間に合った!
唯人が席に座ると、バスが走り出した。汗が噴き出しそうになる。
暖房の効いた車内でコートを着ているのは唯人だけだ。他の乗客たちは上着なんて着ていない。
まさか寝坊するなんて。
昨日は日付が変わるまで課題をやっていて、目覚まし時計をセットし忘れて寝てしまったのだ。起きたら七時半を回っていた。急いで家を出たけれど、たぶん学校に着くのは遅刻ギリギリだろう。
コートのボタンを全て外してもまだ暑い。手であおぎながら視線を窓の外へ移すと、道には色づいたもみじが散っていた。
あと一ヶ月もすれば寒くなる。雪が積もればバスももっと混むだろう。
唯人は溜め息を吐いた。
ここのところ、毎日勉強してもし足りない気がしている。来週から始まる高校最後の中間考査だけでなく、センター試験に対しても不安しかない。
もし、中間考査のとき、答案の欄を間違って書いたら? あんなに勉強したのに、ほとんど空欄のまま試験時間を終わってしまったら?
センター試験のときはそれだけじゃない。もしかしたら忘れ物をしたり、雪道で転んだりして試験を受けられない可能性だってある。
最終的に行き着くのは、来年どこにも行く先がないなんてことになったら? という思いだ。
良くないよなあ。
考え過ぎるほど考え込んでしまう一方で、自分で抱え切れないことがあると逃げ回るのは唯人の悪い癖だ。自覚はある。
窓の外の家々をぼんやり眺めていたら、バスが止まった。どうも今日は、バス停や信号機を見るごとに止まっている気がする。
小さくあくびを漏らしていると、心の奥底に沈めたはずの問いまで戻って来てしまった。
いつまでも避けられるわけじゃない、か。
唯人の思考は、ゆるゆると夢現の狭間に落ちて行った。
◆
唯人には好きな人がいる。
楢乃木海太郎。
二つ年上の幼馴染だ。
黒くて硬い髪を短めに刈り、レンズの分厚いメガネを掛けている。目鼻立ちは悪くないのに、全くと言っていいほどモテない。
背がとても高いのに、何センチ縮んでいるか分からないほどの猫背。寝癖でどんなに髪が跳ねていても気にならず式典に出るほどの神経の太さ。
初めて会った人は大概言葉に詰まる外見をしているが、本人はどこ吹く風で堂々としたものだ。それでいてどこへ行っても誰かとぶつかることもない。
自分というものがブレない、その姿が特に好きだった。
海太郎が十五歳で引っ越すまでは家が近かったこともあって、一つ年下の弟・直人とよく後ろをついて歩いたものだ。
そのときも構うでもなく、追い払うでもなく。偶然三人の人間が居合わせて、空間を共有している感じだった。その時間の中で過ごすのが好きだった。
今の高校を選んだのも海太郎が通っているから、というところが大きい。どんなものを見ていたのか、どういうものを見れば海太郎のようになれるのかに興味があった。
担任の先生には自分の学力で入れそうな範囲で一番上の学校に行きたいと伝えていた。適当に枠を埋めるために選んだ風を装った模試の判定はいつでも不合格。必死に勉強して合格した。
この思いはただの友達の好きには収まり切らない。でも、恋人になりたいとか、せめて胸の内を聞いて欲しいとか。そんな願望があるわけでもなかった。
ずっとこのままの関係が続いていくのだと信じていた一昨年の夏休み。転機は訪れた。
「兄ちゃん、海兄さ、好きな人、いるんだって」
唯人の部屋に入って来た直人は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。とうとうこの日が来たか、と思った。
心のどこかでは想像していたのだ。何かと理由をつけては会っている直人と海太郎の関係が変わっていく日が来ることを。
「カイのことだから、理由とか、他にも何か言ったんじゃないか?」
「この夏休みで気づかれなかったら、あきらめるって」
賭けに出たのか。らしくないな。
大きな丸い瞳に涙を溜めた直人にティッシュを差し出し、あくまでも自然に目を逸らした。
鼻をかむ音を聞きながら、海太郎の心を探る。
自分が信じたもののためなら、こつこつと研究を続けることも、ひたすら見守り続けることも平気だろう。誰に思いを告げるわけでもない。ひっそり相手を好きでい続けるだけだ。
唯人から見た海太郎なら、ずっと胸に思いを秘め続けていることくらいわけはない。その、はずだ。
横目にうかがった直人はとうとう堪え切れなくなったようで、涙を流している。皺だらけのティッシュを強く握り、空いている方の手で目元を何度も擦った。
