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奏が人生初のラブレターをもらったのは、高校二年の夏休み明けだった。
暦の上ではとっくに秋だが真夏日が続き、教室のエアコンはフル稼働、窓の外では蝉が鳴き狂っている。おかげで夏休み気分が抜けきらず、学校全体が気怠い空気に包まれていた。
六限の数学2、かろうじて睡魔に勝った奏が顔を上げると、教室は負け戦の跡のようだった。起きているのは廊下側の一番後ろの席の奏ひとりで、他は全員が机に突っ伏している。
まあ、つまんねーもんな、辻の授業。呪文のように抑揚のない声音で教科書の数式を唱えるだけなので、疲労が溜まった一日の終わりには眠りに誘う黒魔術のごとく効く。それでも、いつも三分の一程度は生き残っているので、ほぼ全滅というのは逆に珍しかった。
奏は膝の上でこっそりとスマホを起動し、LINEを送った。
『やばい、うちのクラス今、全員寝てる』
きっと返事はない。送り先――怜は隣のクラスで授業を受けている最中だ。
奏だって、普段なら授業中にスマホなんて見ないし触らない。ただ、この行きすぎた光景がおかしくて、怜にも共有したくなったのだ。どうせ帰り道でも話すのに待ちきれなかった。
もちろんその後は真面目に取り組むつもりだったが、だんだん呪文が効いてきて、奏の意識も朦朧とし始めた。さすがにクラス全員が寝る事態は避けなければと必死で抗っても、眠気の訪れる間隔が短くなってくる。
俯いて膝に向かってあくびを零していたときだ、スマホの画面がぼうっと光り、「頑張って」と怜の返信が待ち受けに表示された。図ったようなタイミングで少し笑えてくる。
もしかしたら怜も眠かったのかも、それで手持ちぶさたにスマホを確認したのかもしれない。だとしたらシンクロしてるな、おれたち。双子はテレパシーのように通じ合うって聞くけど、幼馴染にもそういう能力があったりして。
なら、今は一気に目が覚めたかもしれない。「怜も」と短く返すと、奏は姿勢を直し、再び呪文――ではなく授業に耳を傾けた。
「カナ」
帰り支度をしていると、廊下の窓から怜が顔を出した。放課後なのに筆記用具とノートを持っている。
「何、補習? 寝てて怒られた?」
「そんなわけないだろ。カナじゃないんだから。これから委員会行くから、先帰ってて」
さりげなくディスられた。
「ってか、委員会って何やってんだっけ」
「広報」
広報って何やってんだっけ、と聞き返す間もなく、怜は歩いていってしまった。相変わらずのマイペース、と思っていたら、「ねえねえ」と肩を叩かれた。
「新瀬って月峰くんと仲いいの?」
「うん。幼馴染なんだ」
といっても、世間一般の幼馴染とは少々勝手が違っている。四歳ぐらいまではご近所同士だったけど、怜は一度遠くに引っ越してしまった。そして小学四年生の頃にまた戻ってきて、それからはずっと一緒にいる。
引っ越す前のことはほとんど覚えていないし、実質、小学校からの友達と呼ぶのが正しいのかもしれない。ただ、両親から「怜くんっていう幼馴染がいるのよ」と怜と一緒に過ごした頃のエピソードを散々聞かされてきたので、奏は怜を幼馴染と認識していた。怜も似たようなものだったそうだ。
これを他人にまるっと説明するのが面倒なので、奏と怜は互いを「幼馴染」の一言で通している。
「へー、そうなんだ。なんか不思議な組み合わせだって思ってたけど、納得」
赤の他人から見ての奏と怜の評価は概ねこんな感じだ。幼馴染と言えば納得してもらえるけど、それがなければ単純に釣り合わない(と思われている)。まあ、そうだよな。奏も意義はない。何せ怜――月峰怜は、眉目秀麗を人間にしたような男だ。
さらさらの黒髪にすらりと伸びた背に長い手足と、それだけでも十分目立つのに、その顔立ちは見る人全ての目を奪うように端整だった。
黒い瞳や鼻筋、眉に唇といったパーツのひとつひとつが美しく精巧に作られていて、それらが顔面の一番輝く場所に配置されているらしい。中学の美術の授業で、教師が怜の顔を「黄金比」と呼ぶんだと興奮していたのを奏は今もよく覚えている。
それでいて美術館に置かれているような雄々しく近寄りがたい石像とは違い、甘くてちょっと怠そうな――少女漫画に出てくるイケメンみたいな顔立ちなので、女の子たちが放っておくわけがなかった。
学校ではきゃあきゃあ騒がれ、怜の誕生日(6月)やクリスマス前、バレンタインなどのイベントにはひっきりなしに呼び出しを食らい、街に出ればスカウトされ、SNSでは隠し撮りが勝手に拡散されている。さっきも怜が顔を出した瞬間、教室のどこかで黄色い歓声が上がっていた。
一方、奏はというと平々凡々、良くも悪くも普通だった。小中高と未だに身長に恵まれず170の壁を突破できない上に、顔面は(認めたくないが)子ども顔で、格好いいより可愛いと言われた回数のほうが多い。そのスペックで運動神経も勉強も平均的なので当然モテるはずもなく、陰日向の青春を送ってきたわけだ。怜の隣にいることを不思議がられても何らおかしくはない。
とはいえ、怜に対して劣等感を覚えたり、妬ましく思うことは一度だってなかった。一般人が芸能人を見て本気で嫉妬しないのと同じように、生まれ持ってきたポテンシャルやフィールドが違いすぎるから比べたってしょうがない。その身長ちょっと分けろよと思ったりはするけど、せいぜいその程度だ。この先もずっと変わらない。怜は大事な幼馴染で親友で、家族みたいな存在だ。競う相手じゃない。
クラスメイトに別れを告げて教室を出る。夕暮れの赤い西日に照らされた昇降口は茹だるように暑い。長いことクーラーが効いた教室にいたので身体が温度差に悲鳴を上げ、毛穴から汗が噴き出してきた。
あちいと息をつきながら靴箱を開けて、奏は息を呑んだ。思わず扉を閉める。
え、今の何? 見間違いか? 暑すぎて蜃気楼でも見た?
