寮に帰ってきて、今日は疲れたから早めに寝ようと夕食やシャワーを早めに済ませた。ヨレ気味のくたびれた部屋着用Tシャツを着て、共同の洗面台の前で歯磨きをしていたらトン、と背後から肩を叩かれる。
「海崎、首の後ろが真っ赤だ。日焼けあとがすごいぞ」
声をかけてきたのは宮城だった。海崎は「えっ、そんなにひどいですかっ?」と鏡で首の後ろを確認しようとするが、うまく見えない。
「ここからここまで赤くなってる。海崎は肌が白いから焼けると赤くなるんだな」
宮城が指で海崎のうなじに触れる。たしかにその辺りは、シャワーを浴びたときにお湯がしみた場所だ。
「今日、高二は遠足で海に行ったんです。それで焼けちゃったみたいで……」
「そうだ。俺の部屋に来いよ。日焼けに効くスプレーの薬があるんだ」
それは助かります、と海崎が言いかけたとき、どこからともなく伊野が急に現れて「行くな」と止められた。
「宮城先輩。俺も日焼け用の薬なら持ってます。だから結構です」
なぜか伊野は宮城に強い態度をとる。伊野は一歩も譲らないといった様子だ。
「伊野、お前関係ないだろ」
「とにかく、薬なら俺と海崎の部屋にあるんで大丈夫です!」
伊野の頑なな態度に、宮城は面白くなさそうにしていたが、海崎が「先輩、気遣いありがとうございます、でも薬は伊野に借ります」と言うと、宮城は引き下がっていった。
「伊野っ、どうしたんだよ」
宮城がいなくなってから、小声で伊野に聞く。先輩にあんな態度を取るなんて伊野はどうかしている。
「……海崎にばっかり手伝いさせて、宮城先輩、絶対にお前のこと狙ってる」
「はぁ?」
伊野は何を意味のわからないことを言っているのだろう。
「いいんだよ、俺は部活もないから時間はあるし、高三の先輩たちは受験だろ? 手伝いくらい構わないよ」
海崎は少しくらい宮城にコキ使われても構わないと思っているのに、伊野は海崎がパシられているように感じるのだろうか。
「お前は何もわかってない」
「何が?」
「とにかく部屋には行くな。先輩に何かされたら俺に言えよ」
伊野は吐き捨てるように言い、部屋に戻って行った。
「なんなんだよ……」
なんだか腑に落ちないまま、海崎は歯磨きを口に咥えた。
まったく伊野は過保護なのだろうか。気にかけてくれることは嬉しいが、先輩にまであんな態度を取って、そのせいで伊野が目をつけられたりしないか心配だ。
「おう、海崎」
海崎が部屋に戻ると、机の前でスマホをいじっていた伊野が立ち上がった。
「そこ座れ。首の後ろ、薬塗ってやるよ」
「あ、ありがと」
伊野に言われて海崎は自分のベッドの端に腰掛ける。
「首、見せて」
伊野は海崎の隣に座り、丁寧に薬を塗ってくれる。うなじを指で撫でられて、ちょっとくすぐったいが、自分では見えないところだから塗ってもらえるとありがたい。
「次、伊野も。いつもの顔の薬」
「えーいいよ、もう」
「ダメだ。俺が許さない」
いつかのサッカーボールでできた顔の傷もかなり目立たなくなってきている。それでもできることはやってあげたい。伊野は面倒くさがって自分では薬を塗ろうとしないから。
今度は海崎が、伊野の頬に薬を塗る。
伊野はこのとき、いつも目を閉じるのだ。
実は海崎は、この僅かな時間が好きだ。伊野が目を閉じているから、顔をじっくり見ても変に思われないし、少しだけ伊野と距離が近づくことができる。
伊野は無防備だ。今だったら伊野に簡単にキスできる。実は海崎は、いつもそんな邪なことを考えてしまっている。
でも伊野は悪いことはされないと、海崎のことを信用してくれているのだろう。だからこそ平気で無防備な姿をさらけ出してくれるのだと思う。
「終わったよ」
海崎の特別な時間はあっという間に終わった。変に思われないように、海崎はすぐさま伊野から離れる。
「ありがと、海崎」
「このくらいいいよ」
机の引き出しに薬をしまって、ティッシュで指についた軟骨を拭う。
なぜだろう。今日はいつもよりもドキドキする。海で、伊野から長嶺の話を聞いたせいだろうか。
あのとき伊野の涙を初めて見た。海崎もつられて泣いて、そのあと伊野と強く抱き合ったからだろうか。
伊野は寝る準備を整えている。海崎も支度を整え、早々にベッドの中に潜り込む。
「おやすみ、伊野」
海崎はベッドの中から伊野におやすみを言って目を閉じる。
今日は朝も早かったし、遠足で一日中、海にいたから疲れた。
今日の伊野はかっこよかった。ビーチフラッグのときの真剣な姿は今でも目に焼き付いている。
やっぱり伊野のことが好きだ。
男にこんな気持ちになるなんて、きっと自分はどこか歪んでいるのだろう。
でも男だからって誰でも恋愛対象になるわけじゃない。今まで自分のセクシャリティに戸惑ったことはないし、なんなら恋愛どころか人と関わること自体が怖かった。
伊野だけが特別で、もしかしたら男が好きなんじゃなくて、伊野という人に惹かれているのかもしれない。
「海崎、俺も入れて。あと少しだけ話しようぜ」
伊野は部屋の電気を消したあと、海崎の布団をめくりあげ、そこに潜り込んできた。
えっ、と思った。
海崎の心拍数が跳ね上がる。やばいやばい。伊野とひとつの布団に入るのは、さすがに耐えられない。
でも伊野は何とも思っていない様子で、遠慮なしに海崎の横に寝転がっている。
「なぁ、海崎」
「な、なに?」
海崎は動揺が伊野にバレないようにできるだけ平静を装う。
伊野は海崎の気持ちなど知らないから、こうして不用意に近づいてくるに違いない。もし海崎が伊野に対して妙な気持ちを抱えていることを知ったら、伊野に避けられるかもしれない。最悪の場合、友達じゃいられなくなる。
「今日、俺がお前に話したこと、誰にも言わないで」
今日伊野が話してくれたことが、何のことを指すのか、聞く必要もない。長嶺についての話に違いない。
「なかむーにも話したことがない。長嶺が学校辞めた理由は、寮を出て実家に戻らなきゃいけなくなったってことになってるから」
「うん。わかった。誰にも話さない」
そんなこと、念を押されなくても誰にも話すつもりなんてなかった。伊野の大切な気持ちを、軽々と話題に上げることなどするものか。
「うちの高校もさ、A高校ほどじゃないけど、成績上位の奴らはそこそこいい大学入ってるんだ」
「そうだよね。転校してくるときに見たよ」
この高校のパンフレットに、大学進学実績が載っていた。そこには名だたる大学の名前が並んでいた。
「だからさ、海崎もこのまま卒業までここにいたらいいんじゃね、と思って」
「えっ?」
思わず伊野のほうを見るが、暗くてあまり伊野の表情はわからない。
でも、ずっとここにいてもいいと伊野から言われた気持ちになり、心があったかくなった。
「海崎はいなくならないで」
ぽつりと呟いた伊野の言葉の重みを知っている。長嶺が寮からいなくなったとき、伊野はどれだけ苦しんだのか、涙が溢れそうになるくらいにわかる。
――俺も、俺もずっと伊野と一緒にいたい。
咄嗟に浮かんだ言葉を海崎はぐっと飲み込んだ。
伊野は優しい。きっと相手が海崎でなくても、そんな言葉をかけてあげるに違いない。
伊野の想いと、海崎が伊野に対して抱いている感情は少し異なる。
伊野のそばにいるだけでは飽き足りず、海崎は伊野にその先を求めている。伊野に触れてほしくて、伊野に触れたくて、伊野が女子に告白されるたびに怖くなって、伊野に特定の相手がいないと知ると心底安心する。
伊野の心を独り占めしたくてたまらない。「海崎だけは特別だ」と、伊野に言葉で、態度で、示してもらいたい。
「うん。そうなれたらいいな……」
自分が抱いている伊野へ対する感情は、ひどく我が儘なものだとわかっている。だから伊野には黙っている。心が張り裂けそうになっても、この気持ちは伊野には伝えない。
それ以上の伊野からの反応がないので様子を伺うと、伊野は目を閉じ、すでに眠っているようだった。
今日は伊野も疲れていたのだろう。
下のベッドで寝られてしまって、まいったなと思いながらも、ちょっとだけ嬉しい。
いつも伊野は二段ベッドの上で寝ているし、先に起きるのは伊野だ。
だからこんなにじっくりと伊野の寝顔を見ることはなかった。
いつもは完璧なほどかっこいい伊野だが、寝顔は幼く思えた。静かな呼吸をするさまも、見ていて愛おしい。
「おやすみ、伊野」
伊野の肩までそっと布団をかけて、海崎は伊野の安眠をなるべく妨げないよう、ベッドの端っこで、できるだけ身体を小さくし、縮こまって眠った。
夏休みも終わりのころだった。伊野をはじめ、休暇中に実家に帰っていた寮生たちも、夏の登校日に合わせて寮に帰ってきた。静かだった寮がいつもの賑やかさを取り戻したころ、海崎はひとつの決断に頭を悩ませていた。
『夏の繁忙期が過ぎたら、東京に戻ることになりそうだって言ってただろ? あれ、十月に決定したよ』
「そっか。さすが父さんだ」
海崎は寮の部屋で父親と通話をしている。
父親の仕事は順調のようで、半年から一年程度と見込んでいた出張が十月で終わりになるそうだ。
『で、晴真はどうする? 俺と一緒に東京に戻るか?』
「うーん」
海崎はこれに対してどうするか決めかねている。もともとは父親の出張のあいだだけこっちにいようと思っていた。それが、予想外なことが起きたのだ。
寮や学校生活にも慣れ、そのどちらも楽しく過ごせている。東京の高校に籍を置いていたことなど忘れてしまいそうになるくらい、充実した日々を送っている。
なによりここには伊野がいる。寮でも学校でも伊野がいつもそばにいてくれるから全然さみしくない。
東京では、ひとりぼっちになることに常に怯えて暮らしていた。学校でも無理をして、家では多忙な父親の帰りを深夜になるまで待つ毎日。あの生活から比べると、ここはとても居心地がよかった。
『晴真は寮に入っているし、卒業までこっちに残ってもいいよ』
父親から甘い誘惑の言葉をもらい、海崎は増々悩んでしまう。このままA高校を退学してこの学校へ正式に在籍してしまおうかとも思う。
