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 テスト期間を終えた七月、学期最後のイベントでもあるクラスマッチの時期になった。種目は昨年の一学期と同様で、卓球男女、ドッジボール男子、バレーボール女子の計三種目である。二学期になるとまた少し変更され、卓球男女はそのままだが、ドッジボールが女子となり、バレーボールがバスケットボール男子となる。
 種目決めは選択制ではあったが、上限人数があるため、それを超えてしまった場合は、全員平等のじゃんけんで決めたり誰かがもう一つの種目に変更したりして、嫌な気持ちになる人がいないように臨機応変に決めていった。
 その結果、卓球でもドッジボールでもどちらでもいいという考えだった時雨は、ドッジボールに出ることとなった。祐弥も、晴翔も、龍樹も、一緒の種目だ。親しい人がいるのは心強かった。
 クラスマッチは、読んで字の如くクラス対抗の勝負である。仲の良さも鍵になってくるだろう。時雨のクラス、二年二組の仲は、男子も女子も良い方だ。誰か一人が極端に浮いているということもなかった。
 時雨も今年は、浮いてはいなかった。それも祐弥たちのおかげだと言わざるを得ない。彼らがいなければ、今年もまた、腫れ物に触るような扱いを受けていたに違いない。その話しかけにくい時雨の雰囲気を、祐弥たち三人が柔らかくさせているのだった。
「俺さ、ずっと思ってたんだけどさ」
 クラスマッチ前日の休み時間、次の体育の授業のために体操服に着替えた時雨は、声のした方に顔を向けた。同じく体操服に着替え終えている龍樹と目が合った。祐弥と晴翔はトイレへ行っている。時雨と龍樹は二人を待っている状況だった。
 時雨は龍樹に、先を促すように小首を傾げる。すると、龍樹は時雨の身体を見て、それから、自分の腰に手を当てた。
「池宮の腰ってさ、細くね?」
「……普通だと思うけど」
「いや絶対細いわ」
 時雨は龍樹に倣うように腰に手を当ててみた。自分ではよく分からない。今まで言われたこともなかったため、意識することもなかった。龍樹がずっとそんな風に思っていたことも、当然知らなかった。
「俺と比べてみろよ」
 龍樹が恥ずかしげもなく服を持ち上げた。露わになった腹筋が割れている。流石運動部である。日々鍛えていることが分かる身体つきだった。時雨よりも断然がっちりとしていて、見るからに体格が良い。
 時雨も釣られるようにして服を持ち上げ、自分の腰回りに視線を落とした。普段から運動など全然していない時雨の身体には筋肉はあまりついておらず、ただ細いだけであった。
「うっわ、細っそ、薄っす」
「そこまでじゃないだろ」
「そこまでじゃないわけないわ。着痩せしてるわけじゃなかったんだな」
 龍樹がよく観察するように時雨の身体を眺め始めた。目つきは真剣である。時雨は服を下ろすタイミングが分からなくなってしまった。
 時雨は確かに細身ではあるが、それを言うなら祐弥もだった。時雨と祐弥の体型にはそれほど差異はないはずだ。少なくとも、時雨はそう思っている。祐弥とは身長も同じくらいなのだ。
「高坂もこんな感じだと思うけど」
「祐弥? 祐弥はもうちょっと筋肉あるな、確か。戻ってきたら見せてもらうか」
 龍樹が僅かに折っていた上体を起こした。時雨は細くて薄いと言われてしまった身体を、上げていた体操服で隠す。その上から、徐に腰に手を当てた。次いで、腹にも手を当てた。細くて薄いと言われたら、細くて薄い気がしてきてしまった。
 祐弥と晴翔がトイレから戻ってくる。時雨と龍樹は、どちらからともなく教室の出入り口へと進んだ。
「ちょっと祐弥、悪いんだけどさ、腰というか腹筋というか、見せてくんね?」
 廊下に出て早々、龍樹が切り出した。腹筋を見せてと唐突にお願いされた祐弥が怪訝そうな顔をする。そんな表情になってしまうのも無理はなかった。
「二人がトイレ行ってる時に、池宮の腰は細いなっていう話をしててさ、その流れで祐弥に身体を見せてもらうかっていうことになったんだよ」
「不思議な流れだね」
 不思議な流れにしてしまったのは祐弥の名前を出してしまった時雨であったが、時雨は素知らぬ顔を貫いた。
「見るからに腰の細い池宮くんは、俺の身体に興味ある?」
 何の脈絡もなく不意に問われ、我関せずと静かに息を潜めてしまっていた時雨は意表を突かれる。祐弥に凝視されていた。龍樹と、それから晴翔までもが時雨を注視する。時雨の回答次第で、この話の着地点が決まってしまいそうな勢いであった。
 時雨は曖昧ながらも頷いた。祐弥のことについて、全く興味がないわけではなかった。それくらいの関心は、寄せるようになっていた。
「見てみたい、気はする」
「うん。池宮くんが言うならいいよ」
 あっさりと承諾した祐弥が、あっさりと服を持ち上げ腹筋を見せた。時雨よりも、龍樹や晴翔の方が興味津々になって注目したが、祐弥の視線は遠慮を知らない彼らではなく時雨へ向いている。あくまで時雨に見せていると言わんばかりの態度であった。
 目にした祐弥の腰回りは、龍樹ほどではないものの、時雨よりかはしっかりしているように見えた。運動部に所属しているわけではないが、日頃から時雨の目には見えない所で身体を動かしているのかもしれない。祐弥も自分と同じようなものだろうと勝手に想像していた時雨は、申し訳ない気持ちになった。
「高坂の身体、俺よりも男らしい」
 時雨は深く考えることもなく、見せてくれたお礼という軽い気持ちで、龍樹の前でもしたように服を持ち上げた。口で説明するよりも見せた方が違いが分かりやすいはずだ。
「うわっ、細っ、薄っ。池宮こんな細身とかマジで?」
「俺と似たような反応するなよ晴翔」
「マジで? 龍樹と似た反応した? 最悪すぎ」
「俺も最悪だわ。晴翔と脳のレベルが一緒みたいで嫌すぎ」
「うるせぇ」
 取るに足らない言い争いを始める龍樹と晴翔を置いて、服から手を離した祐弥が何か言いたげな目を時雨に向けた。見えていた祐弥の肌が衣服の下に隠れる。
「池宮くん、やっぱり腰回り細いね」
 言いながら祐弥が時雨に近づき、時雨が上げていた服をサッと下ろした。時雨の肌が見えなくなる。祐弥の言動はちぐはぐである。
「普段からあまり見えない部分の肌見せるなんて、心開いてくれてるのが垣間見えて嬉しいけど、流石に無防備すぎるよ」
「無防備……」
「俺の身が持たなくなりそうだから、もっと意識して警戒心持ってほしいかなー」
