◇
二年生になって約一ヶ月が経った。クラス内でのグループは既にできあがっていて、時雨はそのどこにも属さないだろうと思っていたが、いつの間にか祐弥のグループに加えられていた。時雨と祐弥を含めて四人でいることが増えていたのだ。言わずもがな、その内の二人は祐弥と親しい間柄にある人たちだった。
時雨の予想に反して、祐弥は未だに時雨に飽きておらず、積極性が少しも欠けていない。一ヶ月も、自分に興味関心があるという好意的な態度を続けられてしまっては、人付き合いが苦手であっても心を許してしまいそうになる。
祐弥が時雨に対してそのような節があるからか、他の二人が新入りの時雨を受け入れるのも早かった。二人ともタイプは違うものの、運動部特有の明朗な性格をしているからかもしれない。あっという間に連絡先まで交換させられてしまった。それは半ば強制的だった。
普段と変わりのない朝、最寄りの停留所でバスに乗り込み後ろから二番目の席を陣取った時雨は、耳に装着したイヤホンで音楽を聴いていた。去年からずっと、バスの中ではそうして周りの音を遮断し続けている。祐弥が隣にいる時は外しているが、その時以外は、基本的に音楽で暇を潰していた。
しかしながら、今年に入ってから、そのようにして暇を潰す時間が圧倒的に少なくなっていることに、流石の時雨も気づかないほど鈍感ではなかった。完全に祐弥のせいであり、祐弥のおかげであった。
バスの中だけでなく、教室でも、暇だと感じる無駄な時間が減っていると思うくらいには、時雨の生活に、言い方は悪いが、祐弥が侵食してきていた。
祐弥とは友人になっているのだろうか。友人に思えてきているのだろうか。バスで毎日隣同士で座り、それを拒否することもなく受け入れている状態なのだから、そうなのかもしれない。いや、そうなのだろう。時雨は祐弥のことを、今更ながら友人なのだと認識し始めた。
ランダムに流している音楽が五曲目に入った頃、バスが祐弥のいる診療所前の停留所に着き、いつものようにゆっくりと停車した。ドアが開き、バスを待っていた祐弥が乗車する。迷いなく後方へ足を向けた祐弥が、時雨のいる座席に顔を出した。時雨はサビに入りかけた音楽を途中で止め、耳からイヤホンを外す。
「池宮くん、おはよう」
「おはよう」
挨拶をして隣に座った祐弥に同じように返した後、時雨はイヤホンを鞄に押し込んだ。良いところで音楽を停止させようとも、例えそうする羽目になったとしても、時雨は何も思わなかった。
バスが発進する。ここからは祐弥と共に車内での時間を潰していく。話したり話さなかったりしながら、緩めに息をしていく。
「あの二人にはもう慣れた?」
祐弥が尋ねてきた。あの二人とは、時雨が最近連むようになった彼ら、塚原晴翔と桃瀬龍樹のことだろう。時雨にはこの二人しか思いつかなかった。
「多少は、慣れたと思う」
「良かった。晴翔と龍樹、池宮くんのこと結構気に入ってるっぽいんだよね」
「俺に何か気に入る要素なんてないだろ」
「それは池宮くんが決めることじゃないよ」
即答される。時雨が自己を卑下するような発言をした時、祐弥はすかさずそれを否定することがあった。時雨はその度に、続く言葉を飲み込んでしまう。今回も例外ではなかった。
「悪く思われてはいないんだから、もうそれでいいじゃん。池宮くんは自己評価が低すぎるよー。自分の魅力に全く気づいてないよね」
俺に魅力があるとは思えない。
簡単にそう口にしそうになって、時雨は咄嗟に唇を強く引き結んだ。そのような思考のことだ。発言のことだ。祐弥が指摘していることは。
時雨は祐弥に、自身のマイナス思考をじわじわと矯正されているような気分に陥った。自己に対して極端に低評価なのは、確かに時雨の欠点だ。時雨に好感を抱いているような祐弥であっても、それに関しては決して肯定はしていない様子だった。
「池宮くん、何しても何聞いても反応が薄いから、逆に面白くて興味が湧くんだって。二人が言ってたよ」
脱線しかけた話を祐弥が戻す。顔を見られた。目が合った。ふいと逸らしてしまった。
祐弥だけでなく、晴翔と龍樹にも興味を持たれているらしいことについて、時雨は上手いリアクションが取れないまま曖昧な返事をして口を閉ざす。指摘されたことについては、何も反論はしなかった。
「どうしたら表情を変えてくれるのか、どうしたら自分たちのことを見てくれるのか、いろいろ考えてるみたいだよ」
「……俺、二人のこと、少しも見てなくはない」
「そうなんだけど、そうじゃないっていうか。多分、関心を寄せてほしいってことだよ。心の部分だね」
「心の部分……」
「うん。でも、あの二人よりも、まずは俺のことを見てほしいかなー」
冗談であり、本気である。そのどちらにも転べるような、そんな声だった。そんな目だった。
こちらを見る祐弥の瞳孔が開いているように見え、時雨はまるで、何かに捕えられたような気分になる。
「俺にはまだ興味ない? 知りたいとは思ってない?」
「それは、ない、わけじゃない」
歯切れが悪くなってしまった。
基本的に他人にも自分にも無関心なのは変わらないが、祐弥については、一ヶ月の関わりのせいか、ほんの僅かだが気になり始めている。
なぜ、自分に興味を持っているのか。なぜ、自分に興醒めしないのか。なぜ、自分と仲良くなりたいのか。知りたい気がしている。
時雨は、前に祐弥の言っていたゴールが何なのか、未だに分かりかねていた。浮かんだなぜがそれに関係しているのだとしたら、祐弥の企図するものを予想できるかもしれないが、そこまでして深く入り込むほどのことではないように思える。
時雨は誰にどのような疑問を抱いても、それを本人に直接問うことをほとんどしないのだった。今回もそうだった。
「二重否定ということは、つまりは肯定だね。少しは興味を持ってるってことじゃん。池宮くんの方からちょっとだけ俺に近寄ってくれた感じがして気分が良いよ」
祐弥が頬を持ち上げる。控えめな笑みだった。
晴翔や龍樹ともいるようになって気づいたことだが、笑う時、祐弥は声もなく静かに笑う。それは時雨の前だけではなく、誰の前でもそうだった。晴翔と龍樹が声を上げて楽しげに笑っていようとも、時雨はともかく祐弥もげらげら笑うことはない。それでも二人は構わないのだろう。だから今でも祐弥と仲良くしているに違いない。
緩く笑っている祐弥が、自分を凝視していることに時雨は気づいた。時雨は人の顔をあまり見ることができないが、祐弥は全くそうではない。よく見てくる人だった。
「その調子でさ、俺に興味を持ち続けてくれると嬉しいかなー」
また、冗談か本気か判別しにくい空気が流れる。
祐弥の発言は大体いつも真意が読めない。時雨は適当な言葉であしらうことも真面目に返すこともできないまま、固く唇を閉じ続けた。無視されたと祐弥に思われたとしても、時雨が態度を変えることはなかった。
短い会話が終了する。車内は次の停留所を知らせるアナウンスが響くだけで、とても穏やかだった。時雨も祐弥も迷惑にならないように小声で話してはいたが、近くに座る人たちにはしっかり聞こえてしまっていたかもしれない。
時雨は何気なく祐弥の顔を窺う。リラックスしているように思える横顔を見て、祐弥も沈黙が訪れることに気まずさは感じていないのだと悟った。
関わるようになってまだ一ヶ月程度で、祐弥のことをよく知っているわけではないが、それでも、分かったことが一つだけある。祐弥は意外にも、ずっと喋りっぱなしの人ではないということだ。それはバス内だけの話ではなかった。
時雨よりも祐弥の方が口数が多いのは言うまでもないが、例の二人と比べると少ない方であった。二人の前では聞き役に徹している節がある。話をリードするようなことはほとんどない。そのためか、時雨と祐弥の二人きりの時は、このような静かな時間が流れることが多々あるのだった。
気まずさは感じない、緩やかな沈黙が続いたまま、バスは学校前の停留所に着いた。ドアが開き、制服を着た時雨と祐弥のみが、大きな箱から外に出る。
二人を降ろしたバスが目の前を通過して行った後、どちらからともなく歩き出した。校門は目と鼻の先である。
「今日も始まるねー、学校」
「そうだな」
「池宮くんがいるし、晴翔と龍樹もいるし、楽しくないわけじゃないのに、なんかちょっと怠いよねー」
「そんなもんだろ、学校なんて」
「そんなもんだね、学校なんて」
適当に返事をすると、ほぼ鸚鵡返しであっさりと納得された。学校とはそんなものだった。
時雨は祐弥と、バスを降りてからも肩を並べることが増えた。すたすたと歩いて祐弥を置いて行くことがなくなった。そうする理由がなくなっていた。
時雨はさりげなく祐弥にペースを合わせる。歩くのが早いと言われた手前、いつしか歩幅を意識するようになってしまった。
のんびりと歩く祐弥についていくように日々息を合わせていると、時間の流れの感覚が不思議とゆったりしたものに変化しているような気がしないでもない。自分は生き急いでいたのかと思わされる。
生徒が集まる校舎へと続く校門を潜った。登校ラッシュの時間帯よりもバスが到着するのは早いため、人気は少ない。
時雨は人混みが苦手だ。生徒玄関などが混雑してしまう前に登校できるのはとてもありがたいことだった。
まだ閑散としている玄関で靴を履き替え、三階にある二年二組の教室へと向かう。
この高校の校舎は四階建てで、上から、一年生、二年生、三年生の教室がある造りとなっていた。学年が上がるごとに階が下がっていく仕組みだ。一階は、職員室や事務室、保健室、視聴覚室などがある。職員室くらいしか特に用はなく、生徒は滅多に使用することのない階だった。
祐弥と足並みを揃えながら階段を上っている途中で、そういえば、とふと何かを思い出したらしい祐弥が声を上げた。
「今日、SHRで席替えするとか言ってなかった?」
「席替え?」
「うん。昨日何人かがそろそろしたいって要望出してたし、みんなそれに頷いてたし、根負けした先生も明日するとか確か言ってたよ」
「へぇ」
「全力でどうでもいいって言ってるねー」
祐弥が時雨の言葉を勝手に訳し、決めつける。しかし、その通りのため、時雨は言い直すことなどはしなかった。
「席替えするにしても、俺はどこでもいいから」
「どこでもいいんだったら、俺の隣になっても全然いいよね」
「まだ、隣狙ってる?」
「狙ってるよ。本気で」
初日から隣になることに妙な拘りを見せていたが、それが現在進行形であることに、なぜそこまで、と思わずにはいられない。いられなかったが、時雨はそれを問わなかった。
三階につき、二組の教室に二人は足を踏み入れる。いつも早くに登校して来ている人たちが談笑していた。
誰がどのくらいの時間帯に来るか、その人のルーティンのようなものが、それとなく分かり始める頃だった。ラッシュ時に空いた席が瞬く間に埋まり、それで残った席が、登校時間ギリギリで埋まる。時雨が知る限り、その中には焦ることも駆け込むこともなく登校して来る人がいるため、ほぼちょうどに来られるように計算して家を出ているのだろうと思う。バス通であってもなくても、時雨にはできない、やろうとも思わない所業であった。それとは逆に、焦りながら駆け込んで来る人もいた。
自席に鞄を置き、引いた椅子に座る。時雨の横はまだ空席だ。
後ろの席に鞄を置いた祐弥が戻って来た。時雨の右隣の空席に躊躇なく腰を下ろす。その席の生徒が来るまで座って駄弁るのが日常となっていた。席が変わっても、習慣化しているようなこれは継続されそうだと時雨は密かに思った。
「池宮くん、もし席替えするってなったら、ちゃんと願ってくれる?」
「……何を?」
「俺の右の席か左の席になることだよ」
椅子に対して横に座り、背凭れと机にそれぞれ肘を置く祐弥が時雨を見つめ、僅かな微笑を浮かべた。
「どこでもいいならさ、そうしてみてよ」
「……まあ、願うくらいなら」
「うん。俺は凄く願ってるよ」
言質を取られてしまっていると時雨は思った。どこでもいいなどと安直で余計なことを言ったことを撤回したい、撤回する、というようなことを同時に考えてしまったが、言わなかった。いずれにせよ、祐弥と隣になる確率は、他の誰かと隣になる確率よりも低いだろう。二人して願ってみたところで、運良く事が進むとは思えない。
時雨は、祐弥と机を並べることが嫌というわけではなかった。狙っていると瞳孔を開いているような祐弥とは違い、なってもならなくてもどちらでもいいのだ。本気だなんだとぐいぐい積極的に攻めてくる祐弥を拒絶していないだけでも、人と関わることを避けがちだった当初よりも少しは成長していると言えた。