誰に聞かせることのない予防線を張りながらも、心臓は期待でバクバクとうるさかった。
奏はもう一度、今度は息を潜めて中を覗き込んだ。そして、声を出しそうになるのを必死に押し殺し、靴の上に置かれた薄い水色の封筒をそっと取り出した。
「マ、ジかよ……」
もしかしなくてもこれって、ラブレターってやつだよな。
唾を飲み込み封筒の裏側を確認したが、差出人の名前はない。マジかよ。気になる。今すぐ開けて確認したい。でも、誰かに見られたり囃し立てられたりするのは絶対に嫌だ。なんてったって人生初のラブレターだ。大事にしたいに決まってる。
ていうか、今、見られてないよな。奏は慌てて周囲を見回した。幸いにもこのブロックには奏ひとりだったが、裏で話し声もするし、うかうかしてはいられない。
奏は封筒を丁寧に、しかし手早く鞄にしまうと、代わりにスマホを取り出し、怜にLINEを送った。
『学校終わったらうちに来い。重大発表がある』
自分の送ったメッセージを改めて見て、顔がにやけてくる。
九月なのに暑すぎて無理とか、夏休み明けの学校怠すぎとか思ってたけど全部撤回する。学校、最高。陰日向の青春に、待ちに待った眩しい希望の光が差し込んできたのだ。
今日は記念日だ。奇跡の一日だ。
「ってことで、それがこの手紙だ」
じゃじゃーんと効果音を口ずさみながら、件の手紙を怜に見せびらかせたが、怜の反応は大量の氷が溶けたオレンジジュースよりも薄かった。封筒を見たのはほんの一瞬、あとは読みかけの漫画に視線を戻すと「よかったね」とおざなりな祝福を口にする。
「何だよその反応! 他になんかねーの?」
「他にって、たとえば?」
「喜ぶとか! おめでとうって言うとか! 何が書いてあるのって聞くとか! 冷やかすとか!」
文句を並べると、怜は黒い前髪の向こう側から呆れたように奏を見る。
「逆の立場で、カナが喜んだことってあった?」
「そりゃ、怜はもらいすぎなんだよ。いちいち喜んでたら毎日がパーティーじゃん」
嫌味のつもりで言ったのに、ふはっと笑われる。
「それいいね。毎日ケーキ買ってお祝いしてよ」
そういう問題じゃないと怜を睨んだが華麗にスルーされた。手紙よりも漫画の続きが気になるらしく、食い入るように見入っている。それ、おれの漫画なんだけど。読みたいなら幼馴染の晴れの日ぐらい祝福しろっつーの。
怜は一見完璧そうに見えるけど、自分の意に反することは絶対にやりたがらない。褒めたくなかったら褒めないし、漫画を読みたかったら読む。マイペースと言えば聞こえはいいが、要するにめちゃくちゃガキだ。今日のこの調子だと期待しても無駄だろう。
奏はベッドに寝転ぶと、手紙を両手で掲げ、もう十回は読んだ文章を飽きずに目で追った。
『突然すみません。いつも見てます、って言ったら怖がられるかもしれないんですが、先輩のことを知ってから、ほんとにずっと見てました。初めは格好いいなって思ってたんですけど、それだけじゃなくて内面も素敵なところがたくさんあるだって今はわかります。先輩のさりげなく優しいところ、落ち着いているところをすごく尊敬しています。見てるだけでいいと思ってたけど、夏休みで全然会えなくて、寂しくて、どうしても伝えたくなりました。好きです』
うん、何度読んでもすげー嬉しい。先輩ってことは一年生だよな。誰だろう。図書委員の子かな。性格を褒めてもらえたのも嬉しいけど、おれ、格好いいんだって。
「……それで?」
突然、頭上から覗き込まれて飛び跳ねそうになった。
「うおっ! び、びっくりしたっ、漫画読んでたんじゃねーの」
慌てながら壁にもたれて三角座りすると、怜もベッドに腰掛け直して溜息をついた。
「読み終わった。すっごい気になるところで終わったんだけど……」
「本誌読めば?」
「単行本で一気に読みたい」
「めんどくせえ……」
「聞こえてるよ。その手紙だけど、結局何? 気持ちを伝えたいだけってこと?」
急に話に乗ってきたと思ったら。
「人がもらったもんにケチつけんな」
「純粋に疑問なんだよ。差出人の名前もないんだろ。随分一方的だなって思うんだけど」
「それは……。ほら、焦ってて忘れたのかもしれないだろ」
「伝えたかったって書いてあるのに?」
「めっちゃ読んでるじゃん……」
「百歩譲ってカナの言う通り、名前は忘れたんだとしても、何のための手紙なんだろうね」
「は? 好きって言ってんだから告白だろ」
「どうだろ。好きにも色々種類があるし……。この書き方だと憧れか、友愛って感じにも取れそうだけど」
怜は攻めの手を止めず、冷めた口調でラブレターの存在を否定してきた。さっきまで無関心だったのが嘘のように辛辣だ。
「そ、そんなこと……ないよな……?」
不安になって手紙に尋ねてみるが、当然、返事はない。怜が嘆息する。
「結局、この人はどうしたいんだろうね。名前も連絡先も書いてない、カナに何を期待してるのか、何も期待してないのかもわからない。何なら、いたずらの可能性だってありそうだけど」
さすがにそれは言い過ぎだ、と怜の肩を蹴った。
「そんなことない! ……と、思う」
「何で?」
「だって、わざわざ渡してくれたんだぞ。すげー勇気だろ」
「どこが? 直接伝える勇気もない上に名前もないなんて、SNSの匿名のコメントと同じじゃん」
情緒のない言葉を睨みつけた。
「全っ然違うよ。少なくともおれを知ってる子だってことは手紙の内容からわかるし、おれがもらったんだから、怜にそんな風に言われる筋合いはない」
きっと怜にとってはラブレターなんて、クラスメイトに挨拶するぐらいの些末なことなんだろう。でも、奏にとっては人生における記念すべき出来事だ。差出人が誰であろうが、それは絶対に揺らがない。
奏はもう一度手紙を見て、微笑を浮かべる。
「……そんなに嬉しい?」
怜が呆れたように尋ねた。
「嬉しいよ。すげー嬉しい。だって、おれのことをちゃんと見てくれて、考えてくれる子がいるんだよ。家族以外さ。それってすごいことじゃん」
怜の言う通り、それが恋とは違い、憧れや友愛だったとしても、こんな風に素直に伝えてくれる、その事実が嬉しかった。
「……そもそもだけど、それ、ほんとにカナ宛てなの? 宛名もなかったんだよね。うちの学校の靴箱って学生番号で振り分けられてるし、間違えかもよ」
なのに怜ときたら、重箱の隅をつつくようにネチネチと粗を探してくる。フィクションに出てくる面倒な小姑かっつーの。
「外野は黙ってろ。ていうか、手紙の顛末がわかんないってことは、もしかしたら告白される可能性だってあるよな。どうしよう、急に言われたら……」
「手紙に名前も書けない人が告白なんてできると思えないけど」
「え、マジでどうしよ。いつ来てもいいように準備しておかないとだよな」
想像したらどきどきしてきた。放課後、校舎裏にこっそり呼び出されて告白とか、一緒に帰るとか、遊びに出かけるとか、密かに憧れていたイベントが発生するのかも。
脳内で花を咲かせていると、怜が黙って立ち上がった。
「あれ、メシ食ってかないの?」
「今日はいい。食欲ないし。おばさんにもそう言ってあるから」
遊びに来た日はほぼ夕食を食べていくのに珍しい。
「ふーん。じゃあな。また明日」