 口元だけを持ち上げる笑みを浮かべられた。瞬間、未だ慣れない感覚に包まれ、苛まれた。
 祐弥と話していると、時々、胸の奥の方が熱くなることがあるのだった。いつからそのような現象を引き起こすようになったのか、はっきりとした日時は時雨も覚えておらず、気づけばそうなっていた、としか言いようがなかった。その時は決まって、言葉が出てこなくなる。未知との遭遇に全身が硬直してしまったかのような、そんな状態に陥ってしまうのだ。
 自分のことは自分が一番知っていると言いたいところだが、この感情の名前に関してはまだ何も分からないため、そんなことなど口が裂けても豪語できなかった。時雨自身が一番知りたいことである。知ろうとしても手に負えず、誰かに聞こうとしても口下手なところが災いし、結局何も聞けないまま、それは時雨の中に理解不能な不燃物として溜まっていくのだった。
「祐弥と池宮が腹筋見せたってことは、今度は俺の番だな」
「誰も晴翔の腹筋に興味はないな。さっさと体育館に行くか」
「龍樹から話切り出したくせにその扱いは酷いぞ」
 今にも腹筋を見せようとしていた晴翔を雑にあしらった龍樹が歩き出した。酷いよな、となぜか時雨に同意を求めるように晴翔は言ったが、時雨の返事は待つことなく龍樹の後を追って行く。文句を言いながらもどこか楽しそうなのは、龍樹との信頼関係が成り立っているからこそなのだろうと時雨は考えた。
「池宮くん、行こう」
 時雨は祐弥に促され、一つ頷く。階段を先に下りていく龍樹と晴翔の後に、二人並んで続いた。
 二年の教室の階は既に静寂に包まれている。
 体育は学年全員での授業だった。時雨たち四人が、一番最後に体育館に足を踏み入れることになりそうだ。
 案の定、時雨たちは最後で、時間もギリギリであった。生徒や三人の体育教師の視線が突き刺さる。気持ち早足で、二組男子の列に並んだ。整列は男女で分けられていた。
「晴翔の腹筋見てたら遅れてたね」
「……かもしれない」
「おい、聞こえてるぞ。祐弥に至っては聞こえるように言ってんじゃねぇぞ」
 隣の祐弥に話しかけられ肯定してしまえば、目敏い晴翔が即座に反応した。晴翔の隣では龍樹が面白そうに声を殺して笑っている。それに気づいた晴翔が龍樹の二の腕を小突いた。何をしても何をされても楽しそうで、いつ見ても仲の良い二人である。
 しばらくして、聞き慣れたチャイムが狂いのない音程で響き、体育の授業が始まった。
 各クラスの男女一人ずつで構成される体育委員の号令で準備運動をし、集団走で体育館内を十周する。時雨はこれがあまり好きではないのだった。先頭のペースについていくことはできるが、涼しい顔で走り切れるほどの体力があるとは言えない時雨にとっては、息切れ案件である。時雨は運動ができるのかできないのか分からない、中途半端なタイプであった。
 身体能力が高く、おまけに体力もある晴翔や龍樹は大体いつも余裕があった。祐弥に関しても、時雨よりかは楽に走っているように見えた。
 今回の集団走も、結果は同じだ。時雨は元々無口なのが更に無口になってしまうくらいには体力を消耗していた。これで運動神経が良いと思われるのは甚だ疑問である。見た目で判断されては困る部分だった。
 今日の体育では、明日のクラスマッチの練習をすることになっていた。準備運動から集団走という団体行動を終えた後は、それぞれの選択種目に分かれていく。舞台側ではドッジボール男子、その反対側ではバレーボール女子、体育館内にある二階のスペースでは卓球男女。時雨は祐弥たち三人と、男だらけのむさ苦しい場所へ移動した。
 練習といっても、どの種目も試合形式での練習だった。ドッジボールは、ボールさえあればすぐに始められるスポーツであるため、ネットを張る必要のある卓球やバレーボールよりも始まるのは早かった。
 ドッジボールを監督する男性教師の指示を受け、早速、一組と二組が対戦することになり、リーダーのような役割を自然と担っている人からコートに来るよう集合がかけられる。
 時雨は集団走で切らしてしまった息を整えながら、祐弥たちと共にコートに入った。そこで青のビブスを渡され、着るよう促される。対する一組は赤のビブスであった。チームごとに違う色のビブスを着用することで、一気に敵と味方の意識が強くなるのを時雨は密かに感じた。
「まずは一組。全員残さず打っ飛ばすぞ」
「晴翔に言われなくてもそのつもりだわ」
「よしよし、やるぞ、絶対に打ちのめすぞ」
「打ちのめす。張っ倒す」
「治安悪い」
「悪いよねー」
 殺る気、否、ただやる気に満ち溢れている晴翔と龍樹が屈伸をしたり肩を回したりして軽いストレッチを始めた。
 クラスマッチ当日ではないものの、練習の時点で本気で楽しもうとしているのが伝わってくる。それは何も彼ら二人だけではないようで、他のクラスメートもやる気満々な表情で臨戦態勢についていた。
 地味に適当にやり過ごすつもりでいる時雨とは明らかな温度差があり、自分のその思惑が露呈してしまったら、一斉に指を差され総攻撃を喰らってしまいそうだと、時雨は懸念を抱きながら青のビブスを身につけた。上手くやり過ごせられたらいいと思う。
 ビブスを着てコートに整列し、試合前の挨拶を一組と交わした。ぞれぞれ外野を一人決め、残った人が内野に止まる。時雨は無論、内野スタートであった。
 ボールを持ってコートの中心に立った教師が、声をかけてから手にしていたボールを投げ上げる。ジャンプボールで、試合は開始された。
 時間は無制限だった。どちらかの内野がいなくなるまで続けられるエンドレスゲームである。その分、外野からの復活はないため、一度アウトになるともう内野には戻れないルールだ。最初から外野にいた人に限っては、相手の内野をアウトにさせることで一回だけ戻ることはできるが、そこでアウトになってしまうと、元々内野にいた人たちと同様、もう内野には戻れなかった。
 また、特別ルールとして、どちらかの内野の人数が半分以下になった時、ボールが一球追加されることになっていた。終盤にかけては、二球のボールの行き先に注意しなければならない。誰の案なのか定かではないが、なくてもいいようなスリルを後半に準備されているのだった。
 高く上げられたジャンプボールは、僅差で一組に取られ、時雨たち二組は攻撃に備えた。すぐに飛んでくるボールのスピードは速い。男子だけで女子がいないため、下手な手加減をする必要がないのだ。気を遣わなくていいのは、それだけ力を出せるということだ。逆に言えば、運動のできるできないに関わらず、同じ男で同じ種目に出ているというだけで、時雨も全力で狙われてしまうということだ。
