レモネードはよく冷やして

「玲望が教えてくれたからだろ。ほんとに助かったよ」

「いいや。俺で力になれるなら」

「今度、礼するから。うまいもん奢るよ」

 今日の指導役のお礼は、一食ご飯を奢ることになっていた。

 一緒に外食というのは滅多にないので、瑞希も楽しみだった。

「じゃあラーメンがいい。大盛り、替え玉付きで」

「欲張りだなぁ」

 瑞希がくすっと笑うと、玲望も笑ってくれた。

 そのあとラッピングの時間になり、ここは女子が活躍していた。

 玲望は「俺は包むとしても素っ気なくなっちゃうから、かわいくできるならそのひとたちに任せたらいい」と任せてくれたのだ。

 女子たちはきゃっきゃと明るい様子でかわいい袋に焼き菓子を入れて、口を閉じていく。

 シールを使ったり、リボンをかけたり……。

 そうなってみると、ただ作った剥き出しの状態から立派な商品の見た目になった。

 瑞希は感心してしまう。

 バレンタインなどにこういうものは見るけれど、実際に制作されているところを見るのは初めてだったのだ。

 女子ってすごいんだな。

 改めて感心した。

「さ、じゃあ片付けをしよう」

 大体終わったとおぼしきところで瑞希は、ぱん、と手を叩いた。

 とはいえ、用具などの洗いものや片付けはオーブンで焼いているときにおこなっていたので、片付けるといってももうその場を整えるくらいしかない。

 だからすぐに終わってしまった。

「お疲れ! 本番はもっと頑張ろうな」

「はい!」

 それで締めになった。

 わいわいと明るい声が溢れて、部員たちは帰っていく。
「瑞希、もう帰るだろ」

 玲望が近くに寄ってきた。

 それはなんだか甘えるようなもので、それも常にはあまり見られないものだった。

「ああ。……あっ、悪い、ちょっと職員室に寄ってくる。鈴木先生に報告がてら、コレ、差し入れるから」

 顧問の鈴木教諭は様子を見てくれていたものの、途中で用事があるからと抜けていたのだ。

 だから今日の活動の報告をする必要がある。

 そして成果を見せるためにも、焼き菓子を差し入れてこようというわけだ。

「そうなの。結構かかる?」

「いや、十分くらいで終わるよ。詳しいことは部で今日のことをまとめてからになるから」

 今日の反省会を、明日おこなうことにしていた。

 今日の実習から本番に生かせるようにしなければならない。

 だからまとめは明日なのだ。

「じゃ、待ってる」

 玲望はそれだけ言い、家庭科室を出ていった。

 その様子はまるで猫のようだった。

 くっついてきたと思ったら、ふいっと離れていく。

 玲望がそんな性質で様子なのは常からだけど……。

 いや、気のせいだろ。

 気を張って疲れてるのかもしれないし。

 瑞希はそう思って、自分の荷物も片付けて、最後に家庭科室を出た。

 きちんと戸締まりをする。

 そして職員室に向かって、無事鈴木教諭に報告と差し入れをした。

 鈴木教諭は焼き菓子をすごく喜んでくれたし、活動も褒めてくれて平和に終わったのだけど。

 平和に終わらなかったのはそのあとだったのである。
「梶浦部長」

 職員室を出て、廊下を歩いていると二年生の志摩に出くわした。

 声をかけられる。

 そこで既に瑞希はなにか違和感を覚えた。

 なんだか張りつめたような空気が伝わってくる。

「まだ帰ってなかったのか? もう下校時間になるぞ」

 その空気をやわらげるように言ったのだけど、志摩は「はい」と言ったものの、その場から動かない。

 数秒の沈黙が落ちる。

 やがて、志摩がぎゅっと手を握るのが見えた。

「あの、今日はすみませんでした」

 謝られた。

 が、瑞希はすぐにわからなかった。

 どうして謝られるのか。

 すぐに続けて志摩が言う。

「あの……実習で、基宮先輩にご迷惑をかけてしまって……」

「……ああ」

 そこまで言われて瑞希はやっと思い当たった。

 クッキーの生地をどうするかという話になった件だろう。

 でも別に謝られることはないのだ。

 志摩は意見を出しただけなのだから。

 それのどこが悪いというのか。

「なにも悪くないだろ。むしろ幅が広がって良かったと思うし」

 しかしあのやりとりを気にして、わざわざ謝りに来たというのか。

 律儀な子だ。

 瑞希は考えたのだけど、それはどうも平和すぎる思考だったらしい。

 志摩がもうひとつ、ぎゅっと拳を握るのが見えて。

「私、部長とお話しできるのが嬉しくて……、それで、つい出過ぎたことを……」

 そこまで言われて、やっと瑞希も思い当たった。

 出過ぎたこと、ではない。

 志摩がどうして謝りにきたかということも、あのときとても嬉しそうだったことも。