部屋から出て行く背中を目で追い、奏は飽きずにラブレターを読み返した。怜はああ言ったけど、おれのこと好きだと思うんだけどな、この人。何となく気持ちが伝わってきて、自然とにやけてしまう。どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。
その日の夜、母親と夕飯を取りながら、それとなく聞いてみた。
「母さんと父さんって高校の同級生だったんだよね。その……どっちから付き合おうって言ったの?」
「何、急にどうしたの?」
「え、いや。何となく……」
つい言葉を濁してしまった。親子仲は良好で、親のなれそめも知っているし、奏に今まで恋人がいないことも知られている。でも、自分が人生初のラブレターをもらったと報告するのは何となく気恥ずかしい。
にもかかわらず今の質問をしたのは、奏にとって両親が一番身近な恋愛経験者だからだ。
奏の両親は高校で出会った。三年間同じクラスで、二年の文化祭をきっかけに付き合い、同じ大学に進学。大学三年で同棲を始め、卒業後すぐにゴールイン、と少女漫画のような軌跡を辿っている。ふたりの話を聞いて育った奏は、両親の恋愛に密かな憧れがあった。
母親は目を細めて笑うと、少し遠くを見る。
「そうね……。告白、はなかったと思うけど」
「え、そうなの? それで上手くいくんだ……」
「お母さんが覚えてないだけかもしれないけど。お父さんに聞いてみたら?」
「父さんは絶対自分がしたって言うだろ。信憑性ゼロ」
格好つけたがりの父親は、今頃出張先でくしゃみでもしているかもしれない。
「でも、じゃあどうやって付き合ったわけ?」
「うーん……。文化祭の打ち上げで遊びに行こうって言われたんだったかな。本当はクラスのみんなで打ち上げのはずだったんだけど、その日にふたりで出かけないかって誘われて……それから、だったかなあ……」
「結構曖昧なんだ」
「もうずっと前のことだから忘れちゃった」
父さんは覚えてるんだろうな、と思いながら、奏は唐揚げの山に手を伸ばした。こんがりと焼き色のついた塊を口に放ると、爽やかなレモンの風味と黒こしょうの後に、がつんと塩味が来て、肉汁が口腔いっぱいに広がった。母親特製の塩唐揚げはやっぱり美味しい。
「ねえ、怜くんは大丈夫なの?」
「なにが?」
咀嚼しながら聞き返す。
「唐揚げだって言ったんだけど、食欲ないって言ってたから。珍しいよね」
「確かに……」
怜は甘いものと新瀬家の唐揚げが大好物だ。普段は涼しい顔をしているのに、好物を前にすると子どもみたいに嬉しそうにする。
「たくさん作ったから、明日、お弁当作ろうか? 奏と怜くんの分」
「じゃーあとで怜に聞いてみる」
食後すぐに怜にLINEを送ったが、数時間経っても既読がつかなかった。気づいてないと言うことは、本当に具合が悪くて寝てるのかもしれない。今日も家にひとりだよな。大丈夫かな、あいつ。
怜の家は父子家庭だ。母親は小学四年の頃に事故で亡くなっていて、実業家の父親と二人で暮らしている。父親は仕事が多忙で、特に怜が高校に入ってからは単身赴任が続いている。怜は実質、一人暮らしのようなものだった。
ハウスキーパーが週に何度か来て、身の回りの世話をしてくれているから大丈夫だと言うけど、逆に言えばそれ以外はひとりぼっちだ。具合が悪くなっても誰も助けてくれない。なのに、怜はどんなときでも「大丈夫」と強がった。
壁を作られるたび、奏は寂しさと苛立ちを覚える。遠慮なんていらない。家族みたいなものなんだから、もっと気軽に頼ってくれればいいのに。
小学四年の冬から卒業するまでの間、怜は奏の家で暮らしていた。当時、怜の父親は仕事のためどうしても海外赴任が必要で、親友――奏の両親に怜を託したのだった。奏はそこで、おとぎ話のように何度も聞いた「幼馴染の怜」と再び出会ったのだ。
兄弟もいなければ近所に年の近い友達がいなかった奏は、幼馴染という特別な響きにずっと憧れを抱いていた。その怜と再会できたのがとにかく嬉しくて、怜の遠慮なんてお構いなしに話しかけ、漫画を勧め、ゲームに誘いまくっていた。「カナ、うるさい」と口癖のように言われたけれど、全く気にしなかった。
今になって思うと、自分の行いはとても配慮に欠けていたような気もする。母親を亡くしたばかりの怜は、今とは違ってどことなく暗く不安定な雰囲気で、目を離したらふらふらと家を出て行ってしまいそうな気がしていたのをうっすら覚えている。もしかしたら奏のことを本気で迷惑に思った時期もあったかもしれない。まあ、本人に咎められたことはないので大丈夫だったと思うことにしている。
それにしても、あの頃はまだ背丈も力も大差なく、取っ組み合いの喧嘩になっても勝率は五分五分だった。今は悲しいかな勝てる気がしない。数年同じ家で同じものを食べて生活したのに、どこで差がついたんだろう。
スマホを見る。まだ怜から連絡はない。あと一時間待って音沙汰なければ家に突撃しようと決め、奏は机に向かい、明日の予習を始めた。端末が震えたのは、それから少し経ったときだ。確認すると、「弁当食べたい、おばさんによろしく」と二言だけ。人を待たせておいて、ほんとマイペースだな。
一応「具合は悪くないのか」と聞いたら「ほんとに大丈夫」と即、返ってきた。とりあえず今は、その言葉を信じることしかできない。
母親に報告すると、安心した様子で「気合入れて作らないとね」と笑い、弁当箱を取り出した。奏のと、怜の分が置いてある。
「……怜のおじさんって、怜がうち来るの反対なの?」
「え? どうして?」
「高校入ってからあんまり来なくなったじゃん。止められてるのかな」
小学校を卒業する頃、怜の父親が海外から帰ってきて、この地にマンションを買い、ふたり暮らしを始めた。ただ、怜の父親は相変わらず多忙だったので、二日に一度ぐらいのペースで奏の家に来て、奏の部屋に泊まっていった。
それが高校に上がってからはめっきり減った。家に遊びにくるのは週一か二ぐらいで泊まりはゼロ。あまりに落差があるので、てっきり親同士で密約でも交わしたのかと疑ったのだが、母親の反応からして違うらしい。
「そんな話は聞いてないけど……。月峰くんは言わないんじゃないかな」
三人は学生時代からの親友だ。父親同士が生まれた頃からの幼馴染で、高校から奏の母親が加わった。友情は卒業後も続き、今も連絡を取り合っている。
「父さんから止めたってこともないよな」
「あるわけないでしょ」
それもそうだ。奏の両親が、怜を息子のように思っているのを奏もよく知っている。
部屋に戻ると、机の上に置いたままだったラブレターがまるで光り輝くようにして目に飛び込んできた。奏はもう一度封を開けて中身を取り出し、文面を目でなぞった。読み終えると暗い窓に自分のだらしない笑みが映っていて、カーテンをさっと閉めて机に向かう。しかし手紙のことが気になってしまい、勉強に集中できなかった。
結局、奏は全てを諦めベッドに寝転び、手紙と目配せし合った。
怜には散々貶されたけど、マジで告白されちゃったらどうしよう。付き合うのかな。いや、まだ早いか? 母さんたちみたいに先にデートに行く、とかもあるよな。
しかし奏の妄想はそこで途切れる。デートってどこで何すればいいんだ?
