「もう、全部が馬鹿らしくなっちゃった。このままだと人生そのものが嫌になりそう」
 ここ最近、何のために生きているのか、分からなくなっていた。
 違和感で体が締め付けられ、自分を俯瞰して見るような浮遊感に苦しみ、無駄に人生観を考える。
「別に大きな不満は無かったんだよ? でも、なんかもう無理ってなっちゃった」
 コーヒーカップを手に取ると、呪いの言霊を吹きかけて冷ます。
「一人で鏡を見ていたら、自分の姿が嫌いになっちゃった。なんか、私って生きてても死んでるんじゃないかって、思っちゃったんだよね」
 私はコーヒーをずずっと啜ると、一息をつく。
 目の前に座るささらは黙って聞いている。
 私はおどけるように、まるで冗談のように零しているが、全て本音で本気だった。
 何でもない日常、何でもない平穏。何も問題が無い生活。
 それが、とある瞬間に全てが馬鹿らしく思え、どうでもよくなった。
 別に仕事は不満がなかった。ホワイトって評判の会社でもあったし。
 それなのに――
「んで? それで会社を辞めたって?」
「そうそう。自分でもびっくり。急に思い立った感じ」
 行動は突発的、衝動的だった。
 何も変わらない安寧な日常から転げ落ちた瞬間は、思いのほか気持ち良かった。
 コーヒーが胃に零れると、体が熱くなってくると同時に、気持ちが静まる。
 私はダメになるクッションに背中を預けると、部屋の主を見ながら、口を開いた。
「そういえば、ささらは仕事辞めて何年だっけ?」
 大学時代からの友人は、ショートカットの黒髪を揺らしながら答える。
「三十の時だから、五年前かな。あの時は桃が、”何で辞めるの~もったいないじゃ~ん”とか言ってたくせに」
「あはは、何でだろうね。特にきっかけは無かったのに、ささらと同じことやっちゃった。ささらも、同じような気持ちだったの?」
「まあな。何か知らんが、全てがどうでもよくなって、全てが嫌になった。今の桃と同じ状態じゃないか?」
 ボーイッシュな友人は、綺麗なアルト声を響かせた。
「そういうの、あるんじゃないかなぁ? 多分、みんな、そんな瞬間が訪れるんだよ。ふと、人生を俯瞰して、自分が生きているっていう足跡を残したくなったり、とかねぇ」
 甘い声でそう言うのは、隣に座って聞いていた里央だった。
 ふわふわで、ゆるいパーマをかけたブラウンの髪が、肩で揺れていた。
「なんか難しいこと言ってるし。詩人だね」
「そう? でも、私は、桃も仕事は辞めちゃうだろうなぁって思ってたよー。私たち、根っこが似てるから」
「ええ? 似てるかな?」
「私も思ってたぞ。そもそも、誰かに合わせるのが苦手じゃないか。私たちって」
 ささらの言葉に私と里央は、うー、と唸り声を上げた。
 的を射ているために、反論しようがない。
 仕事だから仕方がないけれど、基本はやりたくない、そもそも組織で働くのが合わない、他人にも会社にも人間関係にも興味がなく、基本的には放っておいてほしい、究極のマイペース。
 それが私たちの根本で、だからこそ長いこと友達でいられた。
「だね。認めたくないけど、結局、私も最後に辞めちゃったもん。似てるんだね」
 これで、仲良し三人組、全員が仕事を辞めたことになる。
 里央がいちばん早く、二十代後半には仕事を辞めていた。
「それでぇ……実際にこれからどうするの? 別の仕事見つけたり?」
 私は里央の言葉に首を振った。
「ううん、ちょっといろいろ考えたいなって」
「桃、収入はどうするんだ? 東京での一人暮らしはそれなりにかかるぞ? あぁ、もしかして実家に戻るのか?」
「ううん。帰らない。あのさ、ささら。相談なんだけど、前に家賃が高いから引っ越そうかって言ってたよね?」
「……ちょっと、待て。嫌な予感がする」
 ささらはテーブルに手を突いて頭を抱える。すると、隣の里央が声を上げた。
「おぉ! 私も、予感があるよぉ。きっと、あれだよね。前に、うちらでルームシェアしようって話があったよね?」
「里央、するどい! そうそう、ささらの部屋って大きいからさ。家賃が高いんだったら、折半するから、私を住まわせてよー!」
