3
 
 ラブレター事変から二週間、未だに差出人からのアプローチはなかった。実は地味に好意を向けられていて、おれがそれに気づいてないだけなのかも、なんて妄想に耽ったりもしたけれど、実のところ半分ぐらいは諦めていた。怜の言う通り、差出人は返事をもらう気も告白する気もなく、ただ気持ちを伝えたかっただけだったのかもしれない。
「それならそれで構わないけどさ、せめてお礼ぐらいは言わせてくれてもいいのに」
「そういうのが嫌だから無記名なんじゃないの」
「わかってるけどさ~、おれの行き場のない気持ちはどこにやったらいいんだよ」
「それを俺にぶつけられても」

 文句を垂れている間に到着し、奏は僅かに期待を込めて靴箱の前に立つ。ラブレターをもらって以来、この小さな扉を開ける瞬間は決まって胸が高鳴った。
 神様、もう一回奇跡を見せてください。お願いします。
 しかし、今日も願いははかなく消える。奇跡は簡単には起こらないから奇跡なのだ。

「またハズレ?」
 平然と覗き込んできた怜を肘で小突いた。
「勝手に見るなってば。プライバシーの侵害だ」
「自然と目に入ってくるんだよ。隣り合わせの宿命ってやつで」
「明らか覗き込んできたくせに……。ていうか隣の隣じゃん」

 靴を放るように入れて上履きに履き替えると、並んで教室に向かう。怜と別れる直前、今日が漫画の発売日だったことを思い出した。
「あ、そうだ。今日『エレファク』買って帰るけど、来る?」
「行く。続き読みたい」
「オッケー。じゃ、また放課後に」

 
 放課後、隣のクラスに顔を出したが怜の姿は見当たらない。
「高橋、怜見なかった?」
 廊下側の席にいた共通の友人に声を掛けると「日直で職員室行ってる」と言われた。
 じゃあ席で待たせてもらうか、ということで怜の席を陣取り、暇そうな高橋にも付き合ってもらっていたのだが、一向に帰ってこなかった。

 ひとり、ふたりと生徒が帰っていき、高橋もそろそろ予備校に行く、ということで、最終的には奏ひとりが残されてしまった。自分のクラスじゃないので少々肩身が狭く、戻ろうかなと思っていたらLINEが飛んできた。高橋からだ。
『怜、職員室で雑用手伝わされてるっぽい』
 ナイス高橋。なら、もうちょっとすれば戻ってくるかな。

 とはいえ、ただ時間を潰すのももったいない。待たされた仕返しに何かできないかな。そう思ったとき、ふと教卓が目に入る。あの下に隠れて「おまえを見てるぞ」みたいなメッセージを送ったら、怜はどんな反応をするんだろう。ホラー系が平気な怜も、リアルだったら案外ビビったりして。

 我ながらナイスアイデアと思って、奏はさっそく教卓の下を覗き込む。空洞は意外にも広く、自分一人なら十分収まりそうだった。試しに入ってみる。うん、余裕だ。
 にんまりと笑ったところで、廊下から足音が近づいてきた。思ったより早い帰還に驚き、奏は急いでズボンのポケットを探った。しかし、肝心のスマホがない。怜の机に置いてきてしまったのかも。どうする? 今から取りに行って戻れるか? いっそ計画中止で、何食わぬ顔で怜の机に戻ったほうがよかったりする?

 迷っている間に教室のドアが開き、足音がすぐ傍を通っていく。終わった。しょうがない、もう出ていくしかないか。
「月峰くん」

 奏の逡巡を遮ったのは知らない女子の声だ。遅れて足音が近づいてくる。
「ごめんね、大体やってもらっちゃって」
 どうやら、居残りは怜ひとりじゃなかったらしい。
「三澤は頼まれてないんだから、残らなくてもよかったのに」
 怜の口から出た名前には覚えがあった。
 三澤遙。美人で才女で大企業のご令嬢という三拍子の女子生徒だ。入学当初から可愛いと噂されていて、全く接点がない奏でも顔と名前は知っている。そういえば怜のクラスだったっけ。全然話を聞かないからすっかり忘れていた。接点あったんだな。
 ところで、おれ、完全に出て行くタイミング無くしたよね。

「先生も先生だよね。プリントの束ぐらい自分で作れって感じ」
「忙しいんだろ。野球部の秋の大会もうすぐじゃなかったっけ」
「だとしても月峰くんに押しつけなくてもよくない? あれは僻みだね」
「僻み?」
「月峰くんが格好いいから僻んでるんだよ。あいつ独身でしょ」
「さすがに関係ないと思うけど」

 軽快なキャッチボールを聞きながら、奏は呆気にとられていた。
 怜、三澤さんと仲良いじゃん。全然知らなかったんだけど。
 話し声から、笑う雰囲気から、怜が三澤に気を許しているのが感じ取れた。それも一朝一夕で得られた気安さではなく、素に近い自然体だ。基本、女子にはべたべたしたがらない怜にしては珍しい。というか奏の知る限り初めてだ。
 何だよ。何で黙ってたんだよ。言ってくれればよかったのに。
 怜が誰と仲良くしようと勝手だけど、内緒にされていたのはさすがに面白くない。

