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 約束の日曜日、朝十時前。奏は弾むような足取りで電車を降りた。
 知り合いに会わないところという奏のリクエストに沿って、待ち合わせは地元から下り電車で十五分程の駅を指定された。詳細は教えてもらっていないが、確か、駅から歩いて数分先に大型のショッピングモールがあったはず。カップルだらけの所に連れ込む、なんて言っていたけど、初心者におあつらえ向けのデートコースにしてくれたのかもしれない。

 改札に向かう途中、トイレに寄って服装を確認した。
 オーバーサイズのチャコールグレーのTシャツを黒いジーンズにタックインし、靴は白のボリュームスニーカー、腕時計は大人っぽく黒。怜といるときは制服か、Tシャツにジャージといった適当な服装ばかりだけど、今日は予行練習も兼ねてよそいきの格好をしてきた。

 家で鏡を見たときは結構いけてるんじゃね? と自負していたけど、改めて全体を見ると少し子どもっぽいかもしれない。

 吊り目気味の大きな目に、少し広い額、やや大きい口。幼い顔つきと身長のせいで、服装を間違えると中学生以下に見られるのが少しコンプレックスだ。今日は大丈夫だと思うけど、もう少し背伸びした格好でもよかったかもしれない。

 髪の毛を染めたらちょっとは垢抜けるのかな、と茶色がかった髪を弄った。大学生になったらバレイヤージュのようなオシャレな感じにするのがささやかな夢だった。
 今日は練習だから仕方がない。髪と服の裾をさっと整え、気を取り直し、待ち合わせ場所の時計台に向かった。エスカレーターでワンフロア上がり、改札を抜けた先にあるらしい。

 初めての駅で不安だったが、奏は改札の手前ですぐに見つけた。時計台ではなく、怜本人を。何せ、そこだけスポットライトが当たっているみたいだ。
 遠くからでもはっきりとわかる精巧な顔に、全身黒ずくめの服。スタイルがいいので野暮ったくなく、芸能人みたいなオーラが放たれている。年がら年中一緒にいると忘れがちだけど、とにかく見た目だけは完璧だ。
 それは全人類の共通認識のようで、奏が改札を出るまでの間、何人もの通行人が怜を展示物みたいにじろじろ見ていた。黄色い声を上げてはしゃぎ、盗撮している子もいる。芸能人じゃねーんだぞ。怜の傍にいると、目立つっていいことだけじゃないんだとしみじみ思う。

 やっと改札を出たところで、今度は若い女の人が怜の傍をうろついていた。声を掛けたそうな雰囲気を醸し出しているが、怜はスマホを見ていて気づいていない。
 とりあえず助けてやるか。奏は彼女より先に怜を呼ぶ。

「怜、おはよ。早いな」
 人の厚意も知らず、怜は不満げに眉をひそめた。
「カナ、遅いよ。遅刻」
「え? 待ち合わせの五分前だろ」
「いや一分以上過ぎてるよ。連絡ないからどうしたのかと思った」
「マジ? おれの時計だと五分前だけど」
「遅れてるんじゃない? スマホ見た?」
 怜のスマホは十時二分を指している。一方、腕時計は九時五十五分だ。
「げ、マジかよ。ごめん。気づかなかった」

 会話の最中、先程の女の人が視界をちらつく。これはと思ったら案の定、声を掛けられた。
「あの、すみません。私、この辺でストリートスナップ撮ってるんですけど、よろしければお写真撮らせてもらえませんか?」
 あ、逆ナンじゃないのか。ちらりと怜を窺うと。
「嫌です」
 即答。見事なまでの一刀両断だ。申し訳なさそうな素振りも一切なし。容赦ねーなと半ば感心していると、その女の人が未練がましく奏の方を向いた。もしかして怜を説得してくれって言われるのかな。おれには無理なんだけど。
「じゃあ、せめて可愛いお兄さんだけでも! 駄目ですか?」
「え? おれ? ……おれでいいんですか?」
 まさかの展開だ。信じられずに自分に指を向けると、女の人は「もちろんです!」と輝く笑顔を見せた。
「ほんとはふたりで並んで欲しかったんですけど、ぜひ! お願いします!」
 しかし。
「ダメです」
 いや、おまえが言うんかい。勝手に決めるなと斜め上を見ると、怜は更にマイナス十度ぐらいの真顔で女の人を睨んでいた。うわ怖え。奏ですらそう思ったのだから、相手はそれ以上だったんだろう。絶対零度で氷漬けになったみたいに固まってしまった。
「……あー、えっと、すみません」
 怜のフォローをすべく女の人に謝ると、彼女は正気を取り戻すなり、へこへこ頭を下げて逃げてしまった。

