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 一学期が終了し、多くの生徒が待ち望んでいた夏休みを迎えた。
 それも早二週間が経ち、暦は既に八月である。連日真夏日であり、熱中症に警戒するようテレビでもどこでも日々呼びかけられていた。
 室内にいてもあまりの暑さに堪え切れず、一度オンにした扇風機やエアコンのスイッチをなかなかオフにできない。気温と共に電気代まで上がっていく始末である。
 休日であっても、元々インドアである時雨はほとんど外出することがないため、自室に備えつけられているエアコンを何時間もつけっぱなしにし、気が乗らない課題をだらだらとするだけの毎日を過ごしていた。特に趣味のない時雨は、それしかすることがないのだった。
 そんなある日の午後のこと。この日も外は猛暑であり、時雨は当たり前のようにエアコンをつけたまま自室にこもっていた。
 少しずつしか進まない課題と泥試合を繰り広げている時に、机の上に無造作に置いていたスマホが鳴った。問題を解いていた手を止め、滅多に音を発することのないそれを確認する。
 名前を見て、内容を見て、時雨は一旦スマホを置いた。メッセージだった。祐弥からの、メッセージだった。
【池宮くん、明日何も予定なかったら、晴翔と龍樹を含めた四人で一緒に遊ばない?】
 文字通り、遊びの誘いであった。
 時雨は即返信はせず、まだメッセージに気づいていないことにして、少しばかりスルーした。既読はつけていないため、何も問題はないはずだ。
 切れかけていた集中力が完全に切れてしまった時雨は、握っていたシャーペンを放るように寝かせた。のろのろとではあるが、ちまちまやっていることに変わりはないため、やるべき課題は徐々に減ってきているのだった。
 少し休憩をしようと椅子から立ち上がり、ベッドに身を投げる。枕を抱くようにしてうつ伏せになり、顔を横に向けた。そのまま身じろぎしないでいると、自分の鼓動が耳をつくようになった。頭の中は、祐弥からの誘いのことでいっぱいになっていた。
 クラスマッチの日、時雨は祐弥に身体を触られた。その後、流されるようにしてキスをした。しかしながら、肌に触れられ、キスをしたからといって、二人の関係性が劇的に変わることはなかった。
 そんな中で、唯一変化したことと言えば、時雨の感情面である。祐弥とのキスで気持ちを自覚した時雨は、彼を多少なりとも意識するようになったのだ。
 その相手からの連絡である。長期休暇に入ってからは祐弥と会えていない。それなりに仲は良くなったとしても、時雨も祐弥も、頻繁にメッセージを送り合うことはないため、間接的にでも祐弥が時雨の日常に堂々と侵入してきたのは久しぶりのことだった。
 会えていなくとも、メッセージのやり取りをしていなくとも、変わらず祐弥の中に自分がいたことに時雨は安堵してしまう。
 深く息を吐き出した時雨は、視線の先にあるクローゼットに目を向けた。外出する時に着られるまともな服はあっただろうか。
 一年中、春夏秋冬関係なく、家ではジャージで済ませ、またそれが一番落ち着く格好だと思っている時雨は、服にそれほど関心がなかった。故に、ファッションに興味もなく、言わずもがなセンスの欠片もない。
 もし祐弥の誘いを受けるのであれば、クローゼットの中で眠っている衣服で上手に、人に見られても恥ずかしくない程度に着こなさなければならなかった。流石にジャージでは出かけられまい。
 興味もセンスもないため服装選びなど億劫だったが、そんな理由で断るのもどうかと思い、時雨は少し頭を使ってみることにした。課題を終わらせることしかすることがなく、毎日適当にそればかりしていたせいか、ちょうど勉強に飽きを感じ始めていたところである。
 時雨はうつ伏せになっていた身体を緩慢な動作で起こし、ベッドから足を出して床を踏んだ。クローゼットを見遣り、腰を上げる。数歩進んでその前に立ち、把手を掴んで引き開けた。
 ハンガーにかけられた制服が目についた。しばらく着ないためそこにしまっていたのだった。学校だったら何も考える必要もなくこれで済んだものの、明日はそういうわけにはいかない。
 制服から視線を移動させる。色気のないジャージやTシャツ、ジーパンなどが並んでいる。どれもこれも地味に見え、良い感じに着られる気はしなかった。
 難題に挑んでしまったと溜息を吐いてしまいそうになりながら、掻き分けるようにして中を見ていると、一番端に追いやられている服に目が止まった。
 一際違うオーラを放つそれをハンガーごと取り出し、自分の目の前に掲げる。上下が一緒になっていた。
 大きめサイズの七分袖のシャツと、ゆったりと着ることのできそうなパンツ。上が白で下が黒のシンプルな色合いだった。全体的に薄く軽めであるため、夏でも涼しげに見える。
 自分はこのような服を買っていただろうかと一瞬考えて、買ったのではなく貰ったことを思い出した。確か、年上の従兄弟からだ。外に出なさすぎてすっかり頭から抜け落ちていた。
 時雨は再度クローゼットの中を見る。そのどこにも、光るものはなかった。
 この服が、一番良さそうだ。
 時雨はこれをくれた従兄弟のファッションセンスを信じ、ほとんど頭を悩ませることなく決断した。貰っていなければ、余計な頭痛に悩まされるところであった。
 クローゼットを閉じ、机の横に置いているラックにハンガーをかける。
 服選びが一段落したところで、時雨は自分が祐弥たちと遊ぶ気満々であることに遅れて気づいた。今まで誰かに何かを誘われても断り続け、決してその誘いに乗ることはなかったが、今回に限っては即断る考えには至らなかったのだ。誰が見ても明らかなほど、時雨の心持ちは変わっていた。
 返事を、しないといけない。
 時雨はスマホを掴み、一旦無視していた祐弥のメッセージを開いた。途中で気が変わるようなことは、なかった。
 指を滑らせ文字を打つ。時雨は短く、遊ぶ、とだけ返した。絵文字も何もない、祐弥の文章の半分にも満たない単語一つだけであったが、それが時雨の通常運転である。口数の少なさは、文面上でも変わらなかった。
 送信後、程なくして、祐弥から反応があった。時雨は画面を見つめる。
【嬉しい、ありがとう。池宮くん、休日に遊ぶのとかあんまり好きじゃないかなって思ってたから、本当に凄く嬉しいよ】
 祐弥はよく、嬉しいと言う。感情表現が苦手な時雨と違って、嬉しいと思ったら嬉しいと、楽しいと思ったら楽しいと、自分が感じた喜怒哀楽を素直に言える人だった。
 それでも、どこか掴みどころがないと感じるのは、口調や行動がゆっくりとマイペースで、のんびりしているからかもしれない。
 しかしそれは何も欠点ではなく、祐弥の魅力の一つであった。時雨も今ではそう思っていた。
 時雨は祐弥ほど素直になれないまま、取ってつけたような理由を打ち込み、送信した。
【何も予定とかなかったから】
【なくて良かったよ】
 既読がついて、すぐに返ってくる。時雨の手は簡単に止まり、一瞬で何も返せなくなった。
【明日はみんな同じバスに乗って、終点まで行くことになってるよ。十時便のバスだね。着いたらまず昼食べて、それからどこかで遊ぶっていう話になってる。計画はほとんど立ててないから明日の気分で決める感じだよ】
 硬直している内に届いたメッセージに時雨は目を通す。
 昼を食べてからのことは何も決めていない緩いプランではあったが、これをしてあれをしてとガチガチに固められるよりかは良い。四人でくだらないことを話すだけでも、きっと十分楽しいと思えるはずだ。
【了解】
 文章を読み、業務的な返信をしてしまった後、何か一言、楽しみだとか、楽しもうだとか、そういうことを付け足そうかと考えあぐねたが、結局時雨はそれ以上のことは返せなかった。
【楽しみだね。一緒に楽しもうね】
 時雨が伝えようかどうしようか迷った言葉を、祐弥に代弁される。エスパーかと思った。どこかで見られているのかと思った。頭の中を覗かれているのかと思った。
 一瞬でもそのように思ってしまったが、そんなことなどあるはずもない。偶然である。偶然、祐弥も同じ気持ちだっただけである。時雨を含めた四人で遊ぶことを楽しみに思い、それを時雨に伝えただけのことである。