「……あの、さ。話変わるんだけど、月峰くん、こないだデートしてたって聞いたんだけど」
 しかし、そんな拗ねた気持ちは一瞬で引っ込んだ。
 え、ちょっと待て。今、デートって言った?
 叫び出しそうなのを両手で抑えて、必死で息を殺す。焦って教卓に体当たりしなかったのが不幸中の幸いだが、心臓が胸を破って飛び出しそうだった。
 どうしよう。まさか、おれとのことを話してる? 傍から見れば友達同士で出かけているようにしか見えないと思うけど、練習の最中を見られて勘違いされたのかもしれない。だとしたら、ここから出て事情を説明したほうがいいんだろうか。

「デート?」
「半月ぐらい前、年上の女の人と、新都心のほうを歩いてたって。ミホ……友達が予備校帰りに、月峰くんを見たって言ってたんだけど」
 ――あれ。もしかして違う話? 半月前? 新都心? 年上の女? 誰?
 混乱する奏とは裏腹に、怜は心当たりがあるらしい。「ああ……」と面倒そうに相槌を打った。
「……やっぱ、そうなんだ。彼女いたんだね」
「そういうんじゃないけど」
 いやちょっと待て。ますますわかんなくなってきた。彼女じゃない女(年上)と一緒にいた?
 それって、つまり、どういうこと?
 ていうかおれ、マジで何にも聞いてないんだけど。
「わざわざ日直交代したのは、この話がしたかったから? この前確認したときは三澤じゃなかった気がするんだけど」
「……何だ、わかってたんだ。うん、頼んで変えてもらった。別に、詮索する気はなくて……でも、聞いちゃってごめん」
「俺、人待たせてるし、そろそろ……」
「待って」
 震える声が響く。
「私、その、月峰くんのことが気になってて、ていうか前からずっと好きで……」

 予想はできていたので驚かなかったが、緊迫した声とただならない空気から三澤の想いがひしひしと伝わってきて、勝手に聞いてしまっているのが申し訳なくなった。
「彼女がいるって聞いて、本当だったら諦めようと思って、それを確かめたかったんだ。でも、さっきの話だと違うんだよね。だったら私と……」

「ごめん」
 怜はいつも通り、慈悲のない物言いで三澤の告白を一刀両断した。そこまではいい。予想通りというか予定調和的というか、いくら三澤が相手でも怜はなびかないだろうと何となく思っていた。

 しかし。
「俺、好きな人いるから」

「……は?」
 まさか、ごめんの後に続きがあるなんて。しかもそれがあまりに予想外で、奏の口から驚愕がぼろっと零れた。慌てて口を塞いだものの、時既に遅し。痛いほどの沈黙に支配された教室に、間抜けな声を確実に響かせてしまった。
 やばいやばいやばい、今の完全にアウトだろ。ただの盗み聞きならまだしも告白を聞いちゃったとかマジで最低最悪じゃん。どうしよう。出てって土下座した方がいい?
「そういうことだから、三澤とは付き合えない」
 ところが、怜は何事もなかったかのように続けた。
「……さっきの年上の人が月峰くんの好きな人?」
「違う」
 強い口調で否定する怜に、三澤はなおも食い下がる。
「好きな人がいるのに、別の人と遊んでたってこと?」
「そう。だから、俺なんか止めたほうがいい」
 切迫したやりとりを聞きながら、奏の耳元では、激しい鼓動が響いていた。
 やがてどちらかの足音が響き、荷物をまとめるような音がする。怜が帰ろうとしているのか、三澤がこの場を立ち去ろうとしているのか。どちらにせよ、奏は息を潜めて気配を消すことしかできなかった。

 それにしても、本当に何も知らなかった。怜に好きな人がいることも、女の人と遊んでいたことも、三澤に告白されるほど仲がよかったことも。あれだけモテるんだし、彼女のひとりやふたり居てもおかしくないけど、でも、言えよ。
 おれは何でも話してるのに、なんで怜は何も言わないんだよ。

「カナ」
 不意に呼ばれて悲鳴が飛び出る。
「ひいっ⁉ れ、怜……」
「何やってんの、こんなところで……」
 教卓を覗き込んできた怜は心底呆れ果てた様子だった。奏を見ても驚かなかった辺り、やはり気づいていたらしい。
「……怜を待ってた」
 膝を抱えたまま白状すると、ますます眉をひそめた。
「わざわざ教卓の下で?」
「……驚かせようと思って」
「小学生かよ……」
 憮然とつぶやき、怜が後ろ髪をかく。
「とりあえず出たら? もう俺しかいないから」
 その言葉で、さっきの会話が夢ではなかったんだと思い知る。
「……三澤さん、おれのこと気づいてた?」
「聞いてなかったと思うよ。カナの声がしても無反応だったし。覗きの汚名を着せられなくてよかったな」
「まあ、それに関してはよかったけど……」

 薄暗い場所から這い出ると、西日に照らされた怜を見つめる。強い茜色の光のせいで顔半分が陰っていて、幼馴染の顔と、全然知らない男の顔とで二分化されてしまったみたいだった。さっきの話は本当に奏の幼馴染の話だったんだろうか。

 怜の口からきちんと聞きたい。隠していることを全部話してほしい。そう思って口を開いても言葉が出ない。知らないことが多すぎて、どこから何を聞けばいいのかわからなくて、奏はただ、迷子のように口を開けたり、閉じたりを繰り返していた。

