開け放たれた教室の扉に、クラス名簿が貼られていた。上から五十音順に名前が連なっている。
 用紙にピントを合わせてすぐに、自分の名前を見つけた。後の名前は見ることなく、無言で教室に足を踏み入れる。
 今年はこのクラスだ。二組だ。
 池宮時雨(いけみやしぐれ)というフルネームは一瞬で見つかった。一番上にあるのだから当然のことであり、今年もまた変わらず出席番号一番でもあった。何の面白みもない。あ、から始まる名字の人が、この学年にはいないのだ。
 既に何人か登校して来ている生徒が気配を察したのかこちらを見たが、見ただけで、何も言わずに顔を逸らした。一年の時も一緒のクラスだった人もいたが、一年間同じ教室で過ごしても所詮その程度の関係だ。相手が異性である女子だからというのもあるかもしれないが。
 何も書かれていない黒板の真ん中に、磁石で紙が貼り付けてあるのを目にする。座席表だろうと半ば決めつけながらも、一応確認をするために教壇に上がり、用紙をじっと見つめた。教室を上から見たような簡易的な図式が印刷されている。紙の上部に教壇とあり、その下に四角で囲われた生徒の名字が整列していた。実際の教室の机の数やその位置と重なっている。やはり、座席表だった。それで間違いなかった。
 池宮という名字は、窓際の一番前の席にあたる位置で四角く囲われていた。小学生の頃から基本的にその席だ。そこが定位置になっていた。
 紙から目を離し、自席へと向かう。机に鞄を置いて席に着いた時、廊下側から人の気配と視線を感じた。時雨が入室してきた時に他の生徒が顔を上げたのと同じように、時雨も自然と顔を上げる。
「相変わらず歩くの早いねー、池宮くん」
 のんびりとした口調で、態度で、慣れたように時雨の名字を呼びながら、同学年の高坂祐弥(こうさかゆうや)がこつこつと近づいてきた。黒板に貼られた座席表には目もくれず、まだ空席である時雨の隣の席に腰を落ち着かせる。
「やっと追いついた」
「追いついたも何も、俺は高坂と一緒に来たつもりはないんだけど」
「冷たいねー。さっきまで同じバスに乗ってた唯一のバス通仲間じゃん」
「それだけでしかない」
「うーん、じゃあ、それだけじゃなかったらいいんだね」
 言葉の意味が分からず、小首を傾げて祐弥を見ると、彼に右手を差し出された。ますます意味が分からなくなる。
「あのぺらぺらの紙に、俺の名前があったんだよね。去年は違ったけど、今年は池宮くんのクラスメートっぽい」
 よろしくね、と続けられ、差し出された右手の意味は理解する。どうやら握手を求められているらしい。
 祐弥との若干の温度差を感じながらも、その手を拒む理由にはならないと思い、時雨は素直に握手には応じることにした。
「うん、まあ、よろしく」
 手を握る。握って、すぐに離そうとしたが、祐弥の力が握手のそれとは違うように感じ、思わず彼を見た。口元が、緩く持ち上がっている。笑っているのか、嗤っているのか、微妙なラインだった。
「今日からクラスメートだし、バスを降りても向かう先は一緒だし、もう少し仲良くできたら俺は嬉しいよ」
「俺と仲良くなっても良いことなんか何もない」
「それを決めるのは池宮くんじゃなくて俺だよ」
 しっかり目を見て即答される。なぜか咎められているような気分になってしまい、時雨はふいと目を逸らしてしまった。その際、手を離そうとしたが、ぎゅっと握られ、離させてもらえなかった。全く格好がつかない。
「俺は本気だよ。本気で仲良くなりたいんだよね、池宮くんと」
「……分かったから、いつまで握手してるつもり」
「そうだね」
 パッと呆気なく解放される。時雨は祐弥の手のひらの熱を感じる手を引っ込めた。長い握手だったと感じてしまった。
「さてと、俺の席はここで合ってるのかなー」
 祐弥が誰にともなく呟きながら席を立ち、黒板に近づいていく。自分の隣ではなかったはずだと時雨は思ったが、口にはしなかった。本人が見に行っているのだからすぐに分かることである。
 踵を返して教壇を下りた祐弥が、残念でした、と全然残念そうには見えない声色で口にし、机の上に置いていた鞄を手に持った。
「悲報だよ池宮くん。俺はもう少し後ろの席だった。どうせなら池宮くんの隣が良かったよ」
「俺は隣じゃなくて良かったけど」
