二学期が始まっても、伊野に東京に戻ることを決めたことを言えなかった。そんなことを知りもしない伊野は、いたっていつもどおりだ。
そもそも九月は文化祭があり、文化祭実行委員の伊野は最近バタバタと忙しそうにしている。中央委員会の海崎は、生徒会とともに名物『生徒会スペシャル焼きそば』と学校オリジナルグッズの販売を担うことになっている。でも海崎は当日の手伝いをすればよいので、伊野のように事前準備はないポジションだ。
「明日も朝から文化祭の準備だよ……」
就寝前に、伊野は椅子にだらけて座りながら、隣の机にいた海崎に愚痴をこぼしてきた。
文化祭が目前に迫り、文化祭委員会の仕事も大詰めのようで、伊野は連日「疲れた」と海崎に泣きついてくる。
「海崎はクラスの打ち上げ出る? それとも中央委員会だから生徒会のほうの打ち上げ行くの?」
伊野は椅子ごと移動してきて、海崎の座る椅子へとコツンとぶつけてきた。
「あー、打ち上げかぁ。どうしようかな……」
文化祭が終わったあと、クラス単位や部活単位などで各々打ち上げが行われるらしい。海崎は生徒会の打ち上げと二年一組の打ち上げのふたつに誘われていた。
ちなみに生徒会のほうは焼肉、クラスのほうはカラオケだ。
「い、伊野は……?」
本当はどっちの打ち上げも遠慮しようと思っていた。でも、もし伊野がクラスの打ち上げに参加するなら参加してみたい。伊野がいてくれるなら安心する。
「伊野はどこの打ち上げに行くの?」
「えっ、俺? 俺は……まだ考え中」
珍しく伊野が視線を逸らし答えを濁した。いつも行動がはっきりしている伊野にしては珍しいことだ。
「お、俺、打ち上げとか苦手だから参加しなくていいかなと思ってたんだけど、伊野がクラスの打ち上げに参加するなら行ってもいいかなって……」
言ってて急に恥ずかしくなってきた。これじゃ伊野目当てで打ち上げに参加すると言っているのも同然だ。
「マジ? 海崎来てくれるなら、俺、クラスの打ち上げにするわ」
「ホントっ?」
嬉しくて思わずキラキラとした目で伊野を見てしまい、伊野としっかり目が合い、赤面する。
伊野に好意がバレる。伊野にいけない感情を抱いていることがバレたら、気まずくなって伊野と一緒にいられなくなる。
「ホントホント。打ち上げ行くときさ、待ち合わせして一緒に行こうぜ」
ああ、伊野、なんていいことを言うんだ、と海崎は嬉しくなる。ひとりでクラスの集団に混ざるよりも、伊野と待ち合わせをして、最初からふたりで参加したい。
「うん。いいよ」
「じゃあ文化祭のやること終わったら、海崎に連絡する」
「うん」
思わず笑みがこぼれてしまう。伊野のいる学校生活はとても楽しい。そして友達の多い伊野が、当たり前のようにパートナーとして海崎を選んでくれることが嬉しい。
「高三の打ち上げとかすごいんだ。高三のときは、めっちゃお菓子もらえるから、でっかいカバン持ってったほうがいい。海崎はいつも使ってるその黒いリュックを空にして持ってけよ」
「そ、そうなんだ。高三は最後の文化祭だものね」
まさかもうすぐいなくなるから、高三の文化祭には参加しないとは、伊野に言えない。
「でも高二でも十分楽しいよ。大変なのは準備だけ!」
「頑張れ、伊野」
「おう。海崎、先に寝てていーよ。俺、あと少しやってから寝るから」
「うん。ありがとう、悪いけど先に寝るよ」
「はいよ、おやすみー」
部屋の電気は消して、伊野は机の明かりだけをつけて宿題を片付けている。文化祭準備で、昼間、勉強時間が取れなかったのだろう。
海崎はベッドに潜り込んで、目を閉じる。時々、伊野がページをめくる紙の音が聞こえてくる。
伊野の気配を感じられる、この空間が好きだ。
最近は寮の部屋に帰ってくるとホッとするのだ。一日の終わりに伊野と過ごすゆったりとした時間がとても心地よい。