「引いた?」
 怜が口元を歪めるようにして笑った。
「え?」
「俺が遊んでたって話。言葉も出ないぐらいドン引きした?」
 奏は力なく首を横に振る。
「……わかんねえよ、そんな……。引くも何も、全然、何も聞いてなかったし」
「そっか。ま、そうだよね」
 さらっと肯定されて腹が立つ。
「何で話してくれなかったんだよ」
「何でカナに言う必要あるの?」
「おれが聞いてるんだよ。てか勝手に決めるな。必要かどうかはおれが……」

「前に言わなかった? カナには関係ないって」

 不愉快な他人を切り裂くときと同じ類の、冷徹な拒絶だった。
 怜が小さく息をつく。
「……おじさんとおばさんには黙ってて。心配かけたくないから。……カナも意味ぐらいはわかるよね」
 嘲笑されていらっとした。俗に言うセフレってやつだろう。さすがに察してる。
「親に言えないようなことすんじゃねーよ、ばか」
 吐き捨てるように言った。親じゃない、関係ないと返されたらぶん殴ってやろうと思ったけど、怜は黙って髪を弄るだけだった。
「年上って言ってたけど、なんか相手に騙されたり、やばいことされてたり、脅されてたりとか、そういうのはないんだよな」
「ないよ。お互い合意の上だし、数回だけ」
「数回⁉」
「もう終わったことだから」
 フォローというより言い訳するような口ぶりで付け加えられて、逆に怪しく思える。
「でも」
「だから大丈夫だって」
 怜の苛立ちが伝わってくる。関係ない、奏が踏みこめる領域じゃないと必死に線引きしようとしているらしい。でも、奏だって引き下がるわけにはいかない。

「うちの親にも、おじさんにも言わないけど、でも、心配なのはおれだって同じだからな」
 掴みかかる勢いで告げた。怜がはっと息を呑む。

「余計なお世話だって、関係ないって思うかもしれないけど、自分を粗末にするのだけは絶対止めろよ。そんなことしてたら、ぶん殴ってでも止めるからな」

 何を思ったかは知らないし聞く気もないけど、自分自身を貶めるようなことだけはしてほしくない。どれだけ拒絶されても、これだけは伝えなければいけないと思った。

 怜は細く長い息をつき、ぞんざいに顔を逸らした。
「ほんと、カナって、そういうとこあるよね」
「怜、今のは本気で、ほんとに」
「わかってるよ。カナが心配するなら、もうしないって」
 怜の肩を掴んで振り向かせる。
「おれが、じゃなくて、おまえが心配なんだよ。自分を大事にしろって話」
 幼子に言い聞かせるように、怜の瞳を真っ直ぐ見つめると、決まり悪そうに外された。小声で告げられた「わかってる」という返事と、怜の良心を信じるしかない。

「……じゃ、帰ろうぜ。漫画買ってうちで読もうよ」
 気まずい空気を払拭するべく、努めて明るい空気を出し、怜の机に置いていた荷物を回収した。
「あれ? おれのスマホ」
「はい」
 行方不明のスマホが、なぜか怜の制服のポケットから出てくる。
「何で怜が持ってんの」
「ここに無防備に置いてあったから、忘れてったのかと思って入れたんだよ。でも、よく見たら荷物もあるし、もしかしたら、どっかにいるのかなって」
「え、じゃあ最初から気づいてたのかよ! 言えよ!」
「まさか教卓の下に隠れてるなんて思わないよ。小学生じゃないんだから」
「う……」
 ひどい言われようだが言い返せない。
「だから、声が聞こえたときはびっくりした。ほんと、三澤が気づいてなくてよかった。俺たち揃って最低の烙印を押されるところだったな」

 それで思い出した。
「三澤さんは、その、いいのか。あんな突き放すような言い方して」
「聞かれたことに答えただけだよ。嘘はついてない」
「でも、仲良かったんだろ」
「別に普通」
 その「普通」を知らないんだけどな。溜息をつきながら鞄を肩に掛ける。
「とりあえずフォローぐらいしとけば。変な噂がめぐりめぐって、おまえの好きな相手のとこまで辿り着くかもよ。よく言うじゃん。火のないところに煙は立たないって」

 すると、怜がつぶやき、嘲笑を浮かべた。
「……好きな人、ね」

「何だよ」
 射るような視線で見据えられて、奏は身体を強ばらせた。
「怜?」
「何であのとき声出したの。そんなに驚いた?」
 声を出したとき、イコール、怜に好きな人がいる、と知ったときだ。
「……そりゃあ驚くだろ。全然知らなかったし」
 怜は目を細めて、奏の真意を探るように、視線の圧を強くした。
「三澤の告白よりも驚いてたじゃん。あのときは静かだったよね」
「あれは話の流れから察してたし。ていうか、何でそんなこと聞くんだよ。関係ないんじゃなかったのかよ」
 図星を突いたのか、怜の顔が曇った。
「……別に、ただの興味本位」
 怜の心ない言葉にかちんときた。
「じゃあおれだって興味本位で聞いたっていいよな。何で何も教えてくれなかったんだよ。好きな人の話もそうだけどさ、三澤さんと仲良いことも、その、一緒にいた女の人のことも、全然。おれは手紙の話も相談してたのに」
 長い付き合いだから、怜のことを何でも知っていると思っていた。奏は何でも話すから、同じように話してくれると思っていた。
 でも、そうじゃなかった。奏の知らない怜の顔があり、奏は踏みこむことを許されなかった。クラスメイトと同じ、ただの「他人」とラベリングされた。その事実がただ寂しくて、悔しい。
 呼吸も忘れる勢いで捲し立ててから、改めて強く思った。
「関係ないって、やっぱ、言われたくねーよ」

