*
資料室で荷物の整理をしていると、ポケットでスマホが震えた。
軍手を外し確認すると、園田のメッセージだった。内容はほとんど他愛のないものばかり。恋愛が前面に出てこないのは、『お試し期間』だからだろう。僕にプレッシャーを与えないように考えてくれてる。申し訳ないと思いつつ、いまはこの距離感がありがたかった。ただ、メッセージが来ればなんとなく嬉しいもので、この日常の積み重ねが、付き合うってことなのかなとぼんやり思う。
僕は会長に辞表を提出した。任期は引継ぎがある10月半ばまでだが、会長にはひとまず夏休み前まで続けて欲しいと言われた。
ひとり抜ければほかの役員の負担が増えるのはわかっていたので了承した。執行部内への周知は、追々ということで話がついた。
園田に返信を打ち終え、作業に戻ろうと軍手をはめた時、執務室のほうで聞き慣れた声がした。
「工藤先輩、結都ちゃんは……?」
心音が、たたた、と走った。
「今日は招集日じゃないから来てない」
なぜか工藤先輩は嘘をついた。会うのは気まずいし不在にしてもらえるのは助かる。執務室に続くドアは閉まってて身構える必要はないのに、僕は息をひそめた。
「生徒会って暇なの? いつも誰もいないですね」
「定例ミーティングはしょっちゅうやってるよ。部活と掛け持ちの役員が多いから仕事を持ち帰ってる。特に会長と副会長はね」
「ふうん」
「なんの用だ。おまえの企画書なら却下だぞ」
「同好会のことはもういい」
「相変わらずいい加減だな」
「こっちだっていろいろあるんだよ」
しゃべってるうちに地が出てきたのか、七威の口調が砕けた。工藤先輩も弟を諭す兄みたいになってる。
「沓沢、生徒会やめるってよ」
「え……」
七威と一緒に僕も驚いた。隠すつもりはないが、いまここで知らせなくたっていいのに。
「俺のせい……? 橘先輩のことで……きつく言いすぎたから」
「まあ、おれのせいでもあるが」
「だよね。先輩が結都ちゃん連れて来たせいでおかしくなったんだよ。暁季に会わせて、わざわざ拗れさせるようなこと」
「責任転嫁だね。おれがきっかけだったとしても、根本の原因はおまえの優柔不断さだよ。会わないって決めただろ。なんで会いに行ったんだ。こうなるってわかってただろ」
「うるさい!」
「応える気もないくせに。どっちつかずが一番たちが悪い」
「それこそ責任転嫁だよ。暁季の心が俺に向かないよう檻に閉じ込めておけばよかったじゃないか!」
心も体も針で刺されたみたいに痛い。なんで僕は聞いちゃいけない話を性懲りもなく立ち聞きしてるんだ。自己嫌悪で汚れていく。濁った泥水に引きずり込まれていく。
「本当おまえって可愛くないな。だから嫌いだよ。後輩のくせにクソ生意気で」
「俺だって先輩嫌いだし。とにかく……結都ちゃんは辞めさせないから」
「青山はそうでも、校長が承認したらゲームオーバーだろうよ」
「阻止する」
「勝手にしろ」
扉の開閉音が聞こえた後、夕暮れの雲間から雨が降り始めた。胸の痛みが消えない。紙で指を切った時みたいに、ずっとヒリヒリし続けていた。
夕食後、リビングのソファでだらけながら本を読んでいると、食器を洗い終えた母さんに声をかけられた。
「ねえ結都、英奈の様子見てきてくれない? あの子、好物の餃子五個しか食べなかったのよ」
「五個も食べれば充分だって」
「ほら、冬にイラストのコンテスト出したでしょう。お母さんはよく描けてたと思うのよ。でも入賞できなかったらしくて」
だめだったのか……。そりゃショックだよな。僕も見せてもらったけど、背景も人物も生き生きして、いい出来だった。期待してた分、つらいだろう。
そっとしておいたほうが良さそうだが、姉弟のよしみだ。ひと言くらい声をかけてやろう。
「英奈、どうしたんだよ。いつもは餃子軽く十個食べるのに」