『最近、晴真は明るくなったよな。この前俺が寮に行ったとき、晴真は友達に囲まれて楽しそうにみえたよ』
「そうかな」
夏休み期間に一日だけ父親が寮に来たことがあったのだ。そのときみんなが「海崎の父ちゃん見てみたい」と集まってきたから、父親の目には賑やかそうに映ったのだろう。
『あの子。背が高くて元気な……伊野くんだ。伊野くんはすごく面白い子だったね』
「うん。伊野はいい奴なんだ」
『お父さん、海崎のことは俺に任せてくださいって、胸張って俺に言ってきた。頼りになるお友達がいて、俺も安心したよ』
父親が伊野のセリフのところだけ、伊野のモノマネをするから海崎はおかしくなって笑う。
「父さん、あと少しだけ返事を待ってもらってもいいかな」
今は八月で、父親が東京に戻るのは十月だ。あと少し考えてみようと思った。
『いいよ。ゆっくり考えなさい』
「うん。ありがと父さん」
それから少し雑談して、通話を終わらせた。
海崎は椅子に座ってぼんやり壁を眺めながら、どうしようかと考える。
伊野の言うとおり、どこにいたって勉強はできる。この高校に残る選択肢は十分にある。
ここに残れば、高二の残り半分と高三の一年間、伊野と一緒にいられる。それはとても魅力的だ。
「海崎、またぼんやりしてんの?」
「へっ?」
いきなり伊野に話しかけられて驚いた。海崎がぼーっとしているあいだに、伊野が部屋に戻ってきていたようだ。
「そんなにずっと壁見てて楽しい?」
「うるさいな……ちょっと考えごとしてたんだよ」
今、まさしく伊野のことを考えていたんだから、ぼんやりしちゃったのはお前のせいだと言ってやりたいが、それはできない。
「何、考えてたの?」
伊野が真正面から海崎の顔を覗き込んできた。海崎を映すその漆黒の瞳に、何もかもを見透かされてしまいそうだ。
でも言えない。東京に戻ろうかどうしようか悩んでいることも、伊野を特別に想っていることも、伊野には話せない。
「大したことじゃないよ」
「ふぅん」
海崎が誤魔化そうとしても、伊野は諦めてくれない。さらに海崎に迫ってくる。
伊野に迫られるとドキドキする。このまま伊野と間違ったことを言ってしまいそうになる。
「そ、そんな気にしないで……夏休みの宿題が終わってないから何から手をつけようか考えてたんだ」
視線を逃して、ヘラヘラと笑って適当な理由をでっち上げると、伊野はようやく離れてくれた。
「……俺って信用ないのかな」
伊野は一瞬暗い顔をしたが、すぐにいつもの調子で「俺も宿題終わってないんだよ。今からやらなきゃなぁー」と両腕を伸ばして伸びをした。
「あーもう! 海崎のやつ丸写しさせてよ」
「ダメだよ、それじゃ勉強にならない」
「真面目だなー。不定方程式とかマジで苦手なんだって」
「だったら教える。どこがわからないの?」
「マジ? これこれ、ここで止まってる」
伊野は机に広げっぱなしになっていた数学のノートを見せてきた。海崎は椅子を伊野の椅子の隣に並べてノートに視線を落とす。
「これは因数分解を使うんだよ」
海崎がノートの上にサラサラとシャーペンをはしらせるのに、伊野は「因数分解って何だっけ?」と恐ろしい発言をして、すっかり海崎を固まらせた。
夏休み中の登校日の帰り道、新学期の準備を整えておこうと、海崎はシュンク堂で文房具を買った。
その帰り道にどうしても寄りたかったのは、アクアリウムショップだ。まだ転校してきたばかりのころ、伊野が連れてきてくれた『とっておきの場所』だ。
海崎がアクアリウムショップの自動ドアをくぐると、水槽の手入れをしていた店長が「いらっしゃいませ」とこちらを向いた。
「海崎くんじゃないか」
一度しか会っていないのに、店長は海崎の名前を覚えていたようで、にこやかに話しかけてきた。海崎が高校の制服を着ていたから、ピンときたのかもしれない。
「こんにちは。あの、お魚見てもいいですか?」
「もちろんだよ。ゆっくりどうぞ」
寮では魚は飼えないから、海崎はただの冷やかしの客なのに、店長は快く迎えてくれた。
見惚れるほどの色とりどりの魚たち。でも海崎が会いたかったのは、地味な名前も知らない黒い魚だ。
以前、黒い魚がいた水槽を覗いてみる。
逃げたがりの黒い魚は、すぐに岩場に隠れてしまう。水草のあいだ、岩の窪み、あちこち探したのだが、どうしても見つけられない。
まさかの事態を思い浮かべてしまう。あのままエサが食べられなくて、黒い魚は最悪の結末を迎えたのではないかと、だんだん気持ちが焦ってきた。
「す、すみませんっ。以前、この水槽に小さい黒い魚いましたよねっ?」
店長がアメを海崎に手渡そうとしてそばにやってきたとき、海崎は店長に食い入るように聞いた。
「あぁ。あの魚ね」
店長は微笑みながら「はい。アメ」と海崎の手のひらに、水色のパッケージのソーダ味のアメを握らせる。
「水槽を移したんだよ」
「移した……?」
「うん。いまはこっちの水槽にいるよ」
そう言って店長に案内された先には、今まで黒い魚がいた水槽よりもひと回り大きな水槽があった。
「どこにいるかな……」
店長は水槽をひとしきり眺めたあと、魚のエサを手にしてそれを水槽の上から撒いた。
その瞬間、一斉に魚たちがエサに群がってくる。
「いた……」
エサに群がる魚たちの中に、小さな黒い魚がいた。ぱくぱくと口を大きく開けて懸命にエサを食べている。
「こっちの水槽は大きいから環境としては厳しいかなと思ったけど、この魚には合ってたみたいだね」
「そうですね……安心しました。さっき、姿が見えなくて、いなくなっちゃったのかと思いました」
「海崎くんお気に入りの魚みたいだったから、あれから目をかけていたんだ。管理はしているつもりなんだけど、数が多いから、ついおざなりになってしまうこともある。海崎くんに気に入られてあの魚は助かったね」
「見守ってくださって、ありがとうございます」
海崎の視線は黒い魚に釘付けだ。
水槽の中の黒い魚は、他の体の大きな魚たちに混じっても負けじとエサを食べている。この水槽では、黒い魚を目の敵にして追い払うようなことをする魚はいないようだ。
自然界とは異なり、狭い水槽の中では縄張りなど個体間でのトラブルが起こりやすい。だから種類だけではなく、個体ごとに混泳できるのかどうか見極めなければならないそうだ。
今、自分が泳いでいる場所から環境を変えることは逃げじゃない。自分に合う場所を探して環境を変えることは決して悪いことではない。動物たちだってそうだ。捕食者から逃げることは、生物の生存戦略として有効な手段とされている。
海崎がぼんやり水槽を眺めていたとき、アクアリウムショップの自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
店長が店の入り口に向かって声をかける。
「ああ、長嶺くん。久しぶり!」
その名前を聞いた瞬間、ゾワッと全身が粟立った。
まさか、まさかと思いながらも、その姿を見ずにはいられない。
「伊野の叔父さん、こんにちはー」
水槽の向こう側から明るい声が聞こえてくる。
水槽の端から海崎が顔を出したとき、背の高い男と目が合った。
長嶺は金髪に近い、明るい茶色の髪をしている。オーバーサイズの白Tシャツに柄物のハーフパンツ姿で、さらにゴツいシルバーネックレスを身につけている。
つまり、全然同級生に見えない。臆病な海崎は、見た目だけでなるべく距離を取りたいタイプの人間だ。
「あれ、その制服……」
長嶺は海崎の制服を見てピンときたようだ。長嶺に見下ろされ、海崎は反射的にビクッと身体を縮こませる。
「高校一年?」
「いえ。高二です。二年一組の海崎です」
「高二? 見たことねぇな」
長嶺は訝しげな顔をするが、無理もない。長嶺が高校に通っていたころ、海崎はまだ転校してきていない。
「俺、伊野の友達です」
長嶺を見上げてきっぱりと言い切った。伊野とは、友達だと胸を張って言える関係だ。
「お前がっ? こんな大人しそうなのに、本当に伊野の友達か……?」
長嶺のその言い方は、まるで伊野の友達に相応しくないと言っているように聞こえる。
それは当たっている。海崎だって、なんであんな友達の多い伊野が、地味な海崎のそばにいてくれるのか、いまだによくわからない。
「うん。伊野は友達だ。それで、伊野のことで、なっ、長嶺くんに話したいことがある」
海崎は必死にその言葉を口にした。本当は長嶺に会ったら「おい、お前! 高校辞めるなんて何やってんだよ!」ととっちめてやろうと思っていたのに、そんなことは怖くてできなかった。
「あー、いいよ。お前が本当に伊野の友達なら、俺も伊野について聞きたいことがある。ついて来いよ」
長嶺は「伊野の叔父さん、また来るよ」と言って、アクアリウムショップを出て行った。
客観的に見て、絵面がやばいと思う。
海崎が長嶺とふたりで歩いていると、脅されている気弱なDKと不良少年にしか見えないだろう。
そのくらい長嶺と海崎はチグハグだ。
長嶺は駐車場の端にある、自動販売機の前のガードレールに座る。海崎も遠慮がちにガードレールに寄りかかった。
「俺さ、前は……海崎、だっけ? お前とおんなじ高校に通っててさ、伊野と同じ空手部だったんだ」
長嶺は柄が悪そうに見えるのに、話す声はまったく怖くない。よくよく顔を見れば、実は意外に幼な顔だ。
「伊野から聞いたよ。同じ部活で、寮の部屋も同じだったって」
「そ。部屋も一緒だから、なーんか伊野とは、よくつるんでたんだよなぁ」
伊野を思い出している長嶺の表情は穏やかだ。伊野のことは嫌っていないのかもしれない。
「伊野と海を見に行ったり、ふたりでかき氷食ったり、いろいろやったよ」
「そうなんだ……。仲、よかったんだね……」
長嶺の話を聞きながら、海崎の心は重くなっていく。
そういえば伊野は、あまり人に教えていない店だと言って海崎をかき氷屋に連れて行ってくれたことがあった。
あのとき伊野は「海崎、お前でふたり目だ」と言っていたが、おそらくひとり目というのは長嶺なのだろう。
