「落合くん!」
靴を履き替え、昇降口を出ようとしたところ、後ろから声をかけられ肩がぴくりと飛び跳ねる。
しかし、それは先輩の声でも、先輩が僕の名前を呼ぶ時の呼び方でもなかった。
「今帰り?」
「藤波さん、」
体操服姿の彼女は、ドリンクを片手に持っていた。大方部活終わりというところに見えた。
「うん、これから帰るところ」
「遅いね」
「あ、そうだよね」
僕は先輩と帰る時間をずらすため、図書室で時間を潰してから昇降口に降りてきたところだった。
僕が薄く笑うと藤波さんも口に微笑みを湛える。
それから彼女は伏せがちな瞳を僕に向けた。
「あのさ、手紙、渡せた?」
先輩のことで頭がいっぱいになってすっかり忘れていたが、彼女は今日一日そのことが気になっていたに違いないと、僕は思った。
「……うん、渡すことはしたよ」
「__ありがとう、落合くん」
藤波さんが食い気味に僕の手をギュッと包み込む。
「きっと、ユカちゃんも喜ぶわ」
前傾の姿勢で近づいた彼女からは、シャボンのような甘く爽やかな匂いがして、僕は女の子に触れたのは生まれて初めてだと思った。
「今日、一緒に帰れるかな?」
「え、」
思いもよらない提案に跳ねた心は、すぐ後ろから響いた低い声によって、急速に冷えていく。
「駄目だ、こいつは俺と帰るから」
背中に感じる重量感、首筋に当たる柔らかい髪、肩から上半身にかけてしなだれかかる逞しくしなやかな腕。
振り返らなくても僕には誰だか分かってしまう。
「……先輩」
そのまま僕の手を取ると、先輩は、藤波さんなんかお構いなしにずんずんと大股で歩いていく。
「また明日ね」、藤波さんの声が背中に届くけれど、僕にはその声に応える余裕すら持てなかった。
先輩は何も言わず、ただ無言で僕の手を引く。
どうして?
時間をずらしたはずなのに。
色々な言葉が頭を浮かんでは言葉にならずに消えていく。
僕は、自身の心臓のばくん、ばくんと、大きく脈打つその音を聴きながら、震える唇を噛み締めた。
「……先輩、直人先輩!」
僕が今出せる精一杯の大声で名前を呼んで数回、やっと先輩は足を止める。
虚な瞳で見つめられて、胸が締め付けられる思いがする。
僕よりも大きい先輩の手は、僕の手を簡単に覆い隠していた。
「……離してください、手」
僕がそういうと、先輩は俯いたまま言う。
「いやだ」
「……なんでですか」
すると、しばしの沈黙ののち先輩は言った。
「離したらお前、どっか行くだろ。最近、俺のこと避けてたし」
「それは」
図星だ。正直今すぐにでもこの場から立ち去ってしまいたかった。その先の言葉を言えないでいる僕に先輩は言った。
「その、なんだ……この間は悪かったよ」
「先輩、」
「全部俺の勘違いだったんだろ? 言われてみれば合点のいく節結構あったし」
先輩はそう言って気まずそうに視線をそらす。
先日、教室で見た先輩の姿が脳裏をよぎり、僕の身勝手な心で先輩を深く傷つけたと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「……そんな、悪いのは全部僕ですよ。元はと言えば僕が声なんかかけなければよかったんです」
「んなこと言うんじゃねえよ」
「でも、」
「好きだ、夕。お前が好き」
急な告白に身動く僕に、先輩はじっとりと熱のこもった視線をよこす。
「……何、言ってるんですか。先輩と僕なんかじゃ釣り合いませんよ」
僕は耐えられなくて、目を逸らす。そんな僕に先輩は言った。
「俺、こんな気持ちになったのはじめてなんだ。今までの人生、人の望む方の選択肢選んできた。そのことを後悔してるわけでも、今だって嫌になったわけじゃねぇ。けどさ、俺、どんなにお前が俺に諦めて欲しいと望んでんの知っててもそれだけは譲ってやれねぇって思った。なぁ、こんな気持ちはじめてなんだよ」
