「あのさ、九条って図書委員だろ?」
「うん、そうだよ」
「もう、図書委員会、始まってるんだけど」

 そう言うと、九条は「えっ」と、すごく驚いた顔をした。

「やばい、今日だっけ。ごめんな、呼びに来てくれたの?」
「廊下側に座ってたら、九条は美術室にいるだろうから呼んできてって。今日、初委員会だから、委員長とかも決めるって。行ける?」
「もちろん。行くよ」

 オレがドアを開けて廊下に出ると、九条も美術部の皆に「行ってくるね」と声をかけながら教室を出て、ドアを閉めた。

「ごめん、どこだっけ、委員会」
「一年三組の教室。ここの三階」

 二人で、階段を駆け上り始める。

「今って他の皆、待ってるってことだよね? わざわざごめんね、綾瀬」
「いいよ。これくらい。九条って図書委員、立候補?」
「うん。本が好きでさ。当番の日も人が来なければ読書してていいって先輩に聞いたから、去年もやったんだ」

 去年も図書委員だったんだ。本が好きと聞くと、なんだか似合うなと思った。

「そうなんだ。なんか、らしいね」
「綾瀬は立候補?」
「オレは、目医者で遅刻してる間に、くじ引きで決まってた。似合わないって皆に笑われたけど」

 思い出しながら少しむくれ気味で言うと、九条は、ふっとおかしそうに笑った。

「そっちも、らしいね」

 あ、笑うんだ。こんな風に。……笑い方すら、知らなかったな。なんだか不思議に思いながら、階段を上り終えて委員会の教室にたどりついた。

「綾瀬、ありがとな。九条、委員会忘れんなよ?」
「すみません」

 先生の声に返しながら、一番後ろの廊下側に九条と一緒に座った。
 正副委員長と書記などは立候補で決まった。あとは当番決め。学期単位で、曜日は水曜以外の二日ずつに分かれて、放課後に図書室で作業すればいい。作業は本の貸し出しや返却、それから本棚の整理。そんなに難しい作業ではなさそうだった。

「当番は、今、隣の人とペアってことでいいですか?」

 決まったばかりの委員長の言葉。特に誰にも異論はないみたいで、ペアは、隣同士でと決まった。
 九条とペアかぁ。クラス一緒だったのにまったく関わらずで、今さっき初めてちゃんと話したところなんだけど。そう思うと、別に嫌ではないけど、なんか不思議……。
 サッカーの大会が秋頃から多くなるので、一学期の四月から七月の期間にしてもらった。曜日はペアの代表が、好きな曜日を賭けて、他のペアとじゃんけん。
 九条がサッカー部の予定に合わせると言ってくれたので、オレがじゃんけんをした。サッカー部は月水金。水曜はもともと閉室日で委員の活動が無い。本当は火木の放課後が良かったのだけど、じゃんけんの結果、火金の放課後に決まってしまった。まあしょうがないかと思いながら、九条の隣に戻る。

「金曜のサッカー部、大丈夫?」

 九条に聞かれて、「うん」と頷いた。

「委員会だし、許されるはず。美術部は平気なの?」
「うちは自由だから平気。どうしてもの時は、オレ一人でいいから、無理しないでね」

 優しい話し方だなあ。と、オレは自然と笑顔になって頷いた。

「ん、ありがと。七月までよろしく」
「うん」

 ふ、と九条が笑う。改めて顔を見るけど、前髪が長いし、存在感のある大きめの黒縁眼鏡で、瞳が見えない。口元とかで笑ってるのは分かるんだけど、表情が分かりにくい。
 これから九条と、毎週火金の放課後に図書室で二人かと思うとやっぱり不思議。話が合うといいけど。

 当番決めの後、ほんとなら図書室で貸し出し用のパソコンの使い方とかを聞くことになっていたけれど、九条が去年やってて詳しいし、「一応聞いとくから綾瀬はサッカー部に行っていいよ」と言ってくれた。おかげで、思ったよりも短い遅刻で済んだ。部室で急いで着替えていたら、ふと初めて話した九条のことが頭に浮かんだ。

 なんか九条って、すごく穏やかで、優しい感じ。結構好きかも。……何でオレ、去年、まったく話してなかったのかな?
 去年同じクラスだった皆を、端から思い浮かべてみる。そりゃ、理央みたいに毎日一緒にいる奴もいれば、そこまでじゃないけどよく話す奴、席が近ければ話す奴、何か用事の時に話す奴……色んなレベルにわかれはするけど、でも、話した記憶が少しも無いのは、やっぱり九条くらいな気がする。

 たまたまなのかな? それにしたって、一度も話したことがないなんて、すごく不思議。オレ、誰とでもよく話すと皆に言われるし、自分でもそう思うのに。
 でもそういえば、席も近くなったことないし、係も委員も部活も別だし、背の高さもだいぶ違うから背の順で並んでも合わないし、体育の準備運動とかも一緒にはならない。そこまでいくと話すきっかけも無いし、その状態に疑問も持たなかったのかなあ……。

 んー……。まあ、可能性としてもう一つ考えられるのは。
 どっちかがわざと絡まないようにしたら、そんなこともありえるかとは思うんだけれど、オレは絶対してないし。さっきの態度を見てると、優しそうだし、九条もそんなことしなそう。美術部で呼んだ時は、すごく驚いてたけど、嫌そうではなかったはず。
 やっぱり、偶然かな。……というか、偶然であって欲しいけど。

 ◇ ◇

 そんなことを少し不思議に思ったまま、翌週の火曜から、九条との当番が始まった。まずは一通りのパソコンの使い方と、貸し出しと返却のやり方を教えてもらった。

「返却の本を棚に片付けるから、どこにどんな本があるか、覚えた方が楽だよ」

 そう言われて、九条と一緒に図書室を歩きながら、本棚を眺める。

「本って……本当にたくさんあるんだね」

 しみじみそう言うと、「普段は全然読まない?」と聞かれた。

「オレ、宿題以外で読書って、したこと無い。だから、自分でも図書委員とか笑っちゃうんだけどさ」

 そう言うと、九条は微笑んで、「面白いよ。読んでみたら?」と言った。

「読めるかな……」
「簡単な本から始めればいいんじゃない? 色んな知識が得られるし、色んな人の気持ちが分かるから、オレは好きだけど」
「……色んな人の気持ち?」
「うん。なんていうかな。普通に生きてたら、自分の気持ちしか分かんないじゃん? でも、本を読むと、登場人物の色んな気持ちも分かるからさ。楽しいよ」

 穏やかに言う九条の言葉は、なんだか心に静かに届く気がする。
 色んな人の気持ち、か。……そうなんだ、と、かなり心が読書に傾きながら考えていると、その沈黙を別の意味で取ったらしい九条が、クスッと笑った。

「無理にとは言わないよ。本を読まない人だってたくさんいるし」
「あのさ、九条」
「ん?」
「オレ、簡単な本、がどれかも分かんないからさ」
「うん?」
「本を選んでもらえる? 少し、読んでみたくなった」
「もちろん。良いよ」

 九条がまた穏やかに笑う。
 読んでみよう、本。せっかく図書室に通うんだし。
 色んな人の気持ちを、知ってみたい。そしたら、自分の気持ちも、分かるようになっていくかな。誰かを、すごく好きって、思えるようになるかな。なれたら、いいな。……そんな内心は、九条には言えないけど。

 その日はいろいろ話しながら、一緒に本を選んでもらい、一冊、借りて帰った。九条がすごく穏やかで優しいなってことが、すごく分かった日だった。