高二の四月。海崎晴真は逃げ出した。
「東京からの転校生、みんなに自己紹介してくれる?」
今日から海崎は男子寮で暮らすことになる。海崎を案内してくれた生徒は宮城だ。寮長をしているという宮城は、眼鏡をかけていていかにも優等生といった雰囲気の男だ。
宮城に促され、海崎は手にしていた紺色のスーツケースを手放して、寮の談話室の中央に立つ。
背負った黒いリュックはそのままだ。スーツケースもリュックも、はち切れんばかりの荷物を詰めている。リュックを下ろすのも気合いがいるくらいに、ずっしりとした重みが海崎の両肩にのしかかっている。
「おーい! ちょっといい? 今日から転校生来たから」
廊下と繋がっているフリースペースの談話室には、八名ほどの生徒がいる。皆、ソファーでくつろいで談笑していたが、宮城の声に反応してぴたりと止んだ。
皆の視線が一斉に海崎に向けられる。あがり症の海崎は注目されるのは苦手だ。
やばい。うまくやらなくちゃ。
今度こそ失敗しないように。
第一印象は大切だと意識すればするほど、海崎は緊張でガチガチになる。
「う、海崎晴真です。よろしくお願いしまっ、うわっ……!」
頭を下げた瞬間、背中のリュックの重みでバランスを崩して、海崎はよろける。
「すみません、すみませんっ」
転びはしなかったものの、めちゃくちゃ恥ずかしい。その場にいたみんなから、なにこいつみたいな視線と失笑を買う。
最初だから頑張りたかったのに、やる気は空回り、目も当てられない最悪の状況だ。またダメな奴認定される。東京から逃げ出してきたばかりなのに、いますぐここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
「海崎、大丈夫?」
宮城は海崎のフォローをしてくれたあと、場を取りなして、談話室にいた生徒たちのことを順に紹介してくれた。すると各々「うーっす」「よろしく」とおざなりな返事を返してきた。「大人しそうだな」という声も聞こえてくる。
たしかに海崎は、背は百七十三センチとそこそこあっても、腰も腕も全体的に細身で男らしさはあまりない。少し茶色じみた細い髪は地味な髪型だし、チャラさとは無縁の風貌だ。
「海崎は伊野と同室な。あれ伊野は? どこにいる?」
宮城が辺りを見回していると、廊下から声が聞こえてきた。それを聞きつけ、「伊野の声だ」と宮城がそちらへと向かう。海崎も談話室にいた生徒たちにぺこりと軽く頭を下げ、宮城のあとをついていった。
廊下の先から、ふたりの生徒が何やら言い合いする声が聞こえてくる。
「同室は嫌だ! なんで俺が……」
「伊野。他に空きがないんだ。諦めてくれ。同じ高二同士、転校生と仲良くやれよ」
「無理だ。嫌だっつってんじゃん! 転校生なんて来なきゃよかったのに」
転校生なんて来なきゃよかったのに。その言葉が海崎の胸に突き刺さる。それはもしかしなくても海崎のことを指しているのではないか。
「あー、話してるとこ悪い。伊野! こいつ海崎」
その場の空気を断ち切るように宮城が呼ぶと、伊野が海崎のほうを振り返った。
「海崎……?」
眉根を寄せて海崎を見ている伊野は背が高かった。運動部に所属しているのだろうか、がっちりとした肩幅に、白いTシャツからのぞく腕は筋骨隆々としていて逞しい。
目鼻立ちがくっきりとした整った顔は、少し日に焼け、健康的な印象だ。
「あ、やば」
伊野は顔色を変えた。さっきの会話を海崎本人に聞かれたことに気がついたのだろう。
聞いてしまった海崎だって、めちゃくちゃ気まずい。
でも伊野は同室者だ。嫌われていようとも、表面上だけでも仲良くやっていきたい。
笑顔だ。笑顔。コミュニケーションの基本。とにかくまずは笑顔!
「海崎晴真です。あの。よろしく」
海崎は伊野に微笑みかける。その顔は若干引きつっていたかもしれない。
「……よろしく」
しばしの間があって、伊野は仕方なしにといった態度で返事を返してきた。そのときの伊野の海崎を見る目は決して優しくない。「こいつ何?」とでも言いたげな、蔑む視線だった。
やっぱり歓迎されていない。初対面で嫌われるなんて、すごくショックだ。
自分の何がダメなのだろう。人とどう関わっていけばいいのかわからない。決して明るい性格ではないけれど、自分なりに頑張って愛想よく振る舞っているつもりなのに。
「伊野、海崎を部屋に案内してやって」
宮城に頼まれ、伊野は「はーい」と気だるく返事をした。
海崎は伊野の横顔をそっと盗み見る。
伊野は鼻筋の通った綺麗な顔をしている。印象的な大きな目も、揃ったまつ毛の形もすごくいい。正直かっこいいと思った。こんな人目を引く容姿に生まれたら、自分に自信が持てるようになるんだろうなぁとぼんやり思う。
「海崎」
「あっ、はいっ」
宮城に呼ばれて海崎は我に返り、慌てて返事をする。
「伊野についていって。とりあえず荷物置いてこいよ」
宮城は伊野にも「真面目に海崎を案内しろよ」と指示をして、自分は「当番表書き直ししてくる」と食堂へと向かって行った。
伊野は海崎に声をかけることもなく階段を上がっていってしまう。行く当てのわからない海崎は伊野についていくしかない。
「待って」
海崎はスーツケースを両手で持ち上げながら、伊野のあとを追いかけた。
参考書にノートに文房具。洋服など生活必需品を詰め込んだ大型のスーツケースはかなり重い。途中、スーツケースの端を何度もぶつけながら階段を上がっていく。
それでも手ぶらの伊野には当然追いつかない。背中のリュックの重みも邪魔をしてくる。
どうしよう。おいていかれる。
このままじゃ伊野の姿を見失ってしまう。
「くっそぉ……!」
海崎が必死に力を振り絞っていると、ふと、スーツケースが急に軽くなった。見上げるとスーツケースの横に付いていた持ち手を伊野が持ち上げている。
「だっさ。何やってんだよ」
伊野はすごい。悪態をつきながらも、結構な重さのスーツケースを片手で持ち上げ、階段の上まで軽々と運んでしまった。海崎が両腕で必死になって運んでいた荷物だったのに。
「ごめん、ありがとう……」
「いーよ。部屋はこっち」
伊野は廊下を進み、寮室まで案内してくれた。海崎はスーツケースを押しながらそのあとを追う。
寮はふたり部屋だった。入ってすぐの左側に二段ベッド、右側にはクローゼットがある。その奥の窓側には、机と本棚がふたつ線対称の位置に設えてあった。
「お前は下のベッドね。机とクローゼットは右を使え」
「う、うん……」
ぶっきらぼうに言われてとりあえず頷く海崎だが、ふと疑問が頭に浮かぶ。
この部屋を伊野ひとりで使っていたのなら、二段ベッドは下を使ったほうが何かと便利だったのではないだろうか。そうすれば、わざわざハシゴを上り下りする手間が省けるはずだ。
なぜ伊野は上のベッドを使っていたのだろうか。
「あーあ……」
海崎が荷解きをしていると、伊野にこれみよがしにため息をつかれた。伊野は自分の机の前に座り、両腕を枕にするようにして突っ伏している。
きっとひとりで悠々と部屋を使っていたのに、海崎が同室になることが嫌なのだろう。さっきも同室は嫌だと友人に散々訴えていた。海崎が伊野に歓迎されていないのは明白だ。
でも、ここに住むのは海崎の権利だ。宮城の話だと他の人たちも相部屋で寮生活を送っているのだから、伊野だけひとり部屋がいいなんて我が儘だ。
海崎は荷解きをして、自分の物をガンガン机に並べ、服をクローゼットに収めていく。
伊野がなんと言おうとも、今日からここは海崎の場所だ。転校してきた海崎には他に行くところがない。
「おーい、伊野!」
開けっ放しの寮室のドアを軽く二度ノックして、伊野を呼ぶ生徒がいる。
さっぱりと刈り上げた黒髪短髪で、明るく人懐っこい笑顔で笑う男だった。
「なかむー、なに?」
伊野は笑顔で「なかむー」と呼んだ友達のところへ向かっていく。
その笑顔は爽やかだ。海崎には笑いかけもしないくせに、友達にはあんな顔ができるんだと態度の違いにショックを受ける。
「みんなでカラオケ行かん?」
「行く行く!」
伊野は素早く財布とスマホを手にして、なかむーと合流する。
「おっしゃ! 伊野がいると盛り上がるからな」
「なかむー、またアレ歌ってよ。あ、そうだ! 俺、なかむーに話したいことがあってさ……」
ふたりは楽しそうに会話をしながら去っていく。
海崎は、そんなふたりの背中を後目に、部屋のドアを閉めた。
遠くで聞こえる賑やかな声の中、ここにはひとりきりの静寂が訪れる。
どうやら伊野は愛想の悪い人間ではないらしい。海崎には冷たいが、友達とは明るく親しげに話をしていた。
伊野は海崎の何が気に入らなかったのだろう。それすらよくわからない。第一印象で、なんか地味でつまんなそうな奴とでも思われたのだろうか。
「はぁ……」
ひととおり荷物を片付け終えたあと、海崎はベッドに寝転んだ。
使い慣れたワイヤレスイヤホンを両耳に装着すると、「Bluetoothに接続しました」といつもの機械音が聞こえる。
スマホの音楽アプリを開き、好きな曲を再生する。
海崎は嫌なことがあるたび、音楽の世界に浸ることが多い。
音楽はいつでも心に寄り添ってくれる。ささくれ立った気持ちを落ち着けてくれる。
「ここで、頑張らなくちゃ……」
