第2話

こんな私たちが出会ったのは、私がパティスリーで働き始めて、半年が経ったころだ。

今でこそパティシエ見習いだが、大学を出て、一般企業に就職。5年働いた私は27歳で、婚約者もいた。

定時で仕事を終え、時には残業をし、休みの日にはカフェ巡りやデートを楽しみ、安定した給料で将来の貯蓄も忘れない。

ケーキは、食べることも作ることも、昔から好きで1番の趣味だった。

パティシエで働くことを夢見たことは何度もあったが、
テレビで見た華やかな世界の裏側はとても厳しくて。

一生をそれで生きていける?と進路の選択を迫られたとき、女としての結婚や出産、生涯年収、労働環境と休みの少なさで、低賃金と呼ばれるパティシエという職業に、周りも自分も納得させることができなかった。

好きな人と結婚して産んで子どもを育てて、保育園に入れて……。

融通を利かせるお金も時間も、パティシエじゃ厳しすぎる。

ーー好きなことを仕事にしなくても、趣味でやればいいもんね。

踏み込む勇気もない私は、当たり障りのない普通のOLになった。

OLだって大変だ。仕事をまじめにこなしながら、毎日流行を追いかけたり、美容の情報を手に入れつつ、オシャレだって抜かりない。

順調に毎日をクリアし続ける、社会人になったのにだ。

結婚式の準備中、婚約者に裏切られることになる。

「結衣はさ、俺がいなくても生きていけそうだから」

式場もドレスも日取りも決めて、招待状のリストの最終チェックする私に、彼は心の浮気を告白してきた。

「付き合ってるってこと?」

「ちがう彼女とはまだ何にもしてない。俺の片思いなんだ。でも結衣とはこのまま結婚はできないから……」

身体の関係があろうがなかろうが同じことだ。
私とは結婚できないことを、申し訳なさそうだけど、なにより自分の罪悪感を払拭させたい彼を繋ぎとめたいとも思わなかった。
無駄になった挙式費用や婚約破棄の慰謝料は、彼と彼の両親が払ってくれ、私にはお金と婚約破棄された女のレッテルが残った。

「残念だったわね。でも結衣ならまた新しい人が見つかるわよ」

母をはじめとしたいろんな人にそう慰められたけど、そうやって見つけた人が彼だったのに。

まあ裏切るんだもんな。

それとも見破られたんだろうか。

『好き』と見せかけた根底にある『これでいいか』という醜い本質を。

それならそれでしょうがないと、私の中には納得するような気持と、頑張ってきたのに結果が出ない悔しい気持ちであふれかえった。

彼と出会ったのが仕事での繋がりだったこともあり、転職を考えていると、今私が働くパティスリーの求人応募が目に入った。すぐ、やってみようと思った。

給料も休みも、未経験ならそれほど悪くはない。

ーー好きなことを、好きなだけ挑戦しても、誰も困らないし、困らせないじゃん。

私は大人で、自由なはずなのに、世間で言う『普通の人生』に、どうして自分を責めこんで、追いやっていたのかさっぱりわからない。

ーー後悔しても悔しくてもしんどくても、そこが自分で選んだ道なら、選びたくない道を選んで頑張るより、よくないか?

27歳でやっと気づいて、嬉しくなってしまった私は、気づけば履歴書を持っていっていた。


引っ越しと当面の貯金分に、もれなく婚約破棄で得た慰謝料をあてることにして、私の第二の人生が始まる。

そして働きはじめて半年が過ぎたころ。

「しんっどっっ……!」

毎日毎日立ち仕事なのはわかってたけど、朝から晩までずっと気が抜けない。
休憩時間は食べたらすぐ寝て、昼からの英気を養う。

OL時代の休憩中のコミュニケーションなんてほぼゼロ!
まあその分、作ってる時や仕込み中に他愛のない話もしたりして、お店の空気自体は悪くない。
なにより全員がその時にできることに集中して作業するのは心地がいい。
私もこの世界を作り上げる一員だと思えるから。

いくらやりがいがあったとしても、人間だから疲れる。

定休日前に、夜遅くまで空いてるスーパーに駆け込み、買ったのは半額のお惣菜とでっかいファミリーサイズのバニラアイス。

久しぶりに美味しくお酒でも飲みたいなぁ。
家にあるレーズンをラム酒に浸して、バニラアイスと一緒に食べよう。
あれ待って……ラム酒ってこの前使い切ってたっけ……?

