【2】

 子どものころは葉瑠が苦手だった。忙しく視線を動かすその様は「嫌われたくない」という下心が見え見えで、他人に合わせて一切の自己主張をしないことこそが正義、みたいな顔を常にしていた。そのくせやり切る強さみたいなものは持っていなくて、時折、電池が切れたみたいに何もない空間を見つめる。
 もういいや、めんどくさいやと投げ出すその態度もあまり好きにはなれなかった。
 だけど、母さんは隣に住む葉瑠のことをよく気に掛けていた。
「お父さんがいなくて大変だろうし、お母さんもお仕事で忙しいからね」とは言っていたが、それは理由になるのだろうかと子供心に思っていた。今となってはもうどうでもいいけど、母さんはきっと葉瑠のことを「可哀想な子」だと捉えていたんだと思う。だから、俺なりに「気を使って」はいたけど、あいつの方が誰とも仲良くしようとしていなかった。
 遊びに誘えば断らない。でも一緒の空間にいても、あいつ自身がどこにもいない感じがなんだかとても嫌だった。でも、小学校の学年が上がっていくにつれ、自然に時間を共にすることもなくなっていった。それに、クラスも別々だったから葉瑠との接点は徐々になくなっていったと思う。
 でも、それでも。あの日俺は葉瑠のことを好きになった。
 その日も俺は、学校を終え自宅への道を友達と歩いていた。小6になってからの担任が宿題を多めに出す人だったので、教師に対する愚痴を言ったりしながら、いつものように友達と別れた。
 玄関のドアを開けようとしたとき、第六感とでもいうのだろうか。ざわりとした妙な胸騒ぎを覚えた。家の中に誰かいるかもしれない。そんな違和感を覚えながらも、俺はカギを開けた。そして、玄関に入ったところでその違和感は確信に変わる。
 玄関に続く廊下の奥。突き当りの左手にある仏間に人の気配がする。
 今考えれば、そのまま家を出て警察に通報するのがベストな選択だ。でも、あの時の俺は好奇心と義勇心みたいなものがごっちゃになってたんだと思う。そのまま俺は仏間へと歩を進め、数センチほど開かれた襖の隙間から中の様子を伺い見た。
 やっぱりいた。黒のブルゾンを着た男の背中がごそごそと箪笥を漁っている。箪笥の引き出しを開けては中を無造作に物色していた。そして、何回かその動作を繰り返した後、掌に収まる程度の小さな箱を取り出した。
 あれは、母さんの指輪だ。おばあちゃんからもらったものなんだって、目を細めて言っていたのを覚えている。あの時の俺は、その指輪はお前のものじゃないって強く思って。それと同時に俺は男に向かってタックルをかましていた。背後からの不意打ちに男はひどく驚いた様子だったが、すぐに俺の身体をいともたやすく剥ぎとった。ガラス窓に背中を打ちつけた俺は、視界がちかちかと明滅するのを感じていた。初めて受けた大人の男からの暴力。圧倒的な強さを感じたけど、絶対に負けたくないと思った。頭を振ってうまく機能しない視力をどうにか正常の状態に戻したが、男はカバンを手に仏間を去ろうとしていた。
「待てよ」
 喉の奥で響く、呻きにも似た声。音量を最大にして「待てよ!」と叫び立ち上がる。男は舌打ちをしつつも仏間を出て素早く玄関へと向かった。男がドアに手をかけたところで、俺は裸足のまま男の方へと駆け出した。
今度は絶対に離さない。離してなるものかと必死に食らいつくが、どうしたって腕力では敵わない。再び男が俺の身体を引き剥がし玄関のドアを開けると、男越しに葉瑠の姿を確認できた。
 ばちりと合った視線だけで、葉瑠は事の次第を瞬時に理解したように見えた。でも、それだけでは足りない気がして「葉瑠、そいつ泥棒!」と、俺は力の限り声を張り上げた。葉瑠は一瞬、目を真ん丸にしたけど。次の瞬間、「うわああああああああ」と叫びながら男にとびかかった。