 早めにアウトになって外野に行きたいと思った。せめてボールが二球になる前には外に出たいと思った。口が避けても、本気で取り組んでいる晴翔や龍樹の前では言えないが。時雨も時雨で、本気でそう思っているのだった。
 しかしながら、故意に事故を起こす当たり屋のようになるわけにはいかず、上手い具合に、上手いタイミングで、アウトになってしまった感を出す必要がある。それをするには、目をつけられ始めた時が好機だろう。
 ボールを避けながら考えを巡らせたが、自分の身体能力は高が知れていた。普通にやっていれば普通にアウトになり、自然な流れで外野に行けるのではないかと時雨は思い直す。変に策略を練る方が裏目に出てしまうかもしれない。時雨にとって、良くも悪くも、目立つことは避けたい事象なのだった。
 ふと、相手チームの一人と目が合った。その手にはボールが持たれている。時雨の中で緊張感が膨れ上がり、一瞬のうちに心拍数が上昇した。
 狙いを定められている。照準を合わせられている。
 時雨は無意識に身構えた。身構えていた。相手が大きく振りかぶった。やけに綺麗なフォームだった。手からボールが離れ、瞬きをしているうちにすぐ近くまで迫っていた。軌道は低い。捕球しにくい足元を狙われている。捕れない。
 時雨は咄嗟に二、三歩下がり、ワンバウンドさせた。そのボールを、時雨の後ろにいた外野の人が待ち構えていたようにキャッチし、チャンスだとばかりにすかさず時雨を狙いにくる。
 先程よりも距離が近すぎるため、流石にこれは避けられないとアウトになるつもりで受けて立つと、投げられた攻撃的なボールは奇跡的に時雨の腕の中に収まった。
「ナイス池宮」
「それで叩きのめしてやれ」
「打ちのめせ」
「やれやれ、やっちまえ池宮」
「全力で打っ飛ばせ」
 まさかの事態に驚愕し、ボールを抱きかかえたまま硬直していると、ヤンキーさながらの晴翔や龍樹たちに煽られ、時雨は即座にハッとなる。
 少しもその場の時間は止まっていなかった。少しも空気は白けていなかった。それは、相手が時雨を舐めているわけでも、味方が時雨を諦めているわけでもないことの証明になっているかのようだった。
 驚いている場合ではないと時雨は気を取り直し、ボールを受けた以上は責任を持ってアタックしに行こうと、自分に目をつけた相手目掛けて、それなりの全力でボールを投げつけた。
 しっかり足元を狙ったつもりが上手くいかず、キャッチされてしまうと思ったが、相手が珍しくボールを捕り損ね床に落とした。その瞬間、池宮、とそこかしこから時雨を称賛するような声が上がった。
 まさかの連続に時雨はまたしても驚いてしまう。思わず自分の手を見てしまった。何の変哲もない自分の手であった。でも、確かに、ボールに触れ、ボールを投げた感覚が残っていた。
 アウトとなり、やってしまった、という顔を浮かべた相手が味方に励まされながら外野へと移動する。それほど運動神経が良いわけでもない時雨に当てられても、嫌な顔はしていなかった。不機嫌にもなっていなかった。
「かっこよかったよ、池宮くん。流石だね」
 時雨の隣で冷静にボールを避け続けていた祐弥が、時雨に片手のひらを向けてきた。ハイタッチだろうかと思いながら徐に手を出すと、祐弥の方から手を合わせられる。そして、あまりにも自然に指を絡められ、時雨は祐弥の顔と、彼の指が絡んだ手を、交互に見てしまった。しかし結局、余所見をしてしまう。
「残りも全員、打っ倒そうね」
「……高坂までそんなこと。それにさっきのは、絶対まぐれだろ。二度は起きない」
「だとしても問題ないよ。池宮くんが誰よりも最初に試合を動かしたことに変わりはないじゃん」
 一言二言会話を交わしてすぐ、するりと、絡められていた指を離された。祐弥の熱が手に残る。指と指の間にも、手の甲にも、その感覚が残る。
 時雨はその手を、払い退けられたはずだった。でも、しなかった。時雨はそれを、しなかった。できなかったのではなく、しなかったのだ。不快だとは、思わなかった。
 男同士で、友情の証のようなもので、歓喜のあまり抱き締め合うのと同じ行為で、そのはずなのに、なぜ、やけに熱が残るのか、その熱が気になるのか、理由が掴めそうで、しかし、掴めなかった。
 試合が再開する。一組がボールを放つ前に、時雨は祐弥を一瞥する。余裕のある飄々とした横顔からは、やはり何も読み取れない。祐弥に触れられた手からも当然、彼の心中を計ることなどできない。
 どう足掻いても分からないことをだらだら考えていても仕方がないと諦め、時雨はドッジボールに集中した。本番ではない練習であっても勝ちにいこうとし、そうしながら純粋に楽しんでいるクラスメートや他クラスの人たちを前に、自分一人だけが適当にやるのは良くないのではないかと考えを改めた上での集中でもあった。
 時雨は自分のできることをやろうと意気込む。未だ祐弥の熱が冷めない手を握っては開いて、そう意気込む。
 捕って投げて当てることは、時雨にとってはそう簡単に、そう何度もできることではないため、過信などは一切せずに、ひたすらボールを避けることに専念した。驕り高ぶって調子に乗ることだけはしてはいけない、したくないという意識が時雨の中にはあるのだ。自己評価が低い故の思想のようなものに近い。
 試合は順調に進んでいった。互いの内野を一人ずつ確実に仕留め合う中で、一組の内野が先に半分以下の人数となり、その時点でボールが追加されていた。
 時雨は最初こそ堪えていたものの、そう長くは持たず、勝負も終盤に入ったところであえなくアウトになってしまう。
 味方の内野は残り三人となった。晴翔と龍樹、そして祐弥。時雨が一番親しくしている三人がまだ残っていた。
 晴翔と龍樹は流石の身体能力である。よく避け、よく捕り、よく投げていた。しっかり相手をアウトにもさせている。味方で良かったと時雨は思う。もし敵であれば、その攻撃力は厄介だった。
 それに対して祐弥の方は、ボールを捕ることも、無論投げることもほとんどせず、基本的にずっと避け続けていた。時々攻撃することもないわけではないが、それも数えられる程度である。その少ない回数で当てているのだから、上手普通下手で分ければ、上手な部類に入るだろうと、時雨は安全圏の外野で祐弥を目で追いながら思った。
