どんよりと長雨が続いてる。雨は嫌いじゃないが、連日続くとさすがにだるい。生徒会は体調不良を理由に休んだ。もちろん仮病だ。心は低空飛行でも、体は普通に動いてる。
 帰り道、駅前の歩道橋でポケットのスマホが震えた。画面を見ると、工藤先輩だった。ここで電話がかかってくるとは前回の二の舞いか。悪い予感しかしない。
『沓沢、ヒマ?』
「いきなりなんですか」
 いまお電話よろしいでしょうかならまだしも。暖簾に腕押しだからあえて言わないが。
『橘先輩がおまえに会いたいってさ』
「な、なんで」
 動揺のあまり敬語を忘れた。逢瀬を邪魔した時の落とし前つけろとか、とうとう粛清の日が来たのか。
『青山のことで話があるらしい。急だし、もちろん断ってもいい。他の日ならおれもついて行けるんだが、これから教習所で』
「わかりました。ひとりで行けます。場所はどこですか」
 訊ねた後、一瞬沈黙があった。
『大丈夫か、話振っといてあれだけど。本当に断ってもいいんだぞ』
「さらなる報復に発展しそうなんで、今日済ませときます」
 リスケしたら、その日まで悶々としそうだ。面倒事はさっさと片付けたかった。
「報復って」と電話の向こうで工藤先輩が吹き出した。
『橘先輩に対するおまえのイメージが掴めたわ。殺されやしないから安心しろ』
 フォローがむしろ不安を煽るのは気のせいだろうか。殺されないなら、半殺し程度か? 
『じゃ、十七時にこの前のカフェな。場所覚えてるか』
「だいたいは。店の名前、何でしたっけ」
『Night Birdだよ。健闘を祈る』
 ナイト・バードって、生徒会室の鍵にくっついてる鳥だ。同じ名前の店だったんだ。
 通話を切って大きく息をついた。黒くなった画面に透明な雨の雫が落ちる。
 橘暁季、歩調を乱す敵を捕食するオオカミ。エア武装して、出陣だ。

*
 駅を迂回し、待ち合わせの店に十分ほどで到着した。看板に「Night Bird」のロゴと、両翼を広げた黒鳥がデザインされていた。キーホルダーと同じだ。ここのノベルティだったのか、全然気づかなかった。
 傘を閉じ軒先で中に入るか迷っていると、白パーカーに黒カーゴの橘先輩が現れた。
「よう、少年。尻尾巻いて逃げなかったのか」
「逃げませんよ」
「生徒会は逃げたらしいな」
「それとこれは別です」
 すでに事情は筒抜けなんだろうなと諦めの気持ちもある。出だしから嫌味連発なのが腹立たしい。
「この店でいいか?」
「ここが良くて指定したんですよね」
「一度会った場所なら迷わないだろ。そんだけの理由。高校生には高いだろうけど、コーヒーは美味い」
 この前は早々に店を出て飲み損ねた。六百円もしたのに。どんな味か興味があった。
 中に入ると、二台並んだレジ横のショーケースに目が行く。今日も多少緊張してるが、美味しそうだなと思えるくらいには余力が残っていた。食べてる場合じゃないのと予算の関係で二度目のスルーだ。
 先に会計を済ませ、空いてる席に座った。少し帰りが遅くなると母さんにメッセージを送ると、「学校のお友達?」と即レスがきた。OBだし、まあ大きく外れてはいないだろう。
 遅れて橘先輩が奥の椅子に腰掛けた。背負っていたリュックはブランド物だ。セレブだな。トレイにはコーヒーとコーヒーゼリー、さらにメロンパンが載っていた。
「甘党ですか」
「馬鹿、ひとつはおまえのだよ。物欲しそうにしてたじゃん」
 言いながら、橘先輩は僕のトレイにリベイクされたメロンパンを置いた。
「ありがとうございま、す」
「王は民草に施すのが役目。遠慮なく食べろ」
「誰が王ですか」
 思わず笑いそうになった。洋服や持ち物を見るに、王といかないまでも裕福そうだ。怖いと思ってたけど、いい人なんだろうか。いやいや、答えを出すにはまだ早い。油断するな。
 橘先輩がコーヒーゼリーに手を伸ばしたのを見計らって、僕もコーヒーを飲んだ。
「うま」