海崎は壁側を向いて寝転び、ぎゅっと枕の端を握りしめる。
大丈夫。大丈夫。このくらい耐えられる。そのように何度も呪文のように心に唱える。
海崎にはここにしか居場所がない。逃げ出してきたことだって恥ずかしいと思うのに、今さら東京には帰れない。否が応でもここにしがみつくしかない。たとえ同室者に毛嫌いされようとも。
「晴真。ちょっと話があるんだけど」
高校一年生の冬、なんでもない夜だった。神妙な顔つきでダイニングの椅子に座る父親に呼ばれた。
海崎は六歳のころ母親を病気で亡くし、ずっと父親とふたり暮らしをしてきた。
「何?」
「あのさ、俺、転勤の話が出てるんだ。半年から一年間くらいかな。リゾートホテル再建の案件があって」
海崎の父親はリゾート経営コンサルティング会社に勤めており、転勤や出張が多い職種だ。父親は子どもがいるからと長期的なものは断り続けていたようだが、ついに断りきれなくなったのかもしれない。
海崎は高校生だ。ひとり暮らしだってできないことはない。朝、父親が作ってくれている弁当を、自分で作るかコンビニで買うようにすればなんとかなる。
だが、唯一の家族である父親がいなくなるということは、今の生活がさらに辛くなるということだ。
最悪な今の状況から、さらに悪くなる。容赦のない事実に、海崎の心は暗い闇の中に沈んでいく。
「いいよ、わかった。父さんは仕事を頑張って。俺は大丈夫だよ。弁当を作ったこともあるし、ひとりでも暮らせるから」
父親に余計な心配はかけたくないと、海崎は笑顔を作る。それなのに父親は「違う」と話を遮ってきた。
「一緒に行かないか?」
「一緒にっ?」
「あのな、俺はいつもどおり転勤話を断ろうと思ったんだ。でも晴真に聞いてからにしようと思って返事をしなかった」
「なんで……?」
海崎には父親が言わんとすることがわからない。
「海の近くにある、綺麗な高校なんだ。男女共学の進学校で勉強には力を入れているらしい。テストはあるが、晴真なら転入できると言っていたよ」
「転入……」
現在、海崎の通っている学校は、中高一貫教育を行う都内有数の男子校だ。
海崎は小学生のころ、やたらと成績がよかった。物覚えがいいのと、一と習ったことを十に応用するのが得意だったのだ。
そのため父親は海崎を中学受験のための進学塾に通わせた。夜のあいだ息子を家にひとりきりにするよりは安全だと考えたのもあるらしい。
海崎は父親を喜ばせたい一心で、必死になって勉強した。息子の海崎がわかりやすい成果を挙げることが、親戚の反対を押し切っても子どもを手放さず、男手ひとつで育ててくれた父親のメンツを守ることに繋がるからだ。
そうしてギリギリ入った学校で、海崎は中学校デビューに失敗した。
うだつの上がらない成績に、クラスでは影のような存在。
希薄な友人関係にしがみついて、ひとりぼっちになりたくないからヘラヘラ愛想笑いをする。頑張っているのに、うまく人間関係を構築できない。人といるのに疲れて学校に行かない日もあった。
海崎は窒息寸前だった。
それでも受験戦争を乗り越え、必死で入った誰もが羨む学校だ。今の生活から逃げ出すことなど、許されないと思い込んでいた。
でも今、目の前に転校という逃げ道が開かれた。それは思ってもみないことだった。
「大丈夫だ。父親の仕事の都合ならば、転校しても、東京に戻ったら今の高校に戻れるらしい。学生寮もある高校なんだよ」
父親はたくさんの資料をダイニングテーブルに並べた。現地の高校のこと、寮のこと、今通っている学校の規則までこんなに用意周到に調べてくれていたことに驚いた。
「晴真がついてくるなら、俺はこの仕事を受ける。ここに残りたいなら転勤はしない。俺も晴真と東京にいるよ」
父親は優しく、そして真っ直ぐに見つめてきた。
父親は、転校という逃げ道を用意してくれたのだ。それも自身の仕事を理由にした、海崎がもっとも逃げやすい形で。
そして、逃げるかこのまま食い下がるか、その選択肢を海崎に与えてくれた。
「海の近くの高校かぁ……」
父親の見せてくれた資料には、ドローンで空から撮影したような、広大な景色の写真が載っていた。
リゾート地のような澄んだ青空とそれを反射する碧翠色の海。それを背景に、白い高校の建物が写っている。周囲は灰色のビルばかりの海崎の通う高校とは大違いだ。
それに学生寮での暮らしにも興味を持った。勝手なイメージだが、学生寮というのは大勢の家族で暮らしているような、寂しさも感じない、賑やかなものなのではないか。
海崎は少しの逡巡のあと、父親の出張についていく道を選んだ。
特別なことは望まない。
登校したら普通におはようと挨拶を交わし、たわいもない話をしながら昼食を一緒に食べる。学校帰りに寄り道したり、一緒に勉強したり、今度こそ友達だと胸を張って言える関係性を築きたい。
みんなと同じように、ごく当たり前に呼吸をして生きてみたいと思ったのだ。
ここに来てから残りの春休みは終わり、新学期が始まった。学校生活も寮生活もそこそこ慣れてきた。
だが同室の伊野との仲は相変わらずで、海崎も気を遣って、伊野が部屋にいるときはなるべく部屋にいないようにしている。
それでも勉強机を使いたいときや、夜は部屋に行かなければならない。そこは仕方がないので、なるべく伊野の機嫌を損ねないように静かに過ごしていた。
海崎が、机に向かって宿題を片付けていたときだった。
同じく机で勉強をしていた伊野の、小さな歌声が聴こえてきたのだ。
それが、とてつもなくいい。
この曲はよく知っている。海崎が一時期、鬼リピして聴いていたボカロPの曲だ。音程とリズムが難しいボーカロイド用の曲を綺麗に歌いこなしている。伸びやかな声の透明感、耳触りのいい音質。鼻歌でこのレベルだ。もし伊野が本気で歌ったら……。
海崎は思わずガタッと椅子から立ち上がり、伊野のほうに引き寄せられるように近づいていく。
気配に気がついたのか、伊野がキャスター付きの椅子を回して振り返った。
「あぁ、悪い。うるさかった?」
「ううん。うるさくない。すごくよかった」
海崎は真面目な顔で言ったのに、「よかったっ?」と素っ頓狂な返事が返ってきた。
「何が……。ぶはっ」
伊野は笑いをこらえきれないといった様子で吹き出した。なぜ笑われたのか海崎にはわからない。
「だって、よかったんだ。びっくりするくらいによかった」
「ただの鼻歌だぜ? それを、そんな真面目に……」
伊野はまだ笑っている。
「伊野はすごくいい声をしてるよ。よく人から言われない?」
そういえば伊野は話す声もいい声だ。発音もはっきりしていて、どこか優しくて、少しあどけない。とても好感がもてる声だ。
「言われたことねぇよ。割と普通だもん」
「自覚がないだけだ。めっちゃいいよ! 音程もバッチリだし、ブレスのタイミングが神がかってるし、すごくいい!」
たくさんの音楽を聴いてきたし、耳は悪くないと思う。東京にいたときは楽器も演奏していた。ほんの少しでも音楽に携わってきたという小さなプライドだってある。勘違いなんかじゃない。
「は……?」
笑っていたのに、伊野の動きが止まった。海崎の言葉は冗談ではないと少しは伝わったのかもしれない。
「なんか恥ず……」
伊野が視線を逸らした。うつむき加減でも、耳まで赤くなっているのがわかる。照れている伊野を見て、やっと気がついた。
やばい。これはやらかした。
完全に言い過ぎだ。
「ご、ごめん……」
海崎は伊野から目を逸らす。なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。音楽のことになると、キモいくらいに熱くなってしまうのは海崎の悪い癖だ。
「い、いいよ別に」
ふたりのあいだに急に変な空気が流れ出して、海崎は早々に後悔する。多分これは距離感を間違えたってことだ。
仲良くもないのに、いきなりぐいぐい来られたら、気持ち悪がられるに決まっている。こうやって失敗してきたのに、また同じ間違いをする。
どうして懲りないんだろう。人と仲良くしたいのに、いつもうまくいかない。
「アハハッ! 海崎って変な奴だな」
伊野は突然、豪快に笑いだした。強い風が吹いたみたいに淀んだ雰囲気が一気に吹き飛んだ。
伊野は椅子に座ったまま、海崎の足を軽く蹴っ飛ばしてきた。
「痛って!」
海崎が痛がると、伊野はその反応を見て笑う。
伊野に蹴られた足は本当は全然痛くなんてない。これはちょっかいを出してくれる、伊野の優しさだ。
「でも、歌は好きだ」
伊野は微笑みかけてきた。その屈託のない笑顔を向けられてハッとする。
こんなふうに返されたのは初めてだ。
伊野は、急に暑苦しく音楽を語ってきた海崎のことを否定しなかった。
「俺の母さんさ、ピアノの先生やってんだ。それで、兄弟みんななぜか歌が好きでさ」
「俺も。俺のお母さんもそうだよ、ピアノの先生だった。俺が六歳のときに、死んじゃったけど」
それから伊野と椅子を寄せ合い、身の上を話した。
海崎が五歳のとき、母親は闘病生活となった。
当時、ホテルのマネジャー業務の仕事をしていた父親は多忙だった。そんな中、家事に育児、母親の励ましと看病に明け暮れる父親は、倒れそうなくらいの生活を送っていた。
