約束の日がやって来た。
 十二月二十八日。
 午前中で講習が終わることは知っていたが、まさか凍結をぐために水の元栓を止めるからだとは知らなかった。
 ちょっと学校で時間を潰して、と思っていた唯人は当てが外れてコンビニの敷地内でおにぎりを食べて昼を済ませた。
 直人も今日は外で食べるとかで、家で昼食の用意はないと朝の内に母から言い渡されていたのだ。
 晴れていたので、のんびりと通学路を辿る。
 この道とも四か月もすればお別れか。
 まあ、予備校に通っていなければの話だけど。
「あ、せんぱい!」
 午後一時の数分前。明海の高校の向かいにあるバス停に着くと、唯人を明海が嬉しそうな顔で迎えてくれる。明海も唯人も学ランの上にコートを着ていた。
 ぎこちない呼び方には慣れたが、部活に入っていない身からすると先輩と呼ばれること自体くすぐったい。
「今日はバスじゃないんですか?」 
「ちょっと用事があって、歩いて来たんだ。はい、手袋」
「ありがとうございます。でも、それなら、おれが貰いに行っても一緒だったじゃないですか」
「風邪引いたら困るだろ。今年のタチ悪いし。じゃあ、俺帰るから」
 目的は果たしたのだ。これ以上一緒にいる理由はない、と明海の脇を通り過ぎる。
「せんぱいの方こそ、風邪引いたら困るじゃないですか。受験生ですし。もっと自分のこと大事にしてください」
「ありがとな」
 身を捻って振り返り、そのまま行こうとすると、待ってください、と呼び止められた。
「あの、家族に友達来るって言ったら、初めてのことだって喜ばれちゃって。せんぱいさえ迷惑でなかったら、家に寄ってってくれませんか?」
 明海は困ったと言わんばかりの顔をしている。こういう顔をさせる家族に興味が湧いた。頷き返すと、表情が緩む。
 細い道を縦一列になって来た道を少し戻り、先程唯人が曲がって来た交差点を真っ直ぐ進む。雪が積もっている割に歩道の除雪が行き届いておらず、車が通らないときは車道を歩いた。
 他愛ない話を繰り返し、いくつも交差点を過ぎる。地図にも描かれていた目印の花屋を右に曲がって坂を下った。
 明海と過ごす時間は楽しい。一方で唯人のペースを読み、、先に先にと動いている風なのが少しだけ落ち着かない。
 疲れないんだろうか。
 明海の大きな靴跡を眺めてばかりいたせいで、止まったことに気づかず背中に頭からぶつかる。唯人は一歩後ろに下がり、顔を上げた。
「もしかして、見惚れてました?」
 明海はびくともせず、振り返った。ウインカーが消えないまま、交わった道から曲がって来た車が走り去る。子供のはしゃいだ声が耳に残った。
 ああ、冬休みか。
 関係ないことを思うのは、現実逃避だろうか。
 いたずらっぽい表情を浮かべている明海の表情に、今まさにそうなっている。でも、伝えるのは恥ずかしい。
「手でも繋ぎます?」
 人気のない道で伸ばされた手は自然だ。なんだか慣れているようにも見える。
 初めて会った日、手が触れ合ったことを思い出して手が伸びそうになった。
 今はお互い手袋を履いていない。
 冷気の中さらされた素肌を見つめ、あの熱を感じたいと思ったけれど。
「いや、いいよ」
 俯き、絞り出した言葉は意地から来たものだったのだろうか。
 意地? 何に対しての?
