『ゆう! これから体育かぁ? がんばれよ』




『ゆうー! これやるよ! 購買のおねえさんが、おまけしてくれた!』




『ゆう! 一緒に帰るかー?』



何が一体どうしてこうなったんだ?

僕は頭を抱えた。

「お前、最近直人先輩と仲良いな!」

昼休み、加藤は僕の悩みをぶった斬るよう、能天気にそう言った。

僕はそんな加藤をお門違いだとは分かっていても恨みがましく睨まずにはいられなかった。

文化祭の片付けをしたあの日を境に、直人先輩は学校で僕を見かけるとよく声をかけてくれるようになっていた。

そのことが僕の中では不思議で仕方がなかった。

「……あれってやっぱり僕に話しかけてるのか?」

先輩に笑顔で手を振られると、僕の後ろに誰かがいて、その人に向かって挨拶しているのだろうという気がしてならない。

「当たり前だろ? お前の名前、めっちゃ呼んでんじゃん」

「う、……そもそも僕は先輩に自分の名前を名乗った記憶もないんだが」

「まぁ、よかったじゃん、あんな有名人と親しくなれて! 今度俺にも紹介しろよな!」

そんなこと言われたって、なぜいきなり先輩に声をかけてもらえるようになったのか、その理由もわからないのに……

僕はこのまま曖昧な関係に止まることに、一種の引け目のようなものを感じていた。

僕と先輩との間に何かあったとしたら、片付けの日なんだろう。

しかし、僕は先輩に何を言ったのか、どうしても思い出せなかった。

それからも、時々廊下や学内で先輩に声をかけられ戸惑う日々は続いた。

しかし、そのこと以外は、至って平穏で平凡な僕の日常だった。


今日も一日が終わる。

掃除当番を終え、教室を出ると、茜色の日差しが窓から差し込んできて、僕は自然と目を細めた。あぁ、日が落ちるのが早くなったな、と冬の近づきを感じる放課後の空。

すると、少し先の廊下に人だかりができているのが目についた。

何事かと思えば、その前を通り過ぎた際、後ろから引き止められる。

「ゆう、帰ろうぜ!」

「……先輩」

声の方に向けば、人だかりの中心には直人先輩がいた。

わざわざ掃除が終わるのを待ってくれていたのだろうか。どうりで廊下が騒がしかったはずだ。

夕陽に照らされる先輩を見つめて、動けないでいる僕を、先輩はあっという間に追い越すと、階下から「行くぞ?」と言ってこちらを仰ぐ。

僕は遠巻きの女子の視線に居た堪れなさを感じながらも先輩の半歩後ろをついて歩いた。


「同じバスなんだから、明日からは帰り、待ち合わせしようぜ」

先日、帰りかげに鉢合わせをし、僕と先輩が同じ路線を使っていることが、知れてしまった。

しかし、まさかその発想に至るとは思わなかったので、僕は正直驚きが隠せなかった。

先輩と一緒に帰る、

遠くから見つめていた時には考えられなかった事象だった。

それなのに手放しで喜べないのは、先輩の無邪気に笑う横顔に、僕は聞こうと思えば聞けるはずだったから。

『どうして、僕のことを気にかけてくれるんですか? あの日、僕は先輩に何を言ったんでしょうか』

しかし、代わりに僕が口にしたことと言えば、

「……そうですね、先輩が良ければぜひ、」

相手をなぞるように肯定する言葉だけ。

そうやって僕は逃げた。

あの日のことを明らかにすることで、先輩が僕なんかに見向きもしなくなることを恐れ、気が付かないふりをした。 

もし本当のことを聞いたなら、僕と先輩の関係は元に戻ってしまう気がして、

それで先輩が僕の前からいなくなるのなら、別にいいじゃないかと思う心と、

もったいない、

この状況を利用すればいいのにといったずるい心が生じた。

しかし、揺れ動いているのは所詮ポーズでしかなくて、"僕は聞けなかった"それが詰まるところの答えだった。


「写真?」

「駄目、ですかね」

このごろ僕と先輩は昼を屋上で共にするようになっていた。

僕ははじめ渋々承知したのだが、人目を気にせず先輩と話せる時間を持てるのは僕にとっても喜ばしいことに変わりなかった。


「いや、別に構わないぜ、ほら」

先輩は、僕から携帯を取り上げると、当たり前のように空いた方の手で僕の肩を抱き寄せる。

「!」

数枚シャッター音がした後に、携帯をのぞいた先輩の肩が揺れた。

「ハハッ、変な顔」

先輩に不意打ちで触れられ、顔にどっと熱が集まった。

「……先輩と並んだら、そりゃみんな変な顔でしょうよ」

動揺を隠すために述べた言葉は、思いの外不機嫌な声色であたりに響く。

すると、先輩は、「そーゆうことじゃねぇーよ、表情固すぎ」と言って、白く長い指で僕の頬を摘んだ。

「いたいれす」

「柔らかいな、オマエ」

先輩は上機嫌そうに微笑む。

「……にしてもどうして写真なんだ?」

不思議そうな顔で呟く先輩に、僕は赤みが冷めやらない顔で言った。

「それは、憧れだったんで」

「憧れ?」

「行事とか、みんな先輩と撮ってもらってていいなって」

僕は、みんなが先輩と写真を撮るために並ぶのを横目に、そこに並ぶ勇気が出なかった。

「すごいな、あれ」って友達が言ってるのに、「やばいな、あれ」って、笑うことしかできなかった。

「お前も撮ればいいじゃねぇか」

先輩はわけわからん言ったふうな口調でこちらを見つめる。

僕はきゅっと唇を結ぶ。

あぁ、きっと伝わらないと思った。

「先輩には分からないですよ。写真を撮りたくても、撮ってくださいって、その一言が言えない人間の気持ちなんて」

「あぁ?」

「だって、先輩はいつも言われる側でしょう」

僕の問いに先輩は斜め上を仰いだ。

それから僕に目線を戻すと、肩をすくめた。

「……かもな。そもそも、誰かと撮りたいって思ったことないな」

「やっぱり、イッ」

掴まれたままの頬をまた横に引っ張られる。

抗議しようと先輩を見やれば、自信と絶対的王者に溢れた笑みを向けられる。

「でも、さっきのは送れよ。あれは欲しいって思った」

頬が開放されて、手のひらに携帯を握らせられる。

「先輩、」

「お前の顔がおかしくて面白かったし」

「先輩……!」

この頃先輩は、僕のことを揶揄って、さも愉快そうに頬を緩めるようになった。 

いつもの澄まし笑顔も凛々しくて素敵だと思っていたが、フニャッとした柔らかい表情ももっとみていたいと思うもので、憧れの人の新たな一面に僕の胸はいっぱいだった。