次の日、登校するとすぐに、伊野が話しかけてきた。学校で伊野に話しかけられるのは初めてのことだった。
「なぁ海崎、昨日の数学のさ、ここ、どうやって解くの?」
海崎はノートを見せられて、「ここはね……」と解法を伊野に教える。数学は比較的得意な科目だし、伊野が聞いてきたのはごくごく基本的なことだから、この程度ならすぐに答えられる。
「海崎、やっぱすげぇよお前。さすがA高校だな」
ここでもA高校の名前を出されてしまう。どうやら『A高校から来た秀才転校生』が海崎の代名詞になっているらしい。A高校は有名校だが、海崎はそこの落ちこぼれなのに。
「伊野ーっ! おはよ!」
「おう、おはよ!」
伊野は登校してきたばかりの女子と元気よく挨拶を交わす。それからふたりで楽しそうに会話をし始めた。
この高校は共学だ。海崎が東京にいたころは男子校だったので、普通にクラスに女子がいることにめちゃくちゃ違和感を覚える。
「伊野、髪切った?」
「あ、うん。わかる? 昨日切りに行ったんだ」
「わかるよー、さっぱりしていい感じ。めっちゃ似合ってる。かっこいい!」
言われれば伊野の髪型が変わっていることに気がついた。襟足がすっきりしていて、前髪もセンターで分かれて横に流すスタイルになっている。そういう細かいことに気がつける人になりたいのに、海崎はどうも苦手だ。
「ありがとな。そうだ。この前、知花に教えてもらったかき氷専門店行ったよ。マジでうまかった!」
「でしょっ? シロップもいいんだけど氷がおいしいってやばいよねー」
「それ。マジでそれ」
伊野はごく自然に女子と話をしている。男子校ではありえない光景に、海崎はついていけない。
同じクラスで伊野を見ていてわかったことだが、伊野は女子から憧れの眼差しを受けている。同級生だけじゃない、隣の校舎の中等部の生徒までかっこいい先輩といった目で伊野を見ているのだ。
伊野も伊野で、女子中学生と知り合いなのか「おはよ」と明るく挨拶を交わしている。それだけで女子が頬を赤らめているのだから、伊野は相当モテるのだろう。
まぁ無理もない。あのビジュアルに、さっぱりとした明るい性格ならモテて当然だ。
今も伊野は女子と楽しそうに談笑している。
学校では恋愛のことは隠しているかもしれないが、高校二年生。共学。コミュ強。モテる。とくれば、伊野にはすでに彼女がいるかもしれない。
恋愛はおろか、ろくに友達もいない海崎には未知の世界だ。
「海崎、サンキュー。またわかんないとこあったら聞くわ」
「えっ、あ、うん」
ぼんやりしていたところを話しかけられ、海崎は慌てて返事をする。
チャイムが鳴ったのだ。それで、伊野も他の生徒たちも自分の席に戻っていく。
やがていつものように授業が始まり、六時限目に委員決めをすることになった。
どの委員も比較的スムーズに決まったのに、ただひとつ、中央委員会だけ誰も手を挙げない。
この学校における中央委員会とは、生徒会の補佐をするような立場で、各クラスの代表的な立場らしい。中央委員会は活動日数の多い委員会らしく、みんな余裕がないのだ。部活に勉強に忙しいという声がちらほら聞こえてくる。
結局、委員会をやっていない生徒でくじを引いて決めることになり、そのくじを海崎が見事に引き当てた。
「当たっちゃった……」
海崎自身もまさか自分がくじを引き当てるとは思わなかった。でも当たってしまったものは仕方がない。
「どうする海崎、大丈夫か?」
担任からも言われ、クラスのみんなからも不安気な視線を感じるが、「や、やります」と小さく手を挙げる。転校生だからって誰かに代わってもらうのは申し訳ない。くじは公平だ。当たってしまった以上は責任を持って引き受けたい。
「じゃあ、海崎と上原に決定。ふたりは前に来てここに名前書いて」
担任の教師に呼ばれて海崎は所定の紙に名前を書く。
「よろしく、海崎くん」
「うん。よろしく」