 思考は乱れ、まとまらない。
「そうですか。残念です。あともうちょっとですから」
 明海の家に着くまで、沈黙が続いた。
 話をするキッカケが欲しい。
 あの手を取っていたら、何かが変わっただろうか。
 考えても、答えは見つからない。
 ここまで来てようやく家族以外に親しく付き合って来たのは海太郎だけだったと気づいた。
 明海の少し丸まった背中を見つめても、海太郎の姿はもう重ならなくなっている。けれど、何を考えているのかは分からない。
 道には、雪を踏み分けて歩く二人分の足音だけが反響している。
 手袋、まだ預かってれば良かったな。そしたら、家まで行っても渡しただけで帰れたのに。
 ここです、と足を止めた明海に倣う。目の前の一軒家は、すりガラスの大きな窓や全体的なデザインが唯人の家と似ている。同じくらいの時期に建った家なのかもしれない。
「ただいま戻りましたー。これ、手袋です」
 唯人が観察している間に明海はドアを開け、さっさと中に入る。すぐについて行ったが、頭をぶつけて以来詰められない一人分の距離はどうしても遠く感じる。
 近づけるだろうか。
 心に冷たい風が吹き込んだように感じながら、唯人は靴を揃える。
「お帰りなさーい。わざわざありがとうね。って、あら?」
 背後から懐かしい声がした。思わず振り返る。
喜美江(きみえ)さん!」
「あら。やっぱり、ゆいくんだったのねえ。大きくなって」
「え。知り合い?」
 喜ぶ喜美江と目を丸くする明海を前に、唯人は頭が痛くなった。
 喜美江は海太郎の母親だ。海太郎は一人っ子だった。喜美江が離婚して再婚したのだとすれば弟がいてもおかしくはないが、どうだろう。
 せめて明海が今日家に来る友達の名前を事前に伝えてくれていたら。あるいは、何年も前に海太郎から来た年賀状を捨てずに持っていたらこんな事態は避けられたのに。
 海太郎が引っ越したとき、唯人はまだ中学生だった。学区の外に出てしまうととても遠くへ行くように感じていたから、距離のあるところに移ったのだと思っていた。
 歩いて行けるような場所に住んでいたなんて。
「お久し振りです。喜美江さん。俺は海太郎と幼馴染なんだけど、明海は喜美江さんとどういう関係?」
「明海くんは、甥っ子なの。それにしても、明海くんにコートを貸してくれたのがゆいくんだったとはねえ。みのりさん、嘆いてたわよ。やっと新しく買ったジャンパーに袖を通してくれたと思ったら、また古いコートに戻っちゃったって」
 そうか。海太郎と明海はいとこだったのか。その事実はすとんと胸に落ちた。似ていても不思議はない。
 情報をもたらした喜美江はまだしゃべり続けている。顔も若々しく、怒涛の勢いで話すところも変わらない。明海が圧倒されるわけだ。
 それにしても、唯人は海太郎と距離を置いていたというのに母親同士は今も連絡を取っていたのか。まるで自分が薄情者みたいだ。
「おばさん、せんぱいも受験生だし、あまり引き留めても」
 明海の声は玄関の隣の部屋からした。喜美江が会話に割り込まれたと気分を害した様子はない。瞳を輝かせ、唯人を真正面に(とら)える。
「えー。折角会えたんだもの。ちょっとお茶して行きなさいな。明海くんが急にマドレーヌの材料聞いてきたときは、もうびっくりしちゃって」
 喜美江の作るお菓子は確かに美味しかった。一番好きだったのはドーナツだったのですっかり忘れていたが、明海の作ったマドレーヌが懐かしかったのは喜美江のレシピだったからなのだ。謎が解けた。
「おばさん、おれ模試で分からなかったところ、せんぱいに聞く約束してるんで。お茶、二本貰って行きます」
「あら。そうなの? ゆっくりして行って。なんだったら、リビングでもいいわよ」
「せんぱい、上の部屋でお願いします!」