「これで本当に叶ったらいいね」
「そう簡単にはいかないと思うけど」
「そう簡単にはいかないことがそう簡単にいったら凄くない?」
「それは運が良いな」
「良いよねー。でも俺、くじ運は面白いくらい悪いから、池宮くんに丸投げするよー」
言ってすぐ、気迫か運か分からない何かをエアで雑に投げつけられる。全部任せるね、と祐弥。謎の絡みである。
「丸投げされても何も変わらない」
時雨は投げつけられた目に見えないものを、特に何もせずにそのまま受け止めた。絡みに絡まないのはいつものことだった。それが時雨の常時であることを理解しているからか、祐弥も冷めることはなかった。
その後も祐弥に先導されながら他愛のない会話を続けていると、祐弥の肩越しで、廊下から姿を現した生徒と時雨はちょうど目が合った。にこ、よりも、にか、というオノマトペが合っていそうな笑みを浮かべられる。晴翔だった。彼の隣には龍樹の姿もあった。
時雨の視線の先の変化に気づいた祐弥が振り返った時には、既に教室に足を踏み入れていた彼らが、そうすることが当然であるかのように時雨と祐弥の元に近づいてくる。
「祐弥に池宮、おはようおはよう」
「晴翔さ、毎回おはよう一個多くね? おはよう」
「多くねぇよ。俺はそれぞれに言ってんだから」
「あー、そうですか」
彼らが来ただけで、良い意味で空気が騒がしくなった。
枠組みが広くなり、祐弥が時雨のいる口数が少ない部類に仲間入りする。それでも、晴翔と龍樹といつも一緒にいるくらいには取り残されることなく話せているのだから、やはり仲間入りといっても時雨とは位置が違うように思えた。
「朝からうるさいねー。おはよう」
「……おはよう」
祐弥に続いて時雨が挨拶を返すと、二人して嬉しそうに表情を緩めた。かと思えば、祐弥のストレートな一言に、すっかり慣れたような態度で総攻撃し始める。
「祐弥お前うるさいって言うなよ。せめて明るいって言えよ」
「朝っぱらから暗い顔されるよりかはいいだろうが」
「そうだぞ。祐弥はテンションが低いんだよ」
「そう、それ。それだ。言えてる。低い。凄く低いんだわ。ローテンションなんだわ」
「二人のテンションが狂ってるだけだよ」
「おい、ふざけんな。俺は狂ってなんかねぇ」
「俺もだわ。仲間はずれにしてんなよ晴翔」
側で眺めているだけで、三人の仲が良いことが分かるような言い争いだった。それ故の遠慮のなさだ。
間に時雨が入る隙はない。それ以前に入り込む気すらない時雨は、背凭れに背中を預け、ぼんやりと彼らを眺めながら会話を聞いていた。三人以上になると、時雨は更に無口になってしまうのだった。
唇を固く引き結んだまま、祐弥の横顔を盗み見る。表情と、それから声色と、時雨に対するそれとほとんど違いはないように見えたものの、扱い自体は異なっていた。晴翔や龍樹の取り扱いが、祐弥は少しばかりぞんざいなのだ。それも親しい間柄だからこそなのだろう。時雨は彼らの関係をそのように推測した。
「晴翔と龍樹は騒がしいから、席替えでこの二人と隣にならないように、これも追加で願っておいてよー、池宮くん」
突然名前を呼ばれ、完全に気を抜いていた時雨は思わず肩を揺らしてしまった。祐弥に目を向ける。見られていた。
時雨は他人事のような感覚で聞き流していたため、すぐには話の内容が読めず、咄嗟に言葉が出てこなかった。祐弥に凝視されるばかりである。
頭を素通りしていた数々のキーワードを追いかけ整理しようとあれやこれやと思考を巡らせているうちに、席替え、という単語に反応を示した晴翔が口を開いたことで、一瞬でも止まっていた話が時雨を置き去りにして進んでしまった。取り残された時雨は声を出すタイミングを見失う。
「え、近々席替えすんの?」
「気にする箇所そこかよ。池宮を巻き添えにして遠回しに隣になりたくないって言われてんのに。祐弥はちょくちょく冷たいんだよな。俺は悲しいわ」
悲しいと言っておきながら実際はそんな風には見えない龍樹の言葉を聞いて、席替えで祐弥の隣になることを願うことに加え、晴翔と龍樹の隣にならないように、それも願ってほしいと、祐弥はそう言っているのだと、時雨はようやく頭の整理がついた。
分かりかねていた話が読めたところで、何かしら答えるタイミングを逃しているがために、結局時雨は何も言い出せなかった。
「席替えは今日すると思うよ」
「初耳なんだけど。それで、祐弥は俺らの隣になりたくはないと、そう言ってんのか?」
晴翔が尋問する体勢に入るかのように、祐弥が座っている席に手を置いた。
「なんかちょっと語弊があるけど、そういうことでいいよ」
「そういうことにしてんじゃねぇ。龍樹は何とも思わないかもしれないけど、俺はマジで傷つくぞ」
「それじゃあ、なってもならなくてもどっちでもいいかなー」
「それじゃあは余計だ、それじゃあは」
くだらないようなことで言い争う祐弥と晴翔を、時雨はまたしてもぼけっと見つめていた。
その時、池宮、と名前を呼ばれ、時雨は目を上げた。龍樹であった。心なしか眉尻が下がっているように見える。小首を傾げる時雨。龍樹が口を開いた。
「祐弥がさっき言ったこと、本当に願うのはやめてな? 祐弥はともかく、池宮にまで隣になりたくないなんて思われるのは、普通にメンタルにくるからさ」
冗談を口にするように笑顔を見せてはくれたが、普段見ている自然な、楽しげな笑みとは違っているように見えた。
龍樹たちは自分のことを気に入っていると、バスの中で祐弥に言われたことを時雨はふと思い出す。だからなのかと思う。気に入っているから、嫌われたり避けられたりされたくないのかもしれない。
しかしそれは杞憂である。時雨は晴翔や龍樹を、決して嫌っているわけでも、避けているわけでもないのだった。単に時雨の口があまりにも下手なだけなのだ。問題はそこにあった。
「席替えで周りが誰になっても、俺は気にしない」
そこまで本気になっていない旨を、時雨は龍樹に伝える。席替えでドキドキワクワクし、高揚する人は多いだろうが、時雨に至ってはテンションがハイになることはなかった。
「本当だな? 俺が近くになっても池宮は嫌じゃないんだな? その時はたくさん話しかけてもいいよな?」
「話しかけられても、面白いことは何も」
「それは池宮じゃなくて俺の役目みたいなもんだろ? 池宮はいつも通りでいいんだよ」
「いつも通り……」
「自然なままの池宮ともっと仲良くなりたいからさ、変に気を遣わないってことを約束してな?」
約束、と小指を立てられる。時雨は龍樹に何を求められているのか一瞬だけ考えてしまったが、すぐに指切りだと気づいた。変に気を遣わないという些細な約束を守るための指切り。
差し出された手を無視するのは憚られる上に、無闇にそのような行動を取る必要性もない。
そう考えた時雨は、龍樹の小指に自分の小指を絡ませようとした。その直後。
「ちょっと待て龍樹。俺を差し置いて抜け駆けしてんじゃねぇ」
祐弥と温度差のある言い合いをしていたはずの晴翔の声が飛び、龍樹の小指が時雨から遠のいた。晴翔が彼の腕を掴み、身体を自分の方へ向かせたのだ。
唐突に行き場を失ってしまった時雨の手が宙に取り残される。時雨は小指をしまいながら静かにその手を引っ込めた。
「一人で先に池宮と仲良くなろうとするのは俺が許さねぇ」
「晴翔は祐弥と盛り上がってたんだから、残された俺と池宮が話すのは普通だろうが」
「でも龍樹、どさくさに紛れて池宮と接触しようとしてたじゃねぇか」
「指切りしようとしてただけだろ?」
「指切りなんて二人だけの秘密みたいでますます気に食わねぇ」
「知るかよ。どうでもいいわ。さっさと手を離せ」
「おいこら、知るかよじゃねぇし、どうでもよくもねぇし、手も離さねぇ」
「手は離せよ」
目の前で繰り広げられるバトルを見て、これは止めなくてもいい争いなのかどうなのか、正解が分からない時雨はちらりと祐弥に目を向けた。同時に祐弥が時雨を見る。目と目が合った。祐弥の顔は飄々としていた。
「いつもこんな感じだから、無視しても大丈夫だよ」
何も言っていないのに伝わってしまい、顔に出てしまっていたのかと時雨は咄嗟に視線を逸らす。
「それならいい」
不穏な喧嘩ではないのなら、放っておいても二人の間に大きな亀裂が入ることはないだろう。時雨よりも遥かに長い期間彼らといる祐弥が言っているのだから、心配することなど何もない。
「池宮くん」
隣で祐弥が時雨を呼び、腰を上げた。その席の生徒はまだ来ていない。それでも、もうそろそろ登校してくる頃だろうか、と時雨は呑気に考えた。
席を立った祐弥が席に座っている時雨を見下ろしながら一歩近づき、机と、椅子の背の上部にそれぞれ手を置いた。目を凝視される。時雨は祐弥の圧に堪えかね、窓側に身を引いてしまった。理解不能な状況であり、行動であった。
「高坂……?」
「聞いて、池宮くん。俺ね、他の誰かが無闇に池宮くんに触れたり、池宮くんが自分から、俺以外の誰かに触れたりするの、正直言って凄く嫌なんだよね。さっきも、晴翔が龍樹を止めてなかったら、俺が止めてたよ」
饒舌に喋る祐弥の目が、切れ味のいい刃物のように鋭く、嘘など言っていないかのように真剣だった。
これは、本気だ。初めて見る目だ。茫洋としていながら、これほどまでに、相手を刺すような目を見せることがあるなど、知らなかった。
時雨は何も、知らなかった。その目が自分に向けられている、その理由すら、知らなかった。知らないままであった。
理解ができなかった。できなかったから、時雨はその事実を、祐弥に返すしかなかった。自惚れなど、しなかった。
「高坂が、どうしてそんなことを言うのか、分からない」
「そうだよね。でも、そのうち分かるよ。分かってもらえるように、頑張るよ」
祐弥が机と椅子から手を離した。緊張感が柔らぎ、時雨は小さく息を吐く。
「あと数分でチャイム鳴るし、俺は席に戻るね」
そう言った後、祐弥が机と机の間を歩き出した。時雨は返答を求められなかった。
祐弥が離れていくと、動いたら首を切るとばかりに見せびらかされていた刃物が鞘にしまわれ、命拾いしたような感覚に包まれた。大仰ではあったが、例えるのならそのような気分であったのだ。
「あー、なんか俺、悪いことしたな。ごめんな池宮」
机の前で晴翔と言い争っていた龍樹が、申し訳なさそうな顔を浮かべた。途中で祐弥の言動に気づき、様子を窺っていたようだ。
「桃瀬が謝る必要はないだろ」
彼に限らず、誰かが謝るようなことではない。誰が悪いわけでもない。誰のせいでもない。そう考えた上での発言だった。
時雨のはっきりとした物言いに、それもそうだな、と頷いた龍樹が、大分熱が冷めている晴翔を促して自席へと向かった。二人が横を通り過ぎていく際、祐弥とも龍樹とも軽く争った晴翔に笑いかけられる。しかし、時雨はにこりともできなかった。全く持って、愛想よくできなかった。
時雨は表情を変えないまま、最低限の動作で後ろを振り返った。祐弥の席を見る。祐弥と目が合う。緩く妖しく笑って見せる祐弥は、いつもの祐弥であった。
見つめ合うことなくすぐに前を向く。視界の隅に入った、先程まで空席だった隣はいつの間にか埋まっていた。
それに気づいてから数秒後、チャイムが鳴り、その日の学校が開始されたのだった。
席替えをしたのは、六限のHRの時だった。朝は結局時間がなかったため、夕方に持ち越されたのだ。
その結果は、惨敗である。四人全員、見事にばらけたのだ。誰も自分の願いが叶わず、誰も幸せになれていない。やはり、物事は都合良くいかないものであった。
時雨に至っては、くじを引く順番を決める際のじゃんけんに運良く勝ち残り、一番最初にくじを引いたにも拘らず、全く同じ席を引く始末だ。どこでも良かったのは本当だが、流石の時雨も同じ席になるなどとは思っていなかった。じゃんけんで運を使い果たしたとしか思えない。
「池宮くんは、じゃんけんは強くても、くじ運は良いのか悪いのか分からないね」
放課後、席替えの余韻もそこそこに、即座に部活へと走った晴翔と龍樹を祐弥と共に見送った後に、彼の口から時雨に向かって飛ばされたストレートな言葉。的を得ており、ぐうの音も出なかった。
クラス全員分のくじが残っている中、たった一枚しかない同じ席を引いたのだから、そこだけ見ればくじ運は良いのかもしれないが、席替えの場合であれば、時雨のそれはどうしようもないくらい悪いと言えた。また同じ席に座りたいなどと思っていれば良い方に逆転はするものの、当然そういうわけでもなかった。
「高坂はくじ運、面白いくらい悪いって聞いたけど」