長嶺とかき氷をつつき合って、長嶺と海で語らい合って、伊野が長嶺と過ごした思い出は、海崎との思い出の十倍はあるのだろう。
伊野の中では海崎は二の次で、今でも長嶺の帰りを待ち望んでいるに違いない。
「あのさ、俺、春に空手の試合見に行ったんだけどさ」
「うん」
「そこに伊野がいなかったんだよ。あいつ、なんでいなかったんだ……? まだ怪我が治ってないのか?」
「えっ?」
海崎は長嶺の言葉が信じられなかった。
長嶺は何も知らない。長嶺が高校を辞めたあと、伊野がどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、そんなことも知らずに、のうのうと暮らしていたのだ。
「……怪我は、治ったって。お医者さんからも部活に復帰していいと言われてるって」
海崎の手が震える。必死で気持ちを抑えているが、感情が爆発しそうだ。
「あ? そうなの? じゃあ俺の勘違いかな。決勝見てて伊野の名前を見つけられなくってさ、あいつが予選敗退するとかありえねぇし」
「……伊野は空手を辞めたんだ」
腹の奥底から感情が込み上げてくる。
どんなに嫌味を言われても、バカにされても、理不尽な目に遭っても、ずっとずっとひとりで耐えてきた。
でも今、込み上げてくる黒い感情は抑えられない。自分で、自分をコントロールできない。
「はぁっ? 辞めた? なんで? あいつ空手やりたいから寮に入ってでも、あの高校に通いたかったんだろ? いつも空手のことばっか考えてさ、すげぇ好きだったのに」
とぼけた態度の長嶺に、海崎は黙っていられなかった。
「誰のせいで、伊野が空手を辞めたと思ってんだ……」
「え?」
「伊野は、長嶺くんのせいで空手を辞めたんだ!」
海崎は勢いよく立ち上がり、長嶺に食ってかかる。
「早く学校に戻れよ! 伊野は、伊野はずっと待ってるんだから……」
「えっ、おい、ちょ……どういうこと?」
長嶺は海崎の勢いに押されて後ずさった。
「たから! 長嶺くんが寮に戻って来るのを待ってるんだよ! 自分が、長嶺くんにひどいことを言ったせいで、高校辞めちゃったからって……」
「伊野が、待ってる? 俺を?」
「そうだよ! 長嶺くんがいなくなってからずっとだ。そのせいで空手部にも復帰しないし、今でもひとりで苦しんでる。それなのに、伊野の気持ちも知らないで……!」
怒りを抑えられなかった。考える間もなく、気がついたら海崎は右手の拳で長嶺を殴っていた。
「許さない! さっさと伊野と仲直りしろ!」
海崎は何回もパンチを繰り出すものの、全部、長嶺にかわされる。最後には「落ち着けって!」と長嶺に手首を掴まれた。そうなってからやっと海崎は我に返った。
それから長嶺と少しの話をした。長嶺は、怪我をしている伊野が、駅の階段で転んだときにひどい言葉を長嶺に言ったことは覚えているが、あれはその場限りの言葉だと捉えていた。そのせいで伊野を恨んでいるなんてことは微塵もないらしい。
伊野を怪我させてしまって申し訳ないという気持ちは、今でも消えないと言っていた。長嶺が空手を辞めたのは、対戦相手を入院させてしまうほどの怪我を負わせた経験から、技を出すことに臆病になったことが原因だと言う。でもそれは長嶺自身の問題であって、怪我をさせられたほうの伊野まで空手を辞めるとは想像もしなかったらしい。
「……伊野がそんなに気にしてるなんて思ってなかった」
「俺も、ちょっと言い過ぎた。それと、殴ってごめんなさい……」
海崎はうなだれた。
長嶺の話もろくに聞かずに、頭ごなしに責めてしまった。なんでもう少し冷静になれなかったのだろう、と今さらながらに猛反省する。
「いいよ大丈夫、お前のパンチは猫パンチだから」
「ねっ、猫っ?」
海崎渾身の怒りの鉄拳を、猫パンチ呼ばわりされてしまった。
それは空手有段者の長嶺から見たら猫パンチかもしれないが、あまりにもひどい。
「伊野って昔からそうだよなぁ」
「何が?」
「みんなに慕われるっつーの? お前みたいに伊野のために、めっちゃ怒ってくれる奴もいるし」
「はは……ご、ごめんなさい……」
自分でもどうしてなのかよくわからない。人に怒ったことなんて一度もない。それなのに黙ってなどいられなかった。
「お前、ヒョロっこいのにやるな。俺にケンカ売って来るやつなんていないぜ? 初めてだよ、殴られたの」
たしかに長嶺にケンカを売るような人はいないと思う。見た目もなんか怖いし、さらに空手有段者とくれば絶対に戦いたくない。誰もが逃げ出すことだろう。
「だから、本当にごめんなさい……」
海崎が謝ると、長嶺は「面白かったからいいよ」と返してきた。
「伊野がなんでお前のそばにいるのか、わかった気がしたよ」
長嶺は海崎に、最高にいい笑顔を見せて微笑んだ。
それから長嶺とは、少しだけ伊野の話をして別れた。
長嶺と話をしたあと、海崎はひとつの決断をする。
「もしもし、父さん。今、話せる?」
『うん、いいよ。どうした晴真』
電話越しの父親のバックには、忙しない人々の声が聞こえてくる。きっと着信に気がついて、仕事中にも関わらず電話を優先してくれたのだろう。
「あのさ、東京に帰るかどうかっていう話なんだけど……」
海崎はスマホを持つ震える手をもう片方の手で押さえつけた。
決断が鈍らないように、早く父親に伝えてしまいたかった。
「俺も帰る。父さんと一緒に東京に戻るよ」
あのあと長嶺から聞いたのだ。
長嶺は退寮はしたが、高校は先生たちに早まるなと止められ、今は休学という形をとっているらしい。
つまり、長嶺の意思さえあれば復学できるということだ。
伊野は長嶺の帰りを待っている。ふたりを今までの形に戻すためには、海崎が寮からいなくなるのが最善の方法だ。
『本当にいいのか? ゆっくり考えてもいいんだよ』
「帰るよ。そう、決めたんだ」
『……わかった。手続きは俺がやっておくから』
「うん」
父親との通話が終わったあとも、気持ちは晴れない。
でも伊野のために、できることをしてあげたい。長嶺とふたりで過ごす時間を取り戻すことができたら、伊野はどんなに喜ぶか容易に想像できる。
そのために海崎にできることは、長嶺の居場所を空けておくことだ。
二学期が始まっても、伊野に東京に戻ることを決めたことを言えなかった。そんなことを知りもしない伊野は、いたっていつもどおりだ。
そもそも九月は文化祭があり、文化祭実行委員の伊野は最近バタバタと忙しそうにしている。中央委員会の海崎は、生徒会とともに名物『生徒会スペシャル焼きそば』と学校オリジナルグッズの販売を担うことになっている。でも海崎は当日の手伝いをすればよいので、伊野のように事前準備はないポジションだ。
「明日も朝から文化祭の準備だよ……」
就寝前に、伊野は椅子にだらけて座りながら、隣の机にいた海崎に愚痴をこぼしてきた。
文化祭が目前に迫り、文化祭委員会の仕事も大詰めのようで、伊野は連日「疲れた」と海崎に泣きついてくる。
「海崎はクラスの打ち上げ出る? それとも中央委員会だから生徒会のほうの打ち上げ行くの?」
伊野は椅子ごと移動してきて、海崎の座る椅子へとコツンとぶつけてきた。
「あー、打ち上げかぁ。どうしようかな……」
文化祭が終わったあと、クラス単位や部活単位などで各々打ち上げが行われるらしい。海崎は生徒会の打ち上げと二年一組の打ち上げのふたつに誘われていた。
ちなみに生徒会のほうは焼肉、クラスのほうはカラオケだ。
「い、伊野は……?」
本当はどっちの打ち上げも遠慮しようと思っていた。でも、もし伊野がクラスの打ち上げに参加するなら参加してみたい。伊野がいてくれるなら安心する。
「伊野はどこの打ち上げに行くの?」
「えっ、俺? 俺は……まだ考え中」
珍しく伊野が視線を逸らし答えを濁した。いつも行動がはっきりしている伊野にしては珍しいことだ。
「お、俺、打ち上げとか苦手だから参加しなくていいかなと思ってたんだけど、伊野がクラスの打ち上げに参加するなら行ってもいいかなって……」
言ってて急に恥ずかしくなってきた。これじゃ伊野目当てで打ち上げに参加すると言っているのも同然だ。
「マジ? 海崎来てくれるなら、俺、クラスの打ち上げにするわ」
「ホントっ?」
嬉しくて思わずキラキラとした目で伊野を見てしまい、伊野としっかり目が合い、赤面する。
伊野に好意がバレる。伊野にいけない感情を抱いていることがバレたら、気まずくなって伊野と一緒にいられなくなる。
「ホントホント。打ち上げ行くときさ、待ち合わせして一緒に行こうぜ」
ああ、伊野、なんていいことを言うんだ、と海崎は嬉しくなる。ひとりでクラスの集団に混ざるよりも、伊野と待ち合わせをして、最初からふたりで参加したい。
「うん。いいよ」
「じゃあ文化祭のやること終わったら、海崎に連絡する」
「うん」
思わず笑みがこぼれてしまう。伊野のいる学校生活はとても楽しい。そして友達の多い伊野が、当たり前のようにパートナーとして海崎を選んでくれることが嬉しい。
「高三の打ち上げとかすごいんだ。高三のときは、めっちゃお菓子もらえるから、でっかいカバン持ってったほうがいい。海崎はいつも使ってるその黒いリュックを空にして持ってけよ」
「そ、そうなんだ。高三は最後の文化祭だものね」
まさかもうすぐいなくなるから、高三の文化祭には参加しないとは、伊野に言えない。
「でも高二でも十分楽しいよ。大変なのは準備だけ!」
「頑張れ、伊野」
「おう。海崎、先に寝てていーよ。俺、あと少しやってから寝るから」
「うん。ありがとう、悪いけど先に寝るよ」
「はいよ、おやすみー」
部屋の電気は消して、伊野は机の明かりだけをつけて宿題を片付けている。文化祭準備で、昼間、勉強時間が取れなかったのだろう。
海崎はベッドに潜り込んで、目を閉じる。時々、伊野がページをめくる紙の音が聞こえてくる。
伊野の気配を感じられる、この空間が好きだ。
最近は寮の部屋に帰ってくるとホッとするのだ。一日の終わりに伊野と過ごすゆったりとした時間がとても心地よい。
