かすり傷が残る手をさすりながら、授業中メモしたB5サイズのノートをパラパラとめくる。
ちらりと周りを見ると、夕日が校庭や部活に向かう生徒達をオレンジ色に照らしている。
勉強ばっかりの僕とは違って、いかにも青春って感じ。……ちょっと眩しいな。
歩き出すと少し冷たい風が顔の擦り傷に染みる気がする。そういえば絆創膏、もう買わないと無いな。

「危ないっ!」

「えっ」
切迫した声に振り返った瞬間、サッカーボールが僕の顔面に直撃した。
あ、これ駄目かもしれない。
そう思った瞬間、もう何代目か分からない眼鏡にヒビが入り、僕はアスファルトに盛大に倒れ込んだ。



「ほーんと、懲りないよね〜晶真(しょーま)クン」
「……たまたま避けられなかっただけです」

そして今、僕は保健室でギャルみたいな派手な見た目の先輩に手当されている。
ベッドに腰掛ける僕の隣に丸椅子を持って来て座り込んだ先輩は、透明のマニキュアでコーティングされた爪で小さな氷嚢(ひょうのう)を持ってそっと僕の鼻先に押し当てる。
「メガネにヒビ入んのこれで何回目〜?ウケるんだけど」
恐らく染めているだろう先輩のキャメルブロンドの髪が首をかしげるのと同時にサラリと揺れる。髪の隙間から覗くピアスはいつも違くて、今日はシルバーのリングピアスだ。
ニヤニヤと細められた目とは裏腹に顔を撫でる手付きが優しくて、なんだか落ち着かない。
「……スペアいっぱい持ってるので大丈夫です」
目を逸らして窓の向こうのグラウンドを見る。
「はい顔動かすな~」
先輩のしなやかな指がつうっと顎先を撫で、顔を元の位置に戻される。
「う……」
「これ終わったら顔と手の擦り傷も診てやるからさ、時間あるっしょ?」
「……は、はい……」
赤茶色の瞳にじっと見つめられると落ち着かない。見た目ギャルみたいに派手なのに、瞳だけはカラコンじゃなくて素で色素が薄いのはずるいんじゃないか。
……僕は、いつからこんな甘やかされる様になってしまったんだ。

僕――茅ヶ崎 晶真(ちがさき しょうま)はちょっとだけ不幸体質だ。
部活の流れ弾が当たりやすいとか、タンスの角に小指をぶつけやすいとかそんな程度。
でも、”そんな程度”が積み重なれば常にどこかしらに擦り傷のある男子高校生の完成だ。
擦り傷程度なら放置して自然治癒に任せるけど、不注意で階段から滑り落ちて鼻を打った時は流石に不味いと思った。
鼻血が流れ続ける鼻を手で覆って保健室の扉を開けた。その瞬間、窓から差し込む鮮やかな夕日のオレンジに目を細めた。
その中心、オレンジに染まった保健室の真ん中に立っていた男の人が白衣をはためかせながらゆっくりと振り返ったた。