 まだまだ余裕のある動作でボールを躱す祐弥を、外野からの攻撃は他の人に任せ切りで手持ち無沙汰になっている時雨は、ここぞとばかりに眺め続けた。
 ボールを捕って投げて当てるのもかっこいい一連の流れだとは思うが、どんなに狙われても躱し続けるのもまたかっこいいのではないか。そのように思わされるプレイの数々に、時雨は魅せられてしまいそうになる。
 何度全力で当てにいってもその全てを避けられるのは、相手にとって多大なストレスだ。じわじわと苛立たせ、焦らせ、そうしてミスを誘発させようとしているのだとしたら、かなりのやり手である。狡猾である。それを継続できる集中力と忍耐力に脱帽する他ない。粘り強い祐弥が一番、敵に回したくない相手かもしれない。
 ボールが二球に増えたことで息つく暇もなくなっている内野が先に全滅したのは一組であった。最後に決めたのは晴翔で、ただの授業であっても彼は素直に喜びを表現し、龍樹を含めたクラスメートも同じ温度で盛り上がった。みんな笑っている。例え負けてしまったとしても、楽しかったと言って笑っているだろうことが想像できるくらいの笑みだった。勝ってもテンションが変わらなかったのは、時雨と祐弥くらいである。
 一組と二組の勝負は、二組に白星がつき、次は一組と三組の対戦が始まろうとしていた。時雨たち二組は舞台の上に腰掛けたり床に直接座ったりして、試合の邪魔にならない場所で観戦する。一組は連続になってしまうが、まだ体力は有り余っていそうな表情だった。対して、黄色のビブスを着た三組は、待たされた分、闘志に燃えているように見えた。
「良い汗かいたね」
 舞台の端に腰掛けた時雨の隣に座った祐弥が、開口一番そう言った。時雨は祐弥を一目見る。
「俺は高坂みたいによく動いてないからそんなに」
 内野でずっと動きっぱなしだった祐弥が汗をかくのは何もおかしくはないが、時雨は祐弥ほど動いておらず、外野に放り出されてからはほとんど何もしていないため、良い汗をかいたなどとは言えなかった。時雨がクラスの役に立ったのは、本当に最初だけである。
「池宮くん、そこは適当に肯定しても大丈夫だよ。動いてないなんてことなかったじゃん」
「……嘘はあんまり吐けない」
「嘘になんかならないよー。でも、そっか。そんなこと気にするなんて、相変わらず真面目だね。俺は池宮くんのそういうところ、凄く良いなって思うよ」
 ジャンプボールで一組と三組の試合が開始される中、時雨は祐弥に目を向けた。祐弥のまっすぐな眼差しに、なぜか落ち着かなくなる。いつもの如く、時雨はふいと顔を背けてしまった。
「……何も、良くはないだろ」
「良くないわけないよ。真面目で大人しいところとか、感情をあまり表に出さない寡黙なところとか、人を傷つけることは絶対にしない優しいところとか、全部池宮くんの魅力だよ」
「別にそんなの、魅力じゃない」
「魅力だよ。その魅力に気づいてないのは池宮くんだけだね」
 何もかも迷いなくすぐに返答され、言葉の形成が全くもって追いつかなくなってしまった時雨は、黙って口を閉ざしてしまった。自分のことを話されてしまうと、時雨はますます喋れなくなってしまう節があるのだった。
 話題を変えたいと思っていても、気を遣わない祐弥はとことん容赦がない。時雨と祐弥の前を通り過ぎようとした男子を呼び止めた祐弥が、時雨について彼に問うたのだ。
「池宮くんって魅力的な人だよね?」
「池宮?」
 同じドッジボールに出る味方であってもほとんど話したこともないような彼が、祐弥から時雨へと視線を投げる。
 魅力などないと思っていても、本人を前にそれを口にできる人はいないだろう。つまりそれは、愛想笑いで誤魔化されるということだ。
 地獄のような空気になってしまうと時雨は顔色を変えないまま予想して、人知れず暗い気分になった。マイナスに思われることが、普通であったはずなのに。それに慣れていたはずなのに。
 じっと時雨を見つめていた彼が、徐に唇を開く。時雨は思わず警戒し、身構えてしまった。
「池宮は……」
 やけに声が響く。体育館内はドッジボールやバレーボール、卓球の試合で盛り上がっているにも拘らず、時雨の耳にはその声だけが大きく聞こえていた。そして。
「池宮は、魅力がありすぎる人だな」
 彼ははっきりとそう言った。声も顔も、少しも気を遣っている風には聞こえず、見えず、うんうんと自分で言って納得したかのように頷いている。
 その様子を見て、まるで杞憂だったと知るも、時雨はうんともすんとも言えないまま無言を貫いた。
「そうだよね、魅力がありすぎるよね」
「そうそう。最初は怖いというか取っ付き難いというか、話しかけてくるなオーラがあって、分厚い壁すら見えてたんだけど、今は全然そんなことないんだよな」
「雰囲気、柔らかくなってるよね」
「あー、それだそれ、雰囲気。持ち前のクールでミステリアスで口数が少ないところはしっかり残したまま雰囲気が柔らかくなってる。目つきから全く違う。今の方が絶対良いし、絶対モテる。いや実際にモテてるよな、今の池宮」
「そんなこと、本人は毛ほども気づいてないよ」
 言わずもがなである。気づいてなどいなかった。話を聞いても信じられない思いであった。目の前で自分の話をされていることも相俟って、時雨は途端に居た堪れなくなった。
 舞台からよく見えるドッジボールに集中しようとする時雨の側で、コミュ力の高い祐弥たちの会話は熱を持って続けられる。
「意外と鈍感なんだ」
「鈍感だね、というより、他人にそれほど興味がないんだと思うよ」
「興味がないのに祐弥とはよく一緒にいるよな」
「羨ましい?」
「そう思ってる人は多そう」
「池宮くんと同じバス通の特権だね。この権利は、絶対、誰にも渡さないよ」
 少しの溜めを作ってから祐弥が口にした、誰にも渡さないという言葉が、響きが、その場に緊張感を与え、時雨の心臓を跳ねさせた。また襲いかかってきた、まだ理解不能な感情だった。
 祐弥と話していたクラスメートの男子は、いち早く何かを察したかのように意味深な声を漏らした。
 その反応を見て、誰でも気づくのが普通なのだろうかと、時雨はいつまでも分からないままであることに焦燥感を抱いてしまいそうになったが、それでも、分からないものは分からないのだった。
「そんな牽制しなくても、俺は池宮のことをどうこうしたいとか思ってないって」
「うん、分かってるよ。でも、一応ね」
 一応、牽制というものをしたらしい祐弥が、礼を言って男子生徒を解放した。その背を自然と追ってしまう時雨の意識を引き戻すように、祐弥が声をかけてくる。