ここにいるときの自分こそ、何も飾らない本当の自分のような気がする。外でもこんなふうに振る舞えたらいいのにと思うが、こんなに自然体でいられるのは伊野とふたりきりのときだけだ。
ふと伊野の姿を見てみたくなって、静かに身体を起こして、なるべく頭を低くして、隙間から様子を伺う。
デスク灯に照らされた伊野の真剣な横顔は、見惚れるほどにかっこいい。
伊野は見た目もかっこいいのだが、伊野がみんなに好かれる理由はそれじゃない。強くて優しい伊野の人間性に惹かれるのだと思う。
伊野はよく気がつく男だ。その鋭さで、困っている人にさりげなく手を差し伸べる。
転校してきたばかりのとき、「昼を一緒に食べよう」と誘ってくれたのも、ひとりきりで寄り道しようとしていた海崎のことを気にかけて一緒についてきてくれたのも、きっと伊野の優しさからくる行動なのだろう。
今ならはっきりわかる。あのときの伊野は、転校してきたばかりで心細い海崎の気持ちを慮ってくれたとしか思えない。
怪我をして大会を途中欠場せざるを得ない状況になっても、不利な条件でビーチフラッグの勝負に挑むことになっても、伊野はそれに対して文句のひとつも言わない。今でも親友の帰りを待っているくらいだ。
やっぱり伊野のことが好きだ。伊野のそばにずっといたいと、気がついたらいつも願っている。
「あ、ごめん。眩しくて眠れない?」
伊野が海崎の視線に気がついて振り向いた。
「ううん、全然大丈夫っ」
大変だ。伊野を見ていることがバレて、何も悪くないのに伊野に気を遣わせてしまった。
「決めた! 俺ももう寝る! さっきから眠気やばいんだよ。明日やる、明日っ」
伊野は机に広げていた教科書とノートを閉じ、机の明かりを消した。
伊野は集中している様子だった。全然眠そうになんて見えなかった。
「えっ、俺のことは気にしないでっ」
まさか自分のせいで伊野が勉強を辞めてしまったのかと海崎は慌ててベッドの枠から身を乗り出し、伊野を止めようとする。
「海崎のせいじゃないよ」
伊野は微笑んで海崎の頭にぽんと触れた。その優しい手に涙が潤んでしまいそうになる。
「マジで集中力がないから今日は寝るっ。時間もやばいし。おやすみ、海崎」
伊野は軽やかに二段ベッドのハシゴを上って行く。
「おやすみ、伊野」
海崎も、のそのそと布団の中に身体をうずめる。
伊野と過ごす、この部屋が大好きだ。あと少しのあいだここにいられる。今のうちに、思い出を心に刻んでおこうと海崎は胸に手を当てた。
文化祭当日になった。生徒だけではなく、他校の高校生や、受験のための見学に来ている親子など、かなりの賑わいを見せていた。
海崎はクラスでやっている、変な間取りのホラー要素のある謎解きと、委員会のスペシャル焼きそば販売の手伝いをする。
今日は、校舎と校舎のあいだの中庭で、朝から焼きそばにウインナーと唐揚げをトッピングして、スペシャル焼きそばにする係を担当している。
伊野はというと、お手製の木の看板を担いで、友人とふたりで校内を歩き回り、文化祭実行委員会がやっている『癒しのカフェ』への呼び込みをしていた。
伊野が他校の女子高生ふたり組に声をかけると、面白いほどあっさりと伊野についていく。
伊野も伊野だ。女子高生にテンション高めに話しかけ、愛想よく振る舞っている。
なにが「髪、サラサラで綺麗だね」だ! 伊野に褒められて女子高生がめちゃくちゃ嬉しそうに笑っているのを見て、海崎はイライラが止まらない。
なんだか伊野が次々と女子高生をナンパしているように見えてしまう。役割だからやっているのだろうが、見ているだけで悔しくなる。
女子高生はカフェなんて二の次で、伊野狙いなんじゃないだろうか。海崎は見ていて歯痒くなるが、呼び込みした先で伊野が接客することはなく、カフェに案内するだけでお別れだと必死で自分の気持ちを落ち着ける。
文化祭実行委員の面々もわかっているのだろう。海崎の思い込みかもしれないが、顔のいい生徒ばかりを呼び込み担当にさせている感じがする。
——伊野のバカ!
悔しくて腹いせに猛スピードでガンガン盛り付けしていたら、「海崎くん仕事めっちゃ速い!」と販売係の上原に無駄に褒められてしまった。
午後になり、生徒も増えてきて、暇つぶしに来た委員会仲間とまったり喋りながら店番をする。
「すいませーん」
カウンターの向こうから呼ばれてハッとする。話に夢中になっていて店番が疎かになってしまっていた。
「あ! 伊野くん、いらっしゃいませー」
販売カウンターの目の前にいた上原の声を聞いて海崎は振り向いた。
「こんにちは」
背の高い伊野は、少し屈んでテントの向こうから顔を出した。もう木のプラカードは持っていない。
「ごめん、買いに来たんじゃないんだ」
伊野は上原に断りを入れる。
「俺、海崎を借りに来たんだけど」
伊野と目が合った。伊野は目が合った瞬間、海崎に微笑みかけてくる。
伊野の笑顔は魅力的だ。あっという間に心を奪われる。
「海崎を連れてっていい?」
さっきあんなに伊野の女子高生呼び込みにイライラしていたのに、伊野が迎えに来てくれただけで、不満が一気に吹き飛んだ。なんて単純なんだと思いながらも、伊野が連れ去りに来てくれたことが嬉しくて頬が緩む。
「海崎くん、伊野くん呼びに来てるよ」
上原の声かけに「今行く」と返事をする。
「ごめん、店番お願いしていいかな」
近くにいた生徒にお願いして、海崎は店の外に出た。目指すはもちろん伊野のところだ。
「海崎、ちょっと付き合って」
「うん、いいよ」
伊野に誘われて嫌なはずがない。二つ返事をして「誘ってくれてありがとう」と今すぐ伊野に飛びつきたいくらいだが、その気持ちはさすがに抑えておく。
伊野と歩き出したとき、背後から「あのふたり、仲いいよねー」と誰かの声が聞こえてきたのは、気のせいではなかったかもしれない。
「はぁ、やっとクソだるい呼び込みが終わったんだよ」
伊野は心底、嫌そうにため息をついた。
「へぇ。ずいぶん楽しそうに見えたけど」
伊野が女子高生に呼び込みをかけている姿を思い出して、ちょっとだけ嫌味を言ってやる。
「楽しくなんかないよ。喜んでんのは周りだけ。伊野は百人斬りするまで呼び込みやれとか言われてさ、最悪だ……」
「百人斬りっ?」
「そうだよ、JK百人連れて来いってマジふざけやがってあいつら……できるわけねぇだろ!」
伊野は理不尽だと怒っているが、海崎はあながちできなくないんじゃないか、なんて思ってしまった。
「とりあえず今日は、知り合いにも声かけて五十人達成したから、やっと開放された。……ったく俺は早く海崎に会いたかったのに」
伊野はそんなことを言って後ろから抱きついてくる。伊野に抱きしめられて、一瞬、脳が誤作動を起こしそうになったが、これはただの戯れ合いの一種だ。「早く海崎に会いたかった」というのも、ただ「早く休憩したかった」というのと同義語だ。
「はいはい、お疲れ様。伊野はよく頑張ったよ」
伊野の顔が後頭部に触れるくらいに近い。首に回された伊野の逞しい腕が、海崎のすぐ口元にあるから、愛おしくなって今すぐ腕にキスをしたい衝動にかられる。伊野に抱きしめられて、感情がパニックを起こしているが、海崎はそれを隠してなんでもないふりをする。
「もっかい言って。俺、海崎にもっと褒められたい」
「はぁっ?」
同級生に褒められたいとはなんだ! でも、今日の伊野は呼び込みのせいで結構疲れているのかもしれない。
海崎は首に回された伊野の腕をぎゅっと抱きしめる。
「伊野は任されたことを、きちんとやって偉いよ。伊野はみんなを幸せな気持ちにさせる天才だ」
この言葉は嘘じゃない。伊野がいるだけでその場の雰囲気が明るくなる。聞き上手な伊野は誰の話も真剣に聞いてくれるし、下手くそな話をしてもそれをうまく盛り立ててくれる。
だからみんな伊野のそばにいたいと思うのだろう。
「……やばい。今の言葉、めっちゃ刺さったわ」
伊野がさらに強く抱きついてくる。
「ありがと海崎」
そう言って伊野は海崎から身体を離したが、その間際、頭の後ろに伊野の唇が触れたような気がしたのは気のせいだろうか。
伊野と文化祭を見て回ることになったのだが、なにせ時間がない。一緒にいられる自由時間は四十分くらいしかなくて、伊野は「見たいとこだけさっさと見て回ろう」と言って足早に廊下を進んでいく。
「あ、高三の一組から三組はメイド喫茶だ」
高校三年生は受験があり忙しいため、三クラス合同で企画ものをやることになっている。偶然通りかかったメイド喫茶を興味本位で教室のドアの陰から覗いてみると、そこに知ってる顔がいた。
「伊野。宮城先輩がいる……」
海崎は伊野のシャツの袖を引っ張る。とてもじゃないが素通りできなかった。結構ごつい感じの体格の宮城が、眼鏡をかけたままフリフリのメイド服を着ているものだから、おかしくて仕方がない。
「うわ、マジだ……全然可愛くねぇ……」
伊野もドン引きしている。可愛い女子がたくさんいるのだから、そっちに着させればいいのにメイド服を着ているのは全員男だ。ミニスカートの下からのぞく足が、もれなく男の足で全然セクシーじゃない。
宮城は飲み物とお菓子をテーブルまで運んだあと、一昔前の「萌え萌えきゅんきゅん」ポーズをしている。
「ちょ……待って。俺たち見ちゃいけないもの見ちゃったよ……」
伊野が口元を手で覆って、必死で笑い声を抑えている。でも伊野にめちゃめちゃ同意だ。海崎も笑ってしまい、伊野と同じく必死で声を抑える。
「おい」
「わっ!」
こっそり立ち去ろうとしていたところに声をかけられて、心臓が飛び出るくらいにびっくりした。
「伊野、海崎、笑いすぎだろ。そんなにメイドが好きなら寄ってくか?」
メイド服姿の宮城が仁王立ちしている。かわいいヒラヒラ服に対して、中身の人が男らしすぎて本当に似合わない。
「い、いえ、遠慮しておきます……俺たち時間ないんで……」
海崎は両手のひらを宮城に向けてきっぱり拒絶する。宮城のメイド服姿を見ただけでお腹いっぱいなのに、これ以上は耐えられそうにない。
