先輩に連れられ、僕は病院で診察を受けた。牧宮に絞められた首には痕ができていて、今も熱を持っている。
 僕は先輩に促され、事の経緯も含めて医者に説明をした。

 勝手にSNSに写真を投稿されトラブルになってしまい、結果的に相手が起こってしまい暴力を受けた、と。
 その後は傷の写真を撮り、先輩のすすめで診断書の発行をお願いした。

 今後牧宮たちが言いがかりをつけてくるかもしれない。自分の身を守るためにも、証拠は残しておいた方がいいとのことだった。
 診断書ってたしか自己負担だったよな、なんて呑気なことを考えながら、会計を待つ。

 病院の茶色い革のソファーはなんだか座り心地が悪い。並んで座っていると、先輩がぽつりと呟いた。

「――悪かった。あいつら、白雪のこと盗撮してたなんて。インスタもクロックロックもちゃんと見てるつもりだったのに、気づけなかった」

 先輩は前を向いたまま、唇をぎゅっと噛んでいる。

「僕も昨日気づいたんです。学校で盗撮されて勝手に投稿されるなんて想像もしていませんでした。でも、先輩が謝る必要なんてないです。そういうリスクもあるから、一万円なんていう金額が払う……そうですよね?」
「いや、今日みたいなことをは想定していない。もちろん、白雪がなにかトラブルに巻き込まれるかもしれないと気を使っていたけど、こんな危険な目に遭わせるつもりは毛頭もなかった。本当に申し訳ない。俺のリスクヘッジ不足だ」

 先輩の目は悔しそうでもあり、悲しそうでもあった。なんて言葉をかけたらいいんだろう。

「先輩が助けに来てくれて、結果大丈夫だったからいいじゃないですか。それより牧宮たちをぶっ飛ばしちゃって、先輩が謹慎や退学にならないか心配です」
「俺のことはどうでもいい。だけど、白雪が大丈夫じゃないだろ」
「ピンピンしてますよ。先輩のおかげです」

 これ見よがしに握りこぶしを作って見せると、先輩はようやっと微笑んだ。

「お前、ほんと優しいのな」

 その柔らかい微笑みに、ドキッとする。どうしたんだろう、僕。

「お待たせしました。白國海斗さん、3番会計までお越しください」
 
 困っている僕を助けるように、名前を呼ばれる。会計を済ますと、先輩は会計の値段について聞いてくる。いいと言っても「雇用主の責任だからお前は負担しなくていい」と強く言われ、診療明細を渡すことになったのだった。

 病院の外に出ると、先輩はスマホを取り出す。

「このままタクシー乗って帰れ。白雪の住所教えろ」

 昼休みから病院に行って、もうだいぶ時間が経っていた。
 通常の授業ももう終わる時間で、今から学校に戻っても意味がないだろう。
 
「あ、すみません。今日これからバイトなんです。だからもし乗せてもらえるならバイト先に……」
「はぁ⁉ こんなときにバイトってなに言ってんだ!?」
「いや、シフト入ってますし……最近バイトも動画の白雪目当てでお客さん増えてるんですよ」

 先輩は信じられないと言ったように前のめりで詰めてくる。

「休め」
「いや、無理……」
「いい。俺が電話する」
「は? ちょ、先輩なに言って――」

 僕が止めるのを片手で抑え、先輩はりんご飴の白雪に電話しているようだった。先輩のスマホから、店長の高い声が聞こえる。

「気にせずゆっくり休め、だとさ」
「聞こえてましたよ」

 はぁ……とため息をつく。働かないとお金はもらえない。バイトしないと生活費がない。どうしようか考えていると、先輩は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「白雪さ、なんでそんなにバイトしてんの?」

 少し迷う。家の状況を人に話すのは、正直好きじゃない。
 でも、先輩にいい加減な嘘をついて誤魔化すのは、なんだか嫌だった。

「うち、母子家庭なんです。さっきの診療明細見てもわかったでしょう。裕福じゃないので、バイトしてるんです。こんなに早く帰ったら、母さんも嫌な顔をするだろうし……」
「……白雪がバイトせずに帰ったら、白雪の母親は嫌な顔するの?」
「少なくとも、いい顔はしないですね」
「わかった」