 時雨は楽しみだという祐弥にまたしても、そっけない返事をしてしまった。思っていることの一つも、素直に伝えられなかった。
【池宮くんの私服姿も楽しみにしてるね】
 私服の文字を目にし、時雨はラックにかけた例の貰い物の私服を無意識のうちに見た。それが自分に似合うのかどうかは分からなかった。
【別に楽しみにしなくていい】
【それは無理なお願いかなー】
【無理じゃないだろ】
【無理だよー】
【それなら、期待はしなくていい】
【うん、分かった。楽しみにはしてるね】
 時雨はスマホを閉じ、机の上に置いた。そして、再度私服に目を向ける。祐弥に私服姿を楽しみにされていることに、時雨は胸の辺りが熱くなっていた。
 祐弥の好みは知らない。例えそれを知ることができたとて、時雨のクローゼットの中はあまりにも草臥れている。好みに合わせられるような衣服が豊富に揃っているとはお世辞にも言えなかった。
 今の時雨には、従兄弟から貰ったこの一着しかない。家中を引っ掻き回せば服自体はたくさん出てくるだろうが、それらを上手く組み合わせられる気はしないのだった。
 時雨はふと、一度試着してみようと思った。明日になってやっぱり変だと思い、ずっと気にしてしまう羽目になる前に、確認しておこうと思ったのだ。
 服をハンガーから外し、着古したジャージを脱いで着替える。
 触れた感じや見た目から涼感を誘っていたが、着てみると肌身で涼しさを実感した。オーバーサイズのため動きやすく、楽な印象だった。
 似合っているかどうかは自分では判断しにくいが、悪くはないのではないか。変ではないのではないか。色も白と黒で落ち着いている。派手ではない。
 大丈夫そうだと時雨は結論づけ、着たばかりの服を脱ぎ、ジャージ姿に戻った。気持ち的な面で楽なのは、やはりこちらの服装であった。
 明日着る服をハンガーにかけ直し、時雨は机の前の椅子を引いて座った。
 課題のプリントやノートは広げたままで、シャーペンや消しゴムも筆箱にしまうことなく放置している雑多な机の上の、その隅に置いている小さめの卓上カレンダーに目を向ける。今日と明日の日付を順に見た。
 何もなかった明日の予定が、埋まった。
 夏休み中、これといった予定は何もなく、最終日まで空白だと言っても過言ではなかったカレンダーが、明日の一日だけ、友人三人と遊びに行く予定で埋まったのだ。
 誘われても断ることなく、家族以外の誰かと一緒にどこかへ行くなど、高校生になってからは初めてのことだった。


 次の日の午前、バスが来る数分前に停留所に着いた時雨は、学校に行く時と同じようにイヤホンで適当な音楽を聴きながらその時を待っていた。
 今日も日差しは強く、家からバス停までの徒歩十分程度の距離を歩いただけで汗ばんでしまった。この調子では、外で長時間ぶらぶらはできそうにない。
 イヤホンで流している曲が終わりに近づいた頃、ほぼ時間ぴったりに来た十時便のバスが、時雨のいる停留所でゆっくりと停車した。ドアが開かれる。見慣れたいつものバスではあるが、時間も服装も異なるせいか、妙に新鮮な気持ちで時雨は静かに乗り込んだ。車内は冷房が効いており、快適だった。
 今日は晴翔と龍樹もこのバスを利用すると祐弥から聞いていたため、時雨は通路で区切られない一番奥に座ることにした。まだそこには誰も座ってはいなかった。
 時雨が席に着いたのを見計ったように、バスが発進する。
 時雨はイヤホンはそのままに、流れる景色をぼんやりと眺めた。いつも見ているからこそだろうか、安心できるような光景だった。
 祐弥が乗ってくるまでの間、時雨はそうして時間を潰していた。音楽を聴きながら外を眺めることくらいしかすることがないのだ。スマホでゲームをしたりSNSを見たりすることもない。時雨はどちらもやってすらいなかった。単純に、興味がないのである。
 音楽も、ネットで人気の曲などはほとんど知らず、流しているのは誰もが知っているような有名な曲ばかりだ。それも特別好きというわけではないため、ただ本当に流しているだけであった。
 人を乗せたり降ろしたりするバスに揺られること十数分、祐弥のいる停留所に着いた。ドアが開き、そこで待っていた祐弥が乗り込んでくる。
 時雨は祐弥を手招くこともできず、後ろの座席で大人しくしていた。そんな時雨に気づいた祐弥が、ひらひらと手を振って歩みを進める。時雨はぎこちなく手を振り返した。無視はしなかった。
 迷いのない足取りで一番後ろにやってくる祐弥を暫し目で追った後、時雨は思い出したように音楽を止めてイヤホンを両耳から外した。バッグの中にしまう。
「一番後ろに座ってるの、珍しいね」
 時雨の隣に座って早々、祐弥が言った。彼が座ってから、バスのアクセルが踏み込まれる。
「塚原と桃瀬も乗るんだろ。だから」
「そっか。気を遣ってくれたんだね」
「通路挟んだり前後になったりしない方がいいと思っただけ」
「それを気遣いって言うんだよー。素直じゃないね」
 素直じゃないと祐弥に言われ、時雨は無言になってしまった。言葉が出てこない。いつまでも、素直になれない。素直にものを言えない。
 祐弥のいる右側をやけに意識してしまいながら黙りこくる時雨は、イヤホンを取ったことで耳に触るようになった自分の鼓動を聞いていた。
 しばらく祐弥に会っていなかった上に、久しぶりに会う時には見慣れている制服姿ではなく初めて見る私服姿である。どうにも胸が騒めいて仕方がない。ばったり会ったのならともかく、前日からそうだと分かっていたことであるはずなのに。
「昨日から楽しみにしてた池宮くんの私服姿、凄く良いね。クールに決めてくるのかと思ってたけど、意外にも緩めだったからギャップ感じてドキッとしたよー」
 急に黙ってしまった時雨を特に気に留める様子もなく、マイペースな調子で今度は服装の話をする祐弥。
 時雨は祐弥を見てしまった。彼が着ている、今の季節によく合っている半袖タイプのパーカーを注視する。そうしてから、そろそろと顔に視線を移動させた。
 目にした祐弥の表情にこれといった変化はなかったが、彼も時雨同様、顔に出にくいタイプである。その分、何でもずけずけと言ってみせる祐弥の言葉に、嘘はないはずだ。
 時雨は自分の私服を変に思われなかったことに安堵しながらも、それを口にできなかった。出てくるのはいつもの、捻くれたような言葉ばかりである。
「これしか良さそうなのがなかっただけ」
「これしか、が、大成功だね」
「……貰い物を、何も弄らずに着ただけだから、それはこの服をくれた従兄弟のおかげ」
「いとこ?」
「うん」
「いとこって、男?」
「男、だけど」
「うーん、それはあんまり面白くないかなー」
 微妙に低くなった祐弥の声に、時雨は自分の発言に何か問題があったのかと一瞬のうちに思考を巡らせた。
 流れから鑑みるに、従兄弟から貰ったことを言ったのが失敗だったのだろうが、でも、なぜ。
「池宮くん、今日、服、買いに行く? それしか良さそうなの持ってないなら、もう一着くらい買っておいても良いと思うよ」
 なぜなのかと考えている最中にそう提案され、時雨は反応が遅れる。聞こえた祐弥の声は、低くなったのは聞き間違いだったのかと思うほどに元通りになっていた。
「ファッションに関しては疎いから、何を選べば良いのか全然分からない」
「服は俺も一緒に選ぶよ。俺から提案しておいて、一人で悩ませるなんてことは絶対にしないから安心してね」
「……塚原や桃瀬には相談しなくても?」
「あの二人のことは気にしなくても大丈夫だよ。嫌がるどころか寧ろ喜んで付き合ってくれると思うし」
「喜ぶことはないだろ」
「喜ぶよー。何でも全力で楽しむ二人だからね」
「……分かった。誰も嫌がらないなら、行ってもいい」
「誰も嫌がらないよ。うん、決まりだね」
 昼を食べてからの予定が一つ立てられた。それが自分の服選びになるなどとは、時雨は考えもしなかった。
 その後はゆったりとした、静かな時間が流れた。