「ずるい! だったら、私も一緒に住む! ささら、良いでしょ? 三人なら家賃三分の一になるよ!」
「おいおい、お前ら……! それにしても、桃は昔から勢いとマイペースは変わらないよな……何回も被害を受けたことか……」
 私の勢いに、ささらは溜め息を吐いた。
「んー、でもそうか。一緒にか……」
 怒って拒否するかなって片隅で思っていたものの、ささらは意外にも黙って何かを考え始めた。
 いや、考えているというか、あれはまさに罠にかかった子羊をこれから念入りに捌こうとする目だ。
「ふふ……」
「え、ささら? まさか!?」
「ちょ、ささら? その笑み、こっちが嫌な予感なんだけどぉ……」
「よし! 住もうじゃないか。いやぁ、助かったよ。ということで、家賃を折半しよう、うん」
 やべぇ。
 私はささらがかなり切迫した状況であることに気付いてしまった。つまり、これは罠だった。
 とはいえ、私も収入が無いので、貯金を切り崩すしかない状態だ。
 ぐいぐいとせまる彼女を私たちは何とかなだめると、近況を聞くことにした。
「そういえば、ささらって今は何をやってるの? 仕事を辞めて何をやってるかなんて、聞ける雰囲気じゃなかったから。でも、今なら聞けちゃう」
 私は長年知りたかったことを、無遠慮に聞いてみることにした。
 どうせ同じ立場だ。もう隠しごとなんて必要無いでしょ。
「今さらだな。まぁ、全員が同じ状況になったから、遠慮が無くなったのだろうが……」
「うんうん! 興味あるぅ」
「いや、ちょっと待て。私は里央が何をやってるかも気になるぞ? 真っ先に仕事を辞めていたからな」
「ふふ! 分かった。私も言うから、ほら。ささらから言って。ほら、言って」
 里央の相変わらずの強引さに、私は笑みを浮かべた。
 甘え上手で、腹黒で、何を考えているか分からなくて。でも、面白いから愛されるキャラクターの里央からせがまれては、ささらもペースを飲まれてしまう。
「はぁ……分かった。家賃も危ういことだし、素直に話すことにするよ」
 ボーイッシュな淑女は、どうやら家賃がヤバいようだ。
「なになに? もしかして、モデルとか?」
「アイドル」
 ささらが言った言葉に、私と里央が硬直する。
 え? 今、何て言った?
 アイドル?
 ささらが、アイドルをやっている!? え?
 そして、刹那の中、その長い時間で思考が加速する。
 だが、それよりも早く硬直より戻った里央は、信じられないという顔をして、ささらに迫る。
「……ちょっと待って、アイドル? え? アイドルをやっている、ってことなの? それとも、ドルオタしてるってこと?」
「アイドルをやっている。小さいけど、事務所にも入ってるんだ。まぁ、売れてはいないけどな」
「……まぢ?」
 私と里央は声にならない声を上げて驚いた。
「あとはアルバイトな。というか、アルバイトが収入のほとんどだ。それでなんとかやってる……最近は、ちょっと……チェキの売上がヤバくて……っていうか、お前ら驚きすぎだろ?」
「いや、だって、ねぇ!?」
「うん! うん!」
 里央と顔を見合わせて大きく頷いた。
「でも、桃がそんなに驚くとは……うん。確かに、桃は殻が完全に剥がれたかもな」
「え? 急にどうしたの?」
「いや普通なら、大丈夫なの? とか、止めとけとか、って感じだったろ? それが、私のことなのに嬉しそうに驚いている」
「あ……」
 私はささらの言葉に頷いた。
 きっと仕事を辞める前なら、そう言っていたに違いない。
 というか、里央が仕事を辞めるって言った時、私はそんなことを言っていたと思う。
 だけど、今は――
「すごい。本当、すごい。自分の好きなことをして、大変だけど前向いて、大事なことを胸に抱えて生きているって、本当すごいよ!」
 私は共感していた。むしろ、尊敬した。
 ささらに信念を感じた。ささらはおどけた表情で言っているが、目は真剣で笑っていない。それだけ誇りに思っているんだ。
 そう、私はこういう生き方をしたくて、仕事を辞めたんだ。
 自分に誇りを持って、誰に何を言われるでも無く、ただただ一日一日を本気で生きたい。