「これで池宮くんは魅力的な人だってことが証明されたね」
「魅力的とか、別に、俺だけに言えることでもないだろ」
「うん、そうだね。でも俺は、池宮くんにしか、魅力を感じないよ」
 その瞬間、まるで祐弥に引き込まれてしまうような感覚に包まれ、時雨は何も言えなくなった。
 何なんだ、一体。最近は、こんなことばかりだ。
 祐弥に言い寄られている。祐弥に口説かれている。時雨は経験したことなどないはずなのに、そのような気分に陥っていた。祐弥のことが専ら、理解できなくなった。
「俺の話は、もう、いい」
「素直じゃない、ツンデレなところも魅力的だね」
 いきなりぐいぐい攻めてくる祐弥と、時雨は目を合わせられなかった。こういう時に限って、嫌味なく空気を変えてくれる存在でもある晴翔と龍樹がいない。二人はどこで何をしているのかと視線を彷徨わせると、クラスの男子と体育館の隅の方に集まり、一組と三組のドッジボールを見ながら会話を交わしている姿を発見した。二人に期待はできなかった。
「池宮くん、そろそろ俺も、本気で行くからね」
 時雨は何も言わず、固く口を閉ざしてしまいながら、気を取り直すようにドッジボールを観戦した。
 試合は終盤に差し掛かっていたが、いつも隣にいる祐弥との間には、新たな何かが始まってしまいそうな、そんな予感があった。試合の終わりは見えても、現時点では、それに終わりは見えなかったのだった。


「まずは確実に後輩を全員打っ倒して初戦突破するぞ」
「それもそうだけど、そこはでっかく優勝でよくね?」
「何だよ龍樹。最高に滾ること言ってんじゃねぇぞ」
 クラスマッチ当日。全校生徒が体育館に整列し、簡単な開会式のようなものを行った後、早速、それぞれの種目の第一試合が開始されようとしていた。
 二年二組のドッジボールは、その第一試合であった。対戦相手は、一年一組だ。各クラスの代表が事前に引いたくじで決めていた。
 試合はトーナメント形式で、負ければそこで終わりの勝ち抜き戦である。だからこそだろう、本気で勝ち進み、楽しもうとしている晴翔や龍樹が、めらめらと闘志に燃えているのは。
 相手が先輩だろうが後輩だろうが、誰も手を抜くつもりなどないらしく、青と赤のビブスをそれぞれ着用してからコートに並んだ先で見た一年一組の人たちも、全力でぶつかってきそうな顔つきであった。
 一年の実力がどのようなものなのか定かではないが、やる気のある雰囲気からしてそれなりに動ける人たちが集まっているのだろうと時雨は察する。運動に苦手意識のある人が多ければ、それほど試合に積極的になれるとは思えない。
「一年凄くやる気だね」
「みんな動けそうなタイプに見える」
「それはこっちにも当てはまるよ」
 隣にいる祐弥がクラスメートに目を向けた。言わずもがな、ほぼ全員動ける人たちであった。
 昨日の練習のような試合ができれば、まずは初戦を突破できるとは思うが、本番の今日は学年問わず多くの人の目があった。まだ一試合目のため注目度は低いものの、誰も見ていないということはない。現に、一年がいる側には女子を中心とした生徒がいて、二階のスペースにも生徒の姿があった。一年一組の人たちに違いない。
 この緊張感の中で、体育の授業でしたような最低限の動きができるかと言えば、時雨は自信を持ってはいとは言えなかった。
 勝ち負けに拘りはなく、できれば早く外野にいきたいとまたしても思ってしまったが、やはり、味方が優勝を目指して勝ちに行こうと強気に挑んでいる中、自分だけが適当に雑にプレイするわけにもいかない。時雨はそう言い聞かせ、小さく息を吐き出した。
 同級生との対戦の時に、投げつけられたボールを受け止め、そのボールで相手を外野に送り込んだことなど、いくら考えても偶然としか思えないため、変わらず自分に期待はせず、慢心もせず、時雨はクラスメートの闘争心にできるだけ合わせるように試合に臨んだ。
 一年一組と向かい合って挨拶を交わす。外野を一人決め、昨日と同じ人に行ってもらった後、練習通りジャンプボールで始まった。それはこちらが取り、先手必勝とばかりに最初から全力で相手を狙っていく。
 味方の投げたボールは何度か避けられはしたものの、途中で捕球されることもなくまずは確実に一人を当て、内野から放り出すことに成功した。
 その後すぐに、二年二組から一年一組へ攻撃が入れ替わり、時雨たちは狙われる側となる。当てやすそうな人だと思われないように、目をつけられないように、時雨はボールに注意しながら祐弥たちの動きについていった。
 当てたり当てられたりしながらも、時雨たち二年が先に、一年の内野人数を半分にさせた。教師の声と共に、ルール通りボールが一球追加される。
 人数差は二人であった。時雨はまだギリギリ生き延びていたが、二球になると途端に難易度が上がってしまうため、練習の時みたく呆気なく外野へ飛ばされてしまうかもしれない。集中力を切らしてしまえばすぐに当たってしまうだろう。
 ここは全く落ち着けない。視線が忙しなくなる。避けても避けても、攻撃をしなければ終わらない状況に焦燥感すら覚え始めてしまいそうだった。
 一つのボールを持っている味方の外野も、攻めの手を緩めてはいない。ボールが追加されてから、一人、二人、アウトにさせている。堪えていれば残りの人も当ててくれるはずだ。
 人任せな思考に陥った時、一年の外野が時雨を狙うような仕草を見せた。身体の向きと、視線と、振り上げた手の位置や角度から、確実に狙撃しようとしていることが見て取れる。
 ここで自分がアウトになっても戦力が欠けることはないだろうと自身を低く見積もり、休めないことから解放されようと一瞬でも気を抜いた時雨の耳に、熱のこもったクラスメートの声が届いた。
「あと一人だ」
 あと一人。あと、一人、確実に当てれば、終われる。休める。
 体力が有り余っているわけではない時雨は、早く終わりたい一心で、一年から打ち込まれたボールをそのまま受け止めた。ボールが怖いという、運動があまり得意ではない人によくあるであろう感覚が、時雨にはほとんどないことが幸いした。
 ボールを捕ったことに、今回ばかりは驚きはなく、時雨は内野に一人残っている一年に向かって狙いを定めた。
 時雨たちを取り囲む外野から内野にいる生徒へ危険を知らせる声が飛ぶ。もう一つのボールもしっかり時雨のクラスメートが持っており、相手の一年は、内野にいる人がどちらの攻撃も避けること、またはどちらかのボールを捕ることを願うしかない状態であった。
