コートを貸してから一ヶ月あまりが経った。
心配していた中間考査は遠い過去になった。今は期末試験の答案が揃うのを待っている。
一日欠かすだけで不安が増しそうで、毎日勉強は続けていた。おかげで模試の結果も悪くない。
それでも、ちょっとでも時間が空くと考えてしまう。
どうして海太郎と直人のことを祝福できなかったのか。
どうして胸が痛むのか。
全て海太郎のことが好きで起こったことなのか。
彼はコートをどうしたのか。
彼がしたことに過剰に反応していたのはどうしてなのか。
コートに関してはもう忘れるか捨てるかして欲しいくらいなのに忘れられなくて困る。
それでも一つ分かっているのは、こういうことを深く考えたくないから勉強で誤魔化そうとしているらしいことだ。
やっぱり逃げようとしている。
ただ今回に関しては成績向上に繋がっている以上、喜ぶべき事態なのかもしれない。
今日は土曜日だが、模試を受けるために唯人は学校に出ていた。
学校前の細い道路を渡り、バス停前に立つ。他に待っている人がいないのは親が迎えに来るからだろうか。
土日祝はバスの本数が少なくなるので、バス停で時刻表を確認する。こういうとき、スマートフォンを忘れたのは痛手だ。
しばらく来ないようであれば教室に戻らず歩いて帰ろうと思ったが、あと十分ほどで来るらしい。
久々に晴れているし、幸い今年はまだ雪も積もっていない。それでも十一月も下旬に入ると気温は低く、吐いた息が白くなった。
今着ているジャンパーも寒くはないが、着慣れたコートが少し恋しくなる。
参考書を取り出し、勉強しようとしたところで雪がちらつき始めた。目の前を車が通ると、他に覆うもののない顔の皮が突っ張る。
誰かが来たら、道路に背中を向けてバスを待ってるなんて変な奴に見えるんだろうけど。
ちょっとだけと自分に言い聞かせ、参考書をしまってから向きを変える。後ろの家の生け垣が正面に見えた。
この前、ここでコート羽織らせたんだよな。
思い出すと、自身の発言の恥ずかしさも相まって頬に熱が熱くなる。
あいつ、どうしてるんだろう。
目を伏せると、背を丸めた後ろ姿が浮かぶ。大概こうして思い出すときは海太郎だ。だけど、どこか違う。ゆっくりと振り返ったその顔は――――。
「やっと会えました。せんぱい」
唯人は固まった。思い描いていた顔が、目の前にある。
コートから覗いた学ランの襟元のバッジを見て、直人と同じ学校だったことを知った。寝てる間に降りるバス停を過ぎたから、出会ったのか。
「信じてなかったんですか?」
いや、と否定する声はとても自分の口から出たものに思えない。目も耳も、特殊な力で蓋をされてしまったように彼のことばかり優先して捉えている。先程までは近づく足音にも気づかなかったのに。
「これ、ありがとうございました」
彼が手にしていた紙袋を差し出す。呆然としたままそれを受け取る。思っていたより重い。
クリーニングに出したら時間が掛かったとか、今の時期三年生は夕方に講習があるのを知らなくて擦れ違っていたとか。会えなかった理由を細かく教えてくれるが、顔を見るだけでいっぱいいっぱいだ。
今、こうして会っていることが信じられない。そして、それに喜びを感じているらしい自分に混乱する。
脳の処理能力をオーバーし、放心状態の唯人を前に彼は手をひらひらと振った。徐々に理性が働き出して、やっと彼がいたことを思い出す。彼は意識が戻って来たことを確認し、小さく笑った。