ノックして部屋に入ると、英奈は背を向けベッドの上で丸まっていた。いつも煌々とついてるモニターが真っ暗だ。電源落としてるなんて珍しい。
「うるさい。いましゃべる気分じゃない。出てって」
「自分だって許可なくズカズカ入ってくるだろ。毎回毎回いつもいつも不躾に」
「うっさいのよ。胸いっぱいなの。乙女はデリケートなのっ」
「アイスは?」
「……いる」
二本持ってきといて正解だった。英奈がむくりと起き上がる。僕は椅子に座ってアイスの袋を開けた。イラストの件をストレートに訊くのは傷を広げそうで、ひとまず自分の近況を話すことにした。
「僕さ、生徒会辞めようと思ってるんだ。っていうか、辞める」
「うっそ。先生たちの心証悪くなるんじゃない」
「どうだっていいよ、そんなの」
アイスをかじると、コーティングのチョコレートがパリっと音を立て割れた。
「えーでもさ、カッコいい子いたじゃない。青山くんだっけ。あの子の『力になりたい』って、あれどうでもよくなっちゃったの?」
甘いものを口にした途端、英奈が饒舌になった。
「僕そんな恥ずかしいこと言った?」
「あ、私の妄想かも」
「現実と妄想ごっちゃで生きるな」
「いいじゃないよ、人に迷惑かけてないもの。楽しいのよ、カップリングとか考えるの」
「なんのだよ」
英奈の脳内はカオスだ。いまさらだがヤバいやつを姉に持ってしまった。
「あのさぁ、結都の気持ちは尊重するけど……後悔しないようにね」
「最後までやり遂げろってこと?」
「ちゃんと考えて、納得できたら辞めればいいよ。少しでも腑に落ちないなら続けて、その違和感が何なのか見つけてみるのもいいんじゃない」
前向きだな、英奈は。納得できない、腑に落ちない。あるのは違和感だけだ。
僕はまた逃げる道を選んだ。魔女の鍋はかさを増し、黒々と煮えたぎっている。醜い自分を放り込んで、消えてしまえたら楽だった。
資料室で荷物の整理をしていると、ポケットでスマホが震えた。
軍手を外し確認すると、園田のメッセージだった。内容はほとんど他愛のないものばかり。恋愛が前面に出てこないのは、『お試し期間』だからだろう。僕にプレッシャーを与えないように考えてくれてる。申し訳ないと思いつつ、いまはこの距離感がありがたかった。ただ、メッセージが来ればなんとなく嬉しいもので、この日常の積み重ねが、付き合うってことなのかなとぼんやり思う。
僕は会長に辞表を提出した。任期は引継ぎがある10月半ばまでだが、会長にはひとまず夏休み前まで続けて欲しいと言われた。
ひとり抜ければほかの役員の負担が増えるのはわかっていたので了承した。執行部内への周知は、追々ということで話がついた。
園田に返信を打ち終え、作業に戻ろうと軍手をはめた時、執務室のほうで聞き慣れた声がした。
「工藤先輩、結都ちゃんは……?」
心音が、たたた、と走った。
「今日は招集日じゃないから来てない」
なぜか工藤先輩は嘘をついた。会うのは気まずいし不在にしてもらえるのは助かる。執務室に続くドアは閉まってて身構える必要はないのに、僕は息をひそめた。
「生徒会って暇なの? いつも誰もいないですね」
「定例ミーティングはしょっちゅうやってるよ。部活と掛け持ちの役員が多いから仕事を持ち帰ってる。特に会長と副会長はね」
「ふうん」
「なんの用だ。おまえの企画書なら却下だぞ」
「同好会のことはもういい」
「相変わらずいい加減だな」
「こっちだっていろいろあるんだよ」
しゃべってるうちに地が出てきたのか、七威の口調が砕けた。工藤先輩も弟を諭す兄みたいになってる。
「沓沢、生徒会やめるってよ」
「え……」
七威と一緒に僕も驚いた。隠すつもりはないが、いまここで知らせなくたっていいのに。
「俺のせい……? 橘先輩のことで……きつく言いすぎたから」
