【1】
カーテンの揺れ方で風の形がわかるよねと、あいつがそう言ったから。いつの頃からか、窓辺に視線を移すのが癖になってしまっていた。葉瑠ならこの風に、どんな意味を見出すだろうって。そんなことを考えながら風を見るのが、いつの間にか好きになっていた。でも今は、そんなことどうでもいい。風の形なんかよりこのまま葉瑠を見ていたい。
保健室のベッドに横たわっている葉瑠は眉間に皺をよせ、時折、小さなうめき声を上げている。悪い夢でも見ているのだろうか。あいつやあいつが葉瑠を夢の中ですら、今でも苦しめ続けているのだろうか。
地獄に落ちてしまえばいいって、思う。
葉瑠の胸の真ん中に、悲しみを塗り込んだ奴らを俺は絶対に許さない。葉瑠の夢の中に入り込めたら、そいつらをぶっ飛ばす。そんで、葉瑠を思い切り抱きしめてやりたい。
「ん……」
葉瑠の胸のあたりがもぞりと動き、仰向けだった身体がゆっくりと寝返りを打った。こちらに向いた葉瑠の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
苦しそうだ。身体が冷えたら大変だ。
どこにどう出しても通用する言い訳を捻りだした後、俺はハンカチを取り出した。去年の誕生日、葉瑠がくれた空色のふわふわとした生地が手にとても馴染むやつだ。でも、使うのがもったいなくて、持ち歩いているくせにまだほとんど使っていない。でも、今こそ使い時だ。
茶っこい葉瑠の前髪が、ぺたりと額にくっついている。葉瑠の額に手を伸ばし、そっとハンカチをあてがった。そのままポンポンと汗を吸い込ませていると、葉瑠の表情がほんの少し和らいだ気がした。
「大丈夫、大丈夫だから」
喉の奥の方で届けるつもりのない思いが漏れ出る。
「ここにいるから」
届かなくてもいい。
本当にそう思っているのに。葉瑠に触れていたいという思いは抑えられない。弱すぎる自制心にいとも簡単に負けてしまった俺は、そのまま葉瑠の頭を撫でた。触れているのはこっちなのに、さらさらとした感触に俺の方がどうにかなってしまいそうだ。
だが、このまま触っているのはまずい。本能的にそう感じた俺は、ぱっと手を離した。すると、それに呼応するように葉瑠の意識がぱちぱちと忙しなく覚醒した。
「……あれ、洸?」
「起きたか」
ほっと胸をなでおろしたあとで「ね、なんで倒れたか覚えてる?」と問いかけた。
「体育の授業で……走ってたのは覚えてるよ。洸の背中見てたから」
「え……」
「姿勢がキレイだなって。あんな風におれも走ってみたいなーって、考えてて……それで」
そこまで言って、葉瑠は再び顔をしかめる。その眉間の皺を伸ばすべく「ぶっ倒れたんだよ」と回答した。
「うそ。ほんとに?」
「ん。なんか漫画みたいだった」
「え、何それ」
くしゃと笑った後で、葉瑠の目がはっと開かれる。
「もしかして運んでくれた? おれのこと」
「うん」
「うーわ……え、おれめっちゃ迷惑かけてるじゃん」
恥ずかしさに顔を覆う葉瑠が可愛くて、ニヤけそうになるのを必死で抑える。しかし、他人の気持ちの機微に敏感な葉瑠はそれを逃がさなかった。
「ごめんね、ほんと。最近、寝不足でさ。ちゃんと寝るわ、うん」
言葉を重ねるごとに、翳りの色が濃くなっていく。申し訳なさそうに目を伏せた葉瑠に、そうじゃないことをきっちり伝えたくなるが、どうにもそうはいかない。
「気にすんな。それにほら、クラスでもさ大分定着してるし」
「あー…おれの『世話係』キャラ?」
「ん。それそれ」
俺自身はその立ち位置に非常に満足しているので、満面の笑みで肯定してみせた。しかし葉瑠は深いため息を吐き、真下に視線を落としてしまった。
