「やばい! 遅刻する!」
 海崎は朝からバタバタと支度をする。今日は高二は親睦会という名の遠足で海に行くため、いつもより登校時間が早いのだ。それなのに伊野とふたりで寝坊してしまい、慌てて準備をしている。
 ベッドの上にあった体育着のハーフパンツとモスグリーン色のクラスTシャツを急いで身につける。
「あれ? おっきい……」
 クラスTシャツを今日初めて着てみて気がついた。大きめがいいかなと思い、Tシャツのサイズは男女兼用のLサイズにしたのに、これじゃ大きすぎて海崎が着ると彼シャツ状態だ。
「海崎、それ、多分俺のXL」
「えっ?」
 振り返ると歯ブラシとタオルを持った伊野が立っていた。洗面所から戻ってきたらしい。
「悪い。俺がさっきお前のベッドの上に放り投げたから」
「あ、ほんとだ。俺のこっちにあった」
 よく見るともうワンセットハーフパンツとTシャツが置いてある。慌てていて、つい手近にあったほうを着てしまったのだ。
「海崎脱いで、それ俺にパスして」
「うん。ホントごめん」
 時間がないのだからと海崎は急いでTシャツを脱ぎ、伊野に手渡そうとしたときだ。
「ありがとな」
 伊野は海崎の目の前で、着ていた部屋着のTシャツをガバッと脱いだ。
 割れた腹筋に、筋骨隆々とした腕や肩。空手で鍛えたのだろうが、伊野の身体は逞しい。
 海崎は思わず顔を紅潮させる。
 ダメだ。伊野のことを意識するようになってから、男同士なのに伊野の裸を直視できずにいる。
「は、早くこれ着て!」
 伊野にぐいっとTシャツを押し付けて、海崎は伊野に背中を向ける。
 伊野のことを意識しすぎていることには気がついている。こんなことをしたら不自然だと思われてしまうのもわかっている。
 それでも身体の反応は正直で、顔は熱くなるし、心臓のドキドキは収まらない。
「これいいな。海崎の温もりを感じるよ」
「へっ?」
 海崎が振り返ると伊野はTシャツを着て満足そうだ。恥ずかしいから、人の脱いだあとの温もりなんて堪能しないでほしい。
 伊野は今度はスンスンとTシャツの匂いを嗅いでいる。
「海崎の匂い——」
「わーっ!」
 そっちはもっと恥ずかしい。お願いだからTシャツを間違えて着てしまった件は無しにしてほしい。
「ごめんごめん、もうしない。早く支度しようぜ」
 伊野は人をからかっておいて笑っている。
 まったく困った伊野だ。海崎はさっきから伊野に感情を振り回されっぱなしだ。
 昨日遅くまで眠れなかったのも、伊野のことを考えていたせいで、朝アラームを切ってしまい起きられなかったのも伊野が起こしてくれなかったせいだ。今は急いで支度をしなきゃいけないのに、伊野にドキドキさせられている。
 これで遅刻をしたら伊野のせいだ、と伊野には絶対に言えない理不尽な理由で、海崎は心の中でだけ伊野に八つ当たりした。


 なんとかギリギリ登校時間に間に合った。
 バスで走ること四十分ほどで目的のビーチに到着した。今日はここで親睦のためのゲームをしたり、昼にはバーベキューをすることになっている。
 午前の最初にやったのはビーチフラッグだ。四人ずつ砂浜に寝そべった状態でスタートし、数十メートル先にあるフラッグを取った生徒が勝ちというゲームだ。
 海崎は早々に一回戦敗退。伊野はクラスの男子一位になり、学年の一位を決める決勝の六人にまで残った。
「伊野、いけー!」
 海崎の周りで一組のみんなが叫ぶ。伊野たちはスタートラインに腹這いになって飛び出す準備を整えている。
 全部で六クラスあり、どのクラスも当然、自分のクラスの生徒を応援している。勝ったクラスはバーベキューする場所を好きに選べるというご褒美があるからだ。
 海崎も祈るような思いで伊野が勝つことを願っている。
「伊野、怪我治ってんのかな……」
 クラスの誰かが呟く声が聞こえた。
 その声に、海崎は宮城の話を思い出した。伊野は去年、足の靭帯を痛めて手術をしたと聞いた。普段伊野を見ている限りは問題なさそうに見えるが、実のところはどうなのだろう。伊野は空手部に復帰していない。怪我の具合は、実はあまりよくないのだろうか。
「伊野ーっ! 頑張れーっ!」
 海崎は思い切り叫んだ。
 自分でも驚くくらいに大きな声だった。