「まあ、おれのせいでもあるが」
「だよね。先輩が結都ちゃん連れて来たせいでおかしくなったんだよ。暁季に会わせて、わざわざ拗れさせるようなこと」
「責任転嫁だね。おれがきっかけだったとしても、根本の原因はおまえの優柔不断さだよ。会わないって決めただろ。なんで会いに行ったんだ。こうなるってわかってただろ」
「うるさい!」
「応える気もないくせに。どっちつかずが一番たちが悪い」
「それこそ責任転嫁だよ。暁季の心が俺に向かないよう檻に閉じ込めておけばよかったじゃないか!」
心も体も針で刺されたみたいに痛い。なんで僕は聞いちゃいけない話を性懲りもなく立ち聞きしてるんだ。自己嫌悪で汚れていく。濁った泥水に引きずり込まれていく。
「本当おまえって可愛くないな。だから嫌いだよ。後輩のくせにクソ生意気で」
「俺だって先輩嫌いだし。とにかく……結都ちゃんは辞めさせないから」
「青山はそうでも、校長が承認したらゲームオーバーだろうよ」
「阻止する」
「勝手にしろ」
扉の開閉音が聞こえた後、夕暮れの雲間から雨が降り始めた。胸の痛みが消えない。紙で指を切った時みたいに、ずっとヒリヒリし続けていた。
夕食後、リビングのソファでだらけながら本を読んでいると、食器を洗い終えた母さんに声をかけられた。
「ねえ結都、英奈の様子見てきてくれない? あの子、好物の餃子五個しか食べなかったのよ」
「五個も食べれば充分だって」
「ほら、冬にイラストのコンテスト出したでしょう。お母さんはよく描けてたと思うのよ。でも入賞できなかったらしくて」
だめだったのか……。そりゃショックだよな。僕も見せてもらったけど、背景も人物も生き生きして、いい出来だった。期待してた分、つらいだろう。
そっとしておいたほうが良さそうだが、姉弟のよしみだ。ひと言くらい声をかけてやろう。
「英奈、どうしたんだよ。いつもは餃子軽く十個食べるのに」
ノックして部屋に入ると、英奈は背を向けベッドの上で丸まっていた。いつも煌々とついてるモニターが真っ暗だ。電源落としてるなんて珍しい。
「うるさい。いましゃべる気分じゃない。出てって」
「自分だって許可なくズカズカ入ってくるだろ。毎回毎回いつもいつも不躾に」
「うっさいのよ。胸いっぱいなの。乙女はデリケートなのっ」
「アイスは?」
「……いる」
二本持ってきといて正解だった。英奈がむくりと起き上がる。僕は椅子に座ってアイスの袋を開けた。イラストの件をストレートに訊くのは傷を広げそうで、ひとまず自分の近況を話すことにした。
「僕さ、生徒会辞めようと思ってるんだ。っていうか、辞める」
「うっそ。先生たちの心証悪くなるんじゃない」
「どうだっていいよ、そんなの」
アイスをかじると、コーティングのチョコレートがパリっと音を立て割れた。
「えーでもさ、カッコいい子いたじゃない。青山くんだっけ。あの子の『力になりたい』って、あれどうでもよくなっちゃったの?」
甘いものを口にした途端、英奈が饒舌になった。
「僕そんな恥ずかしいこと言った?」
「あ、私の妄想かも」
「現実と妄想ごっちゃで生きるな」
「いいじゃないよ、人に迷惑かけてないもの。楽しいのよ、カップリングとか考えるの」
「なんのだよ」
英奈の脳内はカオスだ。いまさらだがヤバいやつを姉に持ってしまった。
「あのさぁ、結都の気持ちは尊重するけど……後悔しないようにね」
「最後までやり遂げろってこと?」
「ちゃんと考えて、納得できたら辞めればいいよ。少しでも腑に落ちないなら続けて、その違和感が何なのか見つけてみるのもいいんじゃない」
前向きだな、英奈は。納得できない、腑に落ちない。あるのは違和感だけだ。
僕はまた逃げる道を選んだ。魔女の鍋はかさを増し、黒々と煮えたぎっている。醜い自分を放り込んで、消えてしまえたら楽だった。