私はこの国のお姫様。
望まれることなく生まれた、いずれはどこかの国の王子と結婚しなければならない運命を生きている。
お父様もお母様も、私が男性であれば良かったのにと日々呟いているのを聞いたことがある。二人はもちろん私のことを可愛がってくれるけれど、その言葉を耳にする度に、囁かれるその愛を疑ってしまう。
お姫様だから、もちろん制約が定められている。
走ることも、大きな声で笑うことも、人前で涙を見せることも、全て禁止。この国のお姫様らしく、上品に美しい女性でいなければならない。
私はきっと世界一幸せで、窮屈なお姫様だろう。
そんな日々が、嫌いでならない。
けれど、今日もこの国のお姫様として、煌びやかな世界へ出かける。
たくさんの人で溢れ、月の光を遮ってしまうほどに明るく輝いた世界で、偽りと甘い匂いが漂うその場所へと向かう。
お姫様らしい豪華な宝石とドレスを身に纏い、私もその地に行く。くるくるに巻かれた髪の毛を煩わしく、払い除けながら。
「しっかりね。エレナ」
「エレナお姫様、いってらっしゃいませ」
お母様やメイド達はそう言って、私を見送る。
その目が、少し苦手だ。お姫様らしく、私を殺せと言われているみたいで。
そしていざ、会場の扉の前に立つと。
その飾り付けられた扉を開くと。
「っ」
目の前に広がった景色に私は足が踏み出せなかった。
私のように着飾った人々が、ワイングラスを片手に談笑してる場面。それはとても憧れのようなものを感じさせた。
やっぱり、私はここには入れない。
そう思った。
この中に私はきっと馴染むことができない。
お姫様らしく上品で、可愛らしく。それが私のモットーだと分かっているのに。一歩が踏み出せない。
私はお屋敷の一角にある部屋で、庭の花を眺めながら、ワンピースを纏って読書をしたい。静かに、漂う時間を頬に感じながら。
時にはピアノなんて奏でたり。窓から見える、運命の人と秘密の視線を交わしたりして。
そんな世界に憧れている。
「やっぱり、私には無理よ」
どこかの国の王子様に気に入られるように振る舞うなんて、いやだ。自分を殺して、お姫様らしくなんて、そんなこと、私には出来ない。
私は私らしくいたい。
好きなものを好きと言って、好きな時に涙を流して。
そう思ってしまうのは贅沢だろうか。
私は入り口から足を遠ざけた。
赤く上品なドレスを持ち上げて、舞踏会の会場とは反対の方へ。
どこかテラスにでも出て、月を見上げよう。靡く風を感じながら、遠くから聞こえる喧騒に耳を傾けよう。
そう思って、ただ独り長い廊下を歩く。
カーペットに足をつけるたび、私の運命を恨んだ。
自由に生きたい。
政治の道具なんかじゃなくて、お姫様という肩書きなんて捨てて、普通の女の子に。嬉しくなれば、裸足で庭を走り回ったり、そんな暮らしを一度でいいから。
そう思って、私は再び足を踏み出した。
そんな時だった。
ポロンッ
まるで暗闇に漂う海月のような、美しいガラス玉のような音の旋律。一音だけ奏でられたその音に、私の足は止まる。
ピアノの音だった。次第に点が繋がるように、その音は美しいメロディを奏でだした。
なんて、綺麗なんだろう。
ピアノが歌っているような、滑らかなメロディに私の瞳は潤み出す。これほど素敵な音は聞いたことがない。どんな音楽家が奏でた音よりも、綺麗。
私は思わず、音のする方へ引き寄せられていった。
その音は、ある一室の中から聞こえた。
豪華で重厚な扉を徐に押して、音のする方へと引き寄せられていく。その扉の先に広がった光景に私は息を呑んだ。
気がつけば、涙が私の瞳をくるりと一周し、形を成して床へ落ちていく。
そこは、とても広い場所だった。
舞踏会の会場と同じくらいの広さはあるかもしれない。それくらい大きな部屋の中、真ん中にポツンとピアノが置かれていた。
真っ黒なピアノの前には、タキシードを纏った男性が座って、鍵盤を撫でている。その後ろの窓からは月光が差し込んでいて、美しかった。
光も何もないこの部屋では、月光だけが頼り。
その僅かな光が、ピアノに反射して、この部屋がまるで水に沈んでしまったかのような雰囲気だった。月光が溶けて、夢を見てるみたい。
その中で、今もずっとピアノの美しい旋律が響き渡っていた。
ピアノを奏でている男性の素性も知れないのに、私は迂闊にも聞き入っていた。騒がしいだけの舞踏会よりも、遥に綺麗だった。
ずっと抱えていた心の靄が晴れていくような、そんな感覚。
そして、男性の指が鍵盤から離れる。
パチパチパチ
私は手が痛くなるほど、拍手を贈った。
男性がその音に、振り返った。逆光になっていて、男性の顔は鮮明に見ることが出来ない。けれど、高い鼻筋や、整った唇が視界に入る。髪は銀色で、柔らかそうに動き、その瞳は吸い込まれそうなくらいに青かった。
