高鳴る鼓動、汗ばむ両手、乱れる呼吸。そして、鳴り止まない拍手、広がり続ける歓声。五感が全てが与えてくれる快感は、何度体験しても名状し難いモノだった。
 私のやってきたことが報われる、無駄じゃなかったことを教えてくれる瞬間。真摯に努力を重ねてきたからこそ、全身全霊で尽力してきたからこそ生まれた奇跡の瞬間だ。
 私はこの瞬間を、快感を、一生忘れることはないだろう。いや、忘れることなんか出来ない。記憶に深く刻み込まれたこの感情は、私を突き動かしていくのだ。ゆっくりだけど、確実に。
 
 とにかく私は、自分の恵まれていない境遇をいつも悲嘆していた。
 自由に過ごせる時間は微々たるもので、学校にいる時以外はほぼ働き詰めの毎日。遊びに出掛ける暇さえなく、辟易するだけの仕事に日々奔走するだけ。友達は彼氏を作ってデートと洒落込んだり、多種多様でお洒落な服を買ってコーディネートを楽しんだり、と青春を存分に謳歌してるというのに…。
 私といえば質素な座敷の上で、殆ど面識のないおじさま相手に晩酌をしたり、締め付けられ決して着心地がいいとは言えない日本特有の織物が着られるぐらい。
「またおこしやすぅ」
 お客様がお帰りになられるので、私は店先まで見送りスッと頭を下げた。
 割腹も良く気前も良さそうな中年のおじさんは穏和に微笑み、「またくるよ」と言い残して満足げに去っていった。
「ふぅ…」かったるい。てゆーか、服が窮屈で仕方ない。胸元に手を突っ込んで着物を緩めていると、
「こらっ、菊菜ちゃん! お客さんがいないからって大着しない!」という叱責が飛来する。
 私のちょっとした怠惰も見逃さず一喝してきたのは、雇い主である樋笠さん。創業何百年(失念)の京料理屋を営む三代目のオーナーさん。先程のおじさん同様、中年でお腹が横に広い巨躯の持ち主。
「えらい、すんまへん」あはは、と誤魔化すように乾いた笑いを付け足す。
 丁度その時、春の穏やかさを孕んだ清爽な風が吹き荒れ、私の頬を掠めていった。
桜の花が繚乱する四月の始め。冷え性の私には苦痛だった冬季が過ぎ去り、やっと温暖になったのは嬉しい限りだが、この時期になるとすぐに睡魔が襲ってきて撃退するのがかなり困難。
「ふあぁ…」思わずあくびが漏れ、視界が濁る。
「菊菜ちゃん、欠伸は厳禁だよ!」
 またしてもお叱りの声が飛んでくる。
「すみませ~ん」
 謝りながら、私は店内に戻る。
「さっきから騒がしいどすけど、どうかしはりましたん?」
 店の奥からやたらと化粧の濃い女性が姿を現す。着物をキッチリと着こなし、私には著しく不足している色香が漂っていた。
「いやぁ、さっきから菊菜ちゃんが、舞妓にあるまじき行為ばっかりしててね」
 呆れ顔の樋笠さんが、私の粗相をお姉ちゃんに報告する。
「あっ、チクるなんてヒドい!」
「アンタ、まだ舞妓としての自覚が足りないみたいね。後でお母さんに言っとくから」
「お姉さま! それだけは勘弁してくだせぇ!」手を合わせて許しを請う。
「だったら、今日は休憩なしで一日頑張んな」
「そんな殺生なぁ…」
 そろそろお気づきの方もいらっしゃると思いますが、私は舞妓だったりします。
 舞妓という職業を簡潔明瞭に説明すると、京都の祇園を中心とした花街で、唄や踊りに加え三味線などの芸を、宴席で披露することで興を添える女性のみに許された仕事。
 古来より日本に伝わる由緒正しき特殊な仕事であるのと同時、異常なまでに厳しく、一筋縄じゃいかない世界。テレビや雑誌という媒体だと笑顔を振り撒き華やかで煌びやかなイメージが強いと思うけど、その裏では絶え間いない努力と根気を費やしているのだ。
 こんな怠惰を具現化したような私が、何故そんな世界に足を踏み入れたのか。それは、家庭の事情によるものが大きい。東西家に生まれた女性のほとんどが舞妓だったからだ。
私が知ってるだけでも、曾おばあちゃん、おばあちゃん、お姉ちゃん、お母さんと皆が舞妓という仕事に携わっていた。
 私も最初は舞妓さんに憧憬してこの世界に入ったもんだ。まだ年端もいかぬ頃、お父さんに連れられた京料理屋で、白塗りに華美な着物を纏い、色々な舞踏を華麗にこなすまだバリバリ現役だったお母さんの姿を見た。いつもと違う言葉遣い(京言葉)、一挙手一投足がしなやかで気品に溢れていて、それはそれは綺麗だったのを鮮明に覚えている。
 そして時は流れ中学を卒業すると同時に、私は大先輩であるお母さんに弟子入りをし、現在に至る。
 しかし、普段の日常生活から推測するに、コイツは途中でドロップアウトするだろう、とお母さんが判断したらしく、高校に通いながらの修行となった。普通、舞妓さんになろうとするのであれば、中学を卒業したと同時に高校へは進学せず置屋(舞妓さんが普段生活する住居。いわゆる合宿所みたいな所)に入り、日夜、芸を磨くのが普通らしい。その点を踏まえると、私は稀有な存在らしい。
 学校に行くのは楽しいけど、やっぱり稽古をしながらの通学はしんどいし、毎日のように疲労困憊だ。だからといって高校を中退したくはないし、舞妓も立派な一人前となりお母さんを見返してやるまで辞めるつもりは毛頭ない。私は生来、負けず嫌いなのだ。様々な困難が待ち受ける茨の道を踏破し、やがて誰をも魅了する芸妓さんになる! …予定。
 まぁ、最近は多忙な毎日で心がポッキリと折れそうだけどね…。
「やっと休憩だ…」
 お姉さまに涙目で哀願し、なんとか休み時間を頂けた。さて、どうしようか、と思い悩む。眠いので就寝したい気分だけど、この格好のまま寝転んでしまうと、髪型は崩れるわ、帯が乱れて着付けがグチャグチャになっちゃうわで悲惨なことになってしまう。なので、私にとって唯一の趣味ともいえる音楽観賞をすることにした。そう思い立った私は、二階にある休憩室に向かう。
 主に店員皆が休むのに利用している四畳ぐらいのこの和室は、家具もテレビもなくて殺風景。階下ではお客さんが来ているらしく、騒がしい声がここまで届く。英語らしき言語が聞こえるので、外人さんが舞妓さんを見てはしゃいでいるのだろう。
 私もたまに外人さんを接客するけど、言葉の壁は厚く中々思うようにコミュニケーションが取れないというのが現状。私もいつかは英語をマスターし、グローバルな芸妓さんになるつもりだ。グローバルの意味もよくわかってないけど…後で調べておこう。
 舞妓と芸妓の違いだけど、舞妓はまだ半人前の段階で、修練を重ね一人前になると芸妓になれる。言わずもがな、私はまだ未熟だから舞妓だ。
 私はイヤホンを耳にはめて、外界に蔓延る騒音を遮断する。
 聴く音楽は決まってロック。70、80年代の洋楽ロックが大好きなんだ。ビートルズ、クイーン、ボストン、ジャーニー、エアロスミスなどなど。
 お父さんの影響で傾倒し、現在でもそれが継続している。友達からは時代遅れだとか言われて嘲られるけど、好きなものは好きだから仕方ない。その代わり、流行りの音楽にはとことん疎いけど…。
 良さがわからないってのものある。似通った退屈な音楽が横行する昨今、洋楽ロックは最高にカッコいい。
 まぁ、洋楽に限らず邦楽も多少は嗜むけどね。音楽に関しては、かなりの雑食だったりする。
 耳に心地よい爆音を流しながら、窓際に座って花街を見渡す。
「ふふ~ん♪」
 私にとってこの時間が最高の至福だ。京都らしい古風な町並みを眺めながらの音楽観賞は、贅沢の極み。
「ねぇ、みてみて! まいこさんだっ!」
 下の路地から幼い声音がイヤホンを通過して鼓膜に届いた。そちらに視線を移してみると、若いお父さんに連れられた4、5歳の女の子が喜色満面で、私にブンスカ手を振っているではないか。
「まいこさ~んっ!」
 私はそれに応えて軽く振り返してあげる。お父さんも私に気付いたらしく、バツの悪そうな顔で会釈してきた。
 私にもあんな純粋無垢な時代があったんだなぁ…確か。ふと、あの親子同様、お父さんに手を引かれ花街を歩いた記憶が蘇る。私の小さな歩幅に合わせて歩いてくれたり、私が疲れたと言えば背中に乗せてくれた。目に映るモノ全てが新鮮で、異世界にでも迷い込んだような感覚だったのを覚えてる。
 そんな懐古に浸っていると、「あっ」と非常に重要なことを思い出す。
「そういや先週…」好きなバンドのアルバムの発売日じゃん!