時雨の机の前で、閉めている窓に寄りかかる祐弥に恨み言のようなものを吐く。時雨の隣の席の人は変わっており、時雨に背を向けた形で、数人で集まって談笑しているために空いていなかった。時雨たちと同じで、部活に所属していないのかもしれない。
「面白いくらい悪いよー。両手合わせて願ったのに、やっぱりというかなんというか、池宮くんの隣になれなかったしね」
多くの人が狙っている、一番後ろの席を引いた人間の言う台詞ではない。時雨の隣であれば前の席でも良かったと言っているに等しかった。後ろの席に全力で賭けていたのに前の方の席になってしまったであろう人たちが、今の祐弥の発言を聞いたら、こめかみに青筋を立ててしまいそうだ。幸い、そのような人たちは全員、放課後になったと同時に走り去っていく運動部であるため、今この場にはいなかった。
「池宮くんの、高坂の隣になりたい、っていう願いが足りなかったせいだね」
「それは関係ないだろ」
「関係あるよー、俺には。ちゃんと願ったかどうかで俺の心情も変わってくるんだよね。勿論、しっかり願ってくれたと俺は思ってるよ」
「……まあ、うん、願ったは願った」
「その間とその適当さは絶対願ってないじゃん」
速攻指摘され、時雨は祐弥から視線を逸らした。
正直、隣になりたい、というよりも、隣になってもいいか、くらいの軽い気持ちで席替えに望んでいた。それをあっさり見抜かれている。
「その様子じゃあ、晴翔と龍樹のことも、俺の言った通りにはしてないね」
時雨は視線を逸らし続けた。二人とは隣になりたくない、と手を合わせて願うことだろう。図星だ。それはしていない。祐弥に願われるのはともかく、自分からそれを願うのは違うと判断してのことだった。その場の乗りで揶揄し合えるほど、時雨と彼らはまだ親密にはなれていなかった。
「でも結果的には、二人とも池宮くんの隣にはならなかったし、それに関しては俺の願望が叶ったみたいで良かったよー」
「……高坂は、なんでそんなに、塚原と桃瀬が俺の隣になることを嫌がる?」
時雨は思わず尋ねていた。彼らが自分の隣になることで、祐弥に何かしらのデメリットがあるから嫌がっているのだろうと思ってはいるが、そのデメリットが何なのか、時雨には書き出せないのだった。
問いを聞いた祐弥に見つめられる。何を語っているのか、その目だけでは判断がつかない。
そんな祐弥から放たれる謎のプレッシャーに、僅かな緊張感が走った。
「どうして嫌なのか、答え合わせしてもいいけど、まだちょっと早いかもね」
「早い?」
「時期尚早ってやつだよ」
「そんなのに時期なんかないだろ」
「あるんだよね、これが。だから今は何となくってことにしといてよ」
それ以上は何も答えられない、まだ答えるつもりはない、と遠回しに断言されている。
時雨は大人しく引き下がる他なかった。しつこく問い質しても、頑なにさせるだけである。時雨も意地になるほど知りたいわけではないため、そこで終わりにした。
質問に素直に答えようとしない祐弥は何かを隠しているようだ。それを時雨に伝えるタイミングを見計らっているようだ。理由もなしに嫌がっているわけではなく、祐弥なりの理由があって嫌がっている。それだけは、鈍感な時雨でもはっきりと分かった。
「俺も日頃から、ちょこちょこヒントは出してるつもりだよ。池宮くん」
「ヒントって、何のヒント?」
「さっきの質問の答えも含めていろいろだよ。池宮くんが俺に関して疑問に思ってることが解決に繋がるかもしれないヒントとか」
窓に背を預けていた祐弥が徐に机に両手を置き、ぐっと顔を近づけてきた。反射で時雨は身を引いてしまう。
パーソナルスペースに入り込んでくる、この容赦のない積極的な距離の詰め方も、何か意味があるのだろうか。話の流れからしたらあるのかもしれない、と時雨は一瞬のうちに頭を回転させた。
「俺のこと、ちゃんと見ておかないと、ヒントも、池宮くんが知りたいことも、全部、見逃すよ」
「見逃したって、別に」
「ダメだよ。それは俺が悲しいから」
「悲しいことなんかないだろ」
「あるよ。ある。俺はもう少しだけ自信が欲しいんだよ。俺の目指すゴールに一歩でも早く進むためにね」
「……それも、ヒント?」
「うん、ヒントだね」
時雨の言葉に全て即答してみせた祐弥の影がそっと離れた。微かに身体を流れていた緊張が解け、時雨は静かに深い息を吐いてしまう。
朝に近づかれた時よりも、プレッシャーや、刃物で刺されそうな感覚はそれほど感じなかったものの、柄の部分に手はかけられていたのではないかと想像を膨らませてしまうくらいの緊張感はあった。これも、その場の乗りなんかではないのだろうと時雨は推測する。
「池宮くん、バスが来るまでまだ時間あるし、スーパーで何かお菓子でも買って一緒に食べない?」
教室にかけられている時計を見た祐弥が、脈絡もなくそう提案した。空気が瞬く間に緩んでいった。
「いいけど」
答えてすぐ、財布は持って来ていただろうかと急に不安になった時雨は、机の横にかけていた鞄を掴んで膝の上に乗せた。チャックを開けて中を覗く。隅に押しやられている財布を発見してから、開けたばかりのチャックを閉めた。
ふと上から視線を感じ、顔を上げた。なぜかじっとこちらを見ていた祐弥と目が合う。口角が少しばかり持ち上がっている。その唇が開かれた。
「俺の誘いに、あんまり悩んでない感じでOKしてくれて、凄く嬉しいよー」
「……確かに」
誘われても嫌ではなかった。祐弥の誘いに乗るか乗らないか、悩むこともなかった。それ故の即答であったと言える。
「無自覚は狡いねー」
緩い口調で嬉しいと口にした後、悩んでいなかったことを素直に認めた時雨に対して狡いと吐露した祐弥が、鞄を取りに行くのだろう、時雨の席を一旦離れた。
祐弥の後を辿るように時雨は首を動かす。自分のその動作で、時雨は祐弥を目で追ってしまっていることに気づき、すかさず前を向いた。祐弥本人に気づかれたら厄介だ。変に絡まれてしまうのが目に見えている。
「お待たせ、池宮くん。それじゃあ行こう」
鞄を持って戻って来た祐弥に先導された。一瞬でも行動を追ってしまったことは知られていないようだ。安心する。
祐弥にうんと頷いた時雨は、自分の鞄を手に提げながら席を立った。話し込んでいるクラスメートの側を通り過ぎていく。
時雨は祐弥の後を追い、廊下に出てから隣に並んだ。二人なのだから当然かもしれないが、そうすることが癖になりつつあるのだった。常に一人で行動していた時雨にとっては、それは大きな変化であった。
静かに階段を降りていく。学校生活の中ではよく通る道でもあるはずなのに、その時よりも随分と開放感に溢れていた。放課後特有の独特な空気感が、拘束を解いていることを知らせてくれているかのようだ。
その日の全ての授業が終了した後のこの時間は、みんなそうだろうが、時雨も好きな方であった。周りと比べて高校生らしく青春を謳歌することは少なくとも、時雨も何も特別ではない、ただ人付き合いが苦手なだけのどこにでもいる男子高校生だ。考えることも、感じることも、他の人とそう大して変わらなかった。
「俺ね、池宮くんとお菓子食べながら時間潰すこと、ずっとしてみたかったんだよね」
「してみたいことが小さすぎるだろ」
「そんなことないよー。小さなことから詰めていくのは意外と大事じゃん。いきなり大きく出て引かれたくなんかないしね」
意味深だ。何を大きく出るつもりなのか。小さなことから詰めなければならないほどに、それは一般的に引かれてしまうことなのだろうか。
時雨の中でまた、疑問が増える。その疑問を解決できるかもしれないヒントを出していると祐弥は話していたが、それらを掻き集めて素早く整理ができるほど、時雨の頭の回転は速くはなかった。
時間がいる。集中力がいる。今は明らかにどちらも足りていない。誰かと会話を交わしながら別のことを考えられるほど、時雨は器用ではないのだ。
思考を巡らすのであれば、誰にも邪魔されない一人の空間に入り込んだ時だ。家だ。自室だ。あるいは、祐弥がいない時のバス内だ。彼が何を考えているのかを考えるのであれば、その辺りの場所が良い。
生徒玄関まで辿り着き、靴に履き替えた。すぐ近くの外階段を上がった先にある体育館からは、部活動の練習に励む生徒の声や、ボールの弾む音が聞こえている。バレー部とバスケ部だ。
早々に教室を駆けていった晴翔と龍樹は、バスケ部に所属していた。どちらもかなり上手いらしい。二人揃って身体能力が高いことは体育の授業で判然としていたため、時雨はすんなりと腑に落ちた。
「頑張ってるよねー、晴翔と龍樹」
体育館に目を向けた祐弥が淡々と称賛の声を上げた。
普段の扱いは大雑把ではあるが、なんだかんだ二人のことをよく見ており、気にかけていることが分かる。本人たちの前ではあまり口にすることのない言葉ではあったが。
祐弥と同じように体育館を見た時雨は、黙って首肯する。二人が頑張っていることは、関わるようになってまだ日が浅い時雨でも知っていることであった。
何かに真剣に取り組んでいる二人は、そういう眼差しを向けられるものが何もない時雨とは比べ物にならないほどに長けている。一生懸命になれるものが、時雨にはなかった。
「俺、部活とか、今でも入ろうと思わないよ」
「俺も思わない」
「だよね。文化部も含めて、何かしらに入部してる人たちのことを尊敬するよ、俺は」
時雨も祐弥も、無所属である。絶対にどこかに入部しなければならないという決まりはないため、時雨のような、どこにも属していない人は少なくない。入部している人は、中学からの継続だったり、その部活に興味があったり、または勧誘されて、友人に誘われて、入部を決めたりした人が大半だった。
去年、時雨もいくつかの運動部に勧誘されたことがあったが、全てきっぱりと断っていた。その際、なぜ自分を誘ったのかと問い質してしまえば、漏れなく運動神経が良さそうだからという回答であった。
完全に偏見だった。実際の時雨は、特別動けるわけでも、かといって全く動けないというわけでもなく、至って平均的な身体能力である。球技などをする時、上手くて目立つことも、下手で目立つこともない程度のものだ。
断って正解だった。そうでなくとも、やる気のない人間がやる気のある人間の中に入っても士気が下がるだけだ。足手まといになるだけだ。断ったことに、時雨は悔いなどなかった。
共に放課後は自由の身である祐弥と肩を並べ、取るに足らない短い会話を交わしながら、裏門へ向けて歩みを進めた。
目的地であるスーパーは、校舎と道路を挟んだ先にあり、正門からよりも裏門からの方がぐるりと大回りせずに済むため、断然こちらの道から行く方が近かった。
歩道を暫し歩き、車が走っていないのを確認してから、気持ち駆け足で道路を横断する。
大きな駐車場に入った。車に注意しながら更に歩き、一番近い出入り口の自動ドアを反応させる。祐弥が先に店内に足を踏み入れ、時雨はその後に続いた。
まっすぐ菓子コーナーへ行き、多種多様な商品が整然と並んだ棚を見て回る。時雨は自然と、チョコ系の菓子が集められている場所で足を止めていた。今の気分はどうやらチョコらしい。時雨はまるで他人事のようにそう思った。
「池宮くんはチョコが好きなんだね」
立ち止まった時雨に気づいた祐弥が隣に立ち、時雨と同じ棚を眺めて言った。
「よく買って食べはする」
「それは好きってことだよー。ちなみにどれをよく食べるのか、良かったら教えてよ」
祐弥に顔を見られた。あまり首を動かさずに横目で見返す。返答を待ち望んでいる様子だった。
なぜそんなことが知りたいのかと理由を求めてしまいそうになったが、雑談にいちいち疑問を感じていてはキリがない。雑談は雑談だ。それに理由など必要ない。
時雨は思考の渦に入りかけた頭を瞬時に切り替え、棚に目を向けた。そこでピントが合った商品を指差す。
「これとか、よく食べる」
「いいねー。俺も好きだよ」
祐弥が共感する。時雨が指したのは、どこにでもある定番の菓子であり、今でも人気のある菓子であった。ぐるぐるとあちこち回っても、結局これに戻って来てしまうのだ。
「池宮くんはどっち派? きのこ指してるから、きのこ派?」
「気分によって変わるから、どっち派とかは特にない」
「一緒だね。俺もだよ。どっちも好き派で、どっちも等しく食べたい派」
きのこ派かたけのこ派か、平和的な謎の論争は時々発生する。時雨はそのどちらの派閥にもつかない中立的な立場だった。それは祐弥も同じらしい。
「今はどっちの気分?」
「……たけのこ」
「うん、分かったよ。じゃあ俺はこっち買うね」
数秒悩んで、結果、今日はたけのこに心が動いた時雨の横で、祐弥がさっと手を伸ばして取ったのは、きのこの方だった。
