「名字が違う」
「最終的に父親のほうになったけど、その頃、母親と暮らす話も出てて。だからそっちの旧姓教えたかも」
 女の子だと思い込んでいた僕はショックを受けた。華奢で背が僕と同じくらいだったのに。
「外見変わりすぎ」
「髪切っただけじゃん。背はまあちょっと伸びたけど」
 全然ちょっとどころじゃないんだが?
「テニス習ったことあるって、この時の」
「そう。結局、うやむやになって、夏休みの体験入会で終わった」
「そんなずいぶん前に会ってたんだ……気づいてなかったの、僕だけ?」
 七威が何度も頷いた。僕はうっかり初恋と口走ったのを後悔した。
「恥ず……なんで早く教えてくれなかったんだよ」
「いや、だって。結都ちゃんテニスやめちゃってたし、触れちゃいけない雰囲気だったし。俺自身もさ、メロンパンしか持ってけないような家庭事情抱えてたし、あえて言うのためらうじゃん」
 汗をかいたペットボトルの雫がテーブルに落ちる。七威が小さな水たまりを指でなぞった。
「弁当作ってくれる人いなかったから。父親はあの通りで、すぐふらっとどっか行ってしばらく帰って来なくて、そのうち買い置きの食料も生活費も尽きるわけ。しまいにはパンくらいしか買えなくなるんだよ。テニスクラブは前払いだったから通えたけどね」
 あまりに壮絶な事情に声も出なかった。
「夜パン屋に行くと、店主のおばさんがメロンパンとか売れ残りを格安で譲ってくれたんだ。いま思えばそんな都合よく売れ残るかって話だよね。一階のおばさんもご飯ごちそうしてくれたり、ばあちゃんも掃除や洗濯に来てくれた。一緒に暮らそうって言われたけど、なんか意地になって。いまに至る」
 年配の女性に好かれるの特技かもなぁと笑い、七威が僕を見た。 
「俺、結都ちゃんの弁当に救われたんだよ。メロンパンしか持ってこない俺を、馬鹿にしなかったよね。しかも、交換してくれて」
「メロンパンが好きで、単純に食べたかったんだ。何も考えてなかった」
 そんな事情の子供がいることも、知らなかった。
「僕、あのメロンパンを超える味に出会えなくて、ずっと探してたんだ」
「ソレイユのパンだよ」
「七威がバイトしてる?」
「そう」
 思いがけず疑問がするすると解けていく。
「今度買ってくるよ。いまは貧乏じゃないから安心して。俺はATMに行く術を覚えた」
 お父さんの絵が売れてたまに潤沢になるらしい。七威が冗談交じりに過去の自分を笑い飛ばす。悲愴感はない。お父さんてどんな絵を描いてるんだろう。
「あと、弁当は卵焼きが一番おいしかった」
「それ、僕が唯一作ってたおかずだよ」
「鳥肌……その頃から俺、結都ちゃんに胃袋掴まれてたんだ」
「そんなことってある?」
「奇跡だね。俺の初恋も、結都ちゃんだったんだよ。いまも……好きなんだ。ずっと思ってた。間違って俺を好きになってくれたらいいのにって」
 あきらめようと思ってた。恋にならなくても、友情が残ればいいと。そんなの無理だった。胸に秘めたまま、なかったことになんてできない。
「僕も、七威が好きだ」
「……ほんとに?」
 恋しくて、愛しくて、そばにいたくて。でも叶わなくて。
 勝負に負けて、会うこともままならず。ただただ、つらくて。
「好きだよ。だからいっぱい嫉妬した。ただの友達だったらこんな思いしなくて済むのにって何度も思った」
 蓋をしていた気持ちが堰を切ったように溢れる。七威が壊れものに触るようにそっと僕を抱きしめた。離したくない。僕は七威の背に腕を回した。
 触れた部分が熱を発する。心音が七威に聞こえてしまいそうで、息を詰めた。好きなんだ。七威が。心の底から。どうしようもなく。全部に惹かれてる。
「結都ちゃん……そのままで聞いて」
 肩に顔をうずめ、七威の胸に響く声を聞いていた。
「俺は臆病なんだ。誰かが急にいなくなっても、平気でいられるよう壁を作ってた。つかず離れずの関係なら、傷つかずに済むし。なのに結都ちゃんのこと知るたびどんどん好きになった。近づきたくなった。自分の想いの強さが怖くなるくらい」
「僕は、どこにも行かないよ」
「いまはね。でも明日や一年後も一緒かは、わからない。俺は恐れてる。俺を抱きしめるこの腕が、いつか離れていくのを」
「そばにいるよ、七威」
 僕は誓うように七威を見上げた。僕を抱きしめる力が強くなる。吐息が頬をすべる。目を閉じた。七威の唇が、僕の唇に重なる。甘くやわらかな痛みが胸を走った。