一年間の闘病生活ののち、母親はこの世を去った。葬式のときに、男手ひとつでは子どもは育てられないだろうと、海崎を親戚の家で預かる案が出たが、父親は「晴真は俺の子です。俺が立派に育ててみせます」と断固拒絶した。
「父さん、すごいだろ? 俺はすごく嬉しかった。母さんだけじゃなく、父さんまでいなくなるんじゃないかって怖かったから」
「うん。いいお父さんだな」
伊野はこんな暗い話を、相槌を打ちながら静かに聞いてくれている。
父親はその後、相変わらずの多忙を極めた。
親戚に「俺が育てる」と啖呵を切ってしまった父親には頼る先がなかった。できると言った以上、意地のようなものがあったのだろう。だが、ひとりだけで仕事も育児も家事もこなすには限界がある。息子である海崎も窮屈な生活を強いられた。
「父さんは事あるごとに俺に『ごめんな』って謝るんだ。俺はそれがすごく嫌で。俺はいつも『大丈夫だよ』って言うんだけどさ」
海崎は文句ひとつ言わなかった。
学校帰りに転んでも、自分で手当てをした。学校で具合が悪くなっても、父親が職場から呼び出されないように黙って耐えた。ひとりきりの時間がどんなにさみしくても、父親の負担にならないように我慢した。そんな苦労話までは伊野には黙っているけれども。
「ひとりきりでいるとき、家の中が静かだと怖くて。だからピアノを弾いてわざと音を立ててた」
家にアップライトピアノが形見のように残されていたのだ。母親に習ったのは僅か二年間。そのあとは独学で弾いていた。音が鳴っていると、メロディーラインを奏でていると、さみしさを忘れることができた。
「そっか……。海崎、実は頑張り屋じゃん」
伊野は労うように海崎の肩をぽんと叩いた。そういえば、こんなに自分のことを人に明け透けに話したのは初めてかもしれない。伊野が聞いてくれるから、なんとなく話せてしまった。
「うちと全然違うんだな。俺は男四人兄弟の長男だから。じいちゃんたちも隣に住んでるし、すげぇうるさいの。マジでひとりになったことなんてないな」
「男四人っ?」
「うん。中三の弟と、小学生がふたり。部屋が足りないから俺は寮に入ったようなもんだよ」
きっとそんな理由でこの高校に入学したはずはないのに、伊野は冗談っぽく笑う。
「これ、弟たち」
伊野はスマホを手にして写真をみせてくれた。伊野のミニサイズみたいな弟たちが、いい笑顔で写っている。
「伊野に似てるな」
「似てねぇよ!」
「似てるよ。ほら、鼻の形とか、唇も……」
海崎は伊野の顔と写真の中の弟たちとをじっくり見比べる。やっぱり似ている。伊野家は美形兄弟だ。
「目の下の涙袋の感じも一緒だよ」
「海崎、近いって。なんか、変な気持ちになる……」
兄弟おんなじところ探しに夢中になって、伊野の顔をじっと覗き込んでいたら怒られた。
「あっ、ごめんっ」
海崎は我に返り、サッと目をそらし距離を取る。いくらなんでも馴れ馴れしすぎた。顔をジロジロ見られたら嫌に決まっている。
「あ、やば! そろそろ寝ようぜ」
伊野がスマホの時計を見て声を上げる。すっかり話し込んでしまい、気がつけば深夜一時を過ぎている。
「本当だ、やばい」
海崎も頷き、伊野とふたり、慌てて寝る準備を整える。
電気を消して、各々ベッドに入ろうとしたとき、伊野がハシゴを上る手を止めた。
「……あのさ海崎」
「ん?」
海崎は振り返るが、暗くてあまり伊野の表情は見えない。
「転校生なんて来なきゃよかったのに、なんて言ってごめん」
「あ……」
それはきっと、初めて伊野と会ったときのことだ。あれから二週間が過ぎたのに、未だに伊野は覚えていたのだ。
「いいよ、気にしてない」
丁寧に言うならば、言われてショックだったけど、こうして伊野が謝ってくれたから気にならなくなった、という意味だ。
「あんなこと言ったから、海崎に避けられたと思ってた」
「伊野だって、俺がよろしくって言ってもすごい無愛想でさ……」
忘れもしない。初対面のとき、伊野に「よろしく」と言ったのに塩対応されたのはショックだった。
「あれは、あんなこと言われたあとで、よく果敢に話しかけてくるなってびっくりしたんだよ。ひっどい作り笑いだったし」
「え、そんなひどかった?」
海崎渾身の笑顔は偽物だと、伊野にあっさり見抜かれていたらしい。無理してることがバレていたなんて、そっちのほうが余計に恥ずかしい。
「ひどかった。笑いそうになった」
「えっ? 笑いそうになったっ?」
あのとき、伊野に嫌われても仲良くしたいと、海崎はめちゃくちゃ頑張って笑顔を作った。その姿を見て笑いそうになったとは、よく言ったものだ。
「俺は伊野のこと避けてなんかないよ。……ただ、ちょっと、気まずくて」
海崎は視線を落とす。
そう言われて思い返してみると、がっつり避けていたなと思った。伊野が部屋に戻ったら、そそくさといなくなるようにしていたし、ろくに会話もしなかった。でもそれは伊野を思いやっての行動だったのに。
「正直、こたえてたんだ。海崎に嫌われたって」
伊野は寄りかかるようにして、海崎を抱きしめてきた。
ふわっと伊野のTシャツからいい匂いがする。伊野のほのかな温もりを感じる。
突然、伊野に抱きしめられて、海崎はどうしたらいいのかわからず動けない。
なぜだろう。海崎の顔が急激に熱を持つ。耳の先まで熱くてたまらない。
「はぁ。よかった」
伊野の安堵のため息が、海崎の首元をくすぐる。
伊野がそんなふうに思っているとは思いもしなかった。
どうせ伊野に嫌われていると、関係を構築する前から逃げていたのは海崎だったのだ。
「おやすみ」
伊野は海崎から身体を離し、二段ベッドのハシゴを慣れた動作で上っていく。
「お、おやすみ」
海崎も自分のベッドに潜り込んだが、伊野に抱きしめられた余韻で頭がいっぱいだ。
妙に心臓が高鳴る。熱があるときみたいに頭がぼうっとする。
海崎は人から抱きしめられることに耐性がない。
父親はスキンシップをするようなタイプではなかったし、友人関係もいつもあっさりしていた。あんまり人と触れ合うことがなかったから、きっとこんな気持ちになるのだろう。
部屋が暗くてよかった。あれくらいで顔を真っ赤にしていることがバレたら、伊野に笑われるに決まっている。最悪、キモい奴って思われるかもしれない。
海崎は目を閉じ、眠ろうとするのに、さっきまでの高揚した気持ちのせいで頭が冴えてしまっている。
伊野に抱きしめられてドキドキしたけど、嫌じゃなかった。
どういうつもりで伊野があんなことをしたのかわからないが、誰だって嫌いな奴を抱きしめたりはしないはずだ。
このまま伊野とうまくやっていけるかもしれない。深海に届く僅かな光のようなものを感じて、海崎はぎゅっと布団を抱きしめた。
次の日、登校するとすぐに、伊野が話しかけてきた。学校で伊野に話しかけられるのは初めてのことだった。
「なぁ海崎、昨日の数学のさ、ここ、どうやって解くの?」
海崎はノートを見せられて、「ここはね……」と解法を伊野に教える。数学は比較的得意な科目だし、伊野が聞いてきたのはごくごく基本的なことだから、この程度ならすぐに答えられる。
「海崎、やっぱすげぇよお前。さすがA高校だな」
ここでもA高校の名前を出されてしまう。どうやら『A高校から来た秀才転校生』が海崎の代名詞になっているらしい。A高校は有名校だが、海崎はそこの落ちこぼれなのに。
「伊野ーっ! おはよ!」
「おう、おはよ!」
伊野は登校してきたばかりの女子と元気よく挨拶を交わす。それからふたりで楽しそうに会話をし始めた。
この高校は共学だ。海崎が東京にいたころは男子校だったので、普通にクラスに女子がいることにめちゃくちゃ違和感を覚える。
「伊野、髪切った?」
「あ、うん。わかる? 昨日切りに行ったんだ」
「わかるよー、さっぱりしていい感じ。めっちゃ似合ってる。かっこいい!」
言われれば伊野の髪型が変わっていることに気がついた。襟足がすっきりしていて、前髪もセンターで分かれて横に流すスタイルになっている。そういう細かいことに気がつける人になりたいのに、海崎はどうも苦手だ。
「ありがとな。そうだ。この前、知花に教えてもらったかき氷専門店行ったよ。マジでうまかった!」
「でしょっ? シロップもいいんだけど氷がおいしいってやばいよねー」
「それ。マジでそれ」
伊野はごく自然に女子と話をしている。男子校ではありえない光景に、海崎はついていけない。
同じクラスで伊野を見ていてわかったことだが、伊野は女子から憧れの眼差しを受けている。同級生だけじゃない、隣の校舎の中等部の生徒までかっこいい先輩といった目で伊野を見ているのだ。
伊野も伊野で、女子中学生と知り合いなのか「おはよ」と明るく挨拶を交わしている。それだけで女子が頬を赤らめているのだから、伊野は相当モテるのだろう。
まぁ無理もない。あのビジュアルに、さっぱりとした明るい性格ならモテて当然だ。
今も伊野は女子と楽しそうに談笑している。
学校では恋愛のことは隠しているかもしれないが、高校二年生。共学。コミュ強。モテる。とくれば、伊野にはすでに彼女がいるかもしれない。
恋愛はおろか、ろくに友達もいない海崎には未知の世界だ。
「海崎、サンキュー。またわかんないとこあったら聞くわ」
「えっ、あ、うん」
ぼんやりしていたところを話しかけられ、海崎は慌てて返事をする。
