「ああ……ちょい待って。地図、見るわ」
言って、瑞希は自転車を道の端に寄るように進んで、止めた。
玲望もちょっと先に行ったものの、止まる。
するすると自転車を引いて瑞希のほうへやってきた。
「えーと……多分あとちょっとなんだよな。海側のほうに向かう道だから……あれ、北ってどっちだ」
瑞希が取り出したスマホ。
表示された地図。
GPSはちゃんと働いているようで現在地がぴこぴこ光っていたけれど、咄嗟にわからなかった。
玲望はそれに笑ってくる。
おかしい、という声音と声で。
「なんだ、地図も読めないのかよ」
「そういうわけじゃねぇ」
からかわれたも同然だったので、瑞希は憮然とした。
「ここ見りゃいいだろ、あ、設定わかりづらいじゃん。ちょっと貸せよ、見やすくするわ」
玲望は瑞希の手元を覗き込んで、地図の表示を見たらしく、ひょいっとスマホを取り上げてしまった。
瑞希はちょっと驚いたものの、されるがままになった。
玲望がわかるなら任せたほうがいい。
玲望は慣れているのか、ひょいひょいとあちこちに触れていって、どうやら設定を変えてくれているらしい。
その様子は何故か、楽しそうですらあった。
さっきまで文句ばっかりだったのに。
体も疲れているだろうに。
どうしたことだろう。
瑞希が内心、首をひねっている間に玲望はさっさと設定を終えたらしい。
瑞希に向かって差し出してくれた。
「ほい。これでかなりわかりやすくなったと思うぜ。ていうか、そんなら最初から言えよな。真逆に行ってたかもしれないだろ」
「さんきゅ。でもそれほど抜けてねぇわ」
「そっか?」
言い合いになったが、これはただのふざけ合い。
ほわりと瑞希の胸があたたかくなった。
「ほら! 道は右だな。行くぞ。朝になっちまう」
「流石に朝はねぇだろ」
玲望は再び自分の自転車を掴んで、またがった。
たっと地面を蹴る。
何故か走り方がさっきより爽快に見えてしまった。
なにも変わらないだろうに。
瑞希はよくわからなくなりつつ、同じように走り出したのだけど、すぐ思った。
道がはっきりしたことで、迷いや不安がなくなったのだろう。
それで目的地に向かって駆けていきたくなった……。
「おい、待てよ!」
ふっと微笑んでいた。
ペダルをさっきより強めに踏む。
ああ、そうだ。
いつだって俺が引っ張るばかりじゃない。
玲望に引っ張ってもらったり、助けてもらったり。
そういうことだって何度もあったし、きっとこれからもある。
速度をやや上げて漕ぎながら、瑞希は実感した。
そこから導き出されたもの。
瑞希の中から、形を取って浮き上がってきたもの。
それはつまり、玲望にあげたいと思ったものとは……。
「つ……着いた……あっちぃ……」
後半、どうも飛ばしすぎたようで、目的地に着いたとき、玲望はぜぇはぁしていた。
おまけに汗だく。
真夏に、いくら涼しめの夜の時間とはいえ、自転車で二時間も走ったのだ。
そりゃあ汗も大量にかくだろう。
どうにかこうにか、たどり着いた海。
零時はとっくに過ぎて、真夜中もいいところだったので真っ暗であった。
海沿いの駐車場に自転車を停めて、鍵をかける。
そうしてから柵のあるほうへ向かっていった。
駐車場は少し高いところにあって、端に柵があって、そこから海が一望できる。
近くにある階段を下りれば浜辺に行けるのである。
「やー、お疲れ」
ぽん、と肩を叩く。
玲望はじとっとした目で瑞希を見た。
まだ呼吸はちょっと荒い。
「お前なぁ、お前に付き合ってやったんだろう」
飛ばしたのは自分だというのに、玲望は恨めしそう。
瑞希はそれに、くくっと笑ってしまう。
「付き合って、海までチャリ飛ばしてくれたのはお前だろ」
瑞希のそれはからかいではなかったけれど、そういう意味がなくもない。
玲望は今度、眉を寄せた。
普段見せる、ちょっと不機嫌という顔になる。
「うるさいな。付き合わなきゃ一人で突っ走ってたかもしれねぇじゃん」
言い訳というように言われたけれど、それはちょっと違う。
瑞希はその不機嫌な顔に笑ってみせた。
「一人で行くかよ。お前と来たかったのに」
玲望は数秒、黙った。
ちょっと気障なことを言った自覚はある。
気恥ずかしい。
けれど言うべきところである。
本当にそうなのだから。
玲望と海が見たかった。
玲望に見せたいと思ったけれど、それだけでもない。
一緒に、見たかったのだから。
「そう」
それだけ答えた玲望の顔は、もう不機嫌ではなかった。
どちらかというと照れている、という表情にも近い。
「でもそれだって、お前、独りで行かせるもんかよ」
そんな表情をしつつも、ぼそりと玲望が言ったこと。
瑞希は目を丸くしてしまう。
玲望も同じ気持ちだったと言ってくれたようなものだ。
そんなことを言ってもらえようとは。
瑞希が驚いたのを見て、玲望は照れているような顔をしかめた。
照れ隠しにしか見えなかったけれど。
「ほら、せっかく来たんだろ。見に行こうぜ」
ぱっと玲望は瑞希からよそを向いて、すたすたと行ってしまう。
瑞希はその後ろ姿を数秒見ていたけれど、ふっと笑ってしまった。
玲望らしいことだ。
猫のよう。
気まぐれで、近付いたと思えばふぃっと去ってしまって、でも自分の傍に居てくれる。
「待てよ。暗いから階段、落っこちんなよ」
「馬鹿にすんな」
柵の切れ端にある階段。
一歩下りながら玲望は言ったけれど、それはもうまったくいつも通りのものになっていた。
