目的の本屋に着き、海崎は文房具を見て回る。欲しかったシャーペンの替え芯を手にしたあと、今度は色ペンを物色する。
「やっぱり青かな……」
海崎はオレンジ色と青色のペンを見比べる。海崎はペンケースの中身は最低限にすると決めているから、何色もペンは使わない。どちらかひとつにしたい。
「オレンジとか普通に見やすくない?」
隣にいる伊野がオレンジのペンを指差す。たしかにオレンジはハッキリした色で見やすいのはわかる。
「でも俺、海崎晴真だし」
「え?」
「なんか、イメージ青って気がしない?」
昔から密かに思っている。海だし、晴れだし、なんとなく青色が自分のイメージカラーだ。
「ふは。まさかそうくるとは思わなかった……」
伊野は口元を覆っているが、指の隙間からニヤニヤしているのがバレバレだ。
伊野の言いたいことはわかる。
「名前で決めるなんて子どもっぽいって言いたいんだろ?」
海崎はジト目で伊野を見る。伊野は正直すぎてすぐに顔と態度に現れるのがよくない。
「いや、そんなことないないっ。ちょっとツボっただけ……」
伊野は必死で笑いを堪えている。
「なんだよ」
「大丈夫、なんでもない」
まったく伊野は困った奴だ。さっき伊野は海崎に「よく笑うよな」みたいな類いの言葉を投げてきたが、よく笑うのは伊野だ。
「伊野は?」
「え?」
「伊野は下の名前、何?」
そういえば伊野の下の名前を知らない。みんな伊野のことを苗字で呼ぶから気がつかなかった。
「……それ聞くか」
伊野から波が引くように笑顔が消えた。この話題は地雷案件だったのだろうか。
「ま、すぐにバレるし。礼里だよ。お礼の礼に里」
「礼里……」
「女に間違えられるのが、地味にコンプレックス」
伊野の表情が曇っていく。たしかに『れいり』という響きは女性っぽいかもしれない。
「でもさ、いい名前だよ。守礼門の礼に、首里城の里とか? 俺はすごく好きだけどな」
本当にいい名前だと思った。きっと伊野の両親は、たくさんの願いを込めてこの名前を息子に授けたのだと思う。
「よくわかったな! そうなんだよ、実はそっからきてる」
伊野は驚き、目を瞬かせている。
「伊野らしいよ。明るくて、なんかみんなの中心って感じで」
生まれながら、たくさんの人に囲まれて愛されてきたんだろうなと伊野を見ていると思う。いつの過去も人間関係に四苦八苦してきた海崎とは大違いだ。
「……まぁ、燃えたけどね」
寂しげなトーンで伊野が呟く。あれは衝撃的で心が痛くなる事故だった。
テンションが下がった伊野を励ましたくて、海崎は明るい声で言う。
「人の細胞だって四年で骨まですべて入れ替わるんだ。でも、その人はその人で在り続ける。そこに魂がある限り、何度生まれ変わっても信仰は変わらないよ。だからやっぱりいい名前だ」
海崎は伊野に微笑みかける。伊野も笑顔になってくれるかと思ったのに、そうではなかった。
伊野は完全に固まっている。
「……伊野?」
海崎が伊野の顔を覗き込むと「あぁ、ごめん」と伊野が戻ってきた。
「海崎すげぇ。俺、今、めっちゃ感動した」
伊野は本当に感動したようで、若干、目を潤ませながら海崎に気持ちを訴えてきた。
「そ、そう?」
褒められてちょっと照れくさくて、海崎は髪をいじりながら密かにニマニマする。なぜだろう。伊野に言われると余計に嬉しい。
「つうわけで、海崎は青だな」
伊野は海崎の手からオレンジのペンを奪い取った。
「俺はオレンジ」
「えっ? 伊野も買うのっ?」
伊野はただの付き添いのはずだ。見ていたら急にペンが欲しくなったのだろうか。
「ああ、買う。海崎とお揃いのペン、色違いで欲しくなった」
「マジでっ?」
「海崎は晴真だから青。俺は守礼門と首里城の朱色……は無いからオレンジにする。それがイメージカラーだから」
伊野は白い歯を見せて笑う。
コンプレックスだと言っていたのに、名前由来の色を選ぶなんて、もしかしたら伊野は自分の名前を少しだけ好きになってくれたのかもしれない。
「あとさ、ノートも見ていい?」
伊野は海崎の返事なんて待たずに、さっさとノート売り場へ向かっていく。せっかちだなと思いつつ、海崎には伊野の希望をダメなんて言うつもりはない。
伊野の背中を追いながら、海崎は青いペンをしっかりと握りしめていた。
本屋をひととおり巡ったあと、伊野に誘われ、かき氷専門店に寄る。店は十席ほどしかない小ぢんまりとしたプレハブ小屋だ。それでも外装もポップで可愛らしく、店内も清潔で明るくて、飾ってあるウミガメの本や絵ハガキなど、小物ひとつひとつに店主のこだわりを感じる店だ。
なにより店に流れているBGMのセンスがいい。海崎の好きな曲ばかりだ。
「ここのかき氷デカいから、ふたりで一個でいい? シェアOKの店なんだ」
「え?」
カウンターで注文する前に伊野に言われてハッとする。
他の客が食べているかき氷の大きさを見ると、たしかにひとりでひとつ食べるには、かなりボリュームがある。値段だって安くない。でも伊野とひとつのかき氷をシェアして食べるということは、当然のように間接キスになるわけで……いや男同士気にすることじゃないのかもしれない、でも、でもそんなことを、さも当たり前のように言われても……。
「……海崎?」
「えっ? あ! うん、いいよっ」
勢いで頷いてしまったが、実はめちゃくちゃ落ち着かない。でもそんなことを気にするほうが意識しているみたいで恥ずかしいから、海崎はなんでもないことのように装う。
「何味がいい? 俺、全部いけるから海崎の好きなのにしろよ」
伊野にカウンターのメニューを見せられる。イチゴにマンゴー、メロンにフルーツミックス、抹茶小豆などなど全部で八種類もあって、どれもおいしそうだ。
「伊野のおすすめは?」
海崎は好き嫌いは特にないから、伊野の好きなものを選びたい。なんとか伊野の好みを聞き出したくて探りを入れる。
「言わない」
伊野は意見はしないと言わんばかりに口を固く結ぶ。
海崎の作戦が伊野にバレている。伊野はどうやっても海崎に選ばせるつもりのようだ。
でも海崎は伊野の仕草を見逃さなかった。伊野の視線は、海崎にメニューを選ばせていたときからイチゴかき氷にいきがちだったし、おすすめを聞いたとき、無意識なのだろうが伊野の手が一瞬そちらの方向へ動いた。それに以前、学校で伊野が女子と話をしていたときもイチゴかき氷の話をしていた。多分これだ。
「やっぱりイチゴかな。これがいい」
「いいね。そうしよう。すみません、イチゴかき氷ひとつ。スプーン二個で」
伊野が注文すると、茶髪の若い女性店員が「はーい」と愛想よく答える。
千円のかき氷を割り勘で支払いして、席で待っていると程なくしてふたりの目の前に大きなイチゴのかき氷が置かれた。
「うわぁ」
左右にスプーンが添えてあり、透明なガラスの器からこぼれ落ちそうなくらいのかき氷だ。果実感のあるイチゴソースがたっぷりとかけられている上に、生イチゴと緑の葉っぱ形のチョコレートもトッピングされていて見映えもすごくいい。
でも伊野の顔が隠れるくらい、めちゃくちゃ大きいから、ふたりでシェアして食べるくらいで丁度いい量だと思う。
「はい。海崎」
写真を撮ったあと、伊野がかき氷のてっぺんにあったイチゴをスプーンで掬って海崎に向けてきた。
「俺が食べていいのっ?」
「もちろん。ほら、口開けろ」
伊野がぐいぐいイチゴを海崎の口元に押しつけようとする。
これはもしかして、伊野にこのまま食べさせられるシチュエーションなのだろうか。
「遠慮すんなって。はい。あーんして」
こんな距離感で人と接したことなんてない。
どうしよう。また心臓がうるさくなる。
伊野の友達への距離感はレベルが高すぎる。
伊野の感覚では、友達とこのくらい仲良くするのは当たり前のことなのだろう。でも人慣れしていない海崎はどうしても緊張してしまう。
「海崎、コアラとカンガルーがいる、南半球にある国は?」
「え? オーストラリア……ぅぐっ!」
反射的に答えた直後、伊野が海崎の口にスプーンを突っ込んできた。
やられた。これは伊野の作戦だ。単純なクイズに答えさせて、口を開けさせようとする、ずるい戦法だ。
「うまい?」
伊野はスプーンを引いたあと、満足そうな笑顔で海崎を眺めている。
もぐもぐすると、冷たくて甘酸っぱいイチゴが口の中に広がる。喉も渇いていたし、イチゴのジューシー感と冷たいかき氷がさっぱりして、とてもおいしい。
「うん、すごくうまい……」
これは伊野からもらった特別なひと口だ。孤独な部屋でひとりで食べるイチゴとは違う、格別の味がした。
「よかった。じゃ、俺もいただきます!」
伊野はさっき海崎に食べさせたスプーンで、何も気にする様子もなくかき氷を食べ始めた。