 一瞬、おれも怜に秘密を作ろうかな、とくだらない仕返しが頭をよぎったけれど、違う。奏は怜には何でも話したかった。楽しいことや面白いことがあったら怜に共有したいし、むかつくことや悲しいことがあれば話を聞いてほしい。
 逆も同じだ。怜のことは何でも知りたいし話してほしい。奏は怜の一番の理解者でいたい。
「……それは、幼馴染だから?」
「そーだよ。当たり前だろ」
 強い口調で断定した。他に理由なんていらなかった。
 少なくとも、奏にとっては。
「まあ、そうだよね」
 怜は笑っていた。糸の切れたような微笑みだった。それを見た瞬間、突然、言いえない不安がこみ上げてくる。おれ、何か間違った?
「……怜?」
 頭を押し込むように撫でられる。
「帰ろう。新刊買うんだろ」
 顔を上げると、怜はいつもの苦笑を浮かべていた。
 気のせい、か。奏も頷き、怜と肩を並べて教室を後にした。

 
 駅ナカの本屋で漫画の新刊を買ったはいいけど、その場で解散の流れになった。互いに歯車の噛み合わせが悪く、気まずい雰囲気が拭えなかったのだ。

 ひとり帰宅した奏は制服のままベッドに寝転び、漫画のフィルムを破いて表紙を捲る。しかし、感情が石化してしまったように動かないので、早々に読むのを放棄した。あんなに楽しみだったのが嘘みたいだ。それもこれも、全部怜のせいだ。

 怜に好きな人がいた。付き合ってないけど親密な関係の女がいた。三澤さんとも仲がよかった。漫画だったら「情報量が多い」って突っ込みが入りそう。でもこれは現実だから突っ込み役なんていないし、作者の都合で付与された情報でもない。ただただ奏が怜のことを知らなかっただけの話だ。

 怜はあまり自分のことを話したがらないし、たいていは聞き役に回るので、怜の口からクラスの誰が可愛いとか好きな人の話なんて聞いたこともない。
 ただ、いつか好きな子ができれば、他でもない奏には、さすがに教えてくれると思っていた。なのに蓋を開けてみればこの有様だ。おれは大体話してるつもりなのに、何で怜は教えてくれないんだよ――って、だめだ、また同じところに辿り着いてる。

 奏は天井に向かって溜息をつき、目を瞑る。
 遊び終わったおもちゃにでもなった気分だ。いつの間にか怜には怜の世界があって、そこに奏はもう必要ないんだろう。関係ないと突っぱねられたのはそういうことだ。おれたちは幼馴染だからと高をくくっていた分、その事実にどうしようもなく気が滅入った。

 
 夕飯を終えてシャワーを浴びると、父親が帰ってきていた。ダイニングテーブルでビール片手に「『エレファク』の続きは?」とのんびり聞いてくる。
「三人待ちで、父さんは四人目」
 奏と怜と母親。現在、一人目(奏)で止まっている状態だ。
「今、誰で止まってるんだ」
「……おれ」
「じゃあ先に読ませてくれよ」
「嫌だ」
「奏、お父さんに意地悪しないの」
 すかさずキッチンから野次が入る。
「してねーし!」
 とは言いつつも、八つ当たりだったことは否めない。反省して漫画を持っていくと、にやにや笑われた。
「何だよ、結局貸してくれるのか」
「土曜には返せよ。怜も待ってるから」
「了解。あ、怜で思い出したけど、和人が帰ってきてるぞ」
 和人というのは怜の父親だ。
「おじさん、今東北に行ってるって聞いたけど」
「らしいな。用事があるからって今日の夕方に戻ってきたらしい。日曜にはまた戻るみたいだけど」
「月峰くん、相変わらず忙しいね。怜くんと少しはゆっくりできるといいんだけど。奏、週末は怜くん誘うのは控えなさい」
 食事の支度をする母親を睨んだ。
「言っとくけど、おれが誘ってるわけじゃないから。向こうが来たがるんだよ」
 父親が漫画を捲りながら笑う。
「何言ってんだ。昔っから奏が怜を引っ張りまわしてるくせに」
 まるで奏ばかりが一方的に構っているような口ぶりに苛立ちが募る。
 そんなんじゃない。怜だって来たいって言ってる。誘うのも誘われるのも五分五分だ。
 ――本当に?
 盤石の土台から一転、不安定な砂浜の上に立っているような気分になる。記憶のない幼い頃から、再会してから、自分たちの間のベクトルは本当に双方向だったんだろうか。
「奏? どうした、拗ねたのか? あ、腹でも減ったか?」
 無神経に笑う父親に噛みつく力も湧かなかった。
「……もういい。おやすみ」
 そう言って切り上げようとしたのだが、父親にふと聞いてみたくなった。
 母親がキッチンに引っ込んだタイミングを見計らい、漫画に読みふける父親に小声で尋ねる。
「父さんと母さんが付き合ったとき、怜のおじさんってどんな反応した?」
「は?」
 紙面から顔を上げた父親は、未確認生命体にでも出くわしたような顔をしていた。
「父さんと怜のおじさんって幼馴染なんだろ。どういう感じだったのかなって……」
 話している最中、父親がまじまじと見てくるので決まりが悪い。
「何だよ」
「いやあ、こう、突然若々しい風に吹かれて自分の年を感じたというか……」
「はあ? わけわかんねーよ」
 こっちは真剣なのに茶化してんじゃねえ。しかし父親は、そうやって苛立つ奏に含み笑いを浮かべるばかりだ。
「……もういいよ。父さんに聞いたのが間違いだった」
「あー、待てって。確か、おめでとうって言われた記憶はあるな」
「じゃあ、やっぱ。喜んでたんだ」
 それが普通だよな、と複雑な気持ちでいると、当時を思い出しでもしたのか、父親が急ににやっと笑った。
「……さあ、どうだろうな。案外寂しがってたかもな」
「何でおじさんが寂しいんだよ。父さんの勝手な妄想じゃねーの」
「それはおまえもわかってるんじゃないのか? 何か元気ないと思ったらそういうことか。ま、おまえらも年頃だもんな」
「勝手に納得してんじゃねーよ。どういうことだよ」
 父親を睨むと、肘をついて目を眇めて笑った。
「怜に彼女でもできたんだろ。めでたいことだし、拗ねてないで素直に祝ってやれよ」
「はあ⁉ 拗ねてねーし、できてねーから! まだ!」
 ダイニングテーブルを強く叩いて否定すると、母親に「奏!」とすかさず叱られた。のんびりとしているくせに父親に対して激甘だから、少しでも不遜な態度を取るとこうなる。理不尽だ。デリカシーのない物言いをしたのは父さんなのに。