奏は基本インドアで、出かけてもせいぜい最寄り駅周辺までだ。しかも怜とばかりつるんでいるので、大多数の高校生がどこでどう遊んでいるのか、何を喜ぶのか見当もつかなかった。
都内は全く行かないから土地勘がないのでできれば無しで。映画や買い物、カフェ巡りとアミューズメントパークならこの辺でも済みそうだけど、行き先次第で知り合いに遭遇してしまう可能性大か。囃されたら嫌だし、相手にも気まずい思いをさせてしまうかもしれないし、できればそれは避けたい。
「あー……。どうしよ……」
まだ付き合うとも決まったわけでもないのに、奏の頭の中は憂慮でいっぱいだった。みんな、こういう悩みとどう向き合ってるんだろう。誰かに聞ければ楽なんだけどな。こんなこと相談できる相手が――。
奏ははっと目を見開いた。
いるじゃん。デートしたことありそうなやつ。
翌日の昼、弁当を片手に隣のクラスに顔を出し、怜と屋上に移動した。昨日とうってかわって気温が下がり、爽やかな秋風が吹いている。深呼吸したくなるような心地よい気候だ。
金属の柵にもたれて座り、各々弁当を広げた。唐揚げと卵焼き(怜のは甘い)が入っていて、怜は顔をほころばせている。
「母さんが心配してたぞ。唐揚げなのに食べないで帰ったって」
「昨日はそういう気分じゃなかったんだよ。ごめんって言っといて」
そそくさと食事を始めたのを確認すると、奏は本題を切り出した。
「あのさ怜」
「ん?」
「おれと、デートしない?」
「……は?」
怜の箸から唐揚げが弁当箱にぼろっと落ちた。
「あぶねー、ぼーっとしてると地面に落とすぞ」
「え、何……? 今何て言った?」
「だから、デートしようって」
怜にしか聞こえないように声を潜めたのに、怜が「はあ?」と大声を上げる。反対側に陣取るグループがちらちらと視線を投げてきたので、慌てていなした。
「シッ、騒ぐなって。すげー見られてるじゃん」
「そんなのどうでもいいよ。何――何で?」
そこは幼馴染だから察して、というのは無理がありそうなので、不可解を通り越して宇宙人でも見るような顔をしている怜に、一から説明してやる。
「おれ昨日、手紙もらったじゃん。で、もしかしたら告られたり、デート誘われるかもしれないなって思ったんだけど、どこ行ったらいいか全然わかんなくて。ほら、おれ、怜とこの辺でばっか遊んでるだろ」
「……だから?」
「怜はどうせしたことあるんだろ。おれにも教えてよ」
「嫌」
即答。
「お願い! 唐揚げ持ってきてやったじゃん! 食ったじゃん!」
「作ったのはおばさんだろ。なんで俺が……」
「こんなこと怜にしか頼めねーもん」
「ていうか人に頼むってのが間違ってるし、そもそも全部カナの妄想だろ。杞憂だって」
「そうじゃないかもしれないだろ」
「『かもしれない』の域を出ないんだから、実際に起こったら考えれば」
「それじゃあ遅いんだよ。いざそのときになって慌てるのもダサいじゃん」
怜は見せつけるような溜息をついて、再び唐揚げにかぶりついた。もう話す気はないのか、むしゃむしゃと無言で食べている。何だよ。そんなに怒らなくてもいいじゃん。幼馴染の大チャンスなら応援してくれればいいのに。
奏も箸を動かしながら、どうしようかなと考える。自分で調べるか、あるいは誰か他に頼れそうな人を探すか。足踏みしているうちにチャンスを逃したらどうしよう。
「なあ、怜、頼む。一生のお願い。おれとデートしてください」
ダメ元でもう一度ねだってみると、軽蔑のまなざしを向けられてしまった。それでもめげずに顔の前で手を合わせて「お願い!」とゴリ押しすると、深くて長い溜息がひとつ。
「……わかったよ」
「え、いいの⁉ マジで⁉ やった!」
両手を挙げて喜ぶ奏の横で、怜は心底嫌そうな顔をする。
「じゃないと他の人に頼むんだろ」
「こんなこと怜にしか頼まないって」
「どうだか……。カナ、考えなしだし、思い込むと突っ走るし、強引だし」
文句(悪口?)を連ねられたが、無茶な頼みを聞いてもらう手前、反論はできない。
「で、教えろって言ったっけ。段取りは俺のほうで考えればいい?」
「え、いいの⁉ じゃあそんなに遠くなくて、人に会いづらいとこでお願いします。で、なるべく早い日で……」
「じゃあ、今週の日曜は?」
あんなに嫌がられていたのに、すごろくで十進んだぐらいの勢いで事が進もうとしている。奏としては願ったり叶ったりなので頷くと、「じゃあそれで」とあっさり決まってしまった。さすがにちょっと勢いがすぎないか。
「なあ、ほんとに大丈夫なの? なんか、やけくそになってない?」
おずおずと尋ねると、怜はすました顔で「嫌ならやめるけど」なんて言った。
「嫌なわけないだろ。でも、怜、最初は嫌がってたから」
「今更何言ってんの。一生のお願い、とか言って強引に頼んできたくせに」
「う……」
「ちなみに俺、カナの一生のお願いをもう十回は聞いてるからね」
「マジで?」
せいぜい五回ぐらいじゃなかったっけ。
「マジで。まあ、いいよ。どうせ暇だし、カナの妄想に付き合ってあげる」
「妄想って言うな!」
予鈴のチャイムが鳴り響き、奏は弁当の残りをかきこんで立ち上がる。怜も続いた。
「あ、怜、弁当箱」
「洗ってから返すよ」
「そのまま渡しても平気だよ」
「せっかく作ってもらったんだし、おばさんに申し訳ないよ」
「じゃ、お礼ってことでおれが洗っとくよ」
怜から弁当箱を預かりながら、それだけじゃ割に合わないか、と思い直した。
「怜の一生のお願い、ってやつ、おれも今度聞くから、考えといて。十回分な」
一方的に聞いてもらってばかりじゃフェアじゃないから、これでおあいこだ。
「戻ろうぜ。午後の授業だるいな~」
ぼやきながら数歩歩いたところで怜の気配が続かないことを察知し、奏は振り返った。
「怜?」
早く、と言おうとして、どきっとした。遠くを見つめる怜の横顔が、古い記憶の中にあるような物寂しさを浮かべている気がして。
「……どした?」
「何が?」
当の本人は奏の心配なんていざ知らず、軽く首を傾げている。気のせいか。何でもないとかぶりを振って、今度こそ肩を並べて教室に向かった。
「げ、午後イチ辻の数学じゃん。寝そう……」
「あ。俺、次自習だ」
「いいなー。んじゃあ日曜のことちゃんと考えろよ」
「はいはい……」
「ちゃんと考えろよ」
「……考えた結果、カップルしかいないところに連れ込む、でもいいの?」
具体的には遊園地とか、プラネタリウムとか?