 仕事と学校に忙殺される日々にすっかり忘れていた。私としたことがファンとして情けない…。昨今、通販やダウンロードが主流となりつつあるけど、私は直接お店に出向き購入し、形として残しておきたいタイプなのだ。
「よしっ」このまま疲弊した身体を休めていたい気分だけど、新曲を一刻も早く聴きたい気持ちが勝っている。
 私は重い腰を上げて、休憩室を出る。極力、足音を立てないよう細心の注意を払いながら、階段を下っていく。一階まで下りると、お店の出入り口までくの一にでもなったつもりで忍び足。
「ん? 菊菜ちゃん、まだ休憩中だろ? どこに行くんだい?」
 タイミングを見計らったかの如く、厨房から樋笠さんが顔を出す。この人、まさかエスパー?
「えっと…ちょっと、お花摘みにでも出掛けようと思ったんどす。ちょっとしたら帰ってくるさかい、待ってておくれやす」
「お花摘み?」樋笠さんが露骨に眉を顰める。「また花街から出ようと思ってるんじゃないかい?」
 ――ギクリ。
「そ、そんなことある訳ないどすやん。けったいな人やわぁ」
「菊菜ちゃんって普段はそこまでなのに、動揺すると京都弁がすごく堪能になるよね」
「う…っ」どうやら魂胆は透けて見えていた模様。
 樋笠さんが疑念を宿した目で私を見据える。やがて観念したように、「ふぅ…」と溜息を吐いた。
「いいよ、行ってきな。その代わりちゃんと時間までには戻ってくること。わかったね?」
「お、おおきに!」
 店主から承諾を得たので、私は堂々とお店を出た。
 舞妓さんが花街から出てはいけない、という規則はない。だけど、高貴なイメージが崩れることを忌避し、基本的に俗世を彷彿とさせる場所の利用は禁じられている。例えば、コンビニとかファストフード店等は、舞妓姿のまま利用するのは厳禁とか。もっと厳しい所になれば、電子機器(スマホ等)の所持さえ禁止されていると聞いたことがある。このデジタル社会の世の中、若者にスマホを持つななんて規則は一種の拷問と同等。だけど、舞妓のイメージを保つためには不可欠な規則みたい。
 祇園東から歩き始め、人通りの多い四条通に差し掛かる。早さを重視するならば自転車で向かうのが時短できて効率がいいのだけど、この格好のまま自転車に乗るなんて滑稽を極めるだろう。嫌でも視線の的だというのに、殊更注目されるに決まってる。
それより今日は休日の夕方ということもあって、大通りは人が多い。行き交いすれ違う人々が、一様に私を好奇の眼差しで一瞥する。目立つことは覚悟していたつもりだけど、やっぱりまだ恥ずかしい。でも、恥ずかしがって下を向いて歩いてちゃいけない。羞恥心に負けそうになったら、絶対に一年前の記憶が脳内に想起されるんだ――
 始めて着物を着て化粧を施してもらった日、好奇の視線に晒されることに耐え切れず、俯き背を曲げて歩いていると、お母さんにこう言われた。
『菊菜、周りのお姉さん達が下向いて歩いてんの見たことあるか? 舞妓たるもの前を向いて堂々と歩き――』 
 それだけは、常に遵守するよう心掛けている。
 信号待ちをしている間、写真を無許可で撮られていることに気付く。気付かれていないものだと思っているのだろうが、なんとなく気配と仕草で察知してるんだからね。だけど、それも最早慣れているものだから一々怒ったりしないし、そんなことを気にしていたらキリがない。
 撮りたかったら撮ればいい。その代わり撮影代をちょうだい、とは思うけどね。
 四条大橋を渡って、新京極通りを真っ直ぐ進んでいくと、もうすぐオーパが見えてくる。
私の目的地は、オーパの最上階にあるタワーレコード。CDを買う時は決まって品揃えが豊富なタワレコだ。洋楽からマイナーなインディーズバンド等を扱ってくれているので、まずここに来れば間違いない。
「ねぇねぇ見て! 舞妓さん!」
 エレベーターの到着を待っている最中、背後から黄色い弾んだ声が届く。
「アホだな、こんなとこに舞妓がいるはずないだろ。コスプレに決まってる」
 次に男性の低い声が聞こえた。
 とまぁこのように、本物か紛い物かの判別は、素人目には難しい。目の肥えた常連さん、もしくは同業者であれば判別できるみたいだけど、まだそこまでの域に達してしない私もそこらへんは難儀だったりする。
 とりあえず無視するのもなんだったので、顔だけを後ろに向けて軽く会釈しておいた。ここで肯定なんかしたらメンドくさい事態になりそうだったので、口は噤んだままで。
 やっと降りてきたエレベーターに乗り、最上階のタワレコに到着。黄色を基調とした店内は、膨大な数のCDが陳列されおり壮観。私の部屋もこんな感じにしたいなぁっていう野望が少なからずあるけど、まぁ無理だろうな。
 入店すると同時、珍しい様相の来客にお客さん達が一様にギョッとする。舞妓さんがCDショップに来店するなんて驚くのも無理ないか…。
 邦楽コーナーは無視して、洋楽コーナーへ向かう。前から思ってたけど、大物バンドに限ってアルバムのリリースが異常に遅いのはどうにかならないのか。リリースまでに4、5年とかざらにある。たまに10年以上の期間を要するバンドもいたりする。まぁ、それだけ名盤を生み出そうと試行錯誤しているのだろうけど。
「えっと…」数多く並ぶCDの背表紙に指を這わせながら、お目当ての品を探す。
「あの、すいません」
 早く新譜を聴きたくてウズウズしながらCD探しに没入していると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、私と大して年齢差がないような若い女の子二人組がいた。
「どないかしはりました?」
 私が用件を尋ねると、「ほら、やっぱり本物の舞妓さんじゃん!」と二人して飛び跳ねてはしゃぐ。
「よかったら、一緒に写真いいですか?」
 片方の女の子が諾否を確認する。
「かましまへん」こうやってちゃんと承諾を得ての撮影なら、私も気持ちよく快諾できる。
「「ありがとうございました」」
 それぞれのスマホで写真を撮り終えた二人は、満足そうな笑みを浮かべて店を去って行った。
 遠ざかる二人の後ろ姿を眺めていると、羨ましさが込み上げてきた。休暇を一日中満喫できるなんて、休みのほとんどない私からすれば羨望の対象でしかない。
 それと、二人共に私服が可愛かった。可愛い流行りの服が欲しいと思っても、経済的に難しかったりする。
 舞妓という職業と聞けば華やかで高収入のイメージがあるかもだけど、実際問題、舞妓さんい給料は支払われない。じゃあ、どうやって生活してるの? と思った方もいるでしょう。舞妓さんは基本、置屋と呼ばれる借家に住まわせてもらい、そこのお母さん(芸や作法の指導者の総称)が生活に掛かる費用を負担してくれる。なので、基本的に舞妓さんに給料は支払われない仕組みだ。だが、お母さんから給料とはまた違ったお小遣いを貰えるので、それが自由に使える唯一の資金となる。
 私は未成年かつ素人に毛が生えた程度の未熟者なので、一ヶ月に一万円だけ頂いている。単純計算で、月にアルバム三枚を買えばもうすっからかんだ。だから調子に乗って散財なんか出来ないんだな、これが…。
「あっ、見っけ」
 探していたCDを無事に見つけたので、レジで会計を済ませてお店を後にする。
「ん~…」ふと、遠回りして帰ろうと思い立つ。いつも同じ道を往復している上、お座敷に長時間拘束され鬱屈した気分を緩和しようと思ったのだ。まぁ、時間が限られているので、あまり大回りは出来ないけど…。
 河原町通りを逆にではなく更に前進して右折すると三条通りだ。もう少しで三条大橋目前という地点で、不意に音楽が聴こえてきた。
 聞き覚えのある音楽に私の足は自然、発信源に誘われるまま進んでいた。
 鴨川の清らかな水が流れる河川敷にて、三人編成のバンドが演奏している最中だった。エレキギター、ベース、ドラムという編成で、ボーカルは不在の珍しいインストバンドみたいだ。…いや、単にボーカルさんがなんかの理由でいないだけかもしれないけど。一応、マイクはセットされてるみたいだし。
 まさかの曲目は私のお気入りバンド、スムルースの『帰り道ジェット』。京都出身のバンドだけど、そんなに知名度がないんだよね。良曲ばかりなのに不思議でたまらない。
「………」
 私は迫り来る時間なんかどうでもよくなってただ演奏を傾聴していたが、ボーカル不在のこの状況にウズウズしていた。
「ん…?」
 曲が中盤を迎えようとした頃、周囲の異変に気付く。さっきまでほぼ無人だった河川敷に人が集まり出してしたのだ。演奏に惹きつけられたのかなぁなんて思っていたけど、どうやらお目当ては舞妓姿の私みたい。こちらに向けられているスマホやらカメラが何よりの証拠。
 ――我慢できない!