「やっぱかき氷はイチゴだな。海崎いいの選んだよ」
伊野は満足そうにパクパク食べている。イチゴ味は伊野の好みみたいだ。夢中になって食べる姿を見て、可愛らしいなと思った。
伊野のことが羨ましい。嫌なものは嫌と言い、好きなものを隠すこともない。こんなに自分の気持ちを表に出して生きられたらいいなと思う。
海崎はいつも考えすぎてしまう。どうすればいいのかわからず、結果的に無反応になってしまい、大人しい奴、何考えてるのかわからない奴だと言われてしまう。
「くっ……! アハハッ!」
伊野が海崎を見て、堪えきれない様子で笑い出した。何がおかしいのか、海崎にはまったくわからない。
「どうしたの……?」
「海崎お前、またぼんやりしてる」
目に涙が浮かぶくらい笑っている伊野は、目尻を手で拭いながら微笑みかけてきた。
しまった、と思う。せっかくふたりで遊んでいるのに、相手がぼーっとしていて無反応だったら一緒にいてつまらないだろう。でも海崎には場の盛り上げ方がわからない。こんなときに気の利いた会話なんて何も浮かばない。
「何? 俺がガツガツ食ってるから気楽そうでいいなって思った?」
「え!」
海崎は慌てて首を横に振る。伊野のことを羨ましいと思っていただけで、決してそれは気楽そうだとか伊野を下に見たんじゃない。
「海崎と一緒にいてわかった。よくぼんやりしてるなって思ってたけど、実はお前の頭の中は大変なことになってんだな」
伊野に言われてハッとした。いつもは、何も言わない大人しい奴だと片付けられて、隅に追いやられるだけなのに、伊野は海崎の心の葛藤をわかってくれた。
「いつか俺に聞かせて。お前の心の中の気持ち」
伊野は澄んだ瞳で海崎を見つめている。
不思議だ。伊野から目が離せない。
伊野の言葉が頭の中で何度も反芻する。
この気持ちはなんだ。伊野は見惚れるくらいにかっこいい顔をしているから、そのせいだろうか。
「あーやばい! そっち溶けてる! ほら、海崎早く食え!」
かき氷が崩れそうになって、伊野が慌ててスプーンで押さえた。
「早く! 俺が押さえてるうちに!」
「う、うんっ」
海崎は崩れる寸前のかき氷を掬って口に運ぶ。急いで何口か食べると、やっとかき氷崩壊の危機から逃れることができた。
「ナイス海崎」
伊野は親指を立てて海崎にサムズアップする。
それからふたりで学校の話をしながら、かき氷を食べた。
「おいしい。本当においしいよ」
氷も鼻にキーンとこないし、シロップも本物のイチゴの味がする。いわゆる高級かき氷は一度も食べたことがなかったから、新鮮な味だった。
「さすが伊野のおすすめだ。こんなおいしいの食べたことないよ」
海崎の言葉に「大袈裟だな」と言って伊野は笑った。
でも、伊野とつつき合って食べるかき氷は、お世辞じゃなく本当においしかった。
「ここだよ」
かき氷屋を出て、伊野に連れて来られたのは、アクアリウムショップだった。
エアレーションのモーター音が聞こえる店内には所狭しと水槽が並んでいる。観賞魚飼育のための商品もたくさん陳列されていて、店内はごちゃごちゃとした雰囲気だ。
たくさんの水槽に、色とりどりの魚たちが泳いでいる。瑠璃色のスズメダイや、黄色いチョウチョウウオ。立派な尻びれと尾びれを持つベタは、一匹ずつ管理され、赤に青にと目に鮮やかだ。
「ほら、ここにニモがいる」
伊野が指さしたのはオレンジの個体に白い線が三本ある、小さなカクレクマノミだ。
「本当だ。可愛い」
魚がゆったりと泳いでいる姿をみるだけで癒される。水中で揺れるイソギンチャクや海藻も目の保養になる。
「ここが俺のとっておきの場所」
あちこちの水槽を眺めていると、伊野が隣から同じ水槽を覗いてきた。
「伊野のとっておきは、いい場所だね」
ここは居心地がいい。
聞けばここの店長は伊野の叔父らしい。だから伊野は店長とも親し気に話をしていたし、店長は伊野と海崎のふたりにひとつずつアメをくれた。
「エサやり見てく?」
店長が水槽の上から魚のエサを撒いた。すると魚たちが一斉にエサに群がった。悠々と泳いでいた魚たちがアグレッシブに動くさまは圧巻だ。
その様子を微笑ましいなと眺めていたときに、海崎はある一匹の魚に気がついた。
黒色の小さな個体だった。スズメダイの一種のようだが名前はわからない。その黒色の魚は皆がエサを食べているのに、岩の陰に隠れたまま動かない。エサを食べようとしないのだ。
「あー、魚には縄張りがあるからね」
店長は海崎の視線に気がついて、水槽内にボス魚がいると小さい個体をいじめることがあるというような趣旨の説明をしてくれた。
「そうなんですね……」
外からぼんやり水槽を眺めているだけでは気がつかなかった。でも、魚の中にも優劣の社会が形成されていて、集団に入れず、孤立している個体がいることを知った。
このアクアリウムショップには、カクレクマノミのように有名な魚もいれば、美しい色の魚も目移りするくらいにたくさんいる。だがもっとも海崎の心に残ったのは、他の魚につつかれて岩陰に逃げてばかりの、名も知らぬ黒くて地味な魚だった。
アクアリウムショップからの帰り道、寮までの近道だからと広い公園を抜けていく。
「伊野は魚好きなの?」
伊野のとっておきの場所は、意外なところだった。伊野はもっと活発なイメージで、のんびり魚を眺める趣味があったとは思わなかった。
「ああ。実は子どものころ、魚マニアだったんだ。水族館とか、海が好きでさ。魚釣りもよく連れてってもらったよ」
「伊野が、魚マニアっ?」
「そうだよ。意外に魚に詳しい……かもしれない。魚の名前ならまぁまぁわかるよ」
「そうなんだ。面白いな伊野は」
話を聞いていると、小さいころの伊野はしょっちゅう海で遊んでいたそうだ。魚研究者みたいなのはピンとこないが、外で駆け回る幼い伊野の姿は、容易に想像できる。
「東京とこっちじゃ、子どものころの遊び方も違うんだろうな」
「そうかもね……」
海崎には東京の子の遊び方もよくわからない。友達はあまりいなかったし、途中から進学塾に通い始めたからだ。
伊野とふたりで遊歩道を歩いているとき、夕焼けが伊野の横顔を橙色に照らした。それがやけに綺麗で見惚れていたら、伊野が海崎の視線に気がつき微笑みかけてきた。
「あー、夕焼け? 本当だ。マジで綺麗だな」
伊野は手のひらを目の上にかざし、目を細め、眩しそうに夕焼けを眺めている。
遠くを見つめている伊野の姿も凛々しくて好きだ。
「綺麗だね」
海崎は相変わらず、ありきたりなつまらない返ししかできないのに、伊野は「なんかいいな、こういう時間」と隣にいてくれる。
不思議だ。
人と一緒にいるのは得意なほうじゃないのに、伊野といるのはまったく苦にならない。
むしろ、心地よく感じるくらいだ。
こんなにたくさんの時間を誰かと過ごしたら、i気疲れしてしまうはずだ。それなのに、この穏やかな時間がもっと続けばいいのにと海崎は望んでいる。
そんなふうに、ふたり静かに歩いていたときだ。
完全に油断していた伊野のもとに、突然サッカーボールが飛んできた。
「アガッ!」
あっと海崎が思った瞬間、サッカーボールは伊野の右頬に命中した。伊野は痛そうに顔面を手で覆う。
「すみません!」
「ごめんなさい!」
小学生くらいのサッカー少年たちがすぐさま謝りにやってくると、伊野は「お前ら見てろよ!」とボールを蹴り出した。
それも見事なドリブルだ。サッカー少年たちが伊野のボールを狙ってきても、伊野は見事なディフェンスでそれをかわした。
いつの間にか、伊野は子どもたちのプレーに混ざって遊んでいる。ほんの一分ほど遊んだあと、最後に少年にボールを取らせてバイバイだ。
「お兄さんうまいね!」
「またね!」
伊野は少年たちに「おぅ!」と返事をしてから海崎のところに戻ってきた。
伊野はすごい。ボールをぶつけられたのに怒りもせず、あっという間に人に溶け込む力を持っている。あれも本人は無自覚なんだろうか。
「弟がサッカーやっててさ。俺も昔ちょっとやってたから、ついボール見ると蹴りたくなる」
そう言って笑う伊野の顔をよく見ると、頬に切り傷のようなものがある。さっきのボールで怪我をしたのだ。
「伊野、血が出てるよ!」
「えっ? マジ?」
「動かないで」
海崎はポケットからサッとティッシュを取り出し伊野の患部から血がこぼれないように抑える。
「絆創膏持ってる。ティッシュ持ってて」
伊野に傷口を押さえてもらっているあいだに、リュックを下ろして中からポーチを取り出す。ガーゼとメッシュ状の医療用パッドがひとつになっている大きめのものがあったから、それを選んだ。
「ごめんね、白くて目立つし大きいけど。寮に戻ったらちゃんと手当てしよう」
