クリスマスが過ぎ、年も明けて、冬休みも終わった。
初めて出来た恋人と冬休みを楽しく過ごす……なんてことはなくて、それどころか高校が始まるまで先輩の顔を見ることもできなかった。
理由は、ポピーの状態が日に日に悪くなったからだった。
嘔吐が増え、おやつもあまり食べなくなり、一日のほとんどを眠るようになってしまったのだ。
見る見るにうちに毛のツヤはなくなり、痩せていくポピーを見るのはとても辛かった。
冬休みはバイト以外の時間は、極力ポピーのそばにいることを選んだ。
先輩はそれをちゃんとわかってくれて、僕とポピーの時間を尊重してくれた。
今日、僕は家で先輩を待っている。土曜日だけど、店長に理由を説明してバイトは休ませてもらった。
母さんは少し遅めの新年会だとかで家を空けることになっている。母さんには悪いけど。先輩を家を呼ぶのにはちょうどよかった。さすがに、母さんにはまだ先輩との関係を話せていないし。
静かに寝ているポピーを撫でていると、スマホに通知が届いた。
[着いたぞ]
僕はその通知を見て、アパートの下まで降りていく。朝に降り始めた雪がもう積もり始めていた。
こんな古いアパートに住んでいるなんてバレたくなかったけど、好きな人に全部を隠すなんて不可能だもんね。
「北条先輩っ」
「白雪……じゃなかったな。海斗」
先輩は目を細めて笑う。会えない時間が長くても、メッセージのやりとりはできる。
付き合ったからには下の名前で呼ぶって自分で言ってたくせに。
「僕も北条先輩って言っちゃった。純也先輩ってなんか呼びにくいんだよなぁ」
「純也でいいのに」
「それ、もっと呼びにくいです。なんだか先輩ってつけないと落ち着かなくて。じゃあ、行きましょう」
「それにしても、海斗の家に行けるなんて夢みたいだ」
先輩は鼻歌を歌いながら階段を登る。ぼろいアパートに芸能人みたいな人がいるから、とても浮いている。
503号室の軋む鉄扉を開けて「どうぞ」と先輩を促す。
台所と、小さい部屋がふたつだけある町営のアパート。
玄関から全ての部屋が見渡せる防犯性能には、先輩も驚くことだろう。
「おじゃまします」
「はい、そこ座ってください」
僕は先輩を台所にあるダイニングテーブルに案内する。
「あ、これ茶菓子持ってきた」
「そんなの気にしなくていいのに!」
「いや、家の人もいるかと思って」
「いない時間選んだので」
「そうなのか?」
ちょっとほっとしてる先輩。僕はその前の椅子に座り、先輩と向き合った。
「ぼろくてびっくりしたでしょ? 気付いていると思いますが、僕ド貧乏なんです」
「まぁ、その、アンティークというか、レトロで昭和風な感じで、悪くない」
「無理なフォローはしなくていいです」
「悪い」
「揶揄ったりしない人だって知ってますから、大丈夫ですよ」
先輩は優しい瞳で僕を見つめる。なんだかこの家に先輩がいるなんて不思議な気分だ。
「先輩の動画のアルバイトをするって言ったときも、実は切羽詰まってたんです。生活すらままならないのにポピーの治療費が必要になって。言い方はあれですけど、本当にお金目的でした」
「そんな理由があるなら、言ってくれたら……」
「僕、自分が貧乏なのを人に話したくないんです。人によっては嫌味を言われたりするし、惨めな気分になるので」
僕は席を立って、ヤカンでお湯を沸かし始める。やっぱり、顔をみてこんな話をするのは恥ずかしい。
先輩は黙って僕の話を聞いてくれている。
「父さんは僕が小さいうちに離婚していて、どこにいるかもわかりません。母さんは母さんで、ちょっと特殊で。なんというか、体も心も弱い人なんです。それが悪いことではないんですけど……」
