一日の授業が終わり、ホームルームで担任の先生が簡潔に連絡事項を伝え終えると、クラスメイトは「疲れたー」なんて言いながら思い思いに教室から出ていく。遊びに行く奴、バイトに行く奴、部活に行く奴……。そんな奴らを眺めながら、俺は一日中抱えていた苛立ちを吐き出すように大きくため息をついた。
先週、バスケ部の先輩が校内で問題を起こしたせいで、今週末に予定されていた近隣校との交流戦の参加を辞退することになった。その試合で俺はスタメン入りをしていたのに、交流戦自体に参加できないのであれば何もかも意味がない。スタメンに選ばれてから楽しみにしていて、ここ最近はより一層気合を入れて練習をしていたのに、だ。
しかもその先輩が起こした問題というのが、バスケ部に割り振られた予算が少ないと生徒会役員に憤慨し、暴力沙汰一歩手前になったというもので、あまりにもふざけた内容に一周回って悲しくなってくる。
そいつは結果として退部となったのはいいものの、交流戦がなくなったのは余りにも残念過ぎる。今日も普通に部活はあるがどうにもやる気がでない。というか、結構落ち込んでいる。
もう一度ため息をついてから席を立ちあがり、自分の席でスマホをいじっていた部活仲間の凉に話しかける。
「なぁ凉」
「どうした鷹雄、もう部活行く?」
「いや……俺、今日サボるわ」
はぁ? と凉は呆れた顔をする。
「何言ってんだよ。お前、このまま真面目にやってりゃ次の試合だってスタメン入りするかもしれねぇのに」
「あくまでも可能性、だろ。別にこれからずっと部活行かないって訳じゃねぇよ。今日だけ」
「まぁ、気持ちは分からないでもないけどよ」
「部長には体調不良って言っといて。お願い」
「……今度昼飯おごりな」
「分かった。ありがと凉くん」
渋々頷いた凉に抱きつくふりをすると、ふざけるなと頭をはたかれる。気にせずに「じゃあよろしくな」と言ってから俺は凉を残して教室を出た。ただ、このまま帰る気分でもない。ゲーセンとかカフェに行く気も起きない。どこか静かな場所で一人きりになりたい。
それなら社会科準備室にでも行こうと思い、西棟へ向かう。社会科準備室には何故か上等なソファが置いてあり、寝転がって時間を潰すのには丁度いい場所だった。放課後にわざわざここに来る奴もいないだろうし、俺以外誰もいないのなら、静かであるのは確定だ。
適当にスマホをいじったり、鞄の中にある漫画でも読んだりして、警備の人が施錠に来る前に帰るかぁなんて考えながら階段を下りて廊下を歩いていると、技術室が見えてくる。社会科準備室へ行くときに通り過ぎる場所だ。そこで俺は妙なものを見た。
出入口の引戸にはめ込まれているガラスの向こうにテーブルが見える。技術室にしかない数人で座る大きめのテーブルだ。その上に、でかい豆腐のようなものが置かれていて、そこに竹串が数本刺さっていた。その竹串の先端には小さな何かがついている。
何だアレ。俺は思わず立ち止まり、ガラスの向こうをまじまじと見つめた。何かの装置か? 科学部あたりの奴らが実験でもしているのだろうか。初めて見る得体の知れないモノと、部活サボり中の自由な時間が相まって、俺の中の好奇心がどんどん膨らんでいく。もう少し近くで見てみたい。俺の手は自然と技術室の引戸を開けていた。静寂の中、引戸を開ける音がいつもより大きく響く。
技術室には誰もいなかった。誰もいない部屋に謎の物体とか、ちょっとした怖さも感じてくる。恐る恐るそれに近づいてみると、「豆腐のようなもの」は発泡スチロールであることに気づく。そして竹串の先端についているものは、小さいプラスチックの部品だった。ただ、それが何の部品であるかは全く分からない。それぞれ形が違う部品が、屋台のいちご飴のように並べられている。実験に使う機器ではなさそうだ。
一本の竹串を引き抜き、じっくりと眺めてみる。それは牙のような形状の部品で、白っぽい色をしていた。本当に「ただの部品」といった感じだ。それが何故こんな風に竹串につけられているのだろう。意図が全くわからず、まさに不思議な光景だ。
何か、謎過ぎて不気味かも。
元に戻して見なかったことにしようか、と思ったその瞬間、背後から「何してるんだよ」といきなり声をかけられた。不意をつかれた俺はめちゃくちゃビビッてしまい「うわあッ!」と大声を出して振り返る。手にしていた竹串が床に落ちた。
「なっ、お前、落とすなよ馬鹿!」
焦りながら近づいてきた奴はお化けとかではなく、ちゃんとこの学校の制服を着ている人間だった。しかも知っている顔。一度も染めたことのないような深い黒髪に眼鏡、そして愛想のない顔――同じクラスの天野海だ。でも、話をしたことはほとんどない。いつも一人で席に座っているような大人しい奴だから。
「……び、吃驚させるなよ。心臓止まるかと思ったじゃねぇか」
「それはこっちの台詞だよ。人の物勝手に触っていいと思ってるのか?」
俺が落とした竹串を拾い、先端の部品を確認する天野。眉間に皺を寄せて「やり直すか」なんて呟いている。
「それ、お前の?」
「そうだよ」
「何なの、それ。廊下から見えて気になってさ」
天野は俺を一瞥してから、にこりともせず「プラモ」と答えた。
「プラモ? プラモってあの、ロボとか戦車とかああいう……」
「そう。これはそのプラモのパーツ。今から塗装しようと思って下地処理してたんだけど、お前が落として若干傷がついたから、やり直し」
そうか、プラモデルって小さなパーツを組み合わせて作るんだっけ。今までプラモに触れたことがほとんどないから、全く想像がつかなかった。それにしてもパーツを一つずつ塗装するとか、結構本格的じゃないか? 色ってもともとついているんじゃないのか。
確かに、細かい作業をしようとしていたところに突然他人が入り込んできたら焦りもするか、とさっきの天野の様子に納得する。
「ごめん、俺、こういうの全然知らなくて。邪魔しちゃったな」
「……まぁ、謝るならいいけど」
「でも何で技術室でこんなことしてんの?」
シンプルな質問を投げかけると、天野は自身の眼鏡の縁をいじりながら「一応、同好会の活動」と呟くように言う。
「同好会……何の?」
「プラモ同好会。見たら分かるだろ。俺の他にあともう一人しかいないけどな。しかもそいつはほとんど来ないし」
天野曰く、一年生の時に何かしらの部活に入るよう先生から言われたが、どの部活にも興味がなかった天野はもう一人の生徒を誘ってプラモ同好会を立ち上げたらしい。先生はとりあえず全生徒が部活動、もしくは同好会に入っている状態にしたかったようで、活動内容についてはそこまで突っ込まれなかったようだ。それからはこの技術室で気ままにプラモを組み立てている、とのことだった。
「自分で同好会を作ったってこと? すげぇな」
「別にすごくない。申請用紙一枚を先生に出せばいいだけだし。それよりも俺は必死に部活やってる奴らのほうがすごいと思う」
「でも、天野だって真剣にプラモ作ってるんじゃねぇの」
「……まぁ、そうなるのか?」
天野は俺と話しながら先ほどのパーツを指先でつまみ、紙やすりのようなものを当てたり、マニキュアのような液体をつけたりしている。どれもこれも見たことのない道具で、作業を眺めているだけで何となくワクワクしてくる。バラエティ番組でたまにある職人の手作業を紹介したVTRを見ている気分だ。その状態からどうやってロボや戦車になっていくんだろう。
「なぁ、このまま隣で見ててもいい?」
「いいけど、久地も部活あるんじゃないのか?」
「あるけど今日はサボったから大丈夫」
「大丈夫なのかよ、それ」
今日だけだから大丈夫、と言いながら椅子に座ると、天野は怪訝な視線を向けるものの、それ以上は何も言わずに作業を進める。というか、天野って俺の苗字を知っているんだ、と内心驚いた。教室は一人でスマホをいじっていたり本を読んでいたりして周囲とのコミュニケーションを遮断しているように見えるから、クラスメイトのことなんて何も知らないのだろうと思っていたのに。
それに、いざ喋ってみると特段こちらを拒絶するような様子もない。意外なことが多すぎて、つい天野の横顔をじっと見つめてしまう。すると、天野は居心地悪そうに視線をこちらに向けた。
「何だよ、そんなに見られると気が散るんだけど」
「いや、何でいつもぼっちでいるのかなーと思って」
「人とわいわいはしゃぐのがあまり好きじゃないから。友達もそんなにいらないし」
「へぇ。寂しいとか思わないの」
「別に。ほっといてくれたほうがいい。いじめの標的にされるのは勘弁だけど」
そんな奴、現実でいるんだ。教室で一人、ただ机に座っているだけなんて、俺だったら耐えられない。小学生の頃の記憶がふいに蘇り、思わず拳を握りしめる。
天野はテーブルに置かれていた収納ボックスからいくつかの塗料と細い筆を取り出し、淡々とパーツに塗装をしていく。その手際が鮮やかで、いつの間にかじっくりと見入ってしまった。塗装したパーツは再び発泡スチロールに刺し、全てのパーツに色がつけられると、発泡スチロールごと技術室の後ろにある据え置きのロッカーの中に入れる。
「それ、乾かすんだろ? 窓側のテーブルに置いて乾かせばいいのに」
「埃がつくのが嫌だから、空気が動きにくいロッカーの中に入れてる」
「あーなるほど。何か、すげー細けぇな」
「そこがいいんだよ。久地には分からないだろうけど」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべる天野に、胸の辺りをくすぐられたような感じがした。こいつ、そんな表情も出来るのか。
「今日はここまでだな。中途半端に進めるとパーツがどこかいっちゃう時もあるから」