海崎のペアになった上原が微笑みかけてきた。中央委員会はクラスでふたり、男女ひとりずつだ。
上原は海崎の出席番号のひとつ前で、今の座席は出席番号順なので、海崎の前に座っている。ふんわりとした雰囲気の癒し系女子で、全然怖そうじゃない。ペアの子がいい子だったのが救いだ。
「早速なんだけどさ、ふたりのうちのどっちか、クラス全体の連絡事項をまとめてルーグルクラスルームでお知らせしといてくれる?」
「はい」
上原は担任から資料を受け取った。でも上原は「これから部活なのに……」と困っている様子だ。
「俺、やろうか?」
海崎は上原の持っていた資料に手を伸ばす。
せっかく委員がふたりいるのだから、できるほうがやればいい。
「いいの?」
「いいよ。やっておく。上原さんは部活あるんでしょ?」
海崎は転校してきたばかりで、どこの部活にも所属していない。放課後だって時間はある。
「ありがとう海崎くん!」
笑顔の上原はどこかホッとした様子だ。いきなり部活を休んで放課後残れ、というのは負担なのだろう。
「ね、海崎くん、連絡先聞いてもいい?」
「えっ、あ、うんっ」
女子から連絡先を聞かれるなんてちょっとドキドキしたが、これは委員会の仕事を円滑に行うための事務的なやつで、全然他意はないんだと頭をすぐに切り替える。
「今度、資料のまとめ方、教えてね」
「うん。いいよ」
連絡先を交換したあと、上原は可愛らしく手を振って去っていった。
「……さてやるか」
クラスのみんなが散り散りになって帰って行く中、海崎は自席に座り、タブレット端末を取り出して電源をオンにする。起動するまで待っていると「なぁ」と声をかけられた。
「あ、伊野」
見上げると伊野が立っていた。
「俺さ、中央委員会やることになってさ。伊野は文化祭実行委員なんだな。大変そうだけど、楽しそうだね」
にこやかに話しかけたのに、伊野の表情は固いままだ。
伊野に何かしただろうか。なんでこんなに不機嫌そうなのだろう。
「え、なに……?」
「連絡先だよ」
「連絡先……?」
「上原だけに教えるなんてずるい。俺も聞きたい。海崎の連絡先」
伊野はポケットからスマホを取り出して海崎に突きつけてきた。
「へっ?」
海崎は拍子抜けだ。伊野が不機嫌だったのは、連絡先を聞きたかっただけ……?
「いいよ、交換しよう」
海崎のアカウントのQRコードを見せて、伊野がリーダーで読み込む。そのあとすぐに伊野からお返しのスタンプが飛んできた。
『よろしクリームパン』
ぐでっとした柴犬とクリームパンの絵のダジャレスタンプだった。いやお前が使うには可愛すぎるだろ、とツッコミを入れたくなるくらいに可愛いスタンプだ。
「くっ……アハハッ!」
堪えきれなくなって海崎は声に出して笑う。
「なんだよ、可愛いじゃん」
「いや、ギャップが……その見た目で、よろしクリームパン……」
海崎がツッコむと伊野は「いいだろ別に」と海崎の足を蹴っ飛ばしてきた。
「痛って! 伊野って足癖悪いよ」
「海崎は蹴ってもいーの!」
「はぁ意味わかんないんですけど」
そうやって伊野と笑い合う。伊野とこんなふうに過ごす時間は楽しいなと思った。
「とにかく、ありがとな海崎」
「えっ?」
「連絡先だよ。なんかあったら送る」
「あ、うん」
「じゃ。また寮で」
伊野は廊下で待っている友人のもとへと小走りに向かっていった。その背中を見送ってから、海崎はタブレットに付属しているキーボードを叩く。
作業の合間に海崎のスマホに通知が飛んできた。そっと確認してみると、それは伊野からのメッセージだった。
『今日の寮メシなんだっけ?』
「……は?」
思わず声が出る。寮の夕食なんていちいち聞くなよと思いながら、今日はカツカレーだったことを思い出し、伊野に『カツカレー』と返信する。
『マジか。めっちゃやる気でた』
「くっ……!」
思わず吹き出しそうになって、教室でひとりで笑っていたらキモいだろうと笑いをこらえる。夕食のメニューでやる気が出るなんて子どもか!