時雨は祐弥の手を目で追ってしまう。自分と同じ商品を選択することを避けたのかと勘繰ってしまったが、きのこの見慣れたパッケージを見せびらかした祐弥が続けた言葉を聞いて、そうではないことを悟った。
「池宮くん、今はたけのこの気分みたいだけど、それ聞いて怒ったきのこにいつ池宮くんが侵食されるか分からないから、もしもの時のために俺がこっちを買っておくよー」
「世界観が謎すぎる」
「池宮くんにライバルのたけのこを選ばれて、きのこは怒ってるんだよ。きのこの逆襲が始まりそうな予感」
「ついていけないけどそれはないだろ」
「それはないよねー。自分で言ってて頭おかしいんじゃないかって思ったよ」
随分あっさりと引き下がった祐弥が、時雨に見せていたきのこの箱を雑に振った。中のものがぶつかり合う音がする。
「俺には高坂がどっちも食べたいだけに聞こえた」
「凄い、大正解。よく分かったね。きのこもたけのこも買ってもいいんだけど、池宮くんがたけのこを選ぶなら、俺はきのこを買っておけばいいよね。もしかしたら交換してもらえるかもしれないし」
「図々しい」
「でも交換してくれると信じてるよ。池宮くんは優しいことを俺は知ってるから」
口元だけで微笑まれ、再び見せられた祐弥の妖しい表情に時雨は口を噤む。依然、考えが読めない人だった。
祐弥に見つめられながら、時雨はたけのこを手に取った。そのままレジに持っていこうとする足を、祐弥に止められる。
「池宮くん、お菓子食べたら絶対喉乾くから、飲み物もついでに買わない?」
「……ああ、うん。買っとく」
食べれば確かに喉は渇く。時雨は秒で踵を返した。
たけのこときのこのチョコを各々が手にしたまま、時雨と祐弥は飲料コーナーへ移動する。
それほど量は多くなくていいため、時雨は紙パックのものを選ぶことにした。果物系のものだ。適当に見て、適当にオレンジを選ぶ。あまり拘りはなかった。飲めればそれでいいという考えである。
「池宮くんがそれにするなら、俺もそれ系の違う味にするね」
「別に俺に合わせなくても」
「違うよ。池宮くんに合わせようとしてるんじゃなくて、俺が池宮くんに合わせたいからそうしてるだけだよ」
「……また、それ、高坂の言うヒント?」
「うん、そうだね。食べて飲んで捨てたら終わりの、形には残らない期間限定のお揃いだね」
ヒントであることをすぐに認めた祐弥が、紙パックのグレープを手に取った。その横顔を時雨は見つめる。見つめてしまう。考えを探ろうと、見つめてしまう。
しかし、いくら見つめたとて、エスパーでも何でもない平凡な時雨には、読み取れる真意などは何もなかった。何も読み取れなかった。
何も、はっきりとしたことは何も、分からなかった。分からないままだった。時雨は祐弥に関して、未だに分からないことばかりだった。
「池宮くん、他に何か欲しいものがあったら付き合うよ」
祐弥がパッと時雨に顔を向けた。注視していた時雨は祐弥と思い切り目が合ってしまう。
視線を外すのが遅かった。見ていたことに気づかれた。今更逸らしても後の祭りではあったが、時雨は何食わぬ顔でそっぽを向いた。
「池宮くん、ちょうど俺のこと見てたんだね。だんだん俺に興味が湧いてきてるってことかなー」
「そんなに深い意味はない」
「うん、だとしても、やっぱり感激だよ。これからも遠慮なく俺のこと見てくれていいからね」
「……俺に見られたい?」
「見られたいよ。池宮くんのその瞳に、たくさん俺のこと映してほしいなって、結構真面目に思ってるんだよ」
本当に真面目な顔をされ、時雨は言葉を返せなくなった。これもまた、ヒントだとでも言うのだろうか。
何かを求めているような、攻めているような、そんな雰囲気を出されると、時雨は毎回言葉を失くしてしまう。経験したことのない気持ちになってしまう。
まだその意味を自分でも理解できていない時雨は、脱線しかけている話を元に戻した。
「……欲しいものは特にないから、もうレジ行っていい」
「うん。買ったら早速食べようね」
祐弥が真剣に口にしたことをスルーした時雨に、彼が突っ込むことはなかった。その話を広げることもなかった。
攻めたことを口にしても、相手がその話を避ける仕草を少しでも見せれば、それ以上は踏み込まずに一旦大人しく身を引く。
遠慮はなくとも引くべきことではちゃんと引く。そのようなめりはりのあるところが上手かった。祐弥のコミュニケーション能力が高い所以の一つであると言えた。
他人との付き合い方や距離の縮め方を熟知している人だ。しつこくされればされるほど寡黙さに拍車がかかり、それにより分厚くなった殻に閉じこもる節のある時雨にとっては、祐弥の保つ距離感がちょうど良い塩梅であった。
手にした菓子と飲み物の会計をそれぞれレジで済ませ、二人は外に出る。
「あそこの空いてるベンチでいいよね」
時雨は首を縦に振った。この大型スーパーにはいくつかのベンチが設置してあるのだった。その一つに、時雨たちは腰を下ろした。
鞄を傍らに置き、祐弥が先にきのこのパッケージを開ける。中の包装も両手で裂くようにして開け、きのこの形をした有名な菓子を一個摘んで口に入れた。
一連の流れを意味もなく眺めてしまってから、時雨も封を開けて包装を破り、きのこではないたけのこの形をした菓子を一個手に取って口に放り込む。数回噛んで、飲み込んだ。
しばらく無言で黙々と食べ続けていると、祐弥が言った通り、喉の渇きを早々に覚えてしまった時雨は、たけのこを膝の上に置き、紙パックにストローを差して喉を潤した。
その際、横から視線を感じ、ストローから唇を離した時雨は隣を見遣った。食べる手を止めている祐弥が、こちらをじっと見つめている。見つめ合うことに抵抗のある時雨はすぐに顔を背け、たけのこのチョコを食べた。
「池宮くん、もうそろそろきのこが欲しくなってきたんじゃない?」
祐弥が時雨の気を引くように箱を軽く振った。未開封の時よりも中身は詰まってはいないと感じる音がする。祐弥が食べたのだから当然であった。
「特に欲しくはなってないけど」
「うーん、それは残念だよ」
「何も残念じゃないだろ」
「残念だよ。俺の中の交換条件満たせないじゃん」
「交換条件?」
「きのこ食べさせる代わりにたけのこ貰おうとしてたんだよねー」
「……そんなにたけのこ食べたいなら、交換とかしなくても普通にあげるけど」
言って、時雨は箱を祐弥に差し出した。無論、取りやすくさせるためである。
祐弥が時雨とたけのこの箱を交互に見た。そして、やはり、祐弥の方がたけのこが欲しくなっていたらしく、迷いもなくスッと手を伸ばしてくる。一個、いや、二個だ。清々しいほどに遠慮がなかった。
「ありがとー。やっぱり池宮くんは凄く優しいね」
祐弥が二個のたけのこをまとめて口に放り込んだ。もぐもぐと噛み砕いていく。程なくして、ごくりと飲み込んだのが分かった。
「池宮くん、たけのこくれたお礼に、俺がきのこを食べさせてあげるよー」
「……食べさせてあげるってどういうこと」
一度目は突っ込まなかったが、二度目となるとその発言が少し気になってしまい、時雨は首を傾げてみせた。そのままの意味であれば、祐弥に恥ずかしいことをさせられてしまう気しかしない。時雨は密かに身構えた。
「そのままの意味だよ。俺が、池宮くんに、食べさせるんだよ」
祐弥が時雨の目を捉えた。相も変わらず茫洋としている。
自分の予想が当たってしまったことに警戒心が強まった時雨は、眉間に皺を寄せてしまいそうになりながらたけのこを食べた。紙パックのジュースを飲んだ。祐弥がきのこを一個手に取った。
「食べさせてあげるよ」
「……何の罰ゲーム?」
「罰ゲームじゃないよ。一応お礼だよ」
「俺には罰ゲームでしかない」
「俺に食べさせられることが?」
「高坂に限らず、誰かに食べさせられることが」
「そっか。なら、逆だったらいいんだね」
「逆?」
時雨に食べさせようとしていたきのこを口に運んだ祐弥が、まだきのこが残っている箱を、先程時雨がしたみたいに差し出してきた。時雨は祐弥ときのこの箱を交互に見てしまう。祐弥と行動が逆になっていた。
「池宮くんが、俺に、食べさせてよ」
「俺が、食べさせる?」
「うん。食べさせる側ならいいよね」
「……誰得なのか分からない」
「俺得だねー。池宮くんに食べさせてもらえるなんて、ご褒美でしかないよ。最初からそうしとけばよかったかなー」
照れもせずに淡々とご褒美だと口にする祐弥に、時雨はまたしても不思議な気持ちになった。返す言葉を見失ってしまう。
時雨は口のチャックを閉められてしまったかの如く無言になり、食べることも飲むこともせず、次の行動を決めかねていた。隣では、きのこを差し出したまま静かに待っている祐弥が、期待を込めた目でこちらを見ている。
食べさせられるよりも食べさせる方がまだいいが、なぜ自分がそんなことをしなければならないのか、なぜ祐弥はそれに拘るのか、疑問が湧いてしまう時雨は、祐弥にきのこを食べさせられないままだった。
ベンチの前を通る人もいる。目の前には止まっている車もある。そんな中、いや、そんな中でなくとも、菓子を食べさせている男とそれを食べさせられている男がいるのは、何も知らない人からすれば異様な光景である。変な勘違いをされてしまう可能性もあるのに、これに関しては一歩も引かない祐弥の言動は、謎だらけだ。
時雨は謎に包まれた祐弥を見る。依然として、諦める気はなさそうである。時雨は息を吐き出した。
抵抗はあるが、やるしかないようだ。でなければ、一生終わらない。そのような気迫すら、祐弥からは感じた。
時雨は徐に手を伸ばし、祐弥の持つ底の浅い箱から、チョコを頭に被ったきのこを取った。
唇を引き結んだまま祐弥を見て、唇を引き結んだままきのこを祐弥の口元へ近づける。その口の両端が、微かに持ち上がるのを時雨は目の当たりにした。そして、ゆっくりと、受け入れるように、開かれた。
祐弥の息が、時雨の指先に触れる。熱かった。チョコなどあっという間に溶けてしまうのではないかと思うほどに、熱かった。
きのこの頭の部分が、祐弥の口の中へ入っていく。瞬きをした。祐弥と目が合った。心なしか、挑発的な目だった。妙な気分に陥り、時雨の胸が騒めいた。
きのこから指を離すと、それは祐弥の口内に収まり、彼によって粉々に噛み砕かれた。その音で、目の覚めるような思いがした時雨は、気を取り直すように紙パックのストローを口に咥え、吸って、飲んだ。
「凄くドキドキしたねー」
「……全くしてなさそうに聞こえる」
「そんなことないよ。こう見えて、ずっとドキドキしてるんだよ、俺」
祐弥が未開封だった紙パックにストローを差し、ごくごくと飲んでいく。時雨は何も言わずに、残り僅かとなっているたけのこをもぐもぐと食べた。
「池宮くんは、ドキドキしてない?」
「……してない」
「そっか。なかなか手強いね」
食べさせる際に祐弥と目が合い、未知の感覚に陥ったことは、言わなかった。一瞬でも胸や身体が熱くなったことも、言わなかった。
たけのこときのこをそれぞれ食べ、オレンジとグレープをそれぞれ飲んだ。食べて、飲み、祐弥よりも先に全てが空になったところですることがなくなった時雨は、そのタイミングでスマホを確認した。バスの時間まで十分を切っている。距離はそれほど遠くないとは言え、走る羽目になる前にそろそろ移動した方がいいだろうと思い、時雨は祐弥を促した。
「高坂、もうすぐ時間」
「もうそんな時間? 池宮くんといると時間経つの早いよ」
そんな時間と言いながらも慌てることのない祐弥が、落ち着き払った動作で紙パックのグレープを飲み干した。まだ菓子の方は中途半端に残っている。たった二個だけだ。
それだけなのに食べ切らないのだろうかと不思議に思っていると、これあげるよ、と祐弥にその箱ごと差し出された。
「俺、たけのこ二個貰ったからさ。良かったら食べてよ」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「気にするよー。俺ばっかり良い思いするのは不公平じゃん」
「……うん、分かった。ありがとう」
祐弥の厚意だ。拒否し続けるのも悪いと思い、時雨は残されたきのこを二個まとめて取り、まとめて口に入れた。
「それじゃあ行こう、池宮くん」
鞄を持って先陣を切る祐弥に時雨は頷く。
店の外に設置されている分別用ゴミ箱に紙パックと菓子のパッケージを入れ、時雨は祐弥と肩を並べてバス停へと歩みを進めた。祐弥から貰ったきのこのチョコが、なぜかやけに甘く感じたことには気づかないふりをしながら。