「別にいいよ。怜に任せる」
そう言ったら、怜は苦いものを口にしたときの顔で「冗談」と答えた。
「え? 何が?」
「何でもない。忘れて」
ひらりと手を振り、隣の教室に入っていく背中を目で追った。変なヤツ。冗談って、一体どこに行くつもりだったんだろう。めちゃくちゃ怪しい場所だったりして。それはそれで、笑い話になりそうだけどな。
もし本当に、ラブレターの相手が彼女になったら話すかもしれない。
おれと怜は、あの手紙がきっかけでデートしたんだ、って。
怜はきっと、形のいい眉をひそめて嫌な顔をするんだろう。
奏が人生初のラブレターをもらったのは、高校二年の夏休み明けだった。
暦の上ではとっくに秋だが真夏日が続き、教室のエアコンはフル稼働、窓の外では蝉が鳴き狂っている。おかげで夏休み気分が抜けきらず、学校全体が気怠い空気に包まれていた。
六限の数学2、かろうじて睡魔に勝った奏が顔を上げると、教室は負け戦の跡のようだった。起きているのは廊下側の一番後ろの席の奏ひとりで、他は全員が机に突っ伏している。
まあ、つまんねーもんな、辻の授業。呪文のように抑揚のない声音で教科書の数式を唱えるだけなので、疲労が溜まった一日の終わりには眠りに誘う黒魔術のごとく効く。それでも、いつも三分の一程度は生き残っているので、ほぼ全滅というのは逆に珍しかった。
奏は膝の上でこっそりとスマホを起動し、LINEを送った。
『やばい、うちのクラス今、全員寝てる』
きっと返事はない。送り先――怜は隣のクラスで授業を受けている最中だ。
奏だって、普段なら授業中にスマホなんて見ないし触らない。ただ、この行きすぎた光景がおかしくて、怜にも共有したくなったのだ。どうせ帰り道でも話すのに待ちきれなかった。
もちろんその後は真面目に取り組むつもりだったが、だんだん呪文が効いてきて、奏の意識も朦朧とし始めた。さすがにクラス全員が寝る事態は避けなければと必死で抗っても、眠気の訪れる間隔が短くなってくる。
俯いて膝に向かってあくびを零していたときだ、スマホの画面がぼうっと光り、「頑張って」と怜の返信が待ち受けに表示された。図ったようなタイミングで少し笑えてくる。
もしかしたら怜も眠かったのかも、それで手持ちぶさたにスマホを確認したのかもしれない。だとしたらシンクロしてるな、おれたち。双子はテレパシーのように通じ合うって聞くけど、幼馴染にもそういう能力があったりして。
なら、今は一気に目が覚めたかもしれない。「怜も」と短く返すと、奏は姿勢を直し、再び呪文――ではなく授業に耳を傾けた。
「カナ」
帰り支度をしていると、廊下の窓から怜が顔を出した。放課後なのに筆記用具とノートを持っている。
「何、補習? 寝てて怒られた?」
「そんなわけないだろ。カナじゃないんだから。これから委員会行くから、先帰ってて」
さりげなくディスられた。
「ってか、委員会って何やってんだっけ」
「広報」
広報って何やってんだっけ、と聞き返す間もなく、怜は歩いていってしまった。相変わらずのマイペース、と思っていたら、「ねえねえ」と肩を叩かれた。
「新瀬って月峰くんと仲いいの?」
「うん。幼馴染なんだ」
といっても、世間一般の幼馴染とは少々勝手が違っている。四歳ぐらいまではご近所同士だったけど、怜は一度遠くに引っ越してしまった。そして小学四年生の頃にまた戻ってきて、それからはずっと一緒にいる。
引っ越す前のことはほとんど覚えていないし、実質、小学校からの友達と呼ぶのが正しいのかもしれない。ただ、両親から「怜くんっていう幼馴染がいるのよ」と怜と一緒に過ごした頃のエピソードを散々聞かされてきたので、奏は怜を幼馴染と認識していた。怜も似たようなものだったそうだ。
これを他人にまるっと説明するのが面倒なので、奏と怜は互いを「幼馴染」の一言で通している。
「へー、そうなんだ。なんか不思議な組み合わせだって思ってたけど、納得」
赤の他人から見ての奏と怜の評価は概ねこんな感じだ。幼馴染と言えば納得してもらえるけど、それがなければ単純に釣り合わない(と思われている)。まあ、そうだよな。奏も意義はない。何せ怜――月峰怜は、眉目秀麗を人間にしたような男だ。
さらさらの黒髪にすらりと伸びた背に長い手足と、それだけでも十分目立つのに、その顔立ちは見る人全ての目を奪うように端整だった。
黒い瞳や鼻筋、眉に唇といったパーツのひとつひとつが美しく精巧に作られていて、それらが顔面の一番輝く場所に配置されているらしい。中学の美術の授業で、教師が怜の顔を「黄金比」と呼ぶんだと興奮していたのを奏は今もよく覚えている。
それでいて美術館に置かれているような雄々しく近寄りがたい石像とは違い、甘くてちょっと怠そうな――少女漫画に出てくるイケメンみたいな顔立ちなので、女の子たちが放っておくわけがなかった。
学校ではきゃあきゃあ騒がれ、怜の誕生日(6月)やクリスマス前、バレンタインなどのイベントにはひっきりなしに呼び出しを食らい、街に出ればスカウトされ、SNSでは隠し撮りが勝手に拡散されている。さっきも怜が顔を出した瞬間、教室のどこかで黄色い歓声が上がっていた。
一方、奏はというと平々凡々、良くも悪くも普通だった。小中高と未だに身長に恵まれず170の壁を突破できない上に、顔面は(認めたくないが)子ども顔で、格好いいより可愛いと言われた回数のほうが多い。そのスペックで運動神経も勉強も平均的なので当然モテるはずもなく、陰日向の青春を送ってきたわけだ。怜の隣にいることを不思議がられても何らおかしくはない。
とはいえ、怜に対して劣等感を覚えたり、妬ましく思うことは一度だってなかった。一般人が芸能人を見て本気で嫉妬しないのと同じように、生まれ持ってきたポテンシャルやフィールドが違いすぎるから比べたってしょうがない。その身長ちょっと分けろよと思ったりはするけど、せいぜいその程度だ。この先もずっと変わらない。怜は大事な幼馴染で親友で、家族みたいな存在だ。競う相手じゃない。
クラスメイトに別れを告げて教室を出る。夕暮れの赤い西日に照らされた昇降口は茹だるように暑い。長いことクーラーが効いた教室にいたので身体が温度差に悲鳴を上げ、毛穴から汗が噴き出してきた。
あちいと息をつきながら靴箱を開けて、奏は息を呑んだ。思わず扉を閉める。
え、今の何? 見間違いか? 暑すぎて蜃気楼でも見た?