『委員会の仕事、頑張れ』
最後に労う言葉があって、メッセージは途切れた。このまま終わらせようかと思ったが、やっぱりなにか返信したくなって、海崎は『ありがトン』スタンプを送る。豚のイラストつきのダジャレスタンプだ。
すると秒速で伊野からスタンプが送られてきた。さっきと同じ柴犬パンシリーズの『おつカレーパン』スタンプだ。伊野に似合わない、可愛らしい柴犬がカレーパンを手にして忙しそうに汗をかいている。
「だから、意外だって」
こっそり小声でツッコミを入れる。伊野のおかげで眠気も吹き飛んだ。なんだかやる気が湧いてきて、海崎のタイプする指のスピードが速くなる。
転校してきてから誰かと連絡先を交換したのは今日が初めてだ。しかも伊野と上原、ふたりと交換できた。
委員会も引き受けてよかった。クラスの仕事をしていると、なんだかみんなの一員になれた気持ちになる。
頑張れ、頑張れ、と海崎は自分に言い聞かせる。何か才能があるわけでもない。昔から人一倍、頑張ることしかできないタイプなのだから。
「なぁ海崎、昨日の数学のさ、ここ、どうやって解くの?」
海崎はノートを見せられて、「ここはね……」と解法を伊野に教える。数学は比較的得意な科目だし、伊野が聞いてきたのはごくごく基本的なことだから、この程度ならすぐに答えられる。
「海崎、やっぱすげぇよお前。さすがA高校だな」
ここでもA高校の名前を出されてしまう。どうやら『A高校から来た秀才転校生』が海崎の代名詞になっているらしい。A高校は有名校だが、海崎はそこの落ちこぼれなのに。
「伊野ーっ! おはよ!」
「おう、おはよ!」
伊野は登校してきたばかりの女子と元気よく挨拶を交わす。それからふたりで楽しそうに会話をし始めた。
この高校は共学だ。海崎が東京にいたころは男子校だったので、普通にクラスに女子がいることにめちゃくちゃ違和感を覚える。
「伊野、髪切った?」
「あ、うん。わかる? 昨日切りに行ったんだ」
「わかるよー、さっぱりしていい感じ。めっちゃ似合ってる。かっこいい!」
言われれば伊野の髪型が変わっていることに気がついた。襟足がすっきりしていて、前髪もセンターで分かれて横に流すスタイルになっている。そういう細かいことに気がつける人になりたいのに、海崎はどうも苦手だ。
「ありがとな。そうだ。この前、知花に教えてもらったかき氷専門店行ったよ。マジでうまかった!」
「でしょっ? シロップもいいんだけど氷がおいしいってやばいよねー」
「それ。マジでそれ」
伊野はごく自然に女子と話をしている。男子校ではありえない光景に、海崎はついていけない。
同じクラスで伊野を見ていてわかったことだが、伊野は女子から憧れの眼差しを受けている。同級生だけじゃない、隣の校舎の中等部の生徒までかっこいい先輩といった目で伊野を見ているのだ。
伊野も伊野で、女子中学生と知り合いなのか「おはよ」と明るく挨拶を交わしている。それだけで女子が頬を赤らめているのだから、伊野は相当モテるのだろう。
まぁ無理もない。あのビジュアルに、さっぱりとした明るい性格ならモテて当然だ。
今も伊野は女子と楽しそうに談笑している。
学校では恋愛のことは隠しているかもしれないが、高校二年生。共学。コミュ強。モテる。とくれば、伊野にはすでに彼女がいるかもしれない。
恋愛はおろか、ろくに友達もいない海崎には未知の世界だ。
「海崎、サンキュー。またわかんないとこあったら聞くわ」
「えっ、あ、うん」
ぼんやりしていたところを話しかけられ、海崎は慌てて返事をする。
チャイムが鳴ったのだ。それで、伊野も他の生徒たちも自分の席に戻っていく。
やがていつものように授業が始まり、六時限目に委員決めをすることになった。
どの委員も比較的スムーズに決まったのに、ただひとつ、中央委員会だけ誰も手を挙げない。
この学校における中央委員会とは、生徒会の補佐をするような立場で、各クラスの代表的な立場らしい。中央委員会は活動日数の多い委員会らしく、みんな余裕がないのだ。部活に勉強に忙しいという声がちらほら聞こえてくる。
結局、委員会をやっていない生徒でくじを引いて決めることになり、そのくじを海崎が見事に引き当てた。
「当たっちゃった……」
海崎自身もまさか自分がくじを引き当てるとは思わなかった。でも当たってしまったものは仕方がない。
「どうする海崎、大丈夫か?」
担任からも言われ、クラスのみんなからも不安気な視線を感じるが、「や、やります」と小さく手を挙げる。転校生だからって誰かに代わってもらうのは申し訳ない。くじは公平だ。当たってしまった以上は責任を持って引き受けたい。
「じゃあ、海崎と上原に決定。ふたりは前に来てここに名前書いて」
担任の教師に呼ばれて海崎は所定の紙に名前を書く。
「よろしく、海崎くん」
「うん。よろしく」
海崎のペアになった上原が微笑みかけてきた。中央委員会はクラスでふたり、男女ひとりずつだ。