 寡黙で口下手な時雨にとって、何も喋らない、喋る必要のない時間はそれなりに大事だ。祐弥とであれば、その時間がよく設けられる。喋らなすぎるわけでも、喋りすぎるわけでもない、その塩梅がちょうど良かった。楽なのだった。
 心地良い揺れを感じながら、時雨は窓の外を眺めた。馴染みのある景色が通り過ぎていく。着実に、時雨たちの向かう目的地に進んでいる。
 一人であれば暇だと感じるこの時間も、隣に祐弥がいるだけで、不思議とそうだとは感じない。祐弥も同じ気持ちであればいいと思う。それが時雨の本心だった。
 時雨は祐弥を一目見る。彼は時雨と同じ方向を見ていた。外を見ているのだ。
 これは共に過ごすようになって気づいたことだが、祐弥は時雨といる時、全くと言っていいほどスマホを弄らなかった。SNSなどに関心がない時雨はともかく、祐弥までもがそうというわけではないはずだ。
 そんなことが、今更ながら気になってしまった時雨は、何気ない風を装って聞いてみた。
「高坂は、会話が続かなくなった時とかでも、スマホは見ないタイプなんだな」
 外を眺めていた祐弥が時雨を見た。目と目が合い、それから、深く考える素振りも見せずに、そうだね、と即座に頷かれる。
「池宮くんといる時に、スマホなんか見るわけないよ」
 断定され、時雨は面映ゆい気持ちになってしまいそうだった。祐弥も自分と同じように思ってくれているのではないかと期待しそうになる。
「……退屈じゃない?」
「退屈なわけないよ。池宮くんと過ごす時間は、俺にとって凄く大事なことだし、大事にしたいことでもあるんだよ。お互いに喋ってない時間もね。だから、スマホなんか触ってる暇ないんだよね」
 恥ずかしげもなくまっすぐ時雨を見て、スマホを見る時間よりも時雨との時間の方が大事だと言ってみせる祐弥にぐいぐい攻められ、時雨は自らその話を仕掛けたものの、あっという間に言葉が出てこなくなり、あっさりと負けてしまった。
 それでも、収穫はあった。祐弥もまた、喋らない時間を暇だとは思っていないということが知れた。
 気まずいと思っていないのなら、時雨だけが気楽でいるわけではないのなら、それで良かった。
 時雨は何も言わずに唇を閉じ、祐弥との間に満ちている落ち着いた静かな時間を、いつもよりもリラックスして過ごしたのだった。
 時雨たちを乗せたバスは順調に路線を進み、学校前の停留所で止まった。そこでは晴翔と龍樹が揃って待っていた。ドアという隔たりがなくなり、そこから乗り込んできた彼らの存在感が強くなる。
「祐弥、池宮、今日はよろしくな」
 一番後ろに座っていた時雨と祐弥を見つけた二人が、祐弥の隣に並んで座るなり声を揃えた。息がぴったりだと時雨は感心しそうになったが、晴翔と龍樹はそれが気に食わなかったらしい。
「おい、俺と息合わせてんじゃねぇぞ」
「たまたま合っただけに決まってんだろうが」
「二人とも、バスの中では言い合いして騒がないでね。迷惑だし恥ずかしいよ」
 バスに乗って早々、よくある二人の些細な口喧嘩が勃発しそうになり、それを祐弥がさりげなく止めた。
 公共の面前では放ったらかしにはせず、ヒートアップしないように上手く調整する祐弥は意外にもしっかりしていた。時雨では上がりかけた熱をすかさず冷まさせることなどできなかっただろう。
「あー、そうだよな。ごめんな。気をつける」
「俺も悪かった。つい、いつもの癖で」
 この時ばかりは晴翔と龍樹も口答えせず、素直に自身の非を認めて謝った。普段からテンションが高く、ずっと喋っているような活気あふれる自由奔放な二人ではあるが、自制はちゃんとできる人たちであった。
「ここではいつもの癖はやめてね。せっかく池宮くんが、通路を挟んだり前後になったりしないようにって一番後ろを陣取ってくれたのに騒がれたら、優しい池宮くんまで変な目で見られるよー」
 祐弥が時雨の名前を出したことで、晴翔と龍樹が少し前屈みになって時雨を見た。順に目が合い、嬉しそうな笑みを浮かべられる。純粋で、屈託がなかった。
「そこまで気にかけてくれたとか、ありがとうすぎる。池宮良い人すぎじゃね? 知ってたけど」
「ありがとう。池宮は優しいな。俺もこれは知ってたけど」
「別に俺は良い人でも優しいわけでもないし、感謝されるようなことをしたつもりもない」
 褒められ慣れていない時雨はつっけんどんに言い放ち、視線を逸らした。学校前の停留所を過ぎたことで、ここからはあまり見る機会のない景色に目を向ける。時雨は依然、愛想よくできなかった。
「凄くツンデレだ」
「それ思ったわ」
「池宮くんはかなりのツンデレだよー」
「やっぱり。前からその気はあったもんな」
「ツンデレ男子はモテそうじゃね?」
「好いてる感じのする人はちらほらいるな」
「ちらほらってなんだよ。モテてんじゃねぇか」
「いくらモテても、池宮くんは誰にも渡さないよ」
「そうそう、池宮は誰にも……、誰にも……?」
「うん、俺以外の誰にも渡さない」
 祐弥につられるようにして口にしかけた晴翔が途中で覚えた疑問に、彼は撤回したり誤魔化したりすることなく淡々と答えてみせた。その間、時雨は、一度大きく跳ねた心臓の音を聞き、ごくりと唾を飲み、できるだけ顔を見られないように余所見をし続けていた。
 心臓が痛い。心臓に悪い。どうしてそんなことを、平然と言える。
 胸を押さえてしまいそうになるのをぐっと堪え、何も感じていない、何も気にしていない風を装おうとする時雨は微動だにせずに無言を貫いた。反応するわけにはいかないという謎のプライドも働いていた。
「……なるほどな。やっぱりそういうことだよな。祐弥が池宮に積極的なのって」
「そういうことって……、そういうこと……? 本当に? マジで?」
「薄々そうかなとは思ってたけどな」
「マジか。マジでそうなのか。いやでも悪くなくね? 良い感じじゃね?」
「それは俺も同感だわ」
 晴翔と龍樹が何やら二人でこそこそと話しているが、そこに祐弥が割り込むことはなかった。
 やはり祐弥は、自身の発言の訂正などしない。至って冷静である。普段見ている調子である。それらの事柄一つ一つが、何も間違ったことは言っていないということを証明していた。
 龍樹の言うそういうことがどういうことなのか、二年生の初めの頃までの時雨であれば無関心さを発揮して理解しようとすらしなかっただろうが、今の時雨はその時の時雨とは違うのだ。全く分からないわけではないがために、身体が正直に反応しているのだった。
 高坂は、俺のことが。
 操られるようにして勝手に働いた思考を、時雨は慌てて端へ追いやった。
 本人からそう言われるまでは、信じないようにしている。肌を撫でられたりキスをされたりしても、安易には信じないようにしている。あれはただのスキンシップかもしれない。本当は、ただ、遊んでいるだけかもしれない。祐弥は人を掌握するのが上手いだけかもしれない。
 多少の期待はしても、期待しすぎるのは良くない、という考えを、時雨は密かに持っていた。相手に期待しすぎると、見えていなかった壁に跳ね返された場合の衝撃が、その分だけ大きくなってしまう。
 恋心の自覚はしても、祐弥の気持ちに自信は持てない。次第に、誰も自分のことなどと、自身を卑下するマイナス的な思考に陥りそうになる。それ故に、時雨は自ら行動を起こせないでいるのだった。存外、消極的な性格をしているのである。
 バスに乗り込んでから、声量は落としつつもずっと喋っていた晴翔と龍樹が急に静かになった。スマホを弄り始める二人を他所に、時雨と祐弥は何もせずに力を抜いてぼんやりとする。時雨の鼓動も、落ち着いたものになっていた。祐弥の顔は、終始涼しげだった。
 その後は何事もなく無事に終点に辿り着き、四人は順にバスを降りていく。座っていた場所的にも、時雨が一番最後であった。定期では間に合わない不足金を投入口に入れ、運転手に向かって会釈をしながら礼を言い、降車する。
 冷房が効いていたバスから吐き出されると、瞬く間に冷気を奪うような外の暑さに気が滅入りそうになった。
「相変わらず外は暑っついな」
「すぐ汗かきそうだわ」
「うん、暑いし、早く涼しい場所で昼食べに行こうよ」
「そうだな。行くか。場所はゲーセンの近くの飲食店でオッケー? ちょっと歩くことにはなるけど」