わかるだろ? と先輩は握る手にきゅっと力を込める。
「……でも、僕、男ですよ」
免罪符のように独りごちれば、先輩は繋がった僕の手を上に引き上げて自分を見るよう視線を誘導した。
「俺はお前を好きで、お前も俺を好きって言ってた。他に何がいる?」
「……僕の好きは憧れなんです」
必死に言葉を探した。先輩を切り抜けられる言葉を。
「本当にそう言い切れるのか?」
「……っ、」
僕にとっての好きはその人の幸せを遠くから見守ることで、そこに自分を介在させようとは思わない。ずっとそう言うものだった。
物心ついた時からこの考え方は変わることはなくて、それはきっとこれからも同じ。
でも、ときどき考える。
肩を並べて下校をする、たわいもない話をする、美味しいお店でご飯を食べて同じ時間を過ごす、遊園地に動物園に水族館、様々なシチュエーションでデートできたら……。
しかし、僕は考えるだけで満足で、生身のその人の手を煩わせることなんてとても考えられなかった。
僕にはない。
欲がない。
おおよそ世間一般の人並みからは外れた欠陥品だ。
LGBTQでもなんでも、自分が相手に抱く熱と同じだけの熱を返してもらえる相手がこの世に存在している事実が僕には羨ましかった。
僕よりもよほど恵まれているじゃないか。
そんな相手僕にはいない、僕は無色透明な無害故の有害だ。
相手を自分の人生に引き込むには不能すぎる己が憎くて嫌いで、気持ち悪くて。
「実際にした方がいいに決まってるじゃねぇか」
「え?」
__僕、今の全部口に?
戸惑う僕をよそに先輩は言った。
「飯も、遊園地も動物園も水族館も、お前が望むなら行ってやる。なんでも叶えてやるよ、お前の夢」
「うそ、」
「嘘なんかついてどうする?」
気持ちが揺らぐ。
考えてしまった。
先輩と過ごす時間を。
近くにいすぎて勘違いしたのだ。僕は元来こんなに欲深くない。それなのに。
「……ありません」
「あ?」
「僕、先輩を幸せにする自信ありません、」
僕が満たされても、僕は先輩の思う通りの方法で先輩を満たすことができない。
先輩がいい人であればあるほど、僕は自分の身勝手さで大事な人に無理をさせ、挙げ句の果て傷つけるのが怖かった。
がっかりさせる、いつか終わる日が来るのなら僕は初めから始まってほしくないと思った。
卑怯で臆病で弱い、それが僕。
きっと先輩もこんな僕のことなんかもう……、
その時俯く僕の耳に、くふ、という声がした。
「?」
怪訝な顔で見上げれば、
「あはははは!!!」
「!」
先輩は笑っていた。
どこに笑う要素があったのだろうか。僕は真剣な話をしているのに。
呆然とする僕を一人残して、先輩は腹を抱える。
それからひとしきり笑い終えると、先輩はゆっくりと僕の顔を見て言った。
「ばーか、誰もお前に幸せにしてほしいなんて思ってねぇよ」
髪の毛をわしゃわしゃと撫でつけられ、思わず目を細める。
「お前といるのが幸せだから一緒にいたいって言ってんだろ?……分かれよ」
思っても見なかった言葉の数々に僕は情報の処理が追いつかなくて、ぽかんと先輩を見つめれば、不敵にけれど優しく笑う先輩の顔がそこにある。
「……っ、」
ずっと思っていた。
恋とか愛とかそんなものは僕には無縁だって。
相手を幸せにする自信がない欠落した僕には望むことさえ許されない願いだと。
しかし、僕の悩みを簡単に超えて行くこの人を前に思うことがある。
僕だって、もっとわがままで自分勝手になったっていいのかもしれない。
欠けている僕は幸せになれないと思っていた。
__幸せになる資格がないと思っていた。
だから望まないことで、気持ちを誤魔化し続けてきた。それがいつしか自分の気持ちと見分けがつかなくなるまで
でも、みんな、みんな欠けている。
こんな完璧な先輩でさえ……。
しかし、だからこそ、僕らは自分で埋まらない欠けらを埋めようと今日もどこかで誰かを求め続けるのかもしれない。
「……一つ条件があります」
「あ? 言ってみろよ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に優しく僕の両頬を包み込む彼の手に擦り寄るように、僕は先輩を見上げた。
