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 長いようで短い夏休みが終わり、今日から二学期が始まろうとしていた。祐弥と関係を持ってからは初めての学校である。
 時雨はバスの中で、いつもの如く音楽を聴きながら心を落ち着かせていた。妙に緊張してしまうのは、連むようになった友達としてではなく、好き同士である恋人として、これからほぼ毎日祐弥と顔を合わせることになるからかもしれない。
 時雨と祐弥が友達を超えた関係になったことを知っているのは、そういう関係になったら報告しろと話していた晴翔と龍樹だけだった。
 言わなかったらうるさいからね、と告白し合ったその日の夜に祐弥がメッセージを送り、それを受けた彼らから息急き切ったような連絡が時雨に届いたことは言うまでもない。他人の色恋にこれほどまでに興奮できるのかと圧倒されそうになるくらいには、例え文面であっても強い感情が滲み出ていたのだった。
 テンションが高かった二人はその日の夜、よく眠れたのだろうか。時雨はなかなか寝つけなかった。夢見心地のような感覚から抜け出せなかったのだ。今日の出来事は現実かと自問しては、現実のことだと自答し、じんわりと熱くなる唇を引き結びながら頷くような、無意味な問答を布団の中で繰り広げていた。夜中になっても目が冴えてしまっていたことは、誰にも言えはしなかった。
 そんな時雨に対して祐弥は、普段と違うイレギュラーなことが起きても、のらりくらり、平然としていそうであった。
 時雨を含めた利用客を乗せたバスが、祐弥のいる診療所前の停留所で止まった。その場所から道路を挟んだ対面にある待合小屋で、時雨と祐弥の関係は始まっている。行きも帰りも、ここを通る度に、当時のことを鮮明に思い出してしまいそうだった。
 開いた入口のドアからバスに乗り込み、通路を進む祐弥を目で追ってしまいながら、時雨は聴いていた音楽を途中で停止させ、イヤホンを外した。
「池宮くん、おはよう」
「……おはよう」
 時雨の隣に腰を下ろした祐弥と挨拶を交わす。恋仲になったからといって劇的に態度が変わるようなことはなく、祐弥は今までとほとんど同じであった。
 それに時雨は胸を撫で下ろした。付き合う前に感じていた心地良さが、付き合ったことでなくなってしまっては元も子もない。一緒にいて居心地が良いという事柄は、少なからず、祐弥に対する好意に繋がっていた。
 雰囲気から何から変わらない祐弥を新たに乗せたバスが進んでいく。時雨は外したイヤホンを片そうと鞄のチャックを開けた。プラグはスマホに繋がっている。絡まない程度に押し込もうとしたところで、隣の祐弥が口を開いた。
「俺がバスに乗る時、いつもイヤホン外してくれるよね」
 手を止めた時雨は、目を上げて祐弥を見た。唇が微笑っている。決して歯は見せない祐弥の笑みは、常に静かだった。
 時雨はいつものように愛想なく顔を背けてしまいながら、再び、自分の手元に視線を戻した。持っていたイヤホンを鞄にしまってから息を吸う。
「……別に、普通のことだろ」
「そうだね。でも、俺からしたら、凄く嬉しいことだよ」
「嬉しいことなんか、ないだろ」
「ありまくるよー。池宮くんが毎朝聴いているものに俺は勝ってるんだって思ったら、嬉しくないわけないじゃん」
「……嬉しいことが、小さすぎる」
「そんなことないよ。とても大きいことだよ」
 迷いなく答える祐弥の意思ははっきりしている。自信があって、余裕のある声からも、そう簡単には自分を曲げない強さを感じた。言うまでもなく、彼は自分を持っている人だった。
 時雨が何気なくしていた行動が、大きな喜びに繋がっているなど、時雨自身、今の今まで知らなかった。イヤホンを外す些細な動作を、そのタイミングを、いちいち気にする人などいないと思っていたのだ。時雨も意識して外していたわけではなかった。
「そういう嬉しいがね、大きな好きに繋がると俺は思ってるし、実際にそうなったよ」
 遠回しではあるが、また好きだと言われているような気がした。しかし、告白をし合った時のようなあの素直さを今は全く出せない時雨は、返答に窮してしまう。
 元々発言に遠慮のない人だったが、二人の関係を示す名前が変わったせいか、それが更に顕著になっていた。よりストレートに祐弥の恋情が伝わってくるようになったのだ。
 顔には出さないように注意したが、改めて感じる祐弥からの好意が面映ゆくて仕方がない。時雨は祐弥の顔を見られなかった。
「池宮くんの素直じゃないところも、俺は好きだよ」
 少しも照れない祐弥が、車内であるために潜めていた声を更に潜め、時雨にだけ聞こえるような囁き声でそう言った。
 時雨は胸の高鳴りを覚えながらも、つんけんした態度を崩せなかった。何も言えず、何もリアクションが取れない。好きだと言われ、確かに幸福を感じているのに、祐弥のことが大事だと思っているのに、祐弥みたいにまっすぐ伝えられない。
 普段の寡黙さを発揮し、全く喋らなくなってしまった時雨を特に咎めることもない祐弥が、何を思ったのか、時雨の無防備な手を掴んで握り締めた。
 意表を突かれた時雨は、思わず首を動かしてしまう。その先で見た祐弥は、口元を妖しく綻ばせていた。
「恋人同士みたいだね」
「……みたいじゃないだろ」
 繋いだ手を見せびらかして祐弥が言ったことに、時雨は無理なく自然と突っ込んでいた。祐弥に言葉を引き出されたような感覚であった。
「うん、そうだね」
 僅かに嬉しそうに頷いた祐弥が手を下ろし、それ以上は何も言わず、慣れた手つきで指を絡めてくる。
 時雨は抗うことをしなかった。座席のおかげで死角になっているため、周りの乗客には見えないはずだ。例えそうでなくとも、その手を振り払うことはしなかっただろう。
 手を繋いだ二人を乗せたバスは、進み続けている。祐弥が隣にいる静かな時間も、進み続けている。会話はなかったが、呼吸は合っているようで、やはり、祐弥と一緒は居心地が良かった。
 安心できて、心地良くて、とても幸せだ。
 時雨はこの瞬間を、この小さな幸せを、手放したくないと思った。そう思っていても、口下手で不器用な時雨は、祐弥のように、何もかもを素直に伝えることができない。それならば、もう、これしか方法はないのではないか。
 思い立った時雨は、祐弥の熱を手のひらに感じながら、絡められた彼の手を、そっと、握り返した。
 恋人同士となった時雨と祐弥の、新たな日常が、これから始まる。