「おまえさあ、断るにしても、もう少し穏便にできねーの?」
 さすがにかわいそうだと苦言を呈すが、怜は悪びれた様子は一切なかった。
「ああいうのは、はっきり断ったほうがいいんだよ。ていうか、カナは危機感なさすぎ。女の子に可愛いって言われて嬉しかったんだ?」
「え? 可愛いなんて言ってたっけ?」
「聞いてなかったの?」
 怜の表情が意地悪な笑みから呆れ顔に変わる。
「話振られたことにびっくりして……。そっか、可愛いか……」
 男としては複雑、でも怜と比べられたんじゃしょうがないか。褒められたんだしいいのか?
「よくない」
「人の心を読むな」
「カナは何でも顔に出るから……」
「うぐ……。とにかく、言い方ってものがあるだろ。少なくともその辺で盗撮してる人たちよりかはマシじゃん。ちゃんと用途を話してくれたんだし」
「どっちでも変わんないよ。どうせSNSとかに勝手に上げられるんだから」
「それはそうだけど……」
「もうこの話は終わり。今日の目的は何?」
 そういえばそうだった。はっとした奏の背中を軽く押し、「行こう」と怜が歩き出す。
「どこ行くの? やっぱ買い物?」
「先に映画観ない? 今ならお昼ぐらいに終わるから、そのあと買い物で。どう?」
「オッケー。ここも映画観れるんだな。初めて知った」
「俺も初めて来たんだけど、4Kなんだって。臨場感がすごいらしい」
「マジ? すげー楽しみ」
「穴場って聞いたからこっちにしたんだけど、誰かに会ったらごめん」
「そこまで気にしなくていいって。でも、サンキュー。考えてくれて」
「まあ、カナの一生のお願いだしね。十回目の」

 開店直後のショッピングモールを歩き、エスカレーターを乗り継いで映画館に向かう。道中で気になる店がいくつかあって、きょろきょろ見回していると「後で行くんだから」と笑われてしまった。
「ていうかおれ、今すげーガキっぽくなかった?」
「やっと気づいたんだ」
「いや知ってたなら言えよ」
 じゃないとまた次もやってしまう。なのに怜は「楽しそうでいいね」とどこ吹く風で、映画館に向かうエスカレーターに乗った。奏もあとに続き、黒い背中を見上げる。
「気になることがあったら教えろよ。今日は遊びに来たわけじゃないんだからな。ちゃんと練習しとかねーと」
 怜が振り返った。
「そういうとこが既に子どもっぽい」
「えっ⁉」
「って感じで、言われたことをいちいち真に受けて自分を変えてたら、カナらしくなくなっちゃうんじゃないの」
「それは……」
「ていうか、カナのことだから、どうせ取り繕ったって遅かれ早かれボロが出ると思うよ。顔にも態度にも出やすいって自覚あるんだろ?」
「ボロクソ言うじゃん……」
「教えろって言われたから」
 返す言葉もない。押し黙っていると、軽く笑われた。
「カナは自然なのが一番いいよ」
 言ってくれるのは嬉しいけど、聞こえのいい言葉で丸め込まれた気がして腑に落ちない。
「そしたら練習にならねーじゃん」

 エスカレーターを降り、隣に並んで文句を言っていると、怜が顔を近づけてきた。
「な、なんだよ」
 頬ずりでもしそうな距離に怯むと、怜が耳打ちした。
「練習」
「は? 練習?」
「考えるより実践が一番だろうと思って」
 瞳を覗かれる。黒い光彩が目の前で輝いていて、不覚にもどきっとしてしまった。って、いや、近けーよ。とりあえず怜を押し退けると、ドッキリ成功、みたいな顔で笑っている。
「バカ、やめろって! 人で遊ぶな!」
「練習するって意気込んでたくせに」
 白々しく笑う横顔を睨みつけた。口達者なやつ。
 
 映画館に着き、さっそく電光掲示板で上映作品をチェックする。
「見たいって言ってた漫画の実写化が30分から、あとは今一番人気なのは洋画のリメイク。話題になってたやつ。これも同じぐらいの時間かな」
 下調べをしてくれていたらしい、よどみなく説明されて感心してしまった。これはポイント高いな。おれも誰かと行くときはちゃんと準備しておこうっと。
「どうする? 何が見たい?」
「んー、どっちも捨てがたいけど……。怜はどっちがいい?」
「俺もどっちでも」
「じゃあ……今回は実写にする」

 怜が券売機のタッチパネルで操作を始める。席は暗黙の了解で最後列の真ん中周辺。ふたりで映画館に来るときはいつもそうだった。
「一緒に映画館って久しぶりだよな。一年ぶりぐらい? つーか高校になってから初?」
「そうだっけ」
「そうだよ。確か中学のときが最後。おまえ、誘ってもサブスクでいいって言うから」
 そんな話をしていると、隣の券売機に老夫婦がやってきた。何となく気になって目で追っていると、タッチパネルの操作に困っているようだった。近くにスタッフも見当たらない。
「ちょっと隣行ってくる」
 怜の肩を叩いて、老夫婦に声を掛ける。
「あの、よかったら手伝いましょうか?」
「あら、いいの? 使い方がわからなくて……」
「助かるよ。どこを押せばいいのかな」
 操作の仕方を教え、老夫婦の発券を見守りながら昔話を聞いた。初デートで観た映画がリメイクされたので、十年ぶりにわざわざ映画館まで足を運んだそうだ。
 お礼を固辞してふたりを見送り、少し離れた壁際で立つ怜の元へ行く。