「それか、お前らも着てみるか? この服」
「えっ!」
急に恐ろしいことを思いついた宮城が「着てないやつあるから」などと言い出したので海崎は慌てる。
伊野とふたりでメイド服……想像しただけで絶対嫌だ。
「宮城先輩、それやばいですって。海崎が着たら冗談にならない。こいつの足、マジで白くて綺麗だから」
伊野が変なことを言っているのに、宮城も「たしかに海崎が着たら大変なことになりそうだな……」と同意するようなことを言い出した。
「てか、おい伊野。なんでそんなこと知ってるんだ……? 足、見たのか?」
「それは、まぁ、同じ部屋だと見えちゃうこともありますよね」
「ねぇ、ちょっと伊野、なんの話してるんだよっ」
会話の内容が不穏すぎて、海崎が口をはさむと、伊野は「なんでもない」ととぼけた。
「先輩、すみません、ちょっと寄りたいとこがあるんで、失礼しますっ!」
伊野は宮城にバッと頭を下げたあと、海崎の腕を掴んで歩き出す。
「おいっ、伊野ってば!」
伊野に引っ張られ、よろめきながら海崎もついていく。伊野はいつもこうだ。自分のペースに周囲を巻き込んで、ドキドキさせて、本当に困った奴だ。
「さっきのなんなんだよっ」
「だって宮城先輩、お前と一緒で勉強できるから」
「んん?」
それがなんで理由になるのかと、海崎は首をかしげる。
「なんか釣り合ってる感じでムカつくから、ちょっとマウントとってやったんだよ」
「マウント……?」
伊野の言わんとしていることの意味がわからない。
「まぁ、いいからいいから。行こ行こっ」
「待って、伊野っ」
まただ。また伊野のペースに引っ張られる。伊野といると毎日飽きない。次から次へと何かに巻き込まれる感覚だ。
そんな毎日も楽しいと思う。転校してきて伊野に出会い、伊野に教えられたことは小さなことから、大きなことまで数えきれないほどある。
それから伊野と友達のクラスをいくつか回った。高二はなぜかホラー系の企画が多くて、脱出系なのにホラー、巨大迷路もホラー、ビビリの海崎は逃げ回ってばかりいた。
「はぁ、もうホントダメ……疲れた」
緊張しすぎて喉がカラカラになり、海崎は目の前にあった自販機でペットボトルのミルクティーを買った。
「そんなに? だってどーみても高二の奴らがやってんだから怖くないだろ」
「わかってるよ。そうとわかってても苦手なんだ」
昔から怖がりなのは、海崎自身も自覚している。幼いころのトラウマのせいかもしれない。夜、ひとりきりでいるときに、背後から何か襲いかかってくるんじゃないかと怯えてばかりだった。人には恥をさらすようで言えないが、十六歳になった今でも真っ暗闇は得意じゃない。
「お前って、いろいろ面白いよなぁ」
「なんだよ」
こっちは怖い思いをして疲弊しているのに、伊野はニマニマと笑っている。怖いものは怖いのだから仕方ないだろと言い返してやりたいが、あんまり言うと恥の上塗りをしているみたいだから、ミルクティーを飲んで、反撃の言葉とともに喉の奥に流し込んだ。
「海崎、俺の後ろに隠れちゃってさ。ホント可愛かった」
「いいよもう……逃げたがりだって言いたいんだろ? 俺の人生、いつも逃げてばっかりだから。この高校に来たのだって、実は東京でうまくいかなくてここに逃げてきたんだ。情けない奴だって笑いたきゃ笑えよ」
暗闇からオバケが出てくるのが怖くて逃げて、人と衝突するのが怖くて逃げて、こんなにいくじのない自分がほとほと嫌になる。
「は? お前のどこが?」
伊野はさも当然というふうに言った。
「高校で、他の学校に転校するって、相当な勇気がないとできないよ。父親が転勤だっつっても、俺なら転校したくない。海崎は変わらない道よりも、変わるほうを選んだんだろ? それのどこが逃げなんだ? むしろガンガン攻めてる。めっちゃかっこいいよ」
「え……?」
そんなふうに考えたことなどなかった。転校することは逃げだとばかり思っていた。
「俺は逃げてる海崎なんて見たことないけどな。逃げるどころかサボってるところも見たことがない。勉強も、やんなきゃいけない仕事も、友達に対しても、いつも一生懸命じゃん」
伊野に言われて気がついた。
いつだって、なんとかしなきゃと必死でもがいていた。結果が伴わなかったこともたくさんある。それでも自分を諦めたことはない。思いどおりにいかなくて窒息しそうになっても、それでも真っ直ぐ生きたいと、懸命に口をパクパクさせて泳いでいた。
それは伊野の言うとおり、逃げじゃない。
「……またぼんやりしてる。海崎の頭の中は、俺の十倍は回転してるんだろうな。脳のエネルギー消費エグそうだなー、だから海崎ってめっちゃ食っても細いままなの?」
「そ、それは関係ないって」
伊野が茶化してくるから、海崎は首を横に振る。
たしかに考えすぎるクセはよくない。いつもそれでコミュニケーションのタイミングを逃してしまい、失敗してきた。
「知りたいな。いつも海崎が必死で考えてること」
伊野が微笑みかけてきた。
この優しい顔を向けられると、海崎は弱い。かっこよすぎてクラクラする。
「海崎、ひと口もらっていい?」
「えっ?」
何か言おうとしたときには、すでに伊野にミルクティーを取られていた。伊野は躊躇なく海崎が直飲みしていたペットボトルの飲み口に口をつけ、ひと口飲んでから「ありがとう」とペットボトルを返してきた。
また、伊野と間接キスだ。
伊野の「ひと口ちょうだい」は今に始まったことじゃない。反対バージョンの「おいしいからひと口飲んでみて」もある。
そのたびに、海崎はひとりだけドキドキしている。伊野は友達として接してくれているのに、こんな邪な感情を抱いていることに、本当に申し訳ない気持ちになる。
「あの……すみません」
伊野とふたり自販機の前にいたときに他校の女子高生ふたり組が伊野に声をかけてきた。
「あぁ、さっきの! カフェどうだった? なんもないけど、休憩にはなった?」
「はい、タイミングよく声かけてもらえて嬉しかったです」
どうやら伊野が呼び込みをしているときに声をかけた女子高生らしい。
伊野と話している子は、色白で、目がぱっちりしてて、優しそうな雰囲気の子だ。伊野の好みのタイプ、どストライクなんじゃないだろうか。
「あ、あの……」
女子高生が伊野にスマホを向けてきた。その画面はお友達追加のためのQRコードの画面だった。
「連絡先交換しませんか?」
こんな可愛い女子高生から連絡先を聞かれるなんて、男冥利に尽きるだろう。色白の女子高生のお友達も「この子、すっごいいい子なんです!」と友達のいいところを語り、伊野に友達を推薦し始めた。
辛い。
辛くてとてもじゃないが見ていられない。
「ごめん伊野。俺、時間だ。もう戻るね!」
海崎は居た堪れなくなって、その場から走って逃げ出した。
伊野が女子高生と仲良くしてデレる姿なんて見たくない。
あの場にいたら、海崎は友達として、伊野のことを女子高生に勧めなきゃいけない空気だった。伊野のことを勧めて、ふたりがうまくいくなんて嫌だ。友達としては心の狭い、最悪な奴だと思われるかもしれないが、どうしてもできなかった。
「何やってんだ俺……」
伊野の幸せを願っているくせに、伊野に彼女ができるのは許せない。そんな身勝手な自分が心底嫌になる。
海崎は手にしていたミルクティーに口をつけた。それを飲んだら急に伊野に会いたくなって、海崎は校舎の陰でしゃがみ込み、がっくりとうなだれた。
次の日の文化祭最終日もつつがなく終了し、伊野と待ち合わせをして、クラスの打ち上げ会場のカラオケに向かう。パーティーサイズの広いカラオケルームには、クラスのメンバーがすでに八名集まっていてすでに賑やかな雰囲気だ。最終的には十三名ほどが参加するらしい。
「伊野と海崎が来た!」
「伊野! 早速歌ってよ!」
伊野はカラオケルームに入るなり、いきなり知花に腕を引っ張られ、曲をリクエストするためのタブレットを押し付けられる。伊野も「いや、俺、着いたばっかでなんか飲みたかった」と言いながらも、知花からタブレットを受け取った。
空いてる席に伊野と並んで座る。伊野はサッと曲を選んだあと、タブレットを海崎に手渡そうとする。
「海崎は? 何歌うの?」
「えっ、俺はまだいいよ。とりあえず落ち着いてからっ」
海崎はタブレットを机の上に戻した。ピアノ演奏ならまだしも、歌はちょっと恥ずかしくてみんなの前で歌う決心がつかない。
クラスのみんなは各々好きな歌を歌っているようだ。
「ごめんみんな知らないかも」
上原が選んだ曲は有名ボカロPの曲だった。
「知ってる。ユーチューブで爆速で一千万再生行った曲だよね」
「海崎君わかるのっ?」
「うん。MVも好きだよ」
音楽マニアの海崎なら余裕で知っているし、好きな曲だ。世間の認知度まではちょっとよくわからないけれども。
「すごいね海崎くん、何でも知ってるんだね」
「そ、そんなことはないけど、たまたまね」
危ない危ない、もう少しで「知っているのはこんなもんじゃない」と、この曲を作ったボカロPのすごさを語りだしそうになり、自分を必死で抑えた。
こうしてみんなの歌を聴いているだけでも海崎は十分楽しい。ドリンクバーから持ってきたカルピスをちびちび飲みながら、歌わずにここにいるだけで満足だ。
やがて伊野のリクエストした曲が大きな画面に表示された。
伊野が選んだのは有名なラブソングだ。あなたがどれだけ好きかを切々と歌った、強くて一途な歌で、サビで高音が続くところと、音の高低差が激しいので地声と裏声の切り替えの多いところが難しい曲だ。
伊野の鼻歌を初めて聴いたときから、うまいだろうなとは思っていた。でも伊野の歌のうまさは異次元だ。
愛してる、愛してると伊野が歌う。それだけで海崎の胸が震える。
伊野はただ美声で歌を歌っているだけ。それなのに、メロディラインにのせて歌われる伊野の愛の言葉を、まるで自分に向けて歌われているような気持ちになり、これはやばい。
「伊野、やばいかっこいい……」
