4月、あいつがどうしても右がいいって言うから、俺には想像もできないような、なにか深い理由があるのかと思った。たかが図書室の受付カウンターの席順くらいであんなに必死になるなんて、いま考えても不思議で仕方がない。


「は?理由?……おまえ、相変わらずわかってない。ここ、右の方が日当たりよくて気持ちいいんだよ」


2年1組、出席番号1番、同じ図書委員の雨宮(あめみや) (がく)は、そう言っていつものようにゆるりと笑った。

本のページをめくる音に溶け込むような、低く丸みを帯びた声。色素の薄い髪は羽毛のように柔らかそうで、HBのシャー芯で点を打ったようなホクロが、額と左目、唇にそれぞれ一つずつある。
『全部繋げたらくの字になるんだぜ』初めての当番の日に言われた言葉。これが雨宮のとっておきのギャグだってことは、後から知った。

受付の真正面から立って見て、左が雨宮、右が俺。それが当番の日の定位置だ。
日当たりが良いとは言うけれど、正直右も左も大差ない。半年この受付カウンターで座って仕事してわかったことは、春の暖かさも夏の眩しさも、10月、細くやや頼りなくなった陽の光も、窓から平等に、俺たちに注がれているってこと。

受付が窓側にあるんだから、当たり前のことではあるんだけれど。
ふん、と鼻を鳴らして、俺は雨宮から手に持っていたスマホへと視線を移した。


「適当言うなよな。おまえが俺の右にいるせいで字ぃ書く時手が当たるんだよ。左利きなら自主的に左側に来いよ。右じゃねんだよ、左だよ。おまえがいるべき場所は左なんだよ」
「右だろうが左だろうが自分のいたいと思う場所にいるべきだと思うけど」
「そういうとこだよ。ほんっとおまえそういうとこ。腹立つわー。気遣いをしろっつってんの」
「わかったよ。じゃあ席変えようぜ」


ちらり隣を見ると、雨宮の口元はゆるり緩んだまま。楽しんでいるのがわかりやすい。隠す気がないところが余計に気に食わない。ジト、と睨まずにはいられない。けれどわずか3秒後、俺は仕方ないなと息を吐いた。


「……いい。もうこれが定位置になってるから今さら変えたら逆に落ち着かない」
「わかる。俺もー」


雨宮は左利きだ。毎月の図書館だよりを2人で書いてる時、なんだか妙に狭苦しいなと思ったら『俺左利きだから』なんて、遅すぎるカミングアウトをされた。

返却ボックス、貸出カード保管用の引き出し、検索用のパソコン、今月の図書委員おすすめ本コーナー。
それらを差し引いたほんのわずか、限られた四角いスペースに、俺と雨宮は並んで座っている。

利き手以外でカテゴライズしようとすると、多分俺らは同じ枠にハマると思う。ゆるく、それなりに適当に。何かに対する熱量は控えめで、流れに身を任せて生きてる感じ。
こだわりがないからこそ、自由に。


「雨宮くん、葦名(あしな)くん、お疲れ様。いつもありがとね」
「あ、丹羽(にわ)せんせーこんちわー」


受付カウンターの奥、司書室から出てきたのは我らが丹羽先生。適当な挨拶をする雨宮にも笑顔を返すとか、なんて優しい先生なんだ。


「困ったことはない?大丈夫?」
「大丈夫ですよー。葦名もいるし。返却処理した本そこに積んであるんで、一応見といてください。帰る時まとめて戻します」
「助かるわ。ありがとう……そうだ、来月のたよりに紹介する本、また2人に頼んでもいい?」
「げー……」


思わずうんざりしてしまう俺に、先生は困ったように笑った。「2人だけなんだもの。ちゃんと書いてくれるの」なんて、そう言われてもこっちが困る。


「俺はいいけど。いつも暇だし。葦名はどうする」
「……」


雨宮は笑った。へらーと、何も考えてなさそうな顔で。こいつ、まじでほんとに適当。多分俺より適当。安請け合いするなよ。おまえが引き受けたら、ペアの俺が引き受けないわけにはいかないだろ。


