日曜から月曜にかけ、熱が出て学校を休んだ。体調を崩すのはいつ振りだろう。
英奈には慣れない女の子とのデートで知恵熱が出たんだとからかわれた。実のところ七威のせいかもしれない。
僕の中で七威の存在が急激に増していた。遊びに行った朝、電車で抱きしめられ、夜は七威の部屋で抱きしめられた。二度も。思い出したら顔が火照ってきた。
「もう無理……沸騰する……」
ずっとからかわれてるんだと思ってた。でも付き合って欲しいとは言われてない。そうだよな? じゃあ、付き合おうと言われたら七威と付き合うのか。待たせてる園田のことはどうするんだよ。このままじゃ、二股……。付き合う前から二股はおかしいな。だめだ。グダグダだ。病み上がりで考えがまとまらない。
「沓沢、もう体調はいいのか」
執行部に顔を出すと、工藤先輩がひとり計算機を傍らに帳簿を作成していた。各部から提出された領収書の数字をパソコンに打ち込んでいる。
「熱は下がりました。ご心配おかけしました」
「おれはしてない」
「でしょうね」
工藤先輩がフッと口の端に笑みを浮かべた。
「心配してたのは青山だよ。今日招集かけてないが、どうした。庶務から連絡いっただろ?」
七威、来てたんだ。さりげない情報に申し訳なさがよぎる。
「生徒会新聞、仕上げたくて。あと資料室の整理も。七威は企画書の件ですよね?」
工藤先輩は作業を止め、背もたれに体を預けた。
「沓沢がいないとわかってすぐ帰った。連絡してないのか」
「わざわざ学校休むって知らせるのも変ですし」
「その程度か」
「なにがです?」
「まだくっついてないんだなって話」
「くっつくわけないでしょう」
ニアミスはあったけども。工藤先輩は頭の切れる頼りになる人だが、時々得体の知れない千里眼を発揮するから怖い。
その時、スマホが鳴った。見ると七威のメッセージで、『結都ちゃんどうしよう俺』とだけ打ってあった。
しばらく待っても次のメッセージが来ない。こっちから返信しようかと悩んでいたら電話がかかってきた。廊下に出て画面をスライドすると、七威が早口でしゃべり始めた。
『アパートのポスト、めったに開けないんだ。広告もあってさすがにいっぱいになったから昨日郵便物取り出して』
郵便物? 唐突だな。
「大事なものまで断捨離してないだろうね」
『見たよ、ちゃんと見た。そしたらポストカードが』
「まさかお父さん……?」
『次の土曜に帰って来るって』
マジか。次の土曜といえば、三日後だ。
『だからどうしよう。本当に帰って来るかわかんないけど会いたくない』
「落ち着いて。しっかり考えよう。いまどこ?」
『屋上』
「待ってて。いまそっちに行く」
僕は電話を切り、やっぱり今日は帰りますと工藤先輩に断りを入れ屋上へ走った。
*
階段を五階まで駆け上がって、最後の踊り場で立ち止まった。別にこんなに走らなくたって、七威は消えたりしないのに。残りの数段を呼吸を整えながらのぼり、屋上のドアを開けた。
フェンスと鮮やかな夕日を背に、七威が振り返る。長く伸びた影。髪と制服の輪郭がオレンジ色だ。
「結都ちゃん、これ」
七威がエアメールのスタンプが押されたポストカードを差し出した。内容を読むのはさすがにためらう。
「なんて書いてあった?」
「ドイツにいることと、予約した便名と到着時間。書いた日付はひと月前」
「それだけ?」
七威が頷いた。ずいぶんあっさりしてる。息子との二年ぶりの再会をなんだと思ってるんだ。申し訳ないとか、ひと言謝罪があってもいいだろう。僕が代わりに腹を立ててもしょうがないけど。
「空港に迎えに行くの?」
「行かないよ、あんなやつと会いたくない。だからどうしようって。ばあちゃんにも知らせてない」