「あれ、誰か来んの珍し~。……大丈夫そ?」

肩をくすぐる外に跳ねたキャメルブラウンの髪に、色素の薄い赤茶色の瞳。
鮮やかなオレンジのパーカーになぜか白衣を纏った男の人は……校章から察するに二年の先輩だ。
「あ、あの……先生は?」
「いないいない。ユーレイ教諭みたいなモンだし。それよかさ、君ちょっとこっちおいで」
「え?あ、あの……!?」
ぐいっと腕を掴まれ、ベッドに座らされる。
「下向きな」
「え?それだと血が止まらないんじゃ……んむっ!」
「あい口答え禁止~」
僕の脚の間にしゃがみ込んだ先輩が手を伸ばして小鼻をキュッとつままれる。ぐっと距離を詰められた瞬間、ベルガモットみたいな甘酸っぱい香りを微かに吸い込んだ。これ、香水か?
「ちょ、血が付いちゃいますから……!」
「そんなん気にしないで良いからマジで。冷やすよ」
そっと鼻先に氷嚢を押し当てられると、さっきまで流れ続けていた血の流れが弱まる。
え、この人なんでこんな処置が出来るんだ?なぜか白衣は着てるけど、どう見ても先生じゃないし……。
少しの間そうされていると、血の流れが治まった。
「どお?」
「……治まり、ました」
「良かったじゃん」
「すみません、ありがとうございます。……あの!養護教諭の研修、とかですか……?」
見た目的に色々ツッコミたい所はあるけれど、とにかく一番聞きたい事を聞いた。
目の前の先輩は目をぱち、と見開く。次いで吹き出すのを堪えるみたいに肩を揺らした。
「あははっ!そんなワケないじゃんウケる~!君天然だね?」
「ちょ!指揺らさないで……っ!」
肩と一緒に俺の鼻を摘まんでいた指もぷるぷる震え出す。
「じ、自分でやります!」
ガッと先輩の手に自分の手を重ねる。
氷嚢を持っててくれたからかヒヤリと冷たい。
「も、もう大丈夫です!手当ありがとうございました!……あ、えっと……」
「いぶき」
「え?」

「俺の名前、宇佐見 一颯(うさみ いぶき)ってーの」

氷嚢を持った手を下ろして、宇佐見先輩は下から僕を覗き込んで三日月みたいに目を細めた。
窓から差し込む夕日に照らされた輪郭がなんだか綺麗で、つい目で追ってしまう。
「テキトーに一颯って呼んでよ。君は一年?」
「はい。茅ヶ崎晶真……です」
「晶真(しょーま)クンね、りょーか~い」
「あの。宇佐見……先輩は、何で白衣着てるんですか?」
「ああコレ?その辺のパクった」
「ええ!?」
「だーいじょうぶだって。センセーめったに来ないし。ってか、最早センセーより俺のが手当した回数多い的な?」
立ち上がって白衣を見せつけるみたいにくるりと回る。
ちょっとオーバーサイズなのか袖が少しだけ余ってる。
「それよか晶真クンさあ、なんかめっちゃ怪我してね?」
余った袖から伸ばされた指が、くいっと僕の顎下に滑る。
額、頬、手先……僕の身体は、正直かすり傷だらけだ。
「ただのかすり傷です。……その、僕色んな所によくぶつけてしまうんです」
「なにそれ?不幸体質的な?」
「まあそんな感じです。それに僕……勉強とか読書とか、何かに没頭すると時間を忘れちゃうんです」
「まさかそれで寝不足で注意力散漫になってどっかぶつけてんの?ウケんね、君」
「面白い要素ありましたか……?」
「いや別に?言っただけ」
「……」
急にスンッと真顔になられると間が持たない……そもそもこんなギャルみたいな先輩と話す小粋な話題なんか僕は持ってない。
「ん~……よし、決めた。晶真くんさ、今後怪我したらすぐここ来なよ」
「え?」
「俺が手当してあげる」
「ええ!?」
思わずばっと顔を上げる。な、なに言ってるんだこの人!?
「あ~その顔は疑ってるっしょ?俺、腕は確かだよ?」
親指と人差し指の間に顎を押し当ててにやりと微笑む先輩から目が離せない。
「俺、サボる時とか放課後とかここ入り浸ってるし。センセーとかマジ来たこと無いから」
「い、いやいいですよ!そんな大した怪我はしないですし!」
血が止まったので立ち上がると、くらっと一瞬眩暈がした。先輩はそれを見てつんっと俺のおでこを弾いた。
「ガリ勉ドジ君の言う事とか聞く意味ね~から。決まりな」
「……」
「これ先輩命令だから。ホラ、返事は?」
「……は、はい」