海崎の斜めの席に座っていた知花がうっとりして伊野を見ている。同じときに、知花とまったく同じことを思ってしまっていたことに気がつき、俺は乙女かと海崎は心の中で猛反省した。
歌い終えた伊野が腰を上げ、次の人にマイクを渡してから海崎の隣に座りなおした。
「海崎は? 歌わないの?」
「俺はいいよ」
「えーっ、海崎の歌聞きたい!」
「俺は伊野の歌がもっと聞きたい。伊野は天才的にうまいよ。歌のレッスンを受けてたとかでもないんだろ?」
「しないよそんなこと。自分では普通って思ってるし。海崎がめちゃくちゃ褒めてくれるから最近うまいのかなーって調子乗ってるとこ」
調子に乗っていいと思う。伊野の歌のレベルはすでにプロレベルだ。こんなに歌がうまいのに、自覚がないほうがびっくりだ。
それから無事にクラスの打ち上げ参加者たちが全員揃い、みんなで文化祭の話や全然関係ない話をしながら和気あいあいと盛り上がる。
海崎はドリンクバーを取りに行こうと部屋を出る。そのときに「私も」と上原が一緒についてきた。
「あの、海崎くん。ちょっとふたりきりで話がしたいんだけど」
上原を先に通して、カラオケルームの重い扉を閉めたあと、上原に声をかけられた。
「いいけど、何?」
「ちょっとこっち来て」
上原は角を曲がり、通路の奥へと海崎を誘う。賑やかなカラオケルームから離れ、ここは少し静かな場所だ。
「海崎くんて、あの、好きな人いる……?」
「えっ……」
こんな状況で好きな人のことを聞いてくるなんて、まさかとつい勘ぐってしまう。
でも上原の様子はいたって真剣だ。それなのに茶化したり、不真面目に答えたりはできない。
「……いるかいないかで聞かれたら、いる」
嘘はつけないと思った。
自惚れかもしれないが、上原からは特別な好意を感じる。今までクラスのみんなに上原との仲を冷やかされても曖昧にして誤魔化してきたが、今この状況でそれはできない。
「でも、俺がその人と付き合うことはないんだ。俺さ、実は来月東京に帰ることになってて、向こうに行ったらもう会うこともなくなるんだろうから」
「海崎くん、帰っちゃうのっ?」
上原が目を大きくして驚いている。
「うん。もともと親の都合でこっちに転校してきただけだから。来月父さんが東京に帰るから、俺もついていく」
「でも、海崎くんは寮にいるんだから、このままずっとこっちにいたらいいのに……」
「ちょっと迷ったんだけど、やっぱり帰ることにしたんだ」
上原に言いながら自分に言い聞かせているようなものだ。
伊野にはこの気持ちは伝えられない。東京に行ったらもう伊野と会うことはない。
時が止まることはない。いつかその日がやってくる。それまでの残酷なカウントダウンが海崎の胸を締めつける。
「さみしい……」
「俺も、楽しかった。上原さんもそうだし、クラスのみんなのおかげだよ」
「ヤダ、さみしすぎるから」
上原がひっくひっくと泣き出したので、海崎は慌てる。女の子を泣かしたと思われたら一大事だ。
「ご、ごめんっ、急にこんな話をして。でも来月の話だし、あと少しこっちにいるからっ」
やばい、やばいととりあえず持っていたティッシュを上原に手渡す。上原は「ごめんなさい……」とそれを受け取り、しばらくすると泣き止んでくれた。
「大丈夫? 部屋に戻れる?」
「うん。海崎くんいなくなるって聞いて、ちょっとびっくりしちゃって……。ありがとう海崎くん」
上原とふたりで、そういえばドリンクバーに行くところだったのを思い出し、サッとドリンクを持って部屋に戻った。
カラオケからの帰り道、駅まではぞろぞろとみんなで歩いていたが、寮の最寄り駅についたときに、同じ駅で降りたのは伊野と海崎のふたりだけだった。
伊野とふたり、夜のアスファルトの道を歩いていく。伊野は海崎の隣を歩いてはいるが、何も話しかけてこない。海崎は、実はさっきから伊野の様子がおかしいことに気がついていた。
いつもだったら、みんなで帰る帰り道も伊野が隣に来てくれる。伊野が来ないなら海崎のほうから近寄っていくのに、伊野は集団の列の先頭、海崎は後方にいて、なんとなく声をかけられなかった。
電車では伊野は別の車両に乗っていた。八人の集団だったから全員固まっていたら他の乗客の迷惑になるかもしれないし、自然と四人ずつに分かれたのだが、伊野は海崎とは別のグループに行ってしまった。
「い、伊野、今日は月が綺麗だね」
月は別に満月でもなく微妙な月だったが、伊野と会話がない状態が気まずくて、海崎は無理矢理話しかけた。
「……他に俺に言うことあるだろ」
伊野から、海崎を退けるような冷たい言葉を浴びせられる。胸が痛い。他の誰にされるよりも、伊野に拒絶されるのが一番辛い。
「さっきカラオケでさ、上原の様子がおかしかったから聞いたんだ。いつから決まってたんだよ。このまま俺に何も言わずに、いなくなる気だったのかよ」
その言葉を聞いて気がついた。
伊野は、あのことを知ったのだ。
「上原は俺は、とっくに知ってると思ってたらしいぜ? 俺もそうだと思ってた。海崎は、何かあれば一番に俺に話してくれると信じてた」
「それは……!」
海崎は思わず伊野のシャツの袖を掴む。
海崎だってずっと伊野に話したかった。でも、どうしても切り出せず、月日が過ぎてしまった。
「最初に、お前の口から聞きたかったよ」
伊野は怒っている。いや、怒りを通り越して、不誠実な海崎を軽蔑しているのではないだろうか。
「ごめん。言い訳にしか聞こえないと思うけど、いつか話すつもりだったんだ」
胸が苦しい。伊野のことは一番大切に思っているのに、どうして伊野を苦しめるようなことをしてしまったのだろう。
「海崎はいなくならないでって俺、言ったのに」
「ごめん……」
海崎は謝ることしかできない。
でも海崎がいなくなっても伊野はひとりにならない。海崎の代わりに長嶺が帰ってくるだろう。
それこそ伊野が待ち望んでいた結果だ。長嶺さえいれば、短い海崎との思い出など、いつか忘れてしまうだろう。
伊野は寮の入り口を通り過ぎる。どうしたんだろうと思って「伊野っ」と名前を呼んだら伊野に手を掴まれ、引っ張られる。
「……昨日、お前、なんで逃げたんだよ」
伊野は低い抑揚のない声で言った。
海崎の手を掴む、伊野の手は力強くて痛い。もう少し緩めてほしいと言いたいのに、言えなかった。
「昨日? なんのこと?」
「俺が他校の女子高生に話しかけられたときだよ。なんで? 隙を見て俺から離れたかった?」
「そんなことないよ!」
思ってもみないことを言われて、海崎は泣きそうになる。
あれは伊野に彼女ができるのが嫌で、それを阻止できないどころか友人として応援しなきゃならないのが辛くて逃げたのだ。それを、伊野は「海崎に嫌われた」と思っていたなんて想像もしなかった。
「最近、海崎はおかしかった。夏休みまでは俺に話をしてくれたのに、最近は俺が部屋にいてもぼんやりしてるだけ。何考えてるのか聞いても、なんでもないってそればっか。なんかもうわかんねぇ……。海崎のこと、わかんねぇ……」
伊野の手が、離れた。
伊野はひとりで寮から離れて歩いていってしまう。その寂しい背中がたまらなくて、海崎は必死で追いかける。
「ねぇ、伊野。全部ちゃんと話す。話すから、俺のこと嫌いにならないで……」
伊野とケンカ別れなんてしたくない。
伊野を傷つけたまま転校することになったら、一生後悔する。
海崎は伊野に置いていかれないように伊野の隣を懸命に歩く。伊野は海崎と目を合わせようともしないが、隣に海崎がいることを嫌がったりはしなかった。まだ完全に嫌われてはいない。海崎に謝るチャンスをくれるみたいだ。
「あのね。夏休みくらいから、父さんに言われてたんだ。仕事のめどがついたから、十月に東京に帰るって」
伊野からの返事はない。伊野はただ前を向いて歩いていく。
「それで、『晴真はどうする?』って聞かれて。俺は、しばらく悩んでてさ。もともとは父さんの仕事が終われば一緒に帰るつもりで、あっちの学校に籍を残してた。でも俺は寮に入ってるし、父さんが帰っちゃってもこっちで生活することができる。正直、東京の高校は俺には合わなくて。こっちに来てから楽しくて。このまま残ろうかなとも考えた」
海崎が話をしても、伊野は相変わらずで黙々と歩いていく。大きな幹線道路の陸橋の下をくぐり抜けていくと、やがて海の匂いがして浜辺が見えてきた。
「でも俺、長嶺くんに会ったんだ」
「はぁっ? お前マジであいつんち殴り込みに行ったのっ?」
伊野がこっちを向いた。しかもちゃんと返事をくれた。
よかった。ちゃんと話を聞いてくれていたことにも安堵したし、もう二度と口を聞いてもらえないのかと怖かったから、伊野と話せて思わず目に涙がにじむ。
「違うよ、偶然会ったんだよ。伊野が教えてくれた伊野の叔父さんがやってるアクアリウムショップでたまたま会ったの。俺も、長嶺くんに聞きたいことがあったし、長嶺くんも伊野のことを聞きたいって少し話をすることになったんだ」
「……なるほどな」
伊野は砂浜の前にある柵を躊躇なく越えていった。海崎も遠回りをしてしまっては伊野に置いていかれてしまうので、柵を乗り越えた。
「でね、長嶺くんは寮は辞めちゃったけど、学校は休学扱いになってるんだって。だから、戻ってくるかもしれないよ? 伊野が長嶺くんが戻ってくるの待ってるって、言っちゃった。そしたら考えてみるって……」
もし長嶺に本当に戻る気がなければ、休学のままでいないと思う。長嶺も高校を卒業したいという気持ちはあるのではないだろうか。本心はわからないが、あのとき話した感じでは、長嶺は葛藤している様子だった。
伊野はローファーのまま砂浜を進んでいく。靴に砂が入ってしまうなと戸惑ったが、伊野のそばにいたいから、海崎は砂浜に足を踏み入れた。
「あいつ、戻ってくるよ」
「えっ!」
「あいつ、文化祭に来てた。久しぶりに長嶺と話したよ。来月から復学するって言ってた」
「そっか、そうなんだ……。よかったね、伊野」