プラモの箱に説明書やいくつものパーツがついている板状のもの(ランナーというものらしい)をしまいながら天野が言う。箱の表面には、俺の知らない強そうなロボットが描かれていた。分かった、と言って技術室を出たら、この光景を眺めることは二度と出来ないのだろうか。
天野がただ真っすぐに何かを作り上げている姿をもっと見ていたい。何故かそう思ってしまう。
「あのさ、天野」
「何?」
「放課後、またここに来てもいい?」
尋ねると、天野は驚いたように目を大きくしてこちらを見つめてくる。そんなことを言われるとは思っていなかったんだろう。恥ずかしくなってくるから、そんなにじろじろと見ないで欲しい。
「勝手に来ればいいけど……面白くはないぞ」
「面白いかどうかは俺が決めるの。じゃ、またお邪魔します」
小さく笑ってから、天野は「じゃあ、また」と返してきた。
***
それから俺はバスケ部が休みの火曜日、木曜日の放課後によく技術室へ行くようになった。天野はいつも技術室で何かを作っている。隣に座って作業を眺めながら、見たことがない道具を指さしてこれは何だと問いかければ、天野は素っ気なく、でも丁寧にその道具の名前や使い方を教えてくれた。
プラモだけではなく、ミニチュアの家具やアクセサリーを作っている時もあった。天野の母親がミニチュアハウスに人形を飾るのが好きなようで、時折家具の作成を頼まれるらしい。アクセサリーは妹に「こういう感じの作って欲しい」とインターネットで探してきたアクセサリー画像を見せられるのだとか。
「アクセサリーのパーツ専門店に男一人で行くの、嫌なんだよな」
「でも作ってあげるんだろ。やさしー兄ちゃんじゃん」
「細かいパーツを組み合わせること自体は楽しいんだよ」
すらりとした指先で細かなパーツを摘まみ、少しずつ、でも着実に理想の形へと作り上げていく。静かに作業をしているそんな天野の横顔を気づけば見つめてしまう。これほどまでに顔を動かさず、手元の一点のみをじっと見つめて作業に打ち込んでいる人間を今まで見たことがなかった。当たり前だけれど、バスケの試合に打ち込むのとは全然違う。ただただ静か。その内空気が動く音も聞こえてきそうだ。
スポーツとは違い、誰かと競うこともなく得点を追い求めるわけでもない。見ていてハラハラドキドキするわけでもない。でも何故か天野が作業を止めるまで、俺は飽きることなくずっとこの光景を眺めてしまう。
技術室に行った日は、天野と一緒に駅まで帰るのが恒例となっていた。とある日の帰り道、途中のコンビニで買ったカフェオレを飲みながら「どうしてそんなにモノづくりが好きなの」と聞いてみた。天野は俺がおごったレモンティーを手にして悩む素振りを見せる。
「うーん。まぁ、単純に何かに集中するのが好き、なのか? 多分」
「それだったら勉強とか、スポーツとかでも集中すること出来るじゃん」
「それとこれとは話が違うんだよな。こう、手元にあるモノとの一対一のやり合いというか、対話というか」
言いながらペットボトルの蓋を開け、レモンティーをごくごくと飲み込む。黄金色の液体が夕日を反射してキラキラしている。
「俺の些細な動作で出来上がるモノの表情が全く変わってくるから、全力で取り組まなきゃいけない。そうすると周りの雑音がいつの間にか消えていて、俺と手の中にあるモノだけの世界になる。一心不乱にパーツを組み立てていくと、少しずつ形が出来ていくのが楽しい。出来上がったモノはその時の俺自身みたいに感じたりもする。まぁ、趣味に全振りしてるってやつだよ」
少し離れた先の交差点を行き交う車を眺めながらそう言う天野の横顔も、夕日に照らされていた。あの技術室で、俺の隣で、そういう世界に入り込んでいるのか。
「……何となく分かるかも。バスケでもそういう感覚になる時ある」
「へぇ、あまり想像出来ないな」
「例えば、絶対にボールを奪われちゃいけない時に相手と対峙すると、多分一秒も満たない時間だけど、一瞬周りの雑音が消えて脳みそがフル回転するんだよ。冷静に状況を分析して自分がどうすればいいのか考える瞬間、みたいな」
「あー、漫画で見たことあるかも。ああいうのって本当にあるんだ」
「あるんだよ」
天野は笑いながら俺を見て「お前、結構バスケ好きなんだな」と言ってきた。当たり前だろ、と被せ気味に返事をする。
「好きだからバスケ部に入ってるんだよ」
「モテそうだからバスケ部なんだと思ってた」
「俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「してないしてない」
逆に言えば、バスケが俺の唯一の拠り所だった。小学生の頃、兄がバスケを教えてくれるまで、俺は内気すぎて友達が出来ず学校ではずっと一人だった。バスケを始めて人と試合をするようになってから、ようやくコミュニケーションをとる方法を覚えて、それからはクラス内で浮かない存在になるよう努めてきた。バスケがなかったら俺は今も教室で俯いて誰とも話そうとしない人間だったかもしれない。
孤立するのは怖い。それなのに、天野は一人でいても構わないと言う。見栄とか虚勢でもなく心からそう思っているらしい。俺とは全く違う不思議な奴だなぁと思う。だからこそ惹かれてしまうというか、何というか。
プラモを作っている時の、天野のあの真っ直ぐで真剣な目が頭から離れない。
「なぁ天野」
交差点で信号待ちをしている時、さりげなく天野に声をかければ、「何」と短い言葉が返ってくる。変なことを言うつもりじゃないけど、どんな反応をされるだろう。カフェオレのパックを握りしめ、少し緊張しながら喉から声を出した。
「あのさ、俺にもプラモ作ってくれない?」
「はぁ? お前に? どうして」
「天野が作るやつ、めちゃくちゃクオリティ高いからさー、俺も欲しくなっちゃって。金なら出すから。な?」
怪訝な表情でこちらを見つめてくる天野に、両手を合わせ姿勢を低くして頼み込んだ。もちろんクオリティが高いプラモが欲しい、という理由ではなかった。言語化するのが難しいけれど、天野の真っ直ぐな眼差しを受け、器用な手で大切に作り上げられていく何かが欲しかった。何故かやましさを感じているから、ごまかしたのだ。
天野はしばらく口を閉ざしていたが、信号が青に変わり、俺達の後ろにいた人たちが次々と横断歩道を渡っていくと、ため息をついて「分かった」と言う。それを聞いて顔を上げれば、天野は俺を残して横断歩道を渡り始めていた。慌ててその背中を追う。
「マジ!? やったー! ありがとな」
「作るのは好きだから別にいいんだけどさ、久地が欲しがるのが意外だなと思って。こういうの興味なさそうだし」
「あー、確かに技術室で天野に会うまでそういう世界とは無縁だったけど、隣で見てたら何ていうか、こう、すごいなって思い始めて」
「ははっ、語彙力なさすぎ」
目を細めて天野が笑う。そんな天野を見て俺の心臓は鼓動を速めた。心なしか顔が熱いような気もする。何だろう、これ。プラモを作ってもらう約束をしたから舞い上がっているのだろうか。
天野の作り上げた作品を掌の上に乗せた時、俺は何を思うのだろう。その日が今から待ち遠しかった。
「お前、最近妙に浮かれてるよな」
部活の休憩中、体育館脇にある花壇の傍で水を飲んでいると、いつの間にか隣にいた凉に言われる。驚いて危うく水が気管に入りそうになった。
「り、凉っ……! 急に現れるんじゃねぇよ!」
「いーや、普段のお前だったらもっと早く俺に気づいていたね。何があったんだよ」
じっとりとした視線が俺の頭からつま先まで這いまわる。こうなると凉は面倒くさい。
「女か。彼女出来たんだろ」
「出来てない」
「じゃあ、宝くじで十万くらい当たった」
「当たってない」
「じゃあ何だよ! いつもと何となく雰囲気違うってことは分かってんだよ」
凉に詰め寄られ、俺は返答に窮してしまう。天野とのやり取りを洗いざらい教えたくはない。天野といるあの技術室の時間は二人だけの秘密にしておきたい。でもこのままだと凉は家にまでついてきそうな勢いだ。
うーん、と頭を一生懸命働かせるが、いい答えが思い浮かばない。
「ね、ねこ」
「猫?」
「そう。うちの近くになかなか懐かない野良猫がいたんだけどさ、最近ようやく撫でさせてくれるようになって」
「……それは確かに嬉しいな」
「うん。嬉しい」
こんな苦し紛れの嘘をつくなら、宝くじに当たったことにしておけばよかった。そう後悔したものの、凉は納得してくれたようなのでとりあえずホッと胸をなでおろす。
凉から家で買っている猫がなかなか懐いてくれない話を聞かされていると、体育館の中からホイッスルの大きな音が聞こえてきた。先輩たちの練習試合が終わったらしい。次は俺達が試合をする予定になっているので、凉の背中を押し体育館へと戻った。
試合中はバッシュが床を鳴らす音が絶えず聞こえてくる。小さい頃からずっと耳にしている音ではあるけれど、飽きたり嫌になったりすることはなかった。キュッ、キュッと音が鳴る中でボールと仲間に意識を集中している時、自分が大きなシステムの一部に組み込まれたようで、いい働きをしなければと自然と意欲が湧いてくる。
天野がプラモを作っている時、似たような感覚になってんのかな、なんて頭の片隅で思いながら凉と共に練習試合をこなしていると、ふいに体育館上部のキャットウォークに目が止まった。
うちの学校のキャットウォークは割と通路が広く、部活を見学している奴や大きな窓の木額縁に腰かけて読書している奴もいたりする。そこでこの場所では絶対に見かけることはないと思っていた奴がいた。天野だ。
天野が柵に手を置いて俺達の試合を見ている。俺が天野のほうを見ていることに気づくと、何でもないような調子で「よっ」と軽く手をあげてくる。ど、どうしてここにいるんだよ……!