「ごめん、お待たせ」
「無事に終わった? はい、チケット」
「うん。大丈夫だった。あ、お金……」
「いいよ。俺に出させて」
「ええ……? じゃあポップコーンはおれが買うから」
「俺はいらないからカナの分けて」
「それじゃあ意味ねーだろ。ドリンクは?」
「いらない」
「じゃあパンフは? グッズとか……」
「気にしなくていいって。ほら、買うなら売店並ぶよ。早くしないと混むよ」
 結局スマートに奢られてしまった。こういうところを見習うべきなんだろうと心のメモに追記しておく。奢るときはさりげなく強引に、だ。

 ポップコーンとジュースを買って入場口に進むと、先程の老夫婦とまた再会した。律儀に会釈してくれたので、こちらも軽く頭を下げて笑うと、笑顔を返してくれた。
「あのじーちゃんたちさ、リメイク前の映画を初デートで観たんだって。すげーよな。何十年経っても一緒にいて、映画観に来るほど仲良いって」
 スクリーンはひとつ上の階だ。チケットの半券を受け取り、エスカレーターに乗ると、後ろで怜がつぶやいた。
「……カナはほんと、そういう話が好きだよね」
 くるりと振り返る。
「今バカにした?」
「してないよ。純粋だなあって思っただけ」
「したよな? 夢見てるって思ったよな?」
「ほら、前見て。もう着くよ」
「悪かったな。夢見がちで」
 むくれていると、「悪いなんて言ってないよ」とフォローされた。
「おじさんとおばさんが似たようなもんだし、カナの憧れなんだろ。いいんじゃないの」
 でも、どこか突き放すような言い方だ。
「怜にはロマンチックが足りねーな」
「それはそうかもね。カナのを分けて欲しいぐらい」

 薄暗いスクリーンに入り、階段を上って最後列に進む。もう始まるというのに人はまばらだった。
「結構少ないね。原作は人気なのに」
「キービジュが微妙で軽く炎上したんだよ。予告はよかったのにもったいないよな」
 人気漫画の実写化なのに封切り前に土が付き、同時期にビッグタイトルのリメイクが上映されて、世間の期待値はそちらに流れてしまったみたいだ。
「まあ、観に行った人は面白かったって言ってたから大丈夫だと思うけど、やっぱ、自分の目で観ない分にはわかんないよな」
 怜がふっと笑った。
「何だよ」
「いや、カナって、そういうところは昔から変わんないなって」
「そういうって?」
「噂とか評判よりも自分の見たものを信じる。意外と流されないよね」
「あー、そうかも? って、意外って何だよ」
 ぼやいてから、急に申し訳なくなってきた。
「なんか、ごめん」
「何?」
「いや、おれの趣味に付き合わせたなって思って」
「カナが観たい方でいいって言ったじゃん」
 さらっと言う横顔は柔らかくて温かい。おれじゃなかったら照れて爆発してるね。
「……今度は怜の観たいものにしようぜ。ていうか、願い事決まった?」
「願い事? ああ、一生のお願いってやつ?」
「ん。何がいい?」
「そもそもなんだけど、一生のお願いって、普通は一回だけじゃないの」
「それだとフェアじゃねーだろ」
「まずは十回も言ってることを反省してほしいな」
「怜が十回言えばいいんだよ」

 ポップコーンを真ん中に置いて、食べながらスクリーンの注意喚起を見る。録画禁止、録音禁止、騒がない――。
「……さっきの話だけど」
 怜の声に呼ばれて横を向く。
「決まった?」
「じゃなくて……。もし仮に、仮にだけど。こないだの手紙の相手に告白されたら、カナはずっと一緒にいたいって思う?」
 想像と全く違う質問に、奏は眉を寄せる。
「え? うーん、まあ、わかんないけど……。そうなったら嬉しいよ。好きな相手とずっと一緒にいられるって幸せなんだろうなって思う」
 愛情と幸福の度合いが、共に過ごした時間と比例するのかというと、絶対ではないと思う。
 ただ奏は、両親が思い出話に花を咲かせている姿はいいなあと素直に思うし、さっきの老夫婦もすごく羨ましかった。ああいうのを見ると、やはり自分も大事な相手と人生の時計の針をなるべく多く刻んでいきたいと思ってしまう。
 奏の話を聞いた怜は「そうだよね」と短く相槌を打った。そのドライな反応に、自分の甘っちょろい夢が急に気恥ずかしくなってくる。
「……今の、怜にしか話してないからな。絶っ対言うなよ」
「言わないよ。カナはロマンチストだね」
「うるせえ。あー言わなきゃよかった」
 バカにされたような気がして、奏は怜から顔を背け、スクリーンを見ながら勢いよくポップコーンを食した。
 しばらく続けていると、不意に怜の視線を感じる。
「何だよ」
 横目で睨むと軽く笑って、内緒話の距離で打ち明けた。
「ポップコーンついてる」
「へ? どこに?」
「口のとこ」
「口?」
 左側を指で拭い、指の腹を確認すると「そっちじゃない」と怜の手が伸びてきた。
「わ……」
 反対側の口端を、怜の親指が擦るように撫でる。小さく声を漏らすと、怜はにやっと笑って、奏の口に触れた親指の先を見た。そして、なぜかちろっと舐めた。
「は」
「しょっぱい」
 それはそうだろう、そうなんだけど、何で舐めた⁉
 おかしいだろと思うのに、底光りする黒い瞳に圧倒されて、何も言えなくなってしまう。
「カナ?」
 つーか顔、近い。熱い。燃える。
「ち、かいんだけど……」
 どうにか文句を口にすると、「ああ、ごめん」とあっさりと離れていき、奏は溜めていた息をついた。短距離を走った後のように、心臓がせわしなく鳴っている。
 びっくりした。マジでびっくりした。
 美形の破壊力、やばい。油断していた自分がバカだった。
「い、今の、何」
「何って……」
 と言ってから、怜は首を傾げて意地悪く笑った。
「練習?」
「なっ……」
 思わず絶句した。練習って。こんなのイケメンにしか許されねーだろ。ていうか、怜のくせに、どこで覚えてきたんだ。誰かに教わったのか? それとも自分で習得した?
 そういえば、聞いたことがなかったな。怜の恋バナ。モテるのは知っているし、実際デート慣れしているようだけど、どんな子と付き合ってきたんだろう。
「なあ……」
 奏が口を開いた瞬間、スクリーンから生まれた音が骨まで響いた。予告編が始まったのだ。