 勿論、無断で写真を撮られていることではなく、バンドにボーカルがいないこと。無性に歌いたくて仕方なかった。
 私はカラオケでも友達が知っている曲を入れれば、勝手にハモリで参入してしまうぐらい歌を唄うのが好きなのだ。
 とうとう我慢の限界を迎えてしまった私は、周りを囲む人だかりを割ってバンドメンバーの側まで接近。設置されていたマイクをスッと抜き取る。
『えっ?』
 という心の声が聞こえてきそうなほどメンバーの三人が突然の乱入者に瞠目。まぁ、それもしょうがない。しかも、それが舞妓姿の人間であれば、驚きも倍増だろう。
「ええから続けておくれやす」
 演奏が中断しそうだったので、私はそう促す。するとメンバーは、無言で頷きあって演奏を継続してくれた。
 
 気が付くと歌い終わっていた。はっきり言ってその時の記憶は曖昧模糊。妙な達成感と爽快感だけが、私の胸中を満たしていた。
「っ…!」
 周囲には私達を囲むように人だかりが出来ており、その数に驚く。さっきよりも確実に人の数が増えている。
 不意にパチパチと一人の人が拍手をした。すると、拍手の波が波紋のように広がって私達を包み込む。なんだろ…この気持ち。形容し難い感覚に体中が陶酔する。
 とりあえず、この気持ちを簡潔明瞭に表すのであれば――気持ち良いっ!
 これまで17年生きてきて、体験したこのない感覚だった。
 その後、メンバーの皆さんと軽く談笑し、時間も時間だったので私は急ぎ足で仕事場へと帰還した。が、そんな努力も虚しく遅れてしまって叱られた。だけど、そんなことどうでもよくて…。
  その日の勤務を終えて置屋に帰っても尚、あの時の今まで味わったことのない未曾有の感覚が私を捕らえて離してくれなかった。歌い上げた後の爽快感、達成感、高揚感。そして、浴びせられた拍手喝采。出来るならば、叶うのであれば、私はもう一度あの感覚を味わってみたい…いや、何度でも。
 明日の学校と仕事に備えお風呂で身を清めながら、その方法を色々と思案する。
「…よしっ」
 妙案を思い付いて、私は湯船から勢い良く立ち上がる。
 明日からメンバーを集めないとな。えっ? なんのかって? そりゃあ、バンドのメンバーに決まってるじゃないか。

「冬華、一緒にバンドやろうぜ」
 翌日の朝、ホームルーム前のクラスメート達の喧騒が跋扈する二年二組の教室。登校するや否や私は莫逆の友である小野冬華をメンバーに勧誘する。
「はぁ?」
 冬華は端正な顔を歪ませ、あからさまに不審がる。なに言ってんの? コイツ、みたいな表情だ。
「お前、疲労で頭まで壊れちゃった訳?」
 呆れ果てた顔で辛辣な言葉を私に投じる。
「壊れない壊れてない。…てゆーか、頭“まで”ってどうゆう意味かな?」
「そこら辺は察しろ」
「まっ、いいや。で、一緒にバンドやろうぜ」
 どうせ考えた所で悲しい結論にしか至らないので、私は考えることを放棄して再度勧誘する。
「で、の意味がわからん。私にはお前がいつにも増して異常に見える」
「いつにも増してって失礼だな、君!」
「お前の話しは突飛過ぎて付いていけん。他の人を誘え」
 そう一蹴すると、話しは終わったとばかりに読書を始める冬華。ちなみに冬華は名前の通り、冬の生まれである。だから、こうも冷淡な性格をしているのだろうか…。
「そんなに冷たくあしらわなくてもいいじゃんかよぉ。私と冬華はマブダチだろぉ?」
 私は冬華を背後から抱き締める。
「ええぃ! ベタベタするな、暑苦しい!」
「冬華の凍り付いた心が溶けるまで離さないかんね」
 語尾にハートマークを付け加えるぐらいの勢いで甘えてみるが、「クッ、キモい奴め」と嫌悪感を露わにされてしまう。
「キモいは言い過ぎ!」
 そんな不毛な論争を朝から繰り広げていると、「朝から二人して仲ええなぁ。ウチも混ぜてぇや」と関西弁が堪能な女子が会話への参加を求めてきた。
「あっ、日菜ちゃん。おはよー」
 椥辻日菜ちゃんは同じクラスメートで、高校に入学した時からの友達。丸っこい目とボブが特徴的な大阪出身の可愛い女の子。
「日菜、聞いてくれよ。このバカがいきなりバンドやろうぜとかバカなことを言ってきて困ってたんだ。日菜からもこのバカになんか言ってやれ」
 私との戯れでずれた眼鏡を正しながら、冬華が日菜ちゃんに愚痴る。てゆーか、バカバカってヒドい!
「えっ? バンドすんの?」冬華のリアクションに対し、日菜ちゃんのリアクションは好感触だった。「じゃあ、ウチはドラムがええなぁ。日頃のストレスが発散されそうやん。二の腕も細くなりそうやし」
「おおっ、日菜ちゃんも加入してくれるとは心強い! でも、二の腕は逆に太くなるかなぁなんて」
 衝撃的な事実だったのか、「えっ!」と目を見開いて驚く日菜ちゃん。
「太くなんのはイヤやなぁ。せやけど、ドラムを叩いてみたいっていう気持ちはあるんよ」
 言いながら、日菜ちゃんは頭を振り乱してエアドラムを披露する。へヴィメタバンドでもやるつもりだろうか…。
「どう? ウチ、カッコええ?」
「え? あっ、うん。…まあまあかな」
 正直言って、超絶に微妙である。私の求めてるイメージとはかけ離れてるし。まぁ、可愛いから許す!
「菊菜ちゃん菊菜ちゃん菊菜ちゃん!」
 突然、一人の女生徒が私の名を連呼しながら、猛然とこちらに近付いてきた。別クラスの友達、北山和香ちゃんだ。
「どうかしたの? 和香ちゃん」
「とりあえずこれ見てっ!」
 どこか興奮した様子で鼻息を荒くさせながら、和香ちゃんがスマホの液晶をこちらに提示する。何やら某動画サイトに投稿された動画みたいだった。
 そこに映し出されていたのは、見覚えのある河川敷にて白塗りに艶やかな着物姿の舞妓さんが、バンドメンバーに囲まれ熱唱している映像。てゆーか、これって…。
「これって菊菜ちゃんだよね!」
 和香ちゃんが無遠慮に顔をグイっと接近させてきた。ち、近い…。
「えっと…まぁ、そうかも」
 特に隠す必要性を感じなかったので、私は正直に頷いた。あの場にいた誰かが、無断でアップロードしたのだろう。
「やっぱり! この外見と歌声は、菊菜ちゃんだと思ったんだよ!」和香ちゃんの興奮は更にボルテージを上げる。「スゴいよ、菊菜ちゃん! これで立派なユーチューバーだね!」
「ユーチューバー? チュパカブラの親戚?」
 日菜ちゃんがおかしな勘違いをしている。チュパカブラは知っているのに、ユーチューバーは知らないらしい。普通、逆だよ。
「菊菜、これ何?」
 冬華がいつにも増した冷たい視線を私に向ける。
「ま、まぁ、ちょっとのっぴきならない事情がありましてですね…。こうなってしまった次第」
「まぁ、この際理由は追求しないけど、大丈夫な訳?」
「何が?」
「親に知られたら激怒されんじゃない? 運が悪かったら、仕事を辞めさせられる可能性もあるでしょ、これは」
「ま、まさかぁ! こんなことで怒られないでしょ…多分」確信は持てないけど。
「みんなぁ、席に座ってぇ!」
 いつの間にかチャイムが鳴っていたらしく、担任教師の亜季ちゃんが教室に入ってきてしまった。
 結局、その日はバンドをどうするかというのは有耶無耶となってしまった。

「で、これは何かな? 菊菜ちゃん」
 お姉ちゃんが眉をピクピクさせながら、引きつった笑みを浮かべる。目が笑ってなくて怖い。
 お姉ちゃんの手にはスマホが握られており、液晶には今朝和香ちゃんが見せきた映像が流れている。つまり、私が河川敷で歌っている時のもの。
 学業を全うし、置屋に帰ると早々にお寝ちゃんの部屋に呼び出しをくらった。呼び出しをくらう時は決まって、怒られるか叱られるかの二者択一。嫌な予感を覚えながらお姉ちゃんの部屋に足を踏み入れると、正座を命じられ例の映像を見せられたのだった。
 バレたのがお姉ちゃんだったのは不幸中の幸いだけど、この窮地をどうにか上手くくぐり抜けないと私の命運は悪い方向へと導かれるだろう。
「な、何それ? 舞妓さんがロック歌ってるなんて珍しいね」
 とりあえず、シラを切ることから始める。
「これ見て、知らないで通すつもりな訳? 素直に認めないなら、お母さんに見せよっかな、これ」
 そう言いながら、お姉ちゃんはスマホをポンポンと掌の上で跳ねさせる。
 脅しなんかに屈するものか! と生来の負けず嫌いの血が騒ぐけど、
「ごめんなさい。それは、紛うことなき私です」
 お母さんの存在を出されてしまうと、すぐさま白旗を振ってしまう私だった。てゆーか、なんでバレたのか謎なんだけど。
「まっ、最初からわかってたけどね。それより、アンタにはまだ舞妓としての自覚が足りないみたいね。お母さんにいつも、舞妓の品格を下げるような行動は慎めって言われてるでしょうが」