二年生になって約一ヶ月が経った。クラス内でのグループは既にできあがっていて、時雨はそのどこにも属さないだろうと思っていたが、いつの間にか祐弥のグループに加えられていた。時雨と祐弥を含めて四人でいることが増えていたのだ。言わずもがな、その内の二人は祐弥と親しい間柄にある人たちだった。
時雨の予想に反して、祐弥は未だに時雨に飽きておらず、積極性が少しも欠けていない。一ヶ月も、自分に興味関心があるという好意的な態度を続けられてしまっては、人付き合いが苦手であっても心を許してしまいそうになる。
祐弥が時雨に対してそのような節があるからか、他の二人が新入りの時雨を受け入れるのも早かった。二人ともタイプは違うものの、運動部特有の明朗な性格をしているからかもしれない。あっという間に連絡先まで交換させられてしまった。それは半ば強制的だった。
普段と変わりのない朝、最寄りの停留所でバスに乗り込み後ろから二番目の席を陣取った時雨は、耳に装着したイヤホンで音楽を聴いていた。去年からずっと、バスの中ではそうして周りの音を遮断し続けている。祐弥が隣にいる時は外しているが、その時以外は、基本的に音楽で暇を潰していた。
しかしながら、今年に入ってから、そのようにして暇を潰す時間が圧倒的に少なくなっていることに、流石の時雨も気づかないほど鈍感ではなかった。完全に祐弥のせいであり、祐弥のおかげであった。
バスの中だけでなく、教室でも、暇だと感じる無駄な時間が減っていると思うくらいには、時雨の生活に、言い方は悪いが、祐弥が侵食してきていた。
祐弥とは友人になっているのだろうか。友人に思えてきているのだろうか。バスで毎日隣同士で座り、それを拒否することもなく受け入れている状態なのだから、そうなのかもしれない。いや、そうなのだろう。時雨は祐弥のことを、今更ながら友人なのだと認識し始めた。
ランダムに流している音楽が五曲目に入った頃、バスが祐弥のいる診療所前の停留所に着き、いつものようにゆっくりと停車した。ドアが開き、バスを待っていた祐弥が乗車する。迷いなく後方へ足を向けた祐弥が、時雨のいる座席に顔を出した。時雨はサビに入りかけた音楽を途中で止め、耳からイヤホンを外す。
「池宮くん、おはよう」
「おはよう」
挨拶をして隣に座った祐弥に同じように返した後、時雨はイヤホンを鞄に押し込んだ。良いところで音楽を停止させようとも、例えそうする羽目になったとしても、時雨は何も思わなかった。
バスが発進する。ここからは祐弥と共に車内での時間を潰していく。話したり話さなかったりしながら、緩めに息をしていく。
「あの二人にはもう慣れた?」
祐弥が尋ねてきた。あの二人とは、時雨が最近連むようになった彼ら、塚原晴翔と桃瀬龍樹のことだろう。時雨にはこの二人しか思いつかなかった。
「多少は、慣れたと思う」
「良かった。晴翔と龍樹、池宮くんのこと結構気に入ってるっぽいんだよね」
「俺に何か気に入る要素なんてないだろ」
「それは池宮くんが決めることじゃないよ」
即答される。時雨が自己を卑下するような発言をした時、祐弥はすかさずそれを否定することがあった。時雨はその度に、続く言葉を飲み込んでしまう。今回も例外ではなかった。
「悪く思われてはいないんだから、もうそれでいいじゃん。池宮くんは自己評価が低すぎるよー。自分の魅力に全く気づいてないよね」
俺に魅力があるとは思えない。
簡単にそう口にしそうになって、時雨は咄嗟に唇を強く引き結んだ。そのような思考のことだ。発言のことだ。祐弥が指摘していることは。
時雨は祐弥に、自身のマイナス思考をじわじわと矯正されているような気分に陥った。自己に対して極端に低評価なのは、確かに時雨の欠点だ。時雨に好感を抱いているような祐弥であっても、それに関しては決して肯定はしていない様子だった。
「池宮くん、何しても何聞いても反応が薄いから、逆に面白くて興味が湧くんだって。二人が言ってたよ」
脱線しかけた話を祐弥が戻す。顔を見られた。目が合った。ふいと逸らしてしまった。
祐弥だけでなく、晴翔と龍樹にも興味を持たれているらしいことについて、時雨は上手いリアクションが取れないまま曖昧な返事をして口を閉ざす。指摘されたことについては、何も反論はしなかった。
「どうしたら表情を変えてくれるのか、どうしたら自分たちのことを見てくれるのか、いろいろ考えてるみたいだよ」
「……俺、二人のこと、少しも見てなくはない」
「そうなんだけど、そうじゃないっていうか。多分、関心を寄せてほしいってことだよ。心の部分だね」
「心の部分……」
「うん。でも、あの二人よりも、まずは俺のことを見てほしいかなー」
冗談であり、本気である。そのどちらにも転べるような、そんな声だった。そんな目だった。
こちらを見る祐弥の瞳孔が開いているように見え、時雨はまるで、何かに捕えられたような気分になる。
「俺にはまだ興味ない? 知りたいとは思ってない?」
「それは、ない、わけじゃない」
歯切れが悪くなってしまった。
基本的に他人にも自分にも無関心なのは変わらないが、祐弥については、一ヶ月の関わりのせいか、ほんの僅かだが気になり始めている。
なぜ、自分に興味を持っているのか。なぜ、自分に興醒めしないのか。なぜ、自分と仲良くなりたいのか。知りたい気がしている。
時雨は、前に祐弥の言っていたゴールが何なのか、未だに分かりかねていた。浮かんだなぜがそれに関係しているのだとしたら、祐弥の企図するものを予想できるかもしれないが、そこまでして深く入り込むほどのことではないように思える。
時雨は誰にどのような疑問を抱いても、それを本人に直接問うことをほとんどしないのだった。今回もそうだった。
「二重否定ということは、つまりは肯定だね。少しは興味を持ってるってことじゃん。池宮くんの方からちょっとだけ俺に近寄ってくれた感じがして気分が良いよ」
祐弥が頬を持ち上げる。控えめな笑みだった。
晴翔や龍樹ともいるようになって気づいたことだが、笑う時、祐弥は声もなく静かに笑う。それは時雨の前だけではなく、誰の前でもそうだった。晴翔と龍樹が声を上げて楽しげに笑っていようとも、時雨はともかく祐弥もげらげら笑うことはない。それでも二人は構わないのだろう。だから今でも祐弥と仲良くしているに違いない。
緩く笑っている祐弥が、自分を凝視していることに時雨は気づいた。時雨は人の顔をあまり見ることができないが、祐弥は全くそうではない。よく見てくる人だった。
「その調子でさ、俺に興味を持ち続けてくれると嬉しいかなー」
また、冗談か本気か判別しにくい空気が流れる。
祐弥の発言は大体いつも真意が読めない。時雨は適当な言葉であしらうことも真面目に返すこともできないまま、固く唇を閉じ続けた。無視されたと祐弥に思われたとしても、時雨が態度を変えることはなかった。
短い会話が終了する。車内は次の停留所を知らせるアナウンスが響くだけで、とても穏やかだった。時雨も祐弥も迷惑にならないように小声で話してはいたが、近くに座る人たちにはしっかり聞こえてしまっていたかもしれない。
時雨は何気なく祐弥の顔を窺う。リラックスしているように思える横顔を見て、祐弥も沈黙が訪れることに気まずさは感じていないのだと悟った。
関わるようになってまだ一ヶ月程度で、祐弥のことをよく知っているわけではないが、それでも、分かったことが一つだけある。祐弥は意外にも、ずっと喋りっぱなしの人ではないということだ。それはバス内だけの話ではなかった。
時雨よりも祐弥の方が口数が多いのは言うまでもないが、例の二人と比べると少ない方であった。二人の前では聞き役に徹している節がある。話をリードするようなことはほとんどない。そのためか、時雨と祐弥の二人きりの時は、このような静かな時間が流れることが多々あるのだった。
気まずさは感じない、緩やかな沈黙が続いたまま、バスは学校前の停留所に着いた。ドアが開き、制服を着た時雨と祐弥のみが、大きな箱から外に出る。
二人を降ろしたバスが目の前を通過して行った後、どちらからともなく歩き出した。校門は目と鼻の先である。
「今日も始まるねー、学校」
「そうだな」
「池宮くんがいるし、晴翔と龍樹もいるし、楽しくないわけじゃないのに、なんかちょっと怠いよねー」
「そんなもんだろ、学校なんて」
「そんなもんだね、学校なんて」
適当に返事をすると、ほぼ鸚鵡返しであっさりと納得された。学校とはそんなものだった。
時雨は祐弥と、バスを降りてからも肩を並べることが増えた。すたすたと歩いて祐弥を置いて行くことがなくなった。そうする理由がなくなっていた。
時雨はさりげなく祐弥にペースを合わせる。歩くのが早いと言われた手前、いつしか歩幅を意識するようになってしまった。
のんびりと歩く祐弥についていくように日々息を合わせていると、時間の流れの感覚が不思議とゆったりしたものに変化しているような気がしないでもない。自分は生き急いでいたのかと思わされる。
生徒が集まる校舎へと続く校門を潜った。登校ラッシュの時間帯よりもバスが到着するのは早いため、人気は少ない。
時雨は人混みが苦手だ。生徒玄関などが混雑してしまう前に登校できるのはとてもありがたいことだった。
まだ閑散としている玄関で靴を履き替え、三階にある二年二組の教室へと向かう。
この高校の校舎は四階建てで、上から、一年生、二年生、三年生の教室がある造りとなっていた。学年が上がるごとに階が下がっていく仕組みだ。一階は、職員室や事務室、保健室、視聴覚室などがある。職員室くらいしか特に用はなく、生徒は滅多に使用することのない階だった。
祐弥と足並みを揃えながら階段を上っている途中で、そういえば、とふと何かを思い出したらしい祐弥が声を上げた。
「今日、SHRで席替えするとか言ってなかった?」
「席替え?」
「うん。昨日何人かがそろそろしたいって要望出してたし、みんなそれに頷いてたし、根負けした先生も明日するとか確か言ってたよ」
「へぇ」
「全力でどうでもいいって言ってるねー」
祐弥が時雨の言葉を勝手に訳し、決めつける。しかし、その通りのため、時雨は言い直すことなどはしなかった。
「席替えするにしても、俺はどこでもいいから」
「どこでもいいんだったら、俺の隣になっても全然いいよね」
「まだ、隣狙ってる?」
「狙ってるよ。本気で」
初日から隣になることに妙な拘りを見せていたが、それが現在進行形であることに、なぜそこまで、と思わずにはいられない。いられなかったが、時雨はそれを問わなかった。
三階につき、二組の教室に二人は足を踏み入れる。いつも早くに登校して来ている人たちが談笑していた。
誰がどのくらいの時間帯に来るか、その人のルーティンのようなものが、それとなく分かり始める頃だった。ラッシュ時に空いた席が瞬く間に埋まり、それで残った席が、登校時間ギリギリで埋まる。時雨が知る限り、その中には焦ることも駆け込むこともなく登校して来る人がいるため、ほぼちょうどに来られるように計算して家を出ているのだろうと思う。バス通であってもなくても、時雨にはできない、やろうとも思わない所業であった。それとは逆に、焦りながら駆け込んで来る人もいた。
自席に鞄を置き、引いた椅子に座る。時雨の横はまだ空席だ。
後ろの席に鞄を置いた祐弥が戻って来た。時雨の右隣の空席に躊躇なく腰を下ろす。その席の生徒が来るまで座って駄弁るのが日常となっていた。席が変わっても、習慣化しているようなこれは継続されそうだと時雨は密かに思った。
「池宮くん、もし席替えするってなったら、ちゃんと願ってくれる?」
「……何を?」
「俺の右の席か左の席になることだよ」
椅子に対して横に座り、背凭れと机にそれぞれ肘を置く祐弥が時雨を見つめ、僅かな微笑を浮かべた。
「どこでもいいならさ、そうしてみてよ」
「……まあ、願うくらいなら」
「うん。俺は凄く願ってるよ」
言質を取られてしまっていると時雨は思った。どこでもいいなどと安直で余計なことを言ったことを撤回したい、撤回する、というようなことを同時に考えてしまったが、言わなかった。いずれにせよ、祐弥と隣になる確率は、他の誰かと隣になる確率よりも低いだろう。二人して願ってみたところで、運良く事が進むとは思えない。
時雨は、祐弥と机を並べることが嫌というわけではなかった。狙っていると瞳孔を開いているような祐弥とは違い、なってもならなくてもどちらでもいいのだ。本気だなんだとぐいぐい積極的に攻めてくる祐弥を拒絶していないだけでも、人と関わることを避けがちだった当初よりも少しは成長していると言えた。