チャイムが鳴ったのだ。それで、伊野も他の生徒たちも自分の席に戻っていく。
やがていつものように授業が始まり、六時限目に委員決めをすることになった。
どの委員も比較的スムーズに決まったのに、ただひとつ、中央委員会だけ誰も手を挙げない。
この学校における中央委員会とは、生徒会の補佐をするような立場で、各クラスの代表的な立場らしい。中央委員会は活動日数の多い委員会らしく、みんな余裕がないのだ。部活に勉強に忙しいという声がちらほら聞こえてくる。
結局、委員会をやっていない生徒でくじを引いて決めることになり、そのくじを海崎が見事に引き当てた。
「当たっちゃった……」
海崎自身もまさか自分がくじを引き当てるとは思わなかった。でも当たってしまったものは仕方がない。
「どうする海崎、大丈夫か?」
担任からも言われ、クラスのみんなからも不安気な視線を感じるが、「や、やります」と小さく手を挙げる。転校生だからって誰かに代わってもらうのは申し訳ない。くじは公平だ。当たってしまった以上は責任を持って引き受けたい。
「じゃあ、海崎と上原に決定。ふたりは前に来てここに名前書いて」
担任の教師に呼ばれて海崎は所定の紙に名前を書く。
「よろしく、海崎くん」
「うん。よろしく」
海崎のペアになった上原が微笑みかけてきた。中央委員会はクラスでふたり、男女ひとりずつだ。
上原は海崎の出席番号のひとつ前で、今の座席は出席番号順なので、海崎の前に座っている。ふんわりとした雰囲気の癒し系女子で、全然怖そうじゃない。ペアの子がいい子だったのが救いだ。
「早速なんだけどさ、ふたりのうちのどっちか、クラス全体の連絡事項をまとめてルーグルクラスルームでお知らせしといてくれる?」
「はい」
上原は担任から資料を受け取った。でも上原は「これから部活なのに……」と困っている様子だ。
「俺、やろうか?」
海崎は上原の持っていた資料に手を伸ばす。
せっかく委員がふたりいるのだから、できるほうがやればいい。
「いいの?」
「いいよ。やっておく。上原さんは部活あるんでしょ?」
海崎は転校してきたばかりで、どこの部活にも所属していない。放課後だって時間はある。
「ありがとう海崎くん!」
笑顔の上原はどこかホッとした様子だ。いきなり部活を休んで放課後残れ、というのは負担なのだろう。
「ね、海崎くん、連絡先聞いてもいい?」
「えっ、あ、うんっ」
女子から連絡先を聞かれるなんてちょっとドキドキしたが、これは委員会の仕事を円滑に行うための事務的なやつで、全然他意はないんだと頭をすぐに切り替える。
「今度、資料のまとめ方、教えてね」
「うん。いいよ」
連絡先を交換したあと、上原は可愛らしく手を振って去っていった。
「……さてやるか」
クラスのみんなが散り散りになって帰って行く中、海崎は自席に座り、タブレット端末を取り出して電源をオンにする。起動するまで待っていると「なぁ」と声をかけられた。
「あ、伊野」
見上げると伊野が立っていた。
「俺さ、中央委員会やることになってさ。伊野は文化祭実行委員なんだな。大変そうだけど、楽しそうだね」
にこやかに話しかけたのに、伊野の表情は固いままだ。
伊野に何かしただろうか。なんでこんなに不機嫌そうなのだろう。
「え、なに……?」
「連絡先だよ」
「連絡先……?」
「上原だけに教えるなんてずるい。俺も聞きたい。海崎の連絡先」
伊野はポケットからスマホを取り出して海崎に突きつけてきた。
「へっ?」
海崎は拍子抜けだ。伊野が不機嫌だったのは、連絡先を聞きたかっただけ……?
「いいよ、交換しよう」
海崎のアカウントのQRコードを見せて、伊野がリーダーで読み込む。そのあとすぐに伊野からお返しのスタンプが飛んできた。
『よろしクリームパン』
ぐでっとした柴犬とクリームパンの絵のダジャレスタンプだった。いやお前が使うには可愛すぎるだろ、とツッコミを入れたくなるくらいに可愛いスタンプだ。
「くっ……アハハッ!」
堪えきれなくなって海崎は声に出して笑う。
「なんだよ、可愛いじゃん」
「いや、ギャップが……その見た目で、よろしクリームパン……」
海崎がツッコむと伊野は「いいだろ別に」と海崎の足を蹴っ飛ばしてきた。
「痛って! 伊野って足癖悪いよ」
「海崎は蹴ってもいーの!」
「はぁ意味わかんないんですけど」
そうやって伊野と笑い合う。伊野とこんなふうに過ごす時間は楽しいなと思った。
「とにかく、ありがとな海崎」
「えっ?」
「連絡先だよ。なんかあったら送る」
「あ、うん」
「じゃ。また寮で」
伊野は廊下で待っている友人のもとへと小走りに向かっていった。その背中を見送ってから、海崎はタブレットに付属しているキーボードを叩く。
作業の合間に海崎のスマホに通知が飛んできた。そっと確認してみると、それは伊野からのメッセージだった。
『今日の寮メシなんだっけ?』
「……は?」
思わず声が出る。寮の夕食なんていちいち聞くなよと思いながら、今日はカツカレーだったことを思い出し、伊野に『カツカレー』と返信する。
『マジか。めっちゃやる気でた』
「くっ……!」
思わず吹き出しそうになって、教室でひとりで笑っていたらキモいだろうと笑いをこらえる。夕食のメニューでやる気が出るなんて子どもか!
『委員会の仕事、頑張れ』
最後に労う言葉があって、メッセージは途切れた。このまま終わらせようかと思ったが、やっぱりなにか返信したくなって、海崎は『ありがトン』スタンプを送る。豚のイラストつきのダジャレスタンプだ。
すると秒速で伊野からスタンプが送られてきた。さっきと同じ柴犬パンシリーズの『おつカレーパン』スタンプだ。伊野に似合わない、可愛らしい柴犬がカレーパンを手にして忙しそうに汗をかいている。
「だから、意外だって」
こっそり小声でツッコミを入れる。伊野のおかげで眠気も吹き飛んだ。なんだかやる気が湧いてきて、海崎のタイプする指のスピードが速くなる。
転校してきてから誰かと連絡先を交換したのは今日が初めてだ。しかも伊野と上原、ふたりと交換できた。
委員会も引き受けてよかった。クラスの仕事をしていると、なんだかみんなの一員になれた気持ちになる。
頑張れ、頑張れ、と海崎は自分に言い聞かせる。何か才能があるわけでもない。昔から人一倍、頑張ることしかできないタイプなのだから。
その日は眩しいくらいの四月の晴天だった。授業が終わって、SHR(ショートホームルーム)のあと、海崎はリュックを背負って教室を飛び出した。
今日はまっすぐ寮に帰らずに、寄り道をすると朝から決めていた。
寮の最寄り駅まで着いたあと、改札を出てからいつもは左に行くのだが、今日は右に行く。
東京から移り住んできたばかりでこの街のことはさっぱりわからない。だから街を見て回りたかったのだ。
駅前には東京でも見かけた飲食チェーン店がある。その看板を見ると妙に懐かしい気持ちになった。
今日の目標は本屋だ。そこで文房具を買い、いつもと違う道を歩いて寮に帰る。海崎にとっては少しの冒険だ。
雑居ビルが立ち並ぶ大きな通りを歩いていく。東京よりもビルの高さが低いからか、見上げると空が大きく感じる。
やがて交差点の前にあるショッピングモールの広間に出た。その一角に、派手な柄のストリートピアノが置いてあり、母親に連れられた幼い女の子が聴き覚えのある練習曲をたどたどしく弾いていた。
東京の実家にはピアノがあったが、寮にはない。久しぶりに弾いてみたくなり、海崎はおもむろにピアノに近づいていく。
女の子がいなくなったあと、背負っていた黒リュックをピアノの端に下ろす。
椅子に座り、ピアノの白鍵に触れる。ピアノに触れるのは三週間ぶりだ。久しぶりの鍵盤の感触を懐かしく思う。
ゆっくり息を吐いて、指を動かす。弾くのは、海崎の好きなカプースチンの曲だ。
八つの演奏会用エチュードの六曲目パストラール。クラシックとジャズの融合みたいなリズミカルで軽快なテンポの曲だ。
跳ねるような高音を弾いていると心も明るくなる。
息つく暇もない忙しないタッチを夢中になって追いかけていく。何もかもを忘れて没頭するこの感覚が好きだ。
曲を弾き終えたあと、椅子から立ち上がり、リュックを手にしたとき、パチパチと拍手が聞こえた。
振り返ると、通りかかった人が立ち止まって海崎の演奏を聴いてくれていたらしいことに気がついた。
しかもひとりじゃない。数名の人が聴いてくれていたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
ペコペコ頭を下げて、リュックを背負う。独学で弾いているだけだから、ピアノの発表会のようなものにも参加したことがない。誰かに演奏を聴いてもらうのは、初めてのことだった。
海崎は人から評価されることに慣れていない。注目されるのが恥ずかしくなってきて、もう一度ありがとうの意味を込めて頭を下げたあと、その場から逃げ出した。
「海崎!」
大通りの先を進もうとしたとき、耳触りのいい声で名前を呼ばれた。この声は聞き覚えがある。振り返ると伊野が息を切らして駆けてくるところだった。
「さっきの演奏、すごいな。聴いててびっくりしたよ」
「えっ、聴いてたのっ?」
まさか伊野が聴いているとは思いもしなかった。というより、自分の演奏など誰の耳にも届かないと思って弾いていた。