海崎は伊野の傷口に白いパッドを貼る。せっかくの男前が台無しだが、これでとりあえず顔が血だらけになるのは防げるはずだ。
「ありがと……」
「早く帰ろう、部屋に傷薬がある。すごくよく効くんだよ。痕が残ったら大変だ。綺麗に治さないと!」
「別にいいって。かすり傷だし」
「ダメだよ、それは俺が許さない、伊野はかっこいいんだから。綺麗に治るまで毎日手当てしてやる」
伊野と同じ部屋にいるからこそできる。毎晩、寝る前に薬を塗ってやる。傷痕が残らないよう、綺麗さっぱり治してやりたい。
「それ、本気で言ってる……?」
「え……?」
そんなの冗談なわけないだろと言い返してやろうと伊野を振り返ってドキッとした。
伊野はやけに真剣な顔をしていた。
「あんまりそういうこと言うと、俺、本気にするけど」
神妙な顔つきで、伊野は何を言っているのだろう。
「う、うん、いいよ。毎晩手当てするよ」
そのくらい、大したことじゃない。本気かどうか確認するようなことじゃないのに。
「……悪ィ。なんでもないっ。ありがとな海崎っ」
伊野はいつもどおりの伊野に戻って、「あー腹減った! 今日の寮メシ何かなーっ!」と言い出した。
「今日は何だったかな。……あ。アジフライだ」
伊野がよく尋ねてくるから、海崎はなんとなく献立をチェックするようになり、自然と覚えてしまっている。
「いいね。うまそう」
笑顔を返してくる伊野はやっぱりいつもどおりだ。
さっきの伊野はなんだったのだろう。海崎にドキッとするような視線を向けてきた。その伊野の真意がわからない。
「てかさ、こんな絆創膏持ってんの、やばくない? お母感が半端ない」
「お、お母っ?」
「普通持ってない」
「だって、俺なんかよくいろんなところにぶつかるから。ぼーっとしてて……」
その何かにぶつかる頻度が自分でも呆れるくらい多いのだ。
「ひどいと普通に歩いてて、真正面から電信柱に激突したことがある」
「アハハッ、マジかよ」
「しょうがないだろ、ぶつかりたくてぶつかってるんじゃないんだから」
「ほんっとお前って、いいわー」
何がいいのかわからないが、伊野は「癒し系、癒し系」と慰めにもならないことを言ってくる。
「そう言う俺も、ダッシュしてて、角で先生にぶつかったことがある。マジでマンガみたいなの。角を曲がろうとしたら先生が前から歩いてきてさ——」
伊野との会話は尽きない。
こんなに簡単に人と会話ができるなんて、知らなかった。伊野はいつも海崎を笑顔にしてくれる。
「あ、海崎。前から言おうと思ってたんだけどさ。明日から昼メシ、俺らと一緒に食わない? ひとりで勉強しながら食いたいときはそれでもいいからさ。俺が海崎の話をしたら、みんなも海崎と話してみたいって言ってたよ」
「いいの?」
学校での昼はいつもひとりだった。ひとりでぼんやりしてるのもアレだから宿題を片付けながら食べていただけで、好き好んでひとりでいたわけじゃない。
「うん。気のいい奴らばっかだし、来いよ」
集団に飛び込むのは怖いが、そこに伊野がいると思うと安心する。伊野がいるならきっと大丈夫だ。
「ありがとう、伊野。声かけてくれて」
「はい、こちらこそ」
傷の手当てをした白いパッドが付いていても、伊野の笑顔は変わらずかっこいい。
やばい。
伊野の隣の居心地のよさに甘えてしまいそうだ。
いつも人との関わりは怖くて、面倒なものだと思っていた。
友達を作らなくちゃ。嫌われないように頑張らなくちゃと気を張って、疲れるばかりだった。
でも伊野は違う。
誰かと一緒にいたいと思ったのは、海崎にとって初めての感情だった。
「海崎、当番代わってくれてありがとな」
寮の談話室のソファーでくつろいでいたときに、寮長の宮城から声をかけられた。
「いえ、大丈夫です。また何かあったら言ってください」
「ありがと、助かるよ」
海崎は寮の掃除などの当番を時々宮城から任される。部活の都合や体調不良などで宮城が決めた当番どおりにいかないことがあるのだ。
掃除は嫌いじゃないし、家事は小学生のころからこなしてきた。寮の誰かがやらねばならない仕事だし、頼まれたら嫌がらずに引き受けたいと思っている。早く寮での生活に馴染んでいきたいし、地味な自分にはそのくらいしかできることはないと思うからだ。
「海崎すごいよな、この前の中間テスト! いきなり学年トップテン入りだろ?」
海崎が談話室で一緒に話をしているのは、なかむーこと中村だ。中村は海崎が学年二百三十八人中、八位だったことを知って、「転校してきたばかりでバケモノか!」とツッコミを入れてきた。以来、中村との距離が縮まった気がする。
東京にいたときは落ちこぼれだったのに、ここでは賢い奴認定されている。そのことに少しだけ複雑な気持ちだ。
「期末のときは勉強教えろよ、お前の部屋に押しかけるからなっ」
「いいよ、一緒にやろう」
中村は気さくでいい奴だ。類は友を呼ぶというから、伊野の友達はいい奴ばかりなのかもしれないなと海崎は思っている。
伊野のおかげで交友関係が広がった。寮でも学校でも話せる友達が増えて、日々が楽しくなった。
中村と話しているのに、さっきから海崎のスマホが鳴りっぱなしだ。さすがに気になって視線をやると、全部、伊野からのメッセージだった。
伊野は本当に毎日メッセージを送ってくる。メッセージをもらえるのは嬉しいが、伊野は忙しいはずなのにどうしてこんなにメッセージを送ってくるんだろうといつも疑問に思っている。
「また伊野だ。しょっちゅう伊野からメッセージが来る。伊野ってマメだよね」
海崎は中村に同意してほしくて言ったのに、「そうかな、普通じゃない?」と返されてしまった。
海崎にとって伊野のメッセージは頻繁に思えたが、友達付き合いのうまい人たちにとってはこのくらい普通の頻度なのかもしれない。
「だって学校でも会うし、寮でも話せるんだからメッセージ送るほどでもないじゃん?」
「だよねぇ……」
不思議だ。あとで言おうとすると忘れてしまうから、メッセージを送ってくるのだろうか。
「伊野といえばさ、明日あいつがどうするか見ものだぜ?」
「明日?」
「明日男子は家庭科があるだろ? うちの学校で恒例の調理実習なんだよ」
この学校では、体育や家庭科などの科目は男女別々で二クラス合同で行っている。明日、海崎のクラスは、男子は家庭科で、女子は体育だ。
「調理実習でクッキー作るじゃん? それを好きな人にあげるってのが、恒例なんだよ」
「えっ! 知らなかった……」
「伊野はモテるからさ、女子がソワソワしてんの。俺もあいつが誰にあげるかめっちゃ気になる」
「うん。気になるね……」
そういえば伊野に好きな人がいるのか聞いたことがない。彼女はいないっぽいのだけは、なんとなく周囲の雰囲気で感じとった。
「伊野が好きになる人ってどんな人なんだろう……」
あんまり伊野と恋愛話をしたことがなかったことに気がついた。でも、好みくらいは聞いてみたいな、と思った。
「あ。ちょうど伊野が来た」
中村が廊下を通りかかった伊野に気がついて伊野を呼ぶ。
「伊野ー! 海崎がお前の好みのタイプ聞きたいってよ!」
「えっ、ちょっ、待っ……!」
中村にデカい声で言われて海崎は慌てる。そんなことを言われたら、伊野のことを気にし過ぎているみたいで恥ずかしい。
「え? 海崎が?」
無視してくれればいいのに、伊野は近寄ってきて「なんでそんなん知りたいの」と笑う。
「た、ただの興味だよ」
「へぇ。じゃあさ、俺も教えるから、海崎も言えよ、好みのタイプ」
「えっ」
そんなことを言う心の準備はできていないのに、伊野は「俺はねぇ……」とさっさと話を始めてしまっている。
でも知りたい。伊野の好みのタイプを。
「俺はね。そうだな……優しい人がいいな。言葉とか態度もそうなんだけど、考え方って言うか、根が優しい人がいい」
「ハイ出た、優しい人ね!」
中村がすかさずツッコミを入れる。
「あとは色白で肌が綺麗な人。目が可愛い子」
「あー、いいね」
「そういう子見ると抱きしめたくなる」
伊野は海崎に視線を向けてきた。全然関係ないのに、寮室で伊野に抱きしめられたときのことを思い出した。そのせいで、あのときのドキドキが戻ってきたみたいに胸が高鳴る。
「海崎は?」
「へっ? な、何っ?」
伊野に名前を呼ばれて海崎はハッと意識を取り戻す。
「またぼんやりしてんの? 海崎らしいな」
案の定、伊野に笑われる。伊野からすると、海崎はすっかりいつもぼんやりしてるキャラらしい。
「ほら次、海崎の好みのタイプ、教えてよ」
「えっ? 俺のっ?」
「そうだよ。知りたい。全然わかんねぇんだもん」
どうしよう。恋愛とは無縁過ぎて、自分の好みのタイプなんて考えたこともない。
「い、一緒にいて楽な人かな……」