「そんなに泣くと、あとで目痛くなっちゃうぞ?」
「だって、ぼく、悲しくて。好きなのに、あきらめ、なきゃってっ」
直人の空いている方の手にティッシュを何枚も一気に握らせる。直人はそれを二つのかたまりに分け、豪快に鼻をかんだ。
こういうところなんだよなあ。
追加のティッシュを渡しながら、唯人は思う。直人は中学三年生にしても幼い。小さい頃とほとんど行動が変わらない。
悲しければ泣くし、嬉しければ笑う。今回もやはりそうだが、とにかく真っ直ぐなのだ。
海太郎は昔から、そういう直人をあたたかい目で見ていた。
唯人は知っている。大きくなるに従って、その目にまた違った熱のようなものが宿り始めていたことも。
自分にはない真っ直ぐで自分を貫く性質を持つ二人は、お似合いだろう。そう思っただけで、心の奥が針で刺されたようにチクリと痛む。
「夏休みは明日からだろ?」
背をさすりながら直人の顔を横から覗き込む。まだ小さくしゃくり上げていて、涙が止まる気配はない。
箱ごとティッシュを渡し、唯人は丸まって落ちているゴミをゴミ箱へ捨てる。ついでにゴミ箱を直人のそばへ移動させた。
直人は目を丸くしてから、ぎこちない笑みを浮かべる。
「うん。ぼく、がんばって、探してみる」
そういうこと言ってる間は見つからないと思うぞ。
一番親切だろうヒントは飲みこんだ。理由は自分でも分からないが、海太郎への優しさということにしておく。
直人の丸めたティッシュはゴミ箱の縁に当たり、床に転がる。それを掴んだときに次が捨てられ、今度は唯人の手の甲にぶつかって床に転がった。
好きな人には幸せになって欲しい。だから海太郎の思いが直人に届くことを願うし、直人の願いも叶うことを願う。でも、二人に恋人になって欲しいわけじゃない。
どうしてなんだろう。
夏休みが終わってからも、ずっと考えている。
恋人になった二人を表面上しか祝福できず、今も時折心に痛みを感じるのはどうしてなんだろう、と。
◆
アナウンスの聞き慣れた高校名を耳が拾い、唯人は我に返った。
バスは目的地のすぐそばまで来ている。
唯人はコートのボタンを掛け直し、手で探りながら髪を整えた。終わった頃に、バスは校門前のバス停に到着する。
学生が自然に列をなし、バスを降りて行く。唯人は最後尾に並んだ。
まだ頭がぼんやりとしている唯人の視界に、座ったままうなだれた学ランの背中が映る。
カイ……。
黒髪なんて珍しくもないし、髪型も違う。それでも猫背だったので心臓がドキリとした。
息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
彼の髪はやや長めだし、海太郎みたいに特徴的なわけでもない。他人の空似ですらない。雰囲気だって全然違うじゃないか。
「あの」
自分を落ち着けるように否定を重ねながら、横を通るタイミングで軽く肩を叩く。反応がないだけでなく、かえって頭が下がってしまった。
「あの!」
今度は肩を掴んで揺さぶると、ようやく頭が微かに動いた。首を捻って顔を唯人の方へ向け、うっすらと目を開ける。表情はぼんやりとしていて、瞬きにも時間が掛かっていた。
「お客さん、降りるんだよね?」
「降ります! ほら、起きて」
彼の両手首を手のひら側から摑み、無理矢理立たせた。そして馴染みの運転手に謝りながら定期券を見せ、財布からかき集めた小銭で更に一人分運賃を払う。
「その子、大丈夫なの?」
「たぶん」
二人一緒に振り返ると、彼は目を瞑っていた。両腕を前に伸ばし、顔を横向きにした立たせたときの恰好のままで。
心配そうな運転手にお礼を言い、もう一度同じ形で手を取る。唯人は慎重に後ろ向きにバスを降りた。
二人の客の無事を見届けてから礼を告げ、バスはやっと去って行く。
さてと。
角を曲がり姿が見えなくなったところで、唯人は目の前の彼に視線を移した。バスの中で見たときよりも、しっかりと瞼が閉じられている。
手だけは唯人の手首を柔らかく握っては少しだけ離す動きを繰り返していて、どことなく満足げな顔つきだ。
いい夢でも見てるんだろうか。
少しだけ申し訳ない気もしながら、唯人は勢いをつけて手を引き抜いた。支えるものがなくなりいきなり下がった自身の腕に違和感もないらしい。
手を握っては開く動作を続け、薄目を開ける。手を少し持ち上げて視界に入れると、中途半端に開いた手のひらを見つめていた。
「何年生?」
不思議と言わんばかりの顔で、彼は緩慢な動きで背を反らせる。平均的な身長の唯人より頭一つ分高いところに移動した顔は整っているものの、表情が幼い。
