「ほい。おしまい」
「ああ、ありがと」
玲望は振り向いて、自分の髪を触った。
「瑞希が乾かしてくれると、なかなか綺麗に仕上がるな」
「おい、なかなかレベルかよ」
褒め言葉なのに微妙だったので、瑞希は苦笑してしまう。
けれど、この素直になり切らないところが玲望らしい。
「なんでだろな。自分でも下手じゃないと思うのに」
玲望は不思議そうだったけれど、理由なんて決まっているではないか。
すっと、玲望の金髪を手に取る。
ひとすくいしても、よく乾いた髪はするっと落ちそうになるので、その前に顔を近付けた。
髪に軽くくちづける。
「そんなの」
玲望からは直接見えなかっただろうけれど、髪にキスされたことくらいは察せただろう。
ぴくりと肩が揺れた。
「お前の髪なんだから、丁寧にして当たり前だろ」
本当のことを言ったのに。
ぱっと瑞希の手が振り払われた。
けれどそれは嫌悪からではない。
その証拠に玲望の頬はほんのり染まっていたのだから。
風呂からあがってもうだいぶするのだから、火照っているわけではないに決まっていた。
「またお前はそういうことを」
顔をしかめられたけれど、そんなに頬を染めていてはなにも意味がない。
照れ隠しのセリフでしかない。
「いけないのか?」
わざとしょげたように言うと玲望は、う、と詰まった。
自分の言葉や態度が素直でないのは自覚しているのだから。
「そ、そうは……言ってないだろ」
言い繕う言葉まで素直でない。
瑞希はそれがかわいいやらちょっとおかしいやらで、ふっと笑ってしまう。
玲望の眉間にもっとしわが寄った。
それを封じるように、手を伸ばして肩に触れる。
力を入れて、ぐっと自分に引き寄せた。
抱き込むと、目の前に来た髪からふわっとシャンプーの良い香りが漂った。
つい、誘われるように鼻先をうずめてしまう。
ドラッグストアで売っている安いシャンプーだけれど、香りは悪くない。
爽やかな柑橘系の香り。
レモンではないようだけど、近くはある。
爽やかで少し酸っぱいような香りだ。
「おい、ちょっと」
いきなり抱き込まれて髪に顔を埋められて、玲望がちょっともがく。
抵抗するという意志ではなさそうだけど、大人しくされるがままにはなりたくない、というところだろう。
「玲望の匂いがする」
ちょっと苛めるようなことを言ってしまったけれど、本当だ。
ただのシャンプーからだというのに『彼』を感じられるのはとても嬉しいから。
つい顔を擦り寄せてしまう。
夜も更けたので、そろそろ寝ようということになる。
「明日はバイトあんの?」
訊いてみたところ、玲望は「昼過ぎから」と答えたのだ。
少しは朝寝坊してもいいだろうが、あまり夜更かしをするとバイトに障るだろう。
よって、二人でもっと遊んだりしたい気持ちはあったものの、大人しく寝ることにした。
さっき「まだ早いか」と思った布団を敷いて、二人で潜り込む。
玲望の布団は薄っぺらくて、シングルサイズなので男二人には随分狭い。
だけどそのぶん密着できるので、瑞希は嫌いではなかった。
布団からはみでないように、玲望をしっかり腕の中に抱くことができる。
普段素直でない玲望も「布団からはみでるから」と言えば、最初こそぶつぶつ言うことがあっても、最終的に大人しく収まってくれるから。
「明日は玲望の朝飯が食いたいな」
ちょっと甘えるようなことを言ってしまったのも、そんな気持ちから。
きみの味噌汁が飲みたい、ではないが、恋人の朝ご飯を食べられるなんて、幸せなことではないか。
玲望は想像したように「たまにはお前がやってもいいんだが」とぶつぶつ言ったけれど、一応呑んでくれたらしい。
今日もバイトがあって、疲れていたのもあっただろう。
なにしろ立ち仕事だ。
早くもうとうとしはじめたのが感じられた。
瑞希は玲望を眠りに誘うように、髪に触れる。
さっき、ドライヤーで乾かしていたときよりも、優しく梳いた。
「オヤスミ」
瑞希の言ったことにはやはり「んー……」しか返ってこなかった。
おやすみを言う前に玲望は眠りに落ちてしまったようだから。
すやすや寝息を立てはじめた玲望を腕に抱きつつ、瑞希は自分の目がとても優しくなっていることを自覚する。
今日もとても幸せな日だった。
こういう幸せな日をくれる玲望のことを愛しく思う。
そういう存在でいてくれることに、いくら感謝しても足りない。
いつか。
いつか、もう少し先のこと……。
自分と玲望が高校を卒業したとか。
そのくらい先の未来。
訪ねてきて、一緒に過ごすのもいいけれど、もっと一緒にいたい。
同じ時間を過ごしたい。
つまり、一緒に暮らしたい。
それは高校を卒業したあと、大学生の身でも高望み過ぎるかもしれないけれど、叶えられないなんて思わない。