 戻って来た明海はペットボトルのお茶を一本唯人に渡すと急ぎ足に廊下へ消える。お辞儀をしてその後を追った唯人を、柔らかな笑みを(たた)えた喜美江が見送っていた。
  
「すみません。少しは落ち着きました?」
「一応な」
 唯人に案内された部屋は二階の小さめの洋室だった。小さなテーブルとカバンとダンボールが数箱。あとは畳まれた布団だけ。
 引っ越し中の部屋みたいだ。
「おれ、隣の市に住んでるんですけど、いい学校なくて。ここから通ってるんです。雪すごいと電車も止まっちゃうし。海兄は今おれと交換する形で、おれの家から大学に通ってて」
 言われるまで忘れていたが、海太郎は隣の市の大学に通っているのだと母と直人から聞いていた。少し海太郎との思い出が風化していたことを感じる。
 それと同時にここでも海兄と呼ばれているのか、とおかしくなった。
「せんぱい、笑ってる方が素敵です」
「え。俺、笑ってた?」
「笑ってましたよ。ちょっと嫉妬しそうです」
 冗談めかした顔に反して、言っていることは本心ではないだろうか。二回しか会っていなくても、直感がそう告げる。
 こんなに短時間で情報を得ようとした他人はいないから、確信とまでは言えないけれど。
 部屋を見回しただけで部屋がおかしいと思っていると察する辺りも、鋭いと言えばいいのか気を遣い過ぎだと言えばいいのか分からない。でも、唯人自身と似ている気がして。
 聞いてみようと思った。
 テーブルを挟んで真正面に見える顔にはあたたかさと、ちょっとの熱を感じたから。
「お前さ、俺のこと」
 静けさに期待と緊張を感じ、言葉に詰まる。一階から喜美江の声が聞こえた。
「ゆいくん、明海くん、海太郎帰って来たわよー!」
 よく通る声が、こんなに残酷に聞こえたことはない。一瞬だけ、指一本も動かせなくなった。
「ああ。来ちゃいましたね。もっと後だって聞いてたんですけど」
 明海は立ち上がり、テーブルを片付ける。
 いつかは避けられなくなると知っていたけれど、まさかこんなタイミングでそのときが来るなんて。
 やっぱり家に上がるんじゃなかった。
「すみません、せんぱい」
 そして明海の謝る声に、どうしてこんなにこいつは俺の心の動きに敏感なんだろうと思わずにはいられなかった。

 二人揃って部屋を出て、玄関に向かう。明海もカバンを持っていた。お茶のボトルは口を付けられないまま、明海の手に掴まれて二本とも揺らされている。水滴が床に落ちそうだった。
「久し振り。二人とも」
 海太郎は玄関の壁にジャケットを掛けていた。二年数ヶ月ぶりの海太郎は、背が更に伸びて落ち着いた顔つきになった。声が変わっていたら別人だと信じるくらい印象が違う。
 跳ねてばかりいた髪も綺麗にセットされているし、コンタクトに変えたせいもあってかいかにもモテそうだ。
 今は高校時代までと変わらずよれたセーターにジーンズという姿だが、学ランより断然スーツが似合う。直視した一瞬で更に遠い存在になったように感じた。
「久し振り、海兄。元気そうだね」
「ああ。後ろにいるの、唯人か?」
 唯人の前に立っていた明海は更に一歩前へ出て、唯人をかばうようにする。初めて聞くタメ口に、こんな感じで普段は話すのかと嬉しくなった。
 目の前の海太郎への好きという気持ちが少し薄れる。同時に避けたかった気持ちも、どこか遠くへ行きそうになった。
 まだ、完全になくなってはいないけれど。
「久し振り。カイ。なんていうか、カッコよくなったな」
 明海の横へ逸れて、海太郎に話し掛ける。明海が身を硬くし、さり気なく唯人を窺ったのが分かった。
「何だ。それ。もっと語彙増やせよ、文系だろ」
「理系だけど何でも読むカイとは違うんだよ。最近じゃ、直人の方が難しい本読んでるって母さん嘆くくらいだし」