彼は首を傾げ、唯人の襟元をのぞきこむようにする。そして、目を細めて人差し指を立てた。
五秒は待ってみたが、それ以上の返答はない。彼は眠たげな顔のまま、首の傾げる角度を何度も変えて唯人を見ている。
一年生、というところだろう。
選択肢は二つ。保健室に連れて行くか、誰か先生に託すか。
遠くに見える玄関の前には、今日も服装検査のために先生が数人立っていて、知らない顔も幾つか混じっている。その中には一年生と関わりのある先生もいるはずだ。
よし、その人にお願いしよう。
「せんぱい」
だけど、もし無関係の先生ばかりだったら事情を説明するだけでも相当時間が掛かる。二人揃って遅刻してしまうかもしれない。
彼に関わったことで唯人がそうなるなら仕方がない。自分で選んだことだ。
でも彼はどうなんだろう。
唯人が百面相を披露している間も、彼は飽きずに色んな角度からそれを眺めていた。やがて目に知性が戻り、自身のカバンを探ってお金を出していたことにも唯人は気づかない。
「せんぱい、大丈夫ですか?」
彼は顔を近づけ、唯人の耳元で話し掛けた。唯人は親しげな知らない声に、現実へと引き戻される。前傾していた背を伸ばして離れて行く彼の顔は締まり、別人のように理知的な顔になっていた。
その凛とした表情が、昔のカイに似てあまりに真っ直ぐで。唯人は全身が一気に脈打つのを感じた。
「さっきはすみませんでした。これ、バスのお金です。ありがとうございました」
「あ、ああ」
彼は綺麗な笑みを作り、唯人の手に小銭を握らせる。彼の作り出す空気に吞まれたように、されるがままだ。
ほっそりとした長い指が触れたのは一瞬だったのに、残されたぬくもりがいつまでも消えない。呆然としたまま、唯人は彼の動きを目で追った。
彼は学校前の細い道路を渡り、向かいのバス停で時刻表を見ている。学ランだったからなんとも思わなかったが、別の学校の生徒だったようだ。
時刻表の位置が彼にとっては低く、背を丸めている。その姿に海太郎が重なって見え、唯人は目を擦った。
今日は朝からおかしい。きっと疲れているんだ。あるいは星座占いで最下位だったとか。
彼はのんびりとバス停の横に立つ。二人の間をときどき車は通るが、他にバス停に並ぶ人はいない。
唯人と視線がぶつかる。彼は先程の笑みを浮かべ、胸の辺りまで手を上げて軽く振ってみせた。唯人もつられて同じように応える。
二重人格か、寝起きがとにかく悪いのか。
まあ、もう会うこともないだろうし。
とりあえず渡された小銭を数え、財布に仕舞った。お釣りが要らなかったことに胸を撫で下ろす。
一つ目の前の大きな出来事が去ったことで、唯人の心に余裕が生まれた。何かを忘れていることに気づく。
校舎内に入れば思い出すかもしれない。
足を学校の方へ一歩踏み出したところで、後ろの方から小さなくしゃみが聞こえた。つい足が止まる。
別に今は命にかかわるような大きな病気が流行っているわけじゃない。でも、この前引いた風邪は辛かった。熱は出るし、鼻水も止まらなくて。やっと止まったら今度は咳が一週間続いた。
また、くしゃみの音がする。
バス、何分待つんだろう。
そう思ったら足が勝手に彼の方へ動いていた。バスの中が暖かかった分、寒さは堪えるはずだ。
コートを脱ぎながら道路を渡り、彼の前に立つ。
「これ着て。ないよりはましだと思うから」
「え。でも、せんぱいが寒いですよ」
「いいから!」
度を越したお節介が何によるものかは分からない。でも、とにかく気になった。
唯人は横から彼に近づき、後ろの家の生け垣に気を付けながらコートを羽織らせる。肩に軽く置いただけでは頼りない。
採寸するように彼の前を右に左に動き、肩から腰の上までを覆った。線が細いから前を閉めても平気そうだ。丈が短いのは諦めてもらおう。
彼は一瞬身固くしたが、直人の真剣な顔を見て力を抜く。あたたかな眼差しに、肩ばかり見ていた直人は一切気づかない。
「せんぱい」
ぎこちない呼び声で我に返り、唯人は返事を聞いていなかったことにようやく気づいた。視線を上げると、彼はカバンを持っていない方の手でコートを摘まんでみせる。細められた目元がかすかに赤い。
「あったかいです。甘えてもいいですか?」
なんて幸せそうな顔をするんだろう。
はにかむ彼を前に、唯人も恥ずかしくなる。じわりと頬が熱くなった。
「それ何年も着てるやつだし、本当に遠慮しないで。欲しいんだったらあげるし。いや、やっぱり捨てて!」
せめて返してだろ!
