「結都ちゃん、工藤先輩も……どうして」
刹那、場が凍りついた。僕は何も言えず立ち尽くす。数秒後、橘先輩の舌打ちが聞こえた。
「おまえら、ずいぶんゲスい真似してんなぁ」
「橘先輩、偶然ですね。こんなところでお会いするとは」
工藤先輩が組んでいた腕を解き、いけしゃあしゃあと挨拶した。修羅場で本領発揮しなくていいのに。
「偶然が聞いてあきれる。狙って来たんだろうが」
「帰る前にちょっと休憩しようと思いまして」
不自然さは否めないが、工藤先輩はあくまで偶然を装う体だ。
「席は他にも空いてんだよ。散れ」
橘先輩がうっとうしそうに空席情報をアナウンスした。
「ここがいいんです。外も眺められるし。な、沓沢」
「え、あ、はい」
平然と返す工藤先輩に、若干挙動不審な僕。橘先輩はもちろんのこと、七威にも訝しげな目を向けられた。橘先輩は写真と雰囲気が変わっていた。金色に近い茶髪、耳にピアス、手には指輪。私服のせいか一段と大人びて見える。デザインが七威と似ていた。同じブランドみたいだ。
「立ち話もなんですから、そっち移動していいですか」
工藤先輩がグラスを持ち、植栽に邪魔されない席に移動した。橘先輩の真横だ。メンタル鋼か。
「おまえは……許可してねえだろ。ほんと図々しいな」
「先輩譲りですよ。いろいろ鍛えられましたからね。おれたちのことは気にせずどうぞ話続けてください」
「腰折っといてよく言うよ」
橘先輩の口調はきついが、怒ってるというより呆れているように見えた。工藤先輩は普段通りの冷静さでひるみもしない。なんだかんだ、すごい。とても同じように振る舞えない。
「少年もこっち来な」
呼ばれておずおずと七威の横に立った。後先考えず乗り込んだものの、収拾つくのか激烈に不安だ。
「思い出した。おまえ、執行部か。引継ぎの時会ったな」
着任は一年の後期で、橘先輩はその時三年生だった。引継ぎは担当別に行われた。顔なんて忘れてておかしくないのに。
「沓沢結都です。その節はお世話になりました」
ひとまず僕は形だけの挨拶をした。
「別に世話してねえけどな」
僕も世話された記憶はない。橘先輩は盛大なため息をついた後、帰り支度を始めた。
「ナナ、店変えるぞ。落ち着いて話もできねえ」
「いいですね、行きましょう」
橘先輩の誘いに乗ったのは、なぜか工藤先輩だった。
「工藤……おまえに話してねえんだよ」
「せっかくですし夜飯でも」
「おまえがいるとまずくなる」
「試してみます?」
「は。ふざけんな」
橘先輩と工藤先輩はどういう仲なんだ。舌戦を聞いてるだけで寒くなる。工藤先輩は橘先輩が好きなはず。なんでこんなに険悪ムードなんだ。穏便に済ませて欲しい。身が持たない。
「俺、帰ります」
「おい、ナナ」
「橘先輩、ごちそうさまでした。結都ちゃん、行くよ。送ってくから」
送る……? 追いかけるように席を立つと、橘先輩の視線が僕に留まった。鋭くて冷たい、射るような目だ。
「なあ、沓沢。今日の落とし前は高くつくよ。覚悟しときな」
刹那、オオカミに睨まれたウサギのごとく動けなくなった。工藤先輩じゃなく僕に啖呵を切るあたり、ヒエラルキーを感じる。生態ピラミッドなら僕は下位。橘先輩は間違いなく捕食者だ。
「ナナ。気をつけて帰れよ」
去り際、橘先輩の声が聞こえた。「七威は俺のもの」と主張してるようだった。
*
連れ帰るはずが、いつの間にか逆になっていた。駅へ向かう七威を追いつつ、猛省する。
「七威……邪魔して、ごめん」
「工藤先輩に無理やり付き合わされたんでしょ」
カフェに工藤先輩と橘先輩を置いてきてしまった。振り向いても追いかけて来る気配はない。
「自分の意志でついて来たんだ。工藤先輩に責任は」