 頭の中に理由が閃く。

 それは瑞希にとって衝撃だった。

 まさか、こんなことが起ころうとは。

 いや、高校生なのだ、起こってもおかしくないことだ。

 でも嬉しいとは言い切れなかった。

 なにしろ瑞希にはすでに大切なひとがいるのだから。

「あの、梶浦部長は……付き合ってるひととか、いるんですか」
 続けられたこと。

 瑞希はとっさに反応できなかった。

 まさかよそからそういう気持ちを向けられているとは思わなかったし、それが身近な後輩だったというのも衝撃だった。

 けれどこれは自分があまりに鈍かったのだ、ということを思い知らされた。

 玲望に夢中になるばかりで、周りのことをよく見ていなかったといってもいい。

 そしてそれは示していた。

 自分のその態度のためになにか、誤解をさせてしまったのかもしれないと。

 望みがある、くらいは思わせてしまったのかもしれないと。

 とっさになにも言えなかった、のだけど。

 それが余計に悪かったと数秒後に瑞希は思い知らされる。

 がたんと音がした。

 ここは廊下だ、誰かに聞かれてしまっただろうか。

 瑞希の胸がひやっと冷えたけれど、見えたものに、今度は冷えるどころでは済まなくなった。

「……玲望」

 廊下の向こうからやってきた人物。

 それは玲望だったのだから。
 聞かれただろうか、そうだとしたらどこまで。

 一瞬で恐怖が巡る。

 瑞希のその反応はどう取られただろうか。

 玲望の顔がはっきり歪むのが見えた。

「……遅かったから」

 それでもそう言ってくれた。

 瑞希はなんと返したものかわからなくなった。

 ごめん、なのか、それともなにか、言い繕うようなことを言うのか。

 でもその前に違う声がした。

「あっ……! も、基宮先輩、今日はすみま……」

 志摩が口を開いて言いかけた。

 勿論、今日の謝罪だろう。

 けれど玲望はそれに答えなかった。

 ただ、一瞬瑞希を見つめた。

 綺麗な翠の目は硬くなっていて、視線は睨みつけるようなもので、でもその奥は確かな悲しみがあった。

「もう、用があるから先帰る」

 言い残されたのはそれだけ。

 ぱっと身をひるがえして行ってしまう。

 ぱたぱたと上履きが廊下を蹴る音が響いた。

「ま……てよ! 玲望!」

 数秒、瑞希は固まっていた。

 玲望の眼に捕らわれてしまったように。

 しかしすぐにはっとする。

 ここで帰してはいけない。

 厄介なことになる。

 それは時間が経つほど拗れてしまうものなのだ。

 ただ、一瞬ためらった。

 志摩のこと。

 質問にまだ答えていない。

 訊かれたのだ、答えなければ無礼だ。

 けれど、今、独りで駆けていってしまう玲望のことを考えたら。

 瑞希はごくっと喉を鳴らした。

「悪い! また今度話す!」

 だっと自分も廊下を駆けだした。

 ずるいことだが、志摩の顔は見なかった。

 自分が酷いことをしているのはわかった、けれど。

 今は玲望を捕まえることが一番重要だった。

 思い返せば、今日の実習、玲望はずっとあまり面白くなさそうな様子だった。

 普段はもう少し人当たりもいいのに。

 あの態度の理由に気付かなかったなんて。

 自分があまりに酷いやつだったのだと瑞希はやっと思い知った。

 歯がみしたい気持ちになる。
「おい! 待てって!」

 昇降口前。

 ここで上履きを履き替えなければ外へ行けない。

 そしてもう下校時間なのだ、校内へ行ったところでどうなるというのか。

 よって、瑞希はそこで玲望を捕まえることに成功した。

 腕を掴む。

 けれどばっと振り払われた。

 振り返った玲望に睨みつけられる。

「なに」

 そう言われたけれど、なに、もなにも。

 瑞希の言いたいことなんてひとつしかない。

「悪かったよ、お前のこと、考えなかっ……」

 謝るしかない。

 自分がいけないのだから。

 玲望に要らない不快を与えてしまったのだから。

「別になにも悪くないだろ。優しくするとこだったじゃん」

 玲望の言ったのは正論だった。

 実際、その通りだ。

 いくら玲望が恋人とはいえ、あそこは部活動としてしっかり対応するところだったのだから。

 けれどそれとこれとは別である。

「そうだけど……」

 でもどう説明したものか。

 瑞希の返事は濁ってしまった。

 その言葉と様子に、玲望はもう一度、顔をしかめる。

「そうだろ。それに返事、してないんじゃん。行ったら」

 ぎくっとする。

 返事。

 玲望はしっかり聞いていたのだ。

 瑞希が志摩に言われたこと。

 けれどそれは不本意だ。

 だって。

「別に返事もなにもないよ! ……『居る』なんだから」