 こんなに大きな声を出したことなんてない。でも伊野がいる場所まで声援を届けたくて、必死で声を出す。
 スタートの合図とともに、クラス代表の生徒たちが走り出す。伊野もものすごい瞬発力で起き上がり、砂の上を駆けていく。
 砂を蹴り、目標のフラッグまで一直線。その真剣な姿を見て心を奪われる。伊野は集団から一歩前に出た。争っているのは四組のバレーボール部の男子だ。
「伊野ーっ! いけーっ!」
 海崎はクラスのみんなとともに、伊野に何度も声援を送る。
 フラッグまであと少し。伊野も、四組の男子も赤色のフラッグに手を伸ばす。
 本当に寸前だった。
 伊野の指がフラッグに触れるかどうかのタッチの差で四組の男子がフラッグをかっさらっていった。


 あと一歩でフラッグを逃した伊野は、クラスのみんなに拍手で迎え入れられた。「ごめん」と謝る伊野を、よくやった、よくやったとみんなが労っていた。
 海辺でバーベキューをしたあとは、磯遊びの時間と称して各々自由時間になった。海崎は伊野たちクラスの仲間数人で、海辺で遊ぶことになった。
「海崎っ、魚いた! 魚!」
 砂浜から伊野が海崎を呼ぶ。伊野の指差す海中の岩場を目を凝らして見てみると、そこには鮮やかな瑠璃色の小さな魚が群れていた。
「すごい……」
 東京の海や川には色鮮やかな魚は少ない。こんな綺麗な色の魚を本物の自然の中で見られることに感動した。
「捕まえられっかな」
 伊野がスニーカーと靴下を乱雑に脱ぎ捨て、海に入っていった。替えの服もないのに、服が濡れることを躊躇しない姿にちょっと驚いた。
「伊野。これこれ!」
 友人のひとりが近くに落ちていたプラ容器を持ってきた。みんなが続々と海に入っていくので、海崎もつられて裸足になり、海の中に入る。
「冷たっ」
 六月に入り、暦は夏なのに海の水は冷たかった。でもその冷たさは、(ほて)った身体に心地よかった。
「海崎、そっち囲めっ」
「うんっ」
 伊野に言われて魚を取り囲むような位置に立つ。
「くっそーっ、逃げるなー」
 アレコレ作戦を練りながら、びしょ濡れになって数人で躍起になって魚を捕えようとするが、魚にするりと逃げられてばかりだ。
 みんなは魚を捕まえることにすぐに飽きて、単なる海遊びを始めたが、海崎と伊野は諦めずに続けている。
「伊野、ここは水が浅い」
 海崎は水深が浅めの岩陰にいた魚を見つけて伊野に教える。伊野は「海崎、そこで見張ってろよ」と言い、プラ容器片手にゆっくりと近づいてきた。
「絶対に捕まえるっ」
 伊野は勢いよくプラ容器を魚めがけて振り下ろす。
 伊野は波が揺れる瞬間を見逃さなかった。伊野の狙いをすました一撃で、一匹の魚を容器内に閉じ込めることに成功した。
「やった!」
 伊野が嬉々としてプラ容器の中にいる瑠璃色の魚を見せてきた。
「やったね、すごいな伊野!」
 伊野とふたりでグーパンチを交わして、戦利品の魚を眺めてみる。ひらひらと動くヒレの形、体の光り具合、パクパクと動く口の様子、海中にいるときよりも、より鮮明に観察することができる。
「可愛いな」
「うん。可愛いね」
 伊野と頭を寄せ合ってプラ容器の中を覗く。
 本当に可愛らしい魚だと思った。
 熱帯魚はどうして色鮮やかな色をしているのだろう。普通の生き物は、周囲の環境に擬態して生きているものばかりだ。まるで背景の一部になったかのように地味で目立たない。それが処世術なのに。
「ハルマ。可愛いなー」
「えぇっ?」
 海崎は驚いて伊野を見る。伊野は瑠璃色の魚にむかって話しかけていた。しかもハルマは海崎の名前とおんなじだ。
「こいつの名前はハルマね」
「なんでだよっ」
「だって青いからなんか海崎みたいじゃん。イメージカラーなんだろ? 青が」
 まさかそんなことを言われるとは思わなかった。こんな鮮やかな色の魚は自分に似つかわしくない。誰に見つかることもなく、世の中に擬態して生きていくのが海崎にはお似合いなのに。
「やめろよ」
「いいじゃん、少しだけ。どうせリリースするんだから、それまでのあいだハルマって呼ばせてよ」
 全然懲りない伊野は、魚に「ハルマ可愛いなー、持って帰って飼えたらいいのになー」と微笑みかけている。