海崎にとって人間関係を構築するのは難しく、その最たるものが恋人を作ることなんじゃないだろうかと思う。一緒にいてガチガチに緊張してしまう相手は無理だろう。そんなの疲れるだけだ。
そうじゃなくて、出来損ないの自分をありのまま認めてくれるような人がいい。例えるなら伊野のような——。
「あー、なる! 海崎は癒し系女子ね!」
中村が「俺も好きだな、癒し系女子」と相槌を打ってきた。
「海崎は誰にあげるの? 明日」
「え……」
中村に聞かれて気がついた。明日、海崎も調理実習をする。ということは誰かに手作りクッキーをあげる立場だ。
「調理実習のクッキーをあげると両想いになれるってジンクスがある。海崎は誰にあげんのかなぁ。気になるなー」
「な、なんだよ」
中村の追及するような視線に海崎はたじろぐ。
「やっぱ上原?」
「え! 違うっ、なんでその名前出すんだよっ」
海崎は慌てて中村の口を塞ぐ。談話室には他の生徒もいる。間違って聞かれたら大変なことになる。
上原と同じ委員をやるようになってから、なぜか学校で「あのふたりはいい感じ」と噂をされるようになってしまった。事実無根なのに噂ばかり広がってしまい、海崎は本当に参っている。
「そういえば上原って癒し系女子だな」
「やめろって!」
これは義理でも上原にクッキーをあげちゃダメなやつだ。でも聞いておいてよかった。知らずにあげたら大問題になるところだった。
「なかむーは? 好みのタイプはっ?」
「教えなーい」
「ずるいぞ、明日誰にあげるんだよっ」
「知らねぇ」
「おいっ! 人に話させといてそれはないだろ」
恋愛の話なんて恥ずかしいのに、中村だけ話さないのはずるい。海崎が食ってかかると中村はソファーから立ち上がって逃げた。
「あっ、こらっ。伊野も……っ」
伊野にも加勢してもらおうと思って振り返ると、伊野はなぜか「捕まえたっ」と海崎の身体を両腕でホールドしてきた。
「えっ? なんでっ?」
どう考えてもおかしい。伊野に捕まえてほしいのは、逃げた中村なのに。
「なかむーは、いいんだって」
「はぁっ? なんでだよ、とにかく離せって」
全然納得がいかない。海崎は伊野の腕から逃れようとジタバタする。
「だーめ。海崎は俺が捕まえた」
伊野は全然離してくれない。そのあいだに中村は「サンキュー伊野」と言って逃げてしまった。
「もう! 伊野のせいでなかむーに逃げられたじゃないか!」
伊野の胸板をバシッと叩く。伊野は「ごめんごめん」と言って、やっと解放してくれた。
伊野をポカポカ叩いてやろうかと思っていたとき、伊野が海崎の耳朶に唇を寄せてくる。
「海崎」
耳元で名前を囁かれる。伊野の声はすごく好きだ。爽やかで、発音がクリアで、優しくて男らしくて、その全部の要素が好みだ。
「許せ。明日教えてやるから」
伊野はそう囁いたあと、「今日は早く寝よ」と両腕を上げて身体を伸ばしながら談話室を出て行った。
一方の海崎は、まだ気持ちが落ち着かない。
こうやって時々、伊野に抱きしめられることには慣れてきたはずだった。あの声で名前を呼ばれることもよくあることだ。
『海崎は俺が捕まえた』
さっきの伊野の言葉は、じゃれあってるときの言葉で、伊野にとっては何の意味もないだろう。でも言われた瞬間、胸が躍った。伊野がずっとそばにいてくれるような気持ちになったからだ。
なんで、こんな気持ちになるのだろう。
自分で自分のことがわからない。伊野に近づかれるたびに感じる、この胸の高鳴りはなんなのだろう。友情、思いやり、優越感。どんな言葉を思い浮かべても、しっくりこない。
結果的に話がなぁなぁになってしまったので、聞きそびれてしまったが、明日、伊野はどうするのだろう。
伊野は学校で大人気だ。きっと明日、伊野の手作りクッキーを女子たちが虎視眈々と狙っているに違いない。
そんな伊野の心を射止めて、クッキーをもらえる女子が羨ましいと思ったのは、きっと何かの間違いだ。
次の日、調理実習を終えたあとのみんなのソワソワ感はすごかった。
すでに公認のカップルならいい。みんなの前で堂々と彼氏が彼女にクッキーを手渡して、すごくいい雰囲気だ。
でもそれ以外の生徒たちは落ち着かない。誰が誰にあげるのかとお互い様子を伺っている感じだ。
「俺は誰にもあげないって決めてるから」
「えーっ、義理でもいいから欲しいーっ」
「ダメ。俺が作ったんだから俺が食うの!」
伊野は女子にクッキーを欲しいと言われたのか、それをきっぱりと断っている。あからさまに欲しいとねだられても、伊野は気持ちを変えることはしないらしい。
でもそれは、伊野なりの気遣いなのかもしれないなと思う。伊野のクッキーを欲しがっている女子はたくさんいるから、義理でも誰かにあげたら角が立つ。公平を期すための、伊野なりの優しさのような気がした。
そんな落ち着かない空気感の中、帰りのSHRは終わりを迎えた。
「海崎。面白いもの見に行こう」
SHRのあと、帰り支度をしていると伊野が海崎のもとに来て耳打ちしてきた。
「何?」
「なかむーが告白する」
「な……っ!」
驚き過ぎて思わず声が出そうになったのを、必死でこらえる。
中村に好きな人がいたことも知らなかったし、しかも今から告白だなんて信じられない。
昨日の夜、伊野が「明日教えてやる」と言っていたのは、このことだったのか。
「高一のころからずっと好きなんだぜ。一途だろ?」
それはかなりの一途だ。普段ふざけてばかりの中村が、実はそんな秘めたる恋心を抱えていたとはまったく気がつかなかった。
「それって、のぞき見するの……?」
中村の告白シーンを見たい気もする。でも、一世一代の告白を茶化すようなことはしたくない。
「遠くから見るだけだよ。なかむーが呼び出した場所は、階段の踊り場の窓から見えるから。行くぞ」
「えっ、あっ……」
伊野に腕を引っ張られ、好奇心もあって、海崎は階段の踊り場までやってきた。
ここの高窓からは隣の校舎の屋上が見える。屋上は人工芝が敷き詰められていて、くつろぐためのベンチや目の保養になる植栽が置かれている。
そして、そこで中村と女子生徒が立ち話をしていた。
あれは比嘉だ。隣のクラスにいる、小柄で可愛らしい雰囲気の子だ。中村、上原と同じくテニス部に所属していて、上原と一緒にいるところを何度も見かけたことがある。
そこに中村も加わって話しをしている場面もあった。同じ部活だから仲がいいのだろうと思っていたが、まさか中村にそこまでの気持ちがあったとは知らなかった。
高窓はそんなに大きくない。縦横四十センチほどで、伊野と肩を寄せ合って窓枠から覗き込み、中村たちの様子を伺う。
「渡せ。なかむー」
祈るように伊野が呟いた。中村のスクールバッグの中には例のクッキーが入っているに違いない。それを取り出して比嘉に渡せばミッションコンプリートだ。
当事者じゃないのに、見ているこっちまでドキドキする。ふたりは楽しそうに話をしているが、中村の手はなかなかスクールバッグに伸びない。普通に話をしているだけで、何の進展もないまま時間だけが過ぎていく。
「何してんだよ。男を見せろ、なかむー」
伊野がヤキモキしているのが伝わってくる。海崎もそうだ。今すぐ背中を押してやりたくなるくらいに歯痒くて仕方がない。
「あっ……」
中村が動いた! スクールバッグからクッキーの入った透明な袋を取り出して比嘉に手渡した。
「やっ、たぁぁ……」
叫びたいが、それをこらえて伊野と肩を叩き合って喜ぶ。伊野はあからさまにニヤニヤしている。
それからのふたりの様子を見ていると、なんかいい感じだ。
「やばいぞ。なかむーに彼女ができるかもしれない」
中村たちを見守りながら、伊野が話しかけてきた。
「すごいな……彼女か……」
そんな世界は海崎にとっては未知過ぎて感覚が全然わからない。
人を好きになるってどんな気持ちになるものなのだろう。
伊野は。
伊野はそれを知っているのだろうか。
チラッと伊野の顔を盗み見る。
伊野は横顔もかっこいい。伊野を見ているだけで、伊野が隣にいてくれるだけですごく安心する。
海崎にとって、伊野だけは特別な存在だ。彼女なんてほしいと思わない。伊野がそばにいてくれたら、他には何も望まない。
「……海崎は、誰かにクッキーあげるの?」
海崎の視線に気がついたのか、伊野がこちらに振り向いた。
「えっ? 俺っ? そんな相手いないよ……」
「上原は?」
「伊野までそんなことを……だから上原とはなんでもないって。そういうんじゃない」
海崎が否定すると、伊野は「よかった」とホッとした顔をする。
それはどういう意味なのだろう。
友達に彼女ができるのが寂しいから?
じゃあ、中村はよくて、海崎はいないほうがいい理由は? 全員彼女持ちになったらつまらないから?
