レモネードはよく冷やして

「おい! 待てって!」

 昇降口前。

 ここで上履きを履き替えなければ外へ行けない。

 そしてもう下校時間なのだ、校内へ行ったところでどうなるというのか。

 よって、瑞希はそこで玲望を捕まえることに成功した。

 腕を掴む。

 けれどばっと振り払われた。

 振り返った玲望に睨みつけられる。

「なに」

 そう言われたけれど、なに、もなにも。

 瑞希の言いたいことなんてひとつしかない。

「悪かったよ、お前のこと、考えなかっ……」

 謝るしかない。

 自分がいけないのだから。

 玲望に要らない不快を与えてしまったのだから。

「別になにも悪くないだろ。優しくするとこだったじゃん」

 玲望の言ったのは正論だった。

 実際、その通りだ。

 いくら玲望が恋人とはいえ、あそこは部活動としてしっかり対応するところだったのだから。

 けれどそれとこれとは別である。

「そうだけど……」

 でもどう説明したものか。

 瑞希の返事は濁ってしまった。

 その言葉と様子に、玲望はもう一度、顔をしかめる。

「そうだろ。それに返事、してないんじゃん。行ったら」

 ぎくっとする。

 返事。

 玲望はしっかり聞いていたのだ。

 瑞希が志摩に言われたこと。

 けれどそれは不本意だ。

 だって。

「別に返事もなにもないよ! ……『居る』なんだから」

 曖昧になった。

 居る、とは質問された『付き合ってるひととかいるのか』に対する答えである。

 でもこんな、まだひとのいる校内ではっきり言えるものか。

『お前がいるんだから』とは。
「じゃあそう言わなきゃだろ。ほら」

 玲望は冷たい口調で言った。

 瑞希が志摩にいい返事をする、つまり自分と別れて乗り換えるなどとは思っていないかもしれない。

 信頼関係は二年間で築かれてきていたし、ここでそんなことを疑うほど玲望は愚かではないはずだ。

 けれど気持ちは別だ。

 不快だと感じた気持ちは別だ。

 瑞希はその気持ちを与えてしまったのだ。

 そして玲望の言うことは正論。

 すぐに適切な返事が浮かばない。

「はっきりさせないヤツと居たいもんか。……帰る」

 もう一度、ぎゅっと瑞希を睨みつけて、玲望はまたもまっとうなことを言った。

 瑞希は今度こそ衝撃で口が止まってしまった。

 その間に玲望は今度こそしっかり靴を履き替えて、さっさと行ってしまった。

 瑞希は立ち尽くすしかない。

 一体、なにが起こったというのか。

 言葉にしてみれば単純なことだ。

 自分が女子後輩に優しくしていた。

 玲望はそれに不快になった。

 おまけに告白まがいのことを言われた。

 すぐになにも言えなかった。

 玲望はそれを見た。

 それでもっと不快になった。

 それだけ。

 けれど怒涛のような展開に、瑞希もついていけなくて。

 ただぐしゃっと髪を搔き乱した。

 これではいけない、と思う。

 今、玲望を追いかけてもう一度捕まえたところで、今やり取りできることはないだろう。

 「ごめん」「はっきり話したよ」「断ったよ」

 そして「お前の気持ちを考えなくて悪かった」。

 それら、言うべき言葉は今、言えない。

 情けない。

 瑞希の顔が歪む。

 楽しい時間になるはずだった。

 けれど、玲望に、そしてもうひとついうなら志摩にも嫌な思いをさせてしまった。

 馬鹿か、俺は。

 今の瑞希はそう自嘲するしかなかったのである。
 かしゃかしゃ、とボゥルと泡立て器の触れ合う軽快な音がした。

 瑞希が卵の白身と砂糖を混ぜ合わせている音だ。

 実習では電動泡立て器を使ったので簡単だったけれど、母親に聞いたところ「うちにはないわねぇ」と言われてしまったので、原始的に泡立て器となってしまった。

 今日は家のキッチンを独占して、瑞希は菓子を作っていた。

 レシピを見ながら黙々と材料を測り、ボゥルに卵を割り入れたりと進めていく。

 レシピはプリントだった。

 本でもタブレット端末でもない。

 これは数日前、玲望が部活の皆にくれたものだ。

 玲望と喧嘩をしてしまった日、それから数日。

 玲望とはひとことも話していなかった。

 元々クラスが違うので、常に一緒というわけではないのだ。