 晴翔が先陣を切って歩き出す。その隣を龍樹が、彼らの後ろを時雨と祐弥が並んで歩いた。四人が横一列になってしまうと通行の邪魔になることもあるため、時雨たちは自然と二列で固まるようになっていた。
 歩きながら、時雨は辺りを見回した。地図で見れば時雨の住む町と隣接してはいるが、滅多に足を運ぶことがないため、ここは最早未知の市であった。
 車も人も建物も、当然ながら多い。そこかしこから絶え間なく聞こえてくる様々な音に、勝手に急かされているような気分になる。ゆっくりのんびりしていられないような雰囲気は少し苦手かもしれないと、時雨は顔に出すことなく思った。
「毎日暑いね」
「高坂は全然暑そうに見えない」
「普通に暑いよー」
 隣を歩く祐弥に時雨は歩幅を合わせ、彼と時折そのような短い会話を交わしつつ、迷いの見えない自信のある歩調の晴翔と龍樹に遅れを取らないようについていく。
 前の二人は二人で盛り上がっていたが、たまに後ろを振り返って声をかけてくれることがあった。その内容としては、夏休みの課題のことだったり、担任教師やクラスメートに関する良い話だったり、それぞれの趣味のことだったり、どの話題も平和的なものであった。
 そうしてコミュニケーションをとっているうちに、ゲームセンターや大型スーパー及びいくつかの飲食店が同じ敷地内にある、ちょっとした遊び場に到着した。
「ここのピザ、食べてみたくね?」
 晴翔がある飲食店を指し示す。どうやらそこではピザが食べられるらしい。
 ピザ、と時雨は口の中で呟いた。食べる機会はそれほどないため、多少なりとも興味はあった。
「ピザいいな。一気に食べたくなったわ」
「二人はどうよ。ピザ食べたくね?」
「俺はみんなに合わせるよ」
「池宮はどう?」
「……興味はある」
「食べたいってことだな」
「そうは言ってないだろ」
「素直になりやがれ。このツンデレめ」
「ツンデレツンデレ」
「あんまり弄らないでやってよー。ツンデレな人にツンデレって言ったらもっとツンデレになるじゃん。まあ、可愛いから良いけどねー」
「……可愛いわけないだろ」
「ほら、可愛い」
「祐弥が一番弄ってんじゃねぇかよ」
「ドSだなー」
 可愛いなど聞き捨てならなかった。自分が可愛いわけがない。祐弥は揶揄しているだけだ。本心のはずがない。自分に可愛い要素などない。
 時雨は初めて言われた可愛いという言葉に動揺してしまいそうになったが、必死に取り繕った。ただの揶揄だ。そう言い聞かせる。こんな愛想のない人間が可愛いなど、おかしい。
「かっこよくて可愛いよ、池宮くんは」
 ピザを食べられる飲食店に入っていく晴翔と龍樹には聞こえない程度の声で、祐弥に耳打ちのようなことをされる。本音だと思わせるための策かのようだった。
「どっちも違うだろ」
「違わないよ」
「俺はかっこよくも、可愛くもない」
「池宮くんは否定しても、俺は意見を変えるつもりはないよ」
「おい、祐弥、池宮、いつまでも突っ立ってないで早く来いよ」
 出入り口で振り返った晴翔に声をかけられ、手招きされる。時雨と祐弥の会話は、そこで中断された。続けても、意思の強い祐弥が引くことなどないと思った。分からせられ、先に折れるのは、いつも時雨の方だった。
 店内に足を踏み入れた。店員に人数を確認され、席に案内される。昼時だからだろう、客はそれなりに多かった。そんな中で待たずに済んだのはラッキーだったかもしれない。
「何にするかな」
 誰よりも先にメニュー表を開き、何種類もあるピザを選び始める晴翔。彼の隣で龍樹も同じものを見ていた。
 席は当たり前のように、晴翔と龍樹、時雨と祐弥がそれぞれ隣同士だった。誰もそこに疑問は感じていない。時雨も受け入れてしまっている。最も違和感を覚えない位置関係であった。
「池宮くんはどれにする?」
 祐弥がもう一つあるメニュー表を見せてきた。時雨はざっと目を通す。これはおいしいのだろうか、というような、味の予想ができない具材が乗せられたいくつかのピザの写真と目が合ったが、やはり普通の、何も凝っていない一般的なピザに落ち着いた。ピザと言えばの具材がてんこ盛りである。
「俺は普通のでいい」
「秒で決められるのかっこいいね」
「かっこいい要素なんかどこにもないだろ」
「すぐ決断を下せるのはかっこいいよー」
「それなら高坂にだって当てはまると思う」
「俺は結構迷うタイプだよ」
「何でも即決する人が言う台詞とは思えない」
 祐弥が何かしら考えあぐね、唸っているような姿を時雨は見たことがないのだった。優柔不断だと言われても、確かに、とはならないタイプである。
「池宮くんの中では、俺は何でも即決する人なんだね」
「……違うなら謝る」
「謝らなくて良いよー。俺のことなら何でもお見通しみたいで凄く嬉しいことなんだから」
「別にお見通しなわけではない。何となく、そう思っただけ」
「うん、そっか。俺も池宮くんのことなら何でも見通せるように頑張るよ」
「そんなこと、頑張らなくていい」
 時雨は唇を引き結んだ。隣の祐弥はいつもの如く飄々としている。その目は時雨のことを、既に何でも知っているかのようだった。
 ただでさえ、祐弥には見透かされていると感じることがある。今以上に感情を読み取る努力をされ、もっと内面に踏み込まれてしまえば、彼に顔向けできなくなってしまいそうだ。
「俺はこれにするね」
 祐弥がメニュー表に載っている写真を指差した。コーンがたくさん乗せられているピザである。見た感じやはり、視線を彷徨わせてどれにするか迷うような素振りはなかった。時雨と会話をしながら決めたのだとしたら、器用なものである。
 メニュー表を閉じ、元あった場所に戻した祐弥が、対面に座る、まだ決められていない晴翔と龍樹をさりげなく促した。
「こっちは決まったよ」
「二人もう決まったのかよ」
「うん、決まったよ」
「祐弥も池宮も悩まなさすぎるな」
「一つに決められないなら、食べたいの全部頼んでみたらいいよ」
「頼んで食べ切れなかったら悪いだろ?」
「大丈夫だよー。俺も食べるし、池宮くんも食べるから」
 呑気に話を聞いていたところで巻き込み事故のようなものを食らい、時雨は思わず祐弥を見た。目が合った。平然としている。食べると信じて疑っていない顔であり目つきであった。
 自分はそんなに食べられない、ピザ一枚で十分空腹は満たされると時雨は反論しようとしたが、声を発する前に話がどんどん進んでしまった。一瞬のタイミングを掴み損ね、あっという間に三人のペースについていけなくなる。
「本当に頼んだの全部食べられるのかよ」
「食べ盛りの男子高校生の口が四つもあるんだからどうにかなるよ」
「楽観的すぎんだろ」
「晴翔と龍樹は運動部だし、元々よく食べるし、ピザのサイズもそんなに大きくはないと思うから、二枚とか三枚とか全然余裕だよ」
「簡単に言ってんじゃねぇぞ」
「だから、遠慮せず食べたいの全部頼んでみたらいいよ」
「おい、聞いてんのか?」
「もう店員さん呼ぶから、来る間に二人は決めてね」
「あ、おい、こっちはまだ」
 制止も聞かず、祐弥が容赦なく呼び出しボタンを押した。鳥の囀りのような音が響く。
 ああだこうだ言っていた晴翔と龍樹が、すぐに店員が来る状況にさせられ大慌てで注文品を決め始めた。その様子を眺める祐弥の口元が僅かに持ち上がっている。慌てる二人を見て楽しんでいることが、その口元で見て取れた。
 店に入る前、龍樹がちらっと言っていた通り、これは完全にドSの所業であった。思い返せばこれまでの言動にも、その気が全くないことはなかったように思える。
 呼ばれてすぐに駆けつけて来た店員に、時雨と祐弥が先に注文した後、ギリギリまで悩んでいた晴翔と龍樹が続いた。祐弥に煽られたからか、各々二枚注文していた。計六枚である。
「思い切ったね」
「煽った奴が何言ってんだ」
「そうだぞ。祐弥が変に煽って急かすから」
「でも我慢せず頼めて良かったじゃん」
「うわ、祐弥ってこんな嫌な性格してたか?」
「池宮がいるからだんだん楽しくなってるんだろ」
「そうだね。今凄く楽しいよ」
「珍しくテンション上がってんのか?」
「上がってるね。池宮くん様々だよ」