我ながら支離滅裂だ。けれど、口から出た言葉は取り消せない。
勢いをつけて彼と反対側からコートを脱がせようとすると、手をやんわりと重ねられた。あたたかいだけのはずの手が熱く感じられる。手を冷やしたんだろうか。
「これがいいんです」
伝わる温度に頑なさを溶かされ、唯人の手から力が抜けた。彼はそのままそっと唯人の手を下ろすと、自身の手も同じように体の横へ戻す。
なんだろう。もっと触っていて欲しかったような、触っていたかったような……。
唯人の中で思いが形をなす前に、角の向こうからバスがやって来る。
「今脱いだら風邪引いちゃいますね。お借りします」
彼の前でバスが止まる。
耳元で伝えて来たのは、声が風に搔き消されないようにだ。きっと。
声そのものよりも、吹きかけられた吐息の熱さが心臓に悪い。
なんでいちいちドキドキしてるんだ、俺!
彼はバスに乗り、車体を挟んで丁度唯人の正面に当たる席に座る。
唯人は熱を払うように頭を振る。顔を上げると、柔らかな視線が見下ろしていた。
彼はまた幸せそうに笑う。おかげで唯人の頬には逃がした以上の熱が戻って来た。
バスが発車する。彼が手を振るのにつられて手を振り、唯人は大きく息を吐いた。初めて呼吸が浅くなっていたことを自覚する。
見送ったバスも道の向こうへ消え、唯人は道路を渡った。今回は校門の前で立ち止まることなく、玄関へ向かう。
初めてのことばかり起きたせいか、なんだかぐったりしている。バスに乗る前焦っていたことも、もうどうでもいいくらいに思えた。寝坊なんて些細なことだ、と開き直る。
切り替えて行かないと。
またも考え込む唯人に気づき、短いスカートにヒール姿の若い女性が声を掛けた。
「おはよう。多竹。今日も考え事か? 朝から元気だなあ」
「まゆちゃん先生! お、おはようございます。それ、元気じゃないじゃないですか」
唯人は硬直した。どうして忘れていたんだろう。
急いでカバンを探り、ワークを取り出す。飛び出した折り畳み傘は手に持った。遅刻寸前だったことまで忘れるなんて、相当だ。
「あんたはいっつも悩んでるから、通常運転ってことだ。あたしには真似できないけどな!」
真っ赤な唇から白い歯をのぞかせ、麻由李は足を肩幅に広げた。両手を腰に当て、足元から頭上へ鋭く視線を走らせる。すぐに一回だけ頷いたので、服装検査に合格したことが分かった。
「先生、あの、ここで提出してもいいですか?」
「うん、感心感心」
ワークを受け取り、麻由李は範囲のページを一枚ずつ捲《めく》る。いつもしているチェックなのに、今日はやけに時間が掛かっている気がする。
あれ? そもそも、ワークは朝の内に提出できたんだし、焦る必要ないのか? 先生だって遅刻しそうだから走れとか、怒ってる様子ないし。
カバンを閉めて近くのドアに手を掛けたところで、先生がワークを閉じた。
「ところで、向こうのバス停にいたあの子、誰? どっかで見たことある気がしたんだけど」
先生の目敏さに驚くと同時に、手に熱が蘇る。過剰に世話を焼いた記憶も思い出して頬が赤くなりそうで、本当のことを話すのは避けたかった。必死に言葉を探す。
「お、とうとです。二人してバスの中で寝ちゃって」
遠くで他の先生や生徒の挨拶を交わす声が聞こえる。斜め下の大きな丸い瞳に浮かんでいるのは好奇心が半分と職務意識が半分。
実際には疚しいことが何もなかっただけに、かえって隠してしまったことを悔やんだ。心臓の音ばかりが大きく聞える。
ふーん、と麻由李は身を引いた。
「ま、あんたが言うならそうなんでしょ。それにしても雰囲気似てなくてびっくり」
世界に音が戻って来た。風の音が消えていたことに今気づく。
バスの止まる音が聞こえ、賑やかな声がし出した。
また風邪引かないようにしなさいよ、と肩に手を置いて麻由李は離れて行く。
三々五々歩いている生徒の姿はのんびりとしていて、遅刻とは無縁そうだ。唯人の目覚まし時計には秒針がないから、電池がなくなっていることに気づかなかったのだろう。
靴を履き替え、教室に向かう。体育館の方から普段は聞こえない靴が床と擦れる音や、ボールが壁や床にぶつかる音が聞えた。
運動部の朝練だとすれば、早い時間帯のバスに乗ったのかもしれない。冷静になれば、廊下を歩く生徒の数も少なめだ。
通い慣れた学校でも、知らないことっていっぱいあるんだな。
もしかしたら、よく知っているはずの海太郎に対してもそうなのかもしれない。あと今日初めて会った一年生の彼も。
「名前、聞けば良かったか」
どうせ一度きりだし、聞いても忘れる可能性大だけど。
うっかり口から出ていた独り言に、前を行く女の子の二人組が振り返る。いつもなら気になることも今日は気にならない。
彼のことを思い出したら手がまた熱を訴えて、気づけば胸の辺りもじんわりと暖かくなっている。コートがなくても寒さを感じないほどだ。
これ、なんだろう。
また増えた疑問の答えを探し始める前に、唯人は教室に着いてしまった。
唯人が席に座ると、バスが走り出した。汗が噴き出しそうになる。
暖房の効いた車内でコートを着ているのは唯人だけだ。他の乗客たちは上着なんて着ていない。
まさか寝坊するなんて。
昨日は日付が変わるまで課題をやっていて、目覚まし時計をセットし忘れて寝てしまったのだ。起きたら七時半を回っていた。急いで家を出たけれど、たぶん学校に着くのは遅刻ギリギリだろう。
コートのボタンを全て外してもまだ暑い。手であおぎながら視線を窓の外へ移すと、道には色づいたもみじが散っていた。
あと一ヶ月もすれば寒くなる。雪が積もればバスももっと混むだろう。
唯人は溜め息を吐いた。
ここのところ、毎日勉強してもし足りない気がしている。来週から始まる高校最後の中間考査だけでなく、センター試験に対しても不安しかない。
もし、中間考査のとき、答案の欄を間違って書いたら? あんなに勉強したのに、ほとんど空欄のまま試験時間を終わってしまったら?