「カプースチンのパストラールだろ? 俺の好きな曲だ」
「あの曲知ってるのっ?」
正直、驚いた。海崎は好きだが、クラシックに興味がないと聴くことのない曲じゃないかと思っていたから。
「うちのピアノ教室に来てた生徒が弾いてたよ。あ、俺は無理ね。あんな高難度曲は弾けない」
「あぁ、そっか。伊野んちのお母さんもピアノの先生だったね」
伊野は実家がピアノ教室だと言っていた。その暮らしの中で自然といろんな曲に触れてきたのだろう。
「海崎、あれ独学?」
「うん。そうだよ。母さんに習ったのは本当に小さいときだけ」
海崎は頷く。ピアノは誰に教わることもなく、誰に聴かせることもなく、いつもひとりきりで弾いていた。
「お前、まさかのピアノガチ勢じゃん。マジ聴き惚れた。弾いてるときなんか、別人みたいだし……あの、かっこよかったよ」
「えっ、そっ、そんなことないよ……」
海崎にとっては本当に趣味の範囲なのだ。だから自分が上手いとも下手とも考えたことがなかった。それなのに伊野に褒められ、なんだかこそばゆくなる。
「海崎、指長いもんな」
伊野がサッと海崎の手を取り、指を眺める。伊野はなんでもない様子だが、手を握られた海崎はダメだ。伊野に触れられて心拍数が爆上がりする。
「い、伊野は、なんでここにいるんだよ」
手を握られるのが恥ずかしくて、海崎はサッと手を引っ込め話題を変えた。
「だって、海崎が駅降りたあと、寮じゃなくてどっか違う方向に歩いて行くからさ、気になって……」
「寄りたいところがあったんだよ」
「なんだよ、そっか。ビビるわー。海崎ふわふわしてて危なっかしいしさ、どこ行っちゃうんだろうとめっちゃ不安になってさ」
「大丈夫だよ。そんなに頼りない?」
伊野は実は過保護なタイプなのだろうか。どこへ行っても道に迷ったら地図アプリだってあるし、どうとでもなるだろうに。
「ああ。心配だ。お前をひとりにしておけない。俺もついていく」
「大丈夫だって」
「嫌だ。一緒に行く。変な奴に絡まれたらどーすんだよ」
「はぁっ?」
なんだその心配は、と海崎は呆れる。可愛いJKならわかるが、男の海崎はそこまで弱くない。
「とにかく! 俺ならこの辺りはめっちゃ詳しいから。ほら、行くぞ!」
「……わかったよ」
伊野は海崎についてくるつもりのようだ。でも嫌ではない。ひとりきりの散策のつもりが、急遽、相棒ができた。
海崎は伊野と並んで歩く。
「で? どこ行きたいの?」
「本屋。こっちにもシュンク堂があるって知って、行ってみたかったんだ」
「なんだ。すぐそこじゃん。こっちだ」
伊野は一歩先を歩き、本屋の方角を指さしながら笑顔で海崎を振り返った。
日に焼けた健康的な顔で、伊野は爽やかに笑う。
不思議だ。ひとりだと心細かったのに、伊野がいるだけで気持ちが急に軽くなる。
伊野の明るい性格が周りをそうさせるのだろうか。伊野と一緒にいると、誰でもこんな気持ちになるものなのだろうか。
「海崎。本屋のあと、いいとこに連れてってやる」
伊野は海崎に得意げに話しかけてきた。
「いいところ?」
「そう。かき氷屋。店の雰囲気も可愛いし、めっちゃうまいんだよ」
「あ、この前教室で女子と話してた店?」
「違う。俺の好きな店。まだひとりにしか教えたことない。海崎、お前でふたり目だ」
「伊野の好きな店か……」
伊野が人にほとんど教えない、大切にしている店なのかもしれない。食べてみたいな、と思う。季節は春だけど今日は日差しが強い日だ。冷たいかき氷はとてもおいしそうだ。
「そのあともっといいところを案内するよ。いい演奏聴かせてもらったから」
「えっ! あんなの……」
まさかさっきの演奏のことをここにきて掘り返されるとは思わなくて、海崎は焦る。
「楽しみにしてろよ、俺のとっておき」
「どこ?」
「内緒」
子どもみたいに笑う伊野に、海崎は「もったいぶるなよ」と声を出して笑う。
きっと伊野につられたのだと思う。明るい伊野のノリに乗せられて、なんだか自分まで陽キャになった気分になる。
「海崎って実はよく笑うんだな」
伊野は急に真面目な顔になり、海崎の顔を覗き込んでくる。
「えっ……」
海崎も伊野を思わず見返した。伊野と至近距離で目が合う。
そんなことを人から言われるのは初めてだった。
よく笑うのは伊野といるからだ。伊野といると自然と笑顔になれる自分がいることに気がついた。
「海崎はもっと愛想のない奴かと思った」
「なんで……?」
「見た目がさ、都会のいいところの子って雰囲気だったんだよ。こんな綺麗な顔して、肌も白いしさ」
伊野が手を伸ばしてきて、突然、頬に触れてきた。伊野の指の感触が、海崎の素肌を滑り落ちていく。
「なっ……!」
海崎は驚いて目を見開いた。親しい友人がいなかった海崎は、あまり人に顔を触れられたことがない。
「東京の人ってみんなこんなに肌綺麗なの?」
「き、綺麗なわけないだろっ!」
海崎は慌てて伊野から離れる。なぜかわからないが、伊野のほうを直視できずに海崎は逃げるように足早に先を歩く。
なんなんださっきのは。
肌綺麗とか、急に顔を触ってくるとかおかしくないか。あんなことをする伊野は無自覚なんだろうか。
「海崎っ!」
突然、ぐいっと腕を引っ張られた。せっかく伊野から逃げたのに、伊野の力強い手で引き戻されて、海崎は背中を伊野の胸板に打ちつけた。
海崎が寄りかかってもびくともしない。制服の白シャツの上からでも、伊野の身体の逞しさがわかる。細身の海崎なんて、いとも簡単に抱き止めてしまった。
「信号赤だから。何やってんだよ、危ないだろ」
「あ、ごめん……」
伊野の言うとおり、目の前の歩行者信号は赤だ。伊野は海崎の不注意に気がついて、歩道に引っ張り戻してくれたのだ。
「やっぱり危なっかしいよ、お前」
「ほんとごめん。ぼんやりしてた」
まさか伊野に顔を触られて、脳内パニックを起こしていたとは恥ずかしくて言えない。
「アハ、アハハッ。マジかよ。今、ここでぼんやりっ?」
伊野が爆笑し始めた。
「海崎可愛い。可愛すぎるって。小学生の弟でもぼんやりして赤信号は渡らねぇよ」
「そ、そうだよね……」
海崎はそっと伊野から身体を離す。伊野に抱き止められたままでは落ち着かない。
伊野には弟が三人もいる。だからスキンシップが多いのだろう。さっきのだって、海崎のことをまるで弟のように思ってしたことなんじゃないだろうか。
でもずっとひとりぼっちだった海崎にとって、伊野の距離感は近すぎる。恥ずかしいような、特別なもののような、なんとも言えない妙な気持ちになる。
「ほら。青になった。行こうぜ、本屋に」
「わ!」
伊野は海崎の手首を掴んで歩き出す。手は繋いでいない。繋いではいないけど、ちょっと待ってほしい。こんなふうに手を繋ぐようなことをするのも海崎は初めてで、心の準備が整っていない。
「伊野ぉ……」
伊野のスキンシップに耐えられなくなった海崎が情けない声を出したのに、伊野は「え? どした?」となんとも思っていないようだった。
目的の本屋に着き、海崎は文房具を見て回る。欲しかったシャーペンの替え芯を手にしたあと、今度は色ペンを物色する。
「やっぱり青かな……」
海崎はオレンジ色と青色のペンを見比べる。海崎はペンケースの中身は最低限にすると決めているから、何色もペンは使わない。どちらかひとつにしたい。
「オレンジとか普通に見やすくない?」
隣にいる伊野がオレンジのペンを指差す。たしかにオレンジはハッキリした色で見やすいのはわかる。
「でも俺、海崎晴真だし」
「え?」
「なんか、イメージ青って気がしない?」
昔から密かに思っている。海だし、晴れだし、なんとなく青色が自分のイメージカラーだ。
「ふは。まさかそうくるとは思わなかった……」
伊野は口元を覆っているが、指の隙間からニヤニヤしているのがバレバレだ。
伊野の言いたいことはわかる。
「名前で決めるなんて子どもっぽいって言いたいんだろ?」
海崎はジト目で伊野を見る。伊野は正直すぎてすぐに顔と態度に現れるのがよくない。
「いや、そんなことないないっ。ちょっとツボっただけ……」
伊野は必死で笑いを堪えている。
「なんだよ」
「大丈夫、なんでもない」
まったく伊野は困った奴だ。さっき伊野は海崎に「よく笑うよな」みたいな類いの言葉を投げてきたが、よく笑うのは伊野だ。
「伊野は?」
「え?」
「伊野は下の名前、何?」
そういえば伊野の下の名前を知らない。みんな伊野のことを苗字で呼ぶから気がつかなかった。
「……それ聞くか」
伊野から波が引くように笑顔が消えた。この話題は地雷案件だったのだろうか。
「ま、すぐにバレるし。礼里だよ。お礼の礼に里」
「礼里……」
「女に間違えられるのが、地味にコンプレックス」
伊野の表情が曇っていく。たしかに『れいり』という響きは女性っぽいかもしれない。
「でもさ、いい名前だよ。守礼門の礼に、首里城の里とか? 俺はすごく好きだけどな」
本当にいい名前だと思った。きっと伊野の両親は、たくさんの願いを込めてこの名前を息子に授けたのだと思う。
「よくわかったな! そうなんだよ、実はそっからきてる」
伊野は驚き、目を瞬かせている。
「伊野らしいよ。明るくて、なんかみんなの中心って感じで」