「洸はいいの? そんなこと言われて嫌じゃない?」
「嫌じゃない。けど」
葉瑠の方は不快に思っているのだろうか。幼馴染の世話係キャラを確立させて葉瑠のそばにいようとすることを、本心では嫌だと感じているのだろうか。ぐるりと渦巻く不安を抱きながら葉瑠の方に向き直る。
「嫌、だったりする? 葉瑠は」
「やじゃないよ。そんなわけない」
きっぱりと否定してくれた葉瑠に、どばっと愛しさがあふれる。抱きしめたくなる衝動を感じながら葉瑠の次の言葉を待った。
「ただ、おればっかに構ってていいのかなって、思ってるだけ」
隠し切れない悲しみを秘めた瞳で葉瑠は俺を見る。そのままこちらを見据えながら「洸、人気者だし。誰にでも優しいしさ。もっと仲良くなりたい人たくさんいると思うんだよね」と、俺にとってはさして重要ではないことを告げた。
「葉瑠が」
「え」
「葉瑠が嫌じゃないなら俺は葉瑠と……つるんでたい。それだけ、ほんとに」
胸にガツンとくる嘘を吐きながら、とりあえずの本当を伝える。当の葉瑠は何故かきょとんとした顔をしていて、それすら可愛いと思ってしまう自分はマジでヤバイ奴だなと感じた。
「ありがとう。ごめんね」
「いや、なんの謝罪だよ」
軽さを意識しながらツッコむと、葉瑠は「へへ」と破顔する。そしてふいっと何もない空間を見つめた。何かを掴んでいるようで何も掴んでいない、そんな表情を浮かべた。数秒の沈黙の後、葉瑠の口から「わかんないや」が零れた。
「……あ、そういえば授業は?」
「とっくに終わってる。体育、6限だっだろ。もう放課後」
「あー、そっか。待っててくれたんだ、ありがと」
「別に。大丈夫そうなら帰ろうぜ」
「うん」
スイッチを入れるみたいに、葉瑠の表情が明るくなる。呑気に「なんかお腹空いちゃった~」と言っている背中を見つめながらも、唇のそばまで「何かあったのか?」という言葉が這い上がってくる。しかし、教室に辿り着き帰り支度をしている最中。「今日の夕飯はカレーにしようかな」ぐらいのテンションで葉瑠は言った。
「叔父さんに恋人ができたみたいなんだよね」
「え」
「おれ、また捨てられちゃうかも」
あっけらかんと爽やかに告げる葉瑠に俺は言葉を失っていた。
「まあ別にいいんだけどね。叔父さんだって、まだ若いし。20代半ばでおれを引き取ってさ。たぶんその時、恋愛とかそういうの諦めちゃったと思うんだ」
「でも、多分」と言いながら葉瑠が視線を逸らす。その横顔からくみ取れるのは淋しさと諦め。そんな感情に捕らわれてほしくないのに「葉瑠」と小さく名を呼ぶことしかできなかった。
「子どもみたいで情けないけど。寂しくなってるのかも。またさ家族がいなくなっちゃう気がして」
たとえ今、そういう状況だとして。家族がいなくなったとしたって、俺は葉瑠をひとりにはさせない、絶対に。その気持ちがあまりにデカすぎたのか、考えるより先に「じゃあ俺が家族になるよ」と言っていた。
「え?」
口から出てきた直球極まりない言葉に、言った後で眩暈がしそうになる。多分、いや絶対。「好きだ」っていう気持ちのまま、さっきの言葉を吐いていた。それを自覚したのと同時に超ド級の後悔が押し寄せてきた。
「ご、ごめん……!」
やっとの思いで出た謝罪に対し、葉瑠は「ううん」と暖かな否定を返してくれた。
「洸となら大歓迎だよ」
「え……」
「あ……ごめん。もしかして冗談だった?」
「……や。冗談なんかじゃないけど」
「じゃあ、なっちゃおっか。家族」
そう言って葉瑠はこちらに手を差し出す。その手に触れられずにいると「ほら」と言って俺を促した。
「じゃあ、なるか」
「うん」
やっとの思いで触れた葉瑠の手は、柔く、ひんやりとしていた。