上原は海崎の出席番号のひとつ前で、今の座席は出席番号順なので、海崎の前に座っている。ふんわりとした雰囲気の癒し系女子で、全然怖そうじゃない。ペアの子がいい子だったのが救いだ。
「早速なんだけどさ、ふたりのうちのどっちか、クラス全体の連絡事項をまとめてルーグルクラスルームでお知らせしといてくれる?」
「はい」
上原は担任から資料を受け取った。でも上原は「これから部活なのに……」と困っている様子だ。
「俺、やろうか?」
海崎は上原の持っていた資料に手を伸ばす。
せっかく委員がふたりいるのだから、できるほうがやればいい。
「いいの?」
「いいよ。やっておく。上原さんは部活あるんでしょ?」
海崎は転校してきたばかりで、どこの部活にも所属していない。放課後だって時間はある。
「ありがとう海崎くん!」
笑顔の上原はどこかホッとした様子だ。いきなり部活を休んで放課後残れ、というのは負担なのだろう。
「ね、海崎くん、連絡先聞いてもいい?」
「えっ、あ、うんっ」
女子から連絡先を聞かれるなんてちょっとドキドキしたが、これは委員会の仕事を円滑に行うための事務的なやつで、全然他意はないんだと頭をすぐに切り替える。
「今度、資料のまとめ方、教えてね」
「うん。いいよ」
連絡先を交換したあと、上原は可愛らしく手を振って去っていった。
「……さてやるか」
クラスのみんなが散り散りになって帰って行く中、海崎は自席に座り、タブレット端末を取り出して電源をオンにする。起動するまで待っていると「なぁ」と声をかけられた。
「あ、伊野」
見上げると伊野が立っていた。
「俺さ、中央委員会やることになってさ。伊野は文化祭実行委員なんだな。大変そうだけど、楽しそうだね」
にこやかに話しかけたのに、伊野の表情は固いままだ。
伊野に何かしただろうか。なんでこんなに不機嫌そうなのだろう。
「え、なに……?」
「連絡先だよ」
「連絡先……?」
「上原だけに教えるなんてずるい。俺も聞きたい。海崎の連絡先」
伊野はポケットからスマホを取り出して海崎に突きつけてきた。
「へっ?」
海崎は拍子抜けだ。伊野が不機嫌だったのは、連絡先を聞きたかっただけ……?
「いいよ、交換しよう」
海崎のアカウントのQRコードを見せて、伊野がリーダーで読み込む。そのあとすぐに伊野からお返しのスタンプが飛んできた。
『よろしクリームパン』
ぐでっとした柴犬とクリームパンの絵のダジャレスタンプだった。いやお前が使うには可愛すぎるだろ、とツッコミを入れたくなるくらいに可愛いスタンプだ。
「くっ……アハハッ!」
堪えきれなくなって海崎は声に出して笑う。
「なんだよ、可愛いじゃん」
「いや、ギャップが……その見た目で、よろしクリームパン……」
海崎がツッコむと伊野は「いいだろ別に」と海崎の足を蹴っ飛ばしてきた。
「痛って! 伊野って足癖悪いよ」
「海崎は蹴ってもいーの!」
「はぁ意味わかんないんですけど」
そうやって伊野と笑い合う。伊野とこんなふうに過ごす時間は楽しいなと思った。
「とにかく、ありがとな海崎」
「えっ?」
「連絡先だよ。なんかあったら送る」
「あ、うん」
「じゃ。また寮で」
伊野は廊下で待っている友人のもとへと小走りに向かっていった。その背中を見送ってから、海崎はタブレットに付属しているキーボードを叩く。
作業の合間に海崎のスマホに通知が飛んできた。そっと確認してみると、それは伊野からのメッセージだった。
『今日の寮メシなんだっけ?』
「……は?」
思わず声が出る。寮の夕食なんていちいち聞くなよと思いながら、今日はカツカレーだったことを思い出し、伊野に『カツカレー』と返信する。
『マジか。めっちゃやる気でた』
「くっ……!」
思わず吹き出しそうになって、教室でひとりで笑っていたらキモいだろうと笑いをこらえる。夕食のメニューでやる気が出るなんて子どもか!
『委員会の仕事、頑張れ』
最後に労う言葉があって、メッセージは途切れた。このまま終わらせようかと思ったが、やっぱりなにか返信したくなって、海崎は『ありがトン』スタンプを送る。豚のイラストつきのダジャレスタンプだ。
すると秒速で伊野からスタンプが送られてきた。さっきと同じ柴犬パンシリーズの『おつカレーパン』スタンプだ。伊野に似合わない、可愛らしい柴犬がカレーパンを手にして忙しそうに汗をかいている。
「だから、意外だって」
こっそり小声でツッコミを入れる。伊野のおかげで眠気も吹き飛んだ。なんだかやる気が湧いてきて、海崎のタイプする指のスピードが速くなる。
転校してきてから誰かと連絡先を交換したのは今日が初めてだ。しかも伊野と上原、ふたりと交換できた。
委員会も引き受けてよかった。クラスの仕事をしていると、なんだかみんなの一員になれた気持ちになる。
頑張れ、頑張れ、と海崎は自分に言い聞かせる。何か才能があるわけでもない。昔から人一倍、頑張ることしかできないタイプなのだから。