高校卒業後では無理だとしても、社会人になったらとか、いくらでも時間はある。
それまでの間、玲望と一緒に過ごしたいと思っていたし、玲望のほうもいくらかはそう思ってくれているのではないかと感じていた。
明日の朝ご飯はきっと、その日を迎えるための一歩になってくれる。
そんなふうに感じながら、瑞希は玲望を抱えて金髪に顔を埋めて、目を閉じた。
ボラ研の夏の活動は一週間ほどあとに決まった。
週明けに鈴木教諭に先日の会議の内容を相談した瑞希。
「いいんじゃないか」といつも穏やかな笑みの中年男性・鈴木教諭はノートの内容を読んで、言ってくれた。
「ただ、ラージサイト開催のはやっぱり間に合わないみたいなんです。三ヵ月くらい前に申し込みなんだとか」
「そうか、そりゃ大規模イベントならそうかもな」
それは残念であったが、逆に取れば次回の大型活動のときにはじゅうぶん余裕をもって申し込みを検討できるというわけだ。
瑞希の代では無理かもしれないけれど、来年などに活動候補の参考になるだろう。
「でもこれは今からでも間に合うんだろう」
鈴木教諭が指差したのは、今からでも申し込みができるいくつかのバザー出展イベントであった。
駅前でのもの、夏休み中の小学校でのもの……規模は比べ物にならない。
けれどなにしろ初めての試みなのだ。
こういう小さいところからはじめるのも、ある意味安心といえた。
「はい。早いのは今週末が締切だそうで」
「そうか。じゃ、それに決めるなら早いことしないとだな」
そのように打ち合わせは着々と進んでいって、駅前のバザー出展と、小さな合宿での奉仕活動をメインにすることに決まった。
そのほか夏休みの学校や近隣の清掃活動や整備、そんなものも請け負う。
夏休みとはいえ、活動はなかなか多くなりそうであった。
しかし瑞希はなにしろ三年生である。
本格的な受験勉強はまだ早いが、夏休みの間もそれなりに勉強しておかなければいけない。
忙しくなりそうだな、と思う。
でもそれは瑞希にとって、楽しい忙しさだ。
「よーし、みんな、準備はいいか」
ある放課後、瑞希はボラ研部員を家庭科室に招集していた。
今日はバザーで出す焼き菓子の試作をするのだ。
バザーは無事に申し込めて、受理された。
再度会議をして、出すものはリサイクル品と、手作りの焼き菓子に決まった。
売り物はバザー直前に作るのだが、一度試作してみたほうがいいと思って。
ぶっつけ本番より安心できるだろう。
瑞希が教壇でかけた声には「はい!」「オッケーっす!」という元気のいい声が返ってくる。
瑞希は家庭科室の中を見回して頷いた。
「今日は講師を呼んである。俺の友達の基宮。料理が得意で、菓子作りも得意なんだ。こいつに習おうと思う」
隣を示す。
そこにはしっかりエプロンをして、金髪をピンで留めた玲望が立っている。
部員たちに向かって一礼した。
「基宮 玲望といいます。どうぞよろしく」
玲望の挨拶にはぱちぱちと軽い拍手がかけられた。
それで早速実習となる。
「まず、これを読んで。材料の計測や調理手順が書いてあるから」
玲望はプリントを部員たちに配っていった。
それは玲望の作ってくれたものだ。
レシピはネットで調べたものだと玲望は言っていた。
でもオーブンによって焼き具合などの調整が必要になってくるからと、わざわざ自分で一回試してくれたらしい。
瑞希が「手伝ってくれないかな」と頼んだとはいえ、律儀である。
そういうところが好きなんだな、と瑞希は横で自分もプリントに目を通しながら思ってしまった。
「さ、じゃあそろそろはじめるか。A班はクッキー。B班はパウンドケーキ。C班はマドレーヌだ」
部員をみっつの班に分けて、それぞれ違う菓子を受け持たせる。
瑞希と玲望は特にどこの班にも所属せずに、あちこちを回って進行を確認する役に回った。
「調理実習みたいだねー」
「こういうのも楽しいな」
おしゃべりは禁止でないので、わいわいと楽し気な会話が交わされる。
まずしっかり手を洗って、次に材料計測から、と進めていく。
「あ、これね、もっとざくっと荒く刻んで。あんまり細かく切ると、食感が楽しめなくなっちゃうんだ」
玲望が一人の女子生徒に声をかけるのを、瑞希はちょっと離れたところから見た。
それはクルミを刻んでいる子だった。
確かに、クルミの食感を生かすには少し荒めのほうがいいのだろう。
「あ、はい! ……このくらいでしょうか」
女子生徒は玲望に声をかけられて、ちょっと顔を赤くしてクルミにもう一度向き直った。
玲望はそれを見て僅かに笑みを浮かべた。
「そう、このくらい」
玲望はちょっとぶっきらぼうなところがあるので、答えたのはそれだけだった。
でもじゅうぶんに優しい指導だ。
彼女はちょっと照れた様子で「そうします!」と玲望にお礼を言った。