生まれながら、たくさんの人に囲まれて愛されてきたんだろうなと伊野を見ていると思う。いつの過去も人間関係に四苦八苦してきた海崎とは大違いだ。
「……まぁ、燃えたけどね」
寂しげなトーンで伊野が呟く。あれは衝撃的で心が痛くなる事故だった。
テンションが下がった伊野を励ましたくて、海崎は明るい声で言う。
「人の細胞だって四年で骨まですべて入れ替わるんだ。でも、その人はその人で在り続ける。そこに魂がある限り、何度生まれ変わっても信仰は変わらないよ。だからやっぱりいい名前だ」
海崎は伊野に微笑みかける。伊野も笑顔になってくれるかと思ったのに、そうではなかった。
伊野は完全に固まっている。
「……伊野?」
海崎が伊野の顔を覗き込むと「あぁ、ごめん」と伊野が戻ってきた。
「海崎すげぇ。俺、今、めっちゃ感動した」
伊野は本当に感動したようで、若干、目を潤ませながら海崎に気持ちを訴えてきた。
「そ、そう?」
褒められてちょっと照れくさくて、海崎は髪をいじりながら密かにニマニマする。なぜだろう。伊野に言われると余計に嬉しい。
「つうわけで、海崎は青だな」
伊野は海崎の手からオレンジのペンを奪い取った。
「俺はオレンジ」
「えっ? 伊野も買うのっ?」
伊野はただの付き添いのはずだ。見ていたら急にペンが欲しくなったのだろうか。
「ああ、買う。海崎とお揃いのペン、色違いで欲しくなった」
「マジでっ?」
「海崎は晴真だから青。俺は守礼門と首里城の朱色……は無いからオレンジにする。それがイメージカラーだから」
伊野は白い歯を見せて笑う。
コンプレックスだと言っていたのに、名前由来の色を選ぶなんて、もしかしたら伊野は自分の名前を少しだけ好きになってくれたのかもしれない。
「あとさ、ノートも見ていい?」
伊野は海崎の返事なんて待たずに、さっさとノート売り場へ向かっていく。せっかちだなと思いつつ、海崎には伊野の希望をダメなんて言うつもりはない。
伊野の背中を追いながら、海崎は青いペンをしっかりと握りしめていた。
本屋をひととおり巡ったあと、伊野に誘われ、かき氷専門店に寄る。店は十席ほどしかない小ぢんまりとしたプレハブ小屋だ。それでも外装もポップで可愛らしく、店内も清潔で明るくて、飾ってあるウミガメの本や絵ハガキなど、小物ひとつひとつに店主のこだわりを感じる店だ。
なにより店に流れているBGMのセンスがいい。海崎の好きな曲ばかりだ。
「ここのかき氷デカいから、ふたりで一個でいい? シェアOKの店なんだ」
「え?」
カウンターで注文する前に伊野に言われてハッとする。
他の客が食べているかき氷の大きさを見ると、たしかにひとりでひとつ食べるには、かなりボリュームがある。値段だって安くない。でも伊野とひとつのかき氷をシェアして食べるということは、当然のように間接キスになるわけで……いや男同士気にすることじゃないのかもしれない、でも、でもそんなことを、さも当たり前のように言われても……。
「……海崎?」
「えっ? あ! うん、いいよっ」
勢いで頷いてしまったが、実はめちゃくちゃ落ち着かない。でもそんなことを気にするほうが意識しているみたいで恥ずかしいから、海崎はなんでもないことのように装う。
「何味がいい? 俺、全部いけるから海崎の好きなのにしろよ」
伊野にカウンターのメニューを見せられる。イチゴにマンゴー、メロンにフルーツミックス、抹茶小豆などなど全部で八種類もあって、どれもおいしそうだ。
「伊野のおすすめは?」
海崎は好き嫌いは特にないから、伊野の好きなものを選びたい。なんとか伊野の好みを聞き出したくて探りを入れる。
「言わない」
伊野は意見はしないと言わんばかりに口を固く結ぶ。
海崎の作戦が伊野にバレている。伊野はどうやっても海崎に選ばせるつもりのようだ。
でも海崎は伊野の仕草を見逃さなかった。伊野の視線は、海崎にメニューを選ばせていたときからイチゴかき氷にいきがちだったし、おすすめを聞いたとき、無意識なのだろうが伊野の手が一瞬そちらの方向へ動いた。それに以前、学校で伊野が女子と話をしていたときもイチゴかき氷の話をしていた。多分これだ。
「やっぱりイチゴかな。これがいい」
「いいね。そうしよう。すみません、イチゴかき氷ひとつ。スプーン二個で」
伊野が注文すると、茶髪の若い女性店員が「はーい」と愛想よく答える。
千円のかき氷を割り勘で支払いして、席で待っていると程なくしてふたりの目の前に大きなイチゴのかき氷が置かれた。
「うわぁ」
左右にスプーンが添えてあり、透明なガラスの器からこぼれ落ちそうなくらいのかき氷だ。果実感のあるイチゴソースがたっぷりとかけられている上に、生イチゴと緑の葉っぱ形のチョコレートもトッピングされていて見映えもすごくいい。
でも伊野の顔が隠れるくらい、めちゃくちゃ大きいから、ふたりでシェアして食べるくらいで丁度いい量だと思う。
「はい。海崎」
写真を撮ったあと、伊野がかき氷のてっぺんにあったイチゴをスプーンで掬って海崎に向けてきた。
「俺が食べていいのっ?」
「もちろん。ほら、口開けろ」
伊野がぐいぐいイチゴを海崎の口元に押しつけようとする。
これはもしかして、伊野にこのまま食べさせられるシチュエーションなのだろうか。
「遠慮すんなって。はい。あーんして」
こんな距離感で人と接したことなんてない。
どうしよう。また心臓がうるさくなる。
伊野の友達への距離感はレベルが高すぎる。
伊野の感覚では、友達とこのくらい仲良くするのは当たり前のことなのだろう。でも人慣れしていない海崎はどうしても緊張してしまう。
「海崎、コアラとカンガルーがいる、南半球にある国は?」
「え? オーストラリア……ぅぐっ!」
反射的に答えた直後、伊野が海崎の口にスプーンを突っ込んできた。
やられた。これは伊野の作戦だ。単純なクイズに答えさせて、口を開けさせようとする、ずるい戦法だ。
「うまい?」
伊野はスプーンを引いたあと、満足そうな笑顔で海崎を眺めている。
もぐもぐすると、冷たくて甘酸っぱいイチゴが口の中に広がる。喉も渇いていたし、イチゴのジューシー感と冷たいかき氷がさっぱりして、とてもおいしい。
「うん、すごくうまい……」
これは伊野からもらった特別なひと口だ。孤独な部屋でひとりで食べるイチゴとは違う、格別の味がした。
「よかった。じゃ、俺もいただきます!」
伊野はさっき海崎に食べさせたスプーンで、何も気にする様子もなくかき氷を食べ始めた。
「やっぱかき氷はイチゴだな。海崎いいの選んだよ」
伊野は満足そうにパクパク食べている。イチゴ味は伊野の好みみたいだ。夢中になって食べる姿を見て、可愛らしいなと思った。
伊野のことが羨ましい。嫌なものは嫌と言い、好きなものを隠すこともない。こんなに自分の気持ちを表に出して生きられたらいいなと思う。
海崎はいつも考えすぎてしまう。どうすればいいのかわからず、結果的に無反応になってしまい、大人しい奴、何考えてるのかわからない奴だと言われてしまう。
「くっ……! アハハッ!」
伊野が海崎を見て、堪えきれない様子で笑い出した。何がおかしいのか、海崎にはまったくわからない。
「どうしたの……?」
「海崎お前、またぼんやりしてる」
目に涙が浮かぶくらい笑っている伊野は、目尻を手で拭いながら微笑みかけてきた。
しまった、と思う。せっかくふたりで遊んでいるのに、相手がぼーっとしていて無反応だったら一緒にいてつまらないだろう。でも海崎には場の盛り上げ方がわからない。こんなときに気の利いた会話なんて何も浮かばない。
「何? 俺がガツガツ食ってるから気楽そうでいいなって思った?」
「え!」
海崎は慌てて首を横に振る。伊野のことを羨ましいと思っていただけで、決してそれは気楽そうだとか伊野を下に見たんじゃない。
「海崎と一緒にいてわかった。よくぼんやりしてるなって思ってたけど、実はお前の頭の中は大変なことになってんだな」
伊野に言われてハッとした。いつもは、何も言わない大人しい奴だと片付けられて、隅に追いやられるだけなのに、伊野は海崎の心の葛藤をわかってくれた。
「いつか俺に聞かせて。お前の心の中の気持ち」
伊野は澄んだ瞳で海崎を見つめている。
不思議だ。伊野から目が離せない。
伊野の言葉が頭の中で何度も反芻する。
この気持ちはなんだ。伊野は見惚れるくらいにかっこいい顔をしているから、そのせいだろうか。
「あーやばい! そっち溶けてる! ほら、海崎早く食え!」
かき氷が崩れそうになって、伊野が慌ててスプーンで押さえた。
「早く! 俺が押さえてるうちに!」
「う、うんっ」
海崎は崩れる寸前のかき氷を掬って口に運ぶ。急いで何口か食べると、やっとかき氷崩壊の危機から逃れることができた。
「ナイス海崎」
伊野は親指を立てて海崎にサムズアップする。
それからふたりで学校の話をしながら、かき氷を食べた。
「おいしい。本当においしいよ」
氷も鼻にキーンとこないし、シロップも本物のイチゴの味がする。いわゆる高級かき氷は一度も食べたことがなかったから、新鮮な味だった。
「さすが伊野のおすすめだ。こんなおいしいの食べたことないよ」
海崎の言葉に「大袈裟だな」と言って伊野は笑った。
でも、伊野とつつき合って食べるかき氷は、お世辞じゃなく本当においしかった。