「……幸せにしてくださいね、先輩」
「そんなの、あたりまえだろ」
どちらからともなく近づいた顔は、やがてそっと重なった。
僕たちはまるではじめから一人であったかのようなしっくりと馴染む一対になる。
互いの熱がじんわり境界を曖昧にしていく頭の隅で、僕はただ生温かくて、しょっぱくて、青い、幸せの味を噛み締めた。
靴を履き替え、昇降口を出ようとしたところ、後ろから声をかけられ肩がぴくりと飛び跳ねる。
しかし、それは先輩の声でも、先輩が僕の名前を呼ぶ時の呼び方でもなかった。
「今帰り?」
「藤波さん、」
体操服姿の彼女は、ドリンクを片手に持っていた。大方部活終わりというところに見えた。
「うん、これから帰るところ」
「遅いね」
「あ、そうだよね」
僕は先輩と帰る時間をずらすため、図書室で時間を潰してから昇降口に降りてきたところだった。
僕が薄く笑うと藤波さんも口に微笑みを湛える。
それから彼女は伏せがちな瞳を僕に向けた。
「あのさ、手紙、渡せた?」
先輩のことで頭がいっぱいになってすっかり忘れていたが、彼女は今日一日そのことが気になっていたに違いないと、僕は思った。
「……うん、渡すことはしたよ」
「__ありがとう、落合くん」
藤波さんが食い気味に僕の手をギュッと包み込む。
「きっと、ユカちゃんも喜ぶわ」
前傾の姿勢で近づいた彼女からは、シャボンのような甘く爽やかな匂いがして、僕は女の子に触れたのは生まれて初めてだと思った。
「今日、一緒に帰れるかな?」
「え、」
思いもよらない提案に跳ねた心は、すぐ後ろから響いた低い声によって、急速に冷えていく。
「駄目だ、こいつは俺と帰るから」
背中に感じる重量感、首筋に当たる柔らかい髪、肩から上半身にかけてしなだれかかる逞しくしなやかな腕。
振り返らなくても僕には誰だか分かってしまう。
「……先輩」
そのまま僕の手を取ると、先輩は、藤波さんなんかお構いなしにずんずんと大股で歩いていく。
「また明日ね」、藤波さんの声が背中に届くけれど、僕にはその声に応える余裕すら持てなかった。
先輩は何も言わず、ただ無言で僕の手を引く。
どうして?
時間をずらしたはずなのに。
色々な言葉が頭を浮かんでは言葉にならずに消えていく。
僕は、自身の心臓のばくん、ばくんと、大きく脈打つその音を聴きながら、震える唇を噛み締めた。
「……先輩、直人先輩!」
僕が今出せる精一杯の大声で名前を呼んで数回、やっと先輩は足を止める。
虚な瞳で見つめられて、胸が締め付けられる思いがする。
僕よりも大きい先輩の手は、僕の手を簡単に覆い隠していた。
「……離してください、手」
僕がそういうと、先輩は俯いたまま言う。
「いやだ」
「……なんでですか」
すると、しばしの沈黙ののち先輩は言った。
「離したらお前、どっか行くだろ。最近、俺のこと避けてたし」
「それは」
図星だ。正直今すぐにでもこの場から立ち去ってしまいたかった。その先の言葉を言えないでいる僕に先輩は言った。
「その、なんだ……この間は悪かったよ」
「先輩、」
「全部俺の勘違いだったんだろ? 言われてみれば合点のいく節結構あったし」
先輩はそう言って気まずそうに視線をそらす。
先日、教室で見た先輩の姿が脳裏をよぎり、僕の身勝手な心で先輩を深く傷つけたと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「……そんな、悪いのは全部僕ですよ。元はと言えば僕が声なんかかけなければよかったんです」
「んなこと言うんじゃねえよ」
「でも、」
「好きだ、夕。お前が好き」
急な告白に身動く僕に、先輩はじっとりと熱のこもった視線をよこす。
「……何、言ってるんですか。先輩と僕なんかじゃ釣り合いませんよ」
僕は耐えられなくて、目を逸らす。そんな僕に先輩は言った。
「俺、こんな気持ちになったのはじめてなんだ。今までの人生、人の望む方の選択肢選んできた。そのことを後悔してるわけでも、今だって嫌になったわけじゃねぇ。けどさ、俺、どんなにお前が俺に諦めて欲しいと望んでんの知っててもそれだけは譲ってやれねぇって思った。なぁ、こんな気持ちはじめてなんだよ」