センター試験のときはそれだけじゃない。もしかしたら忘れ物をしたり、雪道で転んだりして試験を受けられない可能性だってある。
最終的に行き着くのは、来年どこにも行く先がないなんてことになったら? という思いだ。
良くないよなあ。
考え過ぎるほど考え込んでしまう一方で、自分で抱え切れないことがあると逃げ回るのは唯人の悪い癖だ。自覚はある。
窓の外の家々をぼんやり眺めていたら、バスが止まった。どうも今日は、バス停や信号機を見るごとに止まっている気がする。
小さくあくびを漏らしていると、心の奥底に沈めたはずの問いまで戻って来てしまった。
いつまでも避けられるわけじゃない、か。
唯人の思考は、ゆるゆると夢現の狭間に落ちて行った。
◆
唯人には好きな人がいる。
楢乃木海太郎。
二つ年上の幼馴染だ。
黒くて硬い髪を短めに刈り、レンズの分厚いメガネを掛けている。目鼻立ちは悪くないのに、全くと言っていいほどモテない。
背がとても高いのに、何センチ縮んでいるか分からないほどの猫背。寝癖でどんなに髪が跳ねていても気にならず式典に出るほどの神経の太さ。
初めて会った人は大概言葉に詰まる外見をしているが、本人はどこ吹く風で堂々としたものだ。それでいてどこへ行っても誰かとぶつかることもない。
自分というものがブレない、その姿が特に好きだった。
海太郎が十五歳で引っ越すまでは家が近かったこともあって、一つ年下の弟・直人とよく後ろをついて歩いたものだ。
そのときも構うでもなく、追い払うでもなく。偶然三人の人間が居合わせて、空間を共有している感じだった。その時間の中で過ごすのが好きだった。
今の高校を選んだのも海太郎が通っているから、というところが大きい。どんなものを見ていたのか、どういうものを見れば海太郎のようになれるのかに興味があった。
担任の先生には自分の学力で入れそうな範囲で一番上の学校に行きたいと伝えていた。適当に枠を埋めるために選んだ風を装った模試の判定はいつでも不合格。必死に勉強して合格した。
この思いはただの友達の好きには収まり切らない。でも、恋人になりたいとか、せめて胸の内を聞いて欲しいとか。そんな願望があるわけでもなかった。
ずっとこのままの関係が続いていくのだと信じていた一昨年の夏休み。転機は訪れた。
「兄ちゃん、海兄さ、好きな人、いるんだって」
唯人の部屋に入って来た直人は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。とうとうこの日が来たか、と思った。
心のどこかでは想像していたのだ。何かと理由をつけては会っている直人と海太郎の関係が変わっていく日が来ることを。
「カイのことだから、理由とか、他にも何か言ったんじゃないか?」
「この夏休みで気づかれなかったら、あきらめるって」
賭けに出たのか。らしくないな。
大きな丸い瞳に涙を溜めた直人にティッシュを差し出し、あくまでも自然に目を逸らした。
鼻をかむ音を聞きながら、海太郎の心を探る。
自分が信じたもののためなら、こつこつと研究を続けることも、ひたすら見守り続けることも平気だろう。誰に思いを告げるわけでもない。ひっそり相手を好きでい続けるだけだ。
唯人から見た海太郎なら、ずっと胸に思いを秘め続けていることくらいわけはない。その、はずだ。
横目にうかがった直人はとうとう堪え切れなくなったようで、涙を流している。皺だらけのティッシュを強く握り、空いている方の手で目元を何度も擦った。
「そんなに泣くと、あとで目痛くなっちゃうぞ?」
「だって、ぼく、悲しくて。好きなのに、あきらめ、なきゃってっ」
直人の空いている方の手にティッシュを何枚も一気に握らせる。直人はそれを二つのかたまりに分け、豪快に鼻をかんだ。
こういうところなんだよなあ。
追加のティッシュを渡しながら、唯人は思う。直人は中学三年生にしても幼い。小さい頃とほとんど行動が変わらない。
悲しければ泣くし、嬉しければ笑う。今回もやはりそうだが、とにかく真っ直ぐなのだ。
海太郎は昔から、そういう直人をあたたかい目で見ていた。
唯人は知っている。大きくなるに従って、その目にまた違った熱のようなものが宿り始めていたことも。