「伊野は? 伊野は好きな人、いるの?」
海崎は隣にいる伊野を見上げる。
聞いてみたい。伊野の本音を。
「知りたい?」
伊野は真っ直ぐな視線で海崎を見つめ返してきた。
なぜだろう。すごくドキドキする。
知るのが怖い気もする。でも知りたい。伊野のことなら、なんでも。
「海崎、俺……」
伊野が何か言いかけたときだった。同じクラスの知花が「伊野ー! ちょっといいー?」と大きな声で伊野を呼び、会話は途切れた。
「何? どしたの?」
「いいから、ちょっと来てよ」
「はぁっ?」
知花に半ば強引に伊野が連れ去られていき、海崎はひとりその場に残された。
伊野の言葉の続きが気になる。伊野は何を言いかけたのだろう。
伊野は好きな人はいないとすぐに否定しなかった。あの言い方は、もしかしたらもしかするのかもしれない。
そう思った途端に、胸がズキンと痛みを覚える。
伊野を取られる、と思った。
だってあの伊野だ。告白したらうまくいくに決まっている。伊野が振られるさまなんて想像すらできない。伊野に振られる要素なんてひとつもない。
でも、不思議だ。別に彼女ができたからといって、友人でいられなくなるわけじゃない。中村に彼女ができると思ったときは心から嬉しいと思えたのに、どうして伊野のときは同じように思えないのだろう。
海崎は自分でも意味のわからない焦燥感に苛まれていた。
その日の夜、寮では中村の話題で持ちきりだった。
告白を成功させた中村は、晴れて彼女ができた。その話を聞きたがったり、冷やかしたりで談話室は大盛り上がり。中村もまんざらでもない様子で「あざーす、あざーす」と嬉しそうだ。
「あ、海崎いたいた! ちょっと手伝ってほしいんだけど」
寮長の宮城に呼ばれて、海崎は「はい」と談話室のソファーから立ち上がり、宮城について廊下を歩いていく。
「共用の冷蔵庫あるじゃん? あれが汚くてさ。今日こそ俺は冷蔵庫を片付ける!」
「それを、手伝えってことですか?」
「そうそう、ひとりじゃ心折れそうだから」
たしかにそうかもしれない。共用の冷蔵庫の中は期限切れの食品や、誰のかわからない飲みかけのペットボトルが入っていたりとカオス状態だ。あれをひとりで片付けるのは大変だ。
食堂にある共用冷蔵庫の前に着くと、宮城は深呼吸をして気合いを入れた。
「やばそうなのは捨てよう!」
宮城は冷蔵庫の中のものを選別していく。その間に海崎は、汚れた冷蔵庫の中を拭き上げる、という分担作業で片付けを進めている。
「海崎、これやばくね?」
宮城が見せてきたのは、イカの塩辛的な何かだ。賞味期限は二年も前に切れていて、見た目だけで完全アウト。食べられる様子じゃない。
「多分卒業した先輩がそのまま忘れてったんだろうな」
それからも宮城は『やばい食品』を見せてきては、「これまだ食えるかな?」と面白半分に言う。
「宮城先輩、それ絶対にアウトですよ」
「マジ? ほら、見た目はいけそうだって。匂いやばいけど」
「ちょっ……一年前に期限切れてますって!」
「いやワンチャンご飯に混ぜたら……」
「ダメですって」
宮城の冗談がおかしくて海崎は笑う。もったいないが、明らかに食べられないものばかりだ。
「あ。これ、長嶺のだ」
宮城が次に手にしたのは、油性マジックでフタに長嶺と書かれているペットボトル飲料だった。
「これまだいけんじゃね? 長嶺がいなくなったのは海崎が来る三ヶ月前だから、まだ半年くらいだろ?」
「長嶺……?」
「海崎の前に伊野と同室だった奴だよ。伊野とケンカして学校辞めてここからいなくなった」
「伊野とケンカですかっ?」
伊野の前の同室者は、伊野が原因でいなくなったなんて信じられなかった。伊野はあの性格だ。それが、どうして学校を辞めるレベルの問題に発展したのだろう。
「伊野と長嶺はすごく仲よかったんだよ。ふたりとも同じ空手部でさ。お互い全国大会に出場するくらいすごかった」
「伊野って部活やってたんですか?」
以前、伊野に聞いたとき「俺も帰宅部」と言われたのだ。伊野は体格がいいから、てっきり運動部に所属していると思っていたから意外だと思ったことを思い出した。
「えっ? そっから? 伊野は海崎に何も話さなかったんだな」
それから宮城は伊野と長嶺の話をしてくれた。
「ふたりが県大会に出たときのことなんだけどさ。トーナメントを勝ち進んでいったら、同じ高校同士で試合することになったわけ。それで、長嶺は悪気はなかったと思うんだけどさ、長嶺の蹴りで伊野が怪我をしてさ」
「怪我? 重症だったんですか?」
「ああ。伊野は左足靭帯損傷で入院して手術してる。伊野が退院してきて、それからふたりがギクシャクし始めてさ、何があったか詳しくは知らないけど、長嶺が学校辞めて寮からいなくなった。今は怪我の具合はすっかり良さそうだけど、伊野も部活に戻らないままだよな」
「そうだったんですか……」
伊野にとって大事件じゃないか。そんな話は伊野は微塵も話してくれたことがない。その事実に寂しさを覚えた。
「海崎が初めて寮に来たときさ、伊野は海崎が来るのを嫌がってただろ?」
「……あ、はい……」
そうだった。伊野が謝ってくれたから、気にならなくなってすっかり頭の中から消えかけていたが、伊野は初対面のとき、転校生の海崎が来ることを嫌がっていた。
「あれ、許してやってくれ。伊野はずっと長嶺が戻ってくるのを信じて待ってたんだ」
「え……?」
「長嶺はもう学校辞めただろって言っても、伊野は聞かなくてさ。『あいつは絶対に戻ってくる』って訴えてた。だからあのとき『転校生は嫌だ』なんて言ってたんだ。海崎のことを嫌いなわけじゃない。伊野が長嶺のことを待ってただけなんだよ」
伊野が転校生を嫌がっていた理由がやっとわかった。
ひとり部屋がよかったわけじゃなかった。海崎を毛嫌いしたわけでもなかった。
伊野はケンカ別れをした親友が戻ってくるための居場所を守りたかったのだ。
「はい。伊野が悪い奴じゃないってことは、話してみてよくわかりました」
海崎が同室になるということは、長嶺が戻る場所がなくなるということだ。だから伊野は必死で嫌だと訴えていただけだ。今ならわかる。伊野は我が儘を言うタイプではない。
「だろ? 俺もどうなるかってお前らの様子見てたけど、仲良くやってるみたいで安心したよ。伊野もこれで長嶺のこと、諦めがついたんじゃないかな。いつまでも引きずっててもよくないだろ? 海崎が寮に来てくれたのは伊野にとってもよかったよ」
海崎に気を遣ってくれたのか、宮城はそんなふうに言って笑顔を見せた。
「そうでしょうか……」
海崎は不安でしかない。伊野は情に熱いタイプだ。親友がいなくなって半年で、その親友のことを忘れてしまうとは思えない。
伊野は、今でも長嶺の帰りを待っているのではないだろうか。
「ごめん、大丈夫、そんな顔すんなって!」
宮城が励ますように海崎の肩を抱く。
「来てくれたのが海崎でよかったって俺は思ってるよ。海崎はよく手伝ってくれるし、うるさくないし!」
寮長という立場から見たらそうなのだろう。寮の仕事をきっちりこなして問題を起こさない、大人しくて真面目な生徒のほうが負担は少ない。
「それに、可愛い」
そう言われた瞬間、メガネの奥の宮城の目つきが変わった気がした。
「とにかく! 俺は海崎が来てくれてめちゃくちゃ助かってる。だから伊野のことは気にすんなって」
宮城は海崎の肩をぽんぽんと軽く二度叩いたあと、「よし、片づけるぞー!」と再び冷蔵庫掃除を始めた。
片付けてみると本当に謎の食品ばかり出てきたが、断捨離したおかげで冷蔵庫は綺麗になっていく。
「うわ、すごいな、こんなに広かったんだ……」
「本当ですね」
宮城が感動するのもわかる。海崎も冷蔵庫が綺麗になって清々しい気分だ。
「ありがとう海崎。助かったよ」
「いいえ、いつでも言ってください」
宮城から頼まれごとをされるのは、全然苦じゃない。もともと掃除は性に合うみたいだ。カオスな冷蔵庫掃除だって、ふたりでわちゃわちゃ言いながらやっていたら、小一時間ほどで終わった。
「そういえばさ、海崎もクッキー作ったの?」
最後の後片付けをしているときに宮城に聞かれて海崎は頷いた。
「あ、はい。作りましたよ。俺は一組で、なかむーは二組で、合同で調理実習しましたから」
「誰にあげたの?」
「だ、誰にもあげてませんよ!」
宮城までそんな話をしてくるとは思わなかった。今日は中村のこともあって、みんなクッキーの行方に興味があるのかもしれない。
「誰にもあげないの?」
「……はい。あげる人なんていないから……」
一番仲のいい女子は上原だが、間違ってもあげちゃいけないとわかった。ただでさえ妙な噂が立っているのに、それを助長してはダメだ。
「じゃあさ、俺にくれない?」
「え……?」
「なんかみんな楽しそうで羨ましくて。俺も参加してみたくてさ。ちゃんとお返しするから、な? 海崎!」
どうしよう。でも、あのまま部屋に置いておいても自分で食べるだけのものだ。
宮城に渡すぶんには、なんの問題もないだろう。余ったものを喜んでもらってくれるなら、いいかと思った。
「いいですよ。俺のでよければあげます」
「本当に? やった、ありがとう!」
「部屋にあるんです。取りに行ってきます」
「いいよ、俺も一緒に行く」
後片付けを終えたあと、宮城とふたりで寮室へ向かう。部屋には伊野の姿はなかった。
「えっと……」
海崎は部屋に入ってすぐのクローゼットの前に放置していた黒リュックを開けて、中からクッキーを取り出した。透明な袋に入っていて、シールで留めただけの簡素な手作りクッキーだ。
「ありました。はい、どうぞ」
海崎は宮城に手渡す。
「上手じゃん! おいしそうだ」
月並みな出来栄えのクッキーなのに、宮城は大袈裟に喜んでくれる。そんなに喜んでくれるなら、自分で食べるよりもよかったなと思えた。