「まぁ…成り行きっていうか、なんていうか」
「もう辞めたら?」
「え…?」
「どうせ嫌々舞妓をやってんでしょ? 真剣にやってるこっちからしたら、ふざけてるとしか思えない。それに、一年もやってきて未だに舞妓としての自覚が欠落してるんだったら、辞めてくれた方がマシ。そもそも、この繊細な仕事に向いてないのよ、アンタのその粗雑さは」
「ヤダ。絶対、辞めない」
 即答だった。この世界には、お母さんに憧れて入ったんだ。お母さんのように立派で可憐で慣熟した芸妓になるまでは、辞める気なんて毛頭ない。
「それに私、考えたの。これからの時代、舞妓っていう職業のお堅いイメージを払拭するのも大事だって。ここ何十年、舞妓を志す若い娘って減ってるじゃん。何か対策を考えないと、日本の伝統ある職業が廃れちゃう」
 正直な心情を語ると、「へぇ…」とお姉ちゃんは感心したような相槌を打った。
「バカなアンタのことだから、深く何も考えずお気楽にやってるもんだと思ってた。ちゃんとそういうことも考えてたんだ」
「当たり前じゃん。一応、私も舞妓の端くれだし」この際、バカって単語は聞かなかったことにしよう。
「でも私には、アンタがそこまでの力量を持っているようには見えないけどね」
「侮るなかれ。私はこれからメキメキと舞妓としての技術をアップして、いずれは舞妓業界を牽引する者になるから」多分。
「さっきの映像だって、舞妓の印象を変える為の第一歩」になってらいいな。
「あっそ。偉そうに豪語したからには、途中で投げ出したりすんなよ」
「りょーかい」
「ふんっ、今から稽古なんだから、40秒で支度しな!」
 お姉ちゃんはそうつっけんどんに言って、部屋を出て行った。
 40秒はちょっと無理かな。中途半端だし、なんか聞いたことある台詞だし。
「ふぅ…」私は安堵の息を吐く。
 これで危機的状況からなんとか脱却できた。だけど、大口叩いたからにはこれからもっと精進できるよう全身全霊、粉骨砕身、努力するしかない。私は有言実行できることを願って、部屋を出た。

「お願い冬華! 一緒にバンドやろうよ!」
 翌日、ホームルーム前でそれぞれ好き勝手に振舞っていて賑やかな教室。私は懲りずに冬華をバンドメンバーに勧誘していた。
「しつこい奴だな」絶賛、自主勉に励んでいた冬華は、こちらを見向きもしないで素っ気なく応じる。「見てわかるように、私は勉強中だ。バンドをやっているような時間なんて皆無なんだよ。菊菜もしょうもないことに時間を費やすぐらいなら、芸の技術を磨け」
「しょうもないことじゃないよ! 私は本気でバンドをやりたいの!」 
 遊びだと思われていたことに腹を立て、私は言い返す。
「だったら他の人を誘うんだな。別に私に固執する必要はないはずだ」
「私は冬華とどうしてもやりたいの! 冬華じゃないとダメなの!」
「どうして?」と冬華はそこでやっと手を止め、私を静かに見据える。
「………」
 問われて私は考える。私はどうして冬華と一緒にやりたいんだろ…? 確かに冬華の言う通り、冬華に固執する必要はないのかもしれない…いや、固執する必要はある!
「だって友達だもん!」
 私の言葉を聞いた冬華は、露骨な呆れ顔を見せた。
「呆れた…。なんだよ、その理由。子供かよ」
「子供でもなんでも構わない。私は、冬華がメンバーだったら安心するっていうか…とにかく冬華しかいないの!」
「…しょうがない。わかったよ」
「えっ…?」
 やっと私の熱い気持ちが伝わったのか! と期待したのも束の間、そんな期待はすぐさま打ち砕かれた。
「他の人を誘うんだな」
「なんでやねんっ!」
あまりにコテコテのボケに、反射的にツッコんでしまう。関西人には、ボケられたらツッコんでしまう、という習癖が身に染み込んでしまっているのだ。ほぼ例外なく。
「あはははっ!」
 そんな私達のやり取りを見て、爆笑する生徒が一人。
「日菜ちゃん」だった。
「二人はやっぱりおもろいなぁ。バンドやなくて、漫才でもやったらええのに。そして、目指すは日本一や!」
「漫才なんかやらん。笑い者になるのなんか心底嫌だ」
「ふぅちゃんは手厳しいなぁ」
「日菜ちゃんからも言ってやってよ」
 私が交渉を託すと、「え? 何を?」と日菜ちゃんは小首を傾げる。
「何をってバンド加入の話だよ」
「きぃちゃん、昨日言ってたことって本気やったん?」
「本気に決まってんじゃん」
「ごめんごめん。てっきり昨日のは、きぃちゃん風のボケやと思とったわ」
「え…?」私の思考は一時停止する。「…じゃあ、日菜ちゃんがオーケーしてくれたのって……」
「ボケやと思とったから、ノリでオーケーしてもうたわ」
「なんじゃそりゃ!」
 今年一番の私のツッコミは、クラスメートの視線を独り占めにした。

「なかなか上手くいかないなぁ…」
 昼休みとなり廊下側の窓からグラウンドを見下ろしながら、私は昼ご飯のクリームパンを齧っていた。いつもなら冬華達と机を向かい合わせて昼食を共にするのだけど、今日は一人になりたい気分だった。
 バンド活動が振り出しに戻ったのは、かなりの痛手。また一からメンバー探しをしなければならない。だけど、私は諦めたりしない。あの快感をもう一度味わうまでは…。
「むぅ…」クリームパンは甘いけど、人生は甘くないなぁ…なんて。
「…あっ」糖分を補填したからか、ふと打開策を思い付く。
 学校、音楽、バンド、という言葉で連想されるものといえば、軽音部じゃないか。軽音部であれば楽器を扱える部員がゴロゴロ在籍しているだろうし、メンバーに困ることもない。
「そうと決まれば…」
 私は余っていたクリームパンを一気に口に放り込み、意気揚々と歩き出す。が、すぐに停止。そういえば軽音部の場所を知らない。
 そもそも私は舞妓をやっているので、部活に割けるような時間がない。だから、興味を持たなかった。…いや、持ってはダメだと胸奥で言い聞かせていたのかもしれない。やっぱり部活に励む友達なんかを見ていると、青春してんなぁ…と憧れを抱くけど、私には縁のない世界なのだ。
 とりあえず私は職員室に向かうことにした。こういう時は亜季ちゃんを頼ろう。
 職員室のある場所は、一階の東最奥。目的地に到着し早速中に入ろうとドアに手を掛けたところで、『入室前には必ずノックすること!』と明記された張り紙が目に入る。こんな些細なことで注意されたくなかった私は、ノックした後にドアを開ける。
「失礼しま~す。えっと…あっ」
 先生達が思い思いに休み時間を満喫する中、見知った後ろ姿を見つける。私はそこに近付き、声を掛ける。
「亜季ちゃん!」
「ぶふっ…!」
 我がクラスの担任である亜季ちゃんは、啜っていたカップラーメンの麺を机上にぶちまける。きちゃない。
「げほっ、ごほっ」と苦しそうに咳き込む亜季ちゃんの背中を、「ダイジョブ?」とさすってあげる。
「急いで食べたりするからだよ」
「…ふぅ」と一度呼吸を整えると、亜季ちゃんを私をジロッと睥睨。「アンタが急に声を掛けるからだよ」
「…か、かたじけない」怖いよ、その顔。
「ビックリすんじゃないの! それに、亜季ちゃんって職員室じゃ呼ばないよう注意してるでしょ!」
「お怒りはごもっとですが、顔にナルトが付いてるよ」
 ほらここ、と顔に付着したナルトを取ってあげると、捨てるのもなんなので口に含んでみる。うん、味がない。
「山城先生は生徒に随分と慕われているんですね」
 亜季ちゃんの隣席に座る、年配の先生が口を挟む。歴史に森川先生だ。穏和な性格で、生徒からの信頼も厚い。
「そ、そんなことないですよ。お茶目な生徒ばかりで、苦労してます」
 森川先生にそう答えた後、改めて亜季ちゃんは私に向き直る。
「で、なんの用?」
 露骨に不機嫌そうな様相で机に散らばった麺を片付けながら、用件を問うてくる。
「軽音部がどこにあるのかを教えてもらうべく馳せ参じた次第」
「軽音部ぅ? うわっ、こんなとこまで飛んでじゃん!」
「ちょっと用事があって探してるの。だからどこにあるか教えて」
「ないよ」
「…亜季ちゃんの人徳が?」
「あるわいっ! …じゃなくて軽音部がね」
「な、なんでっ?」
「なんでって、ないからないの。昔はあったんじゃない? よく知らないけど」
 残っていた麺を啜りながら、亜季ちゃんは素っ気なく答える。
「ガビーン…」こうも上手くいかないなんて…。人生の非情さを嘆きたい気分だぜ。
「軽音部になんの用が…ってどこ行くのよ」
「もういいっス。食事の邪魔をして申し訳ござらんかった」
 凄まじい絶望感に打ちひしがれながら、私はトボトボと職員室を後にする。
 肩を落としながら廊下を歩いていると、不意に聞き馴染みのある音色が耳に届く。…てゆーか、これってギターの音じゃん!