 視線を前に移し、ポップコーンを食べながら映像を眺める。アニメ映画、邦画、ハリウッド映画――目まぐるしく流れていく中で、海外の有名俳優と女優がベッドに雪崩れ込むシーンに差し掛かり、少しどきっとした。こういう艶っぽいシーンを見ると、未だにいけないものを覗いている気持ちになってしまう。
 いや、でも、さっきの怜もすごかった、と今しがたの動揺がまたぶり返してくる。
 そっと顔を近づけてきたり、流れるような手つきで口に触ってきたり。スクリーンの中にいる俳優が演じているように自然だった。初めてだとは思えない。やっぱり映画館で、彼女とああいう風にいちゃいちゃした経験があるのかな。何か嫌だな。

 隣の横顔を盗み見ると、白い頬はスクリーンの光に照らされて鮮やかに色づいていた。花火のように色が変わっていくさまが綺麗で、わだかまりも忘れ、つい見入ってしまう。
 ややあって、怜に横目で睨まれた。
「気が散るんだけど……」
 なら好都合だ。さっきの仕返しだと凝視していると、「ほんとにやめて」と小声で叱られた。怜から仕掛けてきたくせに。
 腹いせに怜の無駄に長い足を軽く蹴ると、間に置いたポップコーンがかさかさ揺れた。

 
「めっちゃ面白かった……! 原作のシーンの再現度やばかったな! マジ本物だったんだけど……」
 エンドロールが流れきって客席が明るくなるのと同時に、早口で思いの丈をぶつけた。怜も満足そうで、興奮が顔に滲んでいる。
「クオリティ高かったね。キービジュよりも全然自然で、喋りもそれっぽかったし」
「わかる。声、めっちゃアニメに寄せてた。役者ってすげーんだなあ」
 しみじみ言うと、怜がくしゃっと笑う。
「カナ、途中ずっと口開いてたよ」
「え? 途中って……」
「ぽかーんって感じですっごい口開けて映画見てて……ふふっ」
「なっ……見てたのかよ」
「ポップコーンもらおうと思って横見たらさ、すごい顔で……あははっ」
 よほどツボだったのか、声を上げて笑い出した。失礼な。まあ、映画に免じて許してやる。