そんなことを考えながら帰っていると、引っ越してから一度もあったことのないお隣さんから公佳と樹里が話しながら出てきた。

ふわっと甘い香りがする。

「アイス買ってきてくれると思ってたのにぃ」
「いや樹里の家にあると思ってたから」
「この前食べっちゃったんだって……あ、うるさくしてすみません。もしかして202号室のかたですか?隣に住んでる立花です」

この時、私に気づいたのが長い髪を一つにまとめる色素の薄い髪色の女性が樹里。

「……203の瀬戸内です」

すぐに口を閉じて会釈したのが黒髪のボブの女性、公佳だった。

「あ、202の近藤です…。ご挨拶が遅れてすみません」

無口になりかける公佳の代わりに、愛想よく樹里が話しはじめる。

「いえいえ、私たちもほとんど家にいないので……」

私の袋を見て樹里の目の色が変わった。

「あーーーーー!あいすぅ!!」
「えっ?」

デカデカと袋から主張する私のファミリーサイズのアイスを指をさす樹里を、公佳が慌てて止める。

「ちょっと樹里!失礼でしょ」
「イヤだって…っアイスがあればすぐにさぁ…っ」

ちらちらっとアイスと私と公佳を見る樹里。

ーー何だろう。そんなにアイス食べたいのかな。1個売りのものなら分けてもいいけど、これはファミリーサイズだし。
なんならレーズンと一緒に大人食いする私の予定で…あ、ラム酒がないからそれは明日になるかもだけど。

「あ、あの…!お腹空いてませんか⁉」
「はい?」

そんなことを考えていると樹里が私の手を思いっきり掴んでお願いしてくる。

「空いてますよね?絶対そう!っていうか一緒にスイーツ食べません⁉その代わりに、アイス少し分けてほしいんですっ!」

お腹は空いてるし、疲れてる。さっきの甘い香りも気になるし。


「ラム酒持ってたりします?」

なによりいきなり存在感を出してきたお隣さんに興味が湧いて、そう口走っていた。

「ラム酒…は持ってないかも」

聞かなかったらよかったかも。しょぼんとする樹里を見て訂正しようとしたとき、公佳が手をあげた。

「私の家に……ありますけど」




「いやーよかったよかった!アイスがないって気づいたの焼く直前だったんだよね」
「お邪魔します」
樹里の後を続いて部屋の中に入る。カラフルでポップな彼女の家は、自分の部屋と同じ間取りとは思えなかった。

続いてチャイムが鳴り、空いてるよー!という樹里の大声を受けてから公佳が入ってくる。

「近所迷惑だから。はい、ラム酒これでいい?」
「あっありがとうございます」

コンビニで売っている小さいなサイズのボトルを公佳がテーブルにラム酒を置く。

「あっアイス溶けちゃう。冷凍庫に入れていいですか」
「いいよいいよっていうか、むしろお願い!」

キッチンに立つ樹里のそばに向かうと、フライパンからじゅわっとバターの香りがはじけた。

「フランスパンもらったからさ、フレンチトースト作る予定だったんだよね。近藤さん、こういうの好き?」
「……だ、大好きです」

思わずよだれが出そうになるのをグッと押し込む。冷蔵庫をあけると、果物やヨーグルト、バター、ジャムのようなものが所狭しと並んでいる。

「ラム酒って何に必要だったの?」

フレンチトーストを丁寧に裏返しながら樹里は、こちらを向いて話す。

「あー……バニラアイスに、ラムレーズンをかけて食べようと思って」

あんなに大きなサイズで?と思われないかなと、考えると少しだけ恥ずかしかったけど、彼女は言っても大丈夫な気がした。
樹里はすぐに目を輝かせる。

「めっちゃいい組み合わせじゃん!美味しいよねぇラムレーズン。しなしなじゃなくて、ひったひたにつけてしずりけ?っていうの?そういうのがさ」
「わ、わかりますか?私もそれが大好きで」
「わかるわかる!私さぁパン屋で働いてるんだけど、ラムレーズン仕込むときめっちゃ気合い入れるもん。しみ込め~って」
「そうなんですか?私も実はケーキ屋で働いてて……」