ヤカンから白い湯気が立ち昇り始める。できるだけきれいなマグカップをふたつ選んで、シンクに置いた。
「今までも色々辛いことはあったんですけど、いつも僕を支えてくれたのはポピーだったんです」
「あのさ、ポピーに今からでもなにか治療はできないのか? 金なら俺が……」
僕は背を向けたまま頭を横に振った。
「母さんが気まぐれに拾ってきたときにはすでにおばあちゃんだったし、獣医の先生にも積極的な治療はもう難しいって言われました。その、もう先は短いだろうって。だから冬休みは会えなくて申し訳なかったんですけど」
「それは気にするなって言っただろ」
「ありがとうございます」
ヤカンがしゅんしゅんと音を立て始めたので火を止め、紅茶のティーバックを入れておいたマグカップにお湯を注ぐ。茶葉が蒸れるのを待ちながら、言葉を選ぶ。
「冬休み、ポピーはすごく頑張ってくれてたんです。恥ずかしいけど、僕も時々泣いちゃったりして。今までバイトで忙しくてしていたのを後悔したり、ポピーに何度も謝ったり、もっと一緒にいれば良かったって。……そしたらね、不思議なことに、ポピーが僕のそばにきて指を舐めてくれたんです。体を動かすのも辛いはずなのに」
先輩の前に「どうぞ」とマグカップを置く。「サンキュ」と言ってくれる先輩に、僕は微笑んだ。
「なんかそのとき、わかっちゃったんです。あ、ポピーにずっと心配かけてるんだなって」
僕はもう一度椅子に座って、マグカップで指先を温める。
「ポピーが今頑張ってるの、たぶん、僕を心配してくれてるからだって」
淹れたばかりの紅茶に、僕の涙がこぼれてしまう。
「だから、ポピーに純也先輩と会ってほしかったんです。貧乏なボロアパートで恥ずかしいけど、ポピーに……僕は今好きな人がいて、その人も僕を好きでいてくれるから、大丈夫だよって、知ってほしくて」
「……ありがとうな、海斗」
先輩は僕に近づいて、そっと僕の涙を拭った。
「会わせてくれ、ポピーに」
「……はい」
先輩に、僕とポピーがいつもいる部屋に入ってもらう。
ポピーはヒーターの前で横たわっている。寝ているポピーには、温かいブランケットをかけてあった。
一日のほとんどを寝て過ごしているので、さっき僕が部屋を出たときと変わらない状態だった。
ポピーは、僕たちの気配を感じたのか、顔を起こしてこちらを見てくれる。
「ポピー、この人が純也先輩。僕の……恋人」
「……ポピー先輩。俺、純也です。海斗と付き合っています」
「な、なにポピー先輩って」
「先輩だろ。礼儀だ」
ポピーは僕らの話を聞いているのか、耳をピクピクと動かして、体を起こした。
ゆっくり、ゆっくりと僕たちの元まで歩いてきてくれる。
「ポピー、最近はもうほとんど歩けないのに」
「大丈夫すか、無理しないでください」
ポピーは座っている僕の足にコツンと額をぶつけて、スリスリする。
元気だった日と同じように。
そして先輩の横に行き、まるで猫じゃらしで遊んでいるときのように、じっと先輩を見つめる。
小さく小さく、エアニャーをした。何かを言ってるみたいに。
「大丈夫です。俺、海斗を幸せにします。海斗が我慢ばっかりするのとか、無理したりするの、わかってます。……だから、安心してください」
「先輩……」
ポピーは先輩の膝に、尻尾をぺしっと当てた。
「――みゃ」
それだけ言うと、またブランケットの位置に戻って、静かに寝息を立て始める。
「ポピー先輩、ありがとうございます」
先輩はポピーに向かって深く頭を下げる。
なんだかおかしな場面で、きっと笑ってもいいはずなのに、僕の視界は滲んでいく。
ポピー、ありがとう。ポピー、僕、大丈夫だからね。
溢れてくるのは、たくさんの感謝だった。