 外に出るとちょうど昼時で、人が増えてきていた。
「何か食べたいものは?」
「とりあえず飲み物欲しい。あと固形の食べ物」
「固形? カロリーメイトみたいなの?」
「ポップコーンって空気だろ。だからちゃんとしたメシが食いたい」
「よくわかんないけど……。レストランは混んでるかな。外出る?」
「あ、フードコートあるって。ラーメン食べたい」
 階下のフードコードに移動すると、運良く窓際の二人掛けが空き、無事昼食にありつけた。怜はホットケーキとコーヒー、奏はラーメン、ではなくパスタにした。直前で今日の目的(デートの練)を思い出したのだ。
「ラーメンにしなかったんだ」
「こういうときはパスタがベターかなって」
「今日ぐらい好きなもの食べればいいのに」
「練習でできないことは本番でもできないって言うだろ」
「スポーツ選手じゃないんだから」
 呆れた口調で突っ込まれたけど、奏もそんな怜に物申したい。
「昼にホットケーキ食べてる怜に言われたくねーし。それで足りるの?」
「ポップコーンがしょっぱかったから、口直しに」
「ほんと甘いもん好きだよな……。今までもこんなことしてたのか?」
「今までって?」
「付き合ってる彼女の前で、昼にホットケーキ食べてたのかって」
 パスタをスプーンの上で巻きながら軽い気持ちで尋ねる。怜のことだから、どうせ「食べたいもの食べなよ」とか「気にしないで」とか言うんだろうけど、さすがにホットケーキの前でがっつり食事は無理なんじゃないかと思った。
「さっき思ったんだけど、怜の彼女の話って聞いたことなかったよな。前にいたんだっけ? あれ、今も?」
「……何で?」
「ん?」
「何でそんなこと気にするの」
 皿から顔を上げると、怜はすっかり手を止め、眉間に皺を寄せていた。
「何でって、単純に気になっただけだけど」
「……ふうん」
「何だよ。聞いちゃまずかった?」
「……別に」
 全然「別に」って顔してないけど。もしかして地雷ワードだった? 最近振られたばっかりで聞かれたくなかったとか。
「覚えてない」
「え?」
「だから、覚えてない。何食べたかとか、どうしてたかとか、全然」
「それって、付き合ってた人はいたってこと? なのに覚えてねーの?」
「それは……」
 怜は少し口ごもって、「何でそんなこと聞くんだよ」と繰り返す。
「だから、気になっただけだって。別に聞かれてもいいって自分で言ったじゃん」
「……カナには関係ないだろ」
「は? 何それ」
 聞かれたくないなら初めからそう言えばいいのに、不機嫌に手のひらをひっくり返して怒るのはずるいと思った。が、それよりも引っかかったのは最後の一言だ。「関係ない」はさすがにひどいだろ。幼馴染の親友相手に。
 そりゃあ怜と違ってろくに経験もないから、相談したって戦力外、役立たずのポンコツなのはわかる。でも、関係ないとまで言われるのは寂しい。彼女ができたら、せめて報告ぐらいしてほしい。こっちは怜にラブレターの件を相談してるのに、フェアじゃないだろ。
「……カナ」
「何」
 むすっと答えると、怜が重い口を開いた。また何か言われるのかな、と身構えると。
「買い物の後、うちに来ない?」
「え?」
 驚いて、巻きかけのパスタを崩してしまった。
「え? え? マジで? いーの?」
「……そんな驚く?」
「だって、すげー久しぶりだから……」
 記憶が正しければ、映画と同じで中学生ぶりだ。
「期待してもらうようなものはないし、つまんないかもしれないけど……」
「いや行く行く。すげー行きたい!」
 こんなので機嫌が直る単純さが一瞬嫌になったが、それよりも嬉しさが勝る。昔から奏のうちでばかり遊んでいるから、怜の家に呼ばれるとすごく特別感がある。中学の頃、はしゃぎすぎて帰る途中でべしゃっと転び、膝を血まみれにしたこともあった。
「……はしゃぎすぎて、途中で転ばないでよ」
 同じことを思い出したらしい、釘を刺されてしまった。
「さすがにしねーよ。怜の家ほんとに久しぶりだな。前となんか変わった?」
「変わってないと思う」
「ベッドの下覗いていい?」
「絶対だめ」
 ってことは、何かあるってことかな。こっそり家捜ししてやろう。
「じゃ、早く買い物行こうぜ」
 立ち上がりかけると「待って」と制された。
「俺、まだ食べてるんだけど……」
「はーやーくー‼」

 
 駅前の高層マンションの最上階が怜の家だ。オートロックの扉をくぐり、重厚なエントランスでエレベーターを待ち、耳の突っ張りを感じながら一番上まで上昇し、内廊下を歩いてやっと部屋に辿り着く。
 怜は「普通だよ」と言うけど、生まれたときから戸建てに住んでいる奏にとっては、毎回、アトラクションの待機列のように焦れったかった。

「どうぞ」
「おじゃましまーす。わ、すげー……。相変わらず綺麗だな……」
 怜の家はいつ来てもホテルのように綺麗だ。白メインのモノトーンでまとめられたモダンで明るいリビングに、広々としたアイランドキッチン。ガラスのダイニングテーブルを挟んで、白と黒のチェアが一脚ずつ置かれている。壁にはオシャレな絵が飾ってあって、どこを見回しても格好よかった。SNSに載せたら間違いなくバズりそう。

 でも、生活感がまるでなくて、奏はいつだって気後れしてしまう。リモコンやティッシュを始め、出しっぱなしのものはなく、ソファーに置いてあるクッションですら場所が決まっている気がして、気軽に座るのが申し訳ない雰囲気だ。

 だから、怜のお母さんの写真と、傍に寄り添う一輪挿しを見つけてほっとした。昔から、お母さんの写真は家族を見守るように、リビングの棚の上に置かれている。
 奏はその向かいに立つと、写真に向かってそっと手を合わせた。会ったことのない(覚えていない)人だから、何を話せばいいのかわからず、いつも黙って合掌することしかできない。一輪差しに咲く可愛らしい黄色のコスモスを見て、今度来るときは花を用意しようと思った。