 時雨は遠慮も躊躇もせずに仕留めにかかる。集中力が切れる前に終わらせたいのだった。これが最初で最後のチャンスに違いない。
 味方が先に、時雨には出せない威力のボールを放った。その後に時雨も続く。スピードもパワーも劣っているが、当たればもうそれでいい。
 相手の一年は、外野からのボールは躱したものの、時雨が放ったボールは躱し切れなかった。足に当たり、床にワンバウンドし、アウトとなる。時雨は心の中でホッと胸を撫で下ろした。
 一年一組の内野がいなくなり、そこで第一試合は終わりを告げる。勝った二年二組は盛り上がり、中には、池宮、と大声を上げ飛び跳ねて喜ぶ人もいた。
「池宮よくやった」
「流石池宮」
「池宮ならやってくれると思ってたぞ」
「ナイスキャッチ、ナイスボール」
「最高にいかしてるな」
「いいぞいいぞ、もっとやれ」
「次の試合もその調子で頼んだ」
 晴翔と龍樹を含めたクラスメートから笑顔で積極的に声をかけられるも、時雨は愛想笑いもできずに素っ気ない態度を取り続けてしまった。しかし、時雨はそういう人だと皆理解しているのか、彼らの熱が急激に冷めるようなことはなかった。
 第一試合の熱気を残したまま、早々に第二試合が始まる。三年三組対一年二組だ。
 褒めちぎってくるクラスメートからようやく解放された時雨は、体育館の隅の空いている場所に腰を落ち着け、壁に背中を預けた。隣には祐弥が並び、未だ興奮気味の晴翔と龍樹もそれに加わる。
 ドッジボールのコートは練習通り舞台側ではあったが、舞台の上には三年を中心とした人が多数集まっていた。その中に紛れ込むのは憚られる。故に、大人しく隅の方を休憩場所に選んだのだった。
「最後の池宮、すっごく頼もしかったな」
「いざという時の切り札みたいな感じだったわ、あれは」
 まだ称賛している晴翔と龍樹を前に、時雨は依然として愛想のない態度をとってしまう。
 最初から全力を尽くしていた彼らに褒められるようなことではないと感じていた。彼らのように勝とうとしたわけではなく、早く終わらせようとしただけである時点で、意識の食い違いが発生しているのだ。時雨は素直に受け止められなかった。
「何度も挑戦しにいってる塚原と桃瀬の方が、俺よりも頼もしいと思う」
 二人のことは見ず、伏目がちになってぽつりと呟いた。それは正直な気持ちだった。
 聞こえなかったら聞こえなかったでそれで良かったが、辺りに人の声やシューズが床を擦る音などが響いていても、二人の耳には届いてしまったらしい。嬉しそうな弾んだ声が、祐弥を越えて時雨へと飛んだ。
「俺、頼もしい? 池宮からしたら、俺って頼もしい? うわー、頼もしいって思った人に頼もしいって思われるのすげぇ照れる」
「頬が情けなく弛んでるな。デレデレしてんなよ気持ち悪い」
「おい、そこはせめて緩んでるって言えよ。一気に老けさせてんじゃねぇ。つか龍樹だってデレデレしてんじゃねぇかよ」
「ふざけんな。全く、まったく、これっぽっちも、一ミリたりとも、俺はデレデレなんかしてないわ」
「してる反応してるぞ」
「晴翔は褒められるとすぐ調子乗って失敗するから、あんまり褒めてやるなよ池宮」
「無視するな。余計なこと言うな。龍樹の言ったことは気にしないで、俺のこと、もっと褒めてくれていいからな、池宮」
「そんなこと言って、池宮を困らせるなよ」
「龍樹も同じようなこと言ってんじゃねぇかよ」
 殴り合いの喧嘩が始まりそうな勢いで口論する晴翔と龍樹の間には入る隙もなく、自分が話を振ったとは言え時雨は後処理をすることができなかった。悲しいかな、口下手な時雨はそれほどテンポ良く喋れないのである。晴翔と龍樹のペースには、どんなに頑張っても合わせられる気がしなかった。
「しょうもないことですぐこうだよねー」
 それまで無口だった祐弥が、バトルを続ける二人を横目に話しかけてきた。
 しょうもないと言って時雨を見遣る祐弥は、隣で巻き起こっている口喧嘩を止めようとはしない。時雨もそうするべきか否かの判断がつくようにはなっている。これは放っておいてもいいタイプのそれであった。
「二人はいつ見ても、仲が良い」
「そうだね。俺も池宮くんと親密になりたいよ」
「……もう、なってるものだと、思ってた」
「本当? それは凄く嬉しい。でも、まだまだ足りないんだよね」
 祐弥が、床につけている時雨の手に指先で触れた。時雨は思わず視線を下げ、祐弥の手が触れている自身の手を凝視してしまう。
「池宮くん、嫌じゃない? 嫌だったら払い退けてくれないと、俺、期待するからね」
 余裕綽々の態度で言った後、まるで煽るように手の甲を撫でられ、軽く握り締められた。
 時雨は抵抗しようとはせずに、無意識のうちに周りに目を向けていた。ドッジボールや隣のバレーボールの試合に集中している人ばかりで、誰も時雨たちのことは見ていない。誰も時雨たちに興味は示さない。晴翔と龍樹も、まだ何か言い争っているため、気づいてなどいない。
 それならば、別にこのままでもいいかと思ってしまった。何より、祐弥に触れられたことを、昨日指を絡められた時と同様に、嫌だとは思わなかったのだ。視線から、触れ方から、友情以外の何かを密かに感じても、払い退けるほどに不愉快だとは、思わなかったのだ。
「期待しても、いいんだね」
 祐弥が確かめるように言った。時雨は何も言わなかった。言えなかった。代わりにふいと、そっぽを向いてしまった。
「嫌がる素振りも見せずにそんな反応されると、俺の都合の良いように捉えるよ」
 常に口調の柔らかい茫洋としている祐弥が、真剣味のある声で口にする。手は握ったままだった。握られたままだった。時雨は上手く言葉を紡げないままだった。
 祐弥の熱が、全身を巡るような感覚に襲われる。ただの暑さではない熱さに内心で困惑する時雨は、顔を隠すようにして俯いた。祐弥の触れている手が、最も、熱かった。
 じわじわと身体を熱らせ、尚且つ、ぎゅっと胸を締めつけてくる感情の正体を、時雨は未だ掴めずにいる。それが祐弥に対してのみ発動することもまた、時雨は探れずにいるのであった。


 クラスマッチのドッジボールの結果は、二年二組が、まさかの有言実行の優勝であった。しかし決して、そこに辿り着くまでの道のりは平坦ではなかった。
 白熱した試合を制し続け、決勝は三年一組と対戦した。最初にボールを当てられてから、相手が常にリードしている状態となり、上手く挽回できないまま、時雨たち二年二組の内野人数が先に半分以下となる。