その夜、ポピーは静かに息を引き取った。
初めて出来た恋人と冬休みを楽しく過ごす……なんてことはなくて、それどころか高校が始まるまで先輩の顔を見ることもできなかった。
理由は、ポピーの状態が日に日に悪くなったからだった。
嘔吐が増え、おやつもあまり食べなくなり、一日のほとんどを眠るようになってしまったのだ。
見る見るにうちに毛のツヤはなくなり、痩せていくポピーを見るのはとても辛かった。
冬休みはバイト以外の時間は、極力ポピーのそばにいることを選んだ。
先輩はそれをちゃんとわかってくれて、僕とポピーの時間を尊重してくれた。
今日、僕は家で先輩を待っている。土曜日だけど、店長に理由を説明してバイトは休ませてもらった。
母さんは少し遅めの新年会だとかで家を空けることになっている。母さんには悪いけど。先輩を家を呼ぶのにはちょうどよかった。さすがに、母さんにはまだ先輩との関係を話せていないし。
静かに寝ているポピーを撫でていると、スマホに通知が届いた。
[着いたぞ]
僕はその通知を見て、アパートの下まで降りていく。朝に降り始めた雪がもう積もり始めていた。
こんな古いアパートに住んでいるなんてバレたくなかったけど、好きな人に全部を隠すなんて不可能だもんね。
「北条先輩っ」
「白雪……じゃなかったな。海斗」
先輩は目を細めて笑う。会えない時間が長くても、メッセージのやりとりはできる。
付き合ったからには下の名前で呼ぶって自分で言ってたくせに。
「僕も北条先輩って言っちゃった。純也先輩ってなんか呼びにくいんだよなぁ」
「純也でいいのに」
「それ、もっと呼びにくいです。なんだか先輩ってつけないと落ち着かなくて。じゃあ、行きましょう」
「それにしても、海斗の家に行けるなんて夢みたいだ」
先輩は鼻歌を歌いながら階段を登る。ぼろいアパートに芸能人みたいな人がいるから、とても浮いている。
503号室の軋む鉄扉を開けて「どうぞ」と先輩を促す。
台所と、小さい部屋がふたつだけある町営のアパート。
玄関から全ての部屋が見渡せる防犯性能には、先輩も驚くことだろう。
「おじゃまします」
「はい、そこ座ってください」
僕は先輩を台所にあるダイニングテーブルに案内する。
「あ、これ茶菓子持ってきた」
「そんなの気にしなくていいのに!」
「いや、家の人もいるかと思って」
「いない時間選んだので」
「そうなのか?」
ちょっとほっとしてる先輩。僕はその前の椅子に座り、先輩と向き合った。
「ぼろくてびっくりしたでしょ? 気付いていると思いますが、僕ド貧乏なんです」
「まぁ、その、アンティークというか、レトロで昭和風な感じで、悪くない」
「無理なフォローはしなくていいです」
「悪い」
「揶揄ったりしない人だって知ってますから、大丈夫ですよ」
先輩は優しい瞳で僕を見つめる。なんだかこの家に先輩がいるなんて不思議な気分だ。
「先輩の動画のアルバイトをするって言ったときも、実は切羽詰まってたんです。生活すらままならないのにポピーの治療費が必要になって。言い方はあれですけど、本当にお金目的でした」
「そんな理由があるなら、言ってくれたら……」
「僕、自分が貧乏なのを人に話したくないんです。人によっては嫌味を言われたりするし、惨めな気分になるので」
僕は席を立って、ヤカンでお湯を沸かし始める。やっぱり、顔をみてこんな話をするのは恥ずかしい。
先輩は黙って僕の話を聞いてくれている。
「父さんは僕が小さいうちに離婚していて、どこにいるかもわかりません。母さんは母さんで、ちょっと特殊で。なんというか、体も心も弱い人なんです。それが悪いことではないんですけど……」