「カナ、何か飲む? って言っても、お茶しかないけど」
 怜のいるキッチンに近づいて、奏は眉をひそめた。
「なあ、ちゃんとメシ食ってんの?」
「何で?」
「だって、何にもないから」
 奏の家のキッチンは、どこかしらに人の気配があった。調味料のケースやフライパンや鍋が取り出しやすいように配置されていて、シンクの隣の食器カゴには洗い終わったグラスや茶碗が置いてある。
 しかし、このキッチンには体温が感じられない。調味料も鍋もフライパンも食材も、洗い終わった食器すらも見当たらなかった。
「食べてるよ。大丈夫、片付けてあるだけだから」
 奏の不安を悟ったのか、怜が笑う。
「ホームキーパーさんがすごいきっちりした人で、いつも綺麗に片付けてくれるんだよ。俺も出しっぱなしは嫌だから、使ったらしまうようにしてる」
「そっか。うち来ると物がありすぎてびっくりするだろ」
「そう? 片付いてると思うよ。カナの部屋は別だけど」
「その部屋に居座ってるくせに」
「で、お茶は? 飲む?」
「飲む。なあ、部屋覗いていい?」
「いいよ」
 即答できるってことは片付いてるんだろう。面白くない。えろい本とか隠してあればいいのに、なんて不埒なことを考えながら、怜の部屋のドアを開けた。

 怜の部屋はリビングに比べて薄暗かった。開放的なリビングと違って、カーテンが隙間なく引かれているからだろう。明るいと眠れない、と昔言っていた気がする。
 壁側のスイッチで照明をつける。眩しさに目を細めながら、一言。
「……全然変わってねーな」
 そう口にしてしまうぐらい、隅から隅まで記憶にある光景と一致していた。ベッドに机、収納にクローゼット。家具も配置も全く変わっていない。まるで時間が止まっているみたいだ。

「カナ?」
 肩を叩かれて振り返ると、怜が訝しげな顔をしていた。
「どうかした? 面白いものはないと思うんだけど」
「どうもこうも、変わってなさすぎてびっくりした。おまえ、ミニマリストってやつなの?」
「違うよ。ベッドも机もあるだろ」
「え? ミニマリストってそういうのだっけ」
「基本的に物は持たないんじゃなかったっけ。その辺、適当に座って。クッションあるから」
 言われるがまま腰掛けて、視線の先の本棚を眺める。ラインナップは教科書や参考書、小学生の頃からの図鑑や辞書と真面目なものばかり。やらしい本どころか漫画もなかった。
「受験生みたいな本棚だな」
「期待に添えなくてごめん」
「ベッドの下に隠してあるとか?」
「隠してないけど見るなよ。ゴミ落ちてたらやだし」
「ケチ」
 グレーのクッションを抱き、唇を尖らせると、麦茶のグラスがローテーブルに置かれた。向かいに怜が座る。
「ミニマリストってわけじゃないけど、あんまり物増やしたくないんだよね。本は図書館で借りるか電子で買うか……。漫画はカナにお世話になってるし」
「うちはネカフェじゃないんだけど」
「わかってるよ。いつもありがとう」
「一時間五百円な」
「地味に高……。カナの部屋は物が増えたよね。漫画に、PCに、ぬいぐるみとかフィギュアとか。あれ、おじさんがゲーセンで取ってきてるんだっけ?」
「父さんがたまにどかっと取ってくるんだよ。ストレス発散なんだって。怜のおじさんと昔からよく行ってたらしいよ」
 中高生の頃、怜の父親と一緒に辺りのゲームセンターのクレーンゲームを無双していたらしい。この前、流行の漫画のフィギュアを取ってきて自慢げに話していた。
「そうだ、おじさんって今どこいるの?」
「東北の山奥のホテル。電波が不安定だから連絡取ってないけど」
 怜の父親の仕事のひとつが、国内外のホテルや旅館を買い付けて、現地に出向いて立て直しをする、というものらしい。一度、奏の両親と怜と一緒に、再建した沖縄のホテルに泊まらせてもらったが、すごく豪華で楽しかったのを覚えている。
「この前は九州って言ってなかったっけ。すげー忙しいな。帰ってきてんの?」
「たまに。大体三日とか、長いと一週間ぐらいいるけど、もう、こっちに帰ってくるほうが逆に出張って感じだな」

 呆れたように言うものの、怜が父親を大事に、誇りに思っているのは知っている。年も年だし、小学生の頃のように両親が好きだとあけっぴろげに言うのが何となく気恥ずかしくて、つい突き放した言い方になってしまうのだ。奏も同じ気持ちなので、そっとしておいた。
「おじさんもいないならさ、前みたいにもっとうちに来ればいいじゃん」
 困ったように眉を下げた。
「カナはともかく、さすがに迷惑だろ。それがわかんない年じゃないよ」
「うちの親がそんなの気にするわけないだろ。何なら、昔みたいに一緒に住むって言っても絶対に反対しないと思う」
「……だからダメなんだよ」
 怜は短く息をつき、立ち上がった。
「え? 今なんて言った?」
「何でもない。カナ、動画見る?」
「話逸らしたな」
「ちょっと前にプロジェクター導入して、壁に映せるようにしたんだ。映画館には負けるけど、結構大画面で見れるよ」
「え、マジ?」
「うん。こっち来て」
 ベッドのヘッドボードに背中を預けて座る。怜も隣にやってきて、スマホで照明を落とすと、プロジェクターを操作した。
「何でもスマホでできるんだな」
「まあね。何見る?」