 男が一瞬だけひるんだその隙に、俺も飛びかかった。男は何度も葉瑠と俺の身体を引き剥がしては地面に打ちつける。でも俺たちは諦めなかった。何度も立ち上がって男に食らいついた。そんな乱闘を繰り広げている間に、騒ぎを聞きつけた近所の人が外の様子を見に出てきた。尋常ならざる光景を見た住民は、即座に警察に通報してくれたようだ。そして、近隣に住む大人の協力もあり泥棒はお縄となった。警察に連れていかれる前に、ちゃんと指輪も回収できた。
 事が終息したころ、母さんがパートから帰って来た。擦り傷だらけの俺と葉瑠を見て、何事かと母さんは驚いた様子だった。でも俺は、俺たちは、泥棒を捕まえるという難易度マックスな事案をやり遂げたばかり。興奮気味に事の次第を伝えた後で「これだって俺たちで取り返したんだぜ」と言って、誇らしげに指輪を渡した。すると、母さんの目の真ん中から涙がこぼれ出た。
「え」
 涙の意味が分からず困惑していると「洸君、ほんとにかっこよかったんだよ」と、葉瑠が付け足すように伝えた。
「ありがとう。ありがとね」
 泣きながら母さんは俺たちごと抱きしめる。葉瑠の前で母親から抱きしめられるのはひどく恥ずかしかったけど、俺はなされるがままになっていた。横目でちらりと葉瑠を見ると、なぜかその瞳にはいっぱいの涙が溜まっていた。
「なんで、泣きそうになってんの」
 抱きしめられた照れくささもあり、俺はガキっぽく葉瑠にけしかけた。すると葉瑠は小さな笑顔を見せてくれたけど、その拍子にぽろりと一筋、涙が伝った。
「はじめてだから。こういうの」
 
 あの日から、葉瑠は俺にとっての特別になった。一緒にいたいって素直に思った。距離が縮まっていくにつれ、葉瑠は意外と皮肉屋で器用だけど適当な部分があることにも気付かされた。
 誰にも見せていない本当の自分を、俺にだけ、ちょっとずつさらけ出している。そんな気がして、めちゃくちゃ嬉しかった。今まで知り得なかった葉瑠のそういうところも全部好きだなって思った。葉瑠を丸ごと好きになれる自分に対し、誇らしさすら抱いていた。でも、距離が縮まったとしても。葉瑠は最後の一線をくっきりと引く。これ以上は入ってこないで、という線が見えた。
 いつか葉瑠に恋人的な人ができたら。葉瑠は線の中に、その人を迎え入れるのかもしれない。そんなことを思ったら苦しくてしょうがなくなった。その人は俺であってほしいと切に願った。だから、家族になりたいって言ったのは、そういうことなんだ。葉瑠にも俺と同じように俺のことを想ってほしいって、ことなんだけど。
 差し出された葉瑠の手の温度は、まるで変わらなかった。
「……あのさ」
「んー?」
「叔父さんとちゃんと話した方がいいと思う」
 俺からの真っ当な提案に、葉瑠は「あー……ん~」と顔をしかめた。
「俺たちまだ学生だし。実際問題、自立するのは難しいだろ。だから来年の春、俺らが卒業するまでは……」
 そこまで言って、脳直で流れていく言葉を食い止めた。卒業して葉瑠が自分のことをどうにかできるようになったら、おじさんとは自ずと家族じゃなくなる。そんな意味合いが含まれる言葉を、俺は言おうとしていたのかもしれない。流れていく恐れのある言葉を、俺は慌てて脳内で灰にした。
「洸? 何、なんかフリーズしてない?」
 視線を逸らしながら「ごめん」と告げると「でも……確かにそうだよね」と、葉瑠は俺の顔を覗き込んだ。
「洸の言う通り。勝手に寂しくなって自己完結するのは違うし、なんかガキくさすぎ。ちゃんと話すよ。ごめんね、なんか昔の事思い出して虫になってた」
「……虫?」
「うん、いじけ虫」
「なんだよ、それ」
 笑みをもらしながら告げると、葉瑠は何故か安心したように頬を綻ばせる。
「あ、じゃあさ、洸も一緒にいてよ」
「え」
「家族、なってくれるんでしょ? おれもちゃんと紹介したいから」
 そう告げた葉瑠の目は悪戯心に満ちていて、だけどその奥に俺の知らない何かがあるような気がした。