「これで本当に叶ったらいいね」
「そう簡単にはいかないと思うけど」
「そう簡単にはいかないことがそう簡単にいったら凄くない?」
「それは運が良いな」
「良いよねー。でも俺、くじ運は面白いくらい悪いから、池宮くんに丸投げするよー」
言ってすぐ、気迫か運か分からない何かをエアで雑に投げつけられる。全部任せるね、と祐弥。謎の絡みである。
「丸投げされても何も変わらない」
時雨は投げつけられた目に見えないものを、特に何もせずにそのまま受け止めた。絡みに絡まないのはいつものことだった。それが時雨の常時であることを理解しているからか、祐弥も冷めることはなかった。
その後も祐弥に先導されながら他愛のない会話を続けていると、祐弥の肩越しで、廊下から姿を現した生徒と時雨はちょうど目が合った。にこ、よりも、にか、というオノマトペが合っていそうな笑みを浮かべられる。晴翔だった。彼の隣には龍樹の姿もあった。
時雨の視線の先の変化に気づいた祐弥が振り返った時には、既に教室に足を踏み入れていた彼らが、そうすることが当然であるかのように時雨と祐弥の元に近づいてくる。
「祐弥に池宮、おはようおはよう」
「晴翔さ、毎回おはよう一個多くね? おはよう」
「多くねぇよ。俺はそれぞれに言ってんだから」
「あー、そうですか」
彼らが来ただけで、良い意味で空気が騒がしくなった。
枠組みが広くなり、祐弥が時雨のいる口数が少ない部類に仲間入りする。それでも、晴翔と龍樹といつも一緒にいるくらいには取り残されることなく話せているのだから、やはり仲間入りといっても時雨とは位置が違うように思えた。
「朝からうるさいねー。おはよう」
「……おはよう」
祐弥に続いて時雨が挨拶を返すと、二人して嬉しそうに表情を緩めた。かと思えば、祐弥のストレートな一言に、すっかり慣れたような態度で総攻撃し始める。
「祐弥お前うるさいって言うなよ。せめて明るいって言えよ」
「朝っぱらから暗い顔されるよりかはいいだろうが」
「そうだぞ。祐弥はテンションが低いんだよ」
「そう、それ。それだ。言えてる。低い。凄く低いんだわ。ローテンションなんだわ」
「二人のテンションが狂ってるだけだよ」
「おい、ふざけんな。俺は狂ってなんかねぇ」
「俺もだわ。仲間はずれにしてんなよ晴翔」
側で眺めているだけで、三人の仲が良いことが分かるような言い争いだった。それ故の遠慮のなさだ。
間に時雨が入る隙はない。それ以前に入り込む気すらない時雨は、背凭れに背中を預け、ぼんやりと彼らを眺めながら会話を聞いていた。三人以上になると、時雨は更に無口になってしまうのだった。
唇を固く引き結んだまま、祐弥の横顔を盗み見る。表情と、それから声色と、時雨に対するそれとほとんど違いはないように見えたものの、扱い自体は異なっていた。晴翔や龍樹の取り扱いが、祐弥は少しばかりぞんざいなのだ。それも親しい間柄だからこそなのだろう。時雨は彼らの関係をそのように推測した。
「晴翔と龍樹は騒がしいから、席替えでこの二人と隣にならないように、これも追加で願っておいてよー、池宮くん」
突然名前を呼ばれ、完全に気を抜いていた時雨は思わず肩を揺らしてしまった。祐弥に目を向ける。見られていた。
時雨は他人事のような感覚で聞き流していたため、すぐには話の内容が読めず、咄嗟に言葉が出てこなかった。祐弥に凝視されるばかりである。
頭を素通りしていた数々のキーワードを追いかけ整理しようとあれやこれやと思考を巡らせているうちに、席替え、という単語に反応を示した晴翔が口を開いたことで、一瞬でも止まっていた話が時雨を置き去りにして進んでしまった。取り残された時雨は声を出すタイミングを見失う。
「え、近々席替えすんの?」
「気にする箇所そこかよ。池宮を巻き添えにして遠回しに隣になりたくないって言われてんのに。祐弥はちょくちょく冷たいんだよな。俺は悲しいわ」
悲しいと言っておきながら実際はそんな風には見えない龍樹の言葉を聞いて、席替えで祐弥の隣になることを願うことに加え、晴翔と龍樹の隣にならないように、それも願ってほしいと、祐弥はそう言っているのだと、時雨はようやく頭の整理がついた。
分かりかねていた話が読めたところで、何かしら答えるタイミングを逃しているがために、結局時雨は何も言い出せなかった。
「席替えは今日すると思うよ」
「初耳なんだけど。それで、祐弥は俺らの隣になりたくはないと、そう言ってんのか?」
晴翔が尋問する体勢に入るかのように、祐弥が座っている席に手を置いた。
「なんかちょっと語弊があるけど、そういうことでいいよ」
「そういうことにしてんじゃねぇ。龍樹は何とも思わないかもしれないけど、俺はマジで傷つくぞ」
「それじゃあ、なってもならなくてもどっちでもいいかなー」
「それじゃあは余計だ、それじゃあは」
くだらないようなことで言い争う祐弥と晴翔を、時雨はまたしてもぼけっと見つめていた。
その時、池宮、と名前を呼ばれ、時雨は目を上げた。龍樹であった。心なしか眉尻が下がっているように見える。小首を傾げる時雨。龍樹が口を開いた。
「祐弥がさっき言ったこと、本当に願うのはやめてな? 祐弥はともかく、池宮にまで隣になりたくないなんて思われるのは、普通にメンタルにくるからさ」
冗談を口にするように笑顔を見せてはくれたが、普段見ている自然な、楽しげな笑みとは違っているように見えた。
龍樹たちは自分のことを気に入っていると、バスの中で祐弥に言われたことを時雨はふと思い出す。だからなのかと思う。気に入っているから、嫌われたり避けられたりされたくないのかもしれない。
しかしそれは杞憂である。時雨は晴翔や龍樹を、決して嫌っているわけでも、避けているわけでもないのだった。単に時雨の口があまりにも下手なだけなのだ。問題はそこにあった。
「席替えで周りが誰になっても、俺は気にしない」
そこまで本気になっていない旨を、時雨は龍樹に伝える。席替えでドキドキワクワクし、高揚する人は多いだろうが、時雨に至ってはテンションがハイになることはなかった。
「本当だな? 俺が近くになっても池宮は嫌じゃないんだな? その時はたくさん話しかけてもいいよな?」
「話しかけられても、面白いことは何も」
「それは池宮じゃなくて俺の役目みたいなもんだろ? 池宮はいつも通りでいいんだよ」
「いつも通り……」
「自然なままの池宮ともっと仲良くなりたいからさ、変に気を遣わないってことを約束してな?」
約束、と小指を立てられる。時雨は龍樹に何を求められているのか一瞬だけ考えてしまったが、すぐに指切りだと気づいた。変に気を遣わないという些細な約束を守るための指切り。
差し出された手を無視するのは憚られる上に、無闇にそのような行動を取る必要性もない。
そう考えた時雨は、龍樹の小指に自分の小指を絡ませようとした。その直後。
「ちょっと待て龍樹。俺を差し置いて抜け駆けしてんじゃねぇ」
祐弥と温度差のある言い合いをしていたはずの晴翔の声が飛び、龍樹の小指が時雨から遠のいた。晴翔が彼の腕を掴み、身体を自分の方へ向かせたのだ。
唐突に行き場を失ってしまった時雨の手が宙に取り残される。時雨は小指をしまいながら静かにその手を引っ込めた。
「一人で先に池宮と仲良くなろうとするのは俺が許さねぇ」
「晴翔は祐弥と盛り上がってたんだから、残された俺と池宮が話すのは普通だろうが」
「でも龍樹、どさくさに紛れて池宮と接触しようとしてたじゃねぇか」
「指切りしようとしてただけだろ?」
「指切りなんて二人だけの秘密みたいでますます気に食わねぇ」
「知るかよ。どうでもいいわ。さっさと手を離せ」
「おいこら、知るかよじゃねぇし、どうでもよくもねぇし、手も離さねぇ」
「手は離せよ」
目の前で繰り広げられるバトルを見て、これは止めなくてもいい争いなのかどうなのか、正解が分からない時雨はちらりと祐弥に目を向けた。同時に祐弥が時雨を見る。目と目が合った。祐弥の顔は飄々としていた。
「いつもこんな感じだから、無視しても大丈夫だよ」
何も言っていないのに伝わってしまい、顔に出てしまっていたのかと時雨は咄嗟に視線を逸らす。
「それならいい」
不穏な喧嘩ではないのなら、放っておいても二人の間に大きな亀裂が入ることはないだろう。時雨よりも遥かに長い期間彼らといる祐弥が言っているのだから、心配することなど何もない。
「池宮くん」
隣で祐弥が時雨を呼び、腰を上げた。その席の生徒はまだ来ていない。それでも、もうそろそろ登校してくる頃だろうか、と時雨は呑気に考えた。
席を立った祐弥が席に座っている時雨を見下ろしながら一歩近づき、机と、椅子の背の上部にそれぞれ手を置いた。目を凝視される。時雨は祐弥の圧に堪えかね、窓側に身を引いてしまった。理解不能な状況であり、行動であった。
「高坂……?」
「聞いて、池宮くん。俺ね、他の誰かが無闇に池宮くんに触れたり、池宮くんが自分から、俺以外の誰かに触れたりするの、正直言って凄く嫌なんだよね。さっきも、晴翔が龍樹を止めてなかったら、俺が止めてたよ」
饒舌に喋る祐弥の目が、切れ味のいい刃物のように鋭く、嘘など言っていないかのように真剣だった。
これは、本気だ。初めて見る目だ。茫洋としていながら、これほどまでに、相手を刺すような目を見せることがあるなど、知らなかった。
時雨は何も、知らなかった。その目が自分に向けられている、その理由すら、知らなかった。知らないままであった。
理解ができなかった。できなかったから、時雨はその事実を、祐弥に返すしかなかった。自惚れなど、しなかった。
「高坂が、どうしてそんなことを言うのか、分からない」
「そうだよね。でも、そのうち分かるよ。分かってもらえるように、頑張るよ」
祐弥が机と椅子から手を離した。緊張感が柔らぎ、時雨は小さく息を吐く。
「あと数分でチャイム鳴るし、俺は席に戻るね」
そう言った後、祐弥が机と机の間を歩き出した。時雨は返答を求められなかった。
祐弥が離れていくと、動いたら首を切るとばかりに見せびらかされていた刃物が鞘にしまわれ、命拾いしたような感覚に包まれた。大仰ではあったが、例えるのならそのような気分であったのだ。
「あー、なんか俺、悪いことしたな。ごめんな池宮」
机の前で晴翔と言い争っていた龍樹が、申し訳なさそうな顔を浮かべた。途中で祐弥の言動に気づき、様子を窺っていたようだ。
「桃瀬が謝る必要はないだろ」
彼に限らず、誰かが謝るようなことではない。誰が悪いわけでもない。誰のせいでもない。そう考えた上での発言だった。
時雨のはっきりとした物言いに、それもそうだな、と頷いた龍樹が、大分熱が冷めている晴翔を促して自席へと向かった。二人が横を通り過ぎていく際、祐弥とも龍樹とも軽く争った晴翔に笑いかけられる。しかし、時雨はにこりともできなかった。全く持って、愛想よくできなかった。
時雨は表情を変えないまま、最低限の動作で後ろを振り返った。祐弥の席を見る。祐弥と目が合う。緩く妖しく笑って見せる祐弥は、いつもの祐弥であった。
見つめ合うことなくすぐに前を向く。視界の隅に入った、先程まで空席だった隣はいつの間にか埋まっていた。
それに気づいてから数秒後、チャイムが鳴り、その日の学校が開始されたのだった。
席替えをしたのは、六限のHRの時だった。朝は結局時間がなかったため、夕方に持ち越されたのだ。
その結果は、惨敗である。四人全員、見事にばらけたのだ。誰も自分の願いが叶わず、誰も幸せになれていない。やはり、物事は都合良くいかないものであった。
時雨に至っては、くじを引く順番を決める際のじゃんけんに運良く勝ち残り、一番最初にくじを引いたにも拘らず、全く同じ席を引く始末だ。どこでも良かったのは本当だが、流石の時雨も同じ席になるなどとは思っていなかった。じゃんけんで運を使い果たしたとしか思えない。
「池宮くんは、じゃんけんは強くても、くじ運は良いのか悪いのか分からないね」
放課後、席替えの余韻もそこそこに、即座に部活へと走った晴翔と龍樹を祐弥と共に見送った後に、彼の口から時雨に向かって飛ばされたストレートな言葉。的を得ており、ぐうの音も出なかった。
クラス全員分のくじが残っている中、たった一枚しかない同じ席を引いたのだから、そこだけ見ればくじ運は良いのかもしれないが、席替えの場合であれば、時雨のそれはどうしようもないくらい悪いと言えた。また同じ席に座りたいなどと思っていれば良い方に逆転はするものの、当然そういうわけでもなかった。
「高坂はくじ運、面白いくらい悪いって聞いたけど」
