日が昇り、地上を照らし始めてから間もなく、俺は目覚める。
 上半身を起こし、ハッキリとした黒の瞳で壁掛け時計を見れば、時刻はピッタリ六時四十五分。平日、休日問わず、俺が朝目覚めて最初に見る数字だ。
 定番の目覚まし時計の騒がしい音でも、御伽噺の様な小鳥の美しい囀りでもなく、勝手に身体が目覚めてしまうんだ。
 何故かは分からない。だが、多分体内時計とやらがしっかりしているのだろう。おかげで、俺の生活は規則正しい。
 さて、カーテンを開けて朝の日差しをたっぷりと取り込んだら、サッサと部屋着から制服に着替えて部屋を出よう。その際に、通学用鞄を忘れずに。

 階段を下りて、まず向かうのは洗面所。
 特に目立った汚れはないが、かと言って綺麗とも言えない顔面を冷たい水でバシャバシャと洗う。
 元々覚めていた目は、更にシャッキリと気分もリフレッシュ。
 顔の水滴をふんわりタオルで拭きながら大きな鏡越しに自分の顔を見る。
 やっぱり綺麗とは言えないが、もういいか。こればかりは大金でしか解決されない。

 それから、向かったのは廊下を挟んだ向こうのリビングだ。
 スッキリとした対面キッチン脇には冷蔵庫があり、そこからペットボトルを取り出す。
 左手でキャップの部分を掴んで身体を90度に向けると、調理台の上に既にグラスにスタンバイされた赤色の飲み物を発見した。
 それは、前方より差し込む陽光によってキラキラと魅惑の輝きを放っていた。
 乾ききった喉がゴクリと鳴った。
 ペットボトルを速やかに冷蔵庫に戻し、天使に導かれる様に、或いは悪魔に誘われる様に、俺はグラスを手に取った。
 そして、グラスを傾けて水分を欲する口へ流し込む。
 冷蔵庫から出したばかりなのか、下を濡らした液体は冷たく、次に果実特有の酸味が口一杯に広がった。と、同時に忽ち皺の寄っていく俺の眉間。

「うえぇっ……まずー」

 思わず噎せ返ってしまった。
 こ、これは俺の想像していたものと違う。

「ちょっとぉ。勝手に飲まないでよー。トマト苦手なくせに」

 窓の前のソファーから少女が顔を覗かせた。
 そこに居たなら、机に置いておけよ。

「りんごジュースだと思ったんだよ」
「どー見ても違うでしょー」

 少女は裸足のままペタペタとフローリングを歩き、俺に近付いて来る。
 露になった白く細長い手足とガッツリと開いた胸元……まったく、目の遣り場に困る格好してやがる。俺と年が変わんないし、もう夏も終わって涼しくなってきているというのに。コイツは恥じらいや肌寒さを感じないのか。
 少女は俺が手に持ったままのグラスを奪い取り、グイっと中身を飲み干した。
「ぷはっ」と気持ちの良い声を上げ、口元を手の甲で拭う少女。
 綺麗な黒の長髪、睫毛の長い大きな茶色の瞳、陶器の様に白い肌に、メリハリのある体格……と、女なら誰しもが憧れるルックスなのに、中身はガサツで男みたいで実に残念だ。

「ねえ。それよりも、高校行かなくていいの?」

 おっと、そうだった。
 いつまでもコイツに構っている暇はない。

「じゃあ、行って来るわ」
「うん。行ってらっしゃい。事故には気を付けてね」

 ん?

「ああ」

 少々、少女の言葉に違和感を覚えたが、俺は鞄を肩から下げて家を出た。
 いつもは“気を付けて”なんて言わないのに。


 日光が照り返す真っ黒なアスファストの上を、今朝も真っ黒な服の大人や学生が忙しそうに行き交っていた。
 とっくに日常と化したその中を、俺は自転車で颯爽と駆け抜ける。
 日が昇っているとは言え、ちょっと風は冷たい。ブレザーの前のボタンをちゃんと止めておけば良かったかも。
 この人通りの多い中、急に止まる訳にもいかないので、ブレザーをはためかせながら学生集団の真横を通り過ぎた。
 それにしても、今朝はやけに人通りが多い。元々そうであるものの、気になると言う事は今までは特になかった。
 ここは迂回した方が良さそうだ。
 ハンドルを右へ回し、小道へと抜けた。
 
 こちらは人をちらほら見掛けたが、どれもごみ捨てに向かうおばさん達ばかりで、表通りと比べれば走るのに支障はなかった。少々駅までの道程が延びたが、時間は十分にあるので問題はない。おばさん達に、軽く挨拶を交わす余裕だってある。
 このまま真っ直ぐ行ったら、余計に遠回りだから、一度此処は左へ。近所だが、初めて通る道は新鮮で、ちょっとした冒険みたいで楽しい。
 前方から子供達のはしゃぐ声が聞こえた。近づくと、そこにはブランコとシーソーと砂場が置かれた小さな公園があった。
 成程。こんな所に憩いの場があったのか。
 こんな些細な事でも新たな知識となった気がして、何だか心が満たされる。何と言うか、楽しい。
 ストーカー対策として、行動パターンを固定しない方がいいとは言うけれど、俺は男だからその心配がほぼないが、新たな発見を得る為にはとても良い事だと思った。

