翌朝、起きてすぐにポピーの状態を見る。
昨日と同じように寝ている。だけど、餌は少し食べていたみたいで、ほっとする。このままいつも通りになればいいけど……。
高校へ行く準備をしよう。制服に着替えて、半額になっていたときに買い溜めて冷凍しておいた食パンを焼く。まだ布団に横になっている母さんに声をかけ、ポピーのことをお願いしておいた。母さん、今日は仕事休みらしい。ポピーのそばに誰かいてほしかったから、今日だけはその休みがありがたく感じた。
「ポピーになにかあったら連絡して。スマホちゃんと電源入れておくから」
「わかった、海斗も気をつけてね」
いつもはギガを使いたくないから不意にサイトを開いたり、アプリのメッセージが自動的に受信されないように電源を切っているんだけど、仕方ないよな。焼いたパンを水道水で流し込むように食べて、僕は家を出た。
自転車を漕ぐと今はもう見慣れた校門が見えてくる。
池垣南高等学校。僕の通っている公立高校だ。別にここを選んだ理由なんてのは、特にない。
僕の学力で入れて、アパートから自転車で通えて、母子家庭のうちが学費の支援制度を受けられる場所ならどこでもよかった。勉強以外の娯楽がなかったためか、ありがたいことに勉強は嫌いじゃない。そのおかげで、幸いにもすんなりと合格できた。
自転車を停めて、1年1組の教室に入る。クラスメイトの集まりはまだ半分程度だ。
「白國くん、おはよー」
「おはよう」
「おはよう、海斗くん」
「おはよう」
池垣南高校は、この辺では偏差値が高めの高校だ。だからなのか、ガラの悪い生徒はそう多くない。
そういう面では、中学時代よりもよっぽど過ごしやすかった。
こちらから踏み込まない限り、一定の距離を保ちつつ親しくしてくれる賢いクラスメイトたちの存在も心地よかった。
……ただ、ひとりを除いて。
「海斗、おはよ~~!!」
「朝からうるさい」
「あん、冷たい子」
蓮がふざけた口調で話すと、周りの生徒たちがどっと笑う。
――天野蓮。やたらと僕に懐いてくる、底抜けに明るいやつ。
髪はほんのりと茶色っぽくて、それもあいまって柴犬みたいな男だとよく思う。
こっちはなんとも思ってないのに、尻尾をふって近寄ってくる。
あまりにも無邪気なので、拒否できない。そういう才能を、天野蓮は確かに持っていた。
蓮は僕の前の席に断りもなく座る。
「ところでさ、北条先輩が海斗のバイト先に来てただろ?」
「ええ、なんで知ってるの? って、そっか。先輩のSNSか」
蓮は北条先輩のファンのひとりで、動画をしょっちゅう見てるらしい。
僕が北条先輩をインフルエンサーだと知ってたのも、蓮がこうやって北条先輩の話をべらべらと喋るからだった。
「そうそう。先輩がインスタあげたと思ったら白雪のりんご飴なんだからびっくりしたって! 近くのファンみんな買いにいったんじゃないかな」
「あー、それは有り得る。あれだけ忙しかったの初めてだし」
「さすが北条先輩だよなぁ。そういえば、海斗も話題になってたぞ?」
「はぁ? なんで僕が……」
蓮は自分のスマホの画面を僕に向ける。
そこには北条先輩が撮ったであろうエナドリ味のりんご飴の写真と一緒に、こんな文章が投稿されていた。
【Jun_****】
エナドリ味のりんご飴だって。すごくない?
高校の後輩(ビジュいい)がバイトしてて、サービスしてくれた ^^
#白雪 #りんご飴
一日前の投稿に、ハートマークはすでに4500もついていて、コメントも100件以上来ている。
少しだけスワイプしてコメントを見てみる。
[白雪行ってきたよー! たしかに後輩くんビジュ良かった!]
[Junと違う感じで、可愛い系だったね。家の近くだからまた見に行くつもり♡]
[今度後輩くんともクロックロック撮ってよ~!]