動揺した俺は凉からのパスを上手く受けることが出来ず、相手チームにボールを奪われてしまった。何やってるんだよ、という凉の非難めいた視線が向けられるが、ごめんと謝ることしか出来ない。
天野がこちらを見ている。そう思うと途端に緊張して身体がこわばってしまう。格好悪いところを見せたくない。だからといって格好いいところを見せようと変に気合を入れてすっころんだらどうしよう。
人に見られるって、こんなにソワソワするものなのか。技術室では俺が天野の手元をずっと見つめていたが、天野はどう感じていたのだろう。
再びボールが俺へと回ってくる。普段ならばここからどうやってボールをゴールへと運べばいいのか、自然と頭で計算して身体が動くのに、今は一から考えないと動けそうにない。まずは一歩、バッシュが床を鳴らす。それからもう一歩。天野の視線を感じる。堪らなくなって思わずロングシュート。ボールはバックボードにぶつかり、ゴールには入らず虚しく落下した。
「昨日、なんで体育館にいたんだよ」
次の日、放課後の技術室で尋ねると、天野はプラモのパーツにやすりをかけながら「何となく見たくなったから」と答えた。
「俺ばっかり見られるのは不公平だろ」
「そうかもしんねぇけど、吃驚した。天野が体育館にいるの、意外すぎる」
「俺だって体育の授業の時には体育館にいるが?」
「それはそうだけど……で、見ててどうだった?」
そうだな、と天野は呟き、俺へと視線を向けた。何故か心臓が高鳴った。
「本当にバスケが好きなんだなって思ったよ。ボールを追いかける時、仲間に視線で合図をする時、シュートをする時、全部楽しんでいるのが伝わってきた。そりゃ、先輩の悪行のせいで交流戦がなくなれば不貞腐れるよな」
感想を聞いたのは自分ではあるものの、目の前でこうしてきちんと伝えられると何だかこそばゆい。照れているのを悟られないように「お前だってそうだろ」と咄嗟に返す。
「こうして隣で天野を見てると、プラモ作りってかモノ作り? が好きなんだなーってのが分かる」
「まぁ、実際好きだしな」
俺と反して天野は淡々と言い、手慣れた手つきでパーツに接着剤を付け始めた。大人な反応に負けた感じがしてちょっとだけ悔しい。
天野が今作っているプラモは、この前作っていたのとは違う種類のものだった。もしかすると、それって……。
「なぁ、今作ってるのって、俺のやつ?」
「そう」
天野はプラモが入っていた箱を俺の前に持ってきた。アメリカの古い洋画とかでよく見るようなクラシックカーが描かれている。
「何作ろうかって迷ってたんだけど、この前プラモショップ行ったらこれを見つけてさ。久地はロボ系はあまり知らないだろうし、これだったら部屋のインテリアにもいいんじゃないかと思って」
そんなことを考えながら選んでくれたものだと思うと、じんわりと嬉しさがこみ上げてくる。今から天野の手で、それが少しずつ丁寧に形作られていく。完成する日が待ち遠しくもあり、ずっと先でもいいかも、なんて思う自分もいる。
「楽しみにしてる」
ぽつりと言うと、天野はこれまでに見せたことのないような柔らかい笑顔を浮かべた。
次の日からは授業中も、部活中も、休みの日だって天野のことを考えていた。教室では天野は相変わらず寡黙で人を寄せ付けないオーラを出している。でも放課後の技術室では、俺と何気ない会話をして冗談を言ったり笑ったりする。そして思わず惹きこまれてしまうような冴え冴えとした眼差しと繊細な手つきでプラモデルを作り上げる。他のクラスメイトはそんな天野のことなんて知る由もないだろう。
天野の手によって作られたクラシックカーが俺の部屋に置かれているのを想像する。嬉しい気持ちと同時に、独占欲が満たされるのも感じる。よくない気持ちであるとは思うものの、それはいつの間にか俺の心の奥底からにじみ出し、広がってきていた。
火曜日の放課後、いつものように技術室へ向かう。先週からどの程度作業が進んだのかな、なんて考えながら技術室へ続く廊下を歩き、引戸を開けようとした時、ガラス窓の向こうに見える光景を見て俺の身体は固まった。
天野と、もう一人の男子生徒がいた。
そいつは天野と向き合うように座っていて、まさにロボットというようなプラモデルをいじりながら楽しそうに喋っている。優等生然とした制服の着こなしをして、大人びた雰囲気をしたそいつを、俺は見たことがあった。隣のクラスの桂木(かつらぎ)だ。
ふいに天野の言葉を思い出す。『プラモ同好会。俺のほかにあともう一人しかいないけどな』そうだ、同好会を立ち上げるために天野が誘った相手――数少ない天野の友人が、おそらく桂木だ。
放課後の天野を知っている人間が俺だけじゃないということを、今更になって思い知る。しかも、桂木のほうが俺よりよっぽど天野のことを知っているだろう。なにせ一年の時から天野と共に同好会活動をしているのだ。それなのに俺は、天野の本当の姿を知っているのは自分だけなんだと思い込んでいた。
俺は何を自惚れていたんだろう。
引手にかけていた手の力が抜け、引戸の前で呆然とすることしか出来なかった。こんなことでショックを受けるのはおかしい。頭ではそう思っているのに、気持ちはズブズブと沈んでいく。今、あいつらとまともに会話が出来る気がしない。とにかく今日はこのまま帰ったほうがいい。何とかそう決断をして踵を返そうとした瞬間、桂木と目が合ってしまう。
「あ、久地!」
桂木の顔がパッと明るくなり、こちらへ駆け寄って引戸を開けた。
「何突っ立ってるんだ、中入れよ。海から聞いたよ、俺以外に友達が出来たって。久しぶりに同好会に来た甲斐あったわ」
「出来れば週に一回くらいは来て欲しいけどな」
あっけらかんとした桂木と、そんな桂木にため息をつく天野。俺もいつものように技術室へ入って、椅子へ腰を下ろし、そんな二人と何でもないような話をすればいい。それなのに、俺の足は前へと動こうとしなかった。
「……あ、悪い。今日バスケ部のミーティングがあるの思い出した。部室行くわ」
咄嗟に嘘をつくと、桂木は残念そうな表情を浮かべた。
「まじか。久地と話してみたかったんだけどなぁ。また今度話そうぜ」
「ああ」
じゃあ、と言って今度こそ踵を返す。一瞬、天野と目が合うと、天野は「またな」と手を上げて小さく微笑えんだ。俺も軽く手を上げたが、ちゃんと笑顔を作ることが出来たか全く自信がない。
誰もいない廊下を歩き、階段を下りる。踊り場で力が抜けてしまい、しゃがみ込んだ。何だこれ。何だこの気持ち。
技術室で天野の隣にいるのが俺じゃないことが、こんなにも嫌だなんて。
両手で顔を覆えば、視界は黒一色になった。遥か遠くのほうから野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。急に小学生の頃の一人ぼっちだった俺に戻ってしまった気分だ。
「好きだ……」
自然と口から言葉が漏れた。多分、そういうことだ。俺は天野のことが好きなんだ。
自覚すると途端に淋しさが溢れてきて、泣きそうになってくる。こんなところで泣きたくない。それに泣く意味だってないだろ。自分に言い聞かせ、両手で頬を叩いて立ち上がる。そしてそのまま階段を下りきって昇降口で靴を履き替え、校門を出た。
いつもと同じ帰り道、いつもと同じ風景。でも俺はいつもとは違う。俺は人を、天野を好きになってしまった。誰かを好きになるって、幸せなことばかりじゃないのかも。どこか他人事のようにそんなことを思いながら、一人とぼとぼと道を歩き、大通りを渡り、駅へと向かった。
***
あの日以降、俺は技術室へ行かなくなってしまった。桂木がいると動揺してしまいそうだったし、天野とどう接すればいいのか分からなくなってしまったからだ。
中学時代に女子から告白され、付き合ったことはある。でも結局向こうの気持ちについていけなくなって、長続きはせず振られて終わった。俺から人が離れていくことには不安を感じたけれど、引き止める理由なんてなかった。特別「好き」だと思う人は今までいなかった。だから、今更になって好きな人との接し方が分からないでいる。
そんな俺に天野は一度、「最近、技術室に来ないけどどうした?」と教室で話しかけてくれた。心配そうな眼差しに、気持ちを全て吐き出してしまえば、と思ったがグッと言葉を飲み込んだ。俺の独りよがりな言葉で困惑する天野を見たくない。軽蔑もされたくない。だから「ちょっと部活で忙しくて」と下手な嘘をついた。こんなことをしても何もいいことはないと分かっているのに。
ちゃんと気持ちを整理して、天野とまた話したい。でもどうしていいのか分からない。ぐるぐる悩んでいると思うように身体も動かせず、部活中もミスが多くなってしまう。
「おーい、今度は犬のフンでも踏んだか? ダメダメじゃん」
「……そっとしておいてくれ」
本日連続五回目のシュートミスでとうとう凉が突っ込んできた。言い返す気力もない俺に凉は怪訝な顔をした。
「何だよ、本当にどうした? 話聞くぜ」
がしっと肩に手を回してきてそう言ってくれる凉は、いい友達だ。でも流石に今の悩みをそのままこの場で言えるわけがない。
「いや、何というか……俺って、本当に勇気も優しさも思いやりもない自分勝手な男だなって実感して」
「めっちゃくちゃマイナス思考になってるじゃん。そんなんじゃ不運が寄ってくるだけだぞ」
「もういいんだよ。俺なんか豆腐の角に頭をぶつけて死んだほうがいいんだ……」
「はぁ?」
「俺なんか……人を不快にさせるだけの人間なんだ」
めそめそと泣き言を言っていると、耐えられなくなったらしい凉が「ごちゃごちゃうるせーな!」とボールで一撃をくらわせてきた。身構える余裕もなかった俺は見事にその攻撃を受けてしまう。そっちのほうから話を聞いてきたくせにその仕打ちとは、ちょっと酷くないか?