「言うねー。でもバスで隣に座るからいいよ」
「今まで座ってなかっただろ」
「これからはクラスメートだし、深い仲になりたいし、遠慮なんかしないよ」
 上から見下ろされる。薄く微笑っているようにも見え、時雨は思わずそっぽを向いてしまった。
 先程から祐弥の真意が時雨には全く読めない。不思議な人だとは思っていたが、ここまで言動が宙を彷徨っているような掴めない人だとは思わなかった。
 時雨と祐弥は、彼の言うように、バスで学校に通っている。学年の中では二人だけであった。そのため、祐弥が唯一と言うのも、仲間と言うのも、何も間違いではない。実際、時雨も祐弥に対して親近感のようなものを抱いている。だが、それだけだ。特別仲良くなりたいと思っているわけではなかった。嫌いだとか、話したくないだとか、祐弥に対してマイナスイメージを持っているというわけではなく、単に時雨の方が、人付き合いが苦手なだけである。問題を提起するならば、祐弥ではなく時雨自身だった。
 去年のクラスメートの誰とも、時雨は話す仲になれていない。今年もそうだろう。一匹狼というレッテルを貼られているのは明らかだった。そのようなことを噂されているのは時雨も知っていた。どこかのグループで自分の話題が出されるのは良くも悪くも複雑だったが、それで何かされているわけではないため、気にしないようにしている。
 そうして人と関わることを避け続けてきたことで、学校でもどこでも、時雨は一人で過ごすことが普通になっていた。それに慣れていたところで、共通点などバスでの登校くらいしかない祐弥に接近され、内心戸惑いを感じているのが正直なところだ。祐弥にとっては、それが十分な理由になっているのかもしれないが、時雨にとっては、それだけなのにと思わずにはいられない。やはり、祐弥が何を考え、何を企んでいるのかなど、時雨には皆目見当もつかないのだった。


「池宮くんってさ、友達いないんだね」
 停留所でバスを待っている最中のことだった。当たり前のように隣に並んでいる祐弥が、当たり前のように会話を始めたのは。
 今までは積極的に話しかけてくるようなことはほとんどなかったにも拘らず、二年になって同じクラスであることが分かったからか、祐弥からはあまりにもいきなり遠慮というものがなくなっていた。発言にも、それがなくなっていた。
「今日一日、池宮くんのことを観察して分かったことだよ」
「観察」
「あの感じだと、一年の時からそうなんだね」
 否定はしなかった。時雨には、友達と呼べる友達はいない。全員ただのクラスメートだという認識だった。
 仲の良い人がいないことに焦燥も不安もないため、祐弥の毒舌に傷口を抉られているような気分にはならなかった。時雨のメンタルは強い方である。
「ずっと一人。何をするにしても一人。でも堂々としてるから、池宮くんは一人でも大丈夫なんだなって思ったよ」
「ああ、そう」
 他人事のような雑な生返事をする時雨を、祐弥は特に気にした様子もなく続けた。
「そんな一匹狼の池宮くんの友達第一号になるのが俺かもしれないって考えたら凄く嬉しいよ。もしそうなったら自慢できるじゃん」
「自慢のレベルが低すぎるだろ」
 思わず突っ込んでしまった。そんなことないよー、と祐弥ののんびりとした声が続く。
 そんなことが自慢になるとは思えない。なるはずがない。
 時雨は自分のことを、他人に自慢できるほど大層な人間ではないと思っている。それは時雨に限った話ではないだろうが、少なくとも時雨はそう思っているのだ。だからこその言葉であった。
 新学年になって初日の時点で、祐弥は既にクラスに溶け込んでいるように見えた。引き続き同じクラスになった人も当然いるだろうが、そうじゃないであろう人とも一言二言話しているのを時雨は見かけていた。おまけに随分と親しげな人が二人ほどいるらしく、彼らと行動を共にしている姿を目にすることも多々あった。
 今日だけの情報でも、祐弥はコミュニケーション能力が高いことが窺える。時雨とは真逆のタイプだ。
 陰と陽だった。時雨と祐弥は。影と光だった。バス通という共通点がなければ、決して交わることなどなかっただろう。
 どう考えても、どこをどう切り取っても、自慢できることなど、何もなかった。時雨には、見つけられなかった。