 絶対に勘違いだとわかっている。それでも伊野にそんなことを言われると気になって仕方がない。まるで、自分が可愛いと言われているようで、すごく落ち着かない。
 伊野の無自覚な言動に、どれだけ海崎の感情が乱されているかを伊野は知らない。伊野に対して海崎がどんな感情を抱えているのか、想像すらしていないだろう。
「……なぁ、海崎っていつか東京に帰るの?」
 魚に視線を落としたまま、伊野が訊ねてきた。
「えっ、と……。一応あっちの高校には籍が残ってるよ。俺は親の仕事の関係で一時的な転校って扱いになってる。うちの高校は海外留学する生徒も意外に多いんだ。父親が外交官とか、普通に語学留学してる人もいる。だから一時的な転校には寛容なんだよ」
 海崎は簡単に東京の高校の在籍システムについて伊野に話す。
「そっか。なんとなくそうじゃないかって思ってた。来年は受験じゃん? 大学受けるならA高校のほうが絶対いいもんな」
「そうなのかな……」
 A高校の進学実績はめざましい。でもそれは上位陣が叩き出した結果がほとんどであって、おちこぼれの海崎は論外だ。
 授業内容はハイレベルだと思う。カリキュラムもよくできていると思うが、自己流が好きな海崎には合わなかったのかもしれない。
「伊野、魚捕まえたのかよ!」
「お前すごいな!」
 友人たちが集まってきて、伊野はパッと明るい顔をして「これこれ! 見ろよ!」と友人たちのほうにプラ容器に入った魚を向ける。
 魚をみんなでひとしきり愛でたあと、静かに魚をリリースする。そこからどういう流れになったのか、今度はみんなで水の掛け合いになった。
「うわっ!」
 もれなく海崎にも海水が飛んできて、目は痛いし、しょっぱいし最悪だ。
「このやろっ」
 海崎も応戦する。みんな容赦がないから、海崎も腕まで使って思い切り海水をぶっかけてやった。


「うっわ。濡れた濡れたっ」
 みんな海からあがったときには全身ずぶ濡れだ。Tシャツの裾を絞れるだけ絞って、あとは自然乾燥するのを待つしかない。
「パンツまでびっしょりだ。ひっどいな」
 海崎は濡れて身体にまとわりつく服を気にしながら苦笑いをする。これは学校に帰るまでに乾くだろうか。
「俺も。なんでこんなになってんの」
 伊野はTシャツの裾を絞りながら、声を出して笑う。伊野の爽やかな笑顔は本当に好きだ。伊野の笑い声を聞くと、海崎の気持ちまで明るくなる。
「うわ、やっば」
 伊野はハーツパンツのゴムを引っ張り、自分のパンツを見てドン引きしている。その姿を横で笑っていたら、伊野がぐいっと海崎のハーフパンツを引っ張った。
「海崎は?」
 伊野にパンツを覗き込まれて「わっ」と咄嗟に横に逃げる。
 いきなりパンツを見られるなんて、そんなことをされた経験はない。
「お前も俺と同じくらいやばい」
 伊野はなんでもないことのように笑っているが、海崎は恥ずかしくて顔が熱くなってきた。
 伊野にパンツ見られた。伊野にパンツ、伊野にパンツ……。
 寮の部屋では、伊野の前で着替えたことがある。でもなるべく目につかないように着替えているし、外で見られるのとは大違いだ。
「海崎のパンツ、可愛いな」
「や、やめろって!」
 なんでしっかり柄まで見ているんだと伊野の背中をバシバシ叩く。無地も持っているのに、今日に限ってジンベイザメパンツを履いてきてしまったことを激しく後悔する。
「ごめん。ごめん。海崎からかうと面白くってさ。あ。あっち行こ」
「えっ、待って!」
 伊野が急に走り始めるから、海崎は慌ててその背中を追いかける。
 そんなにダッシュしなくてもいいだろと思うくらいに伊野は速くて、息を切らして駆けていく。
 こうやっていつも伊野に振り回されてばっかりだ。それでも一緒にいたくて、全然嫌じゃなくて、伊野のことをまた好きになる。
「あーっ! くそっ!」
 海崎は必死に走る。
 行き場のないこの感情をどうしたらいい。
 同室の男に、こんなにも特別な感情を抱くとは想像すらしなかった。
 でも、きっとこの気持ちは海崎が初めて(いだ)いた恋心だ。
 もちろん伊野に伝える気などない。でも、この胸を焦がすほどの強い想いは、自分の中で秘めやかに守っていきたいと思っていた。