カーテンの揺れ方で風の形がわかるよねと、あいつがそう言ったから。いつの頃からか、窓辺に視線を移すのが癖になってしまっていた。葉瑠ならこの風に、どんな意味を見出すだろうって。そんなことを考えながら風を見るのが、いつの間にか好きになっていた。でも今は、そんなことどうでもいい。風の形なんかよりこのまま葉瑠を見ていたい。
保健室のベッドに横たわっている葉瑠は眉間に皺をよせ、時折、小さなうめき声を上げている。悪い夢でも見ているのだろうか。あいつやあいつが葉瑠を夢の中ですら、今でも苦しめ続けているのだろうか。
地獄に落ちてしまえばいいって、思う。
葉瑠の胸の真ん中に、悲しみを塗り込んだ奴らを俺は絶対に許さない。葉瑠の夢の中に入り込めたら、そいつらをぶっ飛ばす。そんで、葉瑠を思い切り抱きしめてやりたい。
「ん……」
葉瑠の胸のあたりがもぞりと動き、仰向けだった身体がゆっくりと寝返りを打った。こちらに向いた葉瑠の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
苦しそうだ。身体が冷えたら大変だ。
どこにどう出しても通用する言い訳を捻りだした後、俺はハンカチを取り出した。去年の誕生日、葉瑠がくれた空色のふわふわとした生地が手にとても馴染むやつだ。でも、使うのがもったいなくて、持ち歩いているくせにまだほとんど使っていない。でも、今こそ使い時だ。
茶っこい葉瑠の前髪が、ぺたりと額にくっついている。葉瑠の額に手を伸ばし、そっとハンカチをあてがった。そのままポンポンと汗を吸い込ませていると、葉瑠の表情がほんの少し和らいだ気がした。
「大丈夫、大丈夫だから」
喉の奥の方で届けるつもりのない思いが漏れ出る。
「ここにいるから」
届かなくてもいい。
本当にそう思っているのに。葉瑠に触れていたいという思いは抑えられない。弱すぎる自制心にいとも簡単に負けてしまった俺は、そのまま葉瑠の頭を撫でた。触れているのはこっちなのに、さらさらとした感触に俺の方がどうにかなってしまいそうだ。
だが、このまま触っているのはまずい。本能的にそう感じた俺は、ぱっと手を離した。すると、それに呼応するように葉瑠の意識がぱちぱちと忙しなく覚醒した。
「……あれ、洸?」
「起きたか」
ほっと胸をなでおろしたあとで「ね、なんで倒れたか覚えてる?」と問いかけた。
「体育の授業で……走ってたのは覚えてるよ。洸の背中見てたから」
「え……」
「姿勢がキレイだなって。あんな風におれも走ってみたいなーって、考えてて……それで」
そこまで言って、葉瑠は再び顔をしかめる。その眉間の皺を伸ばすべく「ぶっ倒れたんだよ」と回答した。
「うそ。ほんとに?」
「ん。なんか漫画みたいだった」
「え、何それ」
くしゃと笑った後で、葉瑠の目がはっと開かれる。
「もしかして運んでくれた? おれのこと」
「うん」
「うーわ……え、おれめっちゃ迷惑かけてるじゃん」
恥ずかしさに顔を覆う葉瑠が可愛くて、ニヤけそうになるのを必死で抑える。しかし、他人の気持ちの機微に敏感な葉瑠はそれを逃がさなかった。
「ごめんね、ほんと。最近、寝不足でさ。ちゃんと寝るわ、うん」
言葉を重ねるごとに、翳りの色が濃くなっていく。申し訳なさそうに目を伏せた葉瑠に、そうじゃないことをきっちり伝えたくなるが、どうにもそうはいかない。
「気にすんな。それにほら、クラスでもさ大分定着してるし」
「あー…おれの『世話係』キャラ?」
「ん。それそれ」
俺自身はその立ち位置に非常に満足しているので、満面の笑みで肯定してみせた。しかし葉瑠は深いため息を吐き、真下に視線を落としてしまった。