「俺は池宮くんとひとまず友人関係になりたいから、今から連絡先交換したいなー」
 祐弥が棒読みで、甘えるような台詞を落とした。
 連絡先、と時雨は口の中で呟く。連絡先。連絡先交換。
 拒否は許さないとばかりに時雨の返事を聞くことなく祐弥は鞄からスマホを取り出し、素早く画面を操作し始めている。その手元を一瞥した後、時雨はバスが来る方向に目を向けた。まだ来る気配はない。予定時刻は少し先だ。
「ほら、池宮くん、スマホ出してよ。俺は準備万端だよ」
 横でスマホを構えられ、急かされた時雨は、連絡先の交換くらいならしてやってもいいか、という謎の上から目線の思考で了承し、大人しくスマホを出した。
「コード見せてよ」
「うん」
 頷き、時雨はQRコードを表示した画面を祐弥に見せる。それを読み取ろうと写真を撮るような要領でスマホを向ける祐弥だったが、時雨のスマホの画面が暗いのか、光がちょうどコードの部分に反射しているのか、無駄に角度を変えたり向きを変えたりしていた。
「読み取れない?」
「いや、大丈夫だよ」
 コードを読み取りスマホを離した祐弥に、連絡先を追加される。時雨も追加し、二人は晴れて連絡を取り合える仲となった。
 アプリの友達の欄に、家族に続いて新しく、高坂祐弥という名前とアイコンが表示された。何気なくタップする。
「……バス?」
 祐弥が設定している背景の画像を見て、時雨は自然と呟いていた。文字通り、走るバスを後ろから撮影したものが設定されていたのだ。ナンバーと、車の上部に表記されている行き先の電子文字はしっかり暈されているが、明らかに時雨と祐弥が利用している路線バスであった。
「バスだよ」
 時雨の疑問の台詞が聞こえたらしい祐弥が、何でもないことのように肯定する。
「また何でバス?」
「うーん、何となく?」
 特に意味はないようだ。バスが好きだとか、車が好きだとか、そういうわけでもないようだ。何となく撮ってみたら上手く撮れて、だから、何となく設定しただけなのかもしれない。
「池宮くんは、背景もアイコンもデフォルトのままなんだね」
 スマホを触った祐弥が、画面を見ながら口にする。
 時雨は祐弥のプロフィール画像から、何の設定も施していない自分のそれに戻った。言わずもがな、何もかも初期設定のままである。
「俺は写真とか全然撮らないし、連絡さえ取れればそれでいいから」
 答えながら、時雨はスマホを閉じた。長く弄るほど面白いものはなかった。
 時雨のスマホは、滅多に通知を鳴らさない。毎日続くような雑談などは誰ともしていないのだった。そもそもする相手がいない。スマホが仕事をする時は大抵、相手側が時雨に用がある時か、時雨が相手側に用がある時かのどちらかでしかなかった。
「池宮くんは、自分に関心がないんだね」
 祐弥は良いことも悪いことも、躊躇いなくずばずばと言うタイプのようだ。
 まだ二年になって初日だが、一年間バスで姿を見たり、時々、本当に時々、会話を交わしたりしたことで、薄らと分かっていた性格などに濃い色が塗られ、徐々にはっきりとしていくような感覚だった。
 たまに毒なその発言は、聞く人によっては挑発されていると受け取ってしまう場合もありそうだと時雨は思ったが、時雨自身は煽られているとは思わないため、余計なことは言わないでおいた。
「まあ、うん。自分にも他人にも、あんまり関心はない」
「俺にはちゃんと関心持ってほしいかなー」
 祐弥が時雨の顔を覗き込むようにじっと見つめる。緩い口調から、冗談を言っているのだろうと考えたが、祐弥の双眸はやけに真剣味を帯びていた。言葉と眼差しがちぐはぐだ。
「気が向いたらそうするかもしれない」
「それは気が向かない可能性大の言い方だよ」
 祐弥の目から少しばかり力が抜ける。笑ったように見えたが、何も笑っていないようにも見えた。何を考えているのか、分かりそうで分からない。
 ふわりと、生暖かい風が通り過ぎた。何気なく首を動かすと、大型車両であるバスが二人のいる停留所へ向かって来ていた。
「バス来たね」
「うん」
「今日から隣に座ってもいいよね」
「断っても座ってきそう」
「大正解。よく分かったね」
「断られたらそこで引いた方がいいと思うけど」