わかるだろ? と先輩は握る手にきゅっと力を込める。
「……でも、僕、男ですよ」
免罪符のように独りごちれば、先輩は繋がった僕の手を上に引き上げて自分を見るよう視線を誘導した。
「俺はお前を好きで、お前も俺を好きって言ってた。他に何がいる?」
「……僕の好きは憧れなんです」
必死に言葉を探した。先輩を切り抜けられる言葉を。
「本当にそう言い切れるのか?」
「……っ、」
僕にとっての好きはその人の幸せを遠くから見守ることで、そこに自分を介在させようとは思わない。ずっとそう言うものだった。
物心ついた時からこの考え方は変わることはなくて、それはきっとこれからも同じ。
でも、ときどき考える。
肩を並べて下校をする、たわいもない話をする、美味しいお店でご飯を食べて同じ時間を過ごす、遊園地に動物園に水族館、様々なシチュエーションでデートできたら……。
しかし、僕は考えるだけで満足で、生身のその人の手を煩わせることなんてとても考えられなかった。
僕にはない。
欲がない。
おおよそ世間一般の人並みからは外れた欠陥品だ。
LGBTQでもなんでも、自分が相手に抱く熱と同じだけの熱を返してもらえる相手がこの世に存在している事実が僕には羨ましかった。
僕よりもよほど恵まれているじゃないか。
そんな相手僕にはいない、僕は無色透明な無害故の有害だ。
相手を自分の人生に引き込むには不能すぎる己が憎くて嫌いで、気持ち悪くて。
「実際にした方がいいに決まってるじゃねぇか」
「え?」
__僕、今の全部口に?
戸惑う僕をよそに先輩は言った。
「飯も、遊園地も動物園も水族館も、お前が望むなら行ってやる。なんでも叶えてやるよ、お前の夢」
「うそ、」
「嘘なんかついてどうする?」
気持ちが揺らぐ。
考えてしまった。
先輩と過ごす時間を。
近くにいすぎて勘違いしたのだ。僕は元来こんなに欲深くない。それなのに。
「……ありません」
「あ?」
「僕、先輩を幸せにする自信ありません、」
僕が満たされても、僕は先輩の思う通りの方法で先輩を満たすことができない。
先輩がいい人であればあるほど、僕は自分の身勝手さで大事な人に無理をさせ、挙げ句の果て傷つけるのが怖かった。
がっかりさせる、いつか終わる日が来るのなら僕は初めから始まってほしくないと思った。
卑怯で臆病で弱い、それが僕。
きっと先輩もこんな僕のことなんかもう……、
その時俯く僕の耳に、くふ、という声がした。
「?」
怪訝な顔で見上げれば、
「あはははは!!!」
「!」
先輩は笑っていた。
どこに笑う要素があったのだろうか。僕は真剣な話をしているのに。
呆然とする僕を一人残して、先輩は腹を抱える。
それからひとしきり笑い終えると、先輩はゆっくりと僕の顔を見て言った。
「ばーか、誰もお前に幸せにしてほしいなんて思ってねぇよ」
髪の毛をわしゃわしゃと撫でつけられ、思わず目を細める。
「お前といるのが幸せだから一緒にいたいって言ってんだろ?……分かれよ」
思っても見なかった言葉の数々に僕は情報の処理が追いつかなくて、ぽかんと先輩を見つめれば、不敵にけれど優しく笑う先輩の顔がそこにある。
「……っ、」
ずっと思っていた。
恋とか愛とかそんなものは僕には無縁だって。
相手を幸せにする自信がない欠落した僕には望むことさえ許されない願いだと。
しかし、僕の悩みを簡単に超えて行くこの人を前に思うことがある。
僕だって、もっとわがままで自分勝手になったっていいのかもしれない。
欠けている僕は幸せになれないと思っていた。
__幸せになる資格がないと思っていた。
だから望まないことで、気持ちを誤魔化し続けてきた。それがいつしか自分の気持ちと見分けがつかなくなるまで
でも、みんな、みんな欠けている。
こんな完璧な先輩でさえ……。
しかし、だからこそ、僕らは自分で埋まらない欠けらを埋めようと今日もどこかで誰かを求め続けるのかもしれない。
「……一つ条件があります」
「あ? 言ってみろよ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に優しく僕の両頬を包み込む彼の手に擦り寄るように、僕は先輩を見上げた。
「……幸せにしてくださいね、先輩」
「そんなの、あたりまえだろ」
どちらからともなく近づいた顔は、やがてそっと重なった。
僕たちはまるではじめから一人であったかのようなしっくりと馴染む一対になる。
互いの熱がじんわり境界を曖昧にしていく頭の隅で、僕はただ生温かくて、しょっぱくて、青い、幸せの味を噛み締めた。