ヤカンから白い湯気が立ち昇り始める。できるだけきれいなマグカップをふたつ選んで、シンクに置いた。
「今までも色々辛いことはあったんですけど、いつも僕を支えてくれたのはポピーだったんです」
「あのさ、ポピーに今からでもなにか治療はできないのか? 金なら俺が……」
僕は背を向けたまま頭を横に振った。
「母さんが気まぐれに拾ってきたときにはすでにおばあちゃんだったし、獣医の先生にも積極的な治療はもう難しいって言われました。その、もう先は短いだろうって。だから冬休みは会えなくて申し訳なかったんですけど」
「それは気にするなって言っただろ」
「ありがとうございます」
ヤカンがしゅんしゅんと音を立て始めたので火を止め、紅茶のティーバックを入れておいたマグカップにお湯を注ぐ。茶葉が蒸れるのを待ちながら、言葉を選ぶ。
「冬休み、ポピーはすごく頑張ってくれてたんです。恥ずかしいけど、僕も時々泣いちゃったりして。今までバイトで忙しくてしていたのを後悔したり、ポピーに何度も謝ったり、もっと一緒にいれば良かったって。……そしたらね、不思議なことに、ポピーが僕のそばにきて指を舐めてくれたんです。体を動かすのも辛いはずなのに」
先輩の前に「どうぞ」とマグカップを置く。「サンキュ」と言ってくれる先輩に、僕は微笑んだ。
「なんかそのとき、わかっちゃったんです。あ、ポピーにずっと心配かけてるんだなって」
僕はもう一度椅子に座って、マグカップで指先を温める。
「ポピーが今頑張ってるの、たぶん、僕を心配してくれてるからだって」
淹れたばかりの紅茶に、僕の涙がこぼれてしまう。
「だから、ポピーに純也先輩と会ってほしかったんです。貧乏なボロアパートで恥ずかしいけど、ポピーに……僕は今好きな人がいて、その人も僕を好きでいてくれるから、大丈夫だよって、知ってほしくて」
「……ありがとうな、海斗」
先輩は僕に近づいて、そっと僕の涙を拭った。
「会わせてくれ、ポピーに」
「……はい」
先輩に、僕とポピーがいつもいる部屋に入ってもらう。
ポピーはヒーターの前で横たわっている。寝ているポピーには、温かいブランケットをかけてあった。
一日のほとんどを寝て過ごしているので、さっき僕が部屋を出たときと変わらない状態だった。
ポピーは、僕たちの気配を感じたのか、顔を起こしてこちらを見てくれる。
「ポピー、この人が純也先輩。僕の……恋人」
「……ポピー先輩。俺、純也です。海斗と付き合っています」
「な、なにポピー先輩って」
「先輩だろ。礼儀だ」
ポピーは僕らの話を聞いているのか、耳をピクピクと動かして、体を起こした。
ゆっくり、ゆっくりと僕たちの元まで歩いてきてくれる。
「ポピー、最近はもうほとんど歩けないのに」
「大丈夫すか、無理しないでください」
ポピーは座っている僕の足にコツンと額をぶつけて、スリスリする。
元気だった日と同じように。
そして先輩の横に行き、まるで猫じゃらしで遊んでいるときのように、じっと先輩を見つめる。
小さく小さく、エアニャーをした。何かを言ってるみたいに。
「大丈夫です。俺、海斗を幸せにします。海斗が我慢ばっかりするのとか、無理したりするの、わかってます。……だから、安心してください」
「先輩……」
ポピーは先輩の膝に、尻尾をぺしっと当てた。
「――みゃ」
それだけ言うと、またブランケットの位置に戻って、静かに寝息を立て始める。
「ポピー先輩、ありがとうございます」
先輩はポピーに向かって深く頭を下げる。
なんだかおかしな場面で、きっと笑ってもいいはずなのに、僕の視界は滲んでいく。
ポピー、ありがとう。ポピー、僕、大丈夫だからね。
溢れてくるのは、たくさんの感謝だった。
その夜、ポピーは静かに息を引き取った。