 道端に咲く花、変わった民家、変わった模様の野良猫……学校では決して得られないモノが心を躍らせる。これなら、特に楽しいと思った事のない登下校も楽しいと思えるな。俺の人生における楽しみが一つ増えた。
 しかし、そろそろ見慣れた景色が視界の端に映ってきた。まるで、夢から現実へと引き戻された気分だ。
 ここを更に左へ曲がればいつもの道……。駅が俺を待っている。
 少し速度を落として、ミラーも設置されていないそこを左折した。
 途端、視界一杯に黒の乗用車が映り、ヤバイと思った時には全身に強い衝撃が走っていた。
 俺は自転車から投げ飛ばされ、固いアスファストの上に転がった。

 痛い……。

 車のドアを閉める音が聞こえ、若い男の声も聞こえて来る。多分、運転手かな? 律儀に、逃げずに俺を心配して駆けつけてくれている様だ……。

「大丈夫か!?」

 そう言われても、声を発する事が出来ない。全身が痛いんだ。意識も遠ざかってゆく。
 アスファストの上に、俺のものと思われる赤い液体が広がってゆく。それは今朝体内に入れてしまったトマトジュースの様で……。
 男性が電話をする声を最後に、俺は意識を手放した。





「大丈夫ですか?」

 耳元で声がして、俺は意識を取り戻した。
 聞いた事のある様な……ない様な……心地の良い少女の声。視線を上に向けると、豊かな二つの山……じゃなくて、俺を見下ろす綺麗な少女の顔があった。
 頭に感じるこれは、状況からして少女の膝の様だった。

 何がどうなって、こうなった?

 訳が分からないので、とりあえず身体を起こした。
 すると、少女の全体像がよく見えた。水色のサラサラした長髪に、胸元と両足をガッツリと晒したヒラヒラが多い服装、大きな青の瞳は少し潤んでいて俺を映している。可愛いけど、何処か現実離れしている? それに、何処かで色違いを見た事がある気がする。
 辺りを見渡してみても、見知らぬ場所。
 紺色の空に輝く満天の星に、赤と青の欠けた月、ひたすらに続く草原。
 現状を確認したかったのに、余計に訳が分からなくなってしまった。

 此処は何処なんだ?
 この娘は誰なんだ?
 俺に何があったんだ?

 俺は確か、学校へ出掛けて……そんで、自転車で登校している途中に――――! そうだ。俺は車に撥ねられたんだ。そこで意識が途切れたから、俺は……。
 
 し ん だ …… ?

 死んだのか? 死んだんだな……。
 じゃあ、此処はまさか、次の世界? 所謂、異世界転生をしたのか!?
 それなら、この異世界感もおかしくはない。
 俺の姿も異世界の住人らしく格好良くなっているのかとちょっと期待したけど、服装は死んだ時のままだ……。

 アレ?

「あの……まだ気分が優れないのなら、休んで下さって結構ですよ?」

 少女が俺を心配して、声を掛けてくれた。
 少女は俺の事を知っている様だが、俺は少女の事を何一つ知らない。そんな相手の傍で、無防備さを晒す俺ではない。

「お前は誰だ?」
「えぇっ」

 少女は目をまんまるにして、本気で驚いたようだ。いや、恐怖に震えた様にも見える。どちらにせよ、今の俺の口調と表情は可憐な少女に向けるには少々冷たすぎるものだっただろう。
 少女は言葉を失った様だが、少しして可愛い声を発した。

「とりあえず、座って下さい。まだ起きたばかりで、精神的にも不安定でしょうし……」

 確かに……それも一理あるかもしれない。
 無防備さを晒すのは依然抵抗があるものの、それぐらいなら大丈夫だ。俺も男。コイツが危険だと感じたら、捩じ伏せるぐらいは出来るだろう。勿論、ヤらしい意味ではない。
 俺は少女の傍に腰を下ろした。

「何か飲みますか?」

 何かって……此処には草原しかないし、見たところ、この娘何も持っていないじゃないか。
 とは言え、喉が渇いているのも事実。俺は何も答えず、喉を摩った。

「ふふ。身体は正直ですね。ちょっと待っていて下さいね」

 少女は笑いながらそう言うと、胸の谷間からナイフと小さなグラスを取り出した。

 何てものを、何て所に……。

 男としては、すっごく目の遣り場に困る仕草だ。この娘は恥じらいと言うものを知らない様だ。
 更に俺を驚かせたのは、次の少女の行動だ。手にしたナイフをあろう事か、己の白い腕に滑らせたのだ。
 一本の細い線が出来、そこからじわりじわりと赤い液体が溢れて来た。さっきの仕草よりも、目を逸らしたくなる光景だ。
 それなのに、肝心の本人は平気そうに溢れたそれをグラスに注いでいた。