 奏は怒りに任せて自室に駆け上がった。ベッドにダイブして毛布をむしるように握り、マジでむかつくと呪詛を吐く。母さんに好かれてるからって調子に乗りやがって。一回ぐらい振られて痛い目見ればよかったのに。

 何が悔しいって、父親の指摘が的外れじゃなかったってことだ。怜が自分以外の他の誰かを欲して、その人を選んでしまうかもしれない。しかも内緒で。寂しかった。面白くなかった。だからこんなにもやもやしてたんだ。
 自分の身勝手さに溜息が出そうだが、嫌なものは嫌だ。
 たとえば怜に彼女ができて、これからは三人で一緒につるもうって言われても、奏はとうてい受け入れられない。ずっとふたりでやってきたところにひとり加わり、しかも純粋な「三人組」ではなく「奏ひとり」と「怜と彼女のふたり」になるなんて。無理だ。絶対に無理。目の前でカップルがいちゃついているのを心穏やかに見ていられる自信がない。想像だけで孤独死しそう。

 両親たちはよく三人で仲良くやれていたなと感心すら覚える。奏と違い、怜の父親が聖人のように出来た人だったのかもしれない。おじさん、めちゃくちゃ優しいもんな。
 機会があったら、怜の父親にもぜひ当時の気持ちを聞いてみたい。近い将来、そうなる日が来るのかもしれないから、その心構えを――って、そんな悠長に構えてもいられないんだった。極端な話、明日世界が変わる可能性だって十二分にあるのだから。

 だって、怜に告白されたら誰だってオーケーするだろう。外見は飛び抜けているし、中身だって負けてない。言葉は足りないけど、何だかんだで優しい。奏の突拍子もない思いつきにいつも付き合ってくれる。でも、子どもっぽいところや面倒なところ、寂しがり屋で放っておけないところもあるし、繊細な一面もある。
 美人は三日で飽きるなんて嘘だ。たとえ見た目で入っても、中身を知れば知るほど目が離せなくなる。最近よく聞く「沼る」って、怜のような人を指すのかも。
「あー……」
 何で気づかなかったんだろう。
 何でいつまでも一緒にいられるって無邪気に思えてたんだろう。
 もうずっと怜と一緒で、これから先も変わらないと思っていた。でも、そうじゃなかった。
 おれたちはいつまでも一緒にいられないんだ。
 嫌な妄想ばかりが頭をよぎり、奏の気持ちを重くする。何より、怜の幸福を純粋に祝福してやれない自分が一番嫌だった。

 
 考えすぎてなかなか寝付けず、翌朝、奏は見事に寝坊した。起きたのはいつも怜と落ち合う時間。心配した怜が送ってきたLINEで目が覚め、十分前の予鈴と同時に玄関に滑りこんだ。信号に三つ引っかかったときには終わったと思ったけど、その後猛ダッシュで巻き返し、なんとか間に合った。よかった。

 乱れた呼吸を整えながら、奏は靴箱に向かい、「え」と呆けた声を上げる。自分の靴箱の前に、見たことのない女の子がいたのだ。
「あ……っ」
 人が来ると思わなかったのか、向こうも奏を見るなり言葉を無くすと、逃げるように走っていってしまった。制服のネクタイが紺色だったから一年生だと思うけど、いや、まさか、ラブレターの子?
 奏は一息吐き、そっと自分の靴箱を開けた。しかし、今日も何も入っていなかった。
「ハズレか……」
 まあ、それはそうだろう。手紙の文面からして相手は面識のある一年生だ。奏は先程の女の子の名前も顔も知らない。ということは別の誰かが目当てだったんだろう。
 もしかして、怜か?
 奏の隣の隣が怜の靴箱だ。一年生の立っていた位置とも大体合う。
 直感に命じられるまま、奏はそっと扉を開けた。ビンゴ。やはり封筒が入っていた。
 ごくりと唾を飲み込み、真っ白なそれにおずおずと手を伸ばそうとしたそのとき、奏を責めるようにポケットの中でスマホが震え出した。はっと正気に戻った奏は、慌てて靴箱の扉を閉める。
 何してんだよ、おれ。勝手に。
 飛び跳ねそうな心臓に手を置き、ふうっと息をつく。覗きに加えて盗みを働くところだった。プライバシーの侵害どころじゃない。危なかった。
 滲む手汗を制服のズボンで拭いてスマホを見ると、怜から「間に合った?」とあった。やばい、遅刻。