瑞希はそれを見て、微笑ましく思ってしまう。
自分の大切なひとである玲望が、ひとにものを教えて、それを感謝してもらっている。
なんだか自分まで嬉しくなってしまったのだ。
試作は順調に進んでいく。
瑞希はあちこちのテーブルを回って、進行を確認した。
そしてわからないところがあれば、玲望を呼んでアドバイスを求める。
玲望はそのすべてに的確な指導をくれた。
「梶浦部長! これ、本番ではなにかの形にするのはどうでしょう」
クッキーを作っている班にやってきたとき、部員の一人が提案してきた。
二年の書記女子・志摩である。
「ああ、型で抜くってことか。それもいいなぁ。かわいい形だったら子供とかも喜びそうだ」
瑞希がいい返事をしたからか、志摩の顔がぱっと輝いた。
「うちにハートとか猫とかの抜き型があるんです。それを使って良かったら……」
志摩が続けたときだった。
うしろからぼそっと声がした。
「型抜きクッキーにするんだったら、生地を調整しないとだよ」
あれ、と思って瑞希は振り返った。
そこには声の通り、玲望がいる。
俺がなにか相談を受けたと見て来てくれたのだろうか、と瑞希は思って嬉しくなった。
笑みが浮かんだだろう。
「あ、そ、そうですよね……もう少し、生地が固くないと抜けないですよね」
志摩は何故か、ちょっと臆したような様子を見せた。
瑞希は今度、不思議に思う。
彼女は人見知りだっただろうか。
初めて会う玲望に話しかけられたからだろうか。
でも玲望が言ったのは優しいことだった。
「型抜きクッキーのレシピも用意するよ。瑞希に渡しとけばいいんだろ」
玲望は瑞希を見てきた。
その表情を見て瑞希はまたわからなくなってしまう。
玲望の表情も、普段あまり見ないものだったから。
別に睨みつけているとか、ぶすっとしているとかではない。
笑みのようなものは浮かんでいるし、口調も穏やかだ。
けれど、瑞希にはわかる。
今のものが心からの笑みではないことが。
どうしたというのか。
玲望がいきなりこんな様子になったのかがわからない。
「あ、ああ……じゃ、俺が預かるよ。悪いな、手間かけて」
「いいや」
瑞希の返事に玲望はまた妙な笑みのような表情を浮かべて、それで「俺、あっち見てくるから」と行ってしまった。
瑞希は首をひねったのだけど、なんとなく感じた。
玲望は不機嫌だったのではないかと。
なにか気に入らないことがあったのではないかと。
それがなにかはわからないけれど……。
「すみません、梶浦部長……私が思いつきで言ったせいで……」
志摩もあまり良い空気でないのは、感じたのかもしれない。
ちょっと困ったように言った。
まずい、気を使わせてしまった。
瑞希は反省して、笑ってみせる。
「いいや。バリエーションが増えるのはいいことだろ」
それでこの班はおしまいになった。
やがて生地がそれぞれ出来上がり、オーブンに入れる段階になった。
オーブンはそれほど多くないので、順番に使うことになる。
オーブンで菓子が焼けていくと、それぞれいい香りが漂いはじめた。
待っている部員たちの様子も明るくなる。
そして次々と完成となっていった。
クッキーはチョコチップとクルミ。
両方、市販の素材を入れただけのものだったが、じゅうぶんに見た目が良かった。
パウンドケーキはオレンジピールとチョコレート。
オレンジの爽やかな香りが快い。
チョコレートはこっくりと濃厚な香りを漂わせていた。
マドレーヌは一番シンプルだった。
バニラと抹茶。
でもバニラエッセンスを入れたためか甘い香りがしっかり香る。
どれも成功のようだった。
「よし、じゃあ試食してみよう。食べ終わる頃には冷めるだろうから次はラッピングだ」
本当はもう少し時間をおいてからラッピングしたほうがいいと、玲望は事前に教えてくれたのだけど、「でもすぐ持って帰るんだよな。なら仕方ない」と受け入れてくれた。
ラッピングも商品にするために必要な過程だからだ。
本番はもう少し寝かせてから包むことにした。
一人一種類ずつ配って、試食となった。
「うまい! しっかり焼けててクルミが香ばしい」
「パウンドケーキ、しっとりしてて食感がいいよ」
「マドレーヌはふっくら膨らんだなぁ。基宮先輩、すごいや」
クッキー、パウンドケーキ、マドレーヌ。
それぞれ良い評価があちこちで交わされる。
瑞希はほっとした。
隣で座っていた玲望も同じように思ってくれたことが感じられた。
なにしろ玲望が教えてくれたのだ。
成功して安心しただろう。
「うまいな」
自分でも口に運びつつ、玲望はぼそっと言った。
今度のそれは、普段の玲望の様子に近い気がした。
でもやはりなんだか違う。
瑞希は内心首をひねる。
なにか気に入らなかっただろうか……。