レモネードはよく冷やして

「つ……着いた……あっちぃ……」

 後半、どうも飛ばしすぎたようで、目的地に着いたとき、玲望はぜぇはぁしていた。

 おまけに汗だく。

 真夏に、いくら涼しめの夜の時間とはいえ、自転車で二時間も走ったのだ。

 そりゃあ汗も大量にかくだろう。

 どうにかこうにか、たどり着いた海。

 零時はとっくに過ぎて、真夜中もいいところだったので真っ暗であった。

 海沿いの駐車場に自転車を停めて、鍵をかける。

 そうしてから柵のあるほうへ向かっていった。

 駐車場は少し高いところにあって、端に柵があって、そこから海が一望できる。

 近くにある階段を下りれば浜辺に行けるのである。

「やー、お疲れ」

 ぽん、と肩を叩く。

 玲望はじとっとした目で瑞希を見た。

 まだ呼吸はちょっと荒い。

「お前なぁ、お前に付き合ってやったんだろう」

 飛ばしたのは自分だというのに、玲望は恨めしそう。

 瑞希はそれに、くくっと笑ってしまう。

「付き合って、海までチャリ飛ばしてくれたのはお前だろ」

 瑞希のそれはからかいではなかったけれど、そういう意味がなくもない。

 玲望は今度、眉を寄せた。

 普段見せる、ちょっと不機嫌という顔になる。

「うるさいな。付き合わなきゃ一人で突っ走ってたかもしれねぇじゃん」

 言い訳というように言われたけれど、それはちょっと違う。

 瑞希はその不機嫌な顔に笑ってみせた。

「一人で行くかよ。お前と来たかったのに」

 玲望は数秒、黙った。
 ちょっと気障(きざ)なことを言った自覚はある。

 気恥ずかしい。

 けれど言うべきところである。

 本当にそうなのだから。

 玲望と海が見たかった。

 玲望に見せたいと思ったけれど、それだけでもない。

 一緒に、見たかったのだから。

「そう」

 それだけ答えた玲望の顔は、もう不機嫌ではなかった。

 どちらかというと照れている、という表情にも近い。

「でもそれだって、お前、独りで行かせるもんかよ」

 そんな表情をしつつも、ぼそりと玲望が言ったこと。

 瑞希は目を丸くしてしまう。

 玲望も同じ気持ちだったと言ってくれたようなものだ。

 そんなことを言ってもらえようとは。

 瑞希が驚いたのを見て、玲望は照れているような顔をしかめた。

 照れ隠しにしか見えなかったけれど。

「ほら、せっかく来たんだろ。見に行こうぜ」

 ぱっと玲望は瑞希からよそを向いて、すたすたと行ってしまう。

 瑞希はその後ろ姿を数秒見ていたけれど、ふっと笑ってしまった。

 玲望らしいことだ。

 猫のよう。

 気まぐれで、近付いたと思えばふぃっと去ってしまって、でも自分の傍に居てくれる。

「待てよ。暗いから階段、落っこちんなよ」

「馬鹿にすんな」

 柵の切れ端にある階段。

 一歩下りながら玲望は言ったけれど、それはもうまったくいつも通りのものになっていた。
「……超キレー! とか言いたかったんだが」

 浜辺に下りて、さくさく歩きつつ、玲望は言った。

 その内容は思い当たりすぎるから、瑞希は苦笑いする。

「ま、確かにそうだよな」

 確かに「海に行こう」なんて言ってやってきて、見られたものがこれでは。

 これも『海』ではあるが、きらきら輝く青緑も、さらさらの砂浜もここにはない。

 海自体は夜の暗闇に沈んで真っ黒にしか見えないし、明るくなったとしても『澄んだ美しい水』なんて言えないだろう。

 浜辺だって。

 砂浜なんて些細なもの。

 裸足で歩けば怪我をするくらい、石や貝殻や、なにかよくわからないものが転がっている。

 お世辞にもキレー、とはまったく言えなかった。