「底の方に少しですけど、マドレーヌ入れておきました。良かったら食べてください」
マドレーヌ。その単語には反応する腹が恨めしい。風が吹き抜けて行ったので、一緒にこの音も連れ去ってくれないかと真面目に思う。
「お好きみたいで何よりです。美味しければいいんですけど」
穴があったら入りたい。耳まで熱くなる。
ちらりと横を窺うと、尻すぼまりの声を発した彼も同じように赤くて、口元がにやけそうになった。
ほんと、なんだこれ。
二人の間に沈黙が落ちる。
いたたまれないが、バスはまだ来ないし彼も去る気配がない。
腹が更に大きな音で鳴った。本当は返そうかと思ったが、紙袋を一度受け取った以上マドレーヌだけを返すのは礼儀に反するような気もする。
「い、ま、食べてみても、いい?」
唐突過ぎるだろ、俺。声が裏返るのだけは阻止したが、それだけだ。一秒過ぎるだけで寿命が一年縮むんじゃないか、というくらい緊張する。
どうぞ。言った彼にも唯人の心が伝わってしまったのか、表情が硬い。
紙袋の中に手を入れ、コートの下からラッピングされた小ぶりのビニール袋を取り出す。袋の立てる音がいやに大きい。手が微かに震えるのに気づかれないように、やや乱暴にリボンを解いた。
中のマドレーヌは五個ある。唯人よりは直人の方が甘いものが好きだし、唯人自身こんなに多くは食べられない。家に帰ったら半分こしよう。
一番小さく見えたものを摘まんで、齧った。バターが香り、口の中いっぱいに甘みが広がる。
どこで食べたか思い出せないが、懐かしい味に近かった。けれど、それよりも美味しい。これなら全部食べられる。よし、直人に内緒でこっそり食べてしまおう。
彼が見守っていることに気づいたのは、マドレーヌがお腹の中に消えてしまった後だった。
彼はすごく真剣な顔をしている。探すのに苦労したのかもしれない。
「とっても美味しかった! なんか悪いなあ。コート洗ってもらった上に、マドレーヌまで貰っちゃったし」
正直に伝え、指先を舐める。残った欠片さえ勿体なかった。
彼はそっぽを向いてしまう。
「ありがとう、ございます。作り手冥利に尽きます」
「え、作り手ってことは、作ったの? でも、こういうのって大変なんじゃない?」
ますます勿体なくなった。別に作り立ての熱が残っているわけでもないのに、何かが逃げてしまう気がして急いで紙袋の底にビニール袋を仕舞う。一日一個ずつ食べよう。
「そんなでもないです。おれ、大雑把なんで。簡単に作れそうなもの探して」
「いや。作ってみようとか、調べたら作れるんじゃないかって思うこと自体すごいって!」
唯人の輝く瞳を前に、彼は視線を泳がせた。余裕がある笑みばかり見ているので、こういう表情はとても新鮮に映る。唯人は食い入るように彼の顔を見つめた。
道路を車が通って行っても、寒さなんて一切気にならない。
「今はレシピも手元にないので教えられないですけど、今度教えましょうか?」
どうやら彼は、作ったこと自体よりもマドレーヌに興味があると思ったらしい。
この味ならまた食べたいが、また作ってもらうような仲でもない。自分で作れたら嬉しいが、初心者でも作れるものだろうか。
「あ。でも、せんぱいの連絡先知らないし、URL送れないですよね。会って教えるにしてもスケジュール合わせられないですし」
唯人の返事を待たずに、一歩先の話をされる。もうマドレーヌの作り方を教える流れになったのだろうか。それとも、常に一歩先を考える癖があって、教えることになったら困ることを挙げただけ?