「なに……これ……」
自分の知らない間に自分の知らない場所で、自分の話がされている。
そのことに、なんだか背筋がゾワリとした。
「なにって海斗めちゃくちゃ褒められてるじゃん! 北条先輩にも褒めてもらってるしコメントも好意的なのばっかりだしさ〜、羨ましすぎる!」
蓮は僕に大げさな仕草をして伝えてくれるが、それがいいことのようには思えなかった。
「どうなんだろ。特に嬉しく思えないんだけど。あ、うちの店長は喜んでた」
「はぁ、海斗ってほんと変わってるよな。まぁ、そういうところ面白いと思うけど。つーか北条先輩がインスタで高校のこと書くの自体珍しいんだよな。レア体験をもっと喜べよ!」
そうなんだ。あの人、昨日動画撮影の誘いまでしてきたんだけど……。
蓮に言おうか迷ったけど、話を複雑にしそうなのでやめておいた。
「……別に僕、先輩のことよく知らないもん。ていうか、ビジュいいってどういう意味?」
「おまっ……ほんといつの時代からタイムリープしてきたの!?」
蓮のツッコミを聞いてクラスメイトたちもまた笑う。
僕はまだ状況がわからないままだったけど、北条先輩には気をつけようと思ったのだった。
その後はいつも通りに授業が進んだ。昨日、寝不足だったので眠ってしまいそうな場面もあったけど、この授業だって本来お金がかかっているものだと思うと、寝て損をするわけにはいかない。僕は自分の頬をつねって、何度も自分の眠気に抗っていた。
そして昼休みになってすぐ、母さんからメッセージが届いた。
[ポピー、また吐いてた。ご飯も全然減ってない]
メッセージと一緒に届いた写真には黄色い吐物が写っている。
――これは、もう動物病院に連れていかないといけない気がする。だけど……。
クラスメイトが次々と購買に向かったり、お弁当を出している中で僕は自分の財布の中身を計算する。
今は2183円ある。今月は猛暑のせいで電気代が高くって、銀行口座にもほとんど残っていない。
バイトの給料は15日だ。まだ一週間もあるのに……。
[母さん、動物病院に行くお金あったりする?]
ほぼ期待できない質問を送る。一分もしないうちに[ごめんね、ないの]という返事が届いた。
きゅっと下唇を噛みしめる。ポピーの本当の年齢はわからないけど、一番最初に連れて行った時にはすでに高齢の猫だろうとも言われていた。いつか、ポピーが体調を崩すなんてことわかっていたはずなのに。
僕は購買に向かおうとする蓮を呼び止める。
「蓮、ちょっと待って!」
「どした~? 海斗も購買か?」
「違う。今まで行ったこともないでしょ。北条先輩のクラスってどこか教えてくれる?」
「あ、ああ。2年3組だったはず」
「ありがと!」
僕は急いで教室から出て、2年3組に向かう。気まずくないと言ったら嘘になる。でも今は、少しでも可能性のあることをしなきゃいけない。
気持ちだけが急いて廊下を歩いてるつもりがどんどん小走りになる。
階段を使うために廊下を曲がろうとしたとき、いつもはそこにないはずの壁に体が当たった。
「――いたっ」
弾き飛ばされるような感覚で、後ろに倒れそうになる。
それなのに痛みはない。壁だと思っていたそれに、腕をまわされ支えられていたからだった。
「見つけた、白雪くん」
「……っ。北条先輩! すみません、ぶつかって」
まさか探していた相手とぶつかってしまうなんて。
白雪はバイト先の名前で、僕の名前じゃない。名札を見たのかどうか知らないけど、僕は白國だ。
つい憎まれ口をたたきそうになるが、ぐっと飲みこむ。
先輩は昨日と同じ様に、僕の顔をじっと見ている。
「いいよ、それよりお前のこと探してたんだ」
「奇遇ですね、僕もです」
「……マジ?」
「はい――昨日のバイトの話、まだ有効ですか?」
北条先輩は目を細めて、口角を上げた。
「もちろん。俺もその話をしたかったんだよ」
北条先輩は僕の背中に回してた手を、肩に置く。
「ここだとまわりがうるさいな。中庭行こう」