ここにいるときの自分こそ、何も飾らない本当の自分のような気がする。外でもこんなふうに振る舞えたらいいのにと思うが、こんなに自然体でいられるのは伊野とふたりきりのときだけだ。
ふと伊野の姿を見てみたくなって、静かに身体を起こして、なるべく頭を低くして、隙間から様子を伺う。
デスク灯に照らされた伊野の真剣な横顔は、見惚れるほどにかっこいい。
伊野は見た目もかっこいいのだが、伊野がみんなに好かれる理由はそれじゃない。強くて優しい伊野の人間性に惹かれるのだと思う。
伊野はよく気がつく男だ。その鋭さで、困っている人にさりげなく手を差し伸べる。
転校してきたばかりのとき、「昼を一緒に食べよう」と誘ってくれたのも、ひとりきりで寄り道しようとしていた海崎のことを気にかけて一緒についてきてくれたのも、きっと伊野の優しさからくる行動なのだろう。
今ならはっきりわかる。あのときの伊野は、転校してきたばかりで心細い海崎の気持ちを慮ってくれたとしか思えない。
怪我をして大会を途中欠場せざるを得ない状況になっても、不利な条件でビーチフラッグの勝負に挑むことになっても、伊野はそれに対して文句のひとつも言わない。今でも親友の帰りを待っているくらいだ。
やっぱり伊野のことが好きだ。伊野のそばにずっといたいと、気がついたらいつも願っている。
「あ、ごめん。眩しくて眠れない?」
伊野が海崎の視線に気がついて振り向いた。
「ううん、全然大丈夫っ」
大変だ。伊野を見ていることがバレて、何も悪くないのに伊野に気を遣わせてしまった。
「決めた! 俺ももう寝る! さっきから眠気やばいんだよ。明日やる、明日っ」
伊野は机に広げていた教科書とノートを閉じ、机の明かりを消した。
伊野は集中している様子だった。全然眠そうになんて見えなかった。
「えっ、俺のことは気にしないでっ」
まさか自分のせいで伊野が勉強を辞めてしまったのかと海崎は慌ててベッドの枠から身を乗り出し、伊野を止めようとする。
「海崎のせいじゃないよ」
伊野は微笑んで海崎の頭にぽんと触れた。その優しい手に涙が潤んでしまいそうになる。
「マジで集中力がないから今日は寝るっ。時間もやばいし。おやすみ、海崎」
伊野は軽やかに二段ベッドのハシゴを上って行く。
「おやすみ、伊野」
海崎も、のそのそと布団の中に身体をうずめる。
伊野と過ごす、この部屋が大好きだ。あと少しのあいだここにいられる。今のうちに、思い出を心に刻んでおこうと海崎は胸に手を当てた。
文化祭当日になった。生徒だけではなく、他校の高校生や、受験のための見学に来ている親子など、かなりの賑わいを見せていた。
海崎はクラスでやっている、変な間取りのホラー要素のある謎解きと、委員会のスペシャル焼きそば販売の手伝いをする。
今日は、校舎と校舎のあいだの中庭で、朝から焼きそばにウインナーと唐揚げをトッピングして、スペシャル焼きそばにする係を担当している。
伊野はというと、お手製の木の看板を担いで、友人とふたりで校内を歩き回り、文化祭実行委員会がやっている『癒しのカフェ』への呼び込みをしていた。
伊野が他校の女子高生ふたり組に声をかけると、面白いほどあっさりと伊野についていく。
伊野も伊野だ。女子高生にテンション高めに話しかけ、愛想よく振る舞っている。
なにが「髪、サラサラで綺麗だね」だ! 伊野に褒められて女子高生がめちゃくちゃ嬉しそうに笑っているのを見て、海崎はイライラが止まらない。
なんだか伊野が次々と女子高生をナンパしているように見えてしまう。役割だからやっているのだろうが、見ているだけで悔しくなる。
女子高生はカフェなんて二の次で、伊野狙いなんじゃないだろうか。海崎は見ていて歯痒くなるが、呼び込みした先で伊野が接客することはなく、カフェに案内するだけでお別れだと必死で自分の気持ちを落ち着ける。
文化祭実行委員の面々もわかっているのだろう。海崎の思い込みかもしれないが、顔のいい生徒ばかりを呼び込み担当にさせている感じがする。
——伊野のバカ!