「ここだよ」
かき氷屋を出て、伊野に連れて来られたのは、アクアリウムショップだった。
エアレーションのモーター音が聞こえる店内には所狭しと水槽が並んでいる。観賞魚飼育のための商品もたくさん陳列されていて、店内はごちゃごちゃとした雰囲気だ。
たくさんの水槽に、色とりどりの魚たちが泳いでいる。瑠璃色のスズメダイや、黄色いチョウチョウウオ。立派な尻びれと尾びれを持つベタは、一匹ずつ管理され、赤に青にと目に鮮やかだ。
「ほら、ここにニモがいる」
伊野が指さしたのはオレンジの個体に白い線が三本ある、小さなカクレクマノミだ。
「本当だ。可愛い」
魚がゆったりと泳いでいる姿をみるだけで癒される。水中で揺れるイソギンチャクや海藻も目の保養になる。
「ここが俺のとっておきの場所」
あちこちの水槽を眺めていると、伊野が隣から同じ水槽を覗いてきた。
「伊野のとっておきは、いい場所だね」
ここは居心地がいい。
聞けばここの店長は伊野の叔父らしい。だから伊野は店長とも親し気に話をしていたし、店長は伊野と海崎のふたりにひとつずつアメをくれた。
「エサやり見てく?」
店長が水槽の上から魚のエサを撒いた。すると魚たちが一斉にエサに群がった。悠々と泳いでいた魚たちがアグレッシブに動くさまは圧巻だ。
その様子を微笑ましいなと眺めていたときに、海崎はある一匹の魚に気がついた。
黒色の小さな個体だった。スズメダイの一種のようだが名前はわからない。その黒色の魚は皆がエサを食べているのに、岩の陰に隠れたまま動かない。エサを食べようとしないのだ。
「あー、魚には縄張りがあるからね」
店長は海崎の視線に気がついて、水槽内にボス魚がいると小さい個体をいじめることがあるというような趣旨の説明をしてくれた。
「そうなんですね……」
外からぼんやり水槽を眺めているだけでは気がつかなかった。でも、魚の中にも優劣の社会が形成されていて、集団に入れず、孤立している個体がいることを知った。
このアクアリウムショップには、カクレクマノミのように有名な魚もいれば、美しい色の魚も目移りするくらいにたくさんいる。だがもっとも海崎の心に残ったのは、他の魚につつかれて岩陰に逃げてばかりの、名も知らぬ黒くて地味な魚だった。
アクアリウムショップからの帰り道、寮までの近道だからと広い公園を抜けていく。
「伊野は魚好きなの?」
伊野のとっておきの場所は、意外なところだった。伊野はもっと活発なイメージで、のんびり魚を眺める趣味があったとは思わなかった。
「ああ。実は子どものころ、魚マニアだったんだ。水族館とか、海が好きでさ。魚釣りもよく連れてってもらったよ」
「伊野が、魚マニアっ?」
「そうだよ。意外に魚に詳しい……かもしれない。魚の名前ならまぁまぁわかるよ」
「そうなんだ。面白いな伊野は」
話を聞いていると、小さいころの伊野はしょっちゅう海で遊んでいたそうだ。魚研究者みたいなのはピンとこないが、外で駆け回る幼い伊野の姿は、容易に想像できる。
「東京とこっちじゃ、子どものころの遊び方も違うんだろうな」
「そうかもね……」
海崎には東京の子の遊び方もよくわからない。友達はあまりいなかったし、途中から進学塾に通い始めたからだ。
伊野とふたりで遊歩道を歩いているとき、夕焼けが伊野の横顔を橙色に照らした。それがやけに綺麗で見惚れていたら、伊野が海崎の視線に気がつき微笑みかけてきた。
「あー、夕焼け? 本当だ。マジで綺麗だな」
伊野は手のひらを目の上にかざし、目を細め、眩しそうに夕焼けを眺めている。
遠くを見つめている伊野の姿も凛々しくて好きだ。
「綺麗だね」
海崎は相変わらず、ありきたりなつまらない返ししかできないのに、伊野は「なんかいいな、こういう時間」と隣にいてくれる。
不思議だ。
人と一緒にいるのは得意なほうじゃないのに、伊野といるのはまったく苦にならない。
むしろ、心地よく感じるくらいだ。
こんなにたくさんの時間を誰かと過ごしたら、i気疲れしてしまうはずだ。それなのに、この穏やかな時間がもっと続けばいいのにと海崎は望んでいる。
そんなふうに、ふたり静かに歩いていたときだ。
完全に油断していた伊野のもとに、突然サッカーボールが飛んできた。
「アガッ!」
あっと海崎が思った瞬間、サッカーボールは伊野の右頬に命中した。伊野は痛そうに顔面を手で覆う。
「すみません!」
「ごめんなさい!」
小学生くらいのサッカー少年たちがすぐさま謝りにやってくると、伊野は「お前ら見てろよ!」とボールを蹴り出した。
それも見事なドリブルだ。サッカー少年たちが伊野のボールを狙ってきても、伊野は見事なディフェンスでそれをかわした。
いつの間にか、伊野は子どもたちのプレーに混ざって遊んでいる。ほんの一分ほど遊んだあと、最後に少年にボールを取らせてバイバイだ。
「お兄さんうまいね!」
「またね!」
伊野は少年たちに「おぅ!」と返事をしてから海崎のところに戻ってきた。
伊野はすごい。ボールをぶつけられたのに怒りもせず、あっという間に人に溶け込む力を持っている。あれも本人は無自覚なんだろうか。
「弟がサッカーやっててさ。俺も昔ちょっとやってたから、ついボール見ると蹴りたくなる」
そう言って笑う伊野の顔をよく見ると、頬に切り傷のようなものがある。さっきのボールで怪我をしたのだ。
「伊野、血が出てるよ!」
「えっ? マジ?」
「動かないで」
海崎はポケットからサッとティッシュを取り出し伊野の患部から血がこぼれないように抑える。
「絆創膏持ってる。ティッシュ持ってて」
伊野に傷口を押さえてもらっているあいだに、リュックを下ろして中からポーチを取り出す。ガーゼとメッシュ状の医療用パッドがひとつになっている大きめのものがあったから、それを選んだ。
「ごめんね、白くて目立つし大きいけど。寮に戻ったらちゃんと手当てしよう」
海崎は伊野の傷口に白いパッドを貼る。せっかくの男前が台無しだが、これでとりあえず顔が血だらけになるのは防げるはずだ。
「ありがと……」
「早く帰ろう、部屋に傷薬がある。すごくよく効くんだよ。痕が残ったら大変だ。綺麗に治さないと!」
「別にいいって。かすり傷だし」
「ダメだよ、それは俺が許さない、伊野はかっこいいんだから。綺麗に治るまで毎日手当てしてやる」
伊野と同じ部屋にいるからこそできる。毎晩、寝る前に薬を塗ってやる。傷痕が残らないよう、綺麗さっぱり治してやりたい。
「それ、本気で言ってる……?」
「え……?」
そんなの冗談なわけないだろと言い返してやろうと伊野を振り返ってドキッとした。
伊野はやけに真剣な顔をしていた。
「あんまりそういうこと言うと、俺、本気にするけど」
神妙な顔つきで、伊野は何を言っているのだろう。
「う、うん、いいよ。毎晩手当てするよ」
そのくらい、大したことじゃない。本気かどうか確認するようなことじゃないのに。
「……悪ィ。なんでもないっ。ありがとな海崎っ」
伊野はいつもどおりの伊野に戻って、「あー腹減った! 今日の寮メシ何かなーっ!」と言い出した。
「今日は何だったかな。……あ。アジフライだ」
伊野がよく尋ねてくるから、海崎はなんとなく献立をチェックするようになり、自然と覚えてしまっている。
「いいね。うまそう」
笑顔を返してくる伊野はやっぱりいつもどおりだ。
さっきの伊野はなんだったのだろう。海崎にドキッとするような視線を向けてきた。その伊野の真意がわからない。
「てかさ、こんな絆創膏持ってんの、やばくない? お母感が半端ない」
「お、お母っ?」
「普通持ってない」
「だって、俺なんかよくいろんなところにぶつかるから。ぼーっとしてて……」
その何かにぶつかる頻度が自分でも呆れるくらい多いのだ。
「ひどいと普通に歩いてて、真正面から電信柱に激突したことがある」
「アハハッ、マジかよ」
「しょうがないだろ、ぶつかりたくてぶつかってるんじゃないんだから」
「ほんっとお前って、いいわー」
何がいいのかわからないが、伊野は「癒し系、癒し系」と慰めにもならないことを言ってくる。
「そう言う俺も、ダッシュしてて、角で先生にぶつかったことがある。マジでマンガみたいなの。角を曲がろうとしたら先生が前から歩いてきてさ——」
伊野との会話は尽きない。
こんなに簡単に人と会話ができるなんて、知らなかった。伊野はいつも海崎を笑顔にしてくれる。
「あ、海崎。前から言おうと思ってたんだけどさ。明日から昼メシ、俺らと一緒に食わない? ひとりで勉強しながら食いたいときはそれでもいいからさ。俺が海崎の話をしたら、みんなも海崎と話してみたいって言ってたよ」
「いいの?」
学校での昼はいつもひとりだった。ひとりでぼんやりしてるのもアレだから宿題を片付けながら食べていただけで、好き好んでひとりでいたわけじゃない。
「うん。気のいい奴らばっかだし、来いよ」
集団に飛び込むのは怖いが、そこに伊野がいると思うと安心する。伊野がいるならきっと大丈夫だ。
「ありがとう、伊野。声かけてくれて」
「はい、こちらこそ」
傷の手当てをした白いパッドが付いていても、伊野の笑顔は変わらずかっこいい。
やばい。
伊野の隣の居心地のよさに甘えてしまいそうだ。
いつも人との関わりは怖くて、面倒なものだと思っていた。