「そうなのか?」
 なんだ。普通に話せてるじゃないか。
 気が緩んだら、表情も柔らかくなった気がする。
 海太郎は軽く雪を払い、荷物を床に置いた。
「母さん、部屋に荷物持って行ったら昼食いに出る。その前にちょっと唯人と話したいから、部屋に上がってもらっていいか?」
「あら。そうなの。久し振りだものねえ。明海くんはどうする?」
「まだせんぱいには聞きたいことがあるし、リビングで待たせてもらってもいいですか?」 
「それはいいけど、海太郎、ごはん要らないならもっと前に言いなさい! 勿体ないでしょ!?」
 ああ。喜美江さんでもこうやって怒ることがあるのか。
「行くぞ」
 ずんずん進む海太郎について行く。
 手を振ると明海は手を振り返してくれたが、顔が強張っていた。

 連れて行かれたのは、先程明海と入った部屋だった。
「ここ、カイの部屋なの?」
「ああ。うち部屋数多くないからな。俺も大学に行ってる間は明海の部屋を使わせてもらってる」
 明海の荷物が積まれていることなど気にならないかのように、海太郎は部屋の真ん中辺りに座る。カバンを置くのも無造作だ。唯人は距離を保って向かいに座る。
 数分前まで明海とこの部屋で向き合っていたときは、穏やかに時間が流れていた。合わせてもらっていたんだなあと実感する。
 海太郎は独自のリズムを崩さずそこにいて、唯人も別のリズムのまま正面にいる。昔から変わらない、一人と一人が空間を共有しているだけの時間だ。
「直人とのこと、怒ってるか?」
 単刀直入な問いかけは、海太郎らしい。唯人は苦笑する。
「怒ってはいないよ」
「じゃあなんで避けてた」
 間髪入れない。結論を急いでいるわけではなく、海太郎が単に疑問を放置できない性分だというだけだ。
 うーん。その証拠に、唯人が時間を稼ぐように言うのを責めることもしない。待つわけではなく、ただじっと見ている。
 だから正直に答えることにした。
「分からなくて。今は、もうちょっとで答えを見つけられそうな気がしてるんだけど、まだちょっと」
「そうか」
 観察するような瞳は静かだ。この真っ直ぐさが好きだ、と今も思う。同時に明海に対しては色々感情が動かされるのに、どうして海太郎に対してはそうじゃないんだろう、とも。
「答えが分かったら聞かせてくれ。そろそろ行かないと遅れる」
「もしかして直人?」
 立ち上がった海太郎を見上げる。一瞬にして海太郎の頬が緩んだ。海太郎の皮を被った別人だと言われたら信じそうなほど、顔つきが変わる。
「ああ」
 答える声さえ、唯人の知らない声だ。柔らかい。
 これが、恋か。
「なんだ。笑うな」
「ごめんごめん」
 直人、内心そわそわしてたんだろうなあ。
 部屋を出ても、唯人は笑みを隠せなかった。

 ポーカーフェイスに近い普段通りの表情に戻った海太郎は廊下を進み、迷いなく玄関に到達した。
 靴を履き終わるとジャケットを手にし、視線だけを唯人に寄越す。
「メールアドレスも電話番号も変えてない。連絡くれ」
 意外なことを言う、と唯人は目を丸くした。だが、当然かもしれない。相手は気になることはとことんの海太郎だ。
「分かった。俺の方も変わってないから」
 ふ、と笑い、海太郎は玄関を出て行った。唯人に笑い掛けるなんて、珍しいこともあるものだ。
 まあ、これから直人と会うんだし、気くらい緩むか。
 唯人が笑みを殺せずにいると、喜美江がリビングから顔を覗かせた。明海も出て来る。
「あら。海太郎は?」
「もう出ました。俺も帰ります。長居しちゃってすみませんでした」
「おれも帰ります」
「あらあら。そんなのいいのに。またいらっしゃいな。明海くんもまた来年ね」