「いってぇ……何もボール投げなくてもいいだろ!」
「お前がネガティブすぎるのがいけないんだろ! いいか、確かにポジティブ思考のみで前に進んだら痛い目をみる。だからと言ってマイナスなことだけ考えて何もせず悲観してばっかりいたら、得るものも得られねーだろうが! あと見ててこっちが苛々するんだよ!」
アホ! と最後に言い捨てて凉は練習に戻っていった。何もそこまで言わなくてもいいじゃん、とは思うが凉が言っていることも確かに一理ある。分かってはいるけれど、こういう時に限って何も出来なかった頃の幼い自分が足元にまとわりついて、なかなか離れてくれない。
ただ、それも言い訳に過ぎない。勇気が出なかったから天野との関係は切れました、で終わるのは絶対に嫌だ。そう思うのだから、明日こそ天野に話しかけよう。後のことはそれから考えればいい。
そう自分に言い聞かせ、練習に戻ろうとすると、体育館の出入り口のほうから誰かが叫んでいるような声が聞こえてきた。部活中に出すようなかけ声ではない。もっと乱暴で荒々しい声。
不審に思って出入り口へ向かってみる。半分ほど開かれているスチール製の大きな引戸を開けば、外には見たくもない奴がいた。交流戦が中止になった原因である冨田だ。冨田は声を荒げて誰かの胸倉を掴んでいる。冨田よりも幾分小柄なその人物は――天野だった。
「天野っ!」
俺は思わず叫んで二人に駆け寄った。力ずくで冨田の手を天野から引き離す。天野を庇うようにして冨田と対峙すると、奴は「邪魔すんじゃねぇよ!」と俺を睨みつけてきた。俺も負けじと睨み返す。
「……どうして冨田先輩がここにいるんすか」
「お前に関係ないだろ。久地、ちょっと見ない内に随分生意気になったじゃねぇか」
「そんなことないですよ。それより、先輩はもうバスケ部の部員じゃないんだから、ここにいる必要なくないすか」
「ああ!? 喧嘩売ってるのか?」
もともと素行の悪さは目立っていたが、退部という形でバスケ部を追い出されてから、冨田はより一層柄が悪くなったようだ。何をしてくるか分かったもんじゃない目つきをしている。とにかく天野に被害が及ばないようにしなければ、となるべく奴の視界に入らないように天野を俺の背後に隠す。すると、天野がさりげなく耳打ちしてきた。
「久地、どうにかして時間を稼いでろ」
は? と思ったものの、素直に聞き返す余裕などない。冨田から目を逸らしたらそのまま殴りかかってきそうな気がする。とにかく天野が言うようにするしかないのか。
「も、もう一度聞きますけど、どうしてここにいるんすか? 誰かに用があったり?」
「岡本だよ。あいつが俺の退部を決定したらしいじゃねぇか。ちょっとくらい文句を言ってもいいだろ」
岡本先輩はバスケ部の部長だ。絶対、「ちょっとくらい文句」で済むわけがない。
「岡本先輩だけで決めたわけじゃないっすよ。先生も含め三年の先輩たちが相談して決めたことです。それだけの問題を起こしたって自覚、ないんすか」
「ああ? 俺はバスケ部のことを思って生徒会の奴らにもっと予算を寄こすようお願いをしただけだろ? 何でその結果が退部なんだよ!」
「先輩のしたことはお願いじゃなくて恐喝なんですよ」
「……あーもう、お前じゃ話にならんわ。ちょっと黙っとけ」
今度は俺が胸倉をがっしりと掴まれてしまう。抵抗はするが図体のでかい冨田の力は強く、自分ではなかなか振りほどけない。冨田の腕が振り上げられ、これから思い切り殴られることを予感する。最悪だ。
冨田が言葉にならない雄叫びを上げる。俺は歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った。
その瞬間、「待ったぁ!」と冨田じゃない奴の声がして、胸倉を掴んでいた手が離れる。咄嗟に目を開くと、凉を筆頭にバスケ部員数人が冨田に掴みかかっていた。さすがに数人がかりで押さえつけられたら、冨田も暴れることは出来ないようだ。
「お前……急にいなくなったと思ったら殴られそうになってて……吃驚しただろうが!」
「ご、ごめん」
姿を消した俺を凉達がタイミングよく見つけてくれたようだ。お陰で殴られずに済んだ。安心すると急激に身体の力が抜けてきて、思わずしゃがみ込み大きく息を吐き出した。次いで、校舎のほうから「こっちです!」という声が聞こえてくる。視線を向ければ、天野が必死になって先生をこちらへ連れてきている。そうだ、気づけば天野がこの場からいなくなっていた。俺に耳打ちをした後、こっそりと先生を呼びに行っていたのか。
冨田は尚も不満をまき散らしていたが、険しい顔をした生徒指導の先生に引っ張られ、校舎の中へ消えて行った。この前問題を起こして、更にまた問題を起こしたとなれば、停学は確定だろう。出来ればもう二度と顔を見せないで欲しい。
俺と天野は凉達に怪我を心配されたが、大丈夫だと言って練習に戻ってもらった。久しぶりに天野と二人きりになる。どう話せばいいのか分からずに緊張してしまう。声の高さとか大きさとか、どんな感じで会話をしていたんだっけ。何だか掌に汗までかいてきた気がする。
でもここで絶対に声をかけなきゃ駄目だ。己を奮い立たせ口を開く。
「天野……その、ありがとな。お前が先生呼んでくれたからすぐに対処出来た」
「いや、いいんだ。元はと言えば俺があいつの神経逆撫でしたのが悪いから」
「そういや、お前もどうしてこんな所にいるんだよ?」
問いかければ、天野は俺を真っ直ぐに見つめながら「久地に会いに来た」と言った。
「え、俺?」
「だってお前、急に技術室には来なくなるし、教室では俺を避けるし、全然話せないから。それなら部活中に突撃して呼び出してやろうと思って」
「ま、まじか……」
「それでここに来たら、柄の悪い先輩が体育館の中覗いてるからさ。久地が前に言ってたバスケ部で問題起こした先輩じゃないかと思ってちょっと声かけてみたら、逆上させた。辛気臭い面した奴が話しかけてくるんじゃねぇって」
「あいつ、もう退学になってもいいかもな……」
「それはもういい。問題はお前だよ」
天野が俺の腕を強く掴んだ。
「どうして俺を避けるんだよ」
直球で問われると、何も言うことが出来ない。だってそれを言ってしまったら、今後二度と天野と話すことは出来なくなるかもしれない。でも、ここで口を噤んだままでいても天野はきっと怒るだろう。
体育館からバッシュが床を鳴らす音がする。今、誰かがシュートを決めた。そんな音よりも俺の心臓のほうがバクバクと脈打っていた。どうせ今の関係が壊れてしまうなら、悔いが残らないほうがいい。こんなにも大きな決断をしたのは、人生で初めてだった。
「お、俺さ……」
「うん」
「俺、天野のこと、好きみたいなんだ」
言うと、天野は目を丸くした。そりゃあ男から告白されたら驚くのも当たり前だ。
「天野と二人で話す時間が本当に楽しくて、ずっとこうしていたいと思っていた時に天野と仲良さそうに話している桂木を見て、どうしていいか分からなくなってた。不安にさせちゃってごめんな」
「……そう、か」
動揺しながらも天野は俺の放つ言葉を一つ漏らさず受け取ってくれた。でも、俺達はこれでもう終わりだろう。気持ちを伝えられたのならこれでいい。「ほんと、ごめん」ともう一度謝って体育館に戻ろうとすると、ぐいっと腕を引っ張られる。
「えっ、天野?」
「ちょっと来い」
「は?……な、何だよ!」
天野は戸惑っている俺を問答無用で校舎の中へと連れ込んだ。そのままずんずんと廊下を西棟のほうへと進んでいく。一年の教室を通って階段を上り、社会科準備室がある方向へ。あれ、このまま行くと辿り着くのって……。
予想通り俺達は技術室へと到着した。引戸を開け、天野がそのまま中へと入っていく。放課後の静まり返った技術室。いつも俺達が座るテーブル。その上にぽつんと箱が置かれている。
「あ、天野?」
「これ、完成したから」
天野がその箱を俺に差し出した。箱の表面にはクラシックカーの絵。俺が天野に作ってくれと頼んだプラモだ。箱自体にそこまで重量はない。でもその中に、確かに俺が望んだものがあるのを感じる。開けていいかと伺えば、天野は黙ったまま頷いた。
サンタクロースからのプレゼントを前にした子どものように胸が躍る。ゆっくりと箱を開けると、今まで見た中で一番綺麗な車がそこにあった。窓から差し込む夕日を受けて、ボディが艶めく。全体的なカラーは黒で、細かな箇所にゴールドのラインが差し色として入っている。見たことのある色合いだった。
「なぁ、この色って、もしかして……」
「お前、部活の時そういうシューズ使ってるだろ」
俺が使っているバッシュのカラーを元に塗装をしてくれたようだ。本当に俺のために作ってくれたプラモ。それが今、手の中にある。心の底から嬉しいのに、これが出来上がるまでの過程をほとんど見ることが出来なかった。天野を遠ざけて、俺が見ようとしなかった。その事実に胸が締め付けられる。
「天野……ありがとう。すっごく嬉しい」
お礼を言えば、天野はほっとしたように「よかった」と微笑む。
「お前がここに来なくなってから作り続けようか迷ったんだけど、これだけは完成させたいと思って」
「そう、だよな。ごめん、迷惑かけて」
「……あのさ」
天野が俺に近づき、真正面から向き合う。眼鏡の奥の瞳が俺を写す。
「俺、こんなにも誰かのことを思って何か作ったの、初めてなんだよ。これ作っていた時、ずっと久地のこと考えてた。お前がこれを眺めている姿とか、どうやって触れるんだろうとか、そんなことずっと想像してた」
「えっ……」
「それで気づいたけどさ……俺も、お前のこと、好きだよ」
顔を赤くさせて天野が言った。今、俺は白昼夢でも見ているのだろうか? こんなにも舞い上がるような、思わずクラクラとしてしまうような嬉しい出来事って、あってもいいのだろうか? 頭が沸騰してしまいそうになるけれど、手の中にあるクラシックカーの重みが、現実であることを教えてくれる。
「あ、天野、これって夢じゃねぇんだよな?」
「夢じゃない」
「その……抱きしめていい?」
「いいよ」
挙動不審になっている俺に天野が小さく笑う。クラシックカーをテーブルに置き、震えそうになる手で天野を抱きしめた。天野の体温を肌で感じる。息遣いも、心臓の音も聞こえてきそうで、思わず目頭が熱くなる。天野も俺の背中に手を回し、抱きしめ返してくれた。
今度、俺も天野に贈り物をしよう。でも何がいいだろう。天野みたいに器用じゃないから、プラモなんて絶対に見るに堪えない出来になる。料理だってあまりしたことがない。それなら、プラモ用の道具とか?
