風side




 父さんの店を継いでもう十年ほど経つ。幼い頃からカクテルというものに興味があった僕は店を継ぐ前からも、この店にいる時間は長かった。

 父さんと二人三脚で店をやっていた日々も、遠い記憶。
 店を任されて間もなく、父さんは過労で倒れ、その数年後静かに息を引き取った。散々泣いたし、まだ悲しさは消えないけれど、もう心の切り替えは出来た。



 初めての人も、長く通っている人も。若い人も、ご老人も。中には僕の事を名前で呼んで慕ってくれているお客さんもいる。

 おかげさまで、店をなんとかやれている。



 この店のコンセプトは『お悩み相談』だ。オーナーである僕は、お客さんの相談に乗る。そして、希望が無い場合は相談に乗りながらお客さんに合わせたカクテルを提供する。

 都心部の中でも、まだわいわいとしていない、どちらかといえば暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人のための隠れ家——そう密かに呼ばれているらしい。

 隠れ家という響きが僕は好きだった。



 金曜日の夜十時。ドアが勢いよく開いたら、君が来た合図だ。

「こんばんはー!」

 ほら、やっぱり。あんなに元気良くこの店に入ってくるのは朝波さんくらいしかいない。僕もいつものように「いらっしゃい、朝波さん」と微笑んでみせる。

「いつもと同じあのお酒お願いします!」

 朝波さんは、毎回同じ酒を頼む。カーディナルというカクテル……僕が一番好きな酒を。

「朝波さんは本当にカーディナルが好きですね」

「はい! 大切な思い出のあるカクテルなので」

「思い出? どういう思い出なんですか?」

「それは内緒ですよ!」

 気になってはしまうけど、朝波さんはカーディナルを渡した時、飲む時、嬉しそうな凄く幸せそうな顔をした。
 バーテンダーとしては、それでもう十分だ。

 朝波さんは普段、学校の教師として働いているそうだ。下の名前である『音』にみやこと読める『都』をつけて『音都』というペンネームで活動している覆面作家。

 一ヶ月前それを、何故か初対面の僕に教えてくれた朝波さんはちょっと変わった人なのかもしれない。物書きというのは皆そういうものなんだろうけど。


 僕は元々小説が好きだった。学生の頃は毎日のように本を開いていたけれど、社会に出てからは毎日毎日忙しくてあまり読めていなかったのだ。

 この機会にもう一度、と思い彼女を知った翌日に書店に寄って、何冊か開いてみた。

 すると、一気に物語の中に引き込まれた。

 彼女が紡ぎ出す言葉は、今まで見た事のあるどんな言葉よりも綺麗で透き通っていたのだ。かといって、内容が穏やかなのかと問われればそうではない。

 世の中の理不尽さを、風刺する小説。怒りや悲しみが溢れ出す……共感の出来る箇所が多い小説。

 それが彼女の作品だ。きっと誰にでも創り出すことは出来ない唯一無二の言葉。

 本を閉じた時、胸の奥がじんわり熱かった。それが、久しぶりに誰かの言葉に救われた瞬間だったのかもしれない。


 そういえば、と朝波さんはカーディナルを片手に「明るい人には、その分理由があるんですって」と呟いた。

 お、また始まった。平然とした顔を作りながらも、内心こっそりわくわくしている。

 朝波さんは時折、深い自論を僕に話してくるのだ。

 例えば世の中は自殺してはいけないなんて言うけれど、生きてるほうが辛いならその方法を選んでしまうのも仕方ない事だとか。世の中の恋愛というのは案外打算の多いものだったりするらしいとか。どこを切り取られるかで、全く違う話が出来上がるとか。

 僕とは違う視点から物事を言ってくるから朝波さんと話すのは面白い。作家ってこんな感じなんだなぁと、つくづく思う。作家の知り合いが欲しいという幼い頃の夢が、三十になってようやく叶ってしまった。

「どういうことですか?」

「理由なく明るい人なんて、ほとんどいないから」

「ほう?」

「明るく振る舞ってる人も、本当は暗い闇を抱えていたりするんですよねぇ」

「……確かに」

 納得してしまったのが悔しくて「……深いけど、ポエマーみたいでもある」と少し皮肉を溢すと、朝波さんはくすっと笑う。

「それは光栄ですね。ポエマーは日本語に直すと、詩人という意味だから……私は小説も詩も生み出せるという事になるでしょ?」

 皮肉をも、前向きに捉えられる朝波さんが少し羨ましかった。彼女は物事をポジティブにもネガティブにも言い換えることができる魔法の力を持っている。