「はい。どうぞ」

 まさかとは思ったが、俺に差し出して来た。横目でチラリと見ると、血よりもオレンジがかった液体が見えた。生々しい鉄の臭いもしない。

「……何だ、これは」

 とりあえずは受け取り、眉を顰めた。

「何だって……それも忘れてしまったのですか? それはわたしの血ですよ!」
「そりゃ、俺にも分かるよ。今、お前が自分の腕を引き裂いて出したもんだからさ。いや、そう言う意味じゃなくてな……。血にしては何か変だろ……これ」
「本当に覚えていないのですね……」

 少女はシュンと頭を下げた。
 可哀想な感じだが、本当に俺は何も知らないんだよ……。

「わたしの血です、飲んで下さいはねーだろう。ちゃんと説明してくれないか?」
「うぅ……確かにわたしの血です。けれど、あなたの身体に流れているものとは全く違うんですよ。前にもお話しましたが、わたしは赤い果実の呪いを受けているのです。それを解く為にあなたはわたしと一緒に旅をしてくれていて……」

 そう言う話だったんだ?

 悪いけど、他人事に聞こえるんだよな……。

「赤い果実の呪いって何だっけ?」
「あ、はい。わたし、ちょっと前に赤い果実を食べてしまったのです。この国では呪いの象徴であるそれを……。どうしても美味しそうで、わたし……両親も居なくて、家もなくて、お金もなかったんです。だから、禁忌を冒してしまいました。初めは、単なる御伽噺だと思いました……が、次第に私の血は赤い果汁となってしまって……」

 少女の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちた。これは思ったよりも、深刻かもしれない。だが、それとこれとでは話が別だ。何故、その呪いの血を俺に飲ませようとしているんだ。喉が渇いていて、他に水の代わりになる物がないとは言え、これはいくらなんでも……。

「でも! 悪い事ばかりじゃないんです。この血を飲む事によって、凄い効果が得られるのですよ。この血にはリコピンが多く含まれていて、血中HDLコレステロールを増やす働きがあって、血中コレステロールが気になる方に特にオススメです」
「へえ……」

 反応が薄いかもしれないが、俺じゃなくてもこうなるだろう。
 少女は俺の反応など介意する事なく、笑顔で俺に呪いの果汁を飲む事を促した。

「きっと、元気になりますし、記憶も思い出します!」

 滅茶苦茶だ……。
 それなのに、俺の身体は少女の言う通り正直で。口内に溢れた唾液が喉へ流れ落ち、ゴクリと音を立てた。
 俺は天使に導かれる様に、或いは悪魔に誘われる様に、俺は渇ききった喉へ赤い液体を流し込んだ。

「これは……」

 知っている。この味。血なんかじゃない事は分かる。けれど、嫌いな味。あの時、体内に入れた飲み物と同じ。
 思わず噎せ返りそうになったが、少女の視線を感じたのでそれを堪えた。
 喉を押さえ、必死に口内を己の唾液で満たして味を忘れようとした。少女の視線はまだ俺に向けられている。
 味は消えない。少女の視線も外れない。
 何故か、突然と激しい睡魔が俺に襲いかかった。
 意識が遠ざかってゆく。全身から力が抜けてゆく。身体が……傾いてゆく。
 大分狭くなった視界の中で、少女の綺麗すぎる笑顔だけが見えた。

「おやすみなさい」



 スッと目が覚めて……。
 目を開けると、見慣れない純白の天井が俺を見下ろしていた。

 俺は、何をしていたのだろうか?

「あ、おはよ」

 傍で聞き慣れた少女の声がして、上半身を起こしてみると、椅子に腰掛ける黒髪の少女の姿があった。

「お前、どうして此処に? いや……俺がどうしてこんな所で寝ていたんだ?」
「登校中に交通事故に遭ったんだよぉ。相手の人がちゃんとした方で、すぐに救急車呼んでくれて。治療代も、勿論全額負担してくれたんだよ。多分、またお見舞いに来てくれると思うけど」
「そうだったのか……」

 やはり俺は事故に遭ったんだな……それで、此処は病院。成程、殺風景な訳だ。少女の服装も、部屋着ではないのも頷ける。

「今りんご剥いてるからね~……って、いたぁっ!?」

 少女は反動でりんごと果物ナイフを落とした。
 少女の指からは、赤い液体が溢れていた。それを見た瞬間、俺の脳裏にあの異世界少女の血が掠めた。

「呪いの果汁!?」
「呪い……? やだなー血だよぉ」

 少女は眉を下げて笑い、席を立った。
 そ、そうだ。あれは夢だったんだ。何を言っているんだろう……俺は。

「ちょっと、絆創膏もらってくるねー」

 少女はそのまま歩いて行った。
 揺れる黒い長髪。
 パタンと扉が閉まった時、はたと思った。


 俺は少女の事を何一つ知らない。そう、名前すらも。

 あの子は一体誰なんだろう?