ぶつかった僕は言うのもなんだけど、この人、距離が近いな。
それに、いつの間にかまわりの生徒からすっごく見られているんだけど……北条先輩のファンだろうか。
僕は無言で頷き、北条先輩と一緒に中庭に向かった。
昨日と同じように寝ている。だけど、餌は少し食べていたみたいで、ほっとする。このままいつも通りになればいいけど……。
高校へ行く準備をしよう。制服に着替えて、半額になっていたときに買い溜めて冷凍しておいた食パンを焼く。まだ布団に横になっている母さんに声をかけ、ポピーのことをお願いしておいた。母さん、今日は仕事休みらしい。ポピーのそばに誰かいてほしかったから、今日だけはその休みがありがたく感じた。
「ポピーになにかあったら連絡して。スマホちゃんと電源入れておくから」
「わかった、海斗も気をつけてね」
いつもはギガを使いたくないから不意にサイトを開いたり、アプリのメッセージが自動的に受信されないように電源を切っているんだけど、仕方ないよな。焼いたパンを水道水で流し込むように食べて、僕は家を出た。
自転車を漕ぐと今はもう見慣れた校門が見えてくる。
池垣南高等学校。僕の通っている公立高校だ。別にここを選んだ理由なんてのは、特にない。
僕の学力で入れて、アパートから自転車で通えて、母子家庭のうちが学費の支援制度を受けられる場所ならどこでもよかった。勉強以外の娯楽がなかったためか、ありがたいことに勉強は嫌いじゃない。そのおかげで、幸いにもすんなりと合格できた。
自転車を停めて、1年1組の教室に入る。クラスメイトの集まりはまだ半分程度だ。
「白國くん、おはよー」
「おはよう」
「おはよう、海斗くん」
「おはよう」
池垣南高校は、この辺では偏差値が高めの高校だ。だからなのか、ガラの悪い生徒はそう多くない。
そういう面では、中学時代よりもよっぽど過ごしやすかった。
こちらから踏み込まない限り、一定の距離を保ちつつ親しくしてくれる賢いクラスメイトたちの存在も心地よかった。
……ただ、ひとりを除いて。
「海斗、おはよ~~!!」
「朝からうるさい」
「あん、冷たい子」
蓮がふざけた口調で話すと、周りの生徒たちがどっと笑う。
――天野蓮。やたらと僕に懐いてくる、底抜けに明るいやつ。
髪はほんのりと茶色っぽくて、それもあいまって柴犬みたいな男だとよく思う。
こっちはなんとも思ってないのに、尻尾をふって近寄ってくる。
あまりにも無邪気なので、拒否できない。そういう才能を、天野蓮は確かに持っていた。
蓮は僕の前の席に断りもなく座る。
「ところでさ、北条先輩が海斗のバイト先に来てただろ?」
「ええ、なんで知ってるの? って、そっか。先輩のSNSか」
蓮は北条先輩のファンのひとりで、動画をしょっちゅう見てるらしい。
僕が北条先輩をインフルエンサーだと知ってたのも、蓮がこうやって北条先輩の話をべらべらと喋るからだった。
「そうそう。先輩がインスタあげたと思ったら白雪のりんご飴なんだからびっくりしたって! 近くのファンみんな買いにいったんじゃないかな」
「あー、それは有り得る。あれだけ忙しかったの初めてだし」
「さすが北条先輩だよなぁ。そういえば、海斗も話題になってたぞ?」
「はぁ? なんで僕が……」
蓮は自分のスマホの画面を僕に向ける。
そこには北条先輩が撮ったであろうエナドリ味のりんご飴の写真と一緒に、こんな文章が投稿されていた。
【Jun_****】
エナドリ味のりんご飴だって。すごくない?
高校の後輩(ビジュいい)がバイトしてて、サービスしてくれた ^^
#白雪 #りんご飴
一日前の投稿に、ハートマークはすでに4500もついていて、コメントも100件以上来ている。
少しだけスワイプしてコメントを見てみる。
[白雪行ってきたよー! たしかに後輩くんビジュ良かった!]
[Junと違う感じで、可愛い系だったね。家の近くだからまた見に行くつもり♡]
[今度後輩くんともクロックロック撮ってよ~!]