「その肝心な池宮はどうよ? 楽しい?」
 不意に龍樹に話を振られ、三人の会話に割り込むことなくただ静かに聞いていただけの時雨は咄嗟に言葉が出てこなかった。
 返事を待つ三人に注目されながら、楽しいかどうか尋ねられた時雨は、胸に芽生えている自分の感情を急いで整理する。
 今日はまだ始まったばかりだ。これからピザを食べようとしている段階で、それ以外のことはまだ何もしていない。仲良くなった晴翔と龍樹と、ひっそりと意識するようになった祐弥と、一緒にいるだけである。話しているだけである。話を聞いているだけである。でも。それが。それだけのことが。たったそれだけのことが。本当は。とても。
「……楽しい」
 そうぽつりと呟いて、時雨は視線を落とした。初めて素直に感情を吐露したような気がした。胸の中心が熱かった。
 時雨は今、確かに、楽しいと思っている。自分が会話に参加していなくとも、同じ空間で三人の会話を聞いているだけで、それこそ、三人と一緒にいるだけで、十分楽しいと思っている。思っているのだ。
「本当? 本当に? 嬉しすぎるな。俺も四人でいるの楽しい」
「俺も楽しい。今日来てくれて良かったわ。まだまだ楽しもうな」
「楽しもう」
 一瞬だけ素直になった時雨を下手に揶揄うことはせず、前のめりになってにこにこと嬉しそうに満面の笑みを浮かべる晴翔と龍樹に、時雨は曖昧に頷く。ぼそっとではあるが、言葉は素直に吐けたとしても、態度はまだ素直になり切れないのだった。
「照れてるの可愛いねー」
 笑っている二人と違って、冷静な祐弥が余裕そうに口にした。時雨は祐弥を見たが、即座に目を逸らしてしまった。
「……別に照れてない。可愛くもない」
「うん、そうだね。可愛い」
「だから……」
 俺は可愛くない、と祐弥に反発しようとして、不意に両頬を包まれた。祐弥の両手だった。無理やり目を合わせられる。
 触れられた箇所に一気に熱が集中した。容赦なく喰ってきそうな祐弥の眼差しに、時雨は言葉を飲み込まされてしまう。
「可愛いよ。キスしたいなって思ったくらいには」
 親指で、閉じた唇をなぞられる。祐弥の唇の感触が蘇ってきそうだった。そこにも熱が集まるのを感じた。
 周りに誰もいなかったら。二人きりだったら。俺はまた、高坂と。
 時雨は想像した。また、祐弥とキスをするのを、想像した。想像したが、嫌だとは思わなかった。時雨はその行為で、恋心を自覚したのだ。祐弥であれば、抵抗なく、受け入れられた。
 唇を触られていることで何も発せず、秒で言い負かされてしまった時雨は、祐弥の両手が離れるまで微動だにできなかったのだった。
「……えっと、ごめん、二人って、もしかして、もう既に、そういう関係だったりすんの?」
「思った。距離感というか雰囲気がそれに近いよな」
 男同士で何をしているのか、という引き気味の空気を出すこともなく、純粋に疑問を覚えているだけの様子である晴翔と龍樹が小首を傾げる。
 するりと祐弥の手は離れたものの、時雨はより一層、彼らの顔を見られなくなった。対して祐弥は、あまりにも平然としていた。
「そういう関係に見えたなら俺は嬉しいけど、残念ながら違うよ。まだね」
「まだ、ってことは、いつかはそうなるってことじゃねぇか」
「そうだね。いつかはなるよ」
「断言すんのかよ。すげぇ自信だな」
「なんか、いろいろ分かった気がするわ。祐弥、池宮と本当にそういう関係になったらちゃんと報告しろよ。二人の親友として全力で祝ってやるから」
「うんうん、そうだぞ」
「どうしようかなー」
「おい、そこはしっかりしやがれ。秘密主義なところ発揮すんなよ」
 目の前で見せられた光景に引きもせず、否定的でもない晴翔と龍樹のおかげで気まずくなることはなかったが、時雨は密かに高鳴る胸の鼓動を抑えられなかった。
 人目があろうと堂々と、まるで見せつけるように、分からせるように攻める祐弥と、それを突っぱねられず受け入れてしまう時雨を見れば、二人が互いのことをどう思っているのかは一目瞭然であった。
 それでもまだ、時雨は自信が持てなかった。持つことに、抵抗があったのだ。
 祐弥に触られた頬や唇に感じる熱が落ち着き始めた頃、注文したピザが順に全て届いた。美味そうだと目を輝かせる晴翔と龍樹が早速手をつける。時雨も気を取り直して、空腹を満たしていった。
 祐弥が言っていた通り、ピザのサイズはそれほど大きくはない。なんだかんだ言いながら、十分食べ切れそうな量であった。
 食べる合間に一言二言会話を交わす祐弥たちを前に、やはり時雨は自分からはそこには入らず、普通のピザを黙々と食べ続けた。味は申し分なく美味しかった。
 一足先にピザを平らげた時雨は、店員が持ってきてくれていた水を飲み、ゆっくりと息を吐いた。そして、ちらりと隣を見遣る。コーンの乗ったピザを食べている祐弥の横顔が時雨の瞳に映る。いつ見ても祐弥には、時雨にはない余裕があった。指先一つをとっても、その余裕があるように見えた。
 手にしていたピザの一切れを食べ切った祐弥が、指についたソースを舌先で舐め取るのを時雨は目撃する。ただ舐めただけである。それだけであるはずなのに、見てはいけないものを見てしまったようで、時雨は咄嗟に目を逸らしてしまった。空になっている目の前の皿を見て、再びグラスに手を伸ばして水を飲む。
「池宮くん、食べるの早いね」
「……別に、普通だろ」
「結構早いよー。そんなに美味しかったんだね」
「それは、まあ、うん」
「そっか。良かったらこれも食べてみる?」
 祐弥が皿を差し出してきた。その上にはピザが一切れだけ残っている。コーンがたくさん乗っているピザ。さっきまで祐弥が食べていたピザと同じもの。その一部。
「それは高坂のだろ。俺はいい」
「遠慮しなくていいよー。美味しいから食べてみてよ」
「美味しいなら高坂が食べればいいだろ」
「美味しいから池宮くんに食べてほしいんだよ」
「俺は別に」
「仕方がないから俺が食べさせてあげるよ」
「食べさせてあげる……?」
 非常に強い既視感を覚えた。前にもこんなことがあったような気がする。いつだったか、と考える間もなく、ピザを手にした祐弥に時雨は攻め立てられてしまった。
「池宮くん、口開けてね」
「ちょっと待て、高坂」
「うーん、待ってあげないよ」
「食べる。自分で、食べるから」
 強行突破してこようとする祐弥に、時雨は毎度の如く押し負けてしまった。食べさせるのであればともかく、食べさせられるのだけは避けたいことである。
 自分で食べると時雨が折れると、ピザを皿の上に戻した祐弥が、食べてね、と時雨にそれを寄越した。
 時雨は大人しくピザを手に取り、そろそろと口に入れた。伸びたチーズを切り、よく噛んで飲み込む。思っていた以上に美味しく、残りもしっかり食べ切ってしまった。
「美味しいよねー」
「……うん」
「いろいろ食べてみる? この辺とか」
「それ俺のじゃねぇか。全然良いけども」
「ほら、晴翔と龍樹も良いって言ってるから、一切れずつくらい貰えばいいよ」
「俺はまだ良いって言ってないだろ? 良いけど」
 半ば強制的に二人から許可を取った祐弥が、食べようと促してくる。そんなに食べられないと時雨は思っていたが、意外とまだ入りそうであった。皿に手を伸ばす祐弥もその調子である。晴翔と龍樹が良いと言うのなら、食べてみたい気もした。
 まだ手をつけていないピザを切り分けた祐弥が、一切れずつ時雨と自分の皿に置いた。時雨は晴翔と龍樹を見遣る。
「本当に貰っても?」
「いいよ。池宮細いしどんどん食べろ食べろ」
「そうだぞ。池宮はもっと食え」
「……じゃあ、遠慮なく貰う。ありがとう」
「ありがとねー」
「祐弥はもっと遠慮しろよ」
 龍樹に突っ込まれる祐弥を気に止めることなく時雨は皿を引き寄せ、変わった具材が乗っているピザを再び黙々と食べた。見た目では美味しいのかどうか分からなかったが、食べてみると意外と時雨の舌に合う味がした。メニュー表にあるピザで実際に美味しくないものはないのだろうが、祐弥から貰ったピザと同様、この二つも間違いなく美味しいピザであった。