時雨の机の前で、閉めている窓に寄りかかる祐弥に恨み言のようなものを吐く。時雨の隣の席の人は変わっており、時雨に背を向けた形で、数人で集まって談笑しているために空いていなかった。時雨たちと同じで、部活に所属していないのかもしれない。
「面白いくらい悪いよー。両手合わせて願ったのに、やっぱりというかなんというか、池宮くんの隣になれなかったしね」
多くの人が狙っている、一番後ろの席を引いた人間の言う台詞ではない。時雨の隣であれば前の席でも良かったと言っているに等しかった。後ろの席に全力で賭けていたのに前の方の席になってしまったであろう人たちが、今の祐弥の発言を聞いたら、こめかみに青筋を立ててしまいそうだ。幸い、そのような人たちは全員、放課後になったと同時に走り去っていく運動部であるため、今この場にはいなかった。
「池宮くんの、高坂の隣になりたい、っていう願いが足りなかったせいだね」
「それは関係ないだろ」
「関係あるよー、俺には。ちゃんと願ったかどうかで俺の心情も変わってくるんだよね。勿論、しっかり願ってくれたと俺は思ってるよ」
「……まあ、うん、願ったは願った」
「その間とその適当さは絶対願ってないじゃん」
速攻指摘され、時雨は祐弥から視線を逸らした。
正直、隣になりたい、というよりも、隣になってもいいか、くらいの軽い気持ちで席替えに望んでいた。それをあっさり見抜かれている。
「その様子じゃあ、晴翔と龍樹のことも、俺の言った通りにはしてないね」
時雨は視線を逸らし続けた。二人とは隣になりたくない、と手を合わせて願うことだろう。図星だ。それはしていない。祐弥に願われるのはともかく、自分からそれを願うのは違うと判断してのことだった。その場の乗りで揶揄し合えるほど、時雨と彼らはまだ親密にはなれていなかった。
「でも結果的には、二人とも池宮くんの隣にはならなかったし、それに関しては俺の願望が叶ったみたいで良かったよー」
「……高坂は、なんでそんなに、塚原と桃瀬が俺の隣になることを嫌がる?」
時雨は思わず尋ねていた。彼らが自分の隣になることで、祐弥に何かしらのデメリットがあるから嫌がっているのだろうと思ってはいるが、そのデメリットが何なのか、時雨には書き出せないのだった。
問いを聞いた祐弥に見つめられる。何を語っているのか、その目だけでは判断がつかない。
そんな祐弥から放たれる謎のプレッシャーに、僅かな緊張感が走った。
「どうして嫌なのか、答え合わせしてもいいけど、まだちょっと早いかもね」
「早い?」
「時期尚早ってやつだよ」
「そんなのに時期なんかないだろ」
「あるんだよね、これが。だから今は何となくってことにしといてよ」
それ以上は何も答えられない、まだ答えるつもりはない、と遠回しに断言されている。
時雨は大人しく引き下がる他なかった。しつこく問い質しても、頑なにさせるだけである。時雨も意地になるほど知りたいわけではないため、そこで終わりにした。
質問に素直に答えようとしない祐弥は何かを隠しているようだ。それを時雨に伝えるタイミングを見計らっているようだ。理由もなしに嫌がっているわけではなく、祐弥なりの理由があって嫌がっている。それだけは、鈍感な時雨でもはっきりと分かった。
「俺も日頃から、ちょこちょこヒントは出してるつもりだよ。池宮くん」
「ヒントって、何のヒント?」
「さっきの質問の答えも含めていろいろだよ。池宮くんが俺に関して疑問に思ってることが解決に繋がるかもしれないヒントとか」
窓に背を預けていた祐弥が徐に机に両手を置き、ぐっと顔を近づけてきた。反射で時雨は身を引いてしまう。
パーソナルスペースに入り込んでくる、この容赦のない積極的な距離の詰め方も、何か意味があるのだろうか。話の流れからしたらあるのかもしれない、と時雨は一瞬のうちに頭を回転させた。
「俺のこと、ちゃんと見ておかないと、ヒントも、池宮くんが知りたいことも、全部、見逃すよ」
「見逃したって、別に」
「ダメだよ。それは俺が悲しいから」
「悲しいことなんかないだろ」
「あるよ。ある。俺はもう少しだけ自信が欲しいんだよ。俺の目指すゴールに一歩でも早く進むためにね」
「……それも、ヒント?」
「うん、ヒントだね」
時雨の言葉に全て即答してみせた祐弥の影がそっと離れた。微かに身体を流れていた緊張が解け、時雨は静かに深い息を吐いてしまう。
朝に近づかれた時よりも、プレッシャーや、刃物で刺されそうな感覚はそれほど感じなかったものの、柄の部分に手はかけられていたのではないかと想像を膨らませてしまうくらいの緊張感はあった。これも、その場の乗りなんかではないのだろうと時雨は推測する。
「池宮くん、バスが来るまでまだ時間あるし、スーパーで何かお菓子でも買って一緒に食べない?」
教室にかけられている時計を見た祐弥が、脈絡もなくそう提案した。空気が瞬く間に緩んでいった。
「いいけど」
答えてすぐ、財布は持って来ていただろうかと急に不安になった時雨は、机の横にかけていた鞄を掴んで膝の上に乗せた。チャックを開けて中を覗く。隅に押しやられている財布を発見してから、開けたばかりのチャックを閉めた。
ふと上から視線を感じ、顔を上げた。なぜかじっとこちらを見ていた祐弥と目が合う。口角が少しばかり持ち上がっている。その唇が開かれた。
「俺の誘いに、あんまり悩んでない感じでOKしてくれて、凄く嬉しいよー」
「……確かに」
誘われても嫌ではなかった。祐弥の誘いに乗るか乗らないか、悩むこともなかった。それ故の即答であったと言える。
「無自覚は狡いねー」
緩い口調で嬉しいと口にした後、悩んでいなかったことを素直に認めた時雨に対して狡いと吐露した祐弥が、鞄を取りに行くのだろう、時雨の席を一旦離れた。
祐弥の後を辿るように時雨は首を動かす。自分のその動作で、時雨は祐弥を目で追ってしまっていることに気づき、すかさず前を向いた。祐弥本人に気づかれたら厄介だ。変に絡まれてしまうのが目に見えている。
「お待たせ、池宮くん。それじゃあ行こう」
鞄を持って戻って来た祐弥に先導された。一瞬でも行動を追ってしまったことは知られていないようだ。安心する。
祐弥にうんと頷いた時雨は、自分の鞄を手に提げながら席を立った。話し込んでいるクラスメートの側を通り過ぎていく。
時雨は祐弥の後を追い、廊下に出てから隣に並んだ。二人なのだから当然かもしれないが、そうすることが癖になりつつあるのだった。常に一人で行動していた時雨にとっては、それは大きな変化であった。
静かに階段を降りていく。学校生活の中ではよく通る道でもあるはずなのに、その時よりも随分と開放感に溢れていた。放課後特有の独特な空気感が、拘束を解いていることを知らせてくれているかのようだ。
その日の全ての授業が終了した後のこの時間は、みんなそうだろうが、時雨も好きな方であった。周りと比べて高校生らしく青春を謳歌することは少なくとも、時雨も何も特別ではない、ただ人付き合いが苦手なだけのどこにでもいる男子高校生だ。考えることも、感じることも、他の人とそう大して変わらなかった。
「俺ね、池宮くんとお菓子食べながら時間潰すこと、ずっとしてみたかったんだよね」
「してみたいことが小さすぎるだろ」
「そんなことないよー。小さなことから詰めていくのは意外と大事じゃん。いきなり大きく出て引かれたくなんかないしね」
意味深だ。何を大きく出るつもりなのか。小さなことから詰めなければならないほどに、それは一般的に引かれてしまうことなのだろうか。
時雨の中でまた、疑問が増える。その疑問を解決できるかもしれないヒントを出していると祐弥は話していたが、それらを掻き集めて素早く整理ができるほど、時雨の頭の回転は速くはなかった。
時間がいる。集中力がいる。今は明らかにどちらも足りていない。誰かと会話を交わしながら別のことを考えられるほど、時雨は器用ではないのだ。
思考を巡らすのであれば、誰にも邪魔されない一人の空間に入り込んだ時だ。家だ。自室だ。あるいは、祐弥がいない時のバス内だ。彼が何を考えているのかを考えるのであれば、その辺りの場所が良い。
生徒玄関まで辿り着き、靴に履き替えた。すぐ近くの外階段を上がった先にある体育館からは、部活動の練習に励む生徒の声や、ボールの弾む音が聞こえている。バレー部とバスケ部だ。
早々に教室を駆けていった晴翔と龍樹は、バスケ部に所属していた。どちらもかなり上手いらしい。二人揃って身体能力が高いことは体育の授業で判然としていたため、時雨はすんなりと腑に落ちた。
「頑張ってるよねー、晴翔と龍樹」
体育館に目を向けた祐弥が淡々と称賛の声を上げた。
普段の扱いは大雑把ではあるが、なんだかんだ二人のことをよく見ており、気にかけていることが分かる。本人たちの前ではあまり口にすることのない言葉ではあったが。
祐弥と同じように体育館を見た時雨は、黙って首肯する。二人が頑張っていることは、関わるようになってまだ日が浅い時雨でも知っていることであった。
何かに真剣に取り組んでいる二人は、そういう眼差しを向けられるものが何もない時雨とは比べ物にならないほどに長けている。一生懸命になれるものが、時雨にはなかった。
「俺、部活とか、今でも入ろうと思わないよ」
「俺も思わない」
「だよね。文化部も含めて、何かしらに入部してる人たちのことを尊敬するよ、俺は」
時雨も祐弥も、無所属である。絶対にどこかに入部しなければならないという決まりはないため、時雨のような、どこにも属していない人は少なくない。入部している人は、中学からの継続だったり、その部活に興味があったり、または勧誘されて、友人に誘われて、入部を決めたりした人が大半だった。
去年、時雨もいくつかの運動部に勧誘されたことがあったが、全てきっぱりと断っていた。その際、なぜ自分を誘ったのかと問い質してしまえば、漏れなく運動神経が良さそうだからという回答であった。
完全に偏見だった。実際の時雨は、特別動けるわけでも、かといって全く動けないというわけでもなく、至って平均的な身体能力である。球技などをする時、上手くて目立つことも、下手で目立つこともない程度のものだ。
断って正解だった。そうでなくとも、やる気のない人間がやる気のある人間の中に入っても士気が下がるだけだ。足手まといになるだけだ。断ったことに、時雨は悔いなどなかった。
共に放課後は自由の身である祐弥と肩を並べ、取るに足らない短い会話を交わしながら、裏門へ向けて歩みを進めた。
目的地であるスーパーは、校舎と道路を挟んだ先にあり、正門からよりも裏門からの方がぐるりと大回りせずに済むため、断然こちらの道から行く方が近かった。
歩道を暫し歩き、車が走っていないのを確認してから、気持ち駆け足で道路を横断する。
大きな駐車場に入った。車に注意しながら更に歩き、一番近い出入り口の自動ドアを反応させる。祐弥が先に店内に足を踏み入れ、時雨はその後に続いた。
まっすぐ菓子コーナーへ行き、多種多様な商品が整然と並んだ棚を見て回る。時雨は自然と、チョコ系の菓子が集められている場所で足を止めていた。今の気分はどうやらチョコらしい。時雨はまるで他人事のようにそう思った。
「池宮くんはチョコが好きなんだね」
立ち止まった時雨に気づいた祐弥が隣に立ち、時雨と同じ棚を眺めて言った。
「よく買って食べはする」
「それは好きってことだよー。ちなみにどれをよく食べるのか、良かったら教えてよ」
祐弥に顔を見られた。あまり首を動かさずに横目で見返す。返答を待ち望んでいる様子だった。
なぜそんなことが知りたいのかと理由を求めてしまいそうになったが、雑談にいちいち疑問を感じていてはキリがない。雑談は雑談だ。それに理由など必要ない。
時雨は思考の渦に入りかけた頭を瞬時に切り替え、棚に目を向けた。そこでピントが合った商品を指差す。
「これとか、よく食べる」
「いいねー。俺も好きだよ」
祐弥が共感する。時雨が指したのは、どこにでもある定番の菓子であり、今でも人気のある菓子であった。ぐるぐるとあちこち回っても、結局これに戻って来てしまうのだ。
「池宮くんはどっち派? きのこ指してるから、きのこ派?」
「気分によって変わるから、どっち派とかは特にない」
「一緒だね。俺もだよ。どっちも好き派で、どっちも等しく食べたい派」
きのこ派かたけのこ派か、平和的な謎の論争は時々発生する。時雨はそのどちらの派閥にもつかない中立的な立場だった。それは祐弥も同じらしい。
「今はどっちの気分?」
「……たけのこ」
「うん、分かったよ。じゃあ俺はこっち買うね」
数秒悩んで、結果、今日はたけのこに心が動いた時雨の横で、祐弥がさっと手を伸ばして取ったのは、きのこの方だった。