「ねえ」

公佳がひょこっと顔を出す。いけない、新参者は私なのに、はしゃいでしまっただろうか。

「レーズンは?持ってこないの?」

ころっとラムレーズンのボトルを持って、猫みたいに耳を曲げる公佳。
聞いたから気にしてくれたんだ。

「あっ……持ってきます!」

ドタバタと樹里の家を出て、そのまま自分の家に行き、レーズンを持ってくる。

「簡単にお湯で戻す?フレンチトースト焼けちゃうし」
「いいものがあるよ」

さっと樹里が取り出したのはジップロック。

「お湯で戻して水切って、グラニュー糖入れて、ラム酒付けてもみもみしちゃおう!」
「おーっ」

無表情で合いの手を入れる公佳に驚いた。意外とノリがいい人なんだ。

「急いで急いで!」
「う、うん」
「本当は時間置いたほうがおいしいけど、空腹はなによりの調味料だから」

飲み物を準備した公佳がアイスクリームを滑らかに混ぜて、私がラムレーズンをもみもみして、樹里がフレンチトーストを焼き上げる。

最後に、アイスと即席ラムレーズンを混ぜて上にシロップとトッピング。

「フランスパンのかりじゅわフレンチトースト、ラムレーズンアイス添え!」

「いいね。おいしそう」

「早く食べよう!」

樹里の家のお皿は全部違う種類で、まるで随分前から自分がここにいたみたいだ。

「美味しい…」

そのまま食べてもおいしいし、ラムレーズンのアイスと食べてもおいしい。

「あったかいのと冷たい組み合わせは最強だよね。いつもならアイス常備してたんだけど。買い忘れちゃって」
「近藤さんとちょうど会えてよかった。迷惑だったかもしれないけど」

お腹が膨れて来たのか、我に返り始めた樹里と公佳が少しだけしょんぼりする。

「そんなことない…っ!楽しいし、美味しい!」
「!」

「正直こんなの久しぶりだったから……」

そうみんな「大変だったね」とか「かわいそうに」とか言ってくるから……。
誰ともご飯を食べなくなって。

「嬉しくて」
「……!」

ポロっと出た涙に自分でびっくりする。びっくりしたのは公佳と樹里の方なのに。

「だ、大丈夫⁉どしたのどしたの」
「ごめんなさい。大丈夫…」

いきなり泣くとかありえない。せっかく知り合えて、楽しい時間になってたのに。
そう思うとまた出てきてしまいそうな涙を、ひゅっと深呼吸して収めようとするうちに、公佳が席を立って出ていってしまった。
ヤバい。最悪だ。

「あ…すみません。私、空気壊して……」

早くこれだけ食べて、片づけて、この家から出ていかないと。
そう思い樹里にもらったティッシュで涙を拭いていると、目の前にドン!とチューハイが置かれた。

「どうぞ」

公佳が袋にチューハイとビールを数本。片手にはワインを持って目の前に仁王立ちしている。

「こういう時は……呑むに限る」

涙が止まって、ぽっかり口が空いた私に、ん?と公佳が覗き込む。

「ワインよりもしかして、日本酒の方がよかった?」

どっと笑って、その日は「これも縁だから」「お隣さんだから」と夜が更けるまでの宴となった。

「何が心の浮気ぃーー⁉最低すぎぃ!」
「別れて正解。そういう奴はいつかやる」
「だよね……。私もそうだと思ってて。あえて『心の』とか美化してるところがキモいし許せないなって」

「慰謝料いくらもらったの?」
「ざっくり200万くらい?お父さんにめっちゃ怒られてたから、キャンセル費用も全部出してもらった」
「カッコイイ」

おお~と感心する樹里。パチパチと拍手する公佳。ああ、楽しい。
これ以上呑むと悪酔いするという公佳の判断で、12時を回る前に片付けをはじめた。

また一緒に食べて飲みたいなぁ。

「今日はいきなりごめんね」
「ううん楽しかったよ…!」

今日が終わるのが寂しいくらい。元々2人でするはずだったところに、お邪魔させてもらっただけありがたく思わないと。

「連絡先教えて」
「えっ?」

公佳がスマホを私の方に差し出す。

「これQRコード。読み取れる?」
「う、うん」
「樹里と2人だと、食べきれない時もあるし。もしよかったらまた」
「あっ私もそれ思ってた!迷惑じゃなければだけど」

公佳が量めっちゃ作れってはやしたてるからじゃんと、公佳にも~っと文句をいう樹里。
知らんぷりする公佳。

「いいの?」 
「うん!」
「近藤さん面白いし」

こうして、私のパティスリーでの修行生活に、3人で美味しいものを食べて呑む夜が始まった。