 廊下ですれ違ったりすることは多いけれど。

 それに昼は弁当を食べたり、たまに学食へ行ったりと一緒に過ごしているのに、それもない。

 どうにもすかすかして寂しいことである。
 週末に入っても瑞希は一人だった。

 玲望は大人しく捕まえられてくれなかったから。

「今日急ぐから」なんて、ちらっとこちらを一瞥しただけで行ってしまったのだ。

 確かにバイトが早い時間からあるときはさっさと帰ってしまうのだけど、ここまで冷たくされることはない。
 
 玲望はまだ許してくれる気がないのだ。

 実感して胸が痛んだ。

 一応、瑞希としてはカタをつけた。

 志摩を捕まえ、はっきり話した。

「悪い、付き合ってるやつがいるんだ」

 それだけだったけれど、それでじゅうぶんだっただろう。

 志摩は顔を歪めて泣き出しそうな顔をしたけれど、それでも笑ってくれた。

「そうなんですね。すみませんでした」

 自分が彼女を傷つけたことはわかっている。

 遠回しながら、好意を持っていると伝えてくれたのだ。

 それをはっきり線引きして。

 傷つかないはずがない。

 けれど曖昧なままでいるより、ずっとましだとも思うのだった。

 それを玲望に言おうかと思ったけれど、そしてそれがひとつのけじめであることもわかっていたけれど、どうもそれでは足りないようだった。

 実際、玲望は自分に捕まえられてくれないのだから。

 それで瑞希が思い立ったのは、この週末のキッチンだったというわけだ。

 金曜日の帰りにスーパーに寄って、小麦粉やバターを買った。

 準備も整って、土曜日の朝からキッチンにこもる。

 実習のとき、瑞希は直接作っていなかったので、さくさくとは進まなかった。

 自分で菓子を作ったことは一応あっても、だいぶ昔のことだ。

 プリントを見つつになる。
「……よし。これで」

 材料がボゥルの中で混ざり合い、小麦粉を入れてさっくり混ぜて、最後に瑞希は小さなパックを取り出した。

 それはドライフルーツ、に似たものだった。

 ドライではあるが、皮しか入っていない。

 細かくカットされている。

 これはレモンピール。

 お菓子作りに使うために売られているものだ。

 スーパーに材料を買いに行ったとき、瑞希はプリントのレシピ通りにオレンジピールを使うつもりだった。

 けれど製菓コーナーに行ってオレンジピールを見つけたとき、隣にこれが陳列されていたのだ。

 レモンピール。

 レシピを勝手に替えてもいいものかと思ったけれど、オレンジピールとモノとしてはそう変わらないだろう。

 良いことにして、それを買って帰ってきた。

 パックを開けると、既にレモンの爽やかな香りがふわっと漂ってきた。

 ほの甘くて、ほろ苦くて、それ以上にきゅんと酸っぱいレモンの香り。

 ボゥルの中にぱらぱらと入れる。

 生地にさっくり混ぜ込む。

 色は変わらないけれど、これで完成だ。

 型に入れて、オーブンへ。

 焼き加減はオーブンによって変わってくるというので、瑞希はちょくちょく覗きに行ってしまった。

 やがてふんわり焼き菓子の香りが漂ってくる。

 レモンの香りも一緒に、だ。

 二十分近くが経ち、瑞樹がオーブンから取り出すとふっくらいい加減に焼けていた。

 竹串を刺してもなにもついてこない。

 ……上出来だ。

 ふっと瑞希の顔に笑みが浮かんだ。

 出来上ったパウンドケーキからは、レモンの爽やかな香りが漂っていた。
 ぴんぽん。

 軽快な音があたりに響いた。

 普段なら大声で玲望を呼ぶのだけど、今はできない。

 迷惑になる以上に、今の自分にはそうする資格がないからだ。

 ぱたぱたと中から近付いてくる音がして、数秒。

 ドアスコープ……内側から覗いて訪問者を見られるアレ……から誰なのかを確かめているのだろう。

 拒絶されるだろうか。

 その数秒でひやひやしてしまった。

 けれど運良くドアは開いた。

 顔を見せてくれたのは、勿論玲望。

 気まずそうな顔をしていた。

「……よう」

 瑞希が挨拶をすると、ちょっと眉を寄せたけれど「ああ」と言ってくれる。

 楽しそうではないけれど、あのあとではそうだろう。

 反応してくれただけでも、出てくれただけでも上出来だ。

 そして多分、受け入れてくれるつもり、だろう。