 先輩は停まっていたタクシーに押し込めるように僕を乗せる。

「とりあえず俺ん家で休め」
「え、なんで!?」
「運転手さん、車出して」
「先輩、心配してくれるのは本当にありがたいんですけど、マジでバイト行かないとお客さんが――」
「白雪、お前さ」

 先輩が、タクシーの中でそっと僕の手を握る。
 
「バイトの話するとき、さっきから手が震えてる。今日は絶対休め」
 
 先輩に言われて、初めて自分の手が震えているのに気づいた。
 
 僕……怖いのか?
 暴力を受けたこと?
 人から見られること?
 盗撮されたこと?
 勝手にネットに写真を投稿されたこと?

 ――その全部?
 先輩が優しく、僕の手を握った。
 それ以上は何も言えなくて、僕は無言のまま先輩の家に向かった。


「でっっっっっかい……」
 
 先輩の家は駅から近いタワーマンションだった。
 ここに住んでる人と同じ高校に通っているなんて信じられない。
 エントランスの前で呆然としていると、先輩に「どうかしたか?」と心配されてしまった。
 
 あまりにも煌びやかな内装に眩暈がする。
 先輩と一緒にエレベーターに入ると、先輩は一番大きい数字の35階を押した。

「さ、最上階?」
「ああ、階層が高いと、エレベーターで耳が詰まったみたいになってうざいんだよな」

 うちのアパートにはエレベーターすらありませんが。
 あまりに自分と違う環境に驚くことしかできない。
 そして、先輩に引っ張られるようにして35階の一室に入った。

「おじゃまします……」
 
 テレビでしか見たことのないような広い部屋。おしゃれな空間。
 自分みたいな貧乏人が足を踏み入れていいのだろうか。
 今履いてる靴下キレイだろうか。いやに心配になる。


「この家、俺しかいないし気を使わなくていいから」
「は、はい……」

 違和感を覚える。俺しかいない?「今は俺以外誰もいない」ならわかるけど。もしかしてここは先輩が自分で購入したマンションだとか? いや、高校生でそんなこと有り得ないよな……。先輩が出してくれたスリッパを履き、長い廊下を歩く。突き当りまで行くと――18帖はあるだろうリビング・ダイニング・キッチンが見えた。上品でシックな内装は先輩によく似合っている。

「飲み物用意するわ。ソファー座ってろ」
「は、はぁ……」

 僕の部屋には置けないサイズのソファーおそるおそる腰を下ろす。めっちゃふかふか。なにこれ。
 ぶっちゃけ落ち着かない。さっきまで意識の底で感じていた恐怖がまぎれるくらいに、豪華すぎて居心地が悪かった。
 しばらくすると、先輩はあたたかいココアを淹れて、持ってきてくれた。

「砂糖いるか?」
「いや、いらないです」

 この人、僕のこと甘党だと勘違いしてないか? いや、甘いものは好きだけどさ。
 先輩は僕の隣に座る。柔らかいソファーが先輩の体重で少し軋み、僕の体もちょっとだけ先輩の方に傾く。

「……あらためて、悪かった。盗撮されてたことや勝手に白雪の写真を投稿されたのに、俺の対応が遅かったせいで怖い思いをさせよな」

 先輩はらしくなく、僕に向かって頭を下げる。

「そ、そんな大丈夫です。それに、助けてもらえましたから」
「これから対応してできるだけ防いでいく。盗撮もやめろって俺のチャンネルでも周知させるから」
「は、はい。それで十分です」

 沈黙が流れる。なんだか気まずくなって、絞り出すように話題を探した。

「それにしても、先輩ってケンカ強いんですね。ひとりで三人相手しちゃうんだから、びっくりした」
「まぁイケメンを極めるために鍛えてるからな。かっこよかっただろ?」
「かっこよさもなにも、牧宮を殺しちゃうかと思って肝を冷やしました」
「殺してやろうかと思ってたけどな」
 
 先輩は言葉とは裏腹に、とても優しい笑顔で僕を見ていた。

「あんなのでも牧宮も人間だし、殺したら先輩が捕まっちゃうのでやめてください。……それと、かっこよかったです」
「お、珍しく素直じゃねーか」
「僕はいっつも素直ですが」
「そうは思えねー」

