下僕は美しき絶対君主にひざまずく~天然と俺様~

保健室はギリギリ開いていた。

養護教諭は相良先輩の足首だけささっと確認すると、冷やすものを貸してくれた。

家の人に迎えの連絡を入れてくれるということで、彼女は職員室へ向かった。

残された俺は、相良先輩の前にひざまずく。

「まだ痛いですか」
「いい、もう落ち着いた」

相良先輩は頑なに袴をめくろうとしない。足首はいいとして、膝を傷めていないだろうか。

見上げた彼は、さっきよりは顔色がよくなって……というか、赤くなっている気がする。

「つった感じですか?」
「たぶん。急に動いたからな」

深いため息をつき、彼は天を仰ぐ。

「一年と少し、か」
「そんなにブランクがあるように思えませんでした」

剣道は腕の振りが重要だと思われがちだが、実は足の運び方や速さが最重要。

一番負担がかかるのが足だと言われている。

「だけど勝てなかった」

彼の呟きが、ぽつりと床に落ちる。まるで、線香花火の最後のように。

なぜだかぎゅっと胸が痛くなる。

「俺、強くなったでしょう」

跪いたまま見上げると、ペンとおでこを叩かれた。

「バーカ、自惚れんな」

相良先輩は仏頂面で言うと、胴を外してゆっくり立ち上がり、隅のベッドに横になる。

「着替え持ってこい、一年」
「小池です」
「小池、防具も全部回収してこい。更衣室にある私物も全部。急げ」
「は、はいっ」

寝ころんだまま命令するなんて、あなたは王様か。

心の中でツッコミはするけど、反発心は起きない。

俺は絶対君主の忠実な下僕となり、武道場横の更衣室へ急ぐ。

それにしても、引き分けか。俺にしてはよくやったほうだ。

「おう小池、大丈夫か」
「あ、大丈夫です。お疲れさまでした」

更衣室にはちょうど片づけを終えた先輩たちがいた。

俺は手早く着替え、相良先輩の荷物を持って走る。

相良先輩の道着袋や竹刀袋は、すべてきれいなまま。大切に保管されていたのだろう。

彼はきっと、剣道が嫌になってやめたわけではないように思える。

じゃなきゃ勝ちにこだわることもないだろうし、そもそも俺の挑発にも乗らなかったんじゃなかろうか。

きっと、現役だった自分のイメージに体がついてこなかったんだ。

今頃、大いに悔しがっていることだろう。

戻ってくればいいのに。少しずつ体を慣らして、体力も戻して、そうしたらきっと、昔のように動けるようになる。

でも、俺がそんなことを言っても、相良先輩はきっと戻ってこない。

今の俺と彼の関係性では、たぶんムリ。

「無力だなあ……」

せめて、試合中の高揚感だけでも思い出してもらえたら。

あの胴は自分でもよく打てたと思うけど、相良先輩の情熱を取り戻すには足りなかっただろうか。

俺は速度を落とし、ゆっくりと保健室へ戻った。

荷物を受け取った相良先輩は、もういつも通りのクールな表情で、「先に帰れ」と命令する。

下僕の俺は、その通りにするしかなかった。



相良先輩との勝負の数日後。五月下旬、ある月曜日。

「あっ、相良くんに負けたひとだ」

後ろ指を指されて陰口をたたかれるという体験を、俺は初めてしている。

あの勝負の日、たくさんいたギャラリーの誰かが無断撮影をしたらしい。

そしてそれを誰の許可も取らずに勝手にSNSに流したのか、白道着の剣道王子VS凡人の動画はプチバズリしたらしい。

「しかし、悪質だよな。王子のいいところだけ切り取って、小池の胴はなかったことになってんだもんな」

部活の時間、前田先輩がぷりぷり怒っていた。

音楽に合わせたショート動画は、相良先輩の顔のアップと見事な面を決めたところを編集しており、それだけ見たら俺は完全な脇役であり、「相良先輩に負けたひと」なのである。

実際は引き分けだったのだけど、動画だけ見ているひとはそんなのわからない。
「引退してブラブラしてるやつに負けたなんて思われたら、俺たちの沽券にかかわるじゃないか」

