづく思う。
「どういうことですか?」
「理由なく明るい人なんて、ほとんどいないから」
「……深いけど、ポエマーみたいでもある」
僕がそう少し皮肉を溢すと、朝波さんはくすっと笑う。
「それは光栄ですね。ポエマーは日本語に直すと、詩人という意味だから……私は小説も詩も生み出せるという事になるでしょ?」
皮肉をも、前向きに捉えられる朝波さんが少し羨ましかった。
二話 音side
ずっとずっと覚えている思い出がある。小さい時、幼稚園ぐらいの事だから……きっと、二十年前くらいのことだろう。
公園で、一人で泣いていた時に出会った当時、物凄く大好きだった六つ上の『ふう』という名前の人。一緒に遊んでくれて、優しくて、格好よくて。髪はふわふわで、眼は凄く綺麗だった。私の物語を読んで、面白いと微笑んでくれた。
私の初恋の人だった。知っている名前は下だけだし、顔も覚えていないけど。
二十年前の思い出で覚えているのは朧げなのだった。
とある日、君は家に招いてくれた。紹介されたお酒がとても魅力的に見えて、私は飲みたい飲みたいと駄々を捏ねたのだ。そうすると、彼は“カーディナル”というカクテルもどきを作ってくれた。
本物では無かったものの、それでもすごく美味しかったのを覚えている。
感動する私に、君は『もし、二十歳過ぎたら一緒にお酒飲もう……約束だよ!』と言ってくれた。
君はその二週間後に、引っ越すんだと私に言った。突然の事でびっくりしていた。裏切られたとは思わなかった。ただただ、悲しかった。約束と言ってくれたのも、嘘だったのだなぁと思った。
どこに行くかも教えてもらえないまま、君は引っ越してしまった。
今どこにいるかもわからないけれど、また会ったとしてもわからないけれど。
私はいつも、苦しい時に君の思い出に縋って耐えてきた。もう一度、君に出会えたらと願っても、きっとそんな事は無いとわかっていた。
物語が好きだった君なら、私の作品を見つけてくれるかと思って私は小説を書き続けた。学校の教師を本業に、副業で小説家デビューして早一年。締切に追われる毎日に、私は辟易としていた。
そんな時に見つけた、一つの店。都心部の中でも、まだわいわいとしていない……どちらかといえば、暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人の逃げ場所みたいな所。
私は引き寄せられるように店のドアを引いた。きっと、このバーにはあのお酒がある筈だと直感で分かった。
店内は、人一人すらいなかった。胸を撫で下ろす。
今は一人きりが良かった。
「いらっしゃい、お客様のお悩みは何ですか?」
店の中に入って初めに言われた事がそれ。私は当然困惑してしまった。
「悩み……?」
「えぇ。この店のコンセプトはお客様のお悩みに合わせたカクテルを提供する形なんです」
素敵なコンセプトだ。でも、今は私とそのコンセプトは合わない。私が今飲みたいカクテルは、決まっているから。この気持ちは変えられない。
意を決して「リクエストとかって駄目ですか?」とサラサラとした黒髪で目が透き通った色をしているオーナーに問う。
オーナーはけろっとして「いいえ? 全然駄目じゃ無いですよ」と微笑む。
私は安堵した。「じゃあ、カーディナルお願いしたいです」と注文する。
カーディナルは、私が一番好きなお酒。初めて飲んだカクテルだから。
今すごく飲みたかったお酒。しんどい時に飲んだら落ち着くのだ。
「カーディナル、ですか」
「出来ないですか?」
「いいえ? カーディナルだなんて、良い舌をお持ちで」
くすりと笑うと「少々お待ちください」と、オーナーさんは赤ワインを取り出した。
「お名前は?」
「音です、朝波音」
「お仕事は何をなさっているんですか?」
カーディナルを作りながら、オーナーさんは質問を続けてくる。
「作家を少々……」と呟いてから気付いた。しまった、これは言うべきじゃなかった。誰も居なかったから油断してしまった。でも今更取り消せない。誤魔化しは上手くできない気がする。
「え!?」
オーナーは、敬語も忘れてぱっと嬉しそうに目を輝かせた。
三話 風side
あっという間にカーディナルを二杯飲み干す。朝波さんは嫌な事があったらすぐにお酒に頼る。酒に溺れる、というやつだ。
嫌な事があったら、しんどい事があったら、何かに縋りたくなる気持ちはよくわかる。
でも僕は、三十になってしまった今でも酒には頼れない。酒は心臓に負担をかけてしまうから医者から禁止されているのだ。
幼い頃から心臓が弱かった僕は十歳の時にもっと悪くなって、入院して、手術をした。
一命を取り留めたけれど、完全に心臓が強くなったわけじゃない。だから、酒を飲む事は禁じられている。
そうは言っても、一滴も飲むな!という事では無い。少量なら許されるのだ。