子供を放ったらかしにするようないい加減な人じゃなければ、七威も手放しで喜べたのに。
「電話で確認してみたら」
「あいつ携帯持ってない」
今の時代に、持ってない? それで連絡方法が郵便なのか。
「一緒に行くよ。羽田? 成田?」
「羽田……だけど。行かないって。子供じゃないんだし、いくら馬鹿でも自分の家くらい覚えてるよ」
「でも、ひとりで部屋で待つの、つらくない……?」
七威は黙り込んだ。遥か上空を飛行機が轟音を響かせ横切っていく。
「どうせ……日本に戻って来ても、またすぐどっか行くよあの馬鹿は。ここまでくるともう病気だね」
家族が離れて暮らす。僕には経験がない。七威の気持ちをまるごと汲んでやれない。憎いのか、悔しいのか、虚しいのか、悲しいのか。想像すらも難しい。家族について、僕は恵まれすぎてる。
七威が力なくベンチに座った。僕もその横に座る。こんな時、どんな言葉をかけるのが正解だろう。話しかけないほうがいいのかな。僕は暮れていく空を仰いだ。
「俺が……いつも連れてかれるのは、外国で……」
ぽつり、七威が思い出を語り出す。
「まれに国内もあって。一度だけ、四国に行ったんだ。今みたいな夕方の飛行機に乗って。離陸した東京はもう夜が来る時間。でも、行先は全然夕方の明るさで。飛べば飛ぶほど夜から夕方に変わってくんだ。時間を巻き戻したみたいだった。結都ちゃんは……夜と夕方の境目、見たことある?」
突如紡がれた壮大な景色を想像して、圧倒された。飛行機の小さな窓の外に広がる果てしない空、水平線。夜景と夕景のはざま。そのグラデーション。それはそれは素晴らしい眺めだろう。僕は首を横に振った。
「いつか見せてあげたい。すごく綺麗だよ」
たくさん美しいものを見てきた七威と、ずっと同じ場所にいる僕の経験値差は歴然だ。視点によって、世界が変わる。七威の目は、今この瞬間も、僕とは違う景色を映してるんだろうか。
英奈には慣れない女の子とのデートで知恵熱が出たんだとからかわれた。実のところ七威のせいかもしれない。
僕の中で七威の存在が急激に増していた。遊びに行った朝、電車で抱きしめられ、夜は七威の部屋で抱きしめられた。二度も。思い出したら顔が火照ってきた。
「もう無理……沸騰する……」
ずっとからかわれてるんだと思ってた。でも付き合って欲しいとは言われてない。そうだよな? じゃあ、付き合おうと言われたら七威と付き合うのか。待たせてる園田のことはどうするんだよ。このままじゃ、二股……。付き合う前から二股はおかしいな。だめだ。グダグダだ。病み上がりで考えがまとまらない。
「沓沢、もう体調はいいのか」
執行部に顔を出すと、工藤先輩がひとり計算機を傍らに帳簿を作成していた。各部から提出された領収書の数字をパソコンに打ち込んでいる。
「熱は下がりました。ご心配おかけしました」
「おれはしてない」
「でしょうね」
工藤先輩がフッと口の端に笑みを浮かべた。
「心配してたのは青山だよ。今日招集かけてないが、どうした。庶務から連絡いっただろ?」
七威、来てたんだ。さりげない情報に申し訳なさがよぎる。
「生徒会新聞、仕上げたくて。あと資料室の整理も。七威は企画書の件ですよね?」
工藤先輩は作業を止め、背もたれに体を預けた。
「沓沢がいないとわかってすぐ帰った。連絡してないのか」
「わざわざ学校休むって知らせるのも変ですし」
「その程度か」
「なにがです?」
「まだくっついてないんだなって話」
「くっつくわけないでしょう」
ニアミスはあったけども。工藤先輩は頭の切れる頼りになる人だが、時々得体の知れない千里眼を発揮するから怖い。
その時、スマホが鳴った。見ると七威のメッセージで、『結都ちゃんどうしよう俺』とだけ打ってあった。