 苦み控えめでフルーティーだ。後味がいい。いつも飲んでるチェーン店のコーヒーより一段上の味がした。これならミルクとガムシロで調整しなくても飲める。メロンパンのほうは探してるのと違う味でも、バターが効いてて美味しかった。
「どうして呼び出されたかはわかってるよな?」
「あー……落とし前とかなんとか言ってた件ですよね」
 やっぱり審判の日だった。もちろん野球やサッカーのじゃない。ジャッジメント・デイの意味だ。俗世での行いに応じ神が人間の運命に判決を下す日。橘先輩は神でも天使でもないが、邪魔した行為に見合うペナルティは考えているだろう。
「話が早くて助かるね。けじめは大事だよなぁ?」
 不穏すぎる。スイーツを囲んでする話じゃない。コーヒーゼリーを半分食べた橘先輩は、受け皿にスプーンを置いた。
「おまえ、ナナに負担かけてんじゃねえよ」
 はっきりした物言いとアグレッシブな性格。圧が強いのは俺に対してだけだろうか。どんな風に生徒会を治めていたのか気になる。
「七威が何か言ったんですか」
「詳しく話さねえからおまえに訊きに来たんだよ。ナナは自分の責任だって言ってた。本当はおまえが元凶だろ?」
 図星だった。だからこそ無関係な人に指摘されたくなかった。余計なお世話だ。
「部外者に立ち入って欲しくないです」
「俺は当事者だっつうの」
「いまはOBでしょう」
「ナナを泣かせただろうが」
「……は?」
「犬の分際で飼い主に盾突いて許されると思ってんの。殺すよ?」
 犬って、僕のことか……?
「元生徒会長のくせに、後輩脅すなんて悪趣味ですよ」
「従順な子犬なら可愛がってんだよ。おまえ、ナナを煩わせてんじゃねえ」
 橘先輩の声に凄みが増した。七威が泣いてたって、どういうことだ。僕が生徒会辞めるから? 古傷のことで、七威を責めたから? だったら。
「自分のしたこと棚に上げて何言ってるんですか。テニス部の件、七威に漏らさなければこんなぐちゃぐちゃにならなかったのに」
「人のせいにすんな。元はおまえが起こしたことだろ」
 いちいち正論だった。目をそらし、考えないようにしていた負い目を突かれ返す言葉もない。
「ナナを傷つけるやつは、誰ひとりいらねえんだよ。特におまえみたいな奴はな」
「それは七威が決めることで、先輩に言われる筋合いありません」
 気づいたら反論していた。こういうところが先輩たちの癇に障るんだ。テニス部で嫌というほど経験したのに、生来の負けん気の強さがふとした瞬間出てしまう。
「おまえ、ナナのこと好きだろ? ぶち壊しに工藤と乗り込んで来たもんな」
「あの時は――」
「いいか、覚えとけ。おまえごときが俺とナナの間に入る余地はない」
「偉そうに……何様だよ」
 ふたりの足元にかろうじて張っていた薄氷にひびが入った。亀裂は瞬く間に拡大していく。
「誰に向かって口利いてんだ」
「ライバルに遠慮なんかしませんよ」
 お互い感情が昂っていた。声を抑えて対峙してるせいか、どこか冷静な自分もいる。
「なるほどね。よくわかった。そっちがその気なら、俺も容赦しねえ」
 リュックを肩に掛け、橘先輩が立ち上がった。
「待っ……」
「ナナを受け止められるのは俺だけだ。底の浅いおまえには到底無理なんだよ、ガキが」
 最後の最後でとどめを刺された。勝ち負けがあるなら、完敗だ。勝てる要素がまるでなかった。
「おまえはナナに相応しくない。生徒会やめてくれて感謝してる。二度とナナに関わるな」
 僕の選択は間違いだった。テニスから、生徒会から、七威から。逃げた結果がこれだ。橘先輩に現実を突きつけられて、ようやく気づいた。
 悔しい。燃えるように体が熱い。血液が沸騰しそうだった。
 僕は、自分で自分の居場所を壊した。とどめておくべきものを手放した。ひとつ残らず。
 ぬかるんだ泥水に足を取られ、堕ちていく。地獄じゃないなら、ここはどこだ。
 もう、どこにも戻れなかった。