きっと、そうじゃないと僕は耐えられていなかっただろう。
「……! オーナー!」
つい、柄にもなく話している途中にぼーっとしてしまっていた。呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げる。
「すみません、何の話でしたっけ」
「オーナーの名前って何なんですか?って話ですね」
朝波さんは紅潮している顔でふふっと笑う。
「あれ? 言ってませんでしたっけ」
「え、はい。聞いて無いです」
話したような気がしていたのは、どうやら気の所為だったようだ。
僕はズボンのポケットに入っていた名刺ケースを開けて、一枚取り出して朝波さんに渡す。すると朝波さんは「かわいい!」と顔を綻ばせる。
名刺には僕の似顔絵と猫のイラストが載っている可愛いデザインだ。一昨年に妹が作ってくれたこの名刺はお気に入りでずっと使っている。
「よる、なぎ……かぜ?」
「ぶぶー、残念不正解!」
初めて会う人には、この名前を当ててもらえないことがしょっちゅうだ。苗字はわかっても、下の名前は皆“かぜ”と読む。
「え! じゃあなんて読むんですか?」
「やなぎ、ふう」
僕が自分の名前を静かに呟くと、「ふう……?」と朝波さんが反芻する。
ありきたりの名前ではないけれど、そこまで珍しい名前でもないだろう。
朝波さんは「えぇ、本当……やば、それなら凄い巡り合わせじゃん……」なんて言いながら、パソコンを自身の鞄から取り出してカタカタとタイピングしだした。
もう、君に僕の声は聞こえない。
四話 音side
凄い、凄い!
私は今世最大とでも言えるようなほどの胸の高鳴りを抱えている。
普段なら落ち込んでしまうような事も、もう今はどうでもいいぐらいに。早く会いたくて、早くこれを見せたくて。今日は金曜日じゃ無かったけれど仕事が終わってすぐ、夜凪さんの元へと向かった。
「こんばんは」
店には誰もいない。お客さんは誰も。夜凪さん一人だけだ。私的には、都合が良かった。私が今夜この店に来たのは、夜凪さんに新作を読んでもらうためだったから。
「あれ? 朝波さん、今日は静かですね」
夜凪さんに、そんな事を言われてしまって恥ずかしくなる。いつもそんなにうるさくしてるだろうか、逆に今日は指摘されるほど静かなのか。よくわからなくなって、私は夜凪さんの指摘には答えなかった。
その代わりに「新作、読んでくれませんか……?」と印刷してきた小説を夜凪さんに差し出す。夜凪さんはそれを受け取ってくれたけれど、「新作見せるの僕で良いんです?」と微笑した。
私は深く頷いた。当たり前だ、これを読んで理解してくれるのはきっと夜凪さんだけ。絶対、気付いてくれると思ったから。
そうすると、「じゃあ、カーディナルでも飲んで読み終わるの待っててください」とカーディナルを用意してくれる。そして夜凪さんは「今日はこれが代金で良いですよ」と私の小説を指差す。
「ありがとうございます」
そんな大したものじゃ無いのに、夜凪さんは優しいなぁと再確認させられる。
私が新作にしたのは、“私”の物語だ。
物語の始まりは幼少期。幼い主人公と、主人公と仲の良い六つ上の男の子が引っ越していってしまう。ずっと主人公は男の子を探し続けている。また会えると信じて。
そして、時は流れ二十年後。二人はバーで再会する。男の子は主人公が主人公であることに気付いていない。ただ、主人公だけが知っている。
そこで物語は終わっている。続きは、これから始まるから。
読み終わったのか、夜凪さんは小説をテーブルの上に置く。
「朝波さん……いや、音か」
やっぱり、気付いてくれた。私が「ふぅちゃん、だよね?」と聞き返すと夜凪さん……ふぅちゃんはくしゃりと笑う。
やっぱり、夜凪さんはふぅちゃんだったんだ。二十年前私が初めて好きになった人。ずっとずっと好きだった人。
違ったら、凄く申し訳なかったからこれは一種の賭けだったのかもしれない。
「二十年ぶり? なんだよなきっと」
嬉しそうに言う君に、一つ聞いておきたい事がある。
「“優しい嘘”」
突然呟いたそのワードに、ふぅちゃんはぎくっと固まる。
「カーディナルのカクテル言葉。」
お酒が大好きなふぅちゃんが、これを知らない訳はない。
「これだけが、どう考えてもわからなかった。」
あの時、作ってくれたカクテルがこれ。きっと、カーディナルの意味を知っていて私に作ってくれたんじゃ無いかと思った。
やっぱり音は鋭いなぁなんて笑って「……あの時、引っ越すっていったのが嘘」と続ける。
「え?」
「十歳の頃、心臓が弱くて悪くなったから入院するためだったんだけど……心配かけたくなくてね、ちっちゃい子に」
「今は……?」
「今は大丈夫」
そうやって笑う君の顔を見たからか、私はほっとしていた。