 その音色に誘われるまま、私は中庭に出ていた。樹木が植えられ緑の映える中庭にて、ベンチに座ってアコースティックギターを奏でる少女が一人。
 その娘に気付かれぬよう気配を消して、木陰からジッと観察。高校生とは思えぬ小柄な体躯に、幼く愛らしさを感じさせる顔立ち。身体が小さいからか、ギターが一際大きく見えた。
 エレキギターの荒々しく重厚なサウンドも好きだけど、アコースティックギターの繊細で哀愁の漂うサウンドもまた逸品。あまりギターのことには詳しくないが、かなり上手いと思った。
「…よし」このまま聴いていたい気分だったけど、私はそっと彼女の側に近寄る。
「あ、あのう…」
「………」
 初対面ということで少々緊張しながら声を掛けたが、見事に無視されてしまう。
「…あのう」
「………」
 少し声量を上げて再び声を掛けてみたが、演奏に没頭している彼女は気付いてくれない。
「あのう!」いじらしくなって耳元で叫んでしまう。
「わひゃあ!」やっと気付いてくれた彼女は、驚き飛び退く。「ご、ごめんなさい! うるさかったですよね…」
 つぶらな瞳を涙で滲ませながら謝る彼女の姿は、可愛らしさの塊だった。
「あっ…いや、そうじゃなくて。呼び掛けても無反応だったから、つい大声を出しちゃっただけなの。こっちこそビックリさせちゃってゴメンね」
「い、いえ。ダイジョブです。私、演奏中は周りの音が聞こえなくなっちゃうんですよね…」
「隣、座っていい?」
 相席を申請すると、「はい、どうぞ」と彼女は場所をずれてくれた。
「私、二年の東西菊菜っていうの。アナタは?」
 ベンチに腰を下ろしながら、私は彼女の素性を探る。
「私は一年の石田彩音っていいます」
「彩音ちゃんね…。ギター、めちゃ上手だった。プロ並み」
 私は内心、安堵していた。先輩風を吹かせてしまったが、実は年上でした…みたいなオチじゃなくて。
 私の称賛の声に、彩音ちゃんは両手をブンスカさせて謙遜する。
「ま、まだまだですよ! プロなんてとんでもないです…」
「そんなことないよ。私、音楽が大好きでよくライブ映像とかを観るんだけど、そんなに大差なかったよ」
「あ、ありがとうございます」
 彩音ちゃんは俯き気恥ずかしそうに含羞。
 ただ単に恥ずかしがり屋なのか、それとも先輩の私を相手に萎縮しているのか、彼女の反応は初々しくて可愛い。
「それで、その…折り入ってご相談がありましてですね……」
「相談、です…?」
「私と一緒にバンドをやってください!」と手を差し出す。
 まどろっこしいのは嫌だったので、私は単刀直入にバンドへの参加を申し出てみた。
 予想外の言葉だったらしく、彩音ちゃんは面を食らったように目をパチクリさせていたが、やがて口を開く。
「…ごめんなさい」
「な、なぜっ? さっき驚かせちゃったから? いきなりバンドに勧誘する私がキモかったから?」
「い、いえ。違います。お誘いの言葉は嬉しいんですが、私、シンガーソングライター希望なので」
「…そうなんだ」それならば仕方ない。しかも、ついさっき知り合ったばかりの娘を、無理に勧誘するのも気が引ける。だから、私は最後にお願いをしてみた。
「じゃあさ、最後に歌ってみてくれない?」
 さっきはギター演奏だけだったので、彼女の歌声に興味があった。シンガーソングライターを志しているのだがら、期待してもいいと思う。
「え、えと、それは…」
 私の予想に反して、彩音ちゃんの反応は微妙なものだった。もしかしたら至近距離で眺められているのが、恥ずかしいのかもしれない。
「嫌だったら嫌だって言ってくれていいよ。無理強いはしないし」
「いえ…わかりました。頑張ってみます。じゃあ、オリジナル曲の一節を…」
 ふぅ…と大きく息を吐くと、彩音ちゃんはギターを奏で始める。前奏が終わり、満を持して歌い出した。
「っ…!」
 彼女の歌声をあえて言葉にするならば、不協和音というに相応しかった。耳を塞ぎたくなるようなその歌声は、鼓膜を無慈悲に蹂躙し、空間が歪んでしまったような幻覚を発症させる。
 つまり、彼女は音痴だった。かなり重度の。音痴の首位者として名を馳せるジャ○アンと比肩するぐらいの破壊力である。み、耳がぁ!
「…ど、どうでしたか?」
 いつの間にか歌い終わっていたようで、彩音ちゃんがおずおずと感想を求めてくる。ここ数秒の記憶が綺麗に欠落してるよ。
「こ、個性的な歌声だったよ。こう…鼓膜にガツンと響くような破壊力抜群って感じの…」
 流石に面と向かって音痴とは評せなくて、遠まわしの表現で伝えてみる。
「正直に言ってください…音痴だったって」
 彩音ちゃんが真剣な眼差しで私を見据える。どうやら自分が音痴だってのは自覚しているらしい。
「じゃあ遠慮なく言うけど、音痴だったよ。それも凄まじく」
 気持ちを包み隠さず打ち明けると、彩音ちゃんは顔を覆って泣き出してしまう。
「やっぱりそうですよね! ギターは上達するのに、何故か歌唱力だけは練習をいくら重ねても上手くならないんですぅ!」
 自覚してるだけジャ○アンよりマシだと思うけど…。
「ねぇ、見てよ、アレ」
 どう慰めたものか…なんて考えていると、そんなヒソヒソ声が耳に入る。
「げっ…」
 彩音ちゃんの壮絶な歌声を聞きつけたのか、私達を取り囲むように複数人の生徒が集まっているではないか。
「だ、大丈夫だよ! 私は特徴的で良いと思ったから!」私は焦ってフォローする。
「ほ、ホントに…?」
「えっと、まぁ……」
「ふぇ…」
 フォローしたつもりが、彩音ちゃんはまたしても泣き出してしまう。な、なぜに!
「先輩、嘘ついてますぅ。目を逸らしましたぁ!」
「ねぇ、やっぱり…」「先生呼んだ方がいいんじゃ…」と囁き合う会話が聞こえてくる。
 これはヤバい。私が一方的に悪者扱いされてんじゃん。どうにか誤解を解かなければ、私の悪い噂が広まってしまうかも。
「そ、それじゃあ、こうしよう! 私が彩音ちゃんに歌の特訓してあげる!」
「ほ、ホントに…?」
「こう見えても私、歌うのだけは得意なんだよね」
「…そうは見えないです。先輩もこっち側の匂いがします」
 そう言って彩音ちゃんが私に向けた目は、猜疑心に彩られている。
「じゃあ、ここで証明してあげる。アカペラもなんだし、ギター弾いてもらってもいい?」
「いいですけど、なんの曲ですか?」
「う~んと…あっ、スピッツの『チェリー』とかってわかる? 世代じゃないから、知らないかもだけど」
 季節感を重視した曲をリクエストする。春といえばこの曲だろう。
「あっ、わかります。お父さんが車でよく聴いていたので、少しだけならなんとか」
「じゃあ、お願い」
 私の合図に、彩音ちゃんが頷く。彩音ちゃんがギターを奏で出した瞬間、呼応するように辺りが静まり返った。
 歌うことだけに専心する為、瞑目して視覚を絶つ。これで気兼ねなく歌える。

 歌い終わった爽快感の余韻に浸りながら、私は静かに目を開いていく。
「っ…!」
 目の前に広がる光景を見て、私は思わず瞠目。目を瞑っていたので気付かなかったが、いつの間にか私達の周りにはギャラリーがいっぱい。
 多分、誘い誘われここまで人が増えたのだろう。女子高生はイベント事が好きな生き物だしね。
 ふと、隣にいる彩音ちゃんを一瞥すると、私と同じく戸惑っているのか、目を右往左往泳がせていた。
「きぃちゃん!」
 突如、見知った顔が群衆から現れた。
「ひ、日菜ちゃん…」
 そして私の手を握ると、称賛の言葉を重ねる。
「ウチ、カンドーしてもうたわ。きぃちゃんが歌上手いのは知っとったけど、こんな人前で熱唱できるなんてなんかカッコよかった! うち、きぃちゃんの為にドラム頑張ってみる!」
「ま、マジで?」
「マジと書いて本気や! …ん? あっ、本気と書いてマジか」
「こらっ! これは一体なんの騒ぎだ!」
 その時、耳を塞ぎたくなるような怒号が、中庭に木霊する。どうやら騒ぎに気付いた先生が駆け付けたらしい。しかも、体育を担当する中島先生。
「ヤバっ」私達が騒ぎの中心だと知られれば、呼び出しをくらい説教されるかも。あまり悪目立ちするのもいい気がしない。
 私は彩音ちゃんと日菜ちゃんの手を取ると、生徒の間を縫って駆け出した。

 なんとか中島先生に説教されることなく、無事に放課後を迎えられた。だが、私の心には釈然としない気持ちが纏わり付いていた。昼間のちょっとした騒動のせいで、彩音ちゃんがバンドに参加してくれるかどうかの返事が有耶無耶になってしまったからだ。
でも、今日も舞妓の仕事があるので、交渉できる時間があるのは明日か…なんて考えながら、帰宅の準備に勤しんでいると、
「菊菜先輩」とどこか幼い声音が私の名を呼んだ。
 そちらを見てみると、ギターを担いだ彩音ちゃんが立っていた。やはり、小柄な体躯の為か、ギターがやけに大きく見える。
「な、なに?」
 予想外の人物の登場に、私は少し動揺した。
「ちょっといいですか?」
 顔を貸せと言っているみたいだ。な、なんだろ…。まさか昼間のこと怒ってる…とか?