何にしたって、それを探している間はずっと天野のことを考えよう。どんな表情を浮かべるのか、どんなことを言うのか、どんな眼差しを送ってくれるのか。
贈り物をした後は二人で他愛ない話をして笑い合ったり、天野が作業をしている姿を眺めたり出来たらいい。それで、最後にはこうやってまた抱きしめたい。
先週、バスケ部の先輩が校内で問題を起こしたせいで、今週末に予定されていた近隣校との交流戦の参加を辞退することになった。その試合で俺はスタメン入りをしていたのに、交流戦自体に参加できないのであれば何もかも意味がない。スタメンに選ばれてから楽しみにしていて、ここ最近はより一層気合を入れて練習をしていたのに、だ。
しかもその先輩が起こした問題というのが、バスケ部に割り振られた予算が少ないと生徒会役員に憤慨し、暴力沙汰一歩手前になったというもので、あまりにもふざけた内容に一周回って悲しくなってくる。
そいつは結果として退部となったのはいいものの、交流戦がなくなったのは余りにも残念過ぎる。今日も普通に部活はあるがどうにもやる気がでない。というか、結構落ち込んでいる。
もう一度ため息をついてから席を立ちあがり、自分の席でスマホをいじっていた部活仲間の凉に話しかける。
「なぁ凉」
「どうした鷹雄、もう部活行く?」
「いや……俺、今日サボるわ」
はぁ? と凉は呆れた顔をする。
「何言ってんだよ。お前、このまま真面目にやってりゃ次の試合だってスタメン入りするかもしれねぇのに」
「あくまでも可能性、だろ。別にこれからずっと部活行かないって訳じゃねぇよ。今日だけ」
「まぁ、気持ちは分からないでもないけどよ」
「部長には体調不良って言っといて。お願い」
「……今度昼飯おごりな」
「分かった。ありがと凉くん」
渋々頷いた凉に抱きつくふりをすると、ふざけるなと頭をはたかれる。気にせずに「じゃあよろしくな」と言ってから俺は凉を残して教室を出た。ただ、このまま帰る気分でもない。ゲーセンとかカフェに行く気も起きない。どこか静かな場所で一人きりになりたい。
それなら社会科準備室にでも行こうと思い、西棟へ向かう。社会科準備室には何故か上等なソファが置いてあり、寝転がって時間を潰すのには丁度いい場所だった。放課後にわざわざここに来る奴もいないだろうし、俺以外誰もいないのなら、静かであるのは確定だ。
適当にスマホをいじったり、鞄の中にある漫画でも読んだりして、警備の人が施錠に来る前に帰るかぁなんて考えながら階段を下りて廊下を歩いていると、技術室が見えてくる。社会科準備室へ行くときに通り過ぎる場所だ。そこで俺は妙なものを見た。
出入口の引戸にはめ込まれているガラスの向こうにテーブルが見える。技術室にしかない数人で座る大きめのテーブルだ。その上に、でかい豆腐のようなものが置かれていて、そこに竹串が数本刺さっていた。その竹串の先端には小さな何かがついている。
何だアレ。俺は思わず立ち止まり、ガラスの向こうをまじまじと見つめた。何かの装置か? 科学部あたりの奴らが実験でもしているのだろうか。初めて見る得体の知れないモノと、部活サボり中の自由な時間が相まって、俺の中の好奇心がどんどん膨らんでいく。もう少し近くで見てみたい。俺の手は自然と技術室の引戸を開けていた。静寂の中、引戸を開ける音がいつもより大きく響く。
技術室には誰もいなかった。誰もいない部屋に謎の物体とか、ちょっとした怖さも感じてくる。恐る恐るそれに近づいてみると、「豆腐のようなもの」は発泡スチロールであることに気づく。そして竹串の先端についているものは、小さいプラスチックの部品だった。ただ、それが何の部品であるかは全く分からない。それぞれ形が違う部品が、屋台のいちご飴のように並べられている。実験に使う機器ではなさそうだ。
一本の竹串を引き抜き、じっくりと眺めてみる。それは牙のような形状の部品で、白っぽい色をしていた。本当に「ただの部品」といった感じだ。それが何故こんな風に竹串につけられているのだろう。意図が全くわからず、まさに不思議な光景だ。
何か、謎過ぎて不気味かも。
元に戻して見なかったことにしようか、と思ったその瞬間、背後から「何してるんだよ」といきなり声をかけられた。不意をつかれた俺はめちゃくちゃビビッてしまい「うわあッ!」と大声を出して振り返る。手にしていた竹串が床に落ちた。
「なっ、お前、落とすなよ馬鹿!」
焦りながら近づいてきた奴はお化けとかではなく、ちゃんとこの学校の制服を着ている人間だった。しかも知っている顔。一度も染めたことのないような深い黒髪に眼鏡、そして愛想のない顔――同じクラスの天野海だ。でも、話をしたことはほとんどない。いつも一人で席に座っているような大人しい奴だから。
「……び、吃驚させるなよ。心臓止まるかと思ったじゃねぇか」
「それはこっちの台詞だよ。人の物勝手に触っていいと思ってるのか?」
俺が落とした竹串を拾い、先端の部品を確認する天野。眉間に皺を寄せて「やり直すか」なんて呟いている。
「それ、お前の?」
「そうだよ」
「何なの、それ。廊下から見えて気になってさ」
天野は俺を一瞥してから、にこりともせず「プラモ」と答えた。
「プラモ? プラモってあの、ロボとか戦車とかああいう……」
「そう。これはそのプラモのパーツ。今から塗装しようと思って下地処理してたんだけど、お前が落として若干傷がついたから、やり直し」
そうか、プラモデルって小さなパーツを組み合わせて作るんだっけ。今までプラモに触れたことがほとんどないから、全く想像がつかなかった。それにしてもパーツを一つずつ塗装するとか、結構本格的じゃないか? 色ってもともとついているんじゃないのか。
確かに、細かい作業をしようとしていたところに突然他人が入り込んできたら焦りもするか、とさっきの天野の様子に納得する。
「ごめん、俺、こういうの全然知らなくて。邪魔しちゃったな」
「……まぁ、謝るならいいけど」
「でも何で技術室でこんなことしてんの?」
シンプルな質問を投げかけると、天野は自身の眼鏡の縁をいじりながら「一応、同好会の活動」と呟くように言う。
「同好会……何の?」
「プラモ同好会。見たら分かるだろ。俺の他にあともう一人しかいないけどな。しかもそいつはほとんど来ないし」
天野曰く、一年生の時に何かしらの部活に入るよう先生から言われたが、どの部活にも興味がなかった天野はもう一人の生徒を誘ってプラモ同好会を立ち上げたらしい。先生はとりあえず全生徒が部活動、もしくは同好会に入っている状態にしたかったようで、活動内容についてはそこまで突っ込まれなかったようだ。それからはこの技術室で気ままにプラモを組み立てている、とのことだった。
「自分で同好会を作ったってこと? すげぇな」
「別にすごくない。申請用紙一枚を先生に出せばいいだけだし。それよりも俺は必死に部活やってる奴らのほうがすごいと思う」
「でも、天野だって真剣にプラモ作ってるんじゃねぇの」
「……まぁ、そうなるのか?」
天野は俺と話しながら先ほどのパーツを指先でつまみ、紙やすりのようなものを当てたり、マニキュアのような液体をつけたりしている。どれもこれも見たことのない道具で、作業を眺めているだけで何となくワクワクしてくる。バラエティ番組でたまにある職人の手作業を紹介したVTRを見ている気分だ。その状態からどうやってロボや戦車になっていくんだろう。
「なぁ、このまま隣で見ててもいい?」
「いいけど、久地も部活あるんじゃないのか?」
「あるけど今日はサボったから大丈夫」
「大丈夫なのかよ、それ」
今日だけだから大丈夫、と言いながら椅子に座ると、天野は怪訝な視線を向けるものの、それ以上は何も言わずに作業を進める。というか、天野って俺の苗字を知っているんだ、と内心驚いた。教室は一人でスマホをいじっていたり本を読んでいたりして周囲とのコミュニケーションを遮断しているように見えるから、クラスメイトのことなんて何も知らないのだろうと思っていたのに。
それに、いざ喋ってみると特段こちらを拒絶するような様子もない。意外なことが多すぎて、つい天野の横顔をじっと見つめてしまう。すると、天野は居心地悪そうに視線をこちらに向けた。
「何だよ、そんなに見られると気が散るんだけど」
「いや、何でいつもぼっちでいるのかなーと思って」
「人とわいわいはしゃぐのがあまり好きじゃないから。友達もそんなにいらないし」
「へぇ。寂しいとか思わないの」
「別に。ほっといてくれたほうがいい。いじめの標的にされるのは勘弁だけど」
そんな奴、現実でいるんだ。教室で一人、ただ机に座っているだけなんて、俺だったら耐えられない。小学生の頃の記憶がふいに蘇り、思わず拳を握りしめる。
天野はテーブルに置かれていた収納ボックスからいくつかの塗料と細い筆を取り出し、淡々とパーツに塗装をしていく。その手際が鮮やかで、いつの間にかじっくりと見入ってしまった。塗装したパーツは再び発泡スチロールに刺し、全てのパーツに色がつけられると、発泡スチロールごと技術室の後ろにある据え置きのロッカーの中に入れる。
「それ、乾かすんだろ? 窓側のテーブルに置いて乾かせばいいのに」
「埃がつくのが嫌だから、空気が動きにくいロッカーの中に入れてる」
「あーなるほど。何か、すげー細けぇな」
「そこがいいんだよ。久地には分からないだろうけど」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべる天野に、胸の辺りをくすぐられたような感じがした。こいつ、そんな表情も出来るのか。
「今日はここまでだな。中途半端に進めるとパーツがどこかいっちゃう時もあるから」