 その時点で、一番の戦力でもある晴翔と龍樹が内野にいなかった。これまでの試合を見た上で、相手は彼らの攻撃力を警戒していたらしい。晴翔と龍樹は最初から徹底的にマークされていた。エースを先に潰せば、後は勝手に崩れていくと踏んだのかもしれない。
 初戦以降ほとんど活躍していない時雨は、完全にマークから外されていた。残しておいても楽に倒せると思われたのだろう。そのせいか、そのおかげか、時雨は残り二人になるまで生き延びていた。もう一人は、防御力がずば抜けている祐弥である。
 祐弥も狙われてはいたが、彼がアウトになることはなかった。なられては困ると時雨は思っていた。祐弥がいなくなっていたら、時雨だけでは持ち堪えられずに、呆気なく負けてしまっていたに違いない。祐弥がまだ残っていたからこそ、時雨は最後まで踏ん張れたのだ。
 早く終わらせたいと何度も思い、集中力が切れかかったが、どうせなら勝って終わらせたいと、気づけば時雨はそう考えるようになっていた。
「攻撃は、晴翔や龍樹たちがしてくれるからね」
 プレイ中、このまま避け続けていていいのかと視線を泳がせ、人知れず焦っていた時雨に、祐弥がさらりとかけた一言。この一言が、大きかった。無理に攻撃はしようとしなくていい、それはチャンスが訪れた時でいい、自分たちは防御に専念しよう、と励まされたような気分になったのだ。
 晴翔と龍樹たち味方は、誰にも狙われない安全な外野で攻撃に集中できる。二人を含めた味方を信頼しているからこそ、この土壇場でも祐弥は冷静なままそう口にできたのだろう。
 時間は無制限で、どちらかの内野が全滅するまで終わらない。例え内野が一人になっても、その人がずっとボールに当たらなければ、まず負けることはないのだ。制限時間ありで、その終了時点での内野の人数で勝敗が決まるルールではないこと、及び、攻撃力のあるエースを先に外野へ行かせた相手の戦法を逆手に取ったような作戦だった。
 効率は悪いかもしれないが、外野にいる味方が一人ずつアウトにさせ、相手の内野をじわじわと減らしてくれていた。時雨と祐弥は確実に捕れると思うボールのみ捕り、すかさず外野へ投げ渡して攻撃は完全に一任するという策を取り続けた。
 それが功を奏したのか、とにかくほぼ避けることに徹した時雨と祐弥を最後まで内野に残したまま、三年一組の内野が全員アウトとなったのだ。
 逆転勝利だった。粘り勝ちだった。最後の一人を当てたのは時雨でも祐弥でもなかったが、外野にいた味方が全員、決め手となったボールを投げた人も含めて全員、堪え抜いた時雨と祐弥に駆け寄り、ハイタッチと共に暑苦しい抱擁をしてきたくらいには盛り上がった勝利であり、優勝であった。リアクションが薄くて下手な時雨は、揉みくちゃにされるがままだった。
 トーナメントを制した男たちの高揚感も、表彰状の授与を含んだ閉会式が終わって放課後になると、次第に落ち着きを取り戻し始めていた。制服または部活の練習着に着替え、卓球に出ていた男子にも労いの言葉をかけて回り、部活に行くか帰宅するかして、彼らは教室を出て行く。その際、時雨にも声をかけてくれたが、ノリの悪い生返事しかできなかった。それでもクラスメートは、笑顔を崩すことなく手を振ってくれたのだった。
 クラスマッチの日であっても通常通り部活があるという生徒の波に紛れるようにして去った、同じく部活があるという晴翔と龍樹を見送った後の教室で、時雨は祐弥と二人でいた。バスの時間まではまだ余裕があった。
 教室には珍しく、時雨と祐弥以外は誰もいない。無論、別のクラスで着替えた女子が、一度ここに寄るような気配すら感じなかった。正真正銘の二人きりである。
「優勝したねー」
 特に興奮している様子でもなく、普段と変わらないのんびりとした口調で祐弥が言った。時雨は自席に座ったまま頷く。
「最後まで勝ち続けるとは思わなかった」
「俺もだよ」
「全然当たらなかった高坂がいたことは凄く大きかったと思う」
「嬉しい。池宮くんが俺のこと褒めてくれた」
「別にそれは俺だけじゃなくて、みんな思ってることだろ」
「もしそうだとしても、俺は池宮くんの言葉が一番心に来るよ」
 口角を持ち上げ薄い笑みを浮かべた祐弥に見つめられる。時雨はまた、奇妙な感情を味わう羽目になった。
「ところでさ、池宮くん。俺と池宮くん、まだ、ハイタッチとハグ、してないよね」
「……それが、何?」
「言わせるねー。他の人とはしておいて俺とはしてないの変だよ。一緒に最後まで残ったじゃん」
「でも、今更そんなこと、改めてするようなことでもないだろ」
「うん、そうなんだけど、許せないんだよね。俺以外の数多の男が、池宮くんと手を合わせて池宮くんを抱いたこと」
 その瞬間、空気が変わった。重たく、どす黒く、まとわりつくような空気に、変わった。同時に祐弥の雰囲気も、危うげなものに変わった。
 唐突に襲いかかった緊張感に、時雨の口が重たくなった。何も喋れなくなる。下手なことを言えなくなる。
「正直、凄く嫌だったよ。でもあの場でそんな言動したら空気悪くさせるし、池宮くんにも迷惑がかかると思って、俺、我慢したんだよね」
 祐弥が時雨の机の上に両手を置いた。異様な圧に、時雨は身動きが取れなくなってしまいそうだった。祐弥の言わんとしていることから目を背けるように、視線のみを外してしまう。
「池宮くん、俺に上書きさせてよ。俺も池宮くんで上書きしたいから」
 真剣な声だった。冗談を言っているわけではないとすぐに分かる声だった。
 きっと、引かない。引いてくれない。祐弥が粘り強いのは、ドッジボールのプレイを見れば明白であった。
 なぜ、許せないのか。なぜ、嫌なのか。聞きたいことはあった。あったが、時雨は答え合わせをすることなく、徐に席を立った。
 ハイタッチも抱擁も、祐弥と絶対にしたくないというわけではなかった。チームの中で祐弥とだけしていないことは、確かに、変だと言われれば変である。
「やらないと、一生終わらないだろ」
「正解。俺のことよく分かってるね」
 俺の前に来てよ、と少しだけ空気を緩ませた祐弥に手招きされる。わざわざ移動する必要があるのかと時雨は思いつつも素直に応じた。
 間に何も挟むことなく祐弥と向かい合う。そこでスッと両手のひらを見せられた。時間差ですることに、時雨は若干の気恥ずかしさを覚えたが、顔には出さないように平静を装って見せる。すぐ終わることだ。やれば祐弥も気が済むはずだ。