「……25日までに原稿書いて渡せばいいんですよね」
「そうそう。本当に2人がいてくれてよかったわ。ありがとうね」


丹羽先生は安心したように表情を緩めた。「漫画とか映画とかでもいいからね。じゃあ、職員室に行ってくるから何かあったら呼んでね」と、カウンターから出た先生に頷いて。図書室が再び静かになったタイミングで、雨宮をジロリと睨む。


「あれ書くのに時間かかるのおまえだって知ってんだろ」
「葦名が非効率なだけなんじゃねぇの。あらすじだけ読んで適当に書けば」
「むり。あらすじ読んだら中身気になる」
「あ。おい、どこ行くんだよ」


ガタッと立ち上がるとなぜか雨宮もカウンターの外に出てきた。図書委員が2人も受付にいないなんてダメだろって思ったけど、もう下校時間も近い。雨宮はとりあえず放っておくことにする。


「おまえ暇ならこの本たち戻しといて」
「あー?おまえは」
「紹介する用の本探す」
「律儀だねぇ」
「人に紹介するんだろ。適当じゃだめだろ。ちゃんと選んで内容全部把握するのが道理だと思うんだけど」


適当に書くのは誰にだってできるけど、それはつまりあれだろ、俺らに頼んでくれた先生に対しても誠実じゃないだろ。嫌なんだよ、なんかそういうの。気持ち悪くて背中がムズムズするから。


「はは」


文庫本の並んだ本棚に、雨宮の小さな笑い声が響いた。振り返って見てみると、返却本を数冊抱えた雨宮が背表紙の分類番号に目を落としているところで。

 
「葦名のそういうとこ」
「なんだよ」
「べつに?」
「はー?気持ち悪ぃ」
「うそ。愛おしいなぁとおもって」


今度は俺が笑い飛ばす番。愛おしいって、なんだよ、それ。


「適当言いやがって」


そう言いながら、あたりをつけていた文庫本を引っ張り出した。先々月にも紹介した作家の短編集。いいじゃん。面白そう。
貸出カードを取り出して、学年と名前を書く。2年2組、出席番号1番、葦名 (ぎん)

「おまえもなに紹介するのか考えろよ」

雨宮に向けて放った言葉は、誰にも処理されずに宙に浮いたまま。……無視とか上等。おいこら。てめえに言ったんだぞ。


「おい……」


てっきりまたいつもの、向けられるこっちの力が抜けるような、軽くてゆるい笑顔を浮かべているのかと思った。『言われなくてもわかってますー』とか、ゆったりした口調で返されるものだと思ってた。

ゆるゆる、へらへら。雨宮を音で表すとしたらそれらがピッタリだったから。図書委員として半年一緒に活動してきて、雨宮がどういう奴なのかはある程度わかってきたつもりだった。

でもいま、雨宮を見ても何を考えているのかわからない。ただじっと俺のことを見つめている雨宮に、俺は少し動揺している。


「……どうしたよ」


パタンと文庫本を閉じて、雨宮に近づく。腹でも痛いのか。それとも先週の中間考査の結果が気になるのか。返却本は残り1冊。雨宮の手からそれを抜き取って分類番号を確認する。


「……葦名、」
「ん?」
「適当じゃないっつったら、どうする」
「……」


数分前の会話を脳内で再再生。
『うそ。愛おしいなぁとおもって』
はいここ。ここでストップ。返却本に目を落とす雨宮。その口元にはわずかに笑みが浮かんでる。……適当じゃないって、これのこと?



『──下校時刻になりました。校内に残っている生徒は……』



チャイムの音が図書室に鳴り響く。雨宮のビー玉のような瞳に、目を見開く俺がしっかりと、ばっちりと、映っていた。