「あるよ。だからあの人嫌い」
七威にしてはきつい言葉だった。
「ごめん」
返事はない。代わりに深いため息が聞こえた。急に胃が痛んだ。いつもより足早な七威の背が僕を拒んでる。迷惑かけたんだ。当たり前だ。
「結都ちゃんは、どこから聞いてたの」
「どこって……」
後半ほとんどなんて口が裂けても言えない。
「工藤先輩とは腐れ縁でしょうがないけど。結都ちゃん、他人のことに好奇心で首突っ込んだらだめだよ」
他人。好奇心――。言葉が、矢のように突き刺さる。
「橘先輩は情熱の人で、歩調を乱す相手に容赦ないから。何かあっても責任取れない」
七威の説明で腑に落ちた。道理でやたらと凄みを感じたわけだ。
工藤先輩は興味本位で逢瀬を妨害するような人じゃない。よっぽどのことがあるのだと案じてついて来た。
違う。工藤先輩のせいにするな。七威が言うように、好奇心だった。七威と橘先輩の関係が気になって、落ち着かなかった。自分の感情を静めたくて、ここに来たんだ。
七威と橘先輩は付き合ってた。過去に何かあって別れたんだ。情熱的って何に対して。知りたい。知ったらだめな気がする。でも、知りたい。
訊いてもいいだろうか。教えてくれるだろうか。ふたりの間柄を勘ぐって疑心暗鬼になるのは嫌だ。
「橘先輩はとはどんな関係?」
「どんなって……なに急に」
「七威にとって、特別な人?」
追っていた足が止まった。七威は振り向き僕を見た。その表情で質問に失敗したんだと気づいた。
「どうしてそんなこと訊くの」
「ただの先輩後輩には思えなかった」
「どういう意味……?」
「言葉通りだよ」
答え方も失敗した。馬鹿か、僕は。自ら泥沼にはまりに行ってどうするんだ。
そっとしておけばいいものを、止められなかった。不快にさせるだろうとわかっていて暴走した。
僕は七威が好きなんだ。ようやく自覚した。嫉妬だった。
「全部聞いてたんだね」
「橘先輩と付き合ってた?」
「昔のことなんて、忘れたよ」
「いまも好き……?」
七威が黙り込んだ。それが、答えってこと。
「女子の木村さんはだめで、橘先輩ならいいんだ」
「なんでそんな言い方……結都ちゃんに関係ない!」
拒絶されて、我に返った。首を突っ込むなと言われたばかりなのに、自分の感情を優先してぶつけた。
触れられたくない聖域が誰にだってある。僕だってそうだ。相手が誰であろうと、立ち入りは許されない。
「橘先輩がいるのに、どうして僕に……」
好きって言ったんだよ。からかうなら、もっと別の方法があっただろ。
通行人が行き交う歩道の隅で、僕たちは長いこと沈黙した。どちらかが、何かを言い出すのを待っていた。胸が苦しくて、息苦しくて、もう限界――そこまできて、七威が口を開いた。
「俺が中1の頃、親が離婚するしないで揉めてた。家にいるのが嫌で夜通し遊んでた時期もあった。荒れて情緒不安定だった俺を支えてくれたのが、橘先輩だった。卒業した後も、相談にのってくれたり勉強を見てくれたりした。同じ高校を選んだのは、橘先輩がいたからだよ。あの人に救われたんだ。でも……」
「もういい」
強固な絆を聞かされて、打ちのめされた。ダメージが大きすぎる。
「七威は橘先輩が好きなんだ。僕を好きだっていうのは、全部嘘だった」
「違……」
「僕といる時、すごく気を遣ってたじゃないか。橘先輩といる時は、心を許してた。会話を聞いてればわかるよ」
七威が傷ついた顔をした。僕もきっと同じ顔をしてる。
「だからなに。結都ちゃんだって、俺のこと好きじゃなかったくせに。園田さんがいいんだろ。おあいこだよ」
すでに七威の心に僕はいなかった。しがみつく余地すら残されてなかった。関係ない人間だった。他人だった。この虚しさは何だ。何なんだよ。