誰に聞かせることのない予防線を張りながらも、心臓は期待でバクバクとうるさかった。
奏はもう一度、今度は息を潜めて中を覗き込んだ。そして、声を出しそうになるのを必死に押し殺し、靴の上に置かれた薄い水色の封筒をそっと取り出した。
「マ、ジかよ……」
もしかしなくてもこれって、ラブレターってやつだよな。
唾を飲み込み封筒の裏側を確認したが、差出人の名前はない。マジかよ。気になる。今すぐ開けて確認したい。でも、誰かに見られたり囃し立てられたりするのは絶対に嫌だ。なんてったって人生初のラブレターだ。大事にしたいに決まってる。
ていうか、今、見られてないよな。奏は慌てて周囲を見回した。幸いにもこのブロックには奏ひとりだったが、裏で話し声もするし、うかうかしてはいられない。
奏は封筒を丁寧に、しかし手早く鞄にしまうと、代わりにスマホを取り出し、怜にLINEを送った。
『学校終わったらうちに来い。重大発表がある』
自分の送ったメッセージを改めて見て、顔がにやけてくる。
九月なのに暑すぎて無理とか、夏休み明けの学校怠すぎとか思ってたけど全部撤回する。学校、最高。陰日向の青春に、待ちに待った眩しい希望の光が差し込んできたのだ。
今日は記念日だ。奇跡の一日だ。
「ってことで、それがこの手紙だ」
じゃじゃーんと効果音を口ずさみながら、件の手紙を怜に見せびらかせたが、怜の反応は大量の氷が溶けたオレンジジュースよりも薄かった。封筒を見たのはほんの一瞬、あとは読みかけの漫画に視線を戻すと「よかったね」とおざなりな祝福を口にする。
「何だよその反応! 他になんかねーの?」
「他にって、たとえば?」
「喜ぶとか! おめでとうって言うとか! 何が書いてあるのって聞くとか! 冷やかすとか!」
文句を並べると、怜は黒い前髪の向こう側から呆れたように奏を見る。
「逆の立場で、カナが喜んだことってあった?」
「そりゃ、怜はもらいすぎなんだよ。いちいち喜んでたら毎日がパーティーじゃん」
嫌味のつもりで言ったのに、ふはっと笑われる。
「それいいね。毎日ケーキ買ってお祝いしてよ」
そういう問題じゃないと怜を睨んだが華麗にスルーされた。手紙よりも漫画の続きが気になるらしく、食い入るように見入っている。それ、おれの漫画なんだけど。読みたいなら幼馴染の晴れの日ぐらい祝福しろっつーの。
怜は一見完璧そうに見えるけど、自分の意に反することは絶対にやりたがらない。褒めたくなかったら褒めないし、漫画を読みたかったら読む。マイペースと言えば聞こえはいいが、要するにめちゃくちゃガキだ。今日のこの調子だと期待しても無駄だろう。
奏はベッドに寝転ぶと、手紙を両手で掲げ、もう十回は読んだ文章を飽きずに目で追った。
『突然すみません。いつも見てます、って言ったら怖がられるかもしれないんですが、先輩のことを知ってから、ほんとにずっと見てました。初めは格好いいなって思ってたんですけど、それだけじゃなくて内面も素敵なところがたくさんあるだって今はわかります。先輩のさりげなく優しいところ、落ち着いているところをすごく尊敬しています。見てるだけでいいと思ってたけど、夏休みで全然会えなくて、寂しくて、どうしても伝えたくなりました。好きです』
うん、何度読んでもすげー嬉しい。先輩ってことは一年生だよな。誰だろう。図書委員の子かな。性格を褒めてもらえたのも嬉しいけど、おれ、格好いいんだって。
「……それで?」
突然、頭上から覗き込まれて飛び跳ねそうになった。
「うおっ! び、びっくりしたっ、漫画読んでたんじゃねーの」
慌てながら壁にもたれて三角座りすると、怜もベッドに腰掛け直して溜息をついた。
「読み終わった。すっごい気になるところで終わったんだけど……」
「本誌読めば?」
「単行本で一気に読みたい」
「めんどくせえ……」
「聞こえてるよ。その手紙だけど、結局何? 気持ちを伝えたいだけってこと?」
急に話に乗ってきたと思ったら。
「人がもらったもんにケチつけんな」
「純粋に疑問なんだよ。差出人の名前もないんだろ。随分一方的だなって思うんだけど」
「それは……。ほら、焦ってて忘れたのかもしれないだろ」
「伝えたかったって書いてあるのに?」
「めっちゃ読んでるじゃん……」
「百歩譲ってカナの言う通り、名前は忘れたんだとしても、何のための手紙なんだろうね」
「は? 好きって言ってんだから告白だろ」
「どうだろ。好きにも色々種類があるし……。この書き方だと憧れか、友愛って感じにも取れそうだけど」
怜は攻めの手を止めず、冷めた口調でラブレターの存在を否定してきた。さっきまで無関心だったのが嘘のように辛辣だ。
「そ、そんなこと……ないよな……?」
不安になって手紙に尋ねてみるが、当然、返事はない。怜が嘆息する。
「結局、この人はどうしたいんだろうね。名前も連絡先も書いてない、カナに何を期待してるのか、何も期待してないのかもわからない。何なら、いたずらの可能性だってありそうだけど」
さすがにそれは言い過ぎだ、と怜の肩を蹴った。
「そんなことない! ……と、思う」
「何で?」
「だって、わざわざ渡してくれたんだぞ。すげー勇気だろ」
「どこが? 直接伝える勇気もない上に名前もないなんて、SNSの匿名のコメントと同じじゃん」
情緒のない言葉を睨みつけた。
「全っ然違うよ。少なくともおれを知ってる子だってことは手紙の内容からわかるし、おれがもらったんだから、怜にそんな風に言われる筋合いはない」
きっと怜にとってはラブレターなんて、クラスメイトに挨拶するぐらいの些末なことなんだろう。でも、奏にとっては人生における記念すべき出来事だ。差出人が誰であろうが、それは絶対に揺らがない。
奏はもう一度手紙を見て、微笑を浮かべる。
「……そんなに嬉しい?」
怜が呆れたように尋ねた。
「嬉しいよ。すげー嬉しい。だって、おれのことをちゃんと見てくれて、考えてくれる子がいるんだよ。家族以外さ。それってすごいことじゃん」
怜の言う通り、それが恋とは違い、憧れや友愛だったとしても、こんな風に素直に伝えてくれる、その事実が嬉しかった。
「……そもそもだけど、それ、ほんとにカナ宛てなの? 宛名もなかったんだよね。うちの学校の靴箱って学生番号で振り分けられてるし、間違えかもよ」
なのに怜ときたら、重箱の隅をつつくようにネチネチと粗を探してくる。フィクションに出てくる面倒な小姑かっつーの。
「外野は黙ってろ。ていうか、手紙の顛末がわかんないってことは、もしかしたら告白される可能性だってあるよな。どうしよう、急に言われたら……」
「手紙に名前も書けない人が告白なんてできると思えないけど」
「え、マジでどうしよ。いつ来てもいいように準備しておかないとだよな」
想像したらどきどきしてきた。放課後、校舎裏にこっそり呼び出されて告白とか、一緒に帰るとか、遊びに出かけるとか、密かに憧れていたイベントが発生するのかも。
脳内で花を咲かせていると、怜が黙って立ち上がった。
「あれ、メシ食ってかないの?」
「今日はいい。食欲ないし。おばさんにもそう言ってあるから」
遊びに来た日はほぼ夕食を食べていくのに珍しい。
「ふーん。じゃあな。また明日」