悔しくて腹いせに猛スピードでガンガン盛り付けしていたら、「海崎くん仕事めっちゃ速い!」と販売係の上原に無駄に褒められてしまった。
午後になり、生徒も増えてきて、暇つぶしに来た委員会仲間とまったり喋りながら店番をする。
「すいませーん」
カウンターの向こうから呼ばれてハッとする。話に夢中になっていて店番が疎かになってしまっていた。
「あ! 伊野くん、いらっしゃいませー」
販売カウンターの目の前にいた上原の声を聞いて海崎は振り向いた。
「こんにちは」
背の高い伊野は、少し屈んでテントの向こうから顔を出した。もう木のプラカードは持っていない。
「ごめん、買いに来たんじゃないんだ」
伊野は上原に断りを入れる。
「俺、海崎を借りに来たんだけど」
伊野と目が合った。伊野は目が合った瞬間、海崎に微笑みかけてくる。
伊野の笑顔は魅力的だ。あっという間に心を奪われる。
「海崎を連れてっていい?」
さっきあんなに伊野の女子高生呼び込みにイライラしていたのに、伊野が迎えに来てくれただけで、不満が一気に吹き飛んだ。なんて単純なんだと思いながらも、伊野が連れ去りに来てくれたことが嬉しくて頬が緩む。
「海崎くん、伊野くん呼びに来てるよ」
上原の声かけに「今行く」と返事をする。
「ごめん、店番お願いしていいかな」
近くにいた生徒にお願いして、海崎は店の外に出た。目指すはもちろん伊野のところだ。
「海崎、ちょっと付き合って」
「うん、いいよ」
伊野に誘われて嫌なはずがない。二つ返事をして「誘ってくれてありがとう」と今すぐ伊野に飛びつきたいくらいだが、その気持ちはさすがに抑えておく。
伊野と歩き出したとき、背後から「あのふたり、仲いいよねー」と誰かの声が聞こえてきたのは、気のせいではなかったかもしれない。
そもそも九月は文化祭があり、文化祭実行委員の伊野は最近バタバタと忙しそうにしている。中央委員会の海崎は、生徒会とともに名物『生徒会スペシャル焼きそば』と学校オリジナルグッズの販売を担うことになっている。でも海崎は当日の手伝いをすればよいので、伊野のように事前準備はないポジションだ。
「明日も朝から文化祭の準備だよ……」
就寝前に、伊野は椅子にだらけて座りながら、隣の机にいた海崎に愚痴をこぼしてきた。
文化祭が目前に迫り、文化祭委員会の仕事も大詰めのようで、伊野は連日「疲れた」と海崎に泣きついてくる。
「海崎はクラスの打ち上げ出る? それとも中央委員会だから生徒会のほうの打ち上げ行くの?」
伊野は椅子ごと移動してきて、海崎の座る椅子へとコツンとぶつけてきた。
「あー、打ち上げかぁ。どうしようかな……」
文化祭が終わったあと、クラス単位や部活単位などで各々打ち上げが行われるらしい。海崎は生徒会の打ち上げと二年一組の打ち上げのふたつに誘われていた。
ちなみに生徒会のほうは焼肉、クラスのほうはカラオケだ。
「い、伊野は……?」
本当はどっちの打ち上げも遠慮しようと思っていた。でも、もし伊野がクラスの打ち上げに参加するなら参加してみたい。伊野がいてくれるなら安心する。
「伊野はどこの打ち上げに行くの?」
「えっ、俺? 俺は……まだ考え中」
珍しく伊野が視線を逸らし答えを濁した。いつも行動がはっきりしている伊野にしては珍しいことだ。
「お、俺、打ち上げとか苦手だから参加しなくていいかなと思ってたんだけど、伊野がクラスの打ち上げに参加するなら行ってもいいかなって……」
言ってて急に恥ずかしくなってきた。これじゃ伊野目当てで打ち上げに参加すると言っているのも同然だ。
「マジ? 海崎来てくれるなら、俺、クラスの打ち上げにするわ」
「ホントっ?」
嬉しくて思わずキラキラとした目で伊野を見てしまい、伊野としっかり目が合い、赤面する。