自分にはない真っ直ぐで自分を貫く性質を持つ二人は、お似合いだろう。そう思っただけで、心の奥が針で刺されたようにチクリと痛む。
「夏休みは明日からだろ?」
背をさすりながら直人の顔を横から覗き込む。まだ小さくしゃくり上げていて、涙が止まる気配はない。
箱ごとティッシュを渡し、唯人は丸まって落ちているゴミをゴミ箱へ捨てる。ついでにゴミ箱を直人のそばへ移動させた。
直人は目を丸くしてから、ぎこちない笑みを浮かべる。
「うん。ぼく、がんばって、探してみる」
そういうこと言ってる間は見つからないと思うぞ。
一番親切だろうヒントは飲みこんだ。理由は自分でも分からないが、海太郎への優しさということにしておく。
直人の丸めたティッシュはゴミ箱の縁に当たり、床に転がる。それを掴んだときに次が捨てられ、今度は唯人の手の甲にぶつかって床に転がった。
好きな人には幸せになって欲しい。だから海太郎の思いが直人に届くことを願うし、直人の願いも叶うことを願う。でも、二人に恋人になって欲しいわけじゃない。
どうしてなんだろう。
夏休みが終わってからも、ずっと考えている。
恋人になった二人を表面上しか祝福できず、今も時折心に痛みを感じるのはどうしてなんだろう、と。
◆
アナウンスの聞き慣れた高校名を耳が拾い、唯人は我に返った。
バスは目的地のすぐそばまで来ている。
唯人はコートのボタンを掛け直し、手で探りながら髪を整えた。終わった頃に、バスは校門前のバス停に到着する。
学生が自然に列をなし、バスを降りて行く。唯人は最後尾に並んだ。
まだ頭がぼんやりとしている唯人の視界に、座ったままうなだれた学ランの背中が映る。
カイ……。
黒髪なんて珍しくもないし、髪型も違う。それでも猫背だったので心臓がドキリとした。
息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
彼の髪はやや長めだし、海太郎みたいに特徴的なわけでもない。他人の空似ですらない。雰囲気だって全然違うじゃないか。
「あの」
自分を落ち着けるように否定を重ねながら、横を通るタイミングで軽く肩を叩く。反応がないだけでなく、かえって頭が下がってしまった。
「あの!」
今度は肩を掴んで揺さぶると、ようやく頭が微かに動いた。首を捻って顔を唯人の方へ向け、うっすらと目を開ける。表情はぼんやりとしていて、瞬きにも時間が掛かっていた。
「お客さん、降りるんだよね?」
「降ります! ほら、起きて」
彼の両手首を手のひら側から摑み、無理矢理立たせた。そして馴染みの運転手に謝りながら定期券を見せ、財布からかき集めた小銭で更に一人分運賃を払う。
「その子、大丈夫なの?」
「たぶん」
二人一緒に振り返ると、彼は目を瞑っていた。両腕を前に伸ばし、顔を横向きにした立たせたときの恰好のままで。
心配そうな運転手にお礼を言い、もう一度同じ形で手を取る。唯人は慎重に後ろ向きにバスを降りた。
二人の客の無事を見届けてから礼を告げ、バスはやっと去って行く。
さてと。
角を曲がり姿が見えなくなったところで、唯人は目の前の彼に視線を移した。バスの中で見たときよりも、しっかりと瞼が閉じられている。
手だけは唯人の手首を柔らかく握っては少しだけ離す動きを繰り返していて、どことなく満足げな顔つきだ。
いい夢でも見てるんだろうか。
少しだけ申し訳ない気もしながら、唯人は勢いをつけて手を引き抜いた。支えるものがなくなりいきなり下がった自身の腕に違和感もないらしい。
手を握っては開く動作を続け、薄目を開ける。手を少し持ち上げて視界に入れると、中途半端に開いた手のひらを見つめていた。
「何年生?」
不思議と言わんばかりの顔で、彼は緩慢な動きで背を反らせる。平均的な身長の唯人より頭一つ分高いところに移動した顔は整っているものの、表情が幼い。
彼は首を傾げ、唯人の襟元をのぞきこむようにする。そして、目を細めて人差し指を立てた。
五秒は待ってみたが、それ以上の返答はない。彼は眠たげな顔のまま、首の傾げる角度を何度も変えて唯人を見ている。
一年生、というところだろう。