刹那、場が凍りついた。僕は何も言えず立ち尽くす。数秒後、橘先輩の舌打ちが聞こえた。
「おまえら、ずいぶんゲスい真似してんなぁ」
「橘先輩、偶然ですね。こんなところでお会いするとは」
工藤先輩が組んでいた腕を解き、いけしゃあしゃあと挨拶した。修羅場で本領発揮しなくていいのに。
「偶然が聞いてあきれる。狙って来たんだろうが」
「帰る前にちょっと休憩しようと思いまして」
不自然さは否めないが、工藤先輩はあくまで偶然を装う体だ。
「席は他にも空いてんだよ。散れ」
橘先輩がうっとうしそうに空席情報をアナウンスした。
「ここがいいんです。外も眺められるし。な、沓沢」
「え、あ、はい」
平然と返す工藤先輩に、若干挙動不審な僕。橘先輩はもちろんのこと、七威にも訝しげな目を向けられた。橘先輩は写真と雰囲気が変わっていた。金色に近い茶髪、耳にピアス、手には指輪。私服のせいか一段と大人びて見える。デザインが七威と似ていた。同じブランドみたいだ。
「立ち話もなんですから、そっち移動していいですか」
工藤先輩がグラスを持ち、植栽に邪魔されない席に移動した。橘先輩の真横だ。メンタル鋼か。
「おまえは……許可してねえだろ。ほんと図々しいな」
「先輩譲りですよ。いろいろ鍛えられましたからね。おれたちのことは気にせずどうぞ話続けてください」
「腰折っといてよく言うよ」
橘先輩の口調はきついが、怒ってるというより呆れているように見えた。工藤先輩は普段通りの冷静さでひるみもしない。なんだかんだ、すごい。とても同じように振る舞えない。
「少年もこっち来な」
呼ばれておずおずと七威の横に立った。後先考えず乗り込んだものの、収拾つくのか激烈に不安だ。
「思い出した。おまえ、執行部か。引継ぎの時会ったな」
着任は一年の後期で、橘先輩はその時三年生だった。引継ぎは担当別に行われた。顔なんて忘れてておかしくないのに。
「沓沢結都です。その節はお世話になりました」
ひとまず僕は形だけの挨拶をした。
「別に世話してねえけどな」
僕も世話された記憶はない。橘先輩は盛大なため息をついた後、帰り支度を始めた。
「ナナ、店変えるぞ。落ち着いて話もできねえ」
「いいですね、行きましょう」
橘先輩の誘いに乗ったのは、なぜか工藤先輩だった。
「工藤……おまえに話してねえんだよ」
「せっかくですし夜飯でも」
「おまえがいるとまずくなる」
「試してみます?」
「は。ふざけんな」
橘先輩と工藤先輩はどういう仲なんだ。舌戦を聞いてるだけで寒くなる。工藤先輩は橘先輩が好きなはず。なんでこんなに険悪ムードなんだ。穏便に済ませて欲しい。身が持たない。
「俺、帰ります」
「おい、ナナ」
「橘先輩、ごちそうさまでした。結都ちゃん、行くよ。送ってくから」
送る……? 追いかけるように席を立つと、橘先輩の視線が僕に留まった。鋭くて冷たい、射るような目だ。
「なあ、沓沢。今日の落とし前は高くつくよ。覚悟しときな」
刹那、オオカミに睨まれたウサギのごとく動けなくなった。工藤先輩じゃなく僕に啖呵を切るあたり、ヒエラルキーを感じる。生態ピラミッドなら僕は下位。橘先輩は間違いなく捕食者だ。
「ナナ。気をつけて帰れよ」
去り際、橘先輩の声が聞こえた。「七威は俺のもの」と主張してるようだった。
*
連れ帰るはずが、いつの間にか逆になっていた。駅へ向かう七威を追いつつ、猛省する。
「七威……邪魔して、ごめん」
「工藤先輩に無理やり付き合わされたんでしょ」
カフェに工藤先輩と橘先輩を置いてきてしまった。振り向いても追いかけて来る気配はない。
「自分の意志でついて来たんだ。工藤先輩に責任は」
「あるよ。だからあの人嫌い」