友達を作らなくちゃ。嫌われないように頑張らなくちゃと気を張って、疲れるばかりだった。
でも伊野は違う。
誰かと一緒にいたいと思ったのは、海崎にとって初めての感情だった。
「海崎、当番代わってくれてありがとな」
寮の談話室のソファーでくつろいでいたときに、寮長の宮城から声をかけられた。
「いえ、大丈夫です。また何かあったら言ってください」
「ありがと、助かるよ」
海崎は寮の掃除などの当番を時々宮城から任される。部活の都合や体調不良などで宮城が決めた当番どおりにいかないことがあるのだ。
掃除は嫌いじゃないし、家事は小学生のころからこなしてきた。寮の誰かがやらねばならない仕事だし、頼まれたら嫌がらずに引き受けたいと思っている。早く寮での生活に馴染んでいきたいし、地味な自分にはそのくらいしかできることはないと思うからだ。
「海崎すごいよな、この前の中間テスト! いきなり学年トップテン入りだろ?」
海崎が談話室で一緒に話をしているのは、なかむーこと中村だ。中村は海崎が学年二百三十八人中、八位だったことを知って、「転校してきたばかりでバケモノか!」とツッコミを入れてきた。以来、中村との距離が縮まった気がする。
東京にいたときは落ちこぼれだったのに、ここでは賢い奴認定されている。そのことに少しだけ複雑な気持ちだ。
「期末のときは勉強教えろよ、お前の部屋に押しかけるからなっ」
「いいよ、一緒にやろう」
中村は気さくでいい奴だ。類は友を呼ぶというから、伊野の友達はいい奴ばかりなのかもしれないなと海崎は思っている。
伊野のおかげで交友関係が広がった。寮でも学校でも話せる友達が増えて、日々が楽しくなった。
中村と話しているのに、さっきから海崎のスマホが鳴りっぱなしだ。さすがに気になって視線をやると、全部、伊野からのメッセージだった。
伊野は本当に毎日メッセージを送ってくる。メッセージをもらえるのは嬉しいが、伊野は忙しいはずなのにどうしてこんなにメッセージを送ってくるんだろうといつも疑問に思っている。
「また伊野だ。しょっちゅう伊野からメッセージが来る。伊野ってマメだよね」
海崎は中村に同意してほしくて言ったのに、「そうかな、普通じゃない?」と返されてしまった。
海崎にとって伊野のメッセージは頻繁に思えたが、友達付き合いのうまい人たちにとってはこのくらい普通の頻度なのかもしれない。
「だって学校でも会うし、寮でも話せるんだからメッセージ送るほどでもないじゃん?」
「だよねぇ……」
不思議だ。あとで言おうとすると忘れてしまうから、メッセージを送ってくるのだろうか。
「伊野といえばさ、明日あいつがどうするか見ものだぜ?」
「明日?」
「明日男子は家庭科があるだろ? うちの学校で恒例の調理実習なんだよ」
この学校では、体育や家庭科などの科目は男女別々で二クラス合同で行っている。明日、海崎のクラスは、男子は家庭科で、女子は体育だ。
「調理実習でクッキー作るじゃん? それを好きな人にあげるってのが、恒例なんだよ」
「えっ! 知らなかった……」
「伊野はモテるからさ、女子がソワソワしてんの。俺もあいつが誰にあげるかめっちゃ気になる」
「うん。気になるね……」
そういえば伊野に好きな人がいるのか聞いたことがない。彼女はいないっぽいのだけは、なんとなく周囲の雰囲気で感じとった。
「伊野が好きになる人ってどんな人なんだろう……」
あんまり伊野と恋愛話をしたことがなかったことに気がついた。でも、好みくらいは聞いてみたいな、と思った。
「あ。ちょうど伊野が来た」
中村が廊下を通りかかった伊野に気がついて伊野を呼ぶ。
「伊野ー! 海崎がお前の好みのタイプ聞きたいってよ!」
「えっ、ちょっ、待っ……!」
中村にデカい声で言われて海崎は慌てる。そんなことを言われたら、伊野のことを気にし過ぎているみたいで恥ずかしい。
「え? 海崎が?」
無視してくれればいいのに、伊野は近寄ってきて「なんでそんなん知りたいの」と笑う。
「た、ただの興味だよ」
「へぇ。じゃあさ、俺も教えるから、海崎も言えよ、好みのタイプ」
「えっ」
そんなことを言う心の準備はできていないのに、伊野は「俺はねぇ……」とさっさと話を始めてしまっている。
でも知りたい。伊野の好みのタイプを。
「俺はね。そうだな……優しい人がいいな。言葉とか態度もそうなんだけど、考え方って言うか、根が優しい人がいい」
「ハイ出た、優しい人ね!」
中村がすかさずツッコミを入れる。
「あとは色白で肌が綺麗な人。目が可愛い子」
「あー、いいね」
「そういう子見ると抱きしめたくなる」
伊野は海崎に視線を向けてきた。全然関係ないのに、寮室で伊野に抱きしめられたときのことを思い出した。そのせいで、あのときのドキドキが戻ってきたみたいに胸が高鳴る。
「海崎は?」
「へっ? な、何っ?」
伊野に名前を呼ばれて海崎はハッと意識を取り戻す。
「またぼんやりしてんの? 海崎らしいな」
案の定、伊野に笑われる。伊野からすると、海崎はすっかりいつもぼんやりしてるキャラらしい。
「ほら次、海崎の好みのタイプ、教えてよ」
「えっ? 俺のっ?」
「そうだよ。知りたい。全然わかんねぇんだもん」
どうしよう。恋愛とは無縁過ぎて、自分の好みのタイプなんて考えたこともない。
「い、一緒にいて楽な人かな……」
海崎にとって人間関係を構築するのは難しく、その最たるものが恋人を作ることなんじゃないだろうかと思う。一緒にいてガチガチに緊張してしまう相手は無理だろう。そんなの疲れるだけだ。
そうじゃなくて、出来損ないの自分をありのまま認めてくれるような人がいい。例えるなら伊野のような——。
「あー、なる! 海崎は癒し系女子ね!」
中村が「俺も好きだな、癒し系女子」と相槌を打ってきた。
「海崎は誰にあげるの? 明日」
「え……」
中村に聞かれて気がついた。明日、海崎も調理実習をする。ということは誰かに手作りクッキーをあげる立場だ。
「調理実習のクッキーをあげると両想いになれるってジンクスがある。海崎は誰にあげんのかなぁ。気になるなー」
「な、なんだよ」
中村の追及するような視線に海崎はたじろぐ。
「やっぱ上原?」
「え! 違うっ、なんでその名前出すんだよっ」
海崎は慌てて中村の口を塞ぐ。談話室には他の生徒もいる。間違って聞かれたら大変なことになる。
上原と同じ委員をやるようになってから、なぜか学校で「あのふたりはいい感じ」と噂をされるようになってしまった。事実無根なのに噂ばかり広がってしまい、海崎は本当に参っている。
「そういえば上原って癒し系女子だな」
「やめろって!」
これは義理でも上原にクッキーをあげちゃダメなやつだ。でも聞いておいてよかった。知らずにあげたら大問題になるところだった。
「なかむーは? 好みのタイプはっ?」
「教えなーい」
「ずるいぞ、明日誰にあげるんだよっ」
「知らねぇ」
「おいっ! 人に話させといてそれはないだろ」
恋愛の話なんて恥ずかしいのに、中村だけ話さないのはずるい。海崎が食ってかかると中村はソファーから立ち上がって逃げた。
「あっ、こらっ。伊野も……っ」
伊野にも加勢してもらおうと思って振り返ると、伊野はなぜか「捕まえたっ」と海崎の身体を両腕でホールドしてきた。
「えっ? なんでっ?」
どう考えてもおかしい。伊野に捕まえてほしいのは、逃げた中村なのに。
「なかむーは、いいんだって」
「はぁっ? なんでだよ、とにかく離せって」
全然納得がいかない。海崎は伊野の腕から逃れようとジタバタする。
「だーめ。海崎は俺が捕まえた」
伊野は全然離してくれない。そのあいだに中村は「サンキュー伊野」と言って逃げてしまった。
「もう! 伊野のせいでなかむーに逃げられたじゃないか!」
伊野の胸板をバシッと叩く。伊野は「ごめんごめん」と言って、やっと解放してくれた。
伊野をポカポカ叩いてやろうかと思っていたとき、伊野が海崎の耳朶に唇を寄せてくる。
「海崎」
耳元で名前を囁かれる。伊野の声はすごく好きだ。爽やかで、発音がクリアで、優しくて男らしくて、その全部の要素が好みだ。
「許せ。明日教えてやるから」
伊野はそう囁いたあと、「今日は早く寝よ」と両腕を上げて身体を伸ばしながら談話室を出て行った。
一方の海崎は、まだ気持ちが落ち着かない。
こうやって時々、伊野に抱きしめられることには慣れてきたはずだった。あの声で名前を呼ばれることもよくあることだ。
『海崎は俺が捕まえた』
さっきの伊野の言葉は、じゃれあってるときの言葉で、伊野にとっては何の意味もないだろう。でも言われた瞬間、胸が躍った。伊野がずっとそばにいてくれるような気持ちになったからだ。
なんで、こんな気持ちになるのだろう。
自分で自分のことがわからない。伊野に近づかれるたびに感じる、この胸の高鳴りはなんなのだろう。友情、思いやり、優越感。どんな言葉を思い浮かべても、しっくりこない。
結果的に話がなぁなぁになってしまったので、聞きそびれてしまったが、明日、伊野はどうするのだろう。
伊野は学校で大人気だ。きっと明日、伊野の手作りクッキーを女子たちが虎視眈々と狙っているに違いない。
そんな伊野の心を射止めて、クッキーをもらえる女子が羨ましいと思ったのは、きっと何かの間違いだ。