「どうしましょう、せんぱい」
「えっと、とりあえず、マドレーヌの作り方は教えて欲しい。ただ連絡先はスマートフォン忘れてきちゃったから、電話番号も分からなくて」
振り返った彼は自分の元通りの雰囲気だが、唯人はついていけず言葉を確かめるように返すので精一杯だった。彼は話の途中でカバンを探り、紙とペンを取り出すと数字を書き付けて唯人に渡す。
「おれの連絡先です。気が向いたら連絡ください」
角の向こうからバスが来る。彼は「それじゃ、せんぱい」と来た道を帰って行った。
完全に彼のペースだ。
なんなんだ一体……。
唯人はバスに乗り込むと、空いた席に力なく座り込んだ。
◆
夕飯が終わってから唯人は、紙袋の中身を取り出し唸っていた。
コートとマドレーヌはいい。
特にコートに至っては、手直しまでしてあった。縫った人間の丁寧さが現れている間隔の短い縫い目は、遠目には分からないもののやや不揃いな箇所があるものの次第に上達したのが窺える。
裏地が破れていることに気づいて、とりあえず縫い留めた自分とは大違いだ。
問題はいかにも高そうな生地の、クリーニング済みの男物の手袋だ。
間違って一緒に俺に渡しちゃったんだろうなあ。
勉強机の上には、連絡先が書かれた紙とスマートフォン。いつでも彼に連絡できる。
腹を決め、連絡先をスマートフォンに登録してやっと気付いた。
彼の名前も知らない。
連絡したとして、俺だってちゃんと分かるんだろうか。冷静になれば、自分の名前だって伝えていない。
今日のうちに何人にも連絡先を教える可能性は低いから、送るなら今日のうちだよなあ。
揺らぎ始めた心に気づかなかったフリをして、SMSを起動する。
『初めまして。今日の夕方バス停で連絡先を教えてもらった多竹です。今日は、』
あと伝えるのは手袋のことと、マドレーヌのお礼と……。
慣れない操作にもたもたしているうちに、うっかり送信してしまう。
SMSなら時間のあるときに見てらえると思ったのが仇になった。これなら電話の方がましだったかもしれない。
続きの文章を考えている間に既読がつき、返信が来た。
『はじめまして。野々里明海(あけみ)です。よければ下の名前で呼んでください』
あ、そっか。下の名前も書くべきだったのか。
「おれ、も、かく、べき」
声にしながら文字を打つ。初めてスマートフォンを手にした父と全く同じ行動を取っていて、情けなくなる。
普段は電話ばかりで、誰かにこうして連絡するのも久し振りだったことに今気づいた。
『ところで下のお名前は?』
こちらからメッセージを送る前に、明海から送られてきてびっくりする。嫌ではないが、心の裏側を覗く能力でもあるんじゃないかと思ってしまう。
俺が分かりやすいだけ?
またも考え込んでしまいそうになり、我に返った。あまり返事を待たせてもいけない。
『唯人(ゆいと)です』
『唯人さん、ですね。ところでなんで敬語なんですか?』
『慣れなくて』
『ずっとタメ口だったじゃないですか。こっちの方が緊張しちゃいます』
「あ、け、み、でも、緊張、する、の?」
明海の返信は早い。一文字一文字噛み締めるように打っているので、遣り取りは時々途切れる。
それでも画面の前にくっついているのか、すぐに返信が来る。焦りから妙な汗が出そうだ。
『緊張しますよ。唯人さん相手なら』
どういう意味!?
聞けず、机に突っ伏す。額を強く縁にぶつけ、呻いた。唯人の反応を窺うかのように、メッセージが来なくなる。
明海のペースに振り回されてばかりだ。
なんと返すか悩んで数分経つと、着信音が鳴った。
『やっぱり、先輩って呼びます。緊張しちゃって』
緊張から離れてくれ! 俺の方が緊張する……。
今の唯人の心理状態を絵で表すなら、床を転げ回っている図になるだろう。内心が伝わらないのはありがたい。
『そんな風に見えないけど。ところで、さっき袋見たら中に手袋入ってたよ。なくて困ってない?』
必死に頭を働かせ、文章を練り上げる。送信すると、既読がついたものの返信まで間があった。
椅子に背を預けて重心を後ろに傾ける。小学校から使っている椅子だ。軋む音も年々大きくなる。転びそうになる寸前で重心を戻すと、待っていたと言わんばかりにスマートフォンが鳴った。
驚いてバランスを崩しかけ、机の上に両手をついて耐える。手がジンジンと痛みを訴えたが、気にしてはいられない。スマートフォンの画面を眺めた。
『困ってませんが、うちのみたいです』
『じゃあ、住所教えて』
『郵送するつもりですか?』
また先回りされた。これは絶対俺が分かりやすいんじゃない。向こうがエスパーなだけだ。
『お金掛かるじゃないですか。取りに行きます』
「ダメだって!」