 疲れた足を引きずり教室に向かい、ついでに隣の教室を軽く覗いた。間に合ったと一言伝えられればと思ったのだけれど、怜はクラスメイトと暢気に談笑している。顔だけ知っている男子と、知らない女子がふたり。もちろん三澤じゃない別の子だ。
 あのふたりのどっちかが怜の好きな子だったりして――。
「あれ、カナじゃん。怜? 呼ぶ?」
 高橋の声ではっとする。
「え? あ、いや……」
 否定する前に高橋がデカい声で「怜!」と呼んだ。振り返った怜と目が合うなり来なくていいとジェスチャーする。そっちで盛り上がっとけよ。今、あんまり話したくない。先程の後ろめたさで吐きそうだ。
 しかし、怜は会話を切り上げ、真っ直ぐ奏の元にやってきた。
「ほんとギリギリじゃん。間に合ってよかったね」
 気を遣われて、胸がなおさらきりきり痛んだ。奏は目を泳がせながら苦笑いを浮かべる。
「カナが寝坊って珍しいよな。なんか無遅刻無欠席の皆勤賞なイメージある」
 高橋の言葉に怜も同意する。
「高校入ってから初めてじゃない? むしろ、ここ数年で初ぐらい?」
「……まだ遅刻してねーし」
「あ、そうだったな。あれ、カナと怜って中学が一緒だっけ?」
「小学校から。カナはその頃から無遅刻無欠席だったよ。朝弱いくせにね」
 自然に話を振られたが、返す言葉が出てこなかった。怜があまりに普通で、昨日のことなど歯牙にも掛けない様子だったから。告白されたことも、気まずい空気になってしまったことも、全部が全部、奏だけが見た夢のようだ。

 でも、昨日の出来事は確かに現実だった。その証拠に、教室の中央の席に座った三澤が一瞬こっちを、というか怜を見ていて、奏と目が合うと気まずそうに逸らしたから。
「カナ?」
「……じゃ、おれ、教室行くから」
 逃げるように自分の教室に向かった。上手く笑えていただろうか。笑えてなかっただろうな。顔に出るって言われたし。

 予感は的中して、怜から「大丈夫?」とメッセージが来た。大丈夫じゃねーよ。主におまえのせいだっつーの。人の心がない、とまでは言わないけどメンタルが強すぎる。そりゃあ怜にとっては告白もお断りも日常茶飯事で神経をすり減らすこともないのかもしれないけど、こっちは世界の終わりを考えて肝を冷やしていたし、三澤さんだって辛そうだった。
 それにしても、あの三澤さんでもないなら、怜の好きな人って誰なんだろう。

 
 一限は右から左へ流れて終わり、休み時間も呆けているとスマホが鳴って驚いた。サイレントにし忘れていたみたいだ。授業中に音を鳴らすと没収されてしまうので、慌てて設定を変更し、ついでに着信を確認すると、また怜から。
『今日、漫画読みに行っていい?』
 すっかり忘れてた。父さん、読み終わったのかな。いや、読み終わってないことにするか。
『父さんに貸し出し中』
 そう送ってから、猛烈な罪悪感に襲われた。昨晩父親に言われたことを思い出し、俯いて机に額をつけて溜息をつく。

 いつまで勝手なネガティブを引きずってるんだ。怜は全然気にしてないんだから、さっさと切り替えて普段通りに振る舞いたい。でも、息を吸うたびに石でも詰め込まれているみたいに気持ちがどんどん重たくなっていく。それが止まらないし、止められない。

 奏は性根が楽観的であまり落ち込まないけど、一回躓くとその分立ち上がるのに時間がかかる。転んだままじりじり思い悩んで引きずってしまうのだ。
 その時間が無駄なことも、さっさと忘れて起き上がることに専念した方がいいのもわかってる。でも、できない。一度シャツに染みを見つけると、その後もうっすら気に掛けてしまうように、昨日の出来事が頭の隅にこびりついてしまい、なかなか忘れられなかった。

 そうこうしているうちに『じゃあまた今度』と気軽な返事が来て、次はむっとした。立ち直りたい、心配させたくないと思っているのに、気に掛けてもらえないとがっかりしてしまう。最悪だ。自分が自己中すぎて嫌いになりそう。こんな気持ちになるなら「漫画貸すから家で読んで」とか素直に言えばよかった。どうして悪手ばっかり打っちゃうんだろう。

「カナ」
 廊下の窓から怜が顔を出し、奏を呼ぶ。
「ひいっ⁉ れ、怜?」
 机に伏せったタイミングだったので、ものすごく驚いてしまった。クラスメイトの好奇の視線に顔が熱くなる。
「な、なんだよ急に」
「ほんとに具合悪い? 大丈夫?」
 で、真面目に心配されると、優しくしないでほしいと一分前とは真逆のことを思うのだから手に負えない。誰かどうにかしてくれないかな。