「菊菜、誰それ?」
 一足早く帰り自宅を完了させた冬華が、見知らぬ後輩の正体に疑問を抱く。
「一年の彩音ちゃん。ちょっと昼休みに色々あって、知り合いになったの。…あっ、もしかして冬華、ヤキモチ妬いてる?」
「妬いてるか、アホ」
 ぐっ、冷たい…。
「ふぅん…」冬華が彩音ちゃんを見やる。「その背中に背負ってる物で、なんとなく把握した」
 背中に背負っている物とは、ギターを指しているのだろう。
「菊菜、別にお前のやることに口出しをするつもりはないが、その娘に迷惑は掛けんなよ」
「かけないよ~だ」
「ふんっ。彩音…ちゃんだっけ? ソイツに迷惑掛けられた時は、いつでも私に言ってくれ。制裁してやるから」
 冬華は逆手に鞄を担ぎそう言い残すと、颯爽と教室を去っていった。
「…なんかカッコいい人ですね」
 冬華の後ろ姿を眺めながら、彩音ちゃんが小さく呟く。
「言動に惑わされちゃ駄目だよ。奴は冷淡なだけだから」
「だけど、そこがカッコいい…」
 遠ざかっていく冬華を凝視する瞳が、恋する乙女のように見えたのは気のせいだと思いたい。
「それより、私に用があったんじゃないの?」
 冬華の姿が見えなくなっても尚、廊下を黙然と見続ける彩音ちゃんに声を掛ける。
「え? あっ、そうでした」私の声で我を取り戻した彩音ちゃんは、改めて私に向き直る。「ここじゃなんなので、場所を移しましょう」
「…?」
 そうして彩音ちゃんに連れられた場所は、私と彩音ちゃんが初めて出会った中庭だった。グラウンドは運動部の蛮声が飛び交って騒々しいが、中庭は数名の生徒がいるだけなので、会話するにはもってこいの環境だ。私達は昼休みの時と同じベンチに腰掛けた。
「…菊菜先輩の歌声、スゴく良かったです」
「え?」
「力強くも透き通った声質、それと、あれだけのギャラリーを前にして歌い続ける強靭なハート」
「ほ、褒めてもなんもないよ」
 普段、人から褒められることなんか滅多になくて、しかもそれが自信のあった歌唱力のこととなれば嬉しくないはずがなかった。
「私、先輩とバンドをやりたくなっちゃいました」
 上目遣いで恥ずかしそうに私を見つめる彩音ちゃん。なんか、告白されたような気分だった…じゃなくて!
「い、今なんて言ったの?」
 私の聞き間違いでなければ、私とバンドがしたいとかなんとか聞こえた気がしたけど…。
「もうっ、ちゃんと聞いてて下さいよ」と少しお怒りの様子だったけど、彩音ちゃんは私の要望に応えてくれた。
「じゃあ、もう一度だけ言います。私、先輩とバンドをやってみたいです…いや、一緒にやりたいです。それだけ、私は先輩の歌声に可能性を感じました」
「ま、マジですかっ!」
 思わず大声を出してしまう。
「先輩って声が大きいですよね」
「そうそう、私って声が大きいのだけが、取り柄だからね。…って誰が声のデカさだけが取り柄やねん!」
 大胆かつ華麗に決まった渾身のノリツッコミに満足感を抱きながら、彩音ちゃんの反応を窺う。
「そんなに声がおっきかったら、どこにいてもわかりそうですよね」
 私のノリツッコミには一切触れず、彩音ちゃんは何事もなかったかのように会話を続ける。
「…彩音ちゃんって関西人?」
「はい。生まれも育ちも関西です」
「ああ、そう…」
 どうやら彩音ちゃんとは、笑いの接点に少々のズレがあるようだ。
「きぃちゃん、みっけ!」
 そんなやり取りをしていると、日菜ちゃんが中庭に姿を見せた。
「あっ、日菜ちゃん」
「あっ、日菜ちゃん、やない! 人がトイレに行っとる間にいなくなっとったから、探したやん」
「ごめんごめん」一緒に帰る約束をしていたことを、すっかり忘れていた。
「ん? その娘って昼休みにギター弾いてた娘やんね?」
 日菜ちゃんが彩音ちゃんの存在に気付く。
「あっ、はい。一年の石田彩音っていいます」
「これはこれはご丁寧に。ウチは椥辻日菜いいます。それより、彩音ちゃんってめっちゃギター上手やね」
「そ、そんなことないです。まだまだ練習中ですから」
「私も上手いと思ったよ。その腕があったら、メジャーも夢じゃないぜ」
「そ、そうです? えへへ」
 二人からギターの腕前を称賛され、彩音ちゃんは満更でもなさそうに微笑んだ。

 翌日、土曜日の朝9時。若者達の待ち合わせ場所によく利用される山科駅にて、私はある人物を待っていた。
 本当であれば今日も稽古の日なのだけど、体調不良を訴えて休みにしてもらった。ちなみに体調はすこぶる好調だったりする。今は稽古なんかよりも、優先すべき事柄が私にはあるのだ。
「…それにしても遅いな」
 スマホを取り出して時刻を確認してみると、待ち合わせ時間を10分も過ぎていた。周りを見渡して入れ違いになっていないかを確認。休日の駅前は人々の往来が激しく、かなり忙しない。
「菊菜先輩!」
 唐突に背後から名を呼ばれ、肩が跳ねる。反射的に振り返ってみると、待ち合わせ相手の彩音ちゃんがこちらに駆け寄ってくるところだった。
「遅れてごめんなさい。ちょっと寝坊しちゃって…」
 言葉に謝意を滲ませながら、彩音ちゃんが律儀にもスっと頭を下げる。すると、頭頂部から突出していたギターケースが、眼前で踊った。
「いいよいいよ。たかが10分ぐらいだし。てゆーか、休みの日までギター持ってるんだね」
 私も遅刻の常習犯だし、人のことをとやかく言う権利はないのだ。
「あっ、はい。いつでも練習できるようにと。それと…」
「それと?」
「小学生の頃からの、私の相棒なので」
 恥ずかしそうに俯き呟く彩音ちゃん。その仕草もまた可愛らしい。
「そっか。ちなみに名前とかあるの?」
 女の子は大切なぬいぐるみや人形に命名する傾向にあるので、なんとなく訊いてみた。
「…リア」
「え?」彩音ちゃんが何事かを呟いたようだが、声量が小さく上手く聞き取れなかった。
「か、カナリアです。この子の名前」
 頬を紅潮させギターの名を公表する彩音ちゃん。
「へぇ…カナリアか。いい名前じゃん」
 安直にギタ子とかだったら吹き出していたところだけど、素直にいい名前だと思った。
「そ、そうです? この子を見た瞬間に頭に浮かんだ名前なんですよ」
 そう言って、彩音ちゃんは背負ったままのギターケースを片手で大事そうに撫でる。
「それより、今日はどこに行くんです?」
「ある堅物をメンバーに勧誘しに。もう直接乗り込んで、直談判しかないかなって」
 言わずもがな冬華のことだ。
「…それって私もです?」
「うん。彩音ちゃんもメンバーの一員だから、協力して貰おうと思って…嫌だった?」
 ちなみに日菜ちゃんも誘ったのだが、用事があるとかで来れないとのこと。
「さっき言ってた堅物って、どれくらいの堅物なんです?」
「もう氷みたいにカッチカチで、融通の利かなさは天下一って感じ。てゆーか、昨日の冬華って娘なんだけどね」
 私がメンバー候補の名を明かした瞬間、「えっ!」と彩音ちゃんは露骨に一驚。
「ど、どうかした?」
 私がそう尋ねると、彩音ちゃんはあからさまに動揺した様子を見せた。
「な、なんでもありませぬ」
「ありませぬって…」まぁこの際、これ以上の言及はしないでおこう。
 冬華の住むマンションまでは、駅から歩いて数十分のところだ。
「菊菜先輩」
 その道中、隣を歩く彩音ちゃんが話し掛けてきた。
「ん?」
「今から行く、えっと……」
「冬華のこと?」
「そ、そうです。冬華先輩ってどんな方なんです?」
「さっきも言ったけど、かなりの堅物だよ」
「へぇ…謹厳実直って感じです?」
 ず、随分と難しい言葉を知っているな、この娘。
「まぁそうね。何事にも真面目ではあるかな」
「冬華先輩とはいつからお知り合いなんです?」
「小学生の頃からの知り合い。俗に言う腐れ縁ってやつ。しかも、学校までずっと一緒なんだよね、ウザいぐらいに」
 冬華との間柄を明かすと、「むっ」と彩音ちゃんが頬を膨らませた。
「私、なんかした?」
「あっ、いえ! な、なんでもないです…」
 何故か慌てた様子の彩音ちゃん。なんだろ…?