「まあまあ、逆に周りが油断してくれたら試合で有利になるかもしれないよ」

青谷部長がなだめると、前田先輩は「それもそうか」と表情を明るくした。

稽古していればわかるが、三人の先輩の実力はみんな同じようなもので、俺と同等か少し劣るといった感じだ。

決してバカにしているのではなく、青谷部長がそう言っていたのだ。

「でも、惜しかったなあ。小池くんが相良くんに勝ったら、団体戦五人で出られたのに」

青谷部長はそう言って笑った。

あの勝負をする前に、相良先輩との約束の内容はみんなに話してある。

俺が部活を辞めることになったらどうしようとドキドキしていたみたいだが、そこはなんとか回避した。

「すみません」
「いいのいいの。四人になっただけでもありがたいんだから」
「それに、相良くんが入ってくれたとして、仲良くできるか微妙だし」

二年生の先輩二人が顔を見合わせて笑う。


「そうですか……」

たしかに相良先輩はぶっきらぼうだし、不真面目だけれど、そんなに悪い人ではない。

昔はとても明るくて爽やかで、いつもひとに囲まれているような人物だったんだから。

陰キャに妬まれることは、あったかもしれないけど。

「よし、今日も頑張ろう」
「はいっ」

俺たちは稽古を開始した。

この前のようなギャラリーは、ひとりもいなくて静かだ……と、思いきや。

入口のほうに気配を感じて振り向くと、なんと噂の相良先輩が立っていた。

「相良先輩!」

ついさっきまで噂をしていた二年生ふたりがギクッとした表情でこちらを見た。

俺はそんなふたりを置き去りに、相良先輩に駆け寄る。

「どうしたんですか。もしかして、入部……」
「なわけあるか」

別に茶化したわけでもないのに、相良先輩は舌打ちする。

「この前忘れ物したみたいだから、更衣室開けてくれん?」

俺を見上げる上目遣いに、思わずドキリとする。

相良先輩、かわいくない?

「あ、わ、忘れ物? なんですか?」
「小手サポーター。親父のなんだわ。勝手に持ってったのがバレた」

更衣室は貴重品もあるため、部活中はカギがかかっている。

それにしても、お父様のサポーターとは。

剣道が強いひとって、わりと一家でやっていたりするものな。お父様はどんな方なのだろう。

ダンディなお父様に剣道を教わる小さな相良先輩を想像しただけで、頬がゆるんだ。

ちなみに小手サポーターはその名の通り手に嵌めるサポーターで、小手を打たれたときの衝撃を緩めるためのもの。

なきゃないでも困らないけど、あったら便利。小手、打たれると痛いし。

「わかりました。すぐ開けます」
「なに笑ってんだよ。キッショ」

従順にしているのに、キショイと暴言吐かれた。ひどいな。

といってもそこまでショックを受けるでもなく、顧問にカギを借りて戻ると、人が増えていた。

「あれ?」

相良先輩の横に、見覚えのある人がいる。

他校の制服、黒いセンターパートの髪、日焼けしたような小麦色の肌、くっきりした目鼻立ち。

きょとんとしている俺に、相良先輩が話しかけた。

「なあお前、こいつ知ってる?」
「へ?」

相良先輩の知り合いじゃないのか。学ランを着たその人は、俺に向かってにこりと笑った。

「突然すみません。僕、東高の田邊っていいます。動画で相良くんを見て、会いたくなって」
「ああっ」

田邊という名前で思い出した。

この人も、ひとつ年上で、相良先輩と同じくらい強くて、大会上位の常連だった人だ。

「もしや、福路中の」
「あ、そうです。きみは?」
「西中出身の小池です」
「ははあ、見たことあると思いました。去年の県大会に出られてましたね」

相良先輩とは対極な丁寧さ。年下の俺にも敬語を崩さない。

田邊さんの試合は何度も見たことがある。技巧を凝らすというよりはパワーで押していく系。中一の俺だったらあっという間に跳ね飛ばされて、場外反則負けしていただろう。

「キッショ。ストーカーかよ」
「はは、そうかもしれません。とにかくきみがまた剣道をしていると知って、うれしくて。居ても立っても居られなかったんです」
「はあ?」

相良先輩は今まで見たことがないくらい不機嫌な顔で、大きな舌打ちをした。

それは武道場に響き渡り、聞いた者みんなが身をすくませる。

「あのな。あれは遊びの勝負だから。俺は剣道復帰なんてしてねえからな」
「えっ、そうなんですか」
「そうだよ。二度と押しかけてくんなボケ。迷惑極まりないわ」

田邊さんはキョトンとしている。

うわあ、なんか親近感湧く。この人、悪気はないのに他人を怒らせちゃう系の人だ。

すごく悪い言い方をすれば、「無神経」なのだろう。

俺もこういう失敗をよくしてしまうらしいので、なんだか見ていて悲しくなる。

しかも、中学時代のキラキラ相良先輩を知っている人にとって、今の絶対君主キャラはギャップがすごすぎる。