思わず口から言葉が出た。本当になんで電話にしなかったんだろう。
今更電話に切り替えるのも変な気がして、唯人の指はまたスマートフォンの上を彷徨う。
『家に届けに行くよ。場所どこ?』
既読がついたきりになった。
このやりとりが終わったら、勉強しないといけないんだよなあ。
集中できる気はしないが、ワークやら参考書やらを机の上に広げる。あと五分返信が来なければ勉強しよう、と待ち始めると着信音がした。
「あ、ここって」
画面に映っていたのは、簡単に描かれた地図だった。余白に住所も書いてある。バスに乗って明海の高校前で降りるのであれば、唯人の高校から定期券を使って行ける。
だけど、おかしい。
明海の家からだとバスを使って高校に行く場合は、同じ路線だったとしても唯人の高校方面から駅の方へ戻るバスに乗ることになる。
何か事情があるんだろうな。
その辺のことには知らないフリをして、唯人にとっての最速で返信を送る。
『ここ、俺の家からそんなに遠くないな。いつがいい? 夜か朝早くだとご迷惑になるよね?』
『本当に急ぎませんから。いつも使っているものは別にあるみたいで。片づけしてたら出て来たからクリーニングに出しただけだって言ってました』
夜や朝だと迷惑になるということだろうか。
机の抽斗を開け、予定表を取り出す。先生たちが自主的にセンター試験の対策講座を開いてくれるのはありがたいが、おかげで放課後はかなり遅い時間でなければ明海の家を訪ねるのは難しい。
土日は模試があるしなあ。
十二月は予定が詰まっている。年末を除けば、一日だけ午後の空いている日があるだけだ。
『十二月の二十八日の午後なら空いてるんだけど、遅すぎるよな?』
勝手に郵送するのもありかもしれない。封筒は母さんから貰うとして……、と考えている間にまた返事が来る。
『遅くないです。その日なら友達が来ても大丈夫だって言ってます』
『二回しか会ってないのに、友達?』
『違和感ないようにそう伝えただけです。それに、回数なんて関係ないじゃないですか』
違う。そこじゃない。
唯人は友達という表現が引っかかっていたのだ。嫌なわけではないからこそ腑に落ちない。
待ち合わせ場所と時間はすぐに決まった。
『気分悪くしてたらごめん。あと、俺、そろそろ宿題やらないと』
『すみません、おやすみなさい』
返事が来てやりとりは終了した。
なんで明海に関わると疑問ばかりが増えるんだろう。
もやもやとした何かを追い払うように深呼吸を繰り返し、落ち着いたところで机に向かった。
心配していた中間考査は遠い過去になった。今は期末試験の答案が揃うのを待っている。
一日欠かすだけで不安が増しそうで、毎日勉強は続けていた。おかげで模試の結果も悪くない。
それでも、ちょっとでも時間が空くと考えてしまう。
どうして海太郎と直人のことを祝福できなかったのか。
どうして胸が痛むのか。
全て海太郎のことが好きで起こったことなのか。
彼はコートをどうしたのか。
彼がしたことに過剰に反応していたのはどうしてなのか。
コートに関してはもう忘れるか捨てるかして欲しいくらいなのに忘れられなくて困る。
それでも一つ分かっているのは、こういうことを深く考えたくないから勉強で誤魔化そうとしているらしいことだ。
やっぱり逃げようとしている。
ただ今回に関しては成績向上に繋がっている以上、喜ぶべき事態なのかもしれない。
今日は土曜日だが、模試を受けるために唯人は学校に出ていた。
学校前の細い道路を渡り、バス停前に立つ。他に待っている人がいないのは親が迎えに来るからだろうか。
土日祝はバスの本数が少なくなるので、バス停で時刻表を確認する。こういうとき、スマートフォンを忘れたのは痛手だ。
しばらく来ないようであれば教室に戻らず歩いて帰ろうと思ったが、あと十分ほどで来るらしい。
久々に晴れているし、幸い今年はまだ雪も積もっていない。それでも十一月も下旬に入ると気温は低く、吐いた息が白くなった。
今着ているジャンパーも寒くはないが、着慣れたコートが少し恋しくなる。
参考書を取り出し、勉強しようとしたところで雪がちらつき始めた。目の前を車が通ると、他に覆うもののない顔の皮が突っ張る。
誰かが来たら、道路に背中を向けてバスを待ってるなんて変な奴に見えるんだろうけど。
ちょっとだけと自分に言い聞かせ、参考書をしまってから向きを変える。後ろの家の生け垣が正面に見えた。
この前、ここでコート羽織らせたんだよな。
思い出すと、自身の発言の恥ずかしさも相まって頬に熱が熱くなる。
あいつ、どうしてるんだろう。
目を伏せると、背を丸めた後ろ姿が浮かぶ。大概こうして思い出すときは海太郎だ。だけど、どこか違う。ゆっくりと振り返ったその顔は――――。