「…冬華先輩に恋人さんっているんです?」
「いきなりだね…。いるはずないよ、あんな堅物に。ずっと一緒にいるけど、男の気配すら感じたことないよ」
「そ、そうなんですね…よかった」彩音ちゃんは安堵したように息を吐いた。
「冬華のこと、そんなに気になる?」
 私に対しての興味は薄いのに、冬華に対する興味は顕著に濃厚。
「あっ、いや…メンバーの誰かに恋人がいたら、練習に支障が出るかもって思ったんです! 別に深い意味はなくて…」
「確かに一理あるね。じゃあ、私達のバンドは、基本的に恋愛禁止にしよう」どこぞのアイドルグループみたいだけど。
「そ、それはメンバー同士も…です?」
「メンバー同士? それってどういう…あっ、ここだよ」
 そんな歓談に花を咲かせていると、目的地である冬華の住むマンションに到着。
「じゃあ、いこっか」私達は揃ってマンションに入る。
 セキュリティーの為、1階には施錠された自動ドアがあり、鍵を使うか、遠隔操作で住人に開けてもらうしかない。鍵なんて物はある訳ないので、解錠方法は後者となる。302号室の番号を押そうとした瞬間、タイミングよく宅急便の人が歩いてきて自動ドアを開いてくれた。
 そのまま中に入ろうとすると、「か、勝手に入ってもいいんです?」と彩音ちゃんが確認してきた。
「いいのいいの。私と冬華は家族みたいなもんだし」
 恐らく今の会話を聞かれていたら、『お前と血縁関係を結んだ覚えはない』と一蹴されていたに違いない。
 冬華の自宅の前に到着し、いざ私がインターホンを押し込もうとした矢先、「ちょっと待ってください!」と彩音ちゃんから停止命令が下る。
「な、なに?」
「少し緊張してきました…」
 その言葉通り緊張した面持ちの彩音ちゃんは、面接に挑もうとするサラリーマンの如く居住まいを正す。
「そんなに緊張することないよ。デトックスデトックス」
「あっ、はい。デトックスデットストック」
『そこは、リラックスでしょ!』というツッコミを期待していたのに、そこに気付けないほど緊張しているらしい。
 なんでそこまで緊張しているのか謎だったけど、私はとりあえずインターホンを押した。
『…はい』
 数秒後、インターホンから気怠げな声が発せられた。声色から冬華だと判別できた。
「宅急便です。お荷物をお持ちしました」
『…今、開けます』
「う、嘘ついていいんです?」
 私と冬華のやり取りを見ていた彩音ちゃんが、心配そうに尋ねてくる。
「どうせ正直に言っても、ウザがられて入れてくんないもん」
「…お二人はホントに友達なんです?」
 そんな会話をしていると、ガチャっと扉が開かれた。
「やっほー、菊菜ちゃんだよっ♪」
「間に合ってます」
 訪問者が私だとわかった途端、冬華は扉を閉めようと試みる。
「させん」
 私は瞬間的に扉の間隙に片足を滑り込ませ、閉め出しを未然に防ぐ。
「……」
 しかし、全く焦った素振りも見せず、冬華は無言で私の足を粉砕しようと圧力を加える。
「痛い痛いぃ。足が潰れるぅ」
「このまま大人しく帰るのであれば、解放してやってもいい。だが、断るのであれば、足を潰す」
 仮にも友達である私の足を潰そうとするなんて、どんだけSなのよ!
「わかったわかった。帰るから!」
「ふんっ」
 私がそう観念すると、扉に掛かっていた圧力が弱まった。チャンス!
「てやっ!」
 数瞬の好機を逃さず、私は扉を思いっきり開けてやる。
「くっ、貴様…」憎々しげに呟く冬華。
「菊菜先輩、無理矢理はダメですよ!」
「あれ? 君は…彩音ちゃんだよね? なんでこのアホと一緒に…」
 冬華がそこでやっと同行者の存在に気付く。
「こ、こんにちは、冬華先輩。今日は菊菜先輩に誘われて…」
「…わかった。とりあえず中に入って」
 彩音ちゃんによって毒気を抜かれたのか、冬華は入室を許可してくれた。グッジョブ、彩音ちゃん。
「少し散らかってるけど、遠慮しないでね」
「お前が言うな」
 私のボケに対し、すかさずツッコむ冬華。
「おじゃまします」
 彩音ちゃんは玄関で靴を脱ぐと、律儀にもちゃんと靴を逆さにして揃える。
「彩音ちゃんは礼儀正しいね。どっかのバカと違って」
 冬華の皮肉たっぷりの言葉に対し、私は言い返す。
「私だって人様の家だとちゃんとするもんね。ここは私の第二のホームみたいなものだから、あえてしなかっただけだし」
「あっそ」
 冷たくあしらわれた。
「冬華、おばさんは?」家の中に人気がなかったので、私は何気なく尋ねた。
「買い物に行ってる。もう少ししたら、帰ってくるだろうよ」
 私達は冬華の部屋へと向かった。
「相変わらず女子らしくない部屋だぁね」
 冬華の部屋は、物が少なくガランとしていて物寂しい。元々無趣味っていうのもあると思うけど、それにしたってぬいぐるみの一体もないなんて信じられない。加えて、ラックに掛かっているのは、黒色の服ばかり。年相応の女子高生とは思えない殺風景な部屋だ。
 めぼしい物があるとしたら、部屋の片隅のポツンと置いてある黒い布を被った大きめの物体。視界に映らないよう放置されているそれは、掃除を怠り埃まみれだ。
「ほっとけ」
 冬華は私の言葉をあしらうと、椅子に腰掛ける。
 私はいつもの勉強机の対面にあるベッドに座り込む。彩音ちゃんはというと、座る場所を求めてあたふたと彷徨っていた。
「彩音ちゃんもベッドに座るといいよ」
 冬華がベッドへの着席を促す。
「い、いいんです?」
 私は座る位置をずらし、 
「そうそう。遠慮しないで彩音ちゃんも座るといい」
「だから、お前が言うな」
 彩音ちゃんがベッドに座ったのを契機に、冬華は用件を訊いてきた。
「で、今日はなんの用なんだ? まぁ、だいたいの予想はつくが」
「私はやっぱり冬華とバンドがしたいの」
「お前もしつこい奴だな。前にも断っただろ。私は進学する為に勉強に集中したいんだよ」
「まだ私達、二年になったばっかだし、来年でもいいじゃん。てゆーか、そもそも冬華って頭いいし」
 こう言っちゃ悔しいけど、冬華は才色兼備と評していいほどの美貌と学力を兼ね備えている。まぁ、性格はちょっと難有りだけど…。
「備えあれば憂いなしって言うだろ。それに、私が万が一バンドなぞに参加して、受験に落ちたらどうする? お前を一生涯恨むことになるぞ」
「それは…ちょっと困る」
「だろう? じゃあ、もう諦めてくれ」
「それもヤダ」私がそう答えると、「ワガママな奴だな」と冬華は苦笑する。
「てゆーか、そんなに勉強してて楽しい訳?」
「楽しいとかの問題じゃない。少しでも学力を向上させようと必死なんだよ」
「私、もったいないと思う。だって、今しかない高校時代だよ? それを勉強に費やすなんてもったいない。青春をもっと謳歌しとかないと、後々絶対に後悔するよ」
 お父さんからも、学生時代もっと楽しんでおけばよかった、という愚痴を辟易するぐらい何度も聞いた覚えがある。
「そんなの結果論でしかないだろ。それに勉強を怠って大学に落ちるより、そっちの方が何倍もマシ」
「冬華はああ言ったらこう言う。そろそろ腹立ってきた」
 それが理路整然としてるものだから、更に腹立たしい。
「あっ? それはこっちのセリフなんだけど。自分の思い通りにならないと不機嫌になるその癖、幼稚だからもうやめろ」
「むっ」「チッ」私達は睨み合う。
「二人共やめて下さい!」
 憤然と睨み合う一触即発ムードの中、仲裁に入る人物が一人。彩音ちゃんだ。
「ケンカはダメです!」
「彩音ちゃんはどうなんだ? 私みたいなのがバンドに参加して欲しいと思うか?」
「私は……」目を伏せ、言い淀む彩音ちゃん。数秒の沈黙の後、話し出す。「私は正直言って微妙です。冬華先輩のことはまだよく知りませんが、入ってくれたらメンバーをまとめてくれそうなので歓迎します。だけど、そもそも楽器の類は演奏できるのでしょうか…?」
「……」冬華は思い詰めたように下唇を噛み締め、部屋の片隅にある例の物体を一瞥。そして、「…出来ないよ」と一言。
「出来ないことない」私は容喙。「冬華はただ逃げてるだけ。やろうと思えばまた出来る」
「勝手なこと言うな。私はもうアレはやららないと決めたんだ」
「…あ、アレっていうのは…?」
 不用意に踏み込んではいけない領域だと察したのか、彩音ちゃんの口調は緊張を帯びていた。
「…わかった。彩音ちゃんには話しておこう。これまで誰にも秘匿にしてきた私の過去を…」
「……」
 彩音ちゃんがゴクリと固唾を飲む。そして、冬華は重々しい口調で過去を語り出した。
「私には歳の離れたバンドマンの兄がいたんだ。担当はベースで、技術もそこそこのレベルだった。兄の所属していたバンドは、インディーズながらも人気があってCDの売り行きも好調だった。そんなある時、兄はファンの女性と付き合うようになった。いかにもバンドが好きそうな、金髪の似合う可愛らしい女性だった。しかし、彼女と付き合ったことで、災禍を引き起こしてしまった…」