 何気ない会話で緊張がほぐれていく。自分を守ってくれる存在が近くにいるのって、こんなにも心が安らぐんだ。

「先輩がかっこいいって思ってるのは前からですよ。調子に乗りそうだから言わないだけで」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。言われ慣れてるけど、白雪から言われると格別だ」

 こんな素敵な人になんで、彼女がいないんだろう。

「先輩、彼女はいないんですか?」
「いない。しょっちゅう告白はされるけど」
「SNSでの活動に支障が出るから作らないとか?」
「それもあるけど、単純に好きなやつがいないってのもあるかもな。なんというか、恋愛に目を向けてる余裕もなかったし」

 言われてみれば、僕も恋人を作ろうなんて考えたことなかった。僕は目の前の生活に追われているからだけど、先輩はSNSでの活動でなにかを目指していて、それを達成することで毎日が忙しかったのだろう。

「その気持ちは、ちょっとわかります。でもなんだかもったいないなー、先輩なら誰を好きになっても、両思いになれそうなスペックなのに。気になる人もいないんですか?」 
「んー……気になる人はいる」

 気になる人は、いるんだ。自分から聞いたのに、なぜだか心の奥がざわついた。
 先輩が気になるってくらいならきっと絶世の美女だろう。アイドルとか、モデルかもしれないな。
 クレオパトラの生まれ変わりかもしれない。
  
 なんてバカな想像をしながら、ココアを一口飲む。
 カカオの味が強くて、僕が普段飲んでいるココアとは全く違う味がした。
 先輩は僕がココアをサイドテーブルに置くのを待ってから、ぽつりと呟いた。

「俺、白雪が好きだわ」
「――は、はぁ⁉」
「可愛いし、気になるなって思ってたけど今日で確信した」
「ぼ、ぼく、男ですよ!?」
「男だったら好きになったらいけないのか?」
「いや、そうは言ってないですけど」
「だったら好きでいたっていいよな。安心しろ、弱ってるときに襲ったりしねーから」

 突然の告白、処理が落ち着かない。
 頭はオーバーヒートしていて、体全体に熱が広がっていく。
 否定、否定しなきゃ。

「それって友達とか後輩としての好きですよね⁉」
「違う。恋愛としての好き」
「か、勘違いじゃ……」
「勘違いじゃない。白雪が襲われてるのを見て、大切なものを奪われそうな感覚になった。それに、お前が後ろから抱きしめてくれたときも、正直ちょっと興奮した」
「あんなときに興奮してたの!?」
「マジびびった。怒りと両立するんだって。それで冷静になれた」

 僕がどう返事しようか考えあぐねている間に、先輩は言葉を続けた。

「急に言って悪かったな。でもなんつーかさ、お前に嘘つきたくなかった」
「……ありがとうございます」
「気持ち悪いか?」
「いえ、嫌悪感とかは本当にないです! びっくりして、本当なのかと信じられないのはあるんですけど」
「本当だって、手貸して」

 言われたままに手を差し出すと、先輩は僕の手を引いて自分の胸の左側に当てた。
 先輩の厚い胸板の奥に、強くて大きい鼓動を感じる。

 ドキ、ドキ、ドキ、ドキ……。

 普通のそれとは違う、早くて強い心音。それは先輩の緊張を物語っていた。

「わかった?」
「はい……めっちゃドキドキしてます」
 
 恥ずかしくて手を引っ込めると、先輩はふっと笑った。
 この人、余裕があるんだかないんだかわからない。

「さすがに恥ずいな。そう言えば、今日はどうする? もし家が気まずいなら、俺の家泊まっても……」
「いや、大丈夫です! それにポピー……あ、猫を飼っているんですけど、その猫の世話があるので」

 先輩はむぅ……考え込んで「それなら仕方ないな」と諦めてくれた。
 そうして、いつものバイトが終わる時間まで、僕と先輩は他愛もない話をたくさんした。
 母親のこと、ポピーのこと、聞かれたら答えてもいいかと思ったけれど、先輩は聞かなかった。
 だから僕も、先輩がなんでこんな広いマンションに独りで住んでいるのかは、聞かないことにしたんだ。