「やっと会えました。せんぱい」
唯人は固まった。思い描いていた顔が、目の前にある。
コートから覗いた学ランの襟元のバッジを見て、直人と同じ学校だったことを知った。寝てる間に降りるバス停を過ぎたから、出会ったのか。
「信じてなかったんですか?」
いや、と否定する声はとても自分の口から出たものに思えない。目も耳も、特殊な力で蓋をされてしまったように彼のことばかり優先して捉えている。先程までは近づく足音にも気づかなかったのに。
「これ、ありがとうございました」
彼が手にしていた紙袋を差し出す。呆然としたままそれを受け取る。思っていたより重い。
クリーニングに出したら時間が掛かったとか、今の時期三年生は夕方に講習があるのを知らなくて擦れ違っていたとか。会えなかった理由を細かく教えてくれるが、顔を見るだけでいっぱいいっぱいだ。
今、こうして会っていることが信じられない。そして、それに喜びを感じているらしい自分に混乱する。
脳の処理能力をオーバーし、放心状態の唯人を前に彼は手をひらひらと振った。徐々に理性が働き出して、やっと彼がいたことを思い出す。彼は意識が戻って来たことを確認し、小さく笑った。
「底の方に少しですけど、マドレーヌ入れておきました。良かったら食べてください」
マドレーヌ。その単語には反応する腹が恨めしい。風が吹き抜けて行ったので、一緒にこの音も連れ去ってくれないかと真面目に思う。
「お好きみたいで何よりです。美味しければいいんですけど」
穴があったら入りたい。耳まで熱くなる。
ちらりと横を窺うと、尻すぼまりの声を発した彼も同じように赤くて、口元がにやけそうになった。
ほんと、なんだこれ。
二人の間に沈黙が落ちる。
いたたまれないが、バスはまだ来ないし彼も去る気配がない。
腹が更に大きな音で鳴った。本当は返そうかと思ったが、紙袋を一度受け取った以上マドレーヌだけを返すのは礼儀に反するような気もする。
「い、ま、食べてみても、いい?」
唐突過ぎるだろ、俺。声が裏返るのだけは阻止したが、それだけだ。一秒過ぎるだけで寿命が一年縮むんじゃないか、というくらい緊張する。
どうぞ。言った彼にも唯人の心が伝わってしまったのか、表情が硬い。
紙袋の中に手を入れ、コートの下からラッピングされた小ぶりのビニール袋を取り出す。袋の立てる音がいやに大きい。手が微かに震えるのに気づかれないように、やや乱暴にリボンを解いた。
中のマドレーヌは五個ある。唯人よりは直人の方が甘いものが好きだし、唯人自身こんなに多くは食べられない。家に帰ったら半分こしよう。
一番小さく見えたものを摘まんで、齧った。バターが香り、口の中いっぱいに甘みが広がる。
どこで食べたか思い出せないが、懐かしい味に近かった。けれど、それよりも美味しい。これなら全部食べられる。よし、直人に内緒でこっそり食べてしまおう。
彼が見守っていることに気づいたのは、マドレーヌがお腹の中に消えてしまった後だった。
彼はすごく真剣な顔をしている。探すのに苦労したのかもしれない。
「とっても美味しかった! なんか悪いなあ。コート洗ってもらった上に、マドレーヌまで貰っちゃったし」
正直に伝え、指先を舐める。残った欠片さえ勿体なかった。
彼はそっぽを向いてしまう。
「ありがとう、ございます。作り手冥利に尽きます」
「え、作り手ってことは、作ったの? でも、こういうのって大変なんじゃない?」
ますます勿体なくなった。別に作り立ての熱が残っているわけでもないのに、何かが逃げてしまう気がして急いで紙袋の底にビニール袋を仕舞う。一日一個ずつ食べよう。
「そんなでもないです。おれ、大雑把なんで。簡単に作れそうなもの探して」
「いや。作ってみようとか、調べたら作れるんじゃないかって思うこと自体すごいって!」
唯人の輝く瞳を前に、彼は視線を泳がせた。余裕がある笑みばかり見ているので、こういう表情はとても新鮮に映る。唯人は食い入るように彼の顔を見つめた。
道路を車が通って行っても、寒さなんて一切気にならない。
「今はレシピも手元にないので教えられないですけど、今度教えましょうか?」
どうやら彼は、作ったこと自体よりもマドレーヌに興味があると思ったらしい。
この味ならまた食べたいが、また作ってもらうような仲でもない。自分で作れたら嬉しいが、初心者でも作れるものだろうか。
「あ。でも、せんぱいの連絡先知らないし、URL送れないですよね。会って教えるにしてもスケジュール合わせられないですし」
唯人の返事を待たずに、一歩先の話をされる。もうマドレーヌの作り方を教える流れになったのだろうか。それとも、常に一歩先を考える癖があって、教えることになったら困ることを挙げただけ?