 バスがゆっくりと減速する。二人の前で停車し、ドアが開かれた。時雨が先に歩みを進める。
「俺は諦めが悪いんだよ」
 後に続いた祐弥の言葉には何も返さずに、時雨は整理券を取って後ろの空いている席に座った。ついて来ていた祐弥が時雨の隣を陣取ったところで、静かにバスが発進する。
 車内には、この時間帯にいつも見かける乗客たちがちらほらといた。どの人がどこの停留所で降りるのか、どこの停留所でどんな人が乗ってくるのか、自然と覚えてしまうくらいには何度も姿を目にしている。相手も同じだろう。時雨と祐弥がどこで乗ってどこで降りるのか、二人よりも長い時間乗車している人は知っているに違いない。
 時雨は、今隣にいる祐弥の利用する最寄りの停留所を知っている。祐弥の方は時雨の利用するその場所を知らないだろうが、時雨は知っているのだった。行く時は祐弥の方が遅く、帰る時は祐弥の方が早いのだ。そのおかげで、いや、そのせいで、覚えてしまったことであった。
「念願の池宮くんの隣だよ。嬉しいよ俺は」
 車内だからだろう、外で会話をする時よりも声のボリュームを落として話し始めた祐弥が、窓側の時雨を見て微かに笑みを浮かべた。
 その笑みを見て、時雨は不思議に思った。ただ微笑んでいるだけであるはずなのに、その表情が妙に妖しく見えてしまうのはなぜなのか。時雨は不思議に思った。
 やはり分からない。祐弥のことが、分からない。一日二日で相手の素性を知ることなどできるはずもないが、日数を重ねても、のらりくらりとしている祐弥のことを、完全に理解することなどできる気がしなかった。祐弥はそういう人なのだと割り切るしかないのかもしれない。
「高坂は、何でそんなに俺の隣に座りたがる?」
 気づけば聞いていた。純粋な疑問だった。教室でも隣が良かったと言っていたが、自分と隣席になって嬉しがる人などあまりいないことを時雨は自覚している。時雨は誰が隣であっても興味を示すことはないが、相手は大体いつも気まずそうだった。だからこそだ。だからこそ、なぜなのか。
 時雨は祐弥をちらりと見る。視線が重なる。時雨を見つめたまま、祐弥が形の良い唇を開く。
「隣だったら、いつでも気軽に話しかけられるじゃん。だからだよ。俺は池宮くんと良い関係になりたいし、そのためにはやっぱり会話が大事だと思ってね」
 予め用意していた回答だと言わんばかりに、言葉に迷いがなかった。
 話さなければ、仲良くなることも、逆に相手のことを知って、苦手だと感じることもないだろう。良い方に転ぶか、悪い方に転ぶか、それは会話をしてみないと判別がつかないことでもあった。
 時雨は祐弥に興味を持たれている。知りたいと思われている。クラスメートになっていきなりではなく、もっとずっと前からだ。同じバス通学で顔を合わせるようになってからだろうか。互いの顔と名前を覚えてからだろうか。きっかけが何なのか杳として知れなかったが、ずっと前から矢印を向けられていることは確かだった。
「俺と話して楽しい?」
「楽しいよ。やっとスタートラインにも立てたしね」
「スタートライン?」
 時雨は復唱して、小首を傾げた。楽しいと言ってくれたことよりも、そちらの方に注意が向いてしまった。
「うん。スタートライン。俺にはゴールみたいな目標があって、まずは池宮くんと話す仲になることが、そこに向かって進むためのスタートラインなんだよ。その過程には、池宮くんが必要不可欠」
 祐弥が時雨と目を合わせた。暫し二人は、言葉もなく見つめ合う。先に瞳を動かしたのは、時雨の方だった。
 必要、不可欠。時雨は自分の口で、その意味を確かめるように呟いてみる。
 必要不可欠。祐弥が時雨の独言を拾い、確信的に呟き返す。
 祐弥の言うゴールが何なのか、時雨は見当もつかなかった。そして、なぜか、祐弥が目的を達成するためには、時雨が必要不可欠らしく、それは、時雨なしでは成し遂げられないことであるらしい。そんなことがあるのだろうか。
「高坂の言っていることが、俺にはよく分からない」
 時雨は早々に思考を放棄した。祐弥には祐弥の考えがあるのだろうと思うことにして、深入りすることをやめた。
「今はまだ何も分からなくても、そのうち分かるはずだから大丈夫だよ。俺が途中でヘマしなければね」