 祐弥の真似ではないが、時雨も指に少しついてしまったソースを舐め取った後、水で喉を潤した。息を吐く。もう満足である。後は三人が食べ終わるのを待とうと、時雨は口を閉ざして目を上げた。晴翔と龍樹が二枚目のピザに手をつけている。隣の祐弥は残り二、三口くらいだった。
 のんびりと食事を堪能する三人を、時雨はぼんやりと眺める。美味しそうに頬張る晴翔に、一口は大きいが丁寧に食べる龍樹。口に入れて噛んで飲み込んでを淡々と繰り返しながら冷静に食べ続けている祐弥。三者三様の食べ方があるが、そのどれをとっても不快に思うことはなかった。どこまでも、一緒にいて心地良いと感じる人たちである。
 頼んだものを食べ切れるのかと注文する前に懸念していたものの、それは面白いくらいに取り越し苦労だった。ピザのサイズがそれほど大きくはなかったということもあるだろうが、誰も苦しむことなく全てを完食することができたのだ。時雨の方はそのつもりではなかったスイーツまで頼み、それも全部綺麗に食べ切ってしまうくらいには誰も彼も腹に余裕があった。時雨もそうだった。自分のことであるはずなのに、こんなに食べられるとは思わなかった。
「めっちゃ美味かったな」
「良い感じに満たされたわ」
「俺もだよ」
「池宮はどう?」
「俺ももう十分」
「良かった」
「それじゃあ、そろそろ出るか」
 全員が満足したところで、時雨たちはそれぞれ支払いを済ませて飲食店を後にする。出入り口付近では、待っているのであろう人たちが多数いた。大盛況だった。
 外に出ると、更に強くなった日差しが肌に突き刺さるのを感じた。昼を過ぎたくらいの今の時間帯が一番のピークだろうか。
「何これ暑すぎんだけど。やばくね?」
「暑いけど、あんまり暑い暑い言うなよ」
「息吐くように暑いって出る。暑いからさ」
「我慢しろよ。俺も言わないようにするから」
「暑いねー」
「おい、言った側から何言ってんだ」
 時雨抜きで繰り広げられる三人のやり取りは、まるでコントを見ているようである。そこに混ぜてもらうよりも、外で聞いている方が楽しい会話だった。発言が不器用な時雨が下手に割り込んでしまえば、合っている息を乱れさせる原因になってしまうだろう。
 寡黙な時雨は暑いも何も言わずに、ただ太陽の眩しさに目を眇めながら彼らの傍らに立っていた。
 昼を食べてからのことはノープランだと予め祐弥から知らされている。そこから何かしらの計画を立てはしたのだろうかと思ったが、誰も先陣を切って動き出さないことから、どうやら何も決めてはいないらしい。その先の予定は空白である。
 何もしなくても、どこかで話すだけでも、気分は上がり、心も躍るのかもしれないが、外で過ごすには暑すぎる。
「とりあえずどっか入ろう。立ってるだけで汗かきそうで無理」
「それならそこのスーパーに行かない? 服買いに行きたいんだよね、池宮くんの」
 祐弥の提案に名前を出され、時雨はふとバスの中での会話を思い起こした。着て来た服は従兄弟からの貰い物だと言えば、少し声を低くした祐弥。そこから服を買いに行こうという話になっていた。
 今の今まで話題には出さなかったものの、ずっと切り出すタイミングを見計らっていたのだろうか。
 時雨から行きたいと要望を出すようなことはないため、祐弥が言わなければその場限りのことで有耶無耶になっていたに違いない。時雨はそうなっていたとしても構わないという軽い考えであった。
「池宮の?」
「うん、池宮くんの。今着てる服は貰い物みたいだから、せっかくだし買いに行こうっていう話をバスの中でしてたんだよね」
「……なるほどな。どうせ買いに行くなら専門店の方がよくね?」
「種類が多すぎると逆に迷いそうじゃん。そこで気に入ったのがあれば買えばいいし、それがなかったら専門店に行ってみればいいかな」
「あー、それもそうか。俺らも服に詳しいわけじゃないし、たくさんありすぎても困るな」
「よし、そうと決まったら早く行こうぜ」
「俺もなんか良いのあったら買ってみるか」
 揃って歩き出す晴翔と龍樹の背中を時雨は黙って見つめた。
 バスの中で祐弥が言っていた通り、時雨の服を買いに行くと言っても、二人は全く嫌がっていなかった。嫌な顔一つしていなかった。それが普通のことなのだろうか。
「池宮くん、行こう」
 祐弥に促され、突っ立っていた時雨はこくりと頷き、彼と共に歩みを進めた。
 人の波を避けながら、大型スーパー内にある衣料品コーナーまで行き、ハンガーにかけられた多くの服を適当に見て回る。先に行っていた晴翔と龍樹とは一時的に別行動となっていた。
「池宮くんはどんな服が良い?」
「どんな服……」
 時雨は復唱し、暫し考え込んでしまった。家では万年ジャージで済ませるくらいには服装に無頓着なため、目の前にある服をいくら見ても、何が良くて、何が自分に合うのか時雨には分からなかった。
「拘りとか特にないなら、俺が池宮くんに着てほしい服を選ぶよ」
「……何が良いのか俺にはさっぱりだから、もう任せる」
「うん。試着したらそのまま買って、この後の時間は俺が決めた服で過ごしてね」
 薄く微笑ってそう言った祐弥が、早速服を探し始めた。時雨は無言のまま祐弥についていく。決めているのは自分の服ではないのに、祐弥の顔は真剣そのものだった。
 服を見てすぐこれじゃないとばかりに切り捨てていく祐弥の行動を、時雨は何度も目にした。もしかしたらもう既に、頭の中でコーディネートができあがっているのかもしれない。時雨は漠然と考えた。
 着てほしい服。祐弥の中で自分はどのような服を着ているのか。時雨は気になった。気になったが、それは何れ分かることである。故に、今すぐに尋ねるようなことはしなかった。
 それから数十分後、集中して服を選んでいた祐弥が、見つけた二着を腕にかけ、最後に黒のベルトを手に取って時雨を振り返った。
「池宮くん、これ、着てみてよ」
 祐弥に全て手渡され、試着室へ案内される。近くで作業していた店員に使用することを伝えて許可を貰い、時雨はあっという間もなくその中へ押し込まれてしまった。
 時雨は試着室で一人、服とベルトを持ったまま暫し立ち尽くしてしまう。側の壁には全身鏡が備えつけられており、見ると、そこに映っている自分自身と目が合った。
 時雨の細身の体型を隠すような、全体的にオーバーサイズで緩めの服は、従兄弟からの貰い物。対して、今現在手に持っている服は、祐弥が選んでくれた物。どちらにときめいてしまうかは、火を見るよりも明らかだった。
 時雨は唇を引き込み、着ている服を脱いで新品の服を試着した。色は従兄弟のそれと一緒だったが、サイズが敢えての大きめではなかった。ちょうどいいくらいである。ズボンに関しては腰の部分が少し細めで、裾にかけて緩く広がっているタイプのものだった。
 時雨は改めて、鏡で全身を見てみた。似合っているのかどうか分からない。何かが違うような気もする。
 違和感を覚えはするが、それがどこなのか判断がつかない時雨は、祐弥に助言を求めようと試着室の仕切りを開けた。
「高坂、これ、着方合ってる?」
 外で待っていた祐弥に試着した服を見せ、時雨は首を傾げた。祐弥が時雨の全身をまじまじと見てから口にする。
「ごめん、言ってなかったね。タックインしてみてよ」
「タックイン?」
「うん。服の裾をズボンの中に入れる着方のことだよ」
 ファッションに関しては全く知識のない時雨は、言われるがままタックインというものをしようとその場でベルトのバックルを外した。服を持ち上げたことで肌が僅かに露出する。
「池宮くんは変なところで無自覚だよね」
 脈絡もなく言われ、顔を上げたところで祐弥に仕切りを閉められた。
 裾を入れるだけのため開けっぱなしでも気にしていなかったが、それくらいのことでも閉めた方がいいようだ。それもそうかと思う。他の客もたくさんいるのだ。迷惑はかけられない。
 おかしなところで鈍く自覚のない時雨は、服の裾を入れてベルトを締め直した。鏡を見る。ついさっき覚えた違和感はない。その正体は、出すのが当たり前だと思っていた裾だったのかと、時雨はそれだけのことに感銘を受けてしまった。
 祐弥に閉められたばかりの仕切りを開ける。気づいた祐弥が時雨の姿を目にし、一言断って手を伸ばしてきた。ズボンの中に入れた裾の微調整をした後に、時雨の骨盤の辺りに触れる。