「どうしましょう、せんぱい」
「えっと、とりあえず、マドレーヌの作り方は教えて欲しい。ただ連絡先はスマートフォン忘れてきちゃったから、電話番号も分からなくて」
振り返った彼は自分の元通りの雰囲気だが、唯人はついていけず言葉を確かめるように返すので精一杯だった。彼は話の途中でカバンを探り、紙とペンを取り出すと数字を書き付けて唯人に渡す。
「おれの連絡先です。気が向いたら連絡ください」
角の向こうからバスが来る。彼は「それじゃ、せんぱい」と来た道を帰って行った。
完全に彼のペースだ。
なんなんだ一体……。
唯人はバスに乗り込むと、空いた席に力なく座り込んだ。
◆
夕飯が終わってから唯人は、紙袋の中身を取り出し唸っていた。
コートとマドレーヌはいい。
特にコートに至っては、手直しまでしてあった。縫った人間の丁寧さが現れている間隔の短い縫い目は、遠目には分からないもののやや不揃いな箇所があるものの次第に上達したのが窺える。
裏地が破れていることに気づいて、とりあえず縫い留めた自分とは大違いだ。
問題はいかにも高そうな生地の、クリーニング済みの男物の手袋だ。
間違って一緒に俺に渡しちゃったんだろうなあ。
勉強机の上には、連絡先が書かれた紙とスマートフォン。いつでも彼に連絡できる。
腹を決め、連絡先をスマートフォンに登録してやっと気付いた。
彼の名前も知らない。
連絡したとして、俺だってちゃんと分かるんだろうか。冷静になれば、自分の名前だって伝えていない。
今日のうちに何人にも連絡先を教える可能性は低いから、送るなら今日のうちだよなあ。
揺らぎ始めた心に気づかなかったフリをして、SMSを起動する。
『初めまして。今日の夕方バス停で連絡先を教えてもらった多竹です。今日は、』
あと伝えるのは手袋のことと、マドレーヌのお礼と……。
慣れない操作にもたもたしているうちに、うっかり送信してしまう。
SMSなら時間のあるときに見てらえると思ったのが仇になった。これなら電話の方がましだったかもしれない。
続きの文章を考えている間に既読がつき、返信が来た。
『はじめまして。野々里明海(あけみ)です。よければ下の名前で呼んでください』
あ、そっか。下の名前も書くべきだったのか。
「おれ、も、かく、べき」
声にしながら文字を打つ。初めてスマートフォンを手にした父と全く同じ行動を取っていて、情けなくなる。
普段は電話ばかりで、誰かにこうして連絡するのも久し振りだったことに今気づいた。
『ところで下のお名前は?』
こちらからメッセージを送る前に、明海から送られてきてびっくりする。嫌ではないが、心の裏側を覗く能力でもあるんじゃないかと思ってしまう。
俺が分かりやすいだけ?
またも考え込んでしまいそうになり、我に返った。あまり返事を待たせてもいけない。
『唯人(ゆいと)です』
『唯人さん、ですね。ところでなんで敬語なんですか?』
『慣れなくて』
『ずっとタメ口だったじゃないですか。こっちの方が緊張しちゃいます』
「あ、け、み、でも、緊張、する、の?」
明海の返信は早い。一文字一文字噛み締めるように打っているので、遣り取りは時々途切れる。
それでも画面の前にくっついているのか、すぐに返信が来る。焦りから妙な汗が出そうだ。
『緊張しますよ。唯人さん相手なら』
どういう意味!?