 とりあえず、今は怜と関わっちゃだめだ。何をしたって駄目な自分が浮き彫りにされて、みじめな気持ちになりネガティブが増す、と完全に負のスパイラルに陥ってしまっている。それがそのうち怜に延焼し、みっともなく八つ当たりしてしまいそうで怖い。
「……平気。ちょっと寝不足なだけ」
「何だ。どうせ漫画でも読んでたんだろ」
 どこまでも平和で的外れな推理に思わず嘲笑を浮かべる。
 それだけだったら、どれだけよかったんだろう。
「カナ?」
「怜には関係ない」

 あ、と思ったときには時間が止まっていた。ざわめく教室の自分たちの周りだけ音が消え、怜が綺麗な黒い目を僅かに見開いたのがスローモーションのようにはっきりと見える。
 自分の振るったナイフが怜を傷つけたんだと悟った瞬間、奏の胸は鈍く痛み、怜に同じことを言われて傷ついていたことを遅れて知った。
 だからといって、同じ痛みを返していい理由にはならない。
「……ごめん」
 予鈴が鳴った。怜はふっと顔を上げると、自分の教室に帰っていく。
 奏は今度こそ机に突っ伏した。

 
 二限の英語は一限以上に上の空で、教師に当てられたのにも気づかなかった。予習も忘れていたためクラスメイトの前で注意された挙句、放課後、職員室に呼び出しを食らってしまった。
 帰りも基本は怜と一緒なので、いつもならば「先帰ってて」または「遅くなりそう」と一声掛ける。でも、先程関係ないと言ってしまった手前、平気な顔で話に行くのは憚れた。

 結局、奏は終業後、真っ直ぐ職員室に向かった。待ち構えていた英語教師に、何のために学校に来ているのか、授業は、予習は何のためにあるのか等々至極真っ当な説教をされた後、職員室のゴミ出しと英語で反省文提出とどちらか選べと言われたので、しぶしぶ前者を選択した。嵌められたような気がするが、今回は完全に自分の責なので致し方ない。

 ぱんぱんに膨れたゴミ袋を両手に抱え、職員室から出て、ゴミ捨て場に向かう。夕焼けの終わりで外は薄暗く、もうすぐ日が落ちてしまいそうだった。
 今日は疲れた。朝は走って、放課後は立たされてと酷使された足が、体育祭の翌日のように悲鳴を上げている。精神的にも落ちているし、一刻も早く帰りたい。

 ゴミを捨て終わり、教室に戻ろうとしたときだ。近くの物陰に視線が吸い込まれる。後ろ姿を見た瞬間、怜だと気づく。そして向かいに立っているのは背の小さい女の子――おそらく朝の一年生だろう。二日連続で告白されてんのかよ。少女漫画か。

 さすがの奏も二日連続で盗み聞きする気は起きなかったので、足音を立てないように旋回し、逆回りのルートで教室に戻ることにした。
 帰りがけに考える。もしあの子が怜の好きな子だったら。
 だったら何だよ、とさすがに自嘲した。おれには関係のない話だ。踏みこむ権利もない。

 だらだらと歩いて教室に戻るが、当然ながら誰もいなかった。荷物をまとめ、鞄を肩に掛けてスマホを確認したら、怜から連絡が来ている。奏にあんな態度を取られたにもかかわらず一緒に帰るつもりらしい。「用事があるから待ってて」とあって呆気にとられた。何なんだ、あいつ。
 既読をつけてしまった以上、知らんふりはできない。これで帰ったらただのかまってちゃんだ。奏は鞄を自席に置き、その横に突っ伏すと、ぼんやりと空っぽの教室を眺めていた。
 ところが、しばらく待っても怜は帰ってこない。告白ってこんなに長いのかよ。断るならすぐ終わりそうなものなのに。実際、昨日は秒で終わりだった。わざわざ人を待たせておいて何をやってるんだか――。

 奏ははっと息を呑む。
 もし、あの子が本当に怜の好きな子だったら。オーケーをするつもりで告白に臨んでいたら。拗ねた態度を取った奏をわざわざ呼び止めたのは、彼女を紹介するためだとしたら。
 全部、つじつまが合ってしまった。
「いや、絶対無理……」
 腕に顔を埋めてひとりごちる。さすがに昨日の今日でその展開は早すぎる。心の準備がまだ全然できていない。
 でも、友達なら、大事な幼馴染なら、やっぱり嘘でも喜ぶべきなのかな。おれの場合、秒でバレそうだけど。