「なに……これ……」
自分の知らない間に自分の知らない場所で、自分の話がされている。
そのことに、なんだか背筋がゾワリとした。
「なにって海斗めちゃくちゃ褒められてるじゃん! 北条先輩にも褒めてもらってるしコメントも好意的なのばっかりだしさ〜、羨ましすぎる!」
蓮は僕に大げさな仕草をして伝えてくれるが、それがいいことのようには思えなかった。
「どうなんだろ。特に嬉しく思えないんだけど。あ、うちの店長は喜んでた」
「はぁ、海斗ってほんと変わってるよな。まぁ、そういうところ面白いと思うけど。つーか北条先輩がインスタで高校のこと書くの自体珍しいんだよな。レア体験をもっと喜べよ!」
そうなんだ。あの人、昨日動画撮影の誘いまでしてきたんだけど……。
蓮に言おうか迷ったけど、話を複雑にしそうなのでやめておいた。
「……別に僕、先輩のことよく知らないもん。ていうか、ビジュいいってどういう意味?」
「おまっ……ほんといつの時代からタイムリープしてきたの!?」
蓮のツッコミを聞いてクラスメイトたちもまた笑う。
僕はまだ状況がわからないままだったけど、北条先輩には気をつけようと思ったのだった。
その後はいつも通りに授業が進んだ。昨日、寝不足だったので眠ってしまいそうな場面もあったけど、この授業だって本来お金がかかっているものだと思うと、寝て損をするわけにはいかない。僕は自分の頬をつねって、何度も自分の眠気に抗っていた。
そして昼休みになってすぐ、母さんからメッセージが届いた。
[ポピー、また吐いてた。ご飯も全然減ってない]
メッセージと一緒に届いた写真には黄色い吐物が写っている。
――これは、もう動物病院に連れていかないといけない気がする。だけど……。
クラスメイトが次々と購買に向かったり、お弁当を出している中で僕は自分の財布の中身を計算する。
今は2183円ある。今月は猛暑のせいで電気代が高くって、銀行口座にもほとんど残っていない。
バイトの給料は15日だ。まだ一週間もあるのに……。
[母さん、動物病院に行くお金あったりする?]
ほぼ期待できない質問を送る。一分もしないうちに[ごめんね、ないの]という返事が届いた。
きゅっと下唇を噛みしめる。ポピーの本当の年齢はわからないけど、一番最初に連れて行った時にはすでに高齢の猫だろうとも言われていた。いつか、ポピーが体調を崩すなんてことわかっていたはずなのに。
僕は購買に向かおうとする蓮を呼び止める。
「蓮、ちょっと待って!」
「どした~? 海斗も購買か?」
「違う。今まで行ったこともないでしょ。北条先輩のクラスってどこか教えてくれる?」
「あ、ああ。2年3組だったはず」
「ありがと!」
僕は急いで教室から出て、2年3組に向かう。気まずくないと言ったら嘘になる。でも今は、少しでも可能性のあることをしなきゃいけない。
気持ちだけが急いて廊下を歩いてるつもりがどんどん小走りになる。
階段を使うために廊下を曲がろうとしたとき、いつもはそこにないはずの壁に体が当たった。
「――いたっ」
弾き飛ばされるような感覚で、後ろに倒れそうになる。
それなのに痛みはない。壁だと思っていたそれに、腕をまわされ支えられていたからだった。
「見つけた、白雪くん」
「……っ。北条先輩! すみません、ぶつかって」
まさか探していた相手とぶつかってしまうなんて。
白雪はバイト先の名前で、僕の名前じゃない。名札を見たのかどうか知らないけど、僕は白國だ。
つい憎まれ口をたたきそうになるが、ぐっと飲みこむ。
先輩は昨日と同じ様に、僕の顔をじっと見ている。
「いいよ、それよりお前のこと探してたんだ」
「奇遇ですね、僕もです」
「……マジ?」
「はい――昨日のバイトの話、まだ有効ですか?」
北条先輩は目を細めて、口角を上げた。
「もちろん。俺もその話をしたかったんだよ」
北条先輩は僕の背中に回してた手を、肩に置く。
「ここだとまわりがうるさいな。中庭行こう」
ぶつかった僕は言うのもなんだけど、この人、距離が近いな。
それに、いつの間にかまわりの生徒からすっごく見られているんだけど……北条先輩のファンだろうか。
僕は無言で頷き、北条先輩と一緒に中庭に向かった。