 また、目が合った。祐弥は相手の目をよく見る人だった。時雨に興味があるとその両眼でも言っているようで、時雨は人知れず気まずさのようなものを覚えてしまう。
 見透かされてしまいそうだ。全てを。何を考え、何を感じているのか。その全てを、読み取られてしまいそうだ。
 瞬きと同時に、時雨は祐弥から視線を外した。目が合う度に不躾に逸らし続けても、祐弥は何も指摘してこなかった。何も言わなかった。
 誰かによって、停車ボタンが押される。次の停留所で、バスは止まる。時雨は無論、祐弥もまた、そこで降りることはない。
 時雨は、車窓から流れる景色を眺めた。祐弥との会話はそこで一旦止まり、無言の時間が続いた。相手が口数の多くない時雨だから、それとなく息を合わせてくれているのか。公共交通機関を利用しているから、喋りすぎないように気をつけているのか。どちらにせよ、ずっと喋られるよりかは、このような静かな時間があった方が、時雨としては楽だった。
 ただ、楽なだけだった。時雨にとってはそれだけのことだが、そんな態度を取られた側からすると、無愛想で冷酷な人だと思ってしまうようだ。実際に、愛想がないと、冷たい人だと言われることがある。それには慣れている。言われ慣れている。何度苦言を呈されても、時雨は愛想よくも、優しくもできないのだった。
 話しても盛り上がらないから、会話が続かないから、自然と人が寄ってこなくなり、いつしか一人でいることが当たり前になった。時雨はそれでも良かった。一人で良かった。一人が良かった。他人にも自分にも、興味がなかった。持てなかった。
 楽な道を選んで、人と関わろうともせず、一人で適当に生きている。そのうち祐弥も、時雨に飽きて離れていくだろう。今だけだ。隣の明るさが眩しいと感じるのは、今だけだ。時雨が光に慣れる前に、それは遠く離れていくに違いない。
 バスがゆっくりと速度を落とした。乗客を降ろすために停車する。乗り込む人はおらず、前方のドアだけが開かれ、金を投入口に落とした利用者が降りていった。すぐにドアが閉まり、バスが再び、決められた道を走行していく。
 降りる人がいればその場所で止まり、乗る人がいれば、またその場所で止まる。何度かそれを繰り返しながら、バスは着実に時雨と祐弥の停留所に近づいていた。その分、二人の間に流れる沈黙は、長引いていた。
 会話が途切れ、二人して唇を引き結んだとしても、気まずさは感じなかった。例え隣が祐弥でなくとも、時雨はそう思っただろう。緊張も、意識も、時雨は全くしていない。他人にそれほど興味がない故に、時雨は何事にも鈍感な節があるのだった。
「池宮くん、俺、もう少しで降りるよ」
 祐弥が小声でそう言った。喋らなくなったことで、早くこの場から立ち去りたい、逃げ出したい、などと思っているような口ぶりではなかった。沈黙が広がったことを、祐弥もそれほど意に介してはいないのかもしれない。耳にした声も、ちらりと見遣った顔も、特に変わりはなさそうだった。
「うん、知ってる」
 時雨は淡々と答えた。車内のアナウンスが、次の停留所を知らせる。祐弥の住んでいる地区の診療所前だ。祐弥がボタンを押した。
「俺がどこで降りるか、知ってくれてるんだね」
「自然と覚えただけ」
「それでも嬉しいよ。池宮くんの中にちゃんと俺がいる感じがして」
 祐弥が時雨を見る。毎回まっすぐ目を見て話そうとしてくるため、それがあまりできないタイプである時雨は、即座に余所見をしてしまった。
 バス停が見えてくる。丁寧にブレーキが踏み込まれ、スピードがゆっくりになっていく。そして、静かに停車した。外では誰も待っていない。前方のドアだけが開いた。
「それじゃあ、池宮くん、ばいばい、また明日ね」
 ひらひらと片手を振った祐弥が、さっさと鞄を手にして通路を進んでいった。一方的だった。あっさりしていた。時雨が何かを返す間もなかった。
 定期を見せながら運転手に礼を言う祐弥の声がし、彼の気配がなくなる。すぐにドアが閉められた。診療所前で降車したのは祐弥だけだった。
 アクセルが踏まれる。バスが進む中、時雨は何気なく外を見る。降りたばかりの祐弥と顔を合わせた。すぐに遠のいてしまったが、その口角が緩く、しかし、少しばかり妖しげに持ち上がっていたことを、時雨は見逃さなかった。