部屋から出て行く背中を目で追い、奏は飽きずにラブレターを読み返した。怜はああ言ったけど、おれのこと好きだと思うんだけどな、この人。何となく気持ちが伝わってきて、自然とにやけてしまう。どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。
その日の夜、母親と夕飯を取りながら、それとなく聞いてみた。
「母さんと父さんって高校の同級生だったんだよね。その……どっちから付き合おうって言ったの?」
「何、急にどうしたの?」
「え、いや。何となく……」
つい言葉を濁してしまった。親子仲は良好で、親のなれそめも知っているし、奏に今まで恋人がいないことも知られている。でも、自分が人生初のラブレターをもらったと報告するのは何となく気恥ずかしい。
にもかかわらず今の質問をしたのは、奏にとって両親が一番身近な恋愛経験者だからだ。
奏の両親は高校で出会った。三年間同じクラスで、二年の文化祭をきっかけに付き合い、同じ大学に進学。大学三年で同棲を始め、卒業後すぐにゴールイン、と少女漫画のような軌跡を辿っている。ふたりの話を聞いて育った奏は、両親の恋愛に密かな憧れがあった。
母親は目を細めて笑うと、少し遠くを見る。
「そうね……。告白、はなかったと思うけど」
「え、そうなの? それで上手くいくんだ……」
「お母さんが覚えてないだけかもしれないけど。お父さんに聞いてみたら?」
「父さんは絶対自分がしたって言うだろ。信憑性ゼロ」
格好つけたがりの父親は、今頃出張先でくしゃみでもしているかもしれない。
「でも、じゃあどうやって付き合ったわけ?」
「うーん……。文化祭の打ち上げで遊びに行こうって言われたんだったかな。本当はクラスのみんなで打ち上げのはずだったんだけど、その日にふたりで出かけないかって誘われて……それから、だったかなあ……」
「結構曖昧なんだ」
「もうずっと前のことだから忘れちゃった」
父さんは覚えてるんだろうな、と思いながら、奏は唐揚げの山に手を伸ばした。こんがりと焼き色のついた塊を口に放ると、爽やかなレモンの風味と黒こしょうの後に、がつんと塩味が来て、肉汁が口腔いっぱいに広がった。母親特製の塩唐揚げはやっぱり美味しい。
「ねえ、怜くんは大丈夫なの?」
「なにが?」
咀嚼しながら聞き返す。
「唐揚げだって言ったんだけど、食欲ないって言ってたから。珍しいよね」
「確かに……」
怜は甘いものと新瀬家の唐揚げが大好物だ。普段は涼しい顔をしているのに、好物を前にすると子どもみたいに嬉しそうにする。
「たくさん作ったから、明日、お弁当作ろうか? 奏と怜くんの分」
「じゃーあとで怜に聞いてみる」
食後すぐに怜にLINEを送ったが、数時間経っても既読がつかなかった。気づいてないと言うことは、本当に具合が悪くて寝てるのかもしれない。今日も家にひとりだよな。大丈夫かな、あいつ。
怜の家は父子家庭だ。母親は小学四年の頃に事故で亡くなっていて、実業家の父親と二人で暮らしている。父親は仕事が多忙で、特に怜が高校に入ってからは単身赴任が続いている。怜は実質、一人暮らしのようなものだった。
ハウスキーパーが週に何度か来て、身の回りの世話をしてくれているから大丈夫だと言うけど、逆に言えばそれ以外はひとりぼっちだ。具合が悪くなっても誰も助けてくれない。なのに、怜はどんなときでも「大丈夫」と強がった。
壁を作られるたび、奏は寂しさと苛立ちを覚える。遠慮なんていらない。家族みたいなものなんだから、もっと気軽に頼ってくれればいいのに。
小学四年の冬から卒業するまでの間、怜は奏の家で暮らしていた。当時、怜の父親は仕事のためどうしても海外赴任が必要で、親友――奏の両親に怜を託したのだった。奏はそこで、おとぎ話のように何度も聞いた「幼馴染の怜」と再び出会ったのだ。
兄弟もいなければ近所に年の近い友達がいなかった奏は、幼馴染という特別な響きにずっと憧れを抱いていた。その怜と再会できたのがとにかく嬉しくて、怜の遠慮なんてお構いなしに話しかけ、漫画を勧め、ゲームに誘いまくっていた。「カナ、うるさい」と口癖のように言われたけれど、全く気にしなかった。
今になって思うと、自分の行いはとても配慮に欠けていたような気もする。母親を亡くしたばかりの怜は、今とは違ってどことなく暗く不安定な雰囲気で、目を離したらふらふらと家を出て行ってしまいそうな気がしていたのをうっすら覚えている。もしかしたら奏のことを本気で迷惑に思った時期もあったかもしれない。まあ、本人に咎められたことはないので大丈夫だったと思うことにしている。
それにしても、あの頃はまだ背丈も力も大差なく、取っ組み合いの喧嘩になっても勝率は五分五分だった。今は悲しいかな勝てる気がしない。数年同じ家で同じものを食べて生活したのに、どこで差がついたんだろう。
スマホを見る。まだ怜から連絡はない。あと一時間待って音沙汰なければ家に突撃しようと決め、奏は机に向かい、明日の予習を始めた。端末が震えたのは、それから少し経ったときだ。確認すると、「弁当食べたい、おばさんによろしく」と二言だけ。人を待たせておいて、ほんとマイペースだな。
一応「具合は悪くないのか」と聞いたら「ほんとに大丈夫」と即、返ってきた。とりあえず今は、その言葉を信じることしかできない。
母親に報告すると、安心した様子で「気合入れて作らないとね」と笑い、弁当箱を取り出した。奏のと、怜の分が置いてある。
「……怜のおじさんって、怜がうち来るの反対なの?」
「え? どうして?」
「高校入ってからあんまり来なくなったじゃん。止められてるのかな」
小学校を卒業する頃、怜の父親が海外から帰ってきて、この地にマンションを買い、ふたり暮らしを始めた。ただ、怜の父親は相変わらず多忙だったので、二日に一度ぐらいのペースで奏の家に来て、奏の部屋に泊まっていった。
それが高校に上がってからはめっきり減った。家に遊びにくるのは週一か二ぐらいで泊まりはゼロ。あまりに落差があるので、てっきり親同士で密約でも交わしたのかと疑ったのだが、母親の反応からして違うらしい。
「そんな話は聞いてないけど……。月峰くんは言わないんじゃないかな」
三人は学生時代からの親友だ。父親同士が生まれた頃からの幼馴染で、高校から奏の母親が加わった。友情は卒業後も続き、今も連絡を取り合っている。
「父さんから止めたってこともないよな」
「あるわけないでしょ」
それもそうだ。奏の両親が、怜を息子のように思っているのを奏もよく知っている。
部屋に戻ると、机の上に置いたままだったラブレターがまるで光り輝くようにして目に飛び込んできた。奏はもう一度封を開けて中身を取り出し、文面を目でなぞった。読み終えると暗い窓に自分のだらしない笑みが映っていて、カーテンをさっと閉めて机に向かう。しかし手紙のことが気になってしまい、勉強に集中できなかった。
結局、奏は全てを諦めベッドに寝転び、手紙と目配せし合った。
怜には散々貶されたけど、マジで告白されちゃったらどうしよう。付き合うのかな。いや、まだ早いか? 母さんたちみたいに先にデートに行く、とかもあるよな。
しかし奏の妄想はそこで途切れる。デートってどこで何すればいいんだ?