 都会から少し離れた程度の場所にある海では仕方がないだろう。

 それでも海に変わりはない。

 玲望の声は不満げではなかった。

「ま、海に変わりはないよな。潮風は同じだし」

 玲望が、すぅ、と息を吸い込むのが聞こえてしまうくらい、静か。

 玲望が言った通り、鼻をくすぐる潮風は心地良かった。

 しょっぱくて、辛いようなものも混ざっていて、でも爽快な香りだ。
「そうだな。なんか懐かしいような気にもなるし」

 瑞希が言ったことには笑みが向けられたけれど。

 さっきの意趣返し、とでも言いたげなちょっと意地悪なものも混ざった笑みを。

「じじむさいなぁ」

「なんだよ!? 懐かしいに年齢もなにもあるか」

 小突き合いになりつつ、歩いていく。

 さくさく、という音もしない。

 強いて言うならざくざく、である。

 歩き心地も良くない。

 けれど潮風だけではなく、ひらけているからかとても爽快だった。

 夏の暑さもここまでとは比べ物にならない。

 海を渡る風が涼しいのだろう。

「で? すっきりしたのか」

 不意に玲望が口火を切った。

 コンビニで聞いてきたことだ。

 ちょっとどきりとしたけれど、瑞希はそっと手をこぶしの形に握った。

 確かにすっきりした。

 もんやり考えていたことが、形になったのだから。

 それをくれたのは、ここまで自転車で走ってきたからではない。

 道中、考えたからでもない。

 玲望が一緒に走ってくれたからだ。
「ああ。……玲望」

 瑞希は足を止める。

 数歩先を行っていた玲望がそれで振り返った。

 まったくさっきと同じ状況であった。

 ふわりと玲望の金髪が揺れた。

 さらさらの金髪。

 汗で湿っているかもしれないが、その美しさに違いはなかった。

 ふと、瑞希は懐かしいことを思い出した。

 もう二年半近く前のこと。

 玲望と裏庭で出会ったこと。

 そのときにはこれほど仲良くなれるなんて思いもしなかったし、恋人同士になれるなんてことは、もっと思いもしなかった。

 でも良かったと思うのだ。

 こういう関係になれて、仲が深まって。

 玲望と一緒に居ることで、日々を過ごすことで、たくさんのものをもらったから。

 だからそれを返す、ではないが。

 二人でもっと良いものにするために、ここに来た。

 玲望はなにか、重要なことを言われると悟ったのだろう。

 受け止めるという気持ちが浮かぶような、凪いだ顔で瑞希を見つめてくれた。

 悪いことではないとわかっている。

 そういう顔だ。

 そう信頼してくれることが嬉しくてならない。

「玲望。いつか俺と一緒に暮らしてほしい」

 ぎゅっとこぶしを握って、瑞希は言った。
 今までずっと思っていたこと。

 そうしたいと思っていたこと。

 けれど、あやふやすぎて、言えないでいたこと。

「……同棲する、ってことか」

 たっぷり三十秒は黙っただろう。

 玲望はそのあとでそう言った。

『一緒に暮らす』といったら、連想できるのはそれだろう。
 
 そうであるような、そうでないような。
 
 瑞希は頷くでも首を振るでもなく、ただ続けた。

「それはそうだ。でも単に一緒に暮らすだけじゃない。俺は玲望と生活を共にする……」

 ちょっと切れた。

 ためらったのではない。

 玲望にしっかり伝わるように。

 目をしっかりと見つめた。

 これも初めて会ったとき、とても綺麗だと思った、緑色の瞳。

 今は自分のことも見つめ返してくれている。

「パートナーになりたい」

 きっぱり言い切った。

 もうためらいも、口に出していいのかという迷いもないから。

 玲望の返事がどうあろうと、これは自分の願望で、玲望に考えてもらいたいこと。