「ありがとう海崎。お返しは必ずするから」
「いいですよ、お返しなんて」
「そうはいかないよ。何がいいかな」
宮城はアゴに手を当てて考え始める。宮城は律儀なタイプみたいだ。
「本当にお返しはなくて大丈夫ですよ。調理実習で作っただけですから」
「そんなこと言うなって。いつも手伝ってくれるし、俺が頼んだらクッキーくれるし、海崎はホントいい奴だなっ」
「わっ……!」
宮城が海崎の頭をわしゃわしゃと撫でてきて、海崎はびっくりして身を縮こませる。
「ちょっと先輩っ、犬じゃないんだから……」
「ごめん、海崎が可愛いくて」
謝りながら、ぐしゃぐしゃになった髪を宮城が整えてくれていたときだ。
ガチャリとドアの開く音がして、伊野が入ってきた。
伊野は髪が濡れていて首にタオルをかけている。シャワーを浴びたあとのようだ。
「え……? なんで宮城先輩……?」
伊野は何があったのか理解が追いつかないようで、目をしばたかせている。
「伊野おかえりー」
宮城は何食わぬ顔して伊野を出迎える。
「海崎に掃除を手伝ってもらってたんだよ。じゃあまた。これ、ありがとう」
宮城は海崎にクッキーを見せながら小さく手を振って、笑顔で部屋を出て行った。
「宮城先輩、海崎のことコキ使いすぎだろ……。海崎も断われよ」
伊野は機嫌が悪そうだ。何かあったのだろうか。
「いいんだよ。手伝いは嫌いじゃないんだ」
役割があるほうが、ここにいてもいいと言われているような気持ちになり安心する。それに、人に頼まれると嫌と言えないタイプだ。
「クッキー、宮城先輩にあげたんだ……」
伊野の声のトーンが低い。伊野に何かあったのだろうか。
「あ。うん。俺、あげる相手もいないし、先輩が余ってるなら欲しいって言うから……」
「……へぇ。そりゃ先輩は俺と違って頭いいし、海崎も頭いいもんな。気が合いそうだな」
「それは関係ないよ、だからそんな深い意味は——」
「いいよ、もう。その話やめよう」
伊野は不貞腐れたみたいにドカッと椅子に座り、海崎に背を向けスマホをいじりだした。
伊野はどうしたんだと思いながら、海崎も自分の机の前に座ろうとしたときだ。
海崎の机にメモ書きが添えられたクッキーが置いてある。
メモには『うみざきへ いの』と書かれており、添えられているクッキーは今日、調理実習で作ったクッキーだ。
「伊野、これっ……」
海崎が慌てて隣にいる伊野のほうを向くと「やるよ。海崎に」と振り向きもせずに言った。
胸が苦しい。
これは、伊野が誰に言われても頑なに渡さなかったクッキーだ。その重みがわかるから涙が溢れそうになる。
海崎には返すものがない。
さっきなんであんな軽い気持ちで宮城に渡してしまったんだろうと、後悔の波が押し寄せてくる。
伊野とお互いのクッキーを交換すればよかった。なんでそれを思いつかなかったのだろう。
伊野は、こうして贈ってくれたのに。
「おやすみ」
「えっ」
伊野が椅子から立ち上がり、二段ベッドの階段に手をかけようとしたので、海崎はその手を掴む。
「待って伊野っ、俺にはもらう資格がないよ」
伊野にクッキーを返そうと、伊野の胸に押しつける。
「いーよ、別にお返しが欲しくてやったわけじゃない」
「ダメだよ、ダメだ」
「いいから」
「うわっ……!」
伊野と揉み合いになり、体勢を崩して海崎は二段ベッドの縁に頭をぶつけてベッドに倒れ込む。
「おい、大丈夫か海崎っ」
倒れる海崎のそばに伊野が慌てて寄ってきた。
「痛ってぇ……」
「見せてみろ、どこ痛い?」
伊野が海崎の頭を覗き込もうとする。
「ここ……」
海崎がぶつけたところに手を当てて示すと、伊野は髪をかき分けて怪我の具合を確認してくれた。
「見た目はなんにもない」
「ありがとう、大丈夫そうだよ」
ぶつけた瞬間はそれなりに痛かったが、大事には至らなそうだ。
「ああ、よかった。俺のせいでひっどい怪我させたかと思った……」
ベッドの上、伊野は横から半分覆い被さるようにして海崎を抱きしめてきた。
伊野の腕の中に閉じ込められ、髪を優しく撫でられる。
どうしよう、と思った。
伊野とふたりベッドで寝転がって、抱きしめられている。
伊野はただ、海崎が無事だったことに安堵して抱きしめてきただけだ。伊野は距離感が近いから、無自覚にこうしているだけ。
そうだと頭ではわかっているのに、身体は正直で、海崎の胸は高鳴り、急に顔が熱くなる。
でも嫌じゃない。ドキドキが伊野に悟られてしまうのではと思うのに、離れたくない。
さっきのクッキーの件で伊野に嫌われたと思ったから、伊野に抱きしめられると嫌われてなかったと余計に安心する。
「伊野……」
海崎は伊野の身体に頭を寄せた。
伊野の鼓動が聞こえてくる。トクン、トクンと一定のリズムを刻む伊野の鼓動を聞いていると安心する。
やっぱり伊野は特別だ。
伊野がいると安心できて、伊野のことをもっと知りたいと思って、伊野だけは他の誰にも渡したくないと思う。
伊野にだけは嫌われたくなくて、触れられると心地よくて、気がつけば伊野のことばかり考えている。
伊野も男で、海崎も男だ。それでもこんなに伊野にドキドキしている。
自分でも信じられない。でも、無自覚に抱きしめてきた伊野の腕の中がよすぎてたまらない。
この感情は恋なんじゃないだろうか。
そう考えると、今までのモヤモヤが全部しっくりくる。伊野の特別になりたがる気持ちも、伊野に触れられて高鳴る胸も、あわよくばその先すら望んでいる自分自身の本能も、全部、恋心だ。
男の伊野にそんな感情を抱いてはいけない。伊野は、やっと手にした心から信頼できる友達だ。それなのに、同性から特別な好意を向けられたら伊野は困惑してしまうだろう。
ここから離れなければならない。でも、逃げたくない。ずっとずっと伊野に捉われていたい。
「はぁ。とりあえず安心した」
伊野はそんな海崎の心の葛藤など知らずに、パッと海崎を手放した。
目の前から急に伊野がいなくなり、現実に引き戻された感覚だ。
伊野は起き上がり、二段ベッドのハシゴに手をかける。
「なんかあったら起こしてくれて構わないから。おやすみ、海崎」
伊野はベッドで海崎を抱きしめたことなど、なんでもない様子で、いつもどおりの笑顔を向けてくる。
「あ、うん、ありがとう……」
海崎も上半身を起こして、伊野を見送る。まさかもうちょっとだけ抱きしめてほしかったなんて言えない。
伊野は距離感が近いだけ。さっきのだって伊野にとっては友達にも弟にもする行為で、特別なことじゃないのだろう。
それなのに、勘違いしてはいけない。
「あ、そうだ海崎。しつこいようだけど、俺のクッキーは気にせず食べろよ」
伊野に言われてハッとする。そうだ。伊野からもらったクッキーの押し付け合いをしていて頭をぶつけたんだった。今、クッキーは海崎のベッドの布団の上に落ちていた。
「それ、俺の気持ちだから。受け取って」
「えっ……」
「じゃあ、おやすみ」
伊野は軽い身のこなしで、二段ベッドの上に上がって行ってしまった。
海崎は伊野のクッキーを手に取って思う。『俺の気持ち』とはいったいどういう意味なのだろう。
普通に考えたら、ほんの気持ち程度の品物、という意味なのかもしれない。でもこのクッキーは、学校では、男子が女子に気持ちを伝えるためのアイテムだ。
海崎はクッキーを割れないようにそっと胸に抱えた。
もし、伊野が海崎のことを想ってくれていたら。だからこのクッキーをくれたんだとしたら。
そんなことを考え出してしまい、海崎は大きくかぶりを振る。
そんなはずはない。
さっきの伊野の言葉を都合よく考えてしまう自分が恥ずかしい。
海崎自身だってクッキーをなんの恋愛感情もない宮城に渡した。それは宮城が男だからだ。男にあげるぶんには、問題にならないと判断したからだ。
伊野だってきっとそうだ。あんなに女子にせがまれても誰にもあげなかったのは、恋愛の意味で好意を抱いていると勘違いされてしまうからだ。
でも男の海崎なら、そうはならないと思ったからに違いない。
伊野は誰にもあげられなかったクッキーが余ったから、深い意味もなく海崎にくれただけだろう。
伊野は何の気なしにくれただけ。深い意味はない、深い意味はない。
海崎は勘違いしないように何度もそう自分に言い聞かせた。
「やばい! 遅刻する!」
海崎は朝からバタバタと支度をする。今日は高二は親睦会という名の遠足で海に行くため、いつもより登校時間が早いのだ。それなのに伊野とふたりで寝坊してしまい、慌てて準備をしている。
ベッドの上にあった体育着のハーフパンツとモスグリーン色のクラスTシャツを急いで身につける。
「あれ? おっきい……」
クラスTシャツを今日初めて着てみて気がついた。大きめがいいかなと思い、Tシャツのサイズは男女兼用のLサイズにしたのに、これじゃ大きすぎて海崎が着ると彼シャツ状態だ。
「海崎、それ、多分俺のXL」
「えっ?」
振り返ると歯ブラシとタオルを持った伊野が立っていた。洗面所から戻ってきたらしい。
「悪い。俺がさっきお前のベッドの上に放り投げたから」
「あ、ほんとだ。俺のこっちにあった」
よく見るともうワンセットハーフパンツとTシャツが置いてある。慌てていて、つい手近にあったほうを着てしまったのだ。
「海崎脱いで、それ俺にパスして」
「うん。ホントごめん」
時間がないのだからと海崎は急いでTシャツを脱ぎ、伊野に手渡そうとしたときだ。
「ありがとな」
伊野は海崎の目の前で、着ていた部屋着のTシャツをガバッと脱いだ。
割れた腹筋に、筋骨隆々とした腕や肩。空手で鍛えたのだろうが、伊野の身体は逞しい。
海崎は思わず顔を紅潮させる。
ダメだ。伊野のことを意識するようになってから、男同士なのに伊野の裸を直視できずにいる。
