下校途中、駅に続く歩道橋でスマホが鳴った。画面を見ると、工藤先輩だった。
『沓沢、』
工藤先輩にしては、珍しく切羽詰まった声だった。不穏なことが起きたんだ。それも相当な。
「何かあったんですか」
『おれはおまえを信じてる。だから、怒らず聞いてほしい』
僕は息を呑んだ。
『おまえが中学時代、部活でトラブル起こしたこと……レギュラー争いが高じて、ライバルを階段から突き落としたって』
「……情報源は」
『橘先輩のサークル仲間。沓沢と同中でテニス部だった、S』
名前を聞いて目の前が暗くなった。吸った息が凶器になって、肺に突き刺さる。見えない血液が傷口から溢れ、足元に血だまりを作っていく。
こんな風に、バレることもあるんだな。
「事実です。Sはテニス部の先輩でした」
認めるとは思ってなかったんだろう。通話口で、数秒の間があった。
『橘先輩が、青山に話すかもしれない』
奈落が口を開けた。逃げ場がないと、悟った。
*
電話を切った後、すぐ着信があった。木村さんからだ。手が震える。
「もしもし……?」
『沓沢くん、忙しいとこごめんね。今日、美香りんと約束してる?』
「してないよ」
『やっぱり……じゃあ、青山くんとふたりで会うんだ』
「な……んで」
『大事な話があるんだって。璃子は仲間はずれ。沓沢くん、美香りんと付き合ってるんだよね。ひどくない?』
すでに橘先輩が七威に話したんだろう。事実かどうか、園田に確かめに行ったんだ。それしか考えられない。
「どこで会うか聞いてる?」
『北口の公園。時間は知らないの。あ、ごめん。部活始まっちゃう。またね』
僕は歩道橋を駆け下り、北口公園に走った。ふたりがいるかもしれないし、いないかもしれない。
会ってどうするんだ。僕の過去じゃなく、まったく別の話をしてたらただの間抜けだ。
このまま放っておけばいい。そんな考えもよぎる。七威が知った事実は、なかったことにできないんだ。僕があがくだけ醜態をさらすだろう。
「ほんと、馬鹿……」
誰が。橘先輩が? 七威が? 園田が? 違う、僕がだ。
S先輩の逆恨みだった。僕は地元のテニスクラブに所属していたこともあり、部内ランキングも常に上位で、一年生からレギュラーだった。都大会、関東大会にも出場経験がある。それで反感を買いやすかったかもしれない。とはいえ、勝負の世界に身を置くのなら、ある程度尖ってないと自分を保てないのも事実だった。
S先輩は僕と同じシングルスだった。僕が関東大会の団体戦で好成績を残した後、風当たりが強くなった。嫌がらせが続いた。しばらくは我慢した。でも収まらなかった。僕はずいぶん消耗していた。
次の大会オーダーを決める直前だった。階段ですれ違ったとき、S先輩が僕に因縁をつけた。即ケンカに発展したのは言うまでもない。先に手を出したのは向こうだ。でもその前に暴言を吐いて挑発したのは――僕だった。
*
息を切らしたどり着くと、七威と園田がベンチに座っていた。通行人と鳩がいるだけの人気のない公園だ。
七威が僕に気づき立ち上がった。
「結都ちゃん……」
「沓沢、どうしたのよ」
「木村さんに連絡もらった。ふたりで会うって。どういうことだよ」
「もう、璃子のやつ。内緒って言ったのに」
「なんで内緒なんだよ」
「それは、その……誤解しないで。青山くんと私は別に」
「結都ちゃん、園田さんを呼び出したのは俺なんだ」
「何のために」
七威が戸惑い、言い淀む。
「中学の時、結都ちゃんに何があったのか……知りたくて」
「そんなの……僕に訊けばいいだろ」
「そうだね。ごめん」
「待って沓沢。青山くんは、沓沢のこと心配してたんだよ。興味本位じゃないの、わかって」
とりなすように、園田がフォローした。通行人がチラチラとこちらを見ている。
「七威。他人のことに首突っ込むなって、僕に言ったよね。過去掘り返して楽しい? 七威の好奇心は、傷抉る行為だよ」
僕の事情なのに、七威に八つ当たりしてる。自分でもなんでこんなに怒ってるのかわからない。
「沓沢、そんな言い方しないで。私も悪かったの。ひと言、相談すればよかった」
「園田がどこまで話したか知らないけど、先輩を階段から落としたのは事実だよ」
「なに言ってるの。沓沢は巻き込まれただけよ。沓沢だって一緒に落ちて怪我したじゃない」
「わざと煽ったんだ。腹が立って、我慢できなくて。先輩に死ねって言った。そしたら逆上して掴みかかってきて」
「やめて、沓沢」
「よけたはずが、僕まで足滑らせて」
「やめて! お願い……」
息ができない。地上にいるのに、溺れてしまいそうだった。園田の目に涙が溢れ、こぼれ落ちた。
「覚えてるよね。私が、あの階段通ろうって言ったの」
「園田に言われなくても僕は通ったよ」
「違う。誘導したの。不自然だったでしょ。沓沢にあの階段使ってもらうために、必死だった。私……先輩に命令されてたの。沓沢を落として怪我させるって聞いてたの。でも、先輩を止められなかった。言う通りにしなかったら、何されるか……怖くて」
不意に始まった園田の告解を、僕と七威は呆然と聞いていた。明かされた過去はあまりに痛々しい。七威は続く僕の言葉に、二重の衝撃を受けただろう。
「ごめん、園田。全部知ってたよ」
危ういバランスを保っていたジェンガの塔が瓦解していく。
ここまで来てようやく理解した。僕たちは抜くべきブロックの場所を、それぞれが間違えたのだと。