時雨は祐弥の手を目で追ってしまう。自分と同じ商品を選択することを避けたのかと勘繰ってしまったが、きのこの見慣れたパッケージを見せびらかした祐弥が続けた言葉を聞いて、そうではないことを悟った。
「池宮くん、今はたけのこの気分みたいだけど、それ聞いて怒ったきのこにいつ池宮くんが侵食されるか分からないから、もしもの時のために俺がこっちを買っておくよー」
「世界観が謎すぎる」
「池宮くんにライバルのたけのこを選ばれて、きのこは怒ってるんだよ。きのこの逆襲が始まりそうな予感」
「ついていけないけどそれはないだろ」
「それはないよねー。自分で言ってて頭おかしいんじゃないかって思ったよ」
随分あっさりと引き下がった祐弥が、時雨に見せていたきのこの箱を雑に振った。中のものがぶつかり合う音がする。
「俺には高坂がどっちも食べたいだけに聞こえた」
「凄い、大正解。よく分かったね。きのこもたけのこも買ってもいいんだけど、池宮くんがたけのこを選ぶなら、俺はきのこを買っておけばいいよね。もしかしたら交換してもらえるかもしれないし」
「図々しい」
「でも交換してくれると信じてるよ。池宮くんは優しいことを俺は知ってるから」
口元だけで微笑まれ、再び見せられた祐弥の妖しい表情に時雨は口を噤む。依然、考えが読めない人だった。
祐弥に見つめられながら、時雨はたけのこを手に取った。そのままレジに持っていこうとする足を、祐弥に止められる。
「池宮くん、お菓子食べたら絶対喉乾くから、飲み物もついでに買わない?」
「……ああ、うん。買っとく」
食べれば確かに喉は渇く。時雨は秒で踵を返した。
たけのこときのこのチョコを各々が手にしたまま、時雨と祐弥は飲料コーナーへ移動する。
それほど量は多くなくていいため、時雨は紙パックのものを選ぶことにした。果物系のものだ。適当に見て、適当にオレンジを選ぶ。あまり拘りはなかった。飲めればそれでいいという考えである。
「池宮くんがそれにするなら、俺もそれ系の違う味にするね」
「別に俺に合わせなくても」
「違うよ。池宮くんに合わせようとしてるんじゃなくて、俺が池宮くんに合わせたいからそうしてるだけだよ」
「……また、それ、高坂の言うヒント?」
「うん、そうだね。食べて飲んで捨てたら終わりの、形には残らない期間限定のお揃いだね」
ヒントであることをすぐに認めた祐弥が、紙パックのグレープを手に取った。その横顔を時雨は見つめる。見つめてしまう。考えを探ろうと、見つめてしまう。
しかし、いくら見つめたとて、エスパーでも何でもない平凡な時雨には、読み取れる真意などは何もなかった。何も読み取れなかった。
何も、はっきりとしたことは何も、分からなかった。分からないままだった。時雨は祐弥に関して、未だに分からないことばかりだった。
「池宮くん、他に何か欲しいものがあったら付き合うよ」
祐弥がパッと時雨に顔を向けた。注視していた時雨は祐弥と思い切り目が合ってしまう。
視線を外すのが遅かった。見ていたことに気づかれた。今更逸らしても後の祭りではあったが、時雨は何食わぬ顔でそっぽを向いた。
「池宮くん、ちょうど俺のこと見てたんだね。だんだん俺に興味が湧いてきてるってことかなー」
「そんなに深い意味はない」
「うん、だとしても、やっぱり感激だよ。これからも遠慮なく俺のこと見てくれていいからね」
「……俺に見られたい?」
「見られたいよ。池宮くんのその瞳に、たくさん俺のこと映してほしいなって、結構真面目に思ってるんだよ」
本当に真面目な顔をされ、時雨は言葉を返せなくなった。これもまた、ヒントだとでも言うのだろうか。
何かを求めているような、攻めているような、そんな雰囲気を出されると、時雨は毎回言葉を失くしてしまう。経験したことのない気持ちになってしまう。
まだその意味を自分でも理解できていない時雨は、脱線しかけている話を元に戻した。
「……欲しいものは特にないから、もうレジ行っていい」
「うん。買ったら早速食べようね」
祐弥が真剣に口にしたことをスルーした時雨に、彼が突っ込むことはなかった。その話を広げることもなかった。
攻めたことを口にしても、相手がその話を避ける仕草を少しでも見せれば、それ以上は踏み込まずに一旦大人しく身を引く。
遠慮はなくとも引くべきことではちゃんと引く。そのようなめりはりのあるところが上手かった。祐弥のコミュニケーション能力が高い所以の一つであると言えた。
他人との付き合い方や距離の縮め方を熟知している人だ。しつこくされればされるほど寡黙さに拍車がかかり、それにより分厚くなった殻に閉じこもる節のある時雨にとっては、祐弥の保つ距離感がちょうど良い塩梅であった。
手にした菓子と飲み物の会計をそれぞれレジで済ませ、二人は外に出る。
「あそこの空いてるベンチでいいよね」
時雨は首を縦に振った。この大型スーパーにはいくつかのベンチが設置してあるのだった。その一つに、時雨たちは腰を下ろした。
鞄を傍らに置き、祐弥が先にきのこのパッケージを開ける。中の包装も両手で裂くようにして開け、きのこの形をした有名な菓子を一個摘んで口に入れた。
一連の流れを意味もなく眺めてしまってから、時雨も封を開けて包装を破り、きのこではないたけのこの形をした菓子を一個手に取って口に放り込む。数回噛んで、飲み込んだ。
しばらく無言で黙々と食べ続けていると、祐弥が言った通り、喉の渇きを早々に覚えてしまった時雨は、たけのこを膝の上に置き、紙パックにストローを差して喉を潤した。
その際、横から視線を感じ、ストローから唇を離した時雨は隣を見遣った。食べる手を止めている祐弥が、こちらをじっと見つめている。見つめ合うことに抵抗のある時雨はすぐに顔を背け、たけのこのチョコを食べた。
「池宮くん、もうそろそろきのこが欲しくなってきたんじゃない?」
祐弥が時雨の気を引くように箱を軽く振った。未開封の時よりも中身は詰まってはいないと感じる音がする。祐弥が食べたのだから当然であった。
「特に欲しくはなってないけど」
「うーん、それは残念だよ」
「何も残念じゃないだろ」
「残念だよ。俺の中の交換条件満たせないじゃん」
「交換条件?」
「きのこ食べさせる代わりにたけのこ貰おうとしてたんだよねー」
「……そんなにたけのこ食べたいなら、交換とかしなくても普通にあげるけど」
言って、時雨は箱を祐弥に差し出した。無論、取りやすくさせるためである。
祐弥が時雨とたけのこの箱を交互に見た。そして、やはり、祐弥の方がたけのこが欲しくなっていたらしく、迷いもなくスッと手を伸ばしてくる。一個、いや、二個だ。清々しいほどに遠慮がなかった。
「ありがとー。やっぱり池宮くんは凄く優しいね」
祐弥が二個のたけのこをまとめて口に放り込んだ。もぐもぐと噛み砕いていく。程なくして、ごくりと飲み込んだのが分かった。
「池宮くん、たけのこくれたお礼に、俺がきのこを食べさせてあげるよー」
「……食べさせてあげるってどういうこと」
一度目は突っ込まなかったが、二度目となるとその発言が少し気になってしまい、時雨は首を傾げてみせた。そのままの意味であれば、祐弥に恥ずかしいことをさせられてしまう気しかしない。時雨は密かに身構えた。
「そのままの意味だよ。俺が、池宮くんに、食べさせるんだよ」
祐弥が時雨の目を捉えた。相も変わらず茫洋としている。
自分の予想が当たってしまったことに警戒心が強まった時雨は、眉間に皺を寄せてしまいそうになりながらたけのこを食べた。紙パックのジュースを飲んだ。祐弥がきのこを一個手に取った。
「食べさせてあげるよ」
「……何の罰ゲーム?」
「罰ゲームじゃないよ。一応お礼だよ」
「俺には罰ゲームでしかない」
「俺に食べさせられることが?」
「高坂に限らず、誰かに食べさせられることが」
「そっか。なら、逆だったらいいんだね」
「逆?」
時雨に食べさせようとしていたきのこを口に運んだ祐弥が、まだきのこが残っている箱を、先程時雨がしたみたいに差し出してきた。時雨は祐弥ときのこの箱を交互に見てしまう。祐弥と行動が逆になっていた。
「池宮くんが、俺に、食べさせてよ」
「俺が、食べさせる?」
「うん。食べさせる側ならいいよね」
「……誰得なのか分からない」
「俺得だねー。池宮くんに食べさせてもらえるなんて、ご褒美でしかないよ。最初からそうしとけばよかったかなー」
照れもせずに淡々とご褒美だと口にする祐弥に、時雨はまたしても不思議な気持ちになった。返す言葉を見失ってしまう。
時雨は口のチャックを閉められてしまったかの如く無言になり、食べることも飲むこともせず、次の行動を決めかねていた。隣では、きのこを差し出したまま静かに待っている祐弥が、期待を込めた目でこちらを見ている。
食べさせられるよりも食べさせる方がまだいいが、なぜ自分がそんなことをしなければならないのか、なぜ祐弥はそれに拘るのか、疑問が湧いてしまう時雨は、祐弥にきのこを食べさせられないままだった。
ベンチの前を通る人もいる。目の前には止まっている車もある。そんな中、いや、そんな中でなくとも、菓子を食べさせている男とそれを食べさせられている男がいるのは、何も知らない人からすれば異様な光景である。変な勘違いをされてしまう可能性もあるのに、これに関しては一歩も引かない祐弥の言動は、謎だらけだ。
時雨は謎に包まれた祐弥を見る。依然として、諦める気はなさそうである。時雨は息を吐き出した。
抵抗はあるが、やるしかないようだ。でなければ、一生終わらない。そのような気迫すら、祐弥からは感じた。
時雨は徐に手を伸ばし、祐弥の持つ底の浅い箱から、チョコを頭に被ったきのこを取った。
唇を引き結んだまま祐弥を見て、唇を引き結んだままきのこを祐弥の口元へ近づける。その口の両端が、微かに持ち上がるのを時雨は目の当たりにした。そして、ゆっくりと、受け入れるように、開かれた。
祐弥の息が、時雨の指先に触れる。熱かった。チョコなどあっという間に溶けてしまうのではないかと思うほどに、熱かった。
きのこの頭の部分が、祐弥の口の中へ入っていく。瞬きをした。祐弥と目が合った。心なしか、挑発的な目だった。妙な気分に陥り、時雨の胸が騒めいた。
きのこから指を離すと、それは祐弥の口内に収まり、彼によって粉々に噛み砕かれた。その音で、目の覚めるような思いがした時雨は、気を取り直すように紙パックのストローを口に咥え、吸って、飲んだ。
「凄くドキドキしたねー」
「……全くしてなさそうに聞こえる」
「そんなことないよ。こう見えて、ずっとドキドキしてるんだよ、俺」
祐弥が未開封だった紙パックにストローを差し、ごくごくと飲んでいく。時雨は何も言わずに、残り僅かとなっているたけのこをもぐもぐと食べた。
「池宮くんは、ドキドキしてない?」
「……してない」
「そっか。なかなか手強いね」
食べさせる際に祐弥と目が合い、未知の感覚に陥ったことは、言わなかった。一瞬でも胸や身体が熱くなったことも、言わなかった。
たけのこときのこをそれぞれ食べ、オレンジとグレープをそれぞれ飲んだ。食べて、飲み、祐弥よりも先に全てが空になったところですることがなくなった時雨は、そのタイミングでスマホを確認した。バスの時間まで十分を切っている。距離はそれほど遠くないとは言え、走る羽目になる前にそろそろ移動した方がいいだろうと思い、時雨は祐弥を促した。
「高坂、もうすぐ時間」
「もうそんな時間? 池宮くんといると時間経つの早いよ」
そんな時間と言いながらも慌てることのない祐弥が、落ち着き払った動作で紙パックのグレープを飲み干した。まだ菓子の方は中途半端に残っている。たった二個だけだ。
それだけなのに食べ切らないのだろうかと不思議に思っていると、これあげるよ、と祐弥にその箱ごと差し出された。
「俺、たけのこ二個貰ったからさ。良かったら食べてよ」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「気にするよー。俺ばっかり良い思いするのは不公平じゃん」
「……うん、分かった。ありがとう」
祐弥の厚意だ。拒否し続けるのも悪いと思い、時雨は残されたきのこを二個まとめて取り、まとめて口に入れた。
「それじゃあ行こう、池宮くん」
鞄を持って先陣を切る祐弥に時雨は頷く。
店の外に設置されている分別用ゴミ箱に紙パックと菓子のパッケージを入れ、時雨は祐弥と肩を並べてバス停へと歩みを進めた。祐弥から貰ったきのこのチョコが、なぜかやけに甘く感じたことには気づかないふりをしながら。