「相変わらず腰が細いね」
「それ今、関係ないだろ」
「関係あるよ。この腰の細さを生かす服を着せたいってずっと想像してたんだから」
 祐弥がまるで煽るように、骨盤から腰に手をするすると移動させた。肌に直接触られているわけでもないのに、時雨はその時の感覚を思い出してしまいそうになった。
「俺の予想以上に良い仕上がりになってるよ。かっこいいね」
 祐弥が顔を上げた。視線が絡み合った。口元が微笑っているように見えるが、その真意は読めなかった。
 時雨は祐弥の腕を掴んで軽めに押し退けながら、ふいと顔を背けた。そのようなせめてもの抵抗を見せるのみで、何も口にはできなかったのだった。人目がある場所で何をしているのかということすら、言えなかったのだった。
「凄く、俺の好みだよ」
 吐息混じりに時雨の耳元で囁いた祐弥が、するりと手を離し、誰かを探すように首を動かした。
「店員さん呼んで来るから少し待っててね」
 淡々とそう言い、祐弥がその場を離れていく。時雨はうんともすんとも言えずにこくんと頷いた。祐弥の余裕が崩れるようなことは、一向になかった。
 時雨は祐弥の吐息と声を直に感じた耳を押さえてしまいそうになるのをぐっと堪え、ごくりと唾を飲み込みながら俯いた。身体に熱がこもっていた。
 こんなことでいちいち熱くなるなんて、恋というものはつくづく厄介だ。高坂は普通なのに、俺だけが。
 試着室の前で暫し悶々としてしまう時雨の元に、店員を連れた祐弥がすぐに戻ってくる。
 黙って祐弥と店員の話を聞いていると、どうやら時雨の試着した服をそのまま購入し、着て帰ってもいいかという交渉をしているようだ。服を選ぶ前に祐弥がさらっと、そのような趣旨のことを言っていたことを時雨は思い出した。
 祐弥の話を聞いた店員は快く了承し、時雨に目を向ける。にこりと笑顔を見せられた。営業スマイルだろうか。判別がつかない。
 時雨は笑顔の店員に促され、あれよあれよという間に試着した服の代金を、あろうことか祐弥に全額支払われ、予想外のことに困惑しているうちにタグも全て外され、元々着て来ていた服を丁寧に袋に入れられ、同じく丁寧に渡された。店員に礼を口にしつつも、時雨は呆然と立ち尽くしてしまう。一連の流れが終わるまで、祐弥と店員の勢いに気圧されてしまった時雨は、一言も突っ込めなかった。
 しばらくして冷静になった時雨が口を開き、財布から一万円札を出して祐弥に渡そうとしたのは、別行動をしていた二人と合流しようと、祐弥と衣料品コーナー内を歩き回っている時だった。
「高坂、これ、払ってくれた服代」
 半ば押し付けるように一万円札を祐弥に渡そうとするも、祐弥は少しも受け取ろうとせず、逆に押し返してきた。
「いいよ、そんなの。それに一万もしてないよ」
「よくないだろ。高坂が着るために買った服じゃないのに」
「選んだのは俺だし、池宮くんの意見も聞かずにレジに行かせたのも俺だよ。それで池宮くんに払わせるのは、なんか悪いことしてるみたいじゃん」
「確かに意見は聞かれてない、けど、別に俺は、この服が嫌とは言ってない」
「良いとも言ってないよね」
「……言ってないだけ」
「そっか。気に入ってくれたんだね」
「……今そういう話をしてるわけじゃないだろ」
 あまりにも自然に話をすり替えられ、おまけに主導権も握られ、時雨は流されまいと咄嗟に話を戻そうとしたが、口で祐弥に勝てるはずもなく、あっという間に丸め込まれてしまった。時雨と祐弥の間を行ったり来たりしていた一万円札は、何度目かの往復の後に、結局時雨の財布の中に舞い戻ってしまったのだった。
「その服は俺からのプレゼントってことで受け取ってよ」
「……高すぎるだろ」
「奮発したよー」
「……なんで、そこまでできる?」
「そんなの、池宮くんは俺にとって、特別な人だからだよ」
 当たり前のことだとばかりに即答した祐弥に、時雨は上手く言葉を紡げなくなった。
 まだ高校生である時雨たちにとって、服の値段は決して安くはない。故に、自分が着るわけでもない他人の服に金を出すなど、そう簡単にできることではなかった。いや、普通はできない。恋人同士ならまだしも、時雨と祐弥はそのような間柄ではないのだ。
 それなのに、どんな理由や状況であれ、硬貨数枚では済まない服を、千円以上の紙幣を出して買ってくれた祐弥に、まずは感謝を示さなければと時雨は祐弥を呼び止めた。
「高坂、いろいろ、ありがとう」
「うん。お礼は池宮くんからのキスでいいよ」
「……するわけないだろ」
「だよね」
 するわけないと言っておきながら、時雨は祐弥の唇をちらりと見てしまった。そして、僅かに目を伏せ、唇を引き込む。
 するわけない。されるわけない。こんな人目のある場所で。俺も。高坂も。
 唇を意識してしまいそうになりながら、時雨は祐弥と歩き、別行動をしていた晴翔と龍樹とようやく合流した。二人はスポーツウェアを見ていた。見ていただけで、何も購入はしていないようだ。
「うわ、すげぇ、池宮の服が変わってんじゃねぇか」
「腰の細さが凄く際立ってんな。何よりスタイルが良すぎだわ」
 晴翔と龍樹が上から下まで舐め回すように見て言った。時雨はどのようなリアクションをすればいいのか正解が分からず、無言を貫いてしまう。それでも、二人の態度は何も変わらなかった。
「じろじろ見過ぎだよー。池宮くん困ってるよ」
「ごめんごめん、そうだよな。あんまじろじろ見られたくはねぇよな」
「いや、でも、これは思わず見てしまうくらいには似合ってんだよな」
「晴翔と龍樹であっても、池宮くんを渡すつもりはないよ」
「分かってるって」
「俺まで龍樹と一緒にすんじゃねぇ」
「何言ってんだ。じろじろ見てたのは一緒だろうが」
「それだけじゃねぇか」
「だから祐弥が牽制したんだろ?」
「池宮くん、二人のことは放って置いて行こう」
 仲が良い故の言い争いを始める二人を放置しようとする祐弥が、時雨の返事を待たずに手を掴んで歩き出した。その手を振り払ってしまうような情を祐弥には抱いていない時雨は、どこへ向かうのか分からなくとも、大人しく彼について行かざるを得なくなる。
「あ、おい、待て祐弥、置いてくなマジで」
「合流した意味なくね?」
 祐弥に置いて行かれたことにすぐ気づいた晴翔と龍樹が、それぞれ文句を言いながら後を追ってきた。
 時雨は彼らを振り返るも、祐弥は彼らを振り返らない。彼らではなく、一歩後ろを歩いている時雨を振り返ったのだ。
 目が合い、唇に緩く弧を描いた祐弥が、滑らかな動作で指を絡めてくる。飄々としていて、余裕綽々とした態度は崩れない。しかし、そこから伝わるものは、確かにあった。
 時雨は無言で受け入れる。人目があろうと、抵抗せずに受け入れる。それが、時雨の出した、答えだった。手のひらから全身へ熱が広がり、胸が酷く、高鳴っていた。


「今日はありがとな。めちゃくちゃ楽しかったわ」
「うんうん、楽しすぎたな。夏休み中にまたこのメンバーで遊べたら遊ぼうな」
 またな、ばいばい、と手を振り、学校前の停留所で止まったバスを降りていく晴翔と龍樹を見送る。
 バスの外でも、時雨たちに手を振ってみせる二人に、ぎこちないながらも同じ動作で応えた。隣で祐弥も手を振っていた。最後まで、外の二人はにこにこと笑っていた。
 バスが進み、降りた二人の姿が見えなくなる。時雨はゆるゆると手を下ろした。
 あっという間の一日だった。そう思えるくらいには、時雨も楽しんでいた。またこのような時間を過ごせたらと次を期待してしまうくらいには、柄にもなく気分が上がっていたのだ。
「楽しかったね」
「……うん」
「晴翔はまたこのメンバーでって言ったけど、今度はこっそり俺と池宮くんの二人だけで遊ぼうね」
「……それ知ったら怒りそう」
「怒らないよー。デートは二人でするものじゃん」
「デート……?」
「デートだよ。俺がしてるのは、デートの誘いだよ」
 恥ずかしげもなく断言する祐弥に、時雨は僅かに目を泳がせる。もう隠す気などなさそうな祐弥の物言いに、気持ちに確信を持たれているのではないかと思わされた。