 動画サイトのおすすめ欄を見ていたら、先程の実写映画のアニメ版が出てきた。覚えているうちに比較しよう、という流れになったので、アニメの一話を再生した。冒頭のシーンが流れると、怜の部屋に足を踏みいれたときのように思い出が瞬間解凍される。
「なつかしーな。これ、一緒に観たよな?」
「観た……かも。カナの家でだっけ?」
「そうそう。学校から帰ってリビングのテレビで観てたんだよ」
 確か、中一か中二の頃。あの頃、怜は二日に一回ぐらいのペースで新瀬家に来ていた。一緒に夕飯を食べたし、泊まりも多かった。懐かしいな、と隣の横顔をちらりと見る。
 あの頃よりも大人びたとはいえ、怜の本質は寂しがり屋だ。小学生の頃、たびたび両親を想って、影で落ち込んでいたのを奏は間近で見ている。だから今更強がりも遠慮もいらない。

「……また来いよ。ほんとに。遠慮なんてしなくていいから。父さんも母さんも、おれも、怜のことは家族みたいに思ってるし」

 言ってみたはいいが、急に気恥ずかしくなってしまって、誤魔化すように映像に目をやった。ちょうど映画館で見たシーンだ。
「そうだ、この次のところ、確か原作と――」
 ちょっと違ってなかったっけ、と言いかけて、奏はふと気づく。怜が映像ではなく、じっと自分を見ていることに。
「どした?」
 返事の代わりに怜が顔を近づけてきた。

「……練習する?」

 ポップコーンのときと同じぐらいの距離で、ささやくように言われた。
 練習? 練習って言った? この距離で? 何の?
 まさか。

 意図を察した瞬間、視線が絡み、黒い瞳に覗き込まれる。吸い込まれそうな黒に、思考も意識も全部止まる。奏はただ、怜の前で無防備になった。

「れ……」

 そのとき、床に放っていたスマホがうるさいほど鳴り響き、奏は弾かれたように正気に戻った。怜の肩を全力で押し返し、自身も身じろいで距離を取る。

 何だ、何だったんだ今の。いや、嘘。さすがに察してる。おれの気のせいじゃなかったら、今のは――。

「スマホ、いいの?」
 はっと顔を上げると、怜と目が合い、条件反射で逸らしてしまった。意識しすぎだ。童貞かよ。そうだよ。キスもしたことないっつーの。それなのに、今のは。
 唇を噛んで悶々としていると、怜がふうっと息をついた。
「……ごめん、冗談」
「は?」
 再び怜を見ると、意地悪く笑っていた。

「練習っていうのは嘘。カナの反応が見たかっただけ。ごめんね」
「な……」
 からかわれたんだと気づいて、全身が燃えるように熱くなる。
「バッ……おまっ、バカ! バーカ! 何やってんだよ!」
 大声で怒鳴ると、怜は眉をひそめて両耳を押さえる。
「だからごめんって……」
「ごめんで済むか! マジでびっくりしたっつーの! つかネタばらしが遅せーよ!」
 腹いせに肩を一発叩き、怜の黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。嫌そうに「うわ」とつぶやいていたが知ったこっちゃない。調子に乗ったバツだ。おれの純情を弄びやがって。
「カナ、スマホ……」
「わかってる!」
 怜をわざとまたいでベッドを降り、いらいらと床に置いていたスマホを確認したのだが。
「カナ?」
「……母さんが、怜と一緒にいるなら、うちでご飯食べないかって」
 タイミングを見計らったような平和なお誘いだった。真っ赤に染まっていた怒りに冷水を浴びせられて、栓の抜けたような溜息が出る。「今日は唐揚げです!」と補足がくると(記号は絵文字だった)、いよいよ気が削がれてしまった。

「……で、どうすんだよ」
 ぶっきらぼうに尋ねると、怜は困ったような苦笑を浮かべる。
「行ってもいいの」
 ずるいと思った。そんな風に言われたら断れない。
「……連れて帰んなかったらおれが怒られるから」
 素直に「いいよ」と言いたくなくて、母親を口実に使ってしまった。母さんごめん。でも、これぐらいは許してほしい。あんな悪質なからかい、おれじゃなきゃ絶交だぞ、絶交。
 でも、今ので確信した。やっぱり怜は彼女がいたんだ。キスしたんだ。
 なんか、むかつくかも。

