僕は、恋をした。

いつもの電車。いつも通りの顔ぶれが集まって、いつも通りの空気が狭い空間に広がっている。
その中にはいつも通り、書店のカバーをつけて、本を読んでいる君がいる。
白いマフラーに顔を埋めて、寒そうにその足はくっついていた。肩までのストレートの髪は耳にかかっていて、時折毛束が耳から離れる。その度に、煩わしそうに荒い手つきで、また耳に髪の毛をかける。
その動作が綺麗で、僕はいつからか目で追っていた。
まるで冬に咲いた桜のような人だった。白くて、透明感を纏う君はいつだって、風が吹いたら飛ばされそうな雰囲気を漂わせている。
そして、知りたくなった。
その切れ長の目が弧を描くところを。赤く色づいた頬があがるところを。
そして名を。
君はどんな声をしていて、どんな風に笑うんだろう。
そんなことを考えながら、いつも通り対角線上の君を見つめた。
視線が交わることはない。

『まもなく〇〇駅です』

ふと視線を上げると、そんな文字が小さな画面に映し出されていた。
……あの子が降りる駅だ。
反射的に僕は君を見た。
小さな膝の上に広げられていた本は、ぱたんと閉じられ、君は窓の外を眺めている。
その時、僕は気がついた。
……一滴。
……一滴。
きらきらと漂う水面のように綺麗な瞳が揺れて、溢れ出している。
心臓をぎゅっと掴まれた気分だった。
顔は何の変化もないのに、ただ絶えずに涙だけが流れていた。
透明で陶器のような肌に、筋を残していく。
世界が眠ったように、静かな空間だった。
どうして、泣いているの。
そう問い掛けたくて仕方がなかった。
どうして、泣いているの。
何があったの。
けれどそう思って、僕はふと我に帰った。
僕は他人でしかない。
いつも電車で顔を合わせている、いや、合うことだってない他人だ。
不甲斐ない僕はただ膝の上に拳を作ることしか出来なかった。
そして、電車は停まる。
もう少しだけでも君を見ていたい。そんな気持ちを冷たい手で振り払うように。
そしてまたいつも通りに、華奢な君の背中を見送る。
ーーはずだった。
気が付けば、僕は朝の人混みの間隙を縫って、駆け出していた。
そして、君の元へと。

「……っ! あ!」

上手く喋れたかは分からない。この声が届いたのかすら分からない。けれど僕の声に、君は振り返ったんだ。
忙しなく行き交う人の束に、ようやく終止符が打たれ、僕と君だけのプラットホーム。
冷たい風に靡く髪を押さえながら、僕を見ている。
瞳いっぱいに涙を溜めて、苦しそうに眉を寄せ、マフラーを両手で力いっぱいに握りしめて。頬を這った涙は、朝陽に照らされて。
辛そうだった。
電車で僅かに視界に入った、そんな君を見た刹那、僕は駆ける以外の選択肢を失ったのだ。

「ーー」

僕を見ると、驚いたようにその双眸を見開いた。そして不審者を見るような冷たい視線を僕に浴びせた。
小さく唇が開き、切れ長の瞳が僕を捉える。
一向に何も言わない僕に、何かを話しているようだった。
そんな君に僕は慌てる。そして誤解を解くように、ハンカチを差し出した。
その勢いに君は怯えるようにして、僕から一歩下がる。

「……あ。……なみ……っ」

僕は自分の人差し指で、自分の目を指した。そして溢れ出ている涙を伝える。
思うように声が出ないのが、ただ悔しい。
けれど君は僕のジェスチャーを見ると、ほんの少しだけ瞳が和らぐ。
ハッとら溢れ出る涙を手の甲で拭いとる。涙がすっかり消えると、君はこの状況を気まずそうに、笑った。
その笑顔に心臓が高鳴る。
ドクンドクンと、振動して巡っていく。
僕も制服を着ているからか、そこまで警戒されなかったようだ。
そして小さな手が、僕のハンカチを握った。

「ーー」

また君が、何かを放つ。
けれどその中の一つも、僕の鼓膜には入ってこない。
僕は通学カバンからスマートフォンを取り出した。

『ちゃんと洗ったので、大丈夫です。安心してください。
それと、急にごめんなさい。驚かせてしまって』

この文字を見せると、僕の青いハンカチを握る君が、キョトンとする口を噤む。切れ長の瞳が、丸くなって、その初めて知る表情に呼吸は浅くなる。
でも、このまま引き止めてはいけない。
きっと迷惑だろう。
僕も、学校に行かなきゃ。
そう思って、僕は君に会釈をする。
そしていつまでも夢心地の体を翻したときだった。
僕の肩に何かが触れた。

「……!?」

振り返ると、そこには君がいた。
けれど、いつも通りの君ではない。
切れ長の目が、ほんの少しだけ弧を描いて、目尻が下がっている。寒さで色づいた頬は上がって、ただ綺麗だった。
正解を見せられた気がした。
君の綺麗な笑顔の。
僕が思い描いたどんな表情よりも、僕の心を奪う。
そして、君の唇がゆっくりと開いていく。

「あ、り、が、と、う」
「っ!」

確証は持てない。けれど君は確かにそう言った気がした。まるで僕の耳が聞こえないと分かっているように、ゆっくりと唇を動かした。
いつも通り、君の声は聞こえない。
けれど、どうしようもなく心が揺れ動いた。
ずっと目が合っていて、その視線を離すことが出来ない。
その瞳に吸い込まれるように僕は何も言えなくなった。ずっと静かだった僕の世界。つまらなくて、退屈で、大嫌いな世界。でもそこに、今、君という声が降り注いだ。
きっと耳が赤くなっているのであろう僕を見て、悪戯っぽく笑う君。
潤んだ瞳で笑うその笑顔に、痛いくらい手が痺れた。

僕は、恋をした。