プラモの箱に説明書やいくつものパーツがついている板状のもの(ランナーというものらしい)をしまいながら天野が言う。箱の表面には、俺の知らない強そうなロボットが描かれていた。分かった、と言って技術室を出たら、この光景を眺めることは二度と出来ないのだろうか。
天野がただ真っすぐに何かを作り上げている姿をもっと見ていたい。何故かそう思ってしまう。
「あのさ、天野」
「何?」
「放課後、またここに来てもいい?」
尋ねると、天野は驚いたように目を大きくしてこちらを見つめてくる。そんなことを言われるとは思っていなかったんだろう。恥ずかしくなってくるから、そんなにじろじろと見ないで欲しい。
「勝手に来ればいいけど……面白くはないぞ」
「面白いかどうかは俺が決めるの。じゃ、またお邪魔します」
小さく笑ってから、天野は「じゃあ、また」と返してきた。
***
それから俺はバスケ部が休みの火曜日、木曜日の放課後によく技術室へ行くようになった。天野はいつも技術室で何かを作っている。隣に座って作業を眺めながら、見たことがない道具を指さしてこれは何だと問いかければ、天野は素っ気なく、でも丁寧にその道具の名前や使い方を教えてくれた。
プラモだけではなく、ミニチュアの家具やアクセサリーを作っている時もあった。天野の母親がミニチュアハウスに人形を飾るのが好きなようで、時折家具の作成を頼まれるらしい。アクセサリーは妹に「こういう感じの作って欲しい」とインターネットで探してきたアクセサリー画像を見せられるのだとか。
「アクセサリーのパーツ専門店に男一人で行くの、嫌なんだよな」
「でも作ってあげるんだろ。やさしー兄ちゃんじゃん」
「細かいパーツを組み合わせること自体は楽しいんだよ」
すらりとした指先で細かなパーツを摘まみ、少しずつ、でも着実に理想の形へと作り上げていく。静かに作業をしているそんな天野の横顔を気づけば見つめてしまう。これほどまでに顔を動かさず、手元の一点のみをじっと見つめて作業に打ち込んでいる人間を今まで見たことがなかった。当たり前だけれど、バスケの試合に打ち込むのとは全然違う。ただただ静か。その内空気が動く音も聞こえてきそうだ。
スポーツとは違い、誰かと競うこともなく得点を追い求めるわけでもない。見ていてハラハラドキドキするわけでもない。でも何故か天野が作業を止めるまで、俺は飽きることなくずっとこの光景を眺めてしまう。
技術室に行った日は、天野と一緒に駅まで帰るのが恒例となっていた。とある日の帰り道、途中のコンビニで買ったカフェオレを飲みながら「どうしてそんなにモノづくりが好きなの」と聞いてみた。天野は俺がおごったレモンティーを手にして悩む素振りを見せる。
「うーん。まぁ、単純に何かに集中するのが好き、なのか? 多分」
「それだったら勉強とか、スポーツとかでも集中すること出来るじゃん」
「それとこれとは話が違うんだよな。こう、手元にあるモノとの一対一のやり合いというか、対話というか」
言いながらペットボトルの蓋を開け、レモンティーをごくごくと飲み込む。黄金色の液体が夕日を反射してキラキラしている。
「俺の些細な動作で出来上がるモノの表情が全く変わってくるから、全力で取り組まなきゃいけない。そうすると周りの雑音がいつの間にか消えていて、俺と手の中にあるモノだけの世界になる。一心不乱にパーツを組み立てていくと、少しずつ形が出来ていくのが楽しい。出来上がったモノはその時の俺自身みたいに感じたりもする。まぁ、趣味に全振りしてるってやつだよ」
少し離れた先の交差点を行き交う車を眺めながらそう言う天野の横顔も、夕日に照らされていた。あの技術室で、俺の隣で、そういう世界に入り込んでいるのか。
「……何となく分かるかも。バスケでもそういう感覚になる時ある」
「へぇ、あまり想像出来ないな」
「例えば、絶対にボールを奪われちゃいけない時に相手と対峙すると、多分一秒も満たない時間だけど、一瞬周りの雑音が消えて脳みそがフル回転するんだよ。冷静に状況を分析して自分がどうすればいいのか考える瞬間、みたいな」
「あー、漫画で見たことあるかも。ああいうのって本当にあるんだ」
「あるんだよ」
天野は笑いながら俺を見て「お前、結構バスケ好きなんだな」と言ってきた。当たり前だろ、と被せ気味に返事をする。
「好きだからバスケ部に入ってるんだよ」
「モテそうだからバスケ部なんだと思ってた」
「俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「してないしてない」
逆に言えば、バスケが俺の唯一の拠り所だった。小学生の頃、兄がバスケを教えてくれるまで、俺は内気すぎて友達が出来ず学校ではずっと一人だった。バスケを始めて人と試合をするようになってから、ようやくコミュニケーションをとる方法を覚えて、それからはクラス内で浮かない存在になるよう努めてきた。バスケがなかったら俺は今も教室で俯いて誰とも話そうとしない人間だったかもしれない。
孤立するのは怖い。それなのに、天野は一人でいても構わないと言う。見栄とか虚勢でもなく心からそう思っているらしい。俺とは全く違う不思議な奴だなぁと思う。だからこそ惹かれてしまうというか、何というか。
プラモを作っている時の、天野のあの真っ直ぐで真剣な目が頭から離れない。
「なぁ天野」
交差点で信号待ちをしている時、さりげなく天野に声をかければ、「何」と短い言葉が返ってくる。変なことを言うつもりじゃないけど、どんな反応をされるだろう。カフェオレのパックを握りしめ、少し緊張しながら喉から声を出した。
「あのさ、俺にもプラモ作ってくれない?」
「はぁ? お前に? どうして」
「天野が作るやつ、めちゃくちゃクオリティ高いからさー、俺も欲しくなっちゃって。金なら出すから。な?」
怪訝な表情でこちらを見つめてくる天野に、両手を合わせ姿勢を低くして頼み込んだ。もちろんクオリティが高いプラモが欲しい、という理由ではなかった。言語化するのが難しいけれど、天野の真っ直ぐな眼差しを受け、器用な手で大切に作り上げられていく何かが欲しかった。何故かやましさを感じているから、ごまかしたのだ。
天野はしばらく口を閉ざしていたが、信号が青に変わり、俺達の後ろにいた人たちが次々と横断歩道を渡っていくと、ため息をついて「分かった」と言う。それを聞いて顔を上げれば、天野は俺を残して横断歩道を渡り始めていた。慌ててその背中を追う。
「マジ!? やったー! ありがとな」
「作るのは好きだから別にいいんだけどさ、久地が欲しがるのが意外だなと思って。こういうの興味なさそうだし」
「あー、確かに技術室で天野に会うまでそういう世界とは無縁だったけど、隣で見てたら何ていうか、こう、すごいなって思い始めて」
「ははっ、語彙力なさすぎ」
目を細めて天野が笑う。そんな天野を見て俺の心臓は鼓動を速めた。心なしか顔が熱いような気もする。何だろう、これ。プラモを作ってもらう約束をしたから舞い上がっているのだろうか。
天野の作り上げた作品を掌の上に乗せた時、俺は何を思うのだろう。その日が今から待ち遠しかった。
「お前、最近妙に浮かれてるよな」
部活の休憩中、体育館脇にある花壇の傍で水を飲んでいると、いつの間にか隣にいた凉に言われる。驚いて危うく水が気管に入りそうになった。
「り、凉っ……! 急に現れるんじゃねぇよ!」
「いーや、普段のお前だったらもっと早く俺に気づいていたね。何があったんだよ」
じっとりとした視線が俺の頭からつま先まで這いまわる。こうなると凉は面倒くさい。
「女か。彼女出来たんだろ」
「出来てない」
「じゃあ、宝くじで十万くらい当たった」
「当たってない」
「じゃあ何だよ! いつもと何となく雰囲気違うってことは分かってんだよ」
凉に詰め寄られ、俺は返答に窮してしまう。天野とのやり取りを洗いざらい教えたくはない。天野といるあの技術室の時間は二人だけの秘密にしておきたい。でもこのままだと凉は家にまでついてきそうな勢いだ。
うーん、と頭を一生懸命働かせるが、いい答えが思い浮かばない。
「ね、ねこ」
「猫?」
「そう。うちの近くになかなか懐かない野良猫がいたんだけどさ、最近ようやく撫でさせてくれるようになって」
「……それは確かに嬉しいな」
「うん。嬉しい」
こんな苦し紛れの嘘をつくなら、宝くじに当たったことにしておけばよかった。そう後悔したものの、凉は納得してくれたようなのでとりあえずホッと胸をなでおろす。
凉から家で買っている猫がなかなか懐いてくれない話を聞かされていると、体育館の中からホイッスルの大きな音が聞こえてきた。先輩たちの練習試合が終わったらしい。次は俺達が試合をする予定になっているので、凉の背中を押し体育館へと戻った。
試合中はバッシュが床を鳴らす音が絶えず聞こえてくる。小さい頃からずっと耳にしている音ではあるけれど、飽きたり嫌になったりすることはなかった。キュッ、キュッと音が鳴る中でボールと仲間に意識を集中している時、自分が大きなシステムの一部に組み込まれたようで、いい働きをしなければと自然と意欲が湧いてくる。
天野がプラモを作っている時、似たような感覚になってんのかな、なんて頭の片隅で思いながら凉と共に練習試合をこなしていると、ふいに体育館上部のキャットウォークに目が止まった。
うちの学校のキャットウォークは割と通路が広く、部活を見学している奴や大きな窓の木額縁に腰かけて読書している奴もいたりする。そこでこの場所では絶対に見かけることはないと思っていた奴がいた。天野だ。
天野が柵に手を置いて俺達の試合を見ている。俺が天野のほうを見ていることに気づくと、何でもないような調子で「よっ」と軽く手をあげてくる。ど、どうしてここにいるんだよ……!