 喜美江に頭を下げている間に、明海は靴を履き始めた。唯人も合流する。
「はい。今年もお世話になりました」
 明海も一度頭を下げると、すぐ唯人に向き直った。
「せんぱい。途中まで一緒に行ってもいいですか?」
「ああ」
 涼し気な顔をしているのが信じられない。
 断る理由も見つからず、唯人は来たときと同じように明海の後ろを歩いた。

 ◆

 バス停を過ぎ、あと数分で家に着くところまで来た。明海の足が心なしか鈍っている。
 さっきの続き、だよなあ。
 答えなくてはと思ったところでテストの答案のように勢いで埋めてしまうわけにはいかない。
 足跡を辿っていた唯人は、またも明海の背中にぶつかった。駐車場の前だ。けれど、車の音はしない。年末が近いこともあってか、近隣の家々も静まり返っている。
 明海が何も言わないので、様子を窺う。吐いた息が白く立ち上っていた。
「せんぱい、ちょっといいですか」
「ダメ」
「どうしてですか」
「まだはっきりしないことがあるから」
 勢いよく明海が振り返る。切羽詰まった顔をしていた。
 海太郎もこんな顔で直人に好きな人を諦める話をしたんだろうか。
「海兄のことですか」
「そうだよ」
 雪がちらつき始めた。いつもなら車がたくさん止まっている駐車場も今日は閑散としている。そこに腕を引っ張って連れ込まれた。
「おれの気持ち、分かってるんですよね?」
「たぶん」
「言葉にしなきゃ分からないなら、言います。せんぱいは海兄のことが好きなのかもしれないですけど、おれ、」
 言わせてはいけない気がした。関係が変わってしまうのが嫌だからではなく、明海の真剣な思いを受け止める勇気がまだ唯人にあるとは思えなかったからだ。
「先に言っておくと、俺はたぶん恋をしたことがない。でも、カイのことが好きだし、明海、お前のことも好きだ」
 明海は下唇を強く噛んでも、言葉を待つことにしたらしい。本当に真っ直ぐで、悲しくなった。
「カイとお前に対しての『好き』の違いがまだ分からない。それに、カイについてはまだ解決してない問題がある。最低でも、それを終わらせないとお前には応えられない」
 我ながら勝手だ。明海は視線を逸らし、言葉を探している。唯人は肝心のことを伝えていないと思った。
「俺はお前を好きだと思ってる。真っ直ぐだと思ってる。だから、できればお前と同じくらい真っ直ぐな相手と恋をしてくれたらと思ってる。どうして俺のことを好きなのか分からないし」
 結局は自分に自信がなくて、返せるものがないのだ。
 唯人は目を伏せた。殴られるのでも、怒鳴られるのでも、覚悟はしよう。酷いと思って去ってくれるなら、それが一番だ。
 明海は引っ張ったままだった腕に一度力を籠めた後解放し、唯人との距離を詰めた。そして、体が(きし)むくらい唯人を抱き締める。
「本当に、勝手です。おれの思い、なかったことにしないでください」
 耳元で囁く声は吐息と変わらない。着ている服が違ったらぬくもりが伝わっただろうか。
「好きです。好きです。何回だって言います。おれ、せんぱいのことが好きなんです。海兄のことが好きだってことは、性別は気にならないってことでしょう? だから、それを理由に振らないでください」
 抱き締め返したい思いはあるが、それはできない。ただ、されるがままになる。
「せんぱいは知らないでしょうけど、おれ、一昨年の夏休み最後の日にせんぱいに会ってるんですよ。海兄が弁当忘れて、ちょうど海兄の家に遊びに行ってたおれが高校まで届けに行ったんです」
 いよいよ雪の降りが酷くなる。視界の隅に映った明海の髪も白く染まって来た。離さないと言うように、腕に力が籠って、いよいよ体が痛くなる。今まで加減されていたのかと唯人は驚いた。
