夏休みも終わりのころだった。伊野をはじめ、休暇中に実家に帰っていた寮生たちも、夏の登校日に合わせて寮に帰ってきた。静かだった寮がいつもの賑やかさを取り戻したころ、海崎はひとつの決断に頭を悩ませていた。
『夏の繁忙期が過ぎたら、東京に戻ることになりそうだって言ってただろ? あれ、十月に決定したよ』
「そっか。さすが父さんだ」
 海崎は寮の部屋で父親と通話をしている。
 父親の仕事は順調のようで、半年から一年程度と見込んでいた出張が十月で終わりになるそうだ。
『で、晴真はどうする? 俺と一緒に東京に戻るか?』
「うーん」
 海崎はこれに対してどうするか決めかねている。もともとは父親の出張のあいだだけこっちにいようと思っていた。それが、予想外なことが起きたのだ。
 寮や学校生活にも慣れ、そのどちらも楽しく過ごせている。東京の高校に籍を置いていたことなど忘れてしまいそうになるくらい、充実した日々を送っている。
 なによりここには伊野がいる。寮でも学校でも伊野がいつもそばにいてくれるから全然さみしくない。
 東京では、ひとりぼっちになることに常に怯えて暮らしていた。学校でも無理をして、家では多忙な父親の帰りを深夜になるまで待つ毎日。あの生活から比べると、ここはとても居心地がよかった。
『晴真は寮に入っているし、卒業までこっちに残ってもいいよ』
 父親から甘い誘惑の言葉をもらい、海崎は増々悩んでしまう。このままA高校を退学してこの学校へ正式に在籍してしまおうかとも思う。
『最近、晴真は明るくなったよな。この前俺が寮に行ったとき、晴真は友達に囲まれて楽しそうにみえたよ』
「そうかな」
 夏休み期間に一日だけ父親が寮に来たことがあったのだ。そのときみんなが「海崎の父ちゃん見てみたい」と集まってきたから、父親の目には賑やかそうに映ったのだろう。
『あの子。背が高くて元気な……伊野くんだ。伊野くんはすごく面白い子だったね』
「うん。伊野はいい奴なんだ」
『お父さん、海崎のことは俺に任せてくださいって、胸張って俺に言ってきた。頼りになるお友達がいて、俺も安心したよ』
 父親が伊野のセリフのところだけ、伊野のモノマネをするから海崎はおかしくなって笑う。
「父さん、あと少しだけ返事を待ってもらってもいいかな」
 今は八月で、父親が東京に戻るのは十月だ。あと少し考えてみようと思った。
『いいよ。ゆっくり考えなさい』
「うん。ありがと父さん」
 それから少し雑談して、通話を終わらせた。
 海崎は椅子に座ってぼんやり壁を眺めながら、どうしようかと考える。
 伊野の言うとおり、どこにいたって勉強はできる。この高校に残る選択肢は十分にある。
 ここに残れば、高二の残り半分と高三の一年間、伊野と一緒にいられる。それはとても魅力的だ。
「海崎、またぼんやりしてんの?」
「へっ?」
 いきなり伊野に話しかけられて驚いた。海崎がぼーっとしているあいだに、伊野が部屋に戻ってきていたようだ。
「そんなにずっと壁見てて楽しい?」
「うるさいな……ちょっと考えごとしてたんだよ」
 今、まさしく伊野のことを考えていたんだから、ぼんやりしちゃったのはお前のせいだと言ってやりたいが、それはできない。
「何、考えてたの?」
 伊野が真正面から海崎の顔を覗き込んできた。海崎を映すその漆黒の瞳に、何もかもを見透かされてしまいそうだ。
 でも言えない。東京に戻ろうかどうしようか悩んでいることも、伊野を特別に想っていることも、伊野には話せない。
「大したことじゃないよ」
「ふぅん」
 海崎が誤魔化そうとしても、伊野は諦めてくれない。さらに海崎に迫ってくる。
 伊野に迫られるとドキドキする。このまま伊野と間違ったことを言ってしまいそうになる。
「そ、そんな気にしないで……夏休みの宿題が終わってないから何から手をつけようか考えてたんだ」
 視線を(のが)して、ヘラヘラと笑って適当な理由をでっち上げると、伊野はようやく離れてくれた。
「……俺って信用ないのかな」
 伊野は一瞬暗い顔をしたが、すぐにいつもの調子で「俺も宿題終わってないんだよ。今からやらなきゃなぁー」と両腕を伸ばして伸びをした。
「あーもう! 海崎のやつ丸写しさせてよ」
「ダメだよ、それじゃ勉強にならない」
「真面目だなー。不定方程式とかマジで苦手なんだって」
「だったら教える。どこがわからないの?」
「マジ? これこれ、ここで止まってる」
 伊野は机に広げっぱなしになっていた数学のノートを見せてきた。海崎は椅子を伊野の椅子の隣に並べてノートに視線を落とす。
「これは因数分解を使うんだよ」
 海崎がノートの上にサラサラとシャーペンをはしらせるのに、伊野は「因数分解って何だっけ?」と恐ろしい発言をして、すっかり海崎を固まらせた。


 夏休み中の登校日の帰り道、新学期の準備を整えておこうと、海崎はシュンク堂で文房具を買った。
 その帰り道にどうしても寄りたかったのは、アクアリウムショップだ。まだ転校してきたばかりのころ、伊野が連れてきてくれた『とっておきの場所』だ。
 海崎がアクアリウムショップの自動ドアをくぐると、水槽の手入れをしていた店長が「いらっしゃいませ」とこちらを向いた。