動揺した俺は凉からのパスを上手く受けることが出来ず、相手チームにボールを奪われてしまった。何やってるんだよ、という凉の非難めいた視線が向けられるが、ごめんと謝ることしか出来ない。
天野がこちらを見ている。そう思うと途端に緊張して身体がこわばってしまう。格好悪いところを見せたくない。だからといって格好いいところを見せようと変に気合を入れてすっころんだらどうしよう。
人に見られるって、こんなにソワソワするものなのか。技術室では俺が天野の手元をずっと見つめていたが、天野はどう感じていたのだろう。
再びボールが俺へと回ってくる。普段ならばここからどうやってボールをゴールへと運べばいいのか、自然と頭で計算して身体が動くのに、今は一から考えないと動けそうにない。まずは一歩、バッシュが床を鳴らす。それからもう一歩。天野の視線を感じる。堪らなくなって思わずロングシュート。ボールはバックボードにぶつかり、ゴールには入らず虚しく落下した。
「昨日、なんで体育館にいたんだよ」
次の日、放課後の技術室で尋ねると、天野はプラモのパーツにやすりをかけながら「何となく見たくなったから」と答えた。
「俺ばっかり見られるのは不公平だろ」
「そうかもしんねぇけど、吃驚した。天野が体育館にいるの、意外すぎる」
「俺だって体育の授業の時には体育館にいるが?」
「それはそうだけど……で、見ててどうだった?」
そうだな、と天野は呟き、俺へと視線を向けた。何故か心臓が高鳴った。
「本当にバスケが好きなんだなって思ったよ。ボールを追いかける時、仲間に視線で合図をする時、シュートをする時、全部楽しんでいるのが伝わってきた。そりゃ、先輩の悪行のせいで交流戦がなくなれば不貞腐れるよな」
感想を聞いたのは自分ではあるものの、目の前でこうしてきちんと伝えられると何だかこそばゆい。照れているのを悟られないように「お前だってそうだろ」と咄嗟に返す。
「こうして隣で天野を見てると、プラモ作りってかモノ作り? が好きなんだなーってのが分かる」
「まぁ、実際好きだしな」
俺と反して天野は淡々と言い、手慣れた手つきでパーツに接着剤を付け始めた。大人な反応に負けた感じがしてちょっとだけ悔しい。
天野が今作っているプラモは、この前作っていたのとは違う種類のものだった。もしかすると、それって……。
「なぁ、今作ってるのって、俺のやつ?」
「そう」
天野はプラモが入っていた箱を俺の前に持ってきた。アメリカの古い洋画とかでよく見るようなクラシックカーが描かれている。
「何作ろうかって迷ってたんだけど、この前プラモショップ行ったらこれを見つけてさ。久地はロボ系はあまり知らないだろうし、これだったら部屋のインテリアにもいいんじゃないかと思って」
そんなことを考えながら選んでくれたものだと思うと、じんわりと嬉しさがこみ上げてくる。今から天野の手で、それが少しずつ丁寧に形作られていく。完成する日が待ち遠しくもあり、ずっと先でもいいかも、なんて思う自分もいる。
「楽しみにしてる」
ぽつりと言うと、天野はこれまでに見せたことのないような柔らかい笑顔を浮かべた。
次の日からは授業中も、部活中も、休みの日だって天野のことを考えていた。教室では天野は相変わらず寡黙で人を寄せ付けないオーラを出している。でも放課後の技術室では、俺と何気ない会話をして冗談を言ったり笑ったりする。そして思わず惹きこまれてしまうような冴え冴えとした眼差しと繊細な手つきでプラモデルを作り上げる。他のクラスメイトはそんな天野のことなんて知る由もないだろう。
天野の手によって作られたクラシックカーが俺の部屋に置かれているのを想像する。嬉しい気持ちと同時に、独占欲が満たされるのも感じる。よくない気持ちであるとは思うものの、それはいつの間にか俺の心の奥底からにじみ出し、広がってきていた。
火曜日の放課後、いつものように技術室へ向かう。先週からどの程度作業が進んだのかな、なんて考えながら技術室へ続く廊下を歩き、引戸を開けようとした時、ガラス窓の向こうに見える光景を見て俺の身体は固まった。
天野と、もう一人の男子生徒がいた。
そいつは天野と向き合うように座っていて、まさにロボットというようなプラモデルをいじりながら楽しそうに喋っている。優等生然とした制服の着こなしをして、大人びた雰囲気をしたそいつを、俺は見たことがあった。隣のクラスの桂木(かつらぎ)だ。
ふいに天野の言葉を思い出す。『プラモ同好会。俺のほかにあともう一人しかいないけどな』そうだ、同好会を立ち上げるために天野が誘った相手――数少ない天野の友人が、おそらく桂木だ。
放課後の天野を知っている人間が俺だけじゃないということを、今更になって思い知る。しかも、桂木のほうが俺よりよっぽど天野のことを知っているだろう。なにせ一年の時から天野と共に同好会活動をしているのだ。それなのに俺は、天野の本当の姿を知っているのは自分だけなんだと思い込んでいた。
俺は何を自惚れていたんだろう。
引手にかけていた手の力が抜け、引戸の前で呆然とすることしか出来なかった。こんなことでショックを受けるのはおかしい。頭ではそう思っているのに、気持ちはズブズブと沈んでいく。今、あいつらとまともに会話が出来る気がしない。とにかく今日はこのまま帰ったほうがいい。何とかそう決断をして踵を返そうとした瞬間、桂木と目が合ってしまう。
「あ、久地!」
桂木の顔がパッと明るくなり、こちらへ駆け寄って引戸を開けた。
「何突っ立ってるんだ、中入れよ。海から聞いたよ、俺以外に友達が出来たって。久しぶりに同好会に来た甲斐あったわ」
「出来れば週に一回くらいは来て欲しいけどな」
あっけらかんとした桂木と、そんな桂木にため息をつく天野。俺もいつものように技術室へ入って、椅子へ腰を下ろし、そんな二人と何でもないような話をすればいい。それなのに、俺の足は前へと動こうとしなかった。
「……あ、悪い。今日バスケ部のミーティングがあるの思い出した。部室行くわ」
咄嗟に嘘をつくと、桂木は残念そうな表情を浮かべた。
「まじか。久地と話してみたかったんだけどなぁ。また今度話そうぜ」
「ああ」
じゃあ、と言って今度こそ踵を返す。一瞬、天野と目が合うと、天野は「またな」と手を上げて小さく微笑えんだ。俺も軽く手を上げたが、ちゃんと笑顔を作ることが出来たか全く自信がない。
誰もいない廊下を歩き、階段を下りる。踊り場で力が抜けてしまい、しゃがみ込んだ。何だこれ。何だこの気持ち。
技術室で天野の隣にいるのが俺じゃないことが、こんなにも嫌だなんて。
両手で顔を覆えば、視界は黒一色になった。遥か遠くのほうから野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。急に小学生の頃の一人ぼっちだった俺に戻ってしまった気分だ。
「好きだ……」
自然と口から言葉が漏れた。多分、そういうことだ。俺は天野のことが好きなんだ。
自覚すると途端に淋しさが溢れてきて、泣きそうになってくる。こんなところで泣きたくない。それに泣く意味だってないだろ。自分に言い聞かせ、両手で頬を叩いて立ち上がる。そしてそのまま階段を下りきって昇降口で靴を履き替え、校門を出た。
いつもと同じ帰り道、いつもと同じ風景。でも俺はいつもとは違う。俺は人を、天野を好きになってしまった。誰かを好きになるって、幸せなことばかりじゃないのかも。どこか他人事のようにそんなことを思いながら、一人とぼとぼと道を歩き、大通りを渡り、駅へと向かった。
***
あの日以降、俺は技術室へ行かなくなってしまった。桂木がいると動揺してしまいそうだったし、天野とどう接すればいいのか分からなくなってしまったからだ。
中学時代に女子から告白され、付き合ったことはある。でも結局向こうの気持ちについていけなくなって、長続きはせず振られて終わった。俺から人が離れていくことには不安を感じたけれど、引き止める理由なんてなかった。特別「好き」だと思う人は今までいなかった。だから、今更になって好きな人との接し方が分からないでいる。
そんな俺に天野は一度、「最近、技術室に来ないけどどうした?」と教室で話しかけてくれた。心配そうな眼差しに、気持ちを全て吐き出してしまえば、と思ったがグッと言葉を飲み込んだ。俺の独りよがりな言葉で困惑する天野を見たくない。軽蔑もされたくない。だから「ちょっと部活で忙しくて」と下手な嘘をついた。こんなことをしても何もいいことはないと分かっているのに。
ちゃんと気持ちを整理して、天野とまた話したい。でもどうしていいのか分からない。ぐるぐる悩んでいると思うように身体も動かせず、部活中もミスが多くなってしまう。
「おーい、今度は犬のフンでも踏んだか? ダメダメじゃん」
「……そっとしておいてくれ」
本日連続五回目のシュートミスでとうとう凉が突っ込んできた。言い返す気力もない俺に凉は怪訝な顔をした。
「何だよ、本当にどうした? 話聞くぜ」
がしっと肩に手を回してきてそう言ってくれる凉は、いい友達だ。でも流石に今の悩みをそのままこの場で言えるわけがない。
「いや、何というか……俺って、本当に勇気も優しさも思いやりもない自分勝手な男だなって実感して」
「めっちゃくちゃマイナス思考になってるじゃん。そんなんじゃ不運が寄ってくるだけだぞ」
「もういいんだよ。俺なんか豆腐の角に頭をぶつけて死んだほうがいいんだ……」
「はぁ?」
「俺なんか……人を不快にさせるだけの人間なんだ」
めそめそと泣き言を言っていると、耐えられなくなったらしい凉が「ごちゃごちゃうるせーな!」とボールで一撃をくらわせてきた。身構える余裕もなかった俺は見事にその攻撃を受けてしまう。そっちのほうから話を聞いてきたくせにその仕打ちとは、ちょっと酷くないか?