「……超キレー! とか言いたかったんだが」
浜辺に下りて、さくさく歩きつつ、玲望は言った。
その内容は思い当たりすぎるから、瑞希は苦笑いする。
「ま、確かにそうだよな」
確かに「海に行こう」なんて言ってやってきて、見られたものがこれでは。
これも『海』ではあるが、きらきら輝く青緑も、さらさらの砂浜もここにはない。
海自体は夜の暗闇に沈んで真っ黒にしか見えないし、明るくなったとしても『澄んだ美しい水』なんて言えないだろう。
浜辺だって。
砂浜なんて些細なもの。
裸足で歩けば怪我をするくらい、石や貝殻や、なにかよくわからないものが転がっている。
お世辞にもキレー、とはまったく言えなかった。
都会から少し離れた程度の場所にある海では仕方がないだろう。
それでも海に変わりはない。
玲望の声は不満げではなかった。
「ま、海に変わりはないよな。潮風は同じだし」
玲望が、すぅ、と息を吸い込むのが聞こえてしまうくらい、静か。
玲望が言った通り、鼻をくすぐる潮風は心地良かった。
しょっぱくて、辛いようなものも混ざっていて、でも爽快な香りだ。
「そうだな。なんか懐かしいような気にもなるし」
瑞希が言ったことには笑みが向けられたけれど。
さっきの意趣返し、とでも言いたげなちょっと意地悪なものも混ざった笑みを。
「じじむさいなぁ」
「なんだよ!? 懐かしいに年齢もなにもあるか」
小突き合いになりつつ、歩いていく。
さくさく、という音もしない。
強いて言うならざくざく、である。
歩き心地も良くない。
けれど潮風だけではなく、ひらけているからかとても爽快だった。
夏の暑さもここまでとは比べ物にならない。
海を渡る風が涼しいのだろう。
「で? すっきりしたのか」
不意に玲望が口火を切った。
コンビニで聞いてきたことだ。
ちょっとどきりとしたけれど、瑞希はそっと手をこぶしの形に握った。
確かにすっきりした。
もんやり考えていたことが、形になったのだから。
それをくれたのは、ここまで自転車で走ってきたからではない。
道中、考えたからでもない。
玲望が一緒に走ってくれたからだ。
「ああ。……玲望」
瑞希は足を止める。
数歩先を行っていた玲望がそれで振り返った。
まったくさっきと同じ状況であった。
ふわりと玲望の金髪が揺れた。
さらさらの金髪。
汗で湿っているかもしれないが、その美しさに違いはなかった。
ふと、瑞希は懐かしいことを思い出した。
もう二年半近く前のこと。
玲望と裏庭で出会ったこと。
そのときにはこれほど仲良くなれるなんて思いもしなかったし、恋人同士になれるなんてことは、もっと思いもしなかった。
でも良かったと思うのだ。
こういう関係になれて、仲が深まって。
玲望と一緒に居ることで、日々を過ごすことで、たくさんのものをもらったから。
だからそれを返す、ではないが。
二人でもっと良いものにするために、ここに来た。
玲望はなにか、重要なことを言われると悟ったのだろう。
受け止めるという気持ちが浮かぶような、凪いだ顔で瑞希を見つめてくれた。
悪いことではないとわかっている。
そういう顔だ。
そう信頼してくれることが嬉しくてならない。
「玲望。いつか俺と一緒に暮らしてほしい」
ぎゅっとこぶしを握って、瑞希は言った。
今までずっと思っていたこと。
そうしたいと思っていたこと。
けれど、あやふやすぎて、言えないでいたこと。
「……同棲する、ってことか」
たっぷり三十秒は黙っただろう。
玲望はそのあとでそう言った。
『一緒に暮らす』といったら、連想できるのはそれだろう。
そうであるような、そうでないような。
瑞希は頷くでも首を振るでもなく、ただ続けた。
「それはそうだ。でも単に一緒に暮らすだけじゃない。俺は玲望と生活を共にする……」
ちょっと切れた。
ためらったのではない。
玲望にしっかり伝わるように。
目をしっかりと見つめた。
これも初めて会ったとき、とても綺麗だと思った、緑色の瞳。
今は自分のことも見つめ返してくれている。
「パートナーになりたい」
きっぱり言い切った。
もうためらいも、口に出していいのかという迷いもないから。
玲望の返事がどうあろうと、これは自分の願望で、玲望に考えてもらいたいこと。
玲望はまた黙った。
今度は三十秒よりもっと長く、一分にも近かったかもしれない。
普段なら茶化していたかもしれない。
「プロポーズかよ」なんてふうに。
でも今はそんなものはない。
玲望はそんなやつではないから。
瑞希の言葉を受け止めて、自分で考えて、返してくれる。
きっとそのための一分間だった。
「いいぜ」
返ってきた言葉は実に簡潔だった。
おまけに受け入れてくれるもの。
なんとなく、そう言ってくれるのではないかと思っていた。
でも流石に瑞希はほっとしてしまう。
こぶしからも力が抜けた。
「一緒に暮らす、かぁ。いいな、それ」
玲望は瑞希から視線を外した。
真っ暗な海を見る。
海ではなく、その向こう、もっと遠くを見るように。
玲望の言葉は示していた。
『誰かと一緒の家』。
やはりどの程度かはわからないけれど、そうあったらいいなと思ってくれていたこと。
そして勿論、瑞希がそう言ったことで、嬉しく感じてくれたことも。
「いつかはわからないけどな……大学と専門に入るときは無理だろうし……。でも、大学に入ったらバイトするし、それなら途中からでも住めるかもしれないだろ。遅くても、大学を出たら必ず……」