「……まだ、デートするような、関係じゃないだろ」
「そうだね。まだ違うね。まだ」
 まだ、と祐弥は強調する。まだ、時雨と祐弥は、デートをするような関係ではなかった。
 どちらもまだ、何も言っていないのだ。感情を隠し切れず態度に出てしまっていても、まだ、何も言っていないのだ。言えていないのだ。
「まだ、俺と池宮くんは友達だから、このデートの誘いは、一歩進んだ関係になった時の予約だね」
「気が早すぎるだろ」
「そんなことないよ」
「まず、進めるかどうか、分からないだろ」
「うーん、これだけダダ漏れで俺の望む道に進めなかったら、池宮くんは役者になった方がいいね。きっとイケメン俳優として人気になるよ」
 祐弥を試すようなことを口にしてしまうと、最大級の皮肉を返された。そのずばずばと無遠慮に切りつけるような相変わらずの発言で、完全に気づかれていることを悟る。
 時雨は役者にはなれない。同時に祐弥も、自分と同じように役者にはなれなくていいと時雨は思った。今までの言動全部が演技だったなどと言われてしまったら、一瞬で目の前が真っ暗になってしまうのが容易に想像できる。
「……その言葉、そっくりそのまま返す」
「うん。そっくりそのまま、俺の都合の良いように受け取るね」
 ちら、と目を合わせた。祐弥が口元だけで妖しく笑んだ。時雨は顔を逸らし、口を閉ざす。静寂が、訪れる。しかし、気まずくは、なかった。
 ほぼ答えに近いヒントは、手の届く距離に大量に転がっている。それらは祐弥が地道に積み上げてきたものばかりであった。
 ヒントを手繰り寄せた後は、分かり切っている答えを書いて空白を埋めるだけだったが、時雨はなかなか埋められなかった。祐弥の方も、なかなか埋めてこなかった。まだこのタイミングではないと本能的に思っているかのようで、一向に答え合わせができないでいる。
 今だと思える瞬間が来ないまま、バスはいくつもの停留所を過ぎていく。時雨は隣に祐弥がいながら、だんだん眠気に襲われるようになっていた。起きていなければ、ここだというタイミングを逃してしまうだろうに、走行中に感じる微かな揺れや車内に響くアナウンス、停車ボタンを押す音、ドアの開閉音、そして何より、隣にいる祐弥の醸し出す緩い雰囲気が、徐々に身体の力を抜けさせるのだった。
 普段から休日は出歩かずに家で大人しくしている時雨が、今日は外に出ていつもよりも喋り、歩き、楽しんだのだ。体力もあるというわけではないために、少し疲れてしまったのかもしれない。楽しくて疲れるなど、幸せな疲労ではないかと時雨はうつらうつらしてしまいながら思った。
 瞼が急激に重たくなった。意思に反して落ちてくるそれに抗えず、持ち上げられなくなる。時雨は首を垂れ、窓に寄りかかってしまった。もうどうやっても目を開けられない。眠気には勝てない。
 起きていようとすることを諦めて、暫しの間眠りについてしまおうと、時雨は祐弥の隣で揺蕩っていた意識を遠くへ飛ばした。無自覚で無防備な時雨は、警戒心すら皆無だった。それだけ、心地良いと感じていた。
 どのくらい眠っていたのか、ふと目が覚めた時雨は、徐に顔を上げた。寝起き特有のふわふわとした意識の中、辺りを見回して、じっとこちらを見ていたような祐弥と視線が絡み合った。
「起きたんだね、池宮くん」
「……寝てた」
「うん、それは全然いいよ」
 祐弥が言い、時雨は意味もなく頷きながら目を擦った。まだ視界は漠然としていた。
「池宮くん、起きて早々お願いがあるんだけどね」
「……うん」
「これから一緒に降りてくれない?」
「一緒に、降りる……?」
 バスがスピードを落とし、止まった。出口側のドアが開く。ゆっくりと夜に近づいてはいるが、まだ少し明るい窓の外を見ると、そこは祐弥がいつも利用している診療所前の停留所だった。
 時雨は窓から祐弥に視線を移動させた。茫洋としていて何も読み取れなかったが、自分に手を差し出し、誘っていることは理解できた。
「……分かった」
 一度は疑問を口にしてしまったが、状況を把握してしまえば話は別である。祐弥に差し出された手を、取らない理由はなかった。
 返事を聞いた祐弥が、時雨を導くように先にバスを降りていく。時雨はその後に続いた。二人を降ろしたバスが走り去り、姿が見えなくなるまで、時雨も祐弥も口を開かなかった。
「池宮くん、あそこでちょっと話そうよ」
 誰もいない待合小屋を指差した祐弥が、頷く時雨を見てから歩き出す。そこに腰を下ろし、ここに座ってとばかりに手でとんとんと自分の隣を叩く祐弥に、時雨は素直に従った。
「一緒に降りてなんてわがまま言ったことをまずは謝るね。ごめんね」
「それは別に気にしてない、けど、なんで急に」
「急じゃないよ。帰る頃になってからこっそり考えてたんだよ。どうしても二人きりになりたかったから」
「二人きりに……」
「うん。でも池宮くん途中で珍しく寝たからどうしようか迷ったよー。俺が降りるまでに起きなかったら、今日は諦めようと思ってたんだよね」
 しかし、時雨は起きた。ギリギリのところで、目が覚めた。祐弥が何を諦めようとしていたのか都合良く考えた時雨は、目が覚めて良かったと思ってしまった。
 祐弥によって散りばめられたヒントを掻き集め、抱え込み、依然埋められずにいた空白を埋めるのならば、きっと、この時だ。この時しかない。そう思ったが、時雨は自分からは思うように切り出せないのだった。
「降りる前に起きてくれて良かったよ。俺の想いが届いたのかなー」
「……偶然だろ」
「偶然でも嬉しいよ。拒否せずについてきてくれたことも、凄く嬉しいよ」
「……拒否なんか、しない」
「うん。そうだね。本当に、拒否されなくて、良かった」
 噛み締めるように言った祐弥が、緩慢な動作で時雨に顔を向けた。目が合った瞬間、祐弥の目の色が違うことに時雨は気づいた。
 今日に限らず、常に、祐弥の表情にこれといった大きな変化はなかったが、今は確実に、目の色が違っている。喰われそうだと感じたあの目とは、また別物であった。例えるのなら、愛おしいものでも見るような目。大切なものでも見るような目。そのような目を、祐弥は時雨に向けている。
 待合小屋の中の空気が変わった。時雨はその空気に流されそうになった。流されてもいいと思った。今更取り繕ったところで、もう既に気づかれているのだから意味がない。全てを受け入れてしまった方が得策だ。
「池宮くん」
 やけに甘い響きを持った濡れた声で、祐弥が呼んだ。時雨は何も言わずに彼と見つめ合った。いつもはすぐに目を逸らしてしまうが、今この時だけは、逸らせなかった。離せなかった。
 時雨も祐弥と、同じ目をしている。期待し、高揚し、共に空白を、埋めようとしている。例え祐弥に絆されているのだとしても、それが時雨の本心であることに間違いはなかった。
 俺は、高坂のことが。
「好きだよ」
 時雨が胸に唱えた言葉と、祐弥が口に乗せた言葉が、ちょうど重なった。重なって、心の中の空白だった部分が、ようやく埋まるのを実感した。
 好きだった。時雨は祐弥のことが、好きだった。好きだと感じるように、なっていた。
「俺も、好き」
 時雨は安心して祐弥と同じ回答を突き出し、ほんの僅かではあるが、初めて、表情を緩めた。無意識だった。無自覚だった。そして、無防備だった。
「池宮くん、狡いよ、それは」
「狡い……?」
「我慢、できるわけないよ」
 脈絡なくそう言った祐弥に、時雨は唇を奪われた。いきなりのことに、目を閉じる間もなかった。
 重ねられた唇は、一見強引なようで、実際は柔らかく、優しいものだった。時雨は身体の力を抜き、祐弥のキスを受け止め、受け入れる。自分が想っている人とのキスが、これほど心地良いものであることを、時雨は知らなかった。一回目のキスでは、気づけなかった。
 触れた祐弥の唇が、ゆっくりと離れた。至近距離で見つめ合う。互いの吐息は熱く濡れていて、人や車が通るかもしれない場所であることも忘れてしまいそうなほどに、高揚感を覚えていた。
 無言のまま、時雨は祐弥と暫し目を合わせ、そして、もう一度、今度は確かめるように、どちらからともなく唇を触れ合わせた。それは紛れもなく、恋人同士がする、甘いキスであった。