「海崎くんじゃないか」
 一度しか会っていないのに、店長は海崎の名前を覚えていたようで、にこやかに話しかけてきた。海崎が高校の制服を着ていたから、ピンときたのかもしれない。
「こんにちは。あの、お魚見てもいいですか?」
「もちろんだよ。ゆっくりどうぞ」
 寮では魚は飼えないから、海崎はただの冷やかしの客なのに、店長は快く迎えてくれた。
 見惚れるほどの色とりどりの魚たち。でも海崎が会いたかったのは、地味な名前も知らない黒い魚だ。
 以前、黒い魚がいた水槽を覗いてみる。
 逃げたがりの黒い魚は、すぐに岩場に隠れてしまう。水草のあいだ、岩の窪み、あちこち探したのだが、どうしても見つけられない。
 まさかの事態を思い浮かべてしまう。あのままエサが食べられなくて、黒い魚は最悪の結末を迎えたのではないかと、だんだん気持ちが焦ってきた。
「す、すみませんっ。以前、この水槽に小さい黒い魚いましたよねっ?」
 店長がアメを海崎に手渡そうとしてそばにやってきたとき、海崎は店長に食い入るように聞いた。
「あぁ。あの魚ね」
 店長は微笑みながら「はい。アメ」と海崎の手のひらに、水色のパッケージのソーダ味のアメを握らせる。
「水槽を移したんだよ」
「移した……?」
「うん。いまはこっちの水槽にいるよ」
 そう言って店長に案内された先には、今まで黒い魚がいた水槽よりもひと回り大きな水槽があった。
「どこにいるかな……」
 店長は水槽をひとしきり眺めたあと、魚のエサを手にしてそれを水槽の上から撒いた。
 その瞬間、一斉に魚たちがエサに群がってくる。
「いた……」
 エサに群がる魚たちの中に、小さな黒い魚がいた。ぱくぱくと口を大きく開けて懸命にエサを食べている。
「こっちの水槽は大きいから環境としては厳しいかなと思ったけど、この魚には合ってたみたいだね」
「そうですね……安心しました。さっき、姿が見えなくて、いなくなっちゃったのかと思いました」
「海崎くんお気に入りの魚みたいだったから、あれから目をかけていたんだ。管理はしているつもりなんだけど、数が多いから、ついおざなりになってしまうこともある。海崎くんに気に入られてあの魚は助かったね」
「見守ってくださって、ありがとうございます」
 海崎の視線は黒い魚に釘付けだ。
 水槽の中の黒い魚は、他の体の大きな魚たちに混じっても負けじとエサを食べている。この水槽では、黒い魚を目の敵にして追い払うようなことをする魚はいないようだ。 
 自然界とは異なり、狭い水槽の中では縄張りなど個体間でのトラブルが起こりやすい。だから種類だけではなく、個体ごとに混泳できるのかどうか見極めなければならないそうだ。
 今、自分が泳いでいる場所から環境を変えることは逃げじゃない。自分に合う場所を探して環境を変えることは決して悪いことではない。動物たちだってそうだ。捕食者から逃げることは、生物の生存戦略として有効な手段とされている。
 海崎がぼんやり水槽を眺めていたとき、アクアリウムショップの自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
 店長が店の入り口に向かって声をかける。
「ああ、長嶺くん。久しぶり!」
 その名前を聞いた瞬間、ゾワッと全身が粟立った。
 まさか、まさかと思いながらも、その姿を見ずにはいられない。
「伊野の叔父さん、こんにちはー」
 水槽の向こう側から明るい声が聞こえてくる。
 水槽の端から海崎が顔を出したとき、背の高い男と目が合った。
 長嶺は金髪に近い、明るい茶色の髪をしている。オーバーサイズの白Tシャツに柄物のハーフパンツ姿で、さらにゴツいシルバーネックレスを身につけている。
 つまり、全然同級生に見えない。臆病な海崎は、見た目だけでなるべく距離を取りたいタイプの人間だ。
「あれ、その制服……」
 長嶺は海崎の制服を見てピンときたようだ。長嶺に見下ろされ、海崎は反射的にビクッと身体を縮こませる。
「高校一年?」
「いえ。高二です。二年一組の海崎です」
「高二? 見たことねぇな」
 長嶺は訝しげな顔をするが、無理もない。長嶺が高校に通っていたころ、海崎はまだ転校してきていない。
「俺、伊野の友達です」
 長嶺を見上げてきっぱりと言い切った。伊野とは、友達だと胸を張って言える関係だ。
「お前がっ? こんな大人しそうなのに、本当に伊野の友達か……?」
 長嶺のその言い方は、まるで伊野の友達に相応しくないと言っているように聞こえる。
 それは当たっている。海崎だって、なんであんな友達の多い伊野が、地味な海崎のそばにいてくれるのか、いまだによくわからない。
「うん。伊野は友達だ。それで、伊野のことで、なっ、長嶺くんに話したいことがある」
 海崎は必死にその言葉を口にした。本当は長嶺に会ったら「おい、お前! 高校辞めるなんて何やってんだよ!」ととっちめてやろうと思っていたのに、そんなことは怖くてできなかった。
「あー、いいよ。お前が本当に伊野の友達なら、俺も伊野について聞きたいことがある。ついて来いよ」
 長嶺は「伊野の叔父さん、また来るよ」と言って、アクアリウムショップを出て行った。