伊野に好意がバレる。伊野にいけない感情を抱いていることがバレたら、気まずくなって伊野と一緒にいられなくなる。
「ホントホント。打ち上げ行くときさ、待ち合わせして一緒に行こうぜ」
ああ、伊野、なんていいことを言うんだ、と海崎は嬉しくなる。ひとりでクラスの集団に混ざるよりも、伊野と待ち合わせをして、最初からふたりで参加したい。
「うん。いいよ」
「じゃあ文化祭のやること終わったら、海崎に連絡する」
「うん」
思わず笑みがこぼれてしまう。伊野のいる学校生活はとても楽しい。そして友達の多い伊野が、当たり前のようにパートナーとして海崎を選んでくれることが嬉しい。
「高三の打ち上げとかすごいんだ。高三のときは、めっちゃお菓子もらえるから、でっかいカバン持ってったほうがいい。海崎はいつも使ってるその黒いリュックを空にして持ってけよ」
「そ、そうなんだ。高三は最後の文化祭だものね」
まさかもうすぐいなくなるから、高三の文化祭には参加しないとは、伊野に言えない。
「でも高二でも十分楽しいよ。大変なのは準備だけ!」
「頑張れ、伊野」
「おう。海崎、先に寝てていーよ。俺、あと少しやってから寝るから」
「うん。ありがとう、悪いけど先に寝るよ」
「はいよ、おやすみー」
部屋の電気は消して、伊野は机の明かりだけをつけて宿題を片付けている。文化祭準備で、昼間、勉強時間が取れなかったのだろう。
海崎はベッドに潜り込んで、目を閉じる。時々、伊野がページをめくる紙の音が聞こえてくる。
伊野の気配を感じられる、この空間が好きだ。
最近は寮の部屋に帰ってくるとホッとするのだ。一日の終わりに伊野と過ごすゆったりとした時間がとても心地よい。
ここにいるときの自分こそ、何も飾らない本当の自分のような気がする。外でもこんなふうに振る舞えたらいいのにと思うが、こんなに自然体でいられるのは伊野とふたりきりのときだけだ。
ふと伊野の姿を見てみたくなって、静かに身体を起こして、なるべく頭を低くして、隙間から様子を伺う。
デスク灯に照らされた伊野の真剣な横顔は、見惚れるほどにかっこいい。
伊野は見た目もかっこいいのだが、伊野がみんなに好かれる理由はそれじゃない。強くて優しい伊野の人間性に惹かれるのだと思う。
伊野はよく気がつく男だ。その鋭さで、困っている人にさりげなく手を差し伸べる。
転校してきたばかりのとき、「昼を一緒に食べよう」と誘ってくれたのも、ひとりきりで寄り道しようとしていた海崎のことを気にかけて一緒についてきてくれたのも、きっと伊野の優しさからくる行動なのだろう。
今ならはっきりわかる。あのときの伊野は、転校してきたばかりで心細い海崎の気持ちを慮ってくれたとしか思えない。
怪我をして大会を途中欠場せざるを得ない状況になっても、不利な条件でビーチフラッグの勝負に挑むことになっても、伊野はそれに対して文句のひとつも言わない。今でも親友の帰りを待っているくらいだ。
やっぱり伊野のことが好きだ。伊野のそばにずっといたいと、気がついたらいつも願っている。
「あ、ごめん。眩しくて眠れない?」
伊野が海崎の視線に気がついて振り向いた。
「ううん、全然大丈夫っ」
大変だ。伊野を見ていることがバレて、何も悪くないのに伊野に気を遣わせてしまった。
「決めた! 俺ももう寝る! さっきから眠気やばいんだよ。明日やる、明日っ」
伊野は机に広げていた教科書とノートを閉じ、机の明かりを消した。
伊野は集中している様子だった。全然眠そうになんて見えなかった。
「えっ、俺のことは気にしないでっ」
まさか自分のせいで伊野が勉強を辞めてしまったのかと海崎は慌ててベッドの枠から身を乗り出し、伊野を止めようとする。
「海崎のせいじゃないよ」