 
「カナ」
 部屋を出る直前、怜に呼ばれた。
「何だよ」
 視線を投げると、もう一度「ごめん」と謝られた。行きすぎたいたずらにしょんぼりと落ち込む子どもみたいな顔だった。
 意地を張っているのも馬鹿馬鹿しくなって、奏は息をつき、もう一発背中を叩いた。結構な力を込めて。景気のいい音が響いたので、リビングのお母さんに聞かれたかもしれない。ごめんなさい、でも悪いのは百パーセント怜なので許してください。
「いっ……て」
「一生のお願いの一回分。おれも今日、付き合わせたし、これでおあいこってことで」
 譲歩してやったのに怜の表情はまだ硬い。そんなに落ち込むなら最初からするなよ。面倒くさいやつ。
「あ、そうだ、アイス奢って。コンビニで一番高いやつ。それでチャラにする」
 冗談めかして言うと、少しだけ和らいだ。
「おあいこって言ったのに」
「誠意を見せろ、ってやつだよ」
 壁の電気を消し、ドアを薄く開けると「カナ」と呼ばれた。何かを訴えるような切なく黒い目は、すぐに伏せられてしまった。
 落ち込んでいる怜を見ると奏も堪える。どんなに怒っていても慰めなければ、という使命にかられてしまうので、昔から怜との喧嘩は長続きしなかった。手の掛かるやつだと思うけど、そういうところも含めて怜だから、しょうがない。
「ほら行こう。母さんが唐揚げにするって。その前にコンビニな」
 奏は怜の腕を引っ張った。
 
 ***

「アイス、マジで一番高いの買っちゃった」
 コンビニのアイスを片手にカナはご満悦だ。俺にされた仕打ちも忘れて「サンキューな」とにこにこ笑っている。素直で単純なのはカナの長所だけど、この危機感のなさはどうかと俺は常々思っていた。そんな風に隙だらけだから、俺みたいなのにつけ込まれるんだ。練習だなんて見え透いた嘘をつかれて。
 あれは練習なんかじゃない。俺の、ただの薄汚い欲望だ。
 俺はもうずっと前から、カナに救われて、焦がれている。


 俺の一番古い記憶はカナと別れたときのものだった。輪郭ははっきりしないけど、すごく悲しい出来事があって号泣していたのをうっすら覚えている。その記憶は正しくて、俺は新居への移動中も、引っ越しのあともずっと泣いていたらしい。いつかまた会えるといいねと母さんが何度も話して聞かせてくれた。俺は、無邪気に頷いていたと思う。まさか、「いつか」が母さんの死と共に訪れるとは思わなかったから。
 次にカナと再会したときのことは一切記憶にない。母さんが死んでから数か月間の記憶がすっぽりと抜けていて、その間どうやって過ごしていたのか、どうやってカナの家に来たのか、何も覚えていない。

 カナとの二番目に古い記憶は、とある朝の出来事だ。
 あの頃、俺はカナの部屋で寝起きしていた。カナはベッドで、俺は布団。寝相の悪いカナは俺のところに布団や枕をよく落とし、俺は毎回直してやっていたらしい。
 その日も頭上から何かが落ちてきて、俺ははっと目を覚ました。枕だ、と思って身体を起こすと、カナはベッドで大の字になって眠っている。腕の半分がベッドからはみ出て宙ぶらりんになっていて、よくこんな体勢で寝られるなとしみじみ思う。
 枕を戻してやろうとしたところで、カナの頭の傍で目覚ましの音が鳴り響いた。カナは半分寝たまま不機嫌にそれを止めると、そのまま二度寝しようとする。俺はそんなカナを無理やり起こして、着替えさせて階下に連れていった。
 まだ眠たげなカナを先導し、階段を降り、リビングのドアを開ける。すると、ダイニングにいたカナの両親が揃って「おはよう」と、俺たちふたりを見て笑う。

 キッチンから朝ご飯の優しくて温かい匂いが漂ってきて、リビングには朝日が差している。あんまりにも眩しくて美しい光景に、俺の足は急にすくんでしまった。気後れしたのだ。ここは俺の家じゃない。俺の居ていい場所じゃない。どうして俺はこんなところにいるんだろう。辛いことなんて何もなかったみたいに暮らしているんだろう。

 ためらう俺の背中を押したのはカナの手だった。「何してるんだよ、怜」と屈託なく笑い、最終的には、棒立ちの俺の手を引いてリビングに連れていってくれた。
 俺の迷いに気づいていたのかどうかはわからない。ただお腹が空いていて、早く朝ご飯にありつきたかっただけかもしれない。何だってよかった。カナのおかげで、俺はそこにいていいんだと思えた。新しい一歩を踏み出せた。

 
 一番辛いときに傍にいてくれたカナと、俺を受け入れてくれたおじさんとおばさんには感謝してもしきれない。いつか、あのときの恩をきちんと返したい。そう思っていたはずなのに、いつからか俺の胸には相反する感情が巣くっている。
 捨ててしまえばいいんだと頭ではわかっている。何度もそうしよう、そうするべきだと思った。他の誰かを選べないかとあがいたこともある。
 でも、何もかも上手くいかなかった。誰と何をしても、最後にはカナのことを考えてしまう。カナの元から離れてようとしても、もっと近づきたいと思ってしまう。

 今日なんて、浅はかな欲望を何度もぶつけてとうとうカナを怒らせてしまった。バカだと散々罵られたけど、本当にその通りだ。今日の所は誤魔化せたけど、いつかはボロが出て、これまでの幸せな記憶も信頼も全部失うかもしれない。どんなに大事なものでも失うのは一瞬だ。取り返しが付かなくなる前に、こんな気持ちは捨てた方がいい。わかってる。
 でも俺は、アイスを食べるカナを見ながら内心思っていた。
 あのとき、キスしておけばよかった、と。