 思って、瑞希は切り出した。

「邪魔しても、いい?」
 居室の座布団に座って、ちゃぶ台に持ってきた荷物を置く。

 バッグに入れてきたのは布の包み。

 弁当を包むのに使う布にはタッパーがくるまれていた。

 布をほどいてタッパーを開ける。

 やってきた玲望がちょっと目を丸くした。

「これ。こないだの詫びに」

 タッパーには、綺麗に焼けたパウンドケーキが丸々入っていた。

 玲望の前にそっと出す。

「こないだは悪かった」

 言った。

 玲望はしばらく黙っていた。

「これ、……お前が作ったの」

 手作りなのはわかっただろう。

 こんなタッパーに入れられているのもそうだし、市販のもののように整ってもいない。

「ああ。味見してないから美味いかわからないけど……玲望のレシピなんだ。美味いと思う」

 その言葉で瑞希が玲望のくれたプリントを見て作ったことを知ったのだろう。

 玲望の顔が歪んだ。

 今度のそれは、なんだかどこかが痛むというようなもので。

「ありがと。……」

 お礼を言ってくれたものの、玲望は黙った。

 口が動いて、でも閉じて、また動いて……とする。

 瑞希はただそれを待った。

「……俺こそ悪かったよ」

 やっと出てきた。

 おまけにそれは瑞希と和解してくれるものだった。

 ほっとした。

 瑞希の心の中に安堵が溢れる。

「片付けてきた」

「そう」

 瑞希はそれだけ言ったし、玲望もそうとしか言わなかった。

 でも伝わっただろう。

 瑞希が告白のようなものに返事をしてきたことを。

 ちゃんと『相手がいる』と言ったことを。
「お前は、怒らないのかよ」

 ふと、玲望が言った。

 瑞希がまるで考えていなかったことだ。

「……なんかあるか?」

 そのまま訊いてしまう。

 思い当たる節がない。

 玲望が数日、瑞希を避けたことだろうか、と思ったのだけど、どうもそれではなかったようで。

「俺、あのとき態度、悪かっただろ。……つまらないこと、した」

 気まずそうに言ったこと。

 瑞希はそこでやっと、玲望も自分のことを省みていたことを知った。

「や、それは俺が空気読まなかったせいだから……」

「そんなことないし、それとこれとは別だ」

 でも玲望は悪くないのだ。

 玲望の気持ちを考えずに行動した、自分のせい。

 瑞希はそう言ったのだけど。

 不意に玲望が動いた。

 膝を詰めてくる。

 ためらったようだったけれど、腰をあげて膝で立った。

 そしてどうするかと思えば、するっと瑞希の肩に手が回された。

 ふわり、と目の前に金髪が揺れる。

 一緒に柑橘のほの甘い香りも。

 瑞希に抱きついておいて、玲望はぎゅっと手に力を込めてくる。

「ごめん」

 耳元で聞こえたことは、さっきとは違う。

 もっとはっきりした言葉。

 瑞希は数秒動けずにいたけれど、ふっと顔が緩んでしまった。

 そろそろと手を持ち上げて玲望の体に回す。

「俺こそ」

 それですべて済んでしまった。

 久しぶりに感じた玲望の体の感触、あたたかな体温、シャンプーの柑橘の香りも、その中に感じるほのかな汗の香りも。

 すべてが心地いい。
「丸ごと持ってくるなんて、お裾分けみたいだな」

 カチャカチャと皿とフォークが触れ合う軽快な音がする。

 瑞希は棚から出した皿をちゃぶ台に置いて並べて、食べる準備を進めていったのだが、そこで玲望がちょっとおかしそうな声で言った。

 なにか飲み物を準備してくれている台所から。

 自覚はあったので瑞希は「うるせ」と言うしかない。

 本当は綺麗にラッピングしようかと思ったのだが、丸ごとのパウンドケーキが入るようなラッピングを知らなかったのだ。

 包む段階になって困って、結局家のタッパーなんて、色気のないものになってしまった。

 一応、贈り物なのだからもっと綺麗に渡したかったのだが。

「でも、……いい匂い」

 玲望は瓶のようなものとグラスを一緒に持って、やってきた。

 その表情はとても穏やかで。

 玲望の心も落ち着いてくれたことを表していた。

「そうだろ、絶対美味いって」

「さっきと言ってることが違うけど」

 おまけに瑞希が言ったことに、くすっと笑ってくれる。

 そうしてから包丁でパウンドケーキを切り分けていった。