選択肢は二つ。保健室に連れて行くか、誰か先生に託すか。
遠くに見える玄関の前には、今日も服装検査のために先生が数人立っていて、知らない顔も幾つか混じっている。その中には一年生と関わりのある先生もいるはずだ。
よし、その人にお願いしよう。
「せんぱい」
だけど、もし無関係の先生ばかりだったら事情を説明するだけでも相当時間が掛かる。二人揃って遅刻してしまうかもしれない。
彼に関わったことで唯人がそうなるなら仕方がない。自分で選んだことだ。
でも彼はどうなんだろう。
唯人が百面相を披露している間も、彼は飽きずに色んな角度からそれを眺めていた。やがて目に知性が戻り、自身のカバンを探ってお金を出していたことにも唯人は気づかない。
「せんぱい、大丈夫ですか?」
彼は顔を近づけ、唯人の耳元で話し掛けた。唯人は親しげな知らない声に、現実へと引き戻される。前傾していた背を伸ばして離れて行く彼の顔は締まり、別人のように理知的な顔になっていた。
その凛とした表情が、昔のカイに似てあまりに真っ直ぐで。唯人は全身が一気に脈打つのを感じた。
「さっきはすみませんでした。これ、バスのお金です。ありがとうございました」
「あ、ああ」
彼は綺麗な笑みを作り、唯人の手に小銭を握らせる。彼の作り出す空気に吞まれたように、されるがままだ。
ほっそりとした長い指が触れたのは一瞬だったのに、残されたぬくもりがいつまでも消えない。呆然としたまま、唯人は彼の動きを目で追った。
彼は学校前の細い道路を渡り、向かいのバス停で時刻表を見ている。学ランだったからなんとも思わなかったが、別の学校の生徒だったようだ。
時刻表の位置が彼にとっては低く、背を丸めている。その姿に海太郎が重なって見え、唯人は目を擦った。
今日は朝からおかしい。きっと疲れているんだ。あるいは星座占いで最下位だったとか。
彼はのんびりとバス停の横に立つ。二人の間をときどき車は通るが、他にバス停に並ぶ人はいない。
唯人と視線がぶつかる。彼は先程の笑みを浮かべ、胸の辺りまで手を上げて軽く振ってみせた。唯人もつられて同じように応える。
二重人格か、寝起きがとにかく悪いのか。
まあ、もう会うこともないだろうし。
とりあえず渡された小銭を数え、財布に仕舞った。お釣りが要らなかったことに胸を撫で下ろす。
一つ目の前の大きな出来事が去ったことで、唯人の心に余裕が生まれた。何かを忘れていることに気づく。
校舎内に入れば思い出すかもしれない。
足を学校の方へ一歩踏み出したところで、後ろの方から小さなくしゃみが聞こえた。つい足が止まる。
別に今は命にかかわるような大きな病気が流行っているわけじゃない。でも、この前引いた風邪は辛かった。熱は出るし、鼻水も止まらなくて。やっと止まったら今度は咳が一週間続いた。
また、くしゃみの音がする。
バス、何分待つんだろう。
そう思ったら足が勝手に彼の方へ動いていた。バスの中が暖かかった分、寒さは堪えるはずだ。
コートを脱ぎながら道路を渡り、彼の前に立つ。
「これ着て。ないよりはましだと思うから」
「え。でも、せんぱいが寒いですよ」
「いいから!」
度を越したお節介が何によるものかは分からない。でも、とにかく気になった。
唯人は横から彼に近づき、後ろの家の生け垣に気を付けながらコートを羽織らせる。肩に軽く置いただけでは頼りない。
採寸するように彼の前を右に左に動き、肩から腰の上までを覆った。線が細いから前を閉めても平気そうだ。丈が短いのは諦めてもらおう。
彼は一瞬身固くしたが、直人の真剣な顔を見て力を抜く。あたたかな眼差しに、肩ばかり見ていた直人は一切気づかない。
「せんぱい」
ぎこちない呼び声で我に返り、唯人は返事を聞いていなかったことにようやく気づいた。視線を上げると、彼はカバンを持っていない方の手でコートを摘まんでみせる。細められた目元がかすかに赤い。
「あったかいです。甘えてもいいですか?」
なんて幸せそうな顔をするんだろう。
はにかむ彼を前に、唯人も恥ずかしくなる。じわりと頬が熱くなった。
「それ何年も着てるやつだし、本当に遠慮しないで。欲しいんだったらあげるし。いや、やっぱり捨てて!」
せめて返してだろ!