 時雨は両手を上げ、物も言わずに祐弥と手を合わせた。全く勢いはなかったため、弾むような音は鳴らなかった。
 ハイタッチは終わった。後は抱擁のみだと真面目に事を進めようとした時、何の前触れもなく自然な手つきで祐弥に指を絡められた。そのせいで、容易には離せなくなってしまう。
「誰も、こんなこと、してないだろ」
「そうだね」
 肯定しておきながら、手を離してくれない。絡めて握ったまま、まるで何かを観察するかのようにじっと目を見られ、時雨はごくりと唾を飲む。そして、例に漏れず顔を背けてしまった。手が熱くなっていた。
 しばらく膠着状態が続き、ようやく動きを見せた祐弥が、時雨からするりと手を離した。行き場を失くした時雨の手がゆるゆると下がる。
 祐弥の熱がやけに残る手を握って、開いて。次は、と仕切り直して決まった展開を踏もうとすると、その展開通りに時雨は抱擁された。
 すぐに離れると思った。すぐに終わると思った。どの生徒も、時雨を長くは抱き締めていないのだ。背中をとんとんと軽く叩いて終わりくらいの短さである。にも拘らず、祐弥のそれはやたらと長くて強かった。抱き締めているというよりも、抱き寄せていると言った方が正しいのではないか。そのように錯覚しそうになった。
「長い、強い」
「そうしてるからね」
「誰とも、そこまでしてない」
「うん、知ってるよ」
「それなら、もう、いいだろ」
「俺はまだ、離れたくないんだよね」
 ぐっと腰を引き寄せられた。明らかに、他の生徒とは異なる抱擁であることに、時雨は落ち着かなくなってしまう。
 身体が異様に熱い。早く気が済んでほしい。
 時雨は祈ったが、続けられた言動で、少しも祐弥には届いていないことを突きつけられた。
「池宮くんの腰、触ってみてもやっぱり細いね。指も細ければ腰も細いなんて、ますます魅力を感じるよ」
 言いながら、どさくさに紛れるようにして制服を引き上げた祐弥が、その中に手を差し込んできた。布を挟むことなく肌に直接触れた祐弥の手に、時雨は思わず肩を揺らしてしまう。
「高坂、どこに、手、入れて」
「うーん、制服の中?」
「それは、分かってる」
「だよね」
 分かっていることをわざわざ聞いてしまったくらいには、それは時雨にとって思わぬ事態であった。
 時雨は硬直してしまいながらも平常心を保とうとするが、その隙を与えてくれない祐弥に容赦なく攻められ、秘めた何かが崩落しそうになるのを感じた。時雨の肌に手を滑らせ続ける祐弥もまた、そうであるかのようだった。
「なんか、だんだん変な気分になってくるね」
「……高坂のせいだろ」
「うん、そうだね」
 責めても離そうとしてくれず、力も一切緩めてくれない祐弥から、時雨は依然として逃げられなかった。
 いつまで抱き締めたままでいるつもりなのか。いつまで身体を触り続けるつもりなのか。一向に終わりの見えない状況に、時雨は誰かに助けを求めてしまいたくなったが、このような時に限って、誰も教室に来る気配はなかった。
 肌を触る祐弥の手の動きが、次第に大胆なものになっていく。腰から背中にかけて輪郭をなぞられ、その擽ったさにおかしな声が漏れそうになった。時雨は懸命に我慢する。
 しかし、そうすればするほど、神経が過敏になってしまうのか、煽るように手を動かされる度にビクッと肩が上がってしまった。コントロールしようとしてもできなかった。
 まだ衣服の上を保っていた祐弥の片手が、代わりを務めるように直に腰を抱く。二箇所で感じる他人の熱に、流石の時雨も冷静さを失ってしまいそうになる。
「池宮くん、意外と敏感なんだね」
「背中触られたら、誰だって、こうなるだろ」
「でも、池宮くんの反応は、俺にとっては堪らないものだよ」
 そう言った直後、時雨を抱擁した状態で、祐弥がなぜか体重をかけてきた。後退しつつ反射的に支えようとするが、時雨はあえなくバランスを崩してしまう。
 無様に床に尻餅をついてしまったと思うよりも先に、腰や背中、後頭部が、冷たく硬い何かに当たった。時雨は目を白黒させる。
 眼前には祐弥の端正な顔があり、彼の背後には、教室の天井と、そこに備え付けられている電気があった。それが見えた。
 俺は今、高坂に押し倒されて、組み敷かれている。
 ここまで情報が揃っていれば、疑う余地もなかった。断言できた。時雨は祐弥に、押し倒されたのだ。
「池宮くん、もう、俺、いろいろと限界だよ」
 限界と言いながらも、まだまだ余裕のありそうな目で、祐弥が時雨を見下ろす。彼の目が泳ぐ姿を、時雨は見たことがなかった。
 行き場を失くしていた両手を不意に掴まれ、顔の横に強く押さえつけられる。時雨は受け身の姿勢のまま、顔だけを逸らした。
 祐弥の手がしっかりと、時雨の手を押さえ込んでいる。その向こう側では、多くの机や椅子が、いつもより圧倒的に目線の低い位置で見えている。
 ここは学校だ。ここは教室だ。自分たちが毎日のように使用している教室だ。
 その事実を再確認した時雨は、言いようのない背徳感を覚えた。
「池宮くん、してもいい?」
「……何を」
「何って、あれだよ、あれ」
「あれで、分かるわけ、ないだろ」
「あれだよー。唇同士が触れ合うやつだよ」
 妖しく微笑まれる。時雨は自然と、祐弥の唇を見遣る。それから、拘束された両手に力を入れてみた。倍になって返ってきた。また、祐弥の唇を見た。柔らかそうな唇だった。時雨は自分の唇を緩く引き込んだ。意識したことなどない部位だった。手を押さえつける握力は、緩めてもらえなかった。
「拒否させる気、さらさらないだろ」
「うん、ないよ」
 全く間を置かないレスポンスである。
 時雨は諦めた。唇同士を触れ合わせないようにすることを諦めた。素直に諦められるくらいには、不思議と絶対にしたくないわけではないのだった。それがどういう意味かは、今は考えなかった。
 息を吐いて、身体の力を抜いた。視線を動かして、祐弥と見つめ合った。空気感が変わった。甘ったるい雰囲気に変わった。それを合図にするかのように、祐弥が徐に顔を近づけてきた。互いの吐息が重なり、二人はどちらからともなく瞼を閉じた。唇に神経が集中するのを感じたその刹那、祐弥のそれが、優しく丁寧に、音もなく静かに、触れた。
 時雨にとって、初めての、キスだった。初めて、誰かを完全に受け入れた瞬間だった。そして、初めて、柔らかく、大事にされていると感じるキスをされて初めて、時雨は恋心を自覚したのだった。