 玲望はまた黙った。

 今度は三十秒よりもっと長く、一分にも近かったかもしれない。

 普段なら茶化していたかもしれない。

「プロポーズかよ」なんてふうに。

 でも今はそんなものはない。

 玲望はそんなやつではないから。

 瑞希の言葉を受け止めて、自分で考えて、返してくれる。

 きっとそのための一分間だった。

「いいぜ」

 返ってきた言葉は実に簡潔だった。

 おまけに受け入れてくれるもの。

 なんとなく、そう言ってくれるのではないかと思っていた。

 でも流石に瑞希はほっとしてしまう。

 こぶしからも力が抜けた。

「一緒に暮らす、かぁ。いいな、それ」

 玲望は瑞希から視線を外した。

 真っ暗な海を見る。

 海ではなく、その向こう、もっと遠くを見るように。

 玲望の言葉は示していた。

『誰かと一緒の家』。

 やはりどの程度かはわからないけれど、そうあったらいいなと思ってくれていたこと。

 そして勿論、瑞希がそう言ったことで、嬉しく感じてくれたことも。

「いつかはわからないけどな……大学と専門に入るときは無理だろうし……。でも、大学に入ったらバイトするし、それなら途中からでも住めるかもしれないだろ。遅くても、大学を出たら必ず……」
 つい勢い込んで、色々言ってしまった。

 それには玲望に笑われた。

 海から視線を離して、元通り、瑞希のほうを見てくれて。

「相変わらずせっかちだなぁ。急がねぇよ」

 笑われたけれど、そのあとの言葉は優しかった。

 その更にあとの言葉も。

「瑞希は約束を破るようなヤツじゃないからな」

 信頼の言葉。

 瑞希の胸が熱くなる。

 嬉しいと思うと同時に、もっと強いものも胸の中に生まれた。

「玲望」

 たまらず一歩、踏み出していた。

 玲望の肩に手を回して引き寄せ、胸に抱きしめる。

 ちょっとべたっとしていた。

 汗の香りもする。

 自転車で走ってきて、散々汗をかいたのだから当然だ。

 だが不快どころか、なんだか落ち着いてしまうような感触やにおいだった。

 確かにここに居てくれるという。

 それから、瑞希と一緒に走ってくれたという。

 その証だから。

「なんだよ」

 玲望は言って、身じろぎもしたけれど、瑞希にはわかる。

 気恥ずかしいのを誤魔化すのと、まぎらわすための言葉だ。

「約束する。絶対に叶えるって」

 玲望が信じてくれたこと。

 それに報いたい。

 自分がそうしたいというほかにも、玲望も望んでくれるのだから。
「……ああ。瑞希がそう言ってくれるなら、俺もやってみるよ」

 今度は気恥ずかしそうな声ではなかった。

 しっかりしていた。

 そっと瑞希の背中に手が触れる。

 玲望が軽くであるが、背中を抱いてくれた感触だ。

 やってみる、の意味は聞かずともわかった。

 瑞希だけが頑張るのではない。

 玲望もなにかしら……バイトなのか、家に話を通すことなのか。

 色々あるだろうが、それを『やって』みてくれるということだ。

 だって、パートナーになるのだ。

 どちらかだけが引っ張るものではないし、一緒に歩いていくものなのだ。

 ことりと玲望が瑞希の肩に顎を乗せた。

 心地良さげだというような仕草。

「汗臭いな」

 しかし言ってきたことはかわいらしくなかった。

 この話にはまったくふさわしくない。

 瑞希は脱力してしまう。

 確かに自分も汗のにおいは感じたけれど。

「帰ったら風呂りゃいいだろ」

「ま、違いない」

 言い合いって、そのあとは笑いになった。

 くすくすと小さな笑い。

 ずっと抱えていたいと思う。

 こんな話が、やりとりができる関係を、ずっと。