我ながら支離滅裂だ。けれど、口から出た言葉は取り消せない。
勢いをつけて彼と反対側からコートを脱がせようとすると、手をやんわりと重ねられた。あたたかいだけのはずの手が熱く感じられる。手を冷やしたんだろうか。
「これがいいんです」
伝わる温度に頑なさを溶かされ、唯人の手から力が抜けた。彼はそのままそっと唯人の手を下ろすと、自身の手も同じように体の横へ戻す。
なんだろう。もっと触っていて欲しかったような、触っていたかったような……。
唯人の中で思いが形をなす前に、角の向こうからバスがやって来る。
「今脱いだら風邪引いちゃいますね。お借りします」
彼の前でバスが止まる。
耳元で伝えて来たのは、声が風に搔き消されないようにだ。きっと。
声そのものよりも、吹きかけられた吐息の熱さが心臓に悪い。
なんでいちいちドキドキしてるんだ、俺!
彼はバスに乗り、車体を挟んで丁度唯人の正面に当たる席に座る。
唯人は熱を払うように頭を振る。顔を上げると、柔らかな視線が見下ろしていた。
彼はまた幸せそうに笑う。おかげで唯人の頬には逃がした以上の熱が戻って来た。
バスが発車する。彼が手を振るのにつられて手を振り、唯人は大きく息を吐いた。初めて呼吸が浅くなっていたことを自覚する。
見送ったバスも道の向こうへ消え、唯人は道路を渡った。今回は校門の前で立ち止まることなく、玄関へ向かう。
初めてのことばかり起きたせいか、なんだかぐったりしている。バスに乗る前焦っていたことも、もうどうでもいいくらいに思えた。寝坊なんて些細なことだ、と開き直る。
切り替えて行かないと。
またも考え込む唯人に気づき、短いスカートにヒール姿の若い女性が声を掛けた。
「おはよう。多竹。今日も考え事か? 朝から元気だなあ」
「まゆちゃん先生! お、おはようございます。それ、元気じゃないじゃないですか」
唯人は硬直した。どうして忘れていたんだろう。
急いでカバンを探り、ワークを取り出す。飛び出した折り畳み傘は手に持った。遅刻寸前だったことまで忘れるなんて、相当だ。
「あんたはいっつも悩んでるから、通常運転ってことだ。あたしには真似できないけどな!」
真っ赤な唇から白い歯をのぞかせ、麻由李は足を肩幅に広げた。両手を腰に当て、足元から頭上へ鋭く視線を走らせる。すぐに一回だけ頷いたので、服装検査に合格したことが分かった。
「先生、あの、ここで提出してもいいですか?」
「うん、感心感心」
ワークを受け取り、麻由李は範囲のページを一枚ずつ捲《めく》る。いつもしているチェックなのに、今日はやけに時間が掛かっている気がする。
あれ? そもそも、ワークは朝の内に提出できたんだし、焦る必要ないのか? 先生だって遅刻しそうだから走れとか、怒ってる様子ないし。
カバンを閉めて近くのドアに手を掛けたところで、先生がワークを閉じた。
「ところで、向こうのバス停にいたあの子、誰? どっかで見たことある気がしたんだけど」
先生の目敏さに驚くと同時に、手に熱が蘇る。過剰に世話を焼いた記憶も思い出して頬が赤くなりそうで、本当のことを話すのは避けたかった。必死に言葉を探す。
「お、とうとです。二人してバスの中で寝ちゃって」
遠くで他の先生や生徒の挨拶を交わす声が聞こえる。斜め下の大きな丸い瞳に浮かんでいるのは好奇心が半分と職務意識が半分。
実際には疚しいことが何もなかっただけに、かえって隠してしまったことを悔やんだ。心臓の音ばかりが大きく聞える。
ふーん、と麻由李は身を引いた。
「ま、あんたが言うならそうなんでしょ。それにしても雰囲気似てなくてびっくり」
世界に音が戻って来た。風の音が消えていたことに今気づく。
バスの止まる音が聞こえ、賑やかな声がし出した。
また風邪引かないようにしなさいよ、と肩に手を置いて麻由李は離れて行く。
三々五々歩いている生徒の姿はのんびりとしていて、遅刻とは無縁そうだ。唯人の目覚まし時計には秒針がないから、電池がなくなっていることに気づかなかったのだろう。
靴を履き替え、教室に向かう。体育館の方から普段は聞こえない靴が床と擦れる音や、ボールが壁や床にぶつかる音が聞えた。
運動部の朝練だとすれば、早い時間帯のバスに乗ったのかもしれない。冷静になれば、廊下を歩く生徒の数も少なめだ。
通い慣れた学校でも、知らないことっていっぱいあるんだな。
もしかしたら、よく知っているはずの海太郎に対してもそうなのかもしれない。あと今日初めて会った一年生の彼も。
「名前、聞けば良かったか」
どうせ一度きりだし、聞いても忘れる可能性大だけど。
うっかり口から出ていた独り言に、前を行く女の子の二人組が振り返る。いつもなら気になることも今日は気にならない。
彼のことを思い出したら手がまた熱を訴えて、気づけば胸の辺りもじんわりと暖かくなっている。コートがなくても寒さを感じないほどだ。
これ、なんだろう。
また増えた疑問の答えを探し始める前に、唯人は教室に着いてしまった。