七威にしてはきつい言葉だった。
「ごめん」
返事はない。代わりに深いため息が聞こえた。急に胃が痛んだ。いつもより足早な七威の背が僕を拒んでる。迷惑かけたんだ。当たり前だ。
「結都ちゃんは、どこから聞いてたの」
「どこって……」
後半ほとんどなんて口が裂けても言えない。
「工藤先輩とは腐れ縁でしょうがないけど。結都ちゃん、他人のことに好奇心で首突っ込んだらだめだよ」
他人。好奇心――。言葉が、矢のように突き刺さる。
「橘先輩は情熱の人で、歩調を乱す相手に容赦ないから。何かあっても責任取れない」
七威の説明で腑に落ちた。道理でやたらと凄みを感じたわけだ。
工藤先輩は興味本位で逢瀬を妨害するような人じゃない。よっぽどのことがあるのだと案じてついて来た。
違う。工藤先輩のせいにするな。七威が言うように、好奇心だった。七威と橘先輩の関係が気になって、落ち着かなかった。自分の感情を静めたくて、ここに来たんだ。
七威と橘先輩は付き合ってた。過去に何かあって別れたんだ。情熱的って何に対して。知りたい。知ったらだめな気がする。でも、知りたい。
訊いてもいいだろうか。教えてくれるだろうか。ふたりの間柄を勘ぐって疑心暗鬼になるのは嫌だ。
「橘先輩はとはどんな関係?」
「どんなって……なに急に」
「七威にとって、特別な人?」
追っていた足が止まった。七威は振り向き僕を見た。その表情で質問に失敗したんだと気づいた。
「どうしてそんなこと訊くの」
「ただの先輩後輩には思えなかった」
「どういう意味……?」
「言葉通りだよ」
答え方も失敗した。馬鹿か、僕は。自ら泥沼にはまりに行ってどうするんだ。
そっとしておけばいいものを、止められなかった。不快にさせるだろうとわかっていて暴走した。
僕は七威が好きなんだ。ようやく自覚した。嫉妬だった。
「全部聞いてたんだね」
「橘先輩と付き合ってた?」
「昔のことなんて、忘れたよ」
「いまも好き……?」
七威が黙り込んだ。それが、答えってこと。
「女子の木村さんはだめで、橘先輩ならいいんだ」
「なんでそんな言い方……結都ちゃんに関係ない!」
拒絶されて、我に返った。首を突っ込むなと言われたばかりなのに、自分の感情を優先してぶつけた。
触れられたくない聖域が誰にだってある。僕だってそうだ。相手が誰であろうと、立ち入りは許されない。
「橘先輩がいるのに、どうして僕に……」
好きって言ったんだよ。からかうなら、もっと別の方法があっただろ。
通行人が行き交う歩道の隅で、僕たちは長いこと沈黙した。どちらかが、何かを言い出すのを待っていた。胸が苦しくて、息苦しくて、もう限界――そこまできて、七威が口を開いた。
「俺が中1の頃、親が離婚するしないで揉めてた。家にいるのが嫌で夜通し遊んでた時期もあった。荒れて情緒不安定だった俺を支えてくれたのが、橘先輩だった。卒業した後も、相談にのってくれたり勉強を見てくれたりした。同じ高校を選んだのは、橘先輩がいたからだよ。あの人に救われたんだ。でも……」
「もういい」
強固な絆を聞かされて、打ちのめされた。ダメージが大きすぎる。
「七威は橘先輩が好きなんだ。僕を好きだっていうのは、全部嘘だった」
「違……」
「僕といる時、すごく気を遣ってたじゃないか。橘先輩といる時は、心を許してた。会話を聞いてればわかるよ」
七威が傷ついた顔をした。僕もきっと同じ顔をしてる。
「だからなに。結都ちゃんだって、俺のこと好きじゃなかったくせに。園田さんがいいんだろ。おあいこだよ」
すでに七威の心に僕はいなかった。しがみつく余地すら残されてなかった。関係ない人間だった。他人だった。この虚しさは何だ。何なんだよ。