日の光に照らされた先輩の顔は言葉とは裏腹に優しくて、僕は頷くしかなった……。



そして、今日に至る。
僕の不幸体質が急に変わる訳もなく、常にすり傷を体に刻み続ける訳にも行かないから結局足繁く保健室に通って――宇佐見先輩に手当されている。
「こ、このくらい自分で出来ますから……!」
「肘とか自分で見えなくね?やったげるから動くなってーの」
出会った時と変わらず透明のマニキュアでコーティングされた爪で優しく肘を掴まれてガーゼを当てられる。
……本当、この派手な見た目でなんでこんなに手際が良いんだこの先輩。
「はい、終わり~」
「……いつもすみません。手当ありがとうございました。でも、もう大丈夫なのでこれで帰ります」
「え、なんで?」
「な、なんでって、もう保健室にいる理由無いですし」
「寝ていかないの?」
な、何を言い出すんだ急に。
確かに最近テスト勉強ばっかりしてて睡眠不足だけど……ここで寝たら何時間寝てしまうか分からない。それに、先輩にベッドに腰掛けて上目遣いで見つめられると、なんだか落ち着かない。
「僕はもう大丈夫です」
「大丈夫じゃないっしょ」
「え……うわっ!」
くいっと白衣の袖口から伸びた爪が俺の服の裾を掴んで引っ張られる。
とっさの事にバランスを崩して、あっという間に白い天井を見上げていた。
「目の下クマ出来てる」
凄く近くで囁かれた声にドキッと胸が高鳴る。
見るとベッドの枕元に足を投げ出した先輩の太ももに顔を乗せていた。
な、なんで僕は先輩に膝枕されているんだ!?
「またテスト勉強無理したんじゃない?」
腰を折って柔らかい指の腹で眦(まなじり)をつうーっと撫でられる。じっと赤茶色の目に見つめられると、訳もなく気恥ずかしくてふいっと顔を逸らす。
「……だって、点数、落としたく無いんです」
「だから毎晩遅くまで勉強してんの?効率悪すぎー」
「うっ」
ぺし、とおでこを弾かれて、次いで優しくさすられる。
「とりま寝とけば?テキトーに起こすし」
「い、いや!僕1回寝ると中々起きられないんです!」
「寝不足でぶっ倒れそーなヤツは勉強する資格ねーっしょ。これ、先輩命令な」
「あ、ちょ、眼鏡取らないで下さい!」
「ダメ~」
一瞬の隙をついてさっと眼鏡が取られる。手を伸ばしてみるが、先輩の方が手が長いから届かない。
「何回不調になっても俺が治してやるから、安心して寝とけよ」
窓から差し込む陽光を受けて優しく微笑む先輩を見ると、僕はいつも何も言えなくなってしまう。
「……なんで、先輩はそんなに僕の面倒見てくれるんですか?」
僕なんか不幸体質だし、どんくさいし、宇佐見先輩が気に入りそうな要素なんか持ってない……はずだ。
「え?放っとけないから的な?」
「何ですかそれ……」
「俺ここに入り浸ってっからさ~窓から晶真くんの事ちょいちょい見えてたんだよね」
僕の頭をゆっくりと撫でながら先輩は何でも無い事のように話し始める。先輩の香水なのか、ベルガモットみたいな甘酸っぱい香りを吸い込むと瞼が重くなる。
「なんだあのどんくさ眼鏡~とか思ってたんだけど。参考書とかノートとかさ、いっつも目の前の事に一生懸命過ぎて視野狭くなるタイプかもって思えるくらいには目で追ってた」
少し低い声色は穏やかで、目を開けていたいのにどんどん瞼が重くなる。
「疲れたんなら保健室(ここ)に来りゃいいのに。そうしたら俺が診てやるって思ってたらホントに来てくれた。接してみたらやっぱ放っとけね~……的な?」
先輩の頬がほんのりと色づいて見えるのは窓から差し込む落ちかけた夕日のせいか、僕の見間違いなのか、だんだん頭がぼうっとして分からなくなる。
あ、駄目だ寝る。
眠気に耐えられなくて、すっと瞼を閉じた。
「君って結構俺のタイプだし、いっちょ面倒見てやっか~って結構アプローチしてやったんだけど。……ああ、寝ちゃったか。まあいいや、お休み晶真くん」
恥ずかしそうに落とされたその声が現実なのか夢なのか、僕には分からなかった。