「洸はいいの? そんなこと言われて嫌じゃない?」
「嫌じゃない。けど」
葉瑠の方は不快に思っているのだろうか。幼馴染の世話係キャラを確立させて葉瑠のそばにいようとすることを、本心では嫌だと感じているのだろうか。ぐるりと渦巻く不安を抱きながら葉瑠の方に向き直る。
「嫌、だったりする? 葉瑠は」
「やじゃないよ。そんなわけない」
きっぱりと否定してくれた葉瑠に、どばっと愛しさがあふれる。抱きしめたくなる衝動を感じながら葉瑠の次の言葉を待った。
「ただ、おればっかに構ってていいのかなって、思ってるだけ」
隠し切れない悲しみを秘めた瞳で葉瑠は俺を見る。そのままこちらを見据えながら「洸、人気者だし。誰にでも優しいしさ。もっと仲良くなりたい人たくさんいると思うんだよね」と、俺にとってはさして重要ではないことを告げた。
「葉瑠が」
「え」
「葉瑠が嫌じゃないなら俺は葉瑠と……つるんでたい。それだけ、ほんとに」
胸にガツンとくる嘘を吐きながら、とりあえずの本当を伝える。当の葉瑠は何故かきょとんとした顔をしていて、それすら可愛いと思ってしまう自分はマジでヤバイ奴だなと感じた。
「ありがとう。ごめんね」
「いや、なんの謝罪だよ」
軽さを意識しながらツッコむと、葉瑠は「へへ」と破顔する。そしてふいっと何もない空間を見つめた。何かを掴んでいるようで何も掴んでいない、そんな表情を浮かべた。数秒の沈黙の後、葉瑠の口から「わかんないや」が零れた。
「……あ、そういえば授業は?」
「とっくに終わってる。体育、6限だっだろ。もう放課後」
「あー、そっか。待っててくれたんだ、ありがと」
「別に。大丈夫そうなら帰ろうぜ」
「うん」
スイッチを入れるみたいに、葉瑠の表情が明るくなる。呑気に「なんかお腹空いちゃった~」と言っている背中を見つめながらも、唇のそばまで「何かあったのか?」という言葉が這い上がってくる。しかし、教室に辿り着き帰り支度をしている最中。「今日の夕飯はカレーにしようかな」ぐらいのテンションで葉瑠は言った。
「叔父さんに恋人ができたみたいなんだよね」
「え」
「おれ、また捨てられちゃうかも」
あっけらかんと爽やかに告げる葉瑠に俺は言葉を失っていた。
「まあ別にいいんだけどね。叔父さんだって、まだ若いし。20代半ばでおれを引き取ってさ。たぶんその時、恋愛とかそういうの諦めちゃったと思うんだ」
「でも、多分」と言いながら葉瑠が視線を逸らす。その横顔からくみ取れるのは淋しさと諦め。そんな感情に捕らわれてほしくないのに「葉瑠」と小さく名を呼ぶことしかできなかった。
「子どもみたいで情けないけど。寂しくなってるのかも。またさ家族がいなくなっちゃう気がして」
たとえ今、そういう状況だとして。家族がいなくなったとしたって、俺は葉瑠をひとりにはさせない、絶対に。その気持ちがあまりにデカすぎたのか、考えるより先に「じゃあ俺が家族になるよ」と言っていた。
「え?」
口から出てきた直球極まりない言葉に、言った後で眩暈がしそうになる。多分、いや絶対。「好きだ」っていう気持ちのまま、さっきの言葉を吐いていた。それを自覚したのと同時に超ド級の後悔が押し寄せてきた。
「ご、ごめん……!」
やっとの思いで出た謝罪に対し、葉瑠は「ううん」と暖かな否定を返してくれた。
「洸となら大歓迎だよ」
「え……」
「あ……ごめん。もしかして冗談だった?」
「……や。冗談なんかじゃないけど」
「じゃあ、なっちゃおっか。家族」
そう言って葉瑠はこちらに手を差し出す。その手に触れられずにいると「ほら」と言って俺を促した。
「じゃあ、なるか」
「うん」
やっとの思いで触れた葉瑠の手は、柔く、ひんやりとしていた。