本当によかった。長嶺が本当に戻ってくるかどうかはわからなかったから、それが叶うと知って、心から嬉しい。ずっと長嶺の帰りを待っていた伊野にとっては、特別なものに違いない。
これで、海崎がいなくなっても伊野がひとりになることはない。
「学校に戻れってすげぇ説得されたんだと。誰に言われたのか、俺が聞いても長嶺ははっきり言わなくてさ。『猫パンチ』って返された。海崎、意味わかる?」
その単語を聞いて、海崎は目をハッと大きく開く。
それは間違いなく、海崎のことだ。
「……やっとわかった。長嶺に決心させたのは、お前だったのか。海崎」
伊野は海崎に微笑みかけてきた。
砂浜には少し離れた場所にある街灯しかない。薄暗くて伊野の表情が見えにくいが、それでもその笑顔を必死で目に焼きつけた。
「何? まさか長嶺のこと殴ったの?」
「そうだよ、殴った」
「え、マジっ?」
伊野はありえないといった表情で目をしばたかせている。
「あいつにケンカ売る奴なんて初めて聞いたよ……海崎すげぇ」
「ケンカっていうか、そんなつもりはなくて、あの、猫パンチって言われちゃったけど……」
あのときほど、男としての非力さを感じたときはない。長嶺とは同級生とは思えない。海崎と体格が違いすぎる。
「そっか、あいつが戻ってくるのは、海崎のおかげだったのか」
「違うよ、伊野のおかげだよ。ずっと長嶺くんの帰りを待っていた伊野の気持ちが届いたんだよ」
伊野の想いを長嶺は知らなかった。海崎はそれを全身で長嶺にぶつけただけだ。伊野の気持ちを知った長嶺は、高校に戻ることを決めたに違いない。
「ありがとう、海崎」
伊野の優しい声が心地よい。いつものように笑顔を向けてもらえてよかった。まだ伊野に嫌われてなかったと安心して泣きそうになる。
伊野は背負っていたリュックを下ろした。海崎もつられて伊野のリュックの隣に寄り添うようにリュックを置いた。
優しい海風が吹いて、制服のシャツがふわっと舞い上がる。素肌を撫でるようなひんやりとした風が、ふたりのあいだを吹き抜けていく。
「……海崎のことだから、めっちゃ考えて、考えて、出した結論なんだろうけどさ」
「うん……」
「東京に帰らないでさ、このままこっちに残るってのはダメなの?」
「そうだね……来月だから、もう手続き済んじゃってるかな……」
「そっか。そうなんだ。マジか。マジでいなくなるのか……」
伊野が引き留めてくれたことが嬉しい。伊野とケンカ別れしなくて済むのが嬉しい。
今日のことをきちんと記憶しておこう。東京に帰って辛い思いをしたときに、伊野のことを思い出して元気を取り戻すために。
「東京に帰っても、伊野に時々連絡していいかな?」
「いいよ。俺も海崎に連絡する」
よかった。東京に戻っても伊野との縁は切れない。さみしくなったら伊野に連絡すればいい。声が聴きたくなったら伊野に電話をすればいい。そう思うと勇気が湧いてきた。
「海崎のこと抱きしめてもいい?」
伊野は愛おしそうな目で海崎を見つめている。海崎の大好きな双眼が、真っ直ぐ海崎だけを映している。
海崎が静かに頷くと、伊野がそっと抱きしめてきた。海崎も伊野の腰に両腕を回して、伊野に身を委ねる。
少しひんやりとしていた海風も、伊野の腕の中にいると守られているようで寒いと感じない。
「海崎は、俺が怖い?」
「え……」
どういう意味だろうと、海崎は伊野に視線を向ける。凛々しくて優しい伊野の顔がすぐ目の前にあった。
「海崎は俺が触れるといつもビクビクしてる。殻の中に逃げる貝みたいに身体を固くして怖がってる」
伊野にそんなふうに思われているとは知らなかった。海崎は、伊野のスキンシップは友情からくるじゃれ合いなんだと、なんでもないふりをしてた。でも、実は意識しまくっていて、ガチガチに緊張していたことが伊野に見透かされていたのだ。
「あ、あのっ、俺、そういうの慣れてなくて。伊野はいつも友達に無自覚に触れるんだろうけど、俺は人との距離感がよくわからなくて……」
「俺もただの友達にはこんなことしない。無自覚でこんなふうに誰かを抱きしめたりできないだろ」
「それって、どういう意味……?」
友達にしないなら、どうして海崎には触れてくるのだろう。伊野の話は矛盾している。
「俺に触れられるのは嫌?」
伊野の大きな手が、海崎の頬に触れる。伊野の手はあったかくて気持ちがよかった。
「嫌じゃ、ないよ」
嫌だなんて一度も思ったことがない。むしろ、もっと伊野に触れてほしい。このまま伊野の特別になりたい。
伊野と見つめ合う視線を逸らすことができない。
伊野は今、どんな気持ちでいるのだろう。伊野から微かに感じるこの想いが、気のせいであってほしくない。
「伊野は、伊野は、すごく距離が近いから、俺は勘違いしそうになる。いつも胸がドキドキして、その……伊野のことを……」
好きになる。その最後のひと言が怖くて言えない。
もし、伊野が同じ想いでいてくれたら。越えてはいけない一線を、踏み出す勇気が持てたなら。
「海崎。俺と距離感、間違えてみる?」
伊野がゆっくりと唇を近づけてくる。
ああ。
ずっと、ずっと伊野とこうしたかった。
海崎はそっと目を閉じる。すると伊野が海崎の唇に唇を重ねてきた。
初めてのキスは優しいキスだった。
静かな波の音を聴きながら、大好きな人とする、泣きたくなるくらいに幸せなファーストキスだった。
「好きになってごめん。友達でいなきゃダメだ、海崎のことそういう目で見ちゃいけないってわかってた。でも好きなんだ。海崎じゃなきゃダメなんだ」
切実な伊野の気持ちが伝わってくる。真っ直ぐに迷いなく言葉をぶつけてくる、伊野の強さを感じる。
伊野も海崎も男で、多分これは普通の恋愛じゃない。海崎なんて、何度も自分の気持ちを『気のせい』だと誤魔化そうとした。それでも伊野と一緒にいると好きは加速するばかりで、途中から爆発しそうになる気持ちを抑えるのに必死だった。
「誰かをこんなに好きになったのも初めてだ。海崎は俺のことどう思ってるのか知りたくて、ちょっかい出すけど全然意識してもらえなくて、あぁ、やっぱ俺じゃ無理だって落ち込んで、それでも海崎と一緒にいたくて……」
「意識してたよ。めちゃくちゃ気にしてた。でも、伊野にそんな気はないんだって、ずっとずっと我慢してた」
伊野に触れられるたびに、これはなんでもない、友達としての行動だと、勘違いしないように自分を制していた。でも伊野も、特別な意味を持って海崎に触れていた……?
「俺も、俺もこんな気持ちになったの初めてだよ。伊野のこと好きになっちゃダメだって思っても、どんどん好きになるんだ。文化祭のときも、伊野が女の子と仲良くするのが嫌で、伊野に彼女なんてできたら耐えられないって思って、嫌で嫌で……。我が儘だってわかってるのに、逃げてごめんなさい」
「そうだったんだ……わかんなかった。ずっとわからなかったよ、海崎の気持ち」
伊野はぎゅっと海崎の制服のシャツを握りしめる。
「俺、海崎のことが好きだ」
伊野の真剣な眼差しに、心が震えた。
好きな人に好きだと思ってもらえることが、気持ちを通わせることが、こんなに胸が痛くなるものだと初めて知った。
「海崎がそばにいてくれると、いつも優しく励ましてくれると、俺は強くなるんだ。俺はどれだけ海崎に救われたのかわからない」
「俺もだよ。俺も、たくさん伊野に助けてもらった。伊野が好き。ずっと、ずっと伊野と一緒にいたい……」
伊野に求めるようにすがると、伊野は海崎の身体を抱き寄せ、もう一度唇を重ねてきた。
今度のキスは、さっきよりも少しだけ長かった。
一度目のキスは夢じゃないかと思うくらいにふわふわしていたが、二度目のキスは伊野と気持ちを確かめ合うようなキスだった。
「海崎……」
伊野が海崎の身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
強く求めるような伊野の腕の力強さにたまらなくなり、海崎も伊野の両肩にしがみつく。
伊野と離れたくない。このまま伊野とずっと寄り添っていたい。
街灯の薄明かりの中、しばらくのあいだ伊野とふたり抱き合っていた。
「おはよ。起きろよ海崎」
「うう、ん……」
せっかく気持ちよく眠りについていたのに、誰かに揺り起こされる。目を開けることも億劫で無理だ。
「海崎、遅刻するぞ」
遅刻。それは嫌だ。そうか、起きて学校に行かなきゃいけないんだったと、夢と現実のはざまの朦朧とする頭で思う。
「起きないと大変なことになるぞ」
そんなことはわかっている。でもいつも伊野が起こしてくれる時間は少しだけ余裕があることも知っている。
ずっとは無理でも、あと三分だけ寝かせてほしい。
海崎が狸寝入りを決め込んでいたとき、ふに、と海崎の唇に柔らかいものが押し当てられた。
まさかと思って目を開けると、目の前に伊野の顔がある。
「あ。海崎が起きた」
伊野は「童話って案外嘘じゃないのかもな」と笑う。
「い、い、い、伊野っ? 今、何した……っ?」
「海崎と三回目のキス。ごめん、寝顔が可愛くて」
伊野はニマニマしているが、海崎はたまったものじゃない。
「もう! 朝から刺激が強すぎるよ……」
羞恥に耐えられなくて、海崎は顔を半分、布団で隠す。
「白状すると、お前と付き合う前から毎朝、海崎を起こすたびに、起きないならキスしてやろうかって思ってた」
「嘘でしょっ?」
伊野にそんな目で見られているなんて、思いもしなかった。いつも普通にバシバシ叩かれて起きていたから、気づくはずもない。
「本当。だから今、俺の夢がひとつ叶った。これからは、俺が起こしても起きなかったら、覚悟しろよ海崎」
伊野は軽い口調で言っているが、海崎は布団から顔もあげられないくらいだ。
だって伊野にキスしてほしかったら、朝、寝たふりをすればいいということだ。これなら、海崎がしてほしいと言わなくても、伊野にキスしてもらえる。それってものすごく幸せだ。
「でも海崎、そろそろガチでやばいから起きろよ」
そう言って伊野が部屋を出て行こうとするから、海崎はベッドから上半身を起こして起き上がり、「待って」と伊野を引き止めた。