「は、早くこれ着て!」
伊野にぐいっとTシャツを押し付けて、海崎は伊野に背中を向ける。
伊野のことを意識しすぎていることには気がついている。こんなことをしたら不自然だと思われてしまうのもわかっている。
それでも身体の反応は正直で、顔は熱くなるし、心臓のドキドキは収まらない。
「これいいな。海崎の温もりを感じるよ」
「へっ?」
海崎が振り返ると伊野はTシャツを着て満足そうだ。恥ずかしいから、人の脱いだあとの温もりなんて堪能しないでほしい。
伊野は今度はスンスンとTシャツの匂いを嗅いでいる。
「海崎の匂い——」
「わーっ!」
そっちはもっと恥ずかしい。お願いだからTシャツを間違えて着てしまった件は無しにしてほしい。
「ごめんごめん、もうしない。早く支度しようぜ」
伊野は人をからかっておいて笑っている。
まったく困った伊野だ。海崎はさっきから伊野に感情を振り回されっぱなしだ。
昨日遅くまで眠れなかったのも、伊野のことを考えていたせいで、朝アラームを切ってしまい起きられなかったのも伊野が起こしてくれなかったせいだ。今は急いで支度をしなきゃいけないのに、伊野にドキドキさせられている。
これで遅刻をしたら伊野のせいだ、と伊野には絶対に言えない理不尽な理由で、海崎は心の中でだけ伊野に八つ当たりした。
なんとかギリギリ登校時間に間に合った。
バスで走ること四十分ほどで目的のビーチに到着した。今日はここで親睦のためのゲームをしたり、昼にはバーベキューをすることになっている。
午前の最初にやったのはビーチフラッグだ。四人ずつ砂浜に寝そべった状態でスタートし、数十メートル先にあるフラッグを取った生徒が勝ちというゲームだ。
海崎は早々に一回戦敗退。伊野はクラスの男子一位になり、学年の一位を決める決勝の六人にまで残った。
「伊野、いけー!」
海崎の周りで一組のみんなが叫ぶ。伊野たちはスタートラインに腹這いになって飛び出す準備を整えている。
全部で六クラスあり、どのクラスも当然、自分のクラスの生徒を応援している。勝ったクラスはバーベキューする場所を好きに選べるというご褒美があるからだ。
海崎も祈るような思いで伊野が勝つことを願っている。
「伊野、怪我治ってんのかな……」
クラスの誰かが呟く声が聞こえた。
その声に、海崎は宮城の話を思い出した。伊野は去年、足の靭帯を痛めて手術をしたと聞いた。普段伊野を見ている限りは問題なさそうに見えるが、実のところはどうなのだろう。伊野は空手部に復帰していない。怪我の具合は、実はあまりよくないのだろうか。
「伊野ーっ! 頑張れーっ!」
海崎は思い切り叫んだ。
自分でも驚くくらいに大きな声だった。
こんなに大きな声を出したことなんてない。でも伊野がいる場所まで声援を届けたくて、必死で声を出す。
スタートの合図とともに、クラス代表の生徒たちが走り出す。伊野もものすごい瞬発力で起き上がり、砂の上を駆けていく。
砂を蹴り、目標のフラッグまで一直線。その真剣な姿を見て心を奪われる。伊野は集団から一歩前に出た。争っているのは四組のバレーボール部の男子だ。
「伊野ーっ! いけーっ!」
海崎はクラスのみんなとともに、伊野に何度も声援を送る。
フラッグまであと少し。伊野も、四組の男子も赤色のフラッグに手を伸ばす。
本当に寸前だった。
伊野の指がフラッグに触れるかどうかのタッチの差で四組の男子がフラッグをかっさらっていった。
あと一歩でフラッグを逃した伊野は、クラスのみんなに拍手で迎え入れられた。「ごめん」と謝る伊野を、よくやった、よくやったとみんなが労っていた。
海辺でバーベキューをしたあとは、磯遊びの時間と称して各々自由時間になった。海崎は伊野たちクラスの仲間数人で、海辺で遊ぶことになった。
「海崎っ、魚いた! 魚!」
砂浜から伊野が海崎を呼ぶ。伊野の指差す海中の岩場を目を凝らして見てみると、そこには鮮やかな瑠璃色の小さな魚が群れていた。
「すごい……」
東京の海や川には色鮮やかな魚は少ない。こんな綺麗な色の魚を本物の自然の中で見られることに感動した。
「捕まえられっかな」
伊野がスニーカーと靴下を乱雑に脱ぎ捨て、海に入っていった。替えの服もないのに、服が濡れることを躊躇しない姿にちょっと驚いた。
「伊野。これこれ!」
友人のひとりが近くに落ちていたプラ容器を持ってきた。みんなが続々と海に入っていくので、海崎もつられて裸足になり、海の中に入る。
「冷たっ」
六月に入り、暦は夏なのに海の水は冷たかった。でもその冷たさは、熱った身体に心地よかった。
「海崎、そっち囲めっ」
「うんっ」
伊野に言われて魚を取り囲むような位置に立つ。
「くっそーっ、逃げるなー」
アレコレ作戦を練りながら、びしょ濡れになって数人で躍起になって魚を捕えようとするが、魚にするりと逃げられてばかりだ。
みんなは魚を捕まえることにすぐに飽きて、単なる海遊びを始めたが、海崎と伊野は諦めずに続けている。
「伊野、ここは水が浅い」
海崎は水深が浅めの岩陰にいた魚を見つけて伊野に教える。伊野は「海崎、そこで見張ってろよ」と言い、プラ容器片手にゆっくりと近づいてきた。
「絶対に捕まえるっ」
伊野は勢いよくプラ容器を魚めがけて振り下ろす。
伊野は波が揺れる瞬間を見逃さなかった。伊野の狙いをすました一撃で、一匹の魚を容器内に閉じ込めることに成功した。
「やった!」
伊野が嬉々としてプラ容器の中にいる瑠璃色の魚を見せてきた。
「やったね、すごいな伊野!」
伊野とふたりでグーパンチを交わして、戦利品の魚を眺めてみる。ひらひらと動くヒレの形、体の光り具合、パクパクと動く口の様子、海中にいるときよりも、より鮮明に観察することができる。
「可愛いな」
「うん。可愛いね」
伊野と頭を寄せ合ってプラ容器の中を覗く。
本当に可愛らしい魚だと思った。
熱帯魚はどうして色鮮やかな色をしているのだろう。普通の生き物は、周囲の環境に擬態して生きているものばかりだ。まるで背景の一部になったかのように地味で目立たない。それが処世術なのに。
「ハルマ。可愛いなー」
「えぇっ?」
海崎は驚いて伊野を見る。伊野は瑠璃色の魚にむかって話しかけていた。しかもハルマは海崎の名前とおんなじだ。
「こいつの名前はハルマね」
「なんでだよっ」
「だって青いからなんか海崎みたいじゃん。イメージカラーなんだろ? 青が」
まさかそんなことを言われるとは思わなかった。こんな鮮やかな色の魚は自分に似つかわしくない。誰に見つかることもなく、世の中に擬態して生きていくのが海崎にはお似合いなのに。
「やめろよ」
「いいじゃん、少しだけ。どうせリリースするんだから、それまでのあいだハルマって呼ばせてよ」
全然懲りない伊野は、魚に「ハルマ可愛いなー、持って帰って飼えたらいいのになー」と微笑みかけている。
絶対に勘違いだとわかっている。それでも伊野にそんなことを言われると気になって仕方がない。まるで、自分が可愛いと言われているようで、すごく落ち着かない。
伊野の無自覚な言動に、どれだけ海崎の感情が乱されているかを伊野は知らない。伊野に対して海崎がどんな感情を抱えているのか、想像すらしていないだろう。
「……なぁ、海崎っていつか東京に帰るの?」
魚に視線を落としたまま、伊野が訊ねてきた。
「えっ、と……。一応あっちの高校には籍が残ってるよ。俺は親の仕事の関係で一時的な転校って扱いになってる。うちの高校は海外留学する生徒も意外に多いんだ。父親が外交官とか、普通に語学留学してる人もいる。だから一時的な転校には寛容なんだよ」
海崎は簡単に東京の高校の在籍システムについて伊野に話す。
「そっか。なんとなくそうじゃないかって思ってた。来年は受験じゃん? 大学受けるならA高校のほうが絶対いいもんな」
「そうなのかな……」
A高校の進学実績はめざましい。でもそれは上位陣が叩き出した結果がほとんどであって、おちこぼれの海崎は論外だ。
授業内容はハイレベルだと思う。カリキュラムもよくできていると思うが、自己流が好きな海崎には合わなかったのかもしれない。
「伊野、魚捕まえたのかよ!」
「お前すごいな!」
友人たちが集まってきて、伊野はパッと明るい顔をして「これこれ! 見ろよ!」と友人たちのほうにプラ容器に入った魚を向ける。
魚をみんなでひとしきり愛でたあと、静かに魚をリリースする。そこからどういう流れになったのか、今度はみんなで水の掛け合いになった。
「うわっ!」
もれなく海崎にも海水が飛んできて、目は痛いし、しょっぱいし最悪だ。
「このやろっ」
海崎も応戦する。みんな容赦がないから、海崎も腕まで使って思い切り海水をぶっかけてやった。
「うっわ。濡れた濡れたっ」
みんな海からあがったときには全身ずぶ濡れだ。Tシャツの裾を絞れるだけ絞って、あとは自然乾燥するのを待つしかない。
「パンツまでびっしょりだ。ひっどいな」
海崎は濡れて身体にまとわりつく服を気にしながら苦笑いをする。これは学校に帰るまでに乾くだろうか。
「俺も。なんでこんなになってんの」
伊野はTシャツの裾を絞りながら、声を出して笑う。伊野の爽やかな笑顔は本当に好きだ。伊野の笑い声を聞くと、海崎の気持ちまで明るくなる。
「うわ、やっば」
伊野はハーツパンツのゴムを引っ張り、自分のパンツを見てドン引きしている。その姿を横で笑っていたら、伊野がぐいっと海崎のハーフパンツを引っ張った。
「海崎は?」
伊野にパンツを覗き込まれて「わっ」と咄嗟に横に逃げる。
いきなりパンツを見られるなんて、そんなことをされた経験はない。
「お前も俺と同じくらいやばい」
伊野はなんでもないことのように笑っているが、海崎は恥ずかしくて顔が熱くなってきた。
伊野にパンツ見られた。伊野にパンツ、伊野にパンツ……。