 曖昧になった。

 居る、とは質問された『付き合ってるひととかいるのか』に対する答えである。

 でもこんな、まだひとのいる校内ではっきり言えるものか。

『お前がいるんだから』とは。
「じゃあそう言わなきゃだろ。ほら」

 玲望は冷たい口調で言った。

 瑞希が志摩にいい返事をする、つまり自分と別れて乗り換えるなどとは思っていないかもしれない。

 信頼関係は二年間で築かれてきていたし、ここでそんなことを疑うほど玲望は愚かではないはずだ。

 けれど気持ちは別だ。

 不快だと感じた気持ちは別だ。

 瑞希はその気持ちを与えてしまったのだ。

 そして玲望の言うことは正論。

 すぐに適切な返事が浮かばない。

「はっきりさせないヤツと居たいもんか。……帰る」

 もう一度、ぎゅっと瑞希を睨みつけて、玲望はまたもまっとうなことを言った。

 瑞希は今度こそ衝撃で口が止まってしまった。

 その間に玲望は今度こそしっかり靴を履き替えて、さっさと行ってしまった。

 瑞希は立ち尽くすしかない。

 一体、なにが起こったというのか。

 言葉にしてみれば単純なことだ。

 自分が女子後輩に優しくしていた。

 玲望はそれに不快になった。

 おまけに告白まがいのことを言われた。

 すぐになにも言えなかった。

 玲望はそれを見た。

 それでもっと不快になった。

 それだけ。

 けれど怒涛のような展開に、瑞希もついていけなくて。

 ただぐしゃっと髪を搔き乱した。

 これではいけない、と思う。

 今、玲望を追いかけてもう一度捕まえたところで、今やり取りできることはないだろう。

 「ごめん」「はっきり話したよ」「断ったよ」

 そして「お前の気持ちを考えなくて悪かった」。

 それら、言うべき言葉は今、言えない。

 情けない。

 瑞希の顔が歪む。

 楽しい時間になるはずだった。

 けれど、玲望に、そしてもうひとついうなら志摩にも嫌な思いをさせてしまった。

 馬鹿か、俺は。

 今の瑞希はそう自嘲するしかなかったのである。
 かしゃかしゃ、とボゥルと泡立て器の触れ合う軽快な音がした。

 瑞希が卵の白身と砂糖を混ぜ合わせている音だ。

 実習では電動泡立て器を使ったので簡単だったけれど、母親に聞いたところ「うちにはないわねぇ」と言われてしまったので、原始的に泡立て器となってしまった。

 今日は家のキッチンを独占して、瑞希は菓子を作っていた。

 レシピを見ながら黙々と材料を測り、ボゥルに卵を割り入れたりと進めていく。

 レシピはプリントだった。

 本でもタブレット端末でもない。

 これは数日前、玲望が部活の皆にくれたものだ。

 玲望と喧嘩をしてしまった日、それから数日。

 玲望とはひとことも話していなかった。

 元々クラスが違うので、常に一緒というわけではないのだ。

 廊下ですれ違ったりすることは多いけれど。

 それに昼は弁当を食べたり、たまに学食へ行ったりと一緒に過ごしているのに、それもない。

 どうにもすかすかして寂しいことである。
 週末に入っても瑞希は一人だった。

 玲望は大人しく捕まえられてくれなかったから。

「今日急ぐから」なんて、ちらっとこちらを一瞥しただけで行ってしまったのだ。

 確かにバイトが早い時間からあるときはさっさと帰ってしまうのだけど、ここまで冷たくされることはない。
 
 玲望はまだ許してくれる気がないのだ。

 実感して胸が痛んだ。

 一応、瑞希としてはカタをつけた。

 志摩を捕まえ、はっきり話した。

「悪い、付き合ってるやつがいるんだ」

 それだけだったけれど、それでじゅうぶんだっただろう。

 志摩は顔を歪めて泣き出しそうな顔をしたけれど、それでも笑ってくれた。

「そうなんですね。すみませんでした」

 自分が彼女を傷つけたことはわかっている。

 遠回しながら、好意を持っていると伝えてくれたのだ。

 それをはっきり線引きして。

 傷つかないはずがない。

 けれど曖昧なままでいるより、ずっとましだとも思うのだった。

 それを玲望に言おうかと思ったけれど、そしてそれがひとつのけじめであることもわかっていたけれど、どうもそれでは足りないようだった。

 実際、玲望は自分に捕まえられてくれないのだから。

 それで瑞希が思い立ったのは、この週末のキッチンだったというわけだ。

 金曜日の帰りにスーパーに寄って、小麦粉やバターを買った。

 準備も整って、土曜日の朝からキッチンにこもる。

 実習のとき、瑞希は直接作っていなかったので、さくさくとは進まなかった。

 自分で菓子を作ったことは一応あっても、だいぶ昔のことだ。

 プリントを見つつになる。