「いってぇ……何もボール投げなくてもいいだろ!」
「お前がネガティブすぎるのがいけないんだろ! いいか、確かにポジティブ思考のみで前に進んだら痛い目をみる。だからと言ってマイナスなことだけ考えて何もせず悲観してばっかりいたら、得るものも得られねーだろうが! あと見ててこっちが苛々するんだよ!」
アホ! と最後に言い捨てて凉は練習に戻っていった。何もそこまで言わなくてもいいじゃん、とは思うが凉が言っていることも確かに一理ある。分かってはいるけれど、こういう時に限って何も出来なかった頃の幼い自分が足元にまとわりついて、なかなか離れてくれない。
ただ、それも言い訳に過ぎない。勇気が出なかったから天野との関係は切れました、で終わるのは絶対に嫌だ。そう思うのだから、明日こそ天野に話しかけよう。後のことはそれから考えればいい。
そう自分に言い聞かせ、練習に戻ろうとすると、体育館の出入り口のほうから誰かが叫んでいるような声が聞こえてきた。部活中に出すようなかけ声ではない。もっと乱暴で荒々しい声。
不審に思って出入り口へ向かってみる。半分ほど開かれているスチール製の大きな引戸を開けば、外には見たくもない奴がいた。交流戦が中止になった原因である冨田だ。冨田は声を荒げて誰かの胸倉を掴んでいる。冨田よりも幾分小柄なその人物は――天野だった。
「天野っ!」
俺は思わず叫んで二人に駆け寄った。力ずくで冨田の手を天野から引き離す。天野を庇うようにして冨田と対峙すると、奴は「邪魔すんじゃねぇよ!」と俺を睨みつけてきた。俺も負けじと睨み返す。
「……どうして冨田先輩がここにいるんすか」
「お前に関係ないだろ。久地、ちょっと見ない内に随分生意気になったじゃねぇか」
「そんなことないですよ。それより、先輩はもうバスケ部の部員じゃないんだから、ここにいる必要なくないすか」
「ああ!? 喧嘩売ってるのか?」
もともと素行の悪さは目立っていたが、退部という形でバスケ部を追い出されてから、冨田はより一層柄が悪くなったようだ。何をしてくるか分かったもんじゃない目つきをしている。とにかく天野に被害が及ばないようにしなければ、となるべく奴の視界に入らないように天野を俺の背後に隠す。すると、天野がさりげなく耳打ちしてきた。
「久地、どうにかして時間を稼いでろ」
は? と思ったものの、素直に聞き返す余裕などない。冨田から目を逸らしたらそのまま殴りかかってきそうな気がする。とにかく天野が言うようにするしかないのか。
「も、もう一度聞きますけど、どうしてここにいるんすか? 誰かに用があったり?」
「岡本だよ。あいつが俺の退部を決定したらしいじゃねぇか。ちょっとくらい文句を言ってもいいだろ」
岡本先輩はバスケ部の部長だ。絶対、「ちょっとくらい文句」で済むわけがない。
「岡本先輩だけで決めたわけじゃないっすよ。先生も含め三年の先輩たちが相談して決めたことです。それだけの問題を起こしたって自覚、ないんすか」
「ああ? 俺はバスケ部のことを思って生徒会の奴らにもっと予算を寄こすようお願いをしただけだろ? 何でその結果が退部なんだよ!」
「先輩のしたことはお願いじゃなくて恐喝なんですよ」
「……あーもう、お前じゃ話にならんわ。ちょっと黙っとけ」
今度は俺が胸倉をがっしりと掴まれてしまう。抵抗はするが図体のでかい冨田の力は強く、自分ではなかなか振りほどけない。冨田の腕が振り上げられ、これから思い切り殴られることを予感する。最悪だ。
冨田が言葉にならない雄叫びを上げる。俺は歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った。
その瞬間、「待ったぁ!」と冨田じゃない奴の声がして、胸倉を掴んでいた手が離れる。咄嗟に目を開くと、凉を筆頭にバスケ部員数人が冨田に掴みかかっていた。さすがに数人がかりで押さえつけられたら、冨田も暴れることは出来ないようだ。
「お前……急にいなくなったと思ったら殴られそうになってて……吃驚しただろうが!」
「ご、ごめん」
姿を消した俺を凉達がタイミングよく見つけてくれたようだ。お陰で殴られずに済んだ。安心すると急激に身体の力が抜けてきて、思わずしゃがみ込み大きく息を吐き出した。次いで、校舎のほうから「こっちです!」という声が聞こえてくる。視線を向ければ、天野が必死になって先生をこちらへ連れてきている。そうだ、気づけば天野がこの場からいなくなっていた。俺に耳打ちをした後、こっそりと先生を呼びに行っていたのか。
冨田は尚も不満をまき散らしていたが、険しい顔をした生徒指導の先生に引っ張られ、校舎の中へ消えて行った。この前問題を起こして、更にまた問題を起こしたとなれば、停学は確定だろう。出来ればもう二度と顔を見せないで欲しい。
俺と天野は凉達に怪我を心配されたが、大丈夫だと言って練習に戻ってもらった。久しぶりに天野と二人きりになる。どう話せばいいのか分からずに緊張してしまう。声の高さとか大きさとか、どんな感じで会話をしていたんだっけ。何だか掌に汗までかいてきた気がする。
でもここで絶対に声をかけなきゃ駄目だ。己を奮い立たせ口を開く。
「天野……その、ありがとな。お前が先生呼んでくれたからすぐに対処出来た」
「いや、いいんだ。元はと言えば俺があいつの神経逆撫でしたのが悪いから」
「そういや、お前もどうしてこんな所にいるんだよ?」
問いかければ、天野は俺を真っ直ぐに見つめながら「久地に会いに来た」と言った。
「え、俺?」
「だってお前、急に技術室には来なくなるし、教室では俺を避けるし、全然話せないから。それなら部活中に突撃して呼び出してやろうと思って」
「ま、まじか……」
「それでここに来たら、柄の悪い先輩が体育館の中覗いてるからさ。久地が前に言ってたバスケ部で問題起こした先輩じゃないかと思ってちょっと声かけてみたら、逆上させた。辛気臭い面した奴が話しかけてくるんじゃねぇって」
「あいつ、もう退学になってもいいかもな……」
「それはもういい。問題はお前だよ」
天野が俺の腕を強く掴んだ。
「どうして俺を避けるんだよ」
直球で問われると、何も言うことが出来ない。だってそれを言ってしまったら、今後二度と天野と話すことは出来なくなるかもしれない。でも、ここで口を噤んだままでいても天野はきっと怒るだろう。
体育館からバッシュが床を鳴らす音がする。今、誰かがシュートを決めた。そんな音よりも俺の心臓のほうがバクバクと脈打っていた。どうせ今の関係が壊れてしまうなら、悔いが残らないほうがいい。こんなにも大きな決断をしたのは、人生で初めてだった。
「お、俺さ……」
「うん」
「俺、天野のこと、好きみたいなんだ」
言うと、天野は目を丸くした。そりゃあ男から告白されたら驚くのも当たり前だ。
「天野と二人で話す時間が本当に楽しくて、ずっとこうしていたいと思っていた時に天野と仲良さそうに話している桂木を見て、どうしていいか分からなくなってた。不安にさせちゃってごめんな」
「……そう、か」
動揺しながらも天野は俺の放つ言葉を一つ漏らさず受け取ってくれた。でも、俺達はこれでもう終わりだろう。気持ちを伝えられたのならこれでいい。「ほんと、ごめん」ともう一度謝って体育館に戻ろうとすると、ぐいっと腕を引っ張られる。
「えっ、天野?」
「ちょっと来い」
「は?……な、何だよ!」
天野は戸惑っている俺を問答無用で校舎の中へと連れ込んだ。そのままずんずんと廊下を西棟のほうへと進んでいく。一年の教室を通って階段を上り、社会科準備室がある方向へ。あれ、このまま行くと辿り着くのって……。
予想通り俺達は技術室へと到着した。引戸を開け、天野がそのまま中へと入っていく。放課後の静まり返った技術室。いつも俺達が座るテーブル。その上にぽつんと箱が置かれている。
「あ、天野?」
「これ、完成したから」
天野がその箱を俺に差し出した。箱の表面にはクラシックカーの絵。俺が天野に作ってくれと頼んだプラモだ。箱自体にそこまで重量はない。でもその中に、確かに俺が望んだものがあるのを感じる。開けていいかと伺えば、天野は黙ったまま頷いた。
サンタクロースからのプレゼントを前にした子どものように胸が躍る。ゆっくりと箱を開けると、今まで見た中で一番綺麗な車がそこにあった。窓から差し込む夕日を受けて、ボディが艶めく。全体的なカラーは黒で、細かな箇所にゴールドのラインが差し色として入っている。見たことのある色合いだった。
「なぁ、この色って、もしかして……」
「お前、部活の時そういうシューズ使ってるだろ」
俺が使っているバッシュのカラーを元に塗装をしてくれたようだ。本当に俺のために作ってくれたプラモ。それが今、手の中にある。心の底から嬉しいのに、これが出来上がるまでの過程をほとんど見ることが出来なかった。天野を遠ざけて、俺が見ようとしなかった。その事実に胸が締め付けられる。
「天野……ありがとう。すっごく嬉しい」
お礼を言えば、天野はほっとしたように「よかった」と微笑む。
「お前がここに来なくなってから作り続けようか迷ったんだけど、これだけは完成させたいと思って」
「そう、だよな。ごめん、迷惑かけて」
「……あのさ」
天野が俺に近づき、真正面から向き合う。眼鏡の奥の瞳が俺を写す。
「俺、こんなにも誰かのことを思って何か作ったの、初めてなんだよ。これ作っていた時、ずっと久地のこと考えてた。お前がこれを眺めている姿とか、どうやって触れるんだろうとか、そんなことずっと想像してた」
「えっ……」
「それで気づいたけどさ……俺も、お前のこと、好きだよ」
顔を赤くさせて天野が言った。今、俺は白昼夢でも見ているのだろうか? こんなにも舞い上がるような、思わずクラクラとしてしまうような嬉しい出来事って、あってもいいのだろうか? 頭が沸騰してしまいそうになるけれど、手の中にあるクラシックカーの重みが、現実であることを教えてくれる。
「あ、天野、これって夢じゃねぇんだよな?」
「夢じゃない」
「その……抱きしめていい?」
「いいよ」
挙動不審になっている俺に天野が小さく笑う。クラシックカーをテーブルに置き、震えそうになる手で天野を抱きしめた。天野の体温を肌で感じる。息遣いも、心臓の音も聞こえてきそうで、思わず目頭が熱くなる。天野も俺の背中に手を回し、抱きしめ返してくれた。
今度、俺も天野に贈り物をしよう。でも何がいいだろう。天野みたいに器用じゃないから、プラモなんて絶対に見るに堪えない出来になる。料理だってあまりしたことがない。それなら、プラモ用の道具とか?
何にしたって、それを探している間はずっと天野のことを考えよう。どんな表情を浮かべるのか、どんなことを言うのか、どんな眼差しを送ってくれるのか。
贈り物をした後は二人で他愛ない話をして笑い合ったり、天野が作業をしている姿を眺めたり出来たらいい。それで、最後にはこうやってまた抱きしめたい。