しばらく待っても次のメッセージが来ない。こっちから返信しようかと悩んでいたら電話がかかってきた。廊下に出て画面をスライドすると、七威が早口でしゃべり始めた。
『アパートのポスト、めったに開けないんだ。広告もあってさすがにいっぱいになったから昨日郵便物取り出して』
郵便物? 唐突だな。
「大事なものまで断捨離してないだろうね」
『見たよ、ちゃんと見た。そしたらポストカードが』
「まさかお父さん……?」
『次の土曜に帰って来るって』
マジか。次の土曜といえば、三日後だ。
『だからどうしよう。本当に帰って来るかわかんないけど会いたくない』
「落ち着いて。しっかり考えよう。いまどこ?」
『屋上』
「待ってて。いまそっちに行く」
僕は電話を切り、やっぱり今日は帰りますと工藤先輩に断りを入れ屋上へ走った。
*
階段を五階まで駆け上がって、最後の踊り場で立ち止まった。別にこんなに走らなくたって、七威は消えたりしないのに。残りの数段を呼吸を整えながらのぼり、屋上のドアを開けた。
フェンスと鮮やかな夕日を背に、七威が振り返る。長く伸びた影。髪と制服の輪郭がオレンジ色だ。
「結都ちゃん、これ」
七威がエアメールのスタンプが押されたポストカードを差し出した。内容を読むのはさすがにためらう。
「なんて書いてあった?」
「ドイツにいることと、予約した便名と到着時間。書いた日付はひと月前」
「それだけ?」
七威が頷いた。ずいぶんあっさりしてる。息子との二年ぶりの再会をなんだと思ってるんだ。申し訳ないとか、ひと言謝罪があってもいいだろう。僕が代わりに腹を立ててもしょうがないけど。
「空港に迎えに行くの?」
「行かないよ、あんなやつと会いたくない。だからどうしようって。ばあちゃんにも知らせてない」
子供を放ったらかしにするようないい加減な人じゃなければ、七威も手放しで喜べたのに。
「電話で確認してみたら」
「あいつ携帯持ってない」
今の時代に、持ってない? それで連絡方法が郵便なのか。
「一緒に行くよ。羽田? 成田?」
「羽田……だけど。行かないって。子供じゃないんだし、いくら馬鹿でも自分の家くらい覚えてるよ」
「でも、ひとりで部屋で待つの、つらくない……?」
七威は黙り込んだ。遥か上空を飛行機が轟音を響かせ横切っていく。
「どうせ……日本に戻って来ても、またすぐどっか行くよあの馬鹿は。ここまでくるともう病気だね」
家族が離れて暮らす。僕には経験がない。七威の気持ちをまるごと汲んでやれない。憎いのか、悔しいのか、虚しいのか、悲しいのか。想像すらも難しい。家族について、僕は恵まれすぎてる。
七威が力なくベンチに座った。僕もその横に座る。こんな時、どんな言葉をかけるのが正解だろう。話しかけないほうがいいのかな。僕は暮れていく空を仰いだ。
「俺が……いつも連れてかれるのは、外国で……」
ぽつり、七威が思い出を語り出す。
「まれに国内もあって。一度だけ、四国に行ったんだ。今みたいな夕方の飛行機に乗って。離陸した東京はもう夜が来る時間。でも、行先は全然夕方の明るさで。飛べば飛ぶほど夜から夕方に変わってくんだ。時間を巻き戻したみたいだった。結都ちゃんは……夜と夕方の境目、見たことある?」
突如紡がれた壮大な景色を想像して、圧倒された。飛行機の小さな窓の外に広がる果てしない空、水平線。夜景と夕景のはざま。そのグラデーション。それはそれは素晴らしい眺めだろう。僕は首を横に振った。
「いつか見せてあげたい。すごく綺麗だよ」
たくさん美しいものを見てきた七威と、ずっと同じ場所にいる僕の経験値差は歴然だ。視点によって、世界が変わる。七威の目は、今この瞬間も、僕とは違う景色を映してるんだろうか。