約束の土曜日がきた。水族館に行くだけだ。あまり気負わない服装にしたかった。かと言って、四人の中で浮くようなラフさは避けたい。さんざん迷って、フード付きのプルオーバーとブラックジーンズにした。
「おはよー、結都ちゃん。可――」
 偶然、七威と同じ車両に乗り合わせた。
「おはよ」
 七威の私服、初めて見た。七分袖のロンTにカーゴパンツ。背が高いから映える。制服の時と全然雰囲気が違う。
「可、って?」
「可愛いなって」
「嬉しくない」
「だよね。だから自制した」
「心の中で思ってたら言葉にしなくても同じ」
「厳しー。じゃあもっと不細工になってよ。いや、やっぱだめ。結都ちゃんはそのままが尊い。可愛い、格好いい」
「だから」
 わざと恥ずかしがらせること言ってるな。スルーだ、スルー。
「体調は。もういいの?」
「その節はご心配おかけしましたー」
 七威がすとんと僕の隣に座った。休日の朝は平日ほどの混雑はなくて、最後尾の車両は僕と七威だけだ。並んで座るのは初めてで、制服も着てない。変な感じだった。ちゃんとご飯食べてるのかな。背が高いわりに細身なんだよな。
「俺の顔になにかついてる?」
 うっかりまじまじ見ていた。僕は「別に」と目をそらす。
「好き嫌い多そうだなと思って。保健の先生、貧血かもって言ってた」
「あー、食生活は偏ってるかも」
「ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「心配してくれてるんだ」
「また倒れたら面倒だから」
「そんなとこも好き」
 言いながら七威が僕の顎をつかみ上向かせた。さりげなく。目が合い、心臓が跳ねる。
「な、なに」
「そろそろ俺の愛を受け取ってくれてもいいのになぁ」
 すぐこういうこと言う。だから混乱するんだ。僕は七威の手を払った。
「あのね。受け取るのはまずいの」
「男同士だから?」
「そういう問題じゃなくて」
 だったらどういう問題だ。自分で言ってて疑問がよぎる。やや間があって、七威のトーンが変わった。
「結都ちゃん、俺なら平気? ならもっと積極的になっていい?」
「え……」
 七威が僕をハグした。目の端に真っ青な空が映る。過剰なテンションを右から左へ流すコツを習得しつつあったが、これは想定外だった。
「ちょ、電車の中っ」
「どうしたら俺のこと意識してくれる?」
 抱きしめられた体が熱い。なんだよ。こんなことされたら意識するに決まってる。胸の音がせわしない。七威の力強さと動揺が相まって頭がパニくる。洗濯洗剤かシャンプーか。僕の家とは違う爽やかな匂いがした。
「結都ちゃん、耳まで赤い」
「……離せ馬鹿。僕のこと何も知らないくせに、好きだ何だって……」
 ふと、七威の腕がほどけた。
「百パーセント知らなきゃ好きって言っちゃだめなの? じゃあ教えてよ。結都ちゃんのこと、全部知りたい」
「全部……」
 無理だ。知られたくない。隠すのは不誠実で嫌だけど、晒して傷つくのは嫌だ。このまま知らないでいてくれたほうが、壊れないで済む。何が。今の関係が? 壊れるのを心配するほど、僕たちは形作られないだろう。まだ、何も始まってない。
 葛藤してるうちに電車が次の駅に到着し、乗客が一気に増えた。会話はそれきり、うやむやになって流れた。

*
 待ち合わせ場所に着いたのは約束の十分前だった。すでに園田たちは到着していて、おしゃべりしながら僕たちを待っていた。園田は空色のニットに白のロングスカート。木村さんはパステルピンクのブラウスに花柄のスカートだ。普段ダークカラーの男子に囲まれてる身としては、女の子がいるだけで華やかに感じる。
「今の時間だとちょうどイルカショーに間に合うね」
「昨夜ホームページチェックしたの。クラゲの特別展も始まるみたいよ」
 園田と木村さんの声が弾む。屋内型テーマパークのアクアラッシュは、イルカショーが売りの水族館だ。直系三十メートルほどの円形プールを囲むように客席が設けられていてる。