 何度目かの溜息をついたところで、教室のドアが開いた。奏は勢いよく振り返った。
「カナ、もしかして寝てた?」
 痕ついてる、と笑う怜の後ろに目をやった。ひとりだ。
「よかった……」
 思わず声に出てしまった。怜が首を傾げる。
「あ、いや……全然戻ってこないから」
「ごめん。ちょっと用事があって。カナ、呼び出し食らってたって聞いてたから油断してたんだけど、結構待った?」
「おれは説教聞いて、職員室のゴミ出しさせられて……それで」
 ちらっと怜に目配せする。黙っているという選択肢もあったけれど、奏にはできなかった。
 怜はそれだけで察したらしい。
「もしかして、見た?」
 軽く頷く。
「相手の子、一年生だろ」
 それから慌てて「すぐに戻ったからな。話は聞いてない」と釈明した。さすがに二日連続で覗きの烙印は押されたくない。
 しかし怜の目は鋭い。
「何で一年ってわかったの? 知ってる子?」
「知らねーよ。けど朝も会ったから、ネクタイの色でわかった」
「朝? 寝坊したんじゃなかったの?」
「ダッシュして学校来たら下駄箱前で見かけたんだよ、それで……」
 奏はそこで口を噤んだ。怜の下駄箱を覗いて手紙を確認しました、とは絶対に言えない。故意にチェックしたのだ、告白を立ち聞きするのとは、またわけが違う。
「え、っと……」
 まごつきながら目を泳がせていると、探るような声音で問われた。
「どこまで知ってる?」
「えっ⁉ べ、別になにも……。たまたま見ただけ、たまたま」
 玄関でたまたま彼女に会っただけ。校舎裏でたまたま告白の現場を見ただけ。他は何も知らない、と精一杯のアピールをしてみたが、自分でも思う。下手くそか。新人アイドルの棒読みの芝居よりもひどい。
 怜も察したようで、一歩ずつ近づいてきた。奏は廊下側に一歩退く。
「朝、何か話した?」
「話すわけねーだろ。すぐに逃げてっちゃったし、予鈴も鳴ってたし……」
 これは嘘じゃないから、怜の顔を見て言えた。
「ふうん……」
「嘘じゃないから」
「わかってるよ。疑ってないから」
 その割にはしつこく追及されているような。何なんだ。もう靴箱を覗いたことがばれてるんだろうか。それか相手の子に会ってほしくなかった? 何でって、それは――。
「……なあ怜、あの手紙の子って、もしかして」
「何でもないから」
 食い気味に否定された。奏が目を見開くと、怜はバツの悪そうな顔をする。
 やっぱりか。つまり。
「おまえの好きな子って、さっきの子なの?」
 おそるおそる尋ねると、怜の目がきつく尖った。こちらを刺すように見つめる瞳から静かな怒りのような圧が伝わってきて、奏は確信した。仮定は正しかった。怜の好きな子はあの子なんだ。

 怜は肯定も否定もせず黙りこくっている。それを見て、奏はようやく自分の無神経さに気がついた。昨日の時点から奏が踏みこむことを良しとしていなかったのに、ずけずけと土足で入りこんで根掘り葉掘り聞いてしまったのだ。そりゃあ怒るよな。
「あー……。ごめん、関係ないのに踏みこんだ」
 とりあえず謝罪をしたが、怜は変わらず無反応だ。大事な恋愛で、誰にも、奏にも内緒にしておきたいのかもしれない。薄情だなと砂を食べたときのような嫌なざらつきを感じながらも、奏は迷っていた。
 怜がどこかに行ってしまうのはすごく嫌だ。でも、怜がそれを望むなら。幼馴染なら。
「……よかったな」
 奏はぎこちなく口元を上げ、怜の肩を気安く叩いた。ちゃんと笑顔になっているだろうか。だめだろうな。でも、これが精一杯の誠意と罪滅ぼしだ。
「もう変な相手と遊んだりするなよ。好きな子をちゃんと大事にしろよ」
 怜の返事はない。電池が切れてしまったように押し黙っている。過去の軽率な行動を悔やんでいるのだろうか。もう終わったという話だし、奏も口外する気はない。
「あ、バラしたりしねーから安心しろよ。おれは怜が幸せなら、それでいいから……」

 もう一度肩を叩こうとしたときだ、その手を掴まれた。指が食い込むんじゃないかというぐらいの力で。
「いっ……なに……」
 条件反射で怜を見た瞬間、ぎらつき、今にも爆発しそうな黒目に射すくめられた。間髪容れずに後頭部を引かれ、塞がれる。口を。くちで。
 とっさのことで目を瞑ることもできなくて、ありえないほど近くで見つめ合った。
 怜の黒い目が切なく絞られ、悲しげに奏を見ている。でも、その理由がわからない。耳の後ろの鼓動がうるさくて、考えたくても思考が飛散してしまう。
 奏にわかるのはひとつだけだ。
 キスしている。怜と。

「……何……?」
 解放された後、奏は呆然とつぶやいた。すると、今一度強く腕を掴まれる。
「わかんない?」
 震えていた。怜の声が、腕を掴む指先が、奏を見つめる目が。
 もしかして、怜は。
「カナは、今のも何とも思わない?」
 深い痛みに耐えて、耐えて、耐えきれずに苦悶を吐き出したようだった。その重さが奏にずんとのしかかってくる。
「カナ」
 怒りと悲しみと嘆きをぐちゃぐちゃに混ぜたような顔で上腕を一度きつく揺すられる。何か言わなきゃと思うのに、切なく絞られた黒い瞳に真っ直ぐ見つめられると、言葉が全て吸い取られてしまう。何を言っても嘘のような気がして、何も言えない。
 下校時間を告げるチャイムが鳴り、怜は夢から醒めたように手を離した。
「……ごめん」
 奏の顔を見ずにつぶやくと、そのまま薄暗くなった教室から出て行った。
 
 残された奏はその場にしゃがみ、両手で顔を覆った。
「最悪……」
 幼馴染という関係に甘えて、怜の本当を知ろうともしないで、ずっと、ずっと傷つけていた。「関係ない」と言い返すより前から無邪気にナイフを振りかざし、何度も胸に突き立てていた。最悪なんて言葉じゃ済まない。バカだ。本当にバカだ。
 何で気づかなかったんだ。何で気づいてやれなかったんだ。
 あんなに、ずっと一緒にいたのに。
「怜……」
 膝を抱えて名前を呼んだ。返事はない。瞼の裏に焼きついた黒い目が、いつまでも奏を見ている。悲しい色を浮かべて。