「あのっ、伊野、さっきの……」
「さっきの?」
伊野はキョトンとした顔をしている。
「さっき、伊野が言ってた、あの、『付き合う前から』ってさ。お、俺たち付き合ってるって認識でいいってこと……?」
好きを伝え合ったけど、その後、自分たちはどんな関係なんだろうと気になっていた。男同士だし、いわゆる恋人関係とはちょっと違う。そこのところが曖昧で、ちょっとだけモヤモヤしていた。
伊野はおもむろに近づいてきて、海崎の目の前にしゃがみ込む。
「俺は勝手にそう思ってたけど、海崎はどうしたい?」
伊野は優しい顔で海崎の反応を伺っている。
「もし、付き合ってるってことにしたら、伊野は浮気しない……?」
「う、浮気っ?」
「あのさ、男同士だから付き合ってないってなっちゃうと、伊野は彼女を作ったりするでしょ? 俺は伊野が他の人とさっきみたいに、キ、キスしたり抱き合ったりするのは、すごく嫌だから、できれば伊野を独り占めしたいです……」
海崎は指をもじもじしながら伊野に訴える。
こんなことを言ったら伊野に我が儘だと怒られるだろうか。でも嫌なものは嫌だ。
「ホントお前はいつも予想外の答えを返してくるよな」
伊野は笑みをこぼす。
「じゃあ俺たち付き合おう。俺は海崎の恋人で、海崎は俺の恋人。これは、海崎が東京に帰って離れたあとも変わらない。それでいい?」
伊野は確認するように海崎の顔を覗き込んできた。
「付き合ってくれたら浮気しない。俺、喜んで海崎に独り占めされます! これでもダメ?」
「え! ダメなんかじゃない! 付き合うに決まってる……」
ちゃんと返事をしないとダメだ。せっかく伊野といい感じなのに「お前が嫌ならただの友達でいよう」なんて伊野に言われてしまったら大変だ。
「いいの?」
「伊野こそ、いいの?」
「うん、いいよ。俺が好きになるのは海崎だけ。さっきみたいなことするのも海崎だけ。そういうことだよね?」
伊野は真っ直ぐ海崎だけを見つめている。
「海崎も東京で浮気するなよ?」
「しないよ、向こうに行っても、伊野に会える日を楽しみに頑張るよ」
来月、東京に帰ったら、今度はいつ伊野に会えるのだろう。
「なぁ海崎。お前が帰っちゃったらさ。俺たち今度はいつ会えるのな……」
伊野もおんなじことを考えていたみたいだ。
東京から飛行機に乗ればいい。会いたいなら伊野に会いに行けばいい。それは簡単そうでいて、なかなか難しいことだ。
これから高校三年生になり大学受験が迫ってくる。バイトをするような時間はないから、自分で飛行機代も稼げない。
学校が長期休みのときに、父親に頼んで旅費を出してもらおうか。それだって何回もお願いできない。海崎がここを離れたら、次に会えるのは何ヶ月後になるのだろう。
「ごめん。考えてもしょうがないことだもんな。やばやば、遅刻するっ」
伊野はサッと立ち上がり、支度をするため部屋を出て行ってしまった。
伊野とこうして過ごせる日々もあと少しだ。今のうちに、伊野とたくさんの思い出を作りたいと海崎は思っていた。
いつもの授業を終えたあと、今日は絶対に行きたいところがあった。海崎はいつもの黒リュックに荷物を詰めて、そそくさと準備を整える。
向かうのは体育館の地下だ。実は体育館の地下には一度も行ったことがなかった。今まで縁がなかったからだ。
地下には主にふたつの広い道場がある。あとはシャワールームやロッカールーム、倉庫や多目的ルームもある。
部活の準備でたくさんの生徒が行き交う中、海崎は居場所がなくて時々道場を覗いたり、無駄にフラフラしている。若干、不審者になりかけていたとき、背後から聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
「海崎、こんなとこで何してんの?」
振り返った先に、空手着姿の伊野が立っていた。白の道着に黒い帯をきっちり締め、左胸には学校名の刺しゅうが入っている。
やばいぞ、やばい。
伊野の凛々しい空手着姿に目が釘付けになる。
今日から部活に復帰すると聞いて、その姿をひと目見たいと思ったのは確かだ。でも伊野のかっこよさは、海崎の想像以上だった。
まだ知らない伊野の姿を見て、伊野のことをもっと好きになる。今だって十分、伊野のことが好きなのに、これから先どれだけ好きになるんだろう。
「あ、あのっ、伊野に会いに来たんだ。今日から部活復帰するって言ってたから」
「おう。久しぶりすぎて忘れてんだろうけど、こっから勘を取り戻すしかないからな!」
「うん。頑張って。伊野ならできるよ」
伊野をずっと見てきて思う。伊野は言い訳をしたり、途中で投げ出したりしない。身長があって手足も長いから、体格面でも絶対的に有利だし、全国レベルの選手になる素質は十分に持ち合わせている。
「目指すは武道館だな。な、海崎」
意味深な目を向けられて気がついた。
伊野は、試合という名目で東京に来ようとしているのだ。
「うん。本当に頑張って」
伊野が東京武道館で組み手をする姿を見てみたい。きっとめちゃくちゃかっこいいんだと思う。それから試合のあと、少しだけでも伊野に会いたい。
「あ、そうだ伊野。今日、部活終わるまで、待っててもいいかな」
「えっ、結構遅くなるかも……」
「いいんだ。図書室で自習して待ってるから。だから、あの。一緒に帰らない……?」
言いながら恥ずかしくなってきた。伊野とは寮に戻れば会えるのに、わざわざ待ってまで一緒に帰ろうとするのは、さすがにやり過ぎだろうか。
「いいよ。嬉しい」
伊野は、ぽんと軽く海崎の頭に触れた。
「終わったら図書室に行くよ」
「えっ、いいよ、連絡くれれば俺が行くから」
「いいや、俺が行く。海崎を迎えに行く」
伊野は「じゃあまたあとでな!」と笑顔で道場に入っていった。
伊野が道場に入っていくと、歓声と拍手が上がった。きっと空手部の人たちは伊野が戻ってくることを心待ちにしていたのだろう。
伊野が空手部に復帰してくれて本当によかった。伊野の話によると、長嶺も復学したら空手部に戻ってくるらしい。
伊野と長嶺、ふたりが元通りになる日もきっとすぐに訪れる。親友であるふたりの仲睦まじい姿を、海崎が見ることはないだろうけど。
「俺も頑張らなくちゃ」
海崎には目標がある。正確には漠然と大学を目指していたところに目標ができたのだ。
海洋生物系の学部に行って勉強してみたいと思い始めた。そのあたりの学部がある大学を探して吟味してみようと思った。
具体的な目標ができると、勉強もやる気が湧いてくる。
伊野に負けてなどいられない。自分にも何かコレと言えるような何かがほしい。なにもかも完璧な伊野に、少しでも釣り合うような人になりたい。
「やるぞっ」
海崎は黒リュックの肩紐を背負い直して、軽やかな足取りで体育館の階段を駆け上がった。
「海崎、お待たせしました」
図書室で勉強していると、部活を終え、制服に着替えた伊野が目の前に立っていた。
「どうだった? 久しぶりの部活」
「いけるいける、身体が覚えてた。これならすぐに前のレベルまで戻れそうだよ」
「そっか。安心した」
海崎は机に広げていた教科書やノートたちを閉じ、リュックの中に放り込んでいく。
「海崎はどう? 勉強進んだ?」
「うん。寝てないよ。ちゃんと全部起きてた」
「へぇ。偉いじゃん」
「まぁね。ちょっと頑張りたくなったから」
黒リュックを背負って「行こ」と伊野の背中を押して促す。
図書室のある棟から校舎へと繋がる渡り廊下を、伊野と歩く。
不思議だ。伊野と一緒というだけで、ただの帰り道なのにワクワクする。
ふとお互いの手が触れた。ハッとして海崎が避けようとしたとき、伊野の手が海崎の手を絡めとる。
「待っ……」
「誰か来たら離す。それまでいい?」
「……うん」
海崎は小さく頷く。
学校で伊野と手を繋いでるなんてドキドキする。でも、伊野は誰かが来たら離すと言っているし、ほんの少しのあいだだけなら。
伊野の手は温かい。ただ並んで歩くだけじゃわからない、伊野の微かな動きが繋いだ手から伝わってくる。
「あ、そうだ。さっきからいい忘れてたんだけど」
伊野は海崎の手をぎゅっと握る。
「俺のこと、待っててくれてありがとう」
伊野は一瞬足を止め、海崎の横顔にキスをした。
「えぇっ!」
こめかみとはいえ、これはさすがに学校でやっちゃいけないやつだ。
その直後、伊野がパッと手を離した。目の前にある角を曲がって三人組の男子生徒が歩いてきたからだ。
「あ、伊野。お前聞いたぞ! 部活戻ったんだって?」
三人組は、伊野の知り合いの生徒だったようで、伊野を見て気さくに話しかけてきた。
「そうそう、今日から。今の俺のやる気半端ないから」
「よかったじゃん、長嶺も戻ってくるんだろ?」
「あ、お前も知ってんの?」
「ああ、文化祭のとき長嶺から聞いた。でも寮は満室で入れなかったから、家から直接通うんだと」
「長嶺なら、通えなくはないしな」
伊野はいつもどおりに友達と軽く会話を交わしたあと、「じゃあなー」とすれ違って別れた。
「あっぶなかったーっ」
友達の姿が見えなくなったあと、伊野が海崎に耳打ちしてきた。
伊野の言うとおりだ。あと一歩タイミングが悪かったら、伊野にキスされる瞬間を目撃されてたかもしれない。
「危ないって思うならやめろよ……」
「だって可愛い。俺のこと待ってる海崎なんて可愛すぎて我慢できなかった」
「もう、伊野は……」
ふたりの関係が学校で知られてしまったら、大変なことになるんじゃないだろうか。学年一、いや、学校一かっこいい伊野の相手が、男の海崎だなんてみんなに知られたら大騒ぎになりそうだ。
「ごめん。許して。海崎大好き」
そんなことを言って、伊野は早速、海崎に抱きついてくる。
困った伊野だと思いながら、学校で伊野からされるのは全然嫌じゃない。
むしろ、本音を言ってしまうと、そんなに俺のこと好きなのかな、と嬉しく思うくらいだ。
本当に困るのは、伊野が好きすぎて、結局なんでも許してしまう自分のことかもしれない、と海崎は心の中でひとり反省会をした。