「……ん」
意識が浮上して薄っすらと目を開けると、視界いっぱいにキャメルブラウンの髪と長いまつ毛が映ってがばりと起き上がった。
「うわああ!!?」
なんで僕は先輩と同じベッドで寝ているんだ!?
「んん~……うるさ、なに?」
瞼を擦りながら先輩がゆっくりと起き上がる。
寝ぼけまなこを擦った先輩が肩を揺らして楽しそうに僕を見る。
「あはは、寝起きなのにちょー元気じゃん。おはよ」
「おはようございます。――って何時だ今!?」
「40分くらいしか経ってねーよ」
口元に手を当ててふわあ、とあくびをする先輩と保健室の壁掛け時計を交互に見て、寝過ごしていないことに安堵した。……はずなのに、まだ心臓がドキドキ鳴ってるのはなんでだよ。
気づけば空は鮮やかな夕焼けに染まっていて、保健室をオレンジ色に染め上げていた。丁度、初めて先輩と出会ったあの日みたいだ。
「……あの、ありがとうございました。だいぶ頭もスッキリしました」
「当たり前じゃ〜ん」
「せ、先輩。そのうち何かお礼します。いっつも世話になりっぱなしですし」
「え~マジ?じゃあお礼にハグしてよ、晶真くん」
「分かりました」
「えっ」
すっと手を伸ばして、宇佐見先輩の背に手を回してきゅっと抱きしめる。
僕の方が背が低いから先輩の肩口に顎を乗せる形になる。ああもう、なんか悔しいな。
「……晶真、くん?」
先輩の声が少し震えている気がする。なんでだろう。僕はこうしてると凄く心が落ち着くのに。
「人はハグすると1日の疲れが半分吹き飛ぶって話、本当ですね。……今、すごく落ち着いてます」
「……晶真くんって、本当、天然だよね」
「?何がですか」
なんで抱きしめ返してくれないんだろう。そういうものなんだろうか。
すっと身体を離す。
先輩は口元を覆い隠した。眼鏡が無いからよく見えないけど、もしかしてちょっと頬が赤い?

「それ、恋人とか好きな人にしか適応されないから」

…………。
「ええ!?」
恥ずかしそうに下を向く先輩につられて僕の顔もボッと赤く染まる。
顔が熱い。ていうか待て、僕は寝ぼけながら何をした!?
ああもう先輩の顔が見えないのがもどかしい!
「も、もう十分休めました!めっ、眼鏡返して下さい!」
「ヤだ」
「眼鏡無いと僕帰れないですよ!?」
「……帰んなきゃいいじゃん」
「へっ!?」
気のせいじゃない。
先輩の顔が赤いのも、夕日のせいなんかじゃない。
宇佐見先輩は僕の眼鏡の弦を手に持ったまま目を逸らしている。
僕はいままで先輩の事をそんな風に……恋愛対象としては見ていなかった、はずなのに。
「……晶真くん、俺になんか言う事あるんじゃないの?」
「あ、あります」
心臓がバクバクうるさい。
でも、今自覚したばかりのこの気持ちは、今伝えないときっと後悔する。だから――

「こっち向いて、宇佐見先輩」

「……」
そっと先輩が顔を覆っていた手をどかして僕を見つめる。赤茶色の瞳が夕焼け色に染まって潤んで見える。それを、もっと見つめたいから。

「ぼ、僕、先輩の事が――」

ドクン、と両者の恋に落ちる心音が夕暮れの保健室に響いた。

end