「おや。エレナお姫様ではございませんか」
その男性は私を見ると、綺麗に、静かに笑った。その笑みが私の心臓に負荷をかける。
ドキンドキン
と心臓が高鳴った。
こんな風に綺麗に笑う男性は初めてだ。
「素晴らしい演奏でした。……それと、私のことをご存知なのですか?」
「もちろんですよ。エレナお姫様を知らない人は、きっといませんよ。ところで、どうしてここに? 舞踏会はまだ始まったばかりではありませんか」
彼は小さく笑い声を落とした後、私を見上げた。
その優しい瞳がなぜは懐かしい気持ちにさせて、私の心を溶かしていく。夢見心地のまま、私は口を開いた。
私はお姫様だから、こんなことは決して口にしてはならない。けれど、不可抗力だった。
「嫌いなんです。舞踏会という、眩しいところが。私にはあまり性に合わなくて。逃げ出してしまいました」
「それは、驚きました。女性はみな、舞踏会がお好きなのだと」
「いいえ、そんなことはありません。お姫様の肩書きは、私には重いんです」
お屋敷に帰って、お父様とお母様になんて言われるだろうか。
抜け出したことをきっと、きつく叱られる。
それを考えただけで、魔法から解かれたように、体が重くなった。きっと宝石が身体中にたくさんつけているからでしょうけど。私はそんな皮肉をこぼす。
けれど、この人は、私にまた魔法をかけた。
「わたくしもです。わたくしも、ああいうところは少々苦手でして。こうしてピアノを弾くことも、よくあります」
「そうなのですか?」
驚いた。
私以外にもそんな人がいるなんて。友人にも知り合いにも、そんな人はいなかった。舞踏会の一ヶ月前から準備をしたりする方もいるくらいなのに。
そうして、私たちは笑い合った。
口元に手を当てることなく、口を開きながら。
初めて自分が世界に馴染めたようで、ただただ嬉しかった。
そしてその笑いも尽きる頃、男性は私の目の前で膝をついた。静かに笑うその男性は、不思議なくらいに魅力的に映った。急な出来事で驚く私をよそに、男性は胸に手を当て、もう一方の手を私に差し出した。
「エレナお姫様」
「は、はい」
「この世界からわたくしと共に逃げませんか?」
彼の後ろから揺蕩うような綺麗な月の光が差し込んだ。
それが、私と彼の出会いだった。
私はあの国のお姫様。だけどそれは今となっては過去のこと。
この物語は、エレナお姫様がお屋敷から姿を消した、二日前のある晩のこと。
望まれることなく生まれた、いずれはどこかの国の王子と結婚しなければならない運命を生きている。
お父様もお母様も、私が男性であれば良かったのにと日々呟いているのを聞いたことがある。二人はもちろん私のことを可愛がってくれるけれど、その言葉を耳にする度に、囁かれるその愛を疑ってしまう。
お姫様だから、もちろん制約が定められている。
走ることも、大きな声で笑うことも、人前で涙を見せることも、全て禁止。この国のお姫様らしく、上品に美しい女性でいなければならない。
私はきっと世界一幸せで、窮屈なお姫様だろう。
そんな日々が、嫌いでならない。
けれど、今日もこの国のお姫様として、煌びやかな世界へ出かける。
たくさんの人で溢れ、月の光を遮ってしまうほどに明るく輝いた世界で、偽りと甘い匂いが漂うその場所へと向かう。
お姫様らしい豪華な宝石とドレスを身に纏い、私もその地に行く。くるくるに巻かれた髪の毛を煩わしく、払い除けながら。
「しっかりね。エレナ」
「エレナお姫様、いってらっしゃいませ」
お母様やメイド達はそう言って、私を見送る。
その目が、少し苦手だ。お姫様らしく、私を殺せと言われているみたいで。
そしていざ、会場の扉の前に立つと。
その飾り付けられた扉を開くと。
「っ」
目の前に広がった景色に私は足が踏み出せなかった。
私のように着飾った人々が、ワイングラスを片手に談笑してる場面。それはとても憧れのようなものを感じさせた。
やっぱり、私はここには入れない。
そう思った。
この中に私はきっと馴染むことができない。
お姫様らしく上品で、可愛らしく。それが私のモットーだと分かっているのに。一歩が踏み出せない。
私はお屋敷の一角にある部屋で、庭の花を眺めながら、ワンピースを纏って読書をしたい。静かに、漂う時間を頬に感じながら。
時にはピアノなんて奏でたり。窓から見える、運命の人と秘密の視線を交わしたりして。
そんな世界に憧れている。
「やっぱり、私には無理よ」
どこかの国の王子様に気に入られるように振る舞うなんて、いやだ。自分を殺して、お姫様らしくなんて、そんなこと、私には出来ない。
私は私らしくいたい。
好きなものを好きと言って、好きな時に涙を流して。
そう思ってしまうのは贅沢だろうか。
私は入り口から足を遠ざけた。
赤く上品なドレスを持ち上げて、舞踏会の会場とは反対の方へ。