聞けず、机に突っ伏す。額を強く縁にぶつけ、呻いた。唯人の反応を窺うかのように、メッセージが来なくなる。
明海のペースに振り回されてばかりだ。
なんと返すか悩んで数分経つと、着信音が鳴った。
『やっぱり、先輩って呼びます。緊張しちゃって』
緊張から離れてくれ! 俺の方が緊張する……。
今の唯人の心理状態を絵で表すなら、床を転げ回っている図になるだろう。内心が伝わらないのはありがたい。
『そんな風に見えないけど。ところで、さっき袋見たら中に手袋入ってたよ。なくて困ってない?』
必死に頭を働かせ、文章を練り上げる。送信すると、既読がついたものの返信まで間があった。
椅子に背を預けて重心を後ろに傾ける。小学校から使っている椅子だ。軋む音も年々大きくなる。転びそうになる寸前で重心を戻すと、待っていたと言わんばかりにスマートフォンが鳴った。
驚いてバランスを崩しかけ、机の上に両手をついて耐える。手がジンジンと痛みを訴えたが、気にしてはいられない。スマートフォンの画面を眺めた。
『困ってませんが、うちのみたいです』
『じゃあ、住所教えて』
『郵送するつもりですか?』
また先回りされた。これは絶対俺が分かりやすいんじゃない。向こうがエスパーなだけだ。
『お金掛かるじゃないですか。取りに行きます』
「ダメだって!」
思わず口から言葉が出た。本当になんで電話にしなかったんだろう。
今更電話に切り替えるのも変な気がして、唯人の指はまたスマートフォンの上を彷徨う。
『家に届けに行くよ。場所どこ?』
既読がついたきりになった。
このやりとりが終わったら、勉強しないといけないんだよなあ。
集中できる気はしないが、ワークやら参考書やらを机の上に広げる。あと五分返信が来なければ勉強しよう、と待ち始めると着信音がした。
「あ、ここって」
画面に映っていたのは、簡単に描かれた地図だった。余白に住所も書いてある。バスに乗って明海の高校前で降りるのであれば、唯人の高校から定期券を使って行ける。
だけど、おかしい。
明海の家からだとバスを使って高校に行く場合は、同じ路線だったとしても唯人の高校方面から駅の方へ戻るバスに乗ることになる。
何か事情があるんだろうな。
その辺のことには知らないフリをして、唯人にとっての最速で返信を送る。
『ここ、俺の家からそんなに遠くないな。いつがいい? 夜か朝早くだとご迷惑になるよね?』
『本当に急ぎませんから。いつも使っているものは別にあるみたいで。片づけしてたら出て来たからクリーニングに出しただけだって言ってました』
夜や朝だと迷惑になるということだろうか。
机の抽斗を開け、予定表を取り出す。先生たちが自主的にセンター試験の対策講座を開いてくれるのはありがたいが、おかげで放課後はかなり遅い時間でなければ明海の家を訪ねるのは難しい。
土日は模試があるしなあ。
十二月は予定が詰まっている。年末を除けば、一日だけ午後の空いている日があるだけだ。
『十二月の二十八日の午後なら空いてるんだけど、遅すぎるよな?』
勝手に郵送するのもありかもしれない。封筒は母さんから貰うとして……、と考えている間にまた返事が来る。
『遅くないです。その日なら友達が来ても大丈夫だって言ってます』
『二回しか会ってないのに、友達?』
『違和感ないようにそう伝えただけです。それに、回数なんて関係ないじゃないですか』
違う。そこじゃない。
唯人は友達という表現が引っかかっていたのだ。嫌なわけではないからこそ腑に落ちない。
待ち合わせ場所と時間はすぐに決まった。
『気分悪くしてたらごめん。あと、俺、そろそろ宿題やらないと』
『すみません、おやすみなさい』
返事が来てやりとりは終了した。
なんで明海に関わると疑問ばかりが増えるんだろう。
もやもやとした何かを追い払うように深呼吸を繰り返し、落ち着いたところで机に向かった。