「別れよう」

きっと、一生口にすることなんてないと思っていたこの言葉。
だけど、俺は今日ようやく口にした。
夏が目前の、ある日の放課後だった。
夕日が世界を染めて、雲の峰が萎んでいく夏の日。
窓の外では蝉の声が響いているのに、教室の中はまるで違う世界にいるようだった。
エアコンの風が髪を靡かせる。
俺の言葉に、驚いたように、目を見開く君が瞳に映る。
このふわふわした髪の毛も、まん丸な瞳も、優しそうな表情も、全部好きだった。
俺を包み込んでくれるような気がして。一年くらいずっと君の虜だった。
けれど、それももう終わり。

「え? どうして?」
「……ごめん。別れよう。他に好きな、人が、出来た」

何故か、君の瞳を見れない。
紡ぐ言葉が震える。
覚悟していたはずなのに、ドクドクと痛む心臓が俺を苦しめる。

君はどうするだろうか。
唐突に別れを告げられて、どうしてと、俺に縋るだろうか。涙を見せるのだろうか。
そう思って、俺は首を横に振った。
違うよな。
それは俺のエゴだ。最低なことをしても、君が俺を好きでいてくれるかもしれないと、変な期待を抱いているだけ。
この後に及んで未練が横切るなんて、最悪だ。
そして、君は俺の予想通り、笑った。

「そっかぁ」

まるで俺に語りかけるような柔らかな声音で、発せられた。

「分かった。別れよっか」

眉を少しだけ八の字に曲げて、君は綺麗に笑った。夏場に咲き誇るひまわりのような、そんな笑顔。
俺の大好きだった笑顔。

「……いいのか?」
「もちろん。好きな人とうまくいくといいね。でも、ごめん。柚くんのこと、諦められるか、分かんないや」
「っ」

そう言って、君は瞳に涙を浮かべたまま小さな指先で前髪を撫でた。
俺は何も言えなかった。
何かを口にしてしまったら、全部、欲しくなるから。こんな運命に君を付き合わせたくない。君には、また他の誰かと恋をして、幸せになってくれれば、それでいいから。
それがいいんだから。
こんな俺のことなんか忘れて。
俺も、君のことを忘れるからさ。

「ありがとう。好きだったよ」

そして俺は、机の上に置いてあった鞄を肩にかけた。鞄の重みが肩に食い込んで、痛い。全部、痛い。
けれど、この痛みがなかったら、きっと涙が溢れ出してしまう。
自分から別れを告げたのに、拒絶したのに、最低だ。

「……うん。私も、大好きだったよ。幸せにね」

去り際の扉付近での言葉。
振り返ることすら出来なかった。
怒ってもいいのに。いっそのこと、怒って殴ってくれればまだ良かったのに。そのまま、俺のことを嫌いになってくれれば、良かった。
いや、
それなのに、なんで、そんな優しい声で話すんだよ。
君の声を聞いたのは、それが最後。


 今は、もう、君の声すら思い出せない。
大好きだった綺麗な横顔も、俺にだけに見せてくれた笑顔も。
──どうして、好きだったのかも。


部屋の一室で、スマホを眺めている。
あの、貪るような暑さの夏から季節は移ろい、外では雪がはらはら舞っている。
俺の心は、まだぽっかり穴が開いたまま。
喪失感のような、何かを失くしたという感情だけが残っている。
この正体は、何なのだろうか。
思い出そうとしても、上手くいかなかった。
そう思いながら、俺はスマホの写真アプリを開いた。
そこには俺と、名も分からない女が笑っている写真が並べられていた。学校で撮った写真もあれば、一緒にクレープを食べている写真もある。
時には動画も保存されていて、そこで笑う俺は今の俺と全く違う。
心から幸せそうに笑っていた。
──ポタッ
不意にそんな小さな音が聞こえた。
確認しようとしても、視界が歪んで、世界が滲んで、不可能だった。

「なんで、泣いてんだよ」

でも、その正体を俺は知っている。
どうしてか、この写真を見ると、涙が溢れて止まらない。
この女も、こうやって笑う俺も知らないのに、心臓が音を立てる。苦しくなって、胸に手を当てた。
こんな苦しくなるのなら。
削除ボタンに手をかけた。
けれど、出来なかった。何かに足掻くように、指先が震え出すからだ。
滲む世界で、灰色の冷たい世界で、俺は最後の一枚をタップした。
そこには、一言、メッセージが付け足されていた。

『忘れたくない』

間違いなく、俺の字だ。
寒さに震えているかのような、か弱い文字。
けれど、ごめん。

「ごめん。忘れたよ。──お前は誰だ」

ポツリと言葉を落とす。
その小さな声は一人の部屋に反響して、泡沫に消えていった。


俺は、若年性アルツハイマーらしい。