どこかテラスにでも出て、月を見上げよう。靡く風を感じながら、遠くから聞こえる喧騒に耳を傾けよう。
そう思って、ただ独り長い廊下を歩く。
カーペットに足をつけるたび、私の運命を恨んだ。
自由に生きたい。
政治の道具なんかじゃなくて、お姫様という肩書きなんて捨てて、普通の女の子に。嬉しくなれば、裸足で庭を走り回ったり、そんな暮らしを一度でいいから。
そう思って、私は再び足を踏み出した。
そんな時だった。
ポロンッ
まるで暗闇に漂う海月のような、美しいガラス玉のような音の旋律。一音だけ奏でられたその音に、私の足は止まる。
ピアノの音だった。次第に点が繋がるように、その音は美しいメロディを奏でだした。
なんて、綺麗なんだろう。
ピアノが歌っているような、滑らかなメロディに私の瞳は潤み出す。これほど素敵な音は聞いたことがない。どんな音楽家が奏でた音よりも、綺麗。
私は思わず、音のする方へ引き寄せられていった。
その音は、ある一室の中から聞こえた。
豪華で重厚な扉を徐に押して、音のする方へと引き寄せられていく。その扉の先に広がった光景に私は息を呑んだ。
気がつけば、涙が私の瞳をくるりと一周し、形を成して床へ落ちていく。
そこは、とても広い場所だった。
舞踏会の会場と同じくらいの広さはあるかもしれない。それくらい大きな部屋の中、真ん中にポツンとピアノが置かれていた。
真っ黒なピアノの前には、タキシードを纏った男性が座って、鍵盤を撫でている。その後ろの窓からは月光が差し込んでいて、美しかった。
光も何もないこの部屋では、月光だけが頼り。
その僅かな光が、ピアノに反射して、この部屋がまるで水に沈んでしまったかのような雰囲気だった。月光が溶けて、夢を見てるみたい。
その中で、今もずっとピアノの美しい旋律が響き渡っていた。
ピアノを奏でている男性の素性も知れないのに、私は迂闊にも聞き入っていた。騒がしいだけの舞踏会よりも、遥に綺麗だった。
ずっと抱えていた心の靄が晴れていくような、そんな感覚。
そして、男性の指が鍵盤から離れる。
パチパチパチ
私は手が痛くなるほど、拍手を贈った。
男性がその音に、振り返った。逆光になっていて、男性の顔は鮮明に見ることが出来ない。けれど、高い鼻筋や、整った唇が視界に入る。髪は銀色で、柔らかそうに動き、その瞳は吸い込まれそうなくらいに青かった。
「おや。エレナお姫様ではございませんか」
その男性は私を見ると、綺麗に、静かに笑った。その笑みが私の心臓に負荷をかける。
ドキンドキン
と心臓が高鳴った。
こんな風に綺麗に笑う男性は初めてだ。
「素晴らしい演奏でした。……それと、私のことをご存知なのですか?」
「もちろんですよ。エレナお姫様を知らない人は、きっといませんよ。ところで、どうしてここに? 舞踏会はまだ始まったばかりではありませんか」
彼は小さく笑い声を落とした後、私を見上げた。
その優しい瞳がなぜは懐かしい気持ちにさせて、私の心を溶かしていく。夢見心地のまま、私は口を開いた。
私はお姫様だから、こんなことは決して口にしてはならない。けれど、不可抗力だった。
「嫌いなんです。舞踏会という、眩しいところが。私にはあまり性に合わなくて。逃げ出してしまいました」
「それは、驚きました。女性はみな、舞踏会がお好きなのだと」
「いいえ、そんなことはありません。お姫様の肩書きは、私には重いんです」
お屋敷に帰って、お父様とお母様になんて言われるだろうか。
抜け出したことをきっと、きつく叱られる。
それを考えただけで、魔法から解かれたように、体が重くなった。きっと宝石が身体中にたくさんつけているからでしょうけど。私はそんな皮肉をこぼす。
けれど、この人は、私にまた魔法をかけた。
「わたくしもです。わたくしも、ああいうところは少々苦手でして。こうしてピアノを弾くことも、よくあります」
「そうなのですか?」
驚いた。
私以外にもそんな人がいるなんて。友人にも知り合いにも、そんな人はいなかった。舞踏会の一ヶ月前から準備をしたりする方もいるくらいなのに。
そうして、私たちは笑い合った。
口元に手を当てることなく、口を開きながら。
初めて自分が世界に馴染めたようで、ただただ嬉しかった。
そしてその笑いも尽きる頃、男性は私の目の前で膝をついた。静かに笑うその男性は、不思議なくらいに魅力的に映った。急な出来事で驚く私をよそに、男性は胸に手を当て、もう一方の手を私に差し出した。
「エレナお姫様」
「は、はい」
「この世界からわたくしと共に逃げませんか?」
彼の後ろから揺蕩うような綺麗な月の光が差し込んだ。
それが、私と彼の出会いだった。
私はあの国のお姫様。だけどそれは今となっては過去のこと。
この物語は、エレナお姫様がお屋敷から姿を消した、二日前のある晩のこと。