伊野は微笑んで海崎の頭にぽんと触れた。その優しい手に涙が潤んでしまいそうになる。
「マジで集中力がないから今日は寝るっ。時間もやばいし。おやすみ、海崎」
伊野は軽やかに二段ベッドのハシゴを上って行く。
「おやすみ、伊野」
海崎も、のそのそと布団の中に身体をうずめる。
伊野と過ごす、この部屋が大好きだ。あと少しのあいだここにいられる。今のうちに、思い出を心に刻んでおこうと海崎は胸に手を当てた。
文化祭当日になった。生徒だけではなく、他校の高校生や、受験のための見学に来ている親子など、かなりの賑わいを見せていた。
海崎はクラスでやっている、変な間取りのホラー要素のある謎解きと、委員会のスペシャル焼きそば販売の手伝いをする。
今日は、校舎と校舎のあいだの中庭で、朝から焼きそばにウインナーと唐揚げをトッピングして、スペシャル焼きそばにする係を担当している。
伊野はというと、お手製の木の看板を担いで、友人とふたりで校内を歩き回り、文化祭実行委員会がやっている『癒しのカフェ』への呼び込みをしていた。
伊野が他校の女子高生ふたり組に声をかけると、面白いほどあっさりと伊野についていく。
伊野も伊野だ。女子高生にテンション高めに話しかけ、愛想よく振る舞っている。
なにが「髪、サラサラで綺麗だね」だ! 伊野に褒められて女子高生がめちゃくちゃ嬉しそうに笑っているのを見て、海崎はイライラが止まらない。
なんだか伊野が次々と女子高生をナンパしているように見えてしまう。役割だからやっているのだろうが、見ているだけで悔しくなる。
女子高生はカフェなんて二の次で、伊野狙いなんじゃないだろうか。海崎は見ていて歯痒くなるが、呼び込みした先で伊野が接客することはなく、カフェに案内するだけでお別れだと必死で自分の気持ちを落ち着ける。
文化祭実行委員の面々もわかっているのだろう。海崎の思い込みかもしれないが、顔のいい生徒ばかりを呼び込み担当にさせている感じがする。
——伊野のバカ!
悔しくて腹いせに猛スピードでガンガン盛り付けしていたら、「海崎くん仕事めっちゃ速い!」と販売係の上原に無駄に褒められてしまった。
午後になり、生徒も増えてきて、暇つぶしに来た委員会仲間とまったり喋りながら店番をする。
「すいませーん」
カウンターの向こうから呼ばれてハッとする。話に夢中になっていて店番が疎かになってしまっていた。
「あ! 伊野くん、いらっしゃいませー」
販売カウンターの目の前にいた上原の声を聞いて海崎は振り向いた。
「こんにちは」
背の高い伊野は、少し屈んでテントの向こうから顔を出した。もう木のプラカードは持っていない。
「ごめん、買いに来たんじゃないんだ」
伊野は上原に断りを入れる。
「俺、海崎を借りに来たんだけど」
伊野と目が合った。伊野は目が合った瞬間、海崎に微笑みかけてくる。
伊野の笑顔は魅力的だ。あっという間に心を奪われる。
「海崎を連れてっていい?」
さっきあんなに伊野の女子高生呼び込みにイライラしていたのに、伊野が迎えに来てくれただけで、不満が一気に吹き飛んだ。なんて単純なんだと思いながらも、伊野が連れ去りに来てくれたことが嬉しくて頬が緩む。
「海崎くん、伊野くん呼びに来てるよ」
上原の声かけに「今行く」と返事をする。
「ごめん、店番お願いしていいかな」
近くにいた生徒にお願いして、海崎は店の外に出た。目指すはもちろん伊野のところだ。
「海崎、ちょっと付き合って」
「うん、いいよ」
伊野に誘われて嫌なはずがない。二つ返事をして「誘ってくれてありがとう」と今すぐ伊野に飛びつきたいくらいだが、その気持ちはさすがに抑えておく。
伊野と歩き出したとき、背後から「あのふたり、仲いいよねー」と誰かの声が聞こえてきたのは、気のせいではなかったかもしれない。