「別におれのことなんてどうでもいいじゃないですか。なのに、一緒に職員室まで行ってくれました。遅刻しますって言っても、勉強より困った人の方が大事だって。そんなお人好しいます? 心配になりました」
「どこにも好きになる要素ないじゃないか」
 肩に顔を載せてくる。髪についた雪くらいは払ってやりたいが、この格好ではそれもできない。
「それでも、その無償の優しさが忘れられなくて。自分にないから惹かれてて。去年再会できて嬉しくて。そのお人好しさとか、色々考え込んで面倒臭そうなのに、真正面から人と向き合おうとする姿勢が改めて好きになりました。絶対に逃げないところが格好いいんです。人に嫌な思いをさせないようにとか、気遣いが前面に出てるのに嫌味じゃないところが素敵だと思ってるんです。照れ屋で、必ず反応を返してくれるところも可愛いと思ってます」
「男に可愛いはないだろ……。それに気を遣い過ぎるのはお前の方だし。美化しすぎだって」
「ほら、そういうところですよ。八方美人なんて言われない、不器用であったかい心が愛おしいんです」
 ここまで言われたら混乱してしまう。人はどうやったら、こんな美しい言葉で人を褒められるのか分からない。
 お手上げだ。
 たった三回……いや、明海の言葉では四回目になるのか。そのくらいしか会っていないのに、どうしてこんなに強い思いが育つのか。
 これが恋だって言うなら、向き合わないと。ちゃんと。
 気が済むまでこうされていようかとも思ったが、雪の粒が大きい。いわゆる牡丹雪だ。ふわふわとした雪はすぐに肌の上で溶ける。このまま二人立っていたら風邪を引いてしまうだろう。
「明海、離してくれ」
 首を振る。濡れた髪が首筋を撫でた。あんな情熱的な告白をしたとは思えない、幼い動きだ。
「逃げないから」
「本当ですよね?」
「お前、さっきの自分の言葉が嘘じゃないなら離せるだろ」
「……(ずる)いです」
 素直に体を離した明美の髪に載った雪を払う。それさえも嬉しそうに明海は目を細める。髪も濡れているし、心配だ。
「一旦うち寄れ」
「気持ちは嬉しいんですけど、傘貸してもらえれば十分ですよ。必ずカバンに折り畳み傘が入ってて、壊れたら困るからもう一本家に常備してるんでしょう?」
「なんでお前、そんなこと分かんの」
「あれ? 図星でした?」
 きょとんとしている。カマをかけたらしい。唯人は溜め息を吐いた。
「性格悪いって言われないか?」
「せんぱいくらいですよ。おれ、八方美人らしいんで」
 ああ。なるほど。気を遣うのは性分だけど、誰からも良く思われたいから素は曝したくない、あるいは曝せないわけか。確かに俺は都合のいい存在かもしれない。
「せんぱ……唯人さんのことなら大体分かるようになりたいんで。必死なんです」
 名前を呼ばれたことよりも、はにかんだ顔の破壊力にノックアウトされそうになる。
 悪い想像してごめん。これ、そんなことないやつだ。
 その場にしゃがみ込みたくなるのをこらえ、折り畳み傘を開いて渡す。
「あんな告白いきなりされたら、どうしたらいいか分からないだろ。少し時間をくれ。センター試験まで一ヶ月もないし、二次試験までだって二ヶ月切ってる。その間出来れば連絡も取らないで欲しい。その」
 これが恋だって確信持てなくてごめん、と口を開き掛け、言葉を変えた。
「お前の思いは、ちゃんと信じてるから」
 明海は口を開けては閉じて、最終的には頷きだけを返して来た。泣き出しそうな顔をしていた。感極まると明海でも言葉が出なくなるのか、と唯人は感心してしまう。
「じゃあ……また。おれの家、すぐそこだから」
「はい」
 明海は手を振ってくれた。唯人も手を挙げて応えて、帰路を急ぐ。
 これで落ちたなんて、情けなくて明海の前に立てない。
 唯人の顔に迷いはなかった。