「はは、ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」
「でも、三十五で……できるものなのぉ……?」
 里央が年齢について気になったようだ。
 確かに、私たちはもう若くない。
「案外いける。今の世の中、多様性がすごいぞ。昔みたいに、一極集中じゃない。だからある意味、昔よりも夢は叶えやすい。でも、その分パイの奪い合いだけどな……それに」
「それに?」
「いつかは脱落するにしてもそれは会社員も一緒だ。どうせ定年もある。だから、この歳になればそんなのただの誤差だ。そして確率だ」
 ただの誤差、確率。そう言い切ってしまうささらがすごい。
 でも、ささらはボーイッシュで精悍な顔つきは、とても若く見える。それに、昔から美人だった。
 活発で、雰囲気もある。アイドルと言われ全く冗談に思えなかったのは、どこかでそういった雰囲気を感じ取っていたからだ。意外に、ずっと続けられそうな気もしている。
「それに、できるんじゃなくて……私が、やりたいんだよ。ずっとやりたかった。もっと早くやれば良かったとも思う……でも、若いほど無謀にはなれなかった」
 不思議な話だった。
 普通は、若い人が無謀で、年を取ると落ち着くものではないか?
 でも、実際に若い人ほど雁字搦めになり、大人の常識で抑えこまれてしまう。
 それがある時に爆発する。
 自分がやりたいと思っていたどうでも良いことが、この世の何よりも大切なものに生まれ変わる瞬間が来る。
 そして、爆発するんだ。
 年齢を重ねた時、平穏で安寧した生活を破壊したくなるんだ。
 でも、きっとそれは、残念ながら王道を求めるのではなく、この先の人生の終点が見え始めたから起こりえる、あがき、なのだろう。
「そうそう。私もそれで辞めたんだもん! お金よりも、時間が大切になっただけ。ただでさえブラックな職場だったからさぁ」
 里央が喚いて、テーブルに突っ伏した。
「里央は今何やってんの? 前はシステムエンジニアだっけ? めっちゃ忙しかったんだよね?」
 ささらと同じように、私はずけずけと里央に踏み込んだ。
「うん。もうねぇ……人生、余計なことに時間を使うのが馬鹿らしくなっちゃった」
「でも、その頃って、三十手前だよね。相変わらず達観してるというか……」
「毎日毎日深夜まで仕事やってぇ、休みもプライベートも無く過ごしていたら、それだけで人生終わりって気付いちゃうよぉ……」
 昔から仕事がきついと言っていた里央の内面に、私はようやく気付いた。きっと、私よりも生き急いでいたのだろう。
「所詮、私たちは資本主義の犬なのよ。成功者になるなら資本家階級にいなければいけない、どれだけ金持ちになっても労働者階級は負け犬なの。身も心も時間もボロボロになってお金だけ残っても何が幸せなのよ。労働者は所詮、労働でしか対価を得られない豚なのよ」
「お、おう……」
「でも、上等よ。そういう社会構造なら、私の作品を資本にしてしまえば良いのよ」
 目が据わり、饒舌になってきた里央に私は落ち着けと手を伸ばす。
 いつもはゆったりとした、ぽわぽわとした口調なのに、こうなると面倒なことになる。三人の中で、最も短気なのが里央だったりする。
 ちなみに、見た目がボーイッシュで、サバサバした口調のささらは、最も乙女だったりもする。
「で、それで、今は何をやってるの?」
 話を無理やりに戻すと、里央も興奮していたことに気付いたようで、こほんと一拍を置く。
「ああ、そうね、うん。アニメ作ってるの。元々は頼まれてボカロ動画を作ったりしてたんだけど、もっと本格的にやりたくなってね」
 へぇ……って、ボカロ動画は分かるけど、アニメ? アニメを作ってる?
「アニメって個人で作れるものなの?」
「作れるよ。趣味でBlender使ってたからその流れで。もともとエンジニアだからPCは得意だったし」
「Blender? 何を言ってるか分からないけど、すごいね……うん、すごい……」
「桃も、おめでとう。歓迎するよぉ。こっち側に来たことにね」
「ああ、だな」
「うん! じゃ、さっそくだけど、いつ引っ越してきたら良い?」