寮の部屋では、伊野の前で着替えたことがある。でもなるべく目につかないように着替えているし、外で見られるのとは大違いだ。
「海崎のパンツ、可愛いな」
「や、やめろって!」
なんでしっかり柄まで見ているんだと伊野の背中をバシバシ叩く。無地も持っているのに、今日に限ってジンベイザメパンツを履いてきてしまったことを激しく後悔する。
「ごめん。ごめん。海崎からかうと面白くってさ。あ。あっち行こ」
「えっ、待って!」
伊野が急に走り始めるから、海崎は慌ててその背中を追いかける。
そんなにダッシュしなくてもいいだろと思うくらいに伊野は速くて、息を切らして駆けていく。
こうやっていつも伊野に振り回されてばっかりだ。それでも一緒にいたくて、全然嫌じゃなくて、伊野のことをまた好きになる。
「あーっ! くそっ!」
海崎は必死に走る。
行き場のないこの感情をどうしたらいい。
同室の男に、こんなにも特別な感情を抱くとは想像すらしなかった。
でも、きっとこの気持ちは海崎が初めて抱いた恋心だ。
もちろん伊野に伝える気などない。でも、この胸を焦がすほどの強い想いは、自分の中で秘めやかに守っていきたいと思っていた。
伊野とふたり、岩陰に座って海を眺めている。随分遠くまで来たから、周囲に人影はなく、聞こえるのは自然の音だけだ。
寄せては返すエンドレスな波音が心地よい。普遍的な水の音というのは、どうしてこんなに気持ちが落ち着くものなのだろう。
「海崎、ありがとな」
伊野が急にありがとうなんて言うから「えっ、なんのこと?」と返す。
「ビーチフラッグのときだよ。海崎の声が聞こえた。俺に、何度も何度も頑張れって」
「あ、あのときは夢中で……」
あのときは伊野に勝ってほしくて思わず声が出た。海崎の中では伊野が一番だ。なんでも伊野に一番になってほしい。伊野には笑顔が似合うから。
「海崎があんなことするなんて思わなかったから、嬉しかった。お前の気持ちが伝わってきてさ、海崎のためにも絶対に一位になってやるって頑張ったのに、負けてごめん」
「謝らないでよ、伊野は一生懸命頑張ったんだ。俺、見てたよ。伊野の本気の姿。だからなにも謝ることなんてないよ。伊野は本当にすごいよ。すごくかっこよかった。最高だ」
あの姿のどこに恥じることがある? 伊野は本当に素晴らしかった。
伊野はいつだって真っ直ぐだ。迷いのないその姿に惚れ惚れする。
「海崎、お前って奴は……」
伊野は海崎を見て呆れている様子だ。その目は優しく海崎を見つめているけれど。
「怪我のせいなの?」
海崎は伊野に話を切り出した。ずっとずっと気になっていたことだ。
「俺、聞いたんだ。伊野は空手部で、試合のときに友達と対戦して大きな怪我をしたって。足を痛めたの? 今はもうなんともないの?」
「あー、その話か」
伊野は頭を掻きつつ、うつむいた。だがすぐに海崎に真っ直ぐな視線をむけてきた。
「怪我はほとんど治ってるよ。医者からも空手に復帰していいって言われてる。あのとき負けたのは、俺の実力が足りなかったせいだよ、怪我のせいじゃない」
「そっか……」
伊野は強い男だ。本当に細かいが、ビーチフラッグのとき、一組から六組まで数字順に並んでいた。それでいてフラッグが置かれていたのは中央、三組と四組の直線状だ。その時点で一組は四組よりも不利だったのに、伊野はクラスの誰に言われても一切言い訳をしなかった。もし伊野が三組の位置からスタートしてたら確実に一位だったと思う。
「空手部、もう辞めちゃったの?」
「いや。まだ所属はしてて、もう怪我は治ってるし、復帰してもいいんだけどさ。俺だけ復帰するのがなんか、嫌でさ」
その言い方で海崎は理解した。
伊野は、海崎の前の同室者だった長嶺のことを想っているのだ。
「長嶺くんのこと? 伊野は長嶺くんが帰ってくることをずっと待ってたの?」
その名前を出した瞬間、伊野の表情が変わった。
伊野がこんなさみしそうな顔をするのを初めて見た。その表情を見ただけで伊野がどれだけ長嶺のことを大切にしていたのかわかる。伊野にとって特別な人だったということがひしひしと伝わってくる。
「長嶺は部屋も一緒だったし、同じ空手部で、すごく気が合ったんだ」
伊野は静かに話し始めた。昔を思い出すように語る伊野は遠い目をして海を眺めている。
「我が強い奴でさ、寮のベッドも絶対に下がいいって言って譲らなかった。俺も下がよかったからじゃんけんして俺が勝ったのに、あいつアレコレ文句言いやがって、結局俺が譲ることになったんだぜ?」
ああ。と海崎は合点がいった。だから伊野は寮室をひとりで使うようになってからも、二段ベッドの上を使っていたのだ。伊野にとって下のベッドは長嶺の場所なのだ。
そして、長嶺がいつ帰ってきてもいいように、ベッドを空けて待っていたのだろう。
そこへ海崎が転校してやってきた。海崎がいたら長嶺の帰る場所がなくなる。だから伊野はあんなに転校生は嫌だと訴えていたのだ。
「試合のときにあいつの蹴りをまともにくらっちゃってさ。俺、もともと左足を痛めてて、それをおして試合に出てた。そこを思いっきり蹴られたもんだから余計に損傷がひどくて、学校休んで手術するのにしばらく入院してたんだ」
「それは、辛かったね……」
怪我のため大会は途中棄権。さらに怪我を負って入院生活。それは伊野にとってどれだけ辛かっただろうと想像するだけで、伊野を今すぐ抱きしめてやりたくなる。
「退院して、授業は受けられるようになったけど、部活は復帰できなくて。長嶺は責任感じて俺のことを世話してくれて、俺も『お前のせいじゃない、あれは事故だ』って言ってたんだけどさ」
怪我をさせられても伊野は長嶺を責めることをしなかったのだ。そして、怪我をさせてしまった長嶺は伊野のことを懸命にフォローしていた。それだけだったら、ふたりの友情は壊れることはなかったはずだ。
「長嶺くんは、どうして学校を辞めちゃったの……?」
これを伊野に聞くのは酷なことだろうか。少し迷ったが、どうしてもそのことを知りたかった。
相手が伊野だからだ。海崎にとって伊野はどうでもいい存在じゃない。伊野のことを深く知りたいと思った。
「俺のせいだよ。俺のせいであいつは何もかも嫌になって学校を辞めた」
伊野の目から一筋の涙がこぼれた。
笑顔の下、伊野はずっと苦しんでいたのだ。ずっと長嶺のことを想ってたったひとり、心を痛めていた。
「怪我してるといろいろ不便でさ。地味に痛いし、やりたいこともできない。俺、駅の階段で派手に転んでめっちゃ恥ずかしくて。それを長嶺が笑ったもんだから、つい、『誰のせいでこんな目に遭ってると思ってんだよ』って言っちゃったんだ」
「あぁ……」
聞いているだけで海崎も胸が痛い。
それは禁句だ。優しい伊野がずっと長嶺に隠し通してきた、小さな小さな本音。
いや。伊野のことだから本当はそんなこと思っていなかったかもしれない。不自由な身体で過ごす毎日にイライラしていて、親友の長嶺に弱音を吐きたくなっただけかもしれない。
「言った言葉は取り返せないって、痛いほどわかった。長嶺は『やっぱりそう思ってたんだな』って言って、俺の怪我の責任を取るとか意味わかんねぇこと言って高校を辞めたんだ」
伊野と長嶺、時間をかけて育ったふたりの友情は、たったひと言の言葉で一瞬にして崩れ去った。こんな悲しい結果を簡単に受け入れられるわけがない。だから伊野はずっと長嶺の帰りを待っていた。
もしかしたら、海崎がやってきた今でもずっと、長嶺の帰りを望んでいるかもしれない。
「最悪だろ、俺。きっとどっかであいつのせいだって思ってたんだろうな。いい奴ぶってるだけ。ほんとマジで自分が嫌になる……」
うつむく伊野を放ってなどおけなかった。黙ってなどいられなかった。
「伊野は悪くない。伊野は嫌な奴なんかじゃないよ……」
なぜだろう。張り裂けそうに胸が痛い。涙が込みあげてくる。
「自分で自分の感情をコントロールできなくなることはあるよ。思ってもいない言葉をぶつけてしまうこともある。でも、でも、それは一時的な感情なんだって言われたほうもわかる。だって自分もそういうことをしてしまった経験があるから」
伊野の身体を思わず抱きしめる。伊野は嫌がることもなく、静かに海崎に身体を預けてきた。
「伊野は長嶺くんのせいだなんて思ってない。長嶺くんも伊野の本当の気持ち、わかっていると思うよ。長嶺くんが学校を辞めたのだって、きっと気持ちが高ぶってしまって勢いで決断しちゃっただけなんじゃないかな。今ごろ後悔しているかもしれない。もう一度、高校に通いたいと思い直してくれてるかもしれない」
「そうかな……」
伊野の弱々しい声は、海崎の腕の中でくぐもっている。
「長嶺くんもずるいよ。伊野にこんなに背負わせて、自分はいなくなっちゃって。伊野が、伊野が可哀想だ。俺が長嶺くんに会って、直談判してやる。伊野のことどう思ってるか、いつ学校に戻ってくるんだって聞いてやるっ」
海崎は全面的に伊野の味方だ。伊野のためなら長嶺の家に押しかけることくらいやってやる。長嶺は伊野のことを好きに決まっているから、ふたりの誤解を解いて仲直りさせてやりたい気持ちでいっぱいだ。
「はは……」
海崎の腕の中の伊野の肩が震えている。どうしたんだろうと思って、海崎は伊野の顔を見てやろうと伊野から身体を離そうとする。
「伊野? どうした——」
「見るな」
今度は伊野に抱き寄せられた。強引に抱きしめられ、伊野の力強い腕に掴まれ、痛いくらいだ。
「海崎。もう少しこのままがいい」
肩を震わせて海崎の胸に顔を埋める伊野は、ぎゅっと海崎の身体にしがみついてきた。
「うん……」
それ以上の言葉はなかった。海崎は、少し濡れた伊野の身体に腕を回して、その大きな背中を何度も何度も撫でていた。