 尾びれの水かけパフォーマンスがあって、前三列目まではびしょ濡れ席になる。四列目はギリ。濡れたくなけれけば後方だが、「楽しむならここ!」と園田の主導で四列目に決まった。
「園田。前の人カッパ着てるけど」
 女子を挟む形で僕と七威はベンチの両端に座った。
「大丈夫、タオル貸してくれるんだって。もっと前でもいいくらいよ」
「美香りん、めっちゃイキイキしてる」
「イベントは楽しんだ者勝ちだもーん」
 絶対濡れるな。覚悟しておこう。七威は率先してはしゃぎそうだけど、いまのところ借りてきた猫みたいにおとなしくしてる。
 七威の「好き」ってどの程度の気持ちなんだ。仮に僕が好きなら、園田と木村さんといる時間は、どんな意味を持つんだろう。 

 ショーの最中、何度かびしょ濡れの危機に遭った。大ジャンプほか、尾びれの水かけサービスが半端ない。
 歓声を上げたり笑ったり、なかなかの非日常感だった。その後、心配していた服もクラゲの展示を見る頃にはほぼ乾いていた。
「順路はこっちよ」
 照明を落とした展示室に円柱の水槽がいくつも並んでる。青、赤、緑……。カラフルにライトアップされた水槽を無数のクラゲが泳ぐ。透明な触手が、風にたなびく吹き流しみたいだ。上下左右、これだけたくさん泳いでるのによく絡まらないな。
「沓沢、来て」
 園田に服の袖を引っ張られた。
「七威たちとはぐれる」
「いいのいいの。璃子とふたりきりにしてあげて」
「それって、」
「なんかね、あの子ひと目惚れしちゃったみたい。はたから見てお似合いじゃない?」
 水槽を見つめる七威の横に、木村さんが並んだ。心をサンドペーパーでこすられたみたいな気持ちになった。
 お似合いと言えばお似合いだ。でも言葉にできなかった。
「どうしたのよ、難しい顔して。楽しくない?」
「いや。楽しんでるよ」
「もしかして、沓沢って璃子みたいな子がタイプ?」
「なんで。違うよ」
「青山くんと璃子くっつけようとして怒ってるのかと心配しちゃった」
「そんなんじゃない」
 そんなんじゃ……。僕は七威と木村さんから目をそらした。何を見せられてるんだ。何をしに来たんだ。七威はこの瞬間をどう思ってるんだ。楽しい? つまらない? まかり間違って、木村さんとつき合うことになったりするのか。今朝電車で僕を抱きしめたのに。 
 ――結都ちゃんのこと、全部知りたい。
 思い出して、頬が熱くなった。僕にあんなこと言って、木村さんに笑いかけてる。可愛ければ誰だっていいのか。八方美人すぎるだろ。
 ふと、我に返る。
 いやいやいや、待て。僕は何を怒ってんの? 七威の術中にハマってないか? おかしい。意識しすぎだ。
「熱ある? 沓沢、ほっぺ赤いよ」
「水槽のライトのせいだよ」
「それもそっか。見て、このクラゲめっちゃ小さい。赤ちゃんかな」
 情緒が乱れまくりだ。まだ一日が終わってないのに全力疾走したみたいに疲れてる。もう帰りたい。
「沓沢は好きな人いる?」
 目の前でクラゲの輪郭が赤く光った。僕は園田の質問にとっさに答えられず、妙な沈黙が落ちた。
「いないなら私たち、つき合っちゃおうか」
 思わぬ提案に、思考が止まった。
「そんな深刻な顔しないでよ。お試しでってこと。沓沢が私を女と思ってないの知ってるもん」
「お試しとか、そういうの考えたこともないんだけど。ていうか、ちゃんと女の子だって思ってるし」
「ほんと? 嬉しい! 私はね、けっこう沓沢のこと気に入ってるよ。背伸びしないで、素の自分でいられるの」
 話が上手く飲み込めない。告白とは違う。なのに園田のボールはいとも簡単に垣根を越え、僕の陣地に落ちた。拾って自分のものにするのか、いらないと投げ返すのか。七威の時もそうだった。自分が予想もしなかった道が突然現れて戸惑う。
 素の自分。自分を格好良く見せようとか取り繕わなくていいと、僕も似たようなことを思っていた。
 気持ちが揺れ動く。すぐ断ればいいものを、躊躇した。七威に振り回されるよりいいじゃないかと、脳裏で誰かが囁いた。
 ぐらぐらと、魔女の鍋が煮えている。