奏は基本インドアで、出かけてもせいぜい最寄り駅周辺までだ。しかも怜とばかりつるんでいるので、大多数の高校生がどこでどう遊んでいるのか、何を喜ぶのか見当もつかなかった。
都内は全く行かないから土地勘がないのでできれば無しで。映画や買い物、カフェ巡りとアミューズメントパークならこの辺でも済みそうだけど、行き先次第で知り合いに遭遇してしまう可能性大か。囃されたら嫌だし、相手にも気まずい思いをさせてしまうかもしれないし、できればそれは避けたい。
「あー……。どうしよ……」
まだ付き合うとも決まったわけでもないのに、奏の頭の中は憂慮でいっぱいだった。みんな、こういう悩みとどう向き合ってるんだろう。誰かに聞ければ楽なんだけどな。こんなこと相談できる相手が――。
奏ははっと目を見開いた。
いるじゃん。デートしたことありそうなやつ。
翌日の昼、弁当を片手に隣のクラスに顔を出し、怜と屋上に移動した。昨日とうってかわって気温が下がり、爽やかな秋風が吹いている。深呼吸したくなるような心地よい気候だ。
金属の柵にもたれて座り、各々弁当を広げた。唐揚げと卵焼き(怜のは甘い)が入っていて、怜は顔をほころばせている。
「母さんが心配してたぞ。唐揚げなのに食べないで帰ったって」
「昨日はそういう気分じゃなかったんだよ。ごめんって言っといて」
そそくさと食事を始めたのを確認すると、奏は本題を切り出した。
「あのさ怜」
「ん?」
「おれと、デートしない?」
「……は?」
怜の箸から唐揚げが弁当箱にぼろっと落ちた。
「あぶねー、ぼーっとしてると地面に落とすぞ」
「え、何……? 今何て言った?」
「だから、デートしようって」
怜にしか聞こえないように声を潜めたのに、怜が「はあ?」と大声を上げる。反対側に陣取るグループがちらちらと視線を投げてきたので、慌てていなした。
「シッ、騒ぐなって。すげー見られてるじゃん」
「そんなのどうでもいいよ。何――何で?」
そこは幼馴染だから察して、というのは無理がありそうなので、不可解を通り越して宇宙人でも見るような顔をしている怜に、一から説明してやる。
「おれ昨日、手紙もらったじゃん。で、もしかしたら告られたり、デート誘われるかもしれないなって思ったんだけど、どこ行ったらいいか全然わかんなくて。ほら、おれ、怜とこの辺でばっか遊んでるだろ」
「……だから?」
「怜はどうせしたことあるんだろ。おれにも教えてよ」
「嫌」
即答。
「お願い! 唐揚げ持ってきてやったじゃん! 食ったじゃん!」
「作ったのはおばさんだろ。なんで俺が……」
「こんなこと怜にしか頼めねーもん」
「ていうか人に頼むってのが間違ってるし、そもそも全部カナの妄想だろ。杞憂だって」
「そうじゃないかもしれないだろ」
「『かもしれない』の域を出ないんだから、実際に起こったら考えれば」
「それじゃあ遅いんだよ。いざそのときになって慌てるのもダサいじゃん」
怜は見せつけるような溜息をついて、再び唐揚げにかぶりついた。もう話す気はないのか、むしゃむしゃと無言で食べている。何だよ。そんなに怒らなくてもいいじゃん。幼馴染の大チャンスなら応援してくれればいいのに。
奏も箸を動かしながら、どうしようかなと考える。自分で調べるか、あるいは誰か他に頼れそうな人を探すか。足踏みしているうちにチャンスを逃したらどうしよう。
「なあ、怜、頼む。一生のお願い。おれとデートしてください」
ダメ元でもう一度ねだってみると、軽蔑のまなざしを向けられてしまった。それでもめげずに顔の前で手を合わせて「お願い!」とゴリ押しすると、深くて長い溜息がひとつ。
「……わかったよ」
「え、いいの⁉ マジで⁉ やった!」
両手を挙げて喜ぶ奏の横で、怜は心底嫌そうな顔をする。
「じゃないと他の人に頼むんだろ」
「こんなこと怜にしか頼まないって」
「どうだか……。カナ、考えなしだし、思い込むと突っ走るし、強引だし」
文句(悪口?)を連ねられたが、無茶な頼みを聞いてもらう手前、反論はできない。
「で、教えろって言ったっけ。段取りは俺のほうで考えればいい?」
「え、いいの⁉ じゃあそんなに遠くなくて、人に会いづらいとこでお願いします。で、なるべく早い日で……」
「じゃあ、今週の日曜は?」
あんなに嫌がられていたのに、すごろくで十進んだぐらいの勢いで事が進もうとしている。奏としては願ったり叶ったりなので頷くと、「じゃあそれで」とあっさり決まってしまった。さすがにちょっと勢いがすぎないか。
「なあ、ほんとに大丈夫なの? なんか、やけくそになってない?」
おずおずと尋ねると、怜はすました顔で「嫌ならやめるけど」なんて言った。
「嫌なわけないだろ。でも、怜、最初は嫌がってたから」
「今更何言ってんの。一生のお願い、とか言って強引に頼んできたくせに」
「う……」
「ちなみに俺、カナの一生のお願いをもう十回は聞いてるからね」
「マジで?」
せいぜい五回ぐらいじゃなかったっけ。
「マジで。まあ、いいよ。どうせ暇だし、カナの妄想に付き合ってあげる」
「妄想って言うな!」
予鈴のチャイムが鳴り響き、奏は弁当の残りをかきこんで立ち上がる。怜も続いた。
「あ、怜、弁当箱」
「洗ってから返すよ」
「そのまま渡しても平気だよ」
「せっかく作ってもらったんだし、おばさんに申し訳ないよ」
「じゃ、お礼ってことでおれが洗っとくよ」
怜から弁当箱を預かりながら、それだけじゃ割に合わないか、と思い直した。
「怜の一生のお願い、ってやつ、おれも今度聞くから、考えといて。十回分な」
一方的に聞いてもらってばかりじゃフェアじゃないから、これでおあいこだ。
「戻ろうぜ。午後の授業だるいな~」
ぼやきながら数歩歩いたところで怜の気配が続かないことを察知し、奏は振り返った。
「怜?」
早く、と言おうとして、どきっとした。遠くを見つめる怜の横顔が、古い記憶の中にあるような物寂しさを浮かべている気がして。
「……どした?」
「何が?」
当の本人は奏の心配なんていざ知らず、軽く首を傾げている。気のせいか。何でもないとかぶりを振って、今度こそ肩を並べて教室に向かった。
「げ、午後イチ辻の数学じゃん。寝そう……」
「あ。俺、次自習だ」
「いいなー。んじゃあ日曜のことちゃんと考えろよ」
「はいはい……」
「ちゃんと考えろよ」
「……考えた結果、カップルしかいないところに連れ込む、でもいいの?」
具体的には遊園地とか、プラネタリウムとか?
「別にいいよ。怜に任せる」
そう言ったら、怜は苦いものを口にしたときの顔で「冗談」と答えた。
「え? 何が?」
「何でもない。忘れて」
ひらりと手を振り、隣の教室に入っていく背中を目で追った。変なヤツ。冗談って、一体どこに行くつもりだったんだろう。めちゃくちゃ怪しい場所だったりして。それはそれで、笑い話になりそうだけどな。
もし本当に、ラブレターの相手が彼女になったら話すかもしれない。
おれと怜は、あの手紙がきっかけでデートしたんだ、って。
怜はきっと、形のいい眉をひそめて嫌な顔をするんだろう。