『沓沢、』
工藤先輩にしては、珍しく切羽詰まった声だった。不穏なことが起きたんだ。それも相当な。
「何かあったんですか」
『おれはおまえを信じてる。だから、怒らず聞いてほしい』
僕は息を呑んだ。
『おまえが中学時代、部活でトラブル起こしたこと……レギュラー争いが高じて、ライバルを階段から突き落としたって』
「……情報源は」
『橘先輩のサークル仲間。沓沢と同中でテニス部だった、S』
名前を聞いて目の前が暗くなった。吸った息が凶器になって、肺に突き刺さる。見えない血液が傷口から溢れ、足元に血だまりを作っていく。
こんな風に、バレることもあるんだな。
「事実です。Sはテニス部の先輩でした」
認めるとは思ってなかったんだろう。通話口で、数秒の間があった。
『橘先輩が、青山に話すかもしれない』
奈落が口を開けた。逃げ場がないと、悟った。
*
電話を切った後、すぐ着信があった。木村さんからだ。手が震える。
「もしもし……?」
『沓沢くん、忙しいとこごめんね。今日、美香りんと約束してる?』
「してないよ」
『やっぱり……じゃあ、青山くんとふたりで会うんだ』
「な……んで」
『大事な話があるんだって。璃子は仲間はずれ。沓沢くん、美香りんと付き合ってるんだよね。ひどくない?』
すでに橘先輩が七威に話したんだろう。事実かどうか、園田に確かめに行ったんだ。それしか考えられない。
「どこで会うか聞いてる?」
『北口の公園。時間は知らないの。あ、ごめん。部活始まっちゃう。またね』
僕は歩道橋を駆け下り、北口公園に走った。ふたりがいるかもしれないし、いないかもしれない。
会ってどうするんだ。僕の過去じゃなく、まったく別の話をしてたらただの間抜けだ。
このまま放っておけばいい。そんな考えもよぎる。七威が知った事実は、なかったことにできないんだ。僕があがくだけ醜態をさらすだろう。
「ほんと、馬鹿……」
誰が。橘先輩が? 七威が? 園田が? 違う、僕がだ。
S先輩の逆恨みだった。僕は地元のテニスクラブに所属していたこともあり、部内ランキングも常に上位で、一年生からレギュラーだった。都大会、関東大会にも出場経験がある。それで反感を買いやすかったかもしれない。とはいえ、勝負の世界に身を置くのなら、ある程度尖ってないと自分を保てないのも事実だった。
S先輩は僕と同じシングルスだった。僕が関東大会の団体戦で好成績を残した後、風当たりが強くなった。嫌がらせが続いた。しばらくは我慢した。でも収まらなかった。僕はずいぶん消耗していた。
次の大会オーダーを決める直前だった。階段ですれ違ったとき、S先輩が僕に因縁をつけた。即ケンカに発展したのは言うまでもない。先に手を出したのは向こうだ。でもその前に暴言を吐いて挑発したのは――僕だった。
*
息を切らしたどり着くと、七威と園田がベンチに座っていた。通行人と鳩がいるだけの人気のない公園だ。
七威が僕に気づき立ち上がった。
「結都ちゃん……」
「沓沢、どうしたのよ」
「木村さんに連絡もらった。ふたりで会うって。どういうことだよ」
「もう、璃子のやつ。内緒って言ったのに」
「なんで内緒なんだよ」
「それは、その……誤解しないで。青山くんと私は別に」
「結都ちゃん、園田さんを呼び出したのは俺なんだ」
「何のために」
七威が戸惑い、言い淀む。
「中学の時、結都ちゃんに何があったのか……知りたくて」
「そんなの……僕に訊けばいいだろ」
「そうだね。ごめん」
「待って沓沢。青山くんは、沓沢のこと心配してたんだよ。興味本位じゃないの、わかって」
とりなすように、園田がフォローした。通行人がチラチラとこちらを見ている。
「七威。他人のことに首突っ込むなって、僕に言ったよね。過去掘り返して楽しい? 七威の好奇心は、傷抉る行為だよ」
僕の事情なのに、七威に八つ当たりしてる。自分でもなんでこんなに怒ってるのかわからない。
「沓沢、そんな言い方しないで。私も悪かったの。ひと言、相談すればよかった」
「園田がどこまで話したか知らないけど、先輩を階段から落としたのは事実だよ」
「なに言ってるの。沓沢は巻き込まれただけよ。沓沢だって一緒に落ちて怪我したじゃない」
「わざと煽ったんだ。腹が立って、我慢できなくて。先輩に死ねって言った。そしたら逆上して掴みかかってきて」
「やめて、沓沢」
「よけたはずが、僕まで足滑らせて」
「やめて! お願い……」
息ができない。地上にいるのに、溺れてしまいそうだった。園田の目に涙が溢れ、こぼれ落ちた。
「覚えてるよね。私が、あの階段通ろうって言ったの」
「園田に言われなくても僕は通ったよ」
「違う。誘導したの。不自然だったでしょ。沓沢にあの階段使ってもらうために、必死だった。私……先輩に命令されてたの。沓沢を落として怪我させるって聞いてたの。でも、先輩を止められなかった。言う通りにしなかったら、何されるか……怖くて」
不意に始まった園田の告解を、僕と七威は呆然と聞いていた。明かされた過去はあまりに痛々しい。七威は続く僕の言葉に、二重の衝撃を受けただろう。
「ごめん、園田。全部知ってたよ」
危ういバランスを保っていたジェンガの塔が瓦解していく。
ここまで来てようやく理解した。僕たちは抜くべきブロックの場所を、それぞれが間違えたのだと。