「…災禍、ですか?」
 彩音ちゃんに問われ、「そう」と冬華は頷く。
「彼女にうつつを抜かすばかりに、バンド活動が疎かになってしまった。恋は盲目なんてのはよく言ったもので、ライブのリハーサルを休んでまで兄は彼女と共にいたかったんだ。リハーサルばかりか、ライブにも気まぐれで参加していたりした。やがて、兄はバンドメンバーから追放されることとなる。そりゃあ当然の処置だったと思う。バンドより彼女を優先する奴なんていない方がいいに決まっている。そう結論付けたメンバー達が、兄が自主的に脱退するようけしかけた。ベースの腕前を貶したり、あからさまな無視をするようになった。そして、精神的に追い詰められた兄は、そのことを全て彼女に打ち明けた。すると、『これを飲むと気持ちが楽になるよ』と彼女があるクスリを兄に譲渡した。そう――ドラッグだ。彼女がドラッグを使っているなんて知らなかった兄は心底驚いたようだが、彼女の厚意を無碍にも出来ずドラッグに手を出してしまった。現実逃避できるのであれば、兄はなんでも良かったんだと思う。それが、人道的に逸脱した行為だったとしても…。その先は容易に想像できるだろう。兄はドラッグに耽溺してしまい、ドラッグを手放せない身体になってしまった。段々と頬がこけ、やせ細っていく兄を見ているのはかなり辛かった。やがて、メンバー達も兄の明らかな異変に気付き、バンドから強制的に追放したんだ。もうその時には、殆ど呂律も回っていなくて、幻覚を見るまでに症状は悪化していた。しかし、負の連鎖は兄を雁字搦めにして離さなかった。そんな痛ましく絶望的な境遇の中、決して見放さないと思っていた彼女にも捨てられてしまったんだ。そして兄は…」
 冬華はそこで目を伏せ、意味深に言葉を区切る。
「お、お兄さんはどうなってしまったんですかっ!」
 すっかり冬華の話しに夢中になっている彩音ちゃんは、身を乗り出して結末を求める。
 ややあって、冬華は兄の凄惨な末路を口にした。
「…自ら命を絶ってしまったよ」
「そ、そんな…」
 彩音ちゃんの頬に一筋の雫が伝う。
「だから私は、バンドというものに恨みを抱いているんだ…」
「……」
 二人が悲痛の表情を浮かべる中、私は全く胸に響いてはいなかった。無感動といって差し支えない。 
 何故ならば――
「壮大な嘘つくな!」
 思わず立ち上がって、私は叫んでしまう。
「え…?」
 彩音ちゃんが目を丸くする。
「アンタに兄貴なんておらんだろ!」
「私は最初に言っただろう。誰にも秘匿してきた話しだと」
「だとしても、私が知らない訳ないじゃん! いつから一緒にいると思ってんのよ!」
「そんなことは知らん」
「そんな嘘をついてまで、バンドをやりたくないっていうの? やってること、サイテーだから!」
「私が最低? 何度も断っている相手をしつこく勧誘するわ、配達員だと偽って人様の家に上がり込むわ。自分のことを棚に上げて、最低などとよく言えたものだ」
「ぐっ…で、でも、ついて良い嘘と悪い嘘が世の中にはあるんだから!」
 言い負かされてなるものか、と躍起になる。
「善悪の判断なんて人それぞれだろ。自分の尺度を人に押し付けるな」
「こ、この、ガリ勉女!」
 とうとう私は、単なる悪口を吐いてしまう。悔しいかな舌戦に敗北した証拠だ。
「ふんっ、勝手にほざいてろ。痛くも痒くもない」
「なんなのよ! なんでそんなに冷たい訳? だから友達も少ないんだよ!」
「なっ…私に友達が少ないのは今関係ないだろ!」
 どうやらデリケートゾーンに触れてしまったらしく、冬華が珍しく語気を荒げる。
「この際だから言っといてやる! お前のその傍若無人なワガママっぷりには心底呆れていたんだ! 宿題を忘れたから見せてくれだの、授業中に寝てたからノートを貸してくれだの、その人任せな姿勢には正直うんざりなんだよ!」
「しょうがないじゃん! 私だって仕事で疲れてるんだから!」
「はなからお前には学業と仕事の両立なんて出来るはずなかったんだよ! 中途半端になるぐらいだったら、学校なんて辞めろ!」
「…っ!」
 ダメだ…泣いちゃダメだ。それこそ敗北を宣言したようなもの。脆弱になった涙腺を、意地と根性で牽制する。
「もう知らない…冬華なんてもう知らない! アンタとはもう絶交だから!」
「ふんっ、上等だ。金輪際、お前とは喋らない。そして、話し掛けてくるな」
「冬華のバカっ!」
 私は冬華の家を飛び出す。そのまま階段を二段飛ばしで下り、エントランスを駆け抜ける。路上に出ると、脇目も振らず一目散に疾走する。
「ぶへっ」一心不乱に走ることだけに集中していた為、前方不注意で誰かと接触してしまった。「ご、ごめんなさ…あっ、おばさん」
 衝突してしまった相手は、見知った柔和な顔だった。冬華のお母さんだ。おばさんの豊満な胸部が緩衝材となり、大事に至らなかったようだ。
「あら、菊菜ちゃんじゃない。ビックリしちゃったわ、いきなりぶつかってくるなんて」
「も、申し訳ござらん。ちょっと、のっぴきならない事情がありまして…」
「のっぴきならないってよく意味がわからないけど…。菊菜ちゃん、もしかして泣いてる?」
「えっ?」指摘され目元を拭ってみると、手の甲が見事に湿っていた。
「あ、あれ? おかしいな…」塞き止めていたはずの涙が、意思に反し次々と両目から溢れてくる。
「ちょ、ちょっと菊菜ちゃん? とりあえずどっかでお話ししよ」
 おばさんに手を引かれ、近くにあった小さな公園に連れていかれた。ベンチに並んで座り、話し合う。
「菊菜ちゃん、ちょっとは落ち着いた?」
「はい…」
 私が泣き止むまで、おばさんはずっと背中を撫でてくれたいた。その温かく優しい感触に、昂ぶっていた感情も大分落ち着きを取り戻した。
「もしかして、冬華とケンカしちゃった?」
 おばさんが私の泣いている理由をズバリ言い当てる。
「…はい、実は」
「そっか。ケンカするほど仲が良いって言うもんね。友達と衝突するぐらいあるよ」
「私、いつの間にか冬華に迷惑かけてたみたいで、いっぱい文句言われちゃいました」
 細かいところは省いて、要約した内容を伝える。
「おばさん、菊菜ちゃんには感謝してるんだよ」
「へ?」
「あの娘、今でこふてぶてしい感じだけど、昔は極度の人見知りだったじゃない? いっつも親の後ろに隠れて、殻に閉じ篭ってたし。その殻を破ってくれたのは、やっぱり菊菜ちゃんのお陰だもん。菊菜ちゃんがいなかったら、協調性に欠けるあの娘は、今頃ずっと一人で過ごしてたと思うし。どんな理由でケンカしたのかは知らないけど、冬華には菊菜ちゃんが必要なのよ」
「私も…私も冬華がいなかったら、今の私はいなかったかもしれません」
物事を主観的にしか見れない猪突猛進タイプの私を、諌めて良い方向に導いてくれるのはいつも冬華なのだ。
「ふふっ、口で言わないだけで相思相愛なのね、二人は。対照的な二人だからこそ、お互いに不足している部分を補って成り立っているのよ。おばさんが学生の頃なんて…あっ!」
「えっ? ど、どうかしましたか?」
 いきなり驚かれて、こっちもつられて驚いてしまう。
「アイス買ってたの忘れてたわ。冷蔵庫に早く入れないと溶けちゃう」
 おばさんはアイスの身を案じ、ベンチから腰を上げる。
「冬華とのことは安心して。私がちゃんと仲直りするよう言っといてあげる」
「あっ、はい。なんかお世話になりました」
 ニコッと私に微笑み掛けると、おあばさんは立ち去ろうと歩き出した。だけど、すぐにこちらに向き直る。
 購入したアイスをレジ袋から取り出し、
「これ、菊菜ちゃんにあげるね」
 それは二本に分割できる、チョココーヒー味の吸引タイプのアイスだ。
「そ、そんな、悪いです」
「何個か買ったから、一つぐらい大丈夫」
「…じゃあ、頂きます」
 そういうことであれば、ありがたく受け取っておこう。あっ、冷たい。
「じゃあね、菊菜ちゃん」
 おばさんが手を振ってきたので、私もそれに応えて振り返す。おばさんの背中が見えなくなるまで見送った後、私は貰ったアイスを開封する。ちゃんと二つに割ってから、食べ始める。
「ん~っ」口内が冷気と甘味に満たされる感覚は、実に心地よい。久々に食べたけど、味付けが絶妙。
 そして、夢中でチューチューとアイスを貪っていると――
「菊菜先輩!」
「んふぅ!」
 突然大声で名を呼ばれ、肩が盛大に跳ねる。心臓飛び出るかと思った。
「こんな所でなにやってるんですか! 心配したんですからね! 何回も電話したのに出ないし!」
 探し出してくれたのか、彩音ちゃんの怒った顔がそこにあった。
「ご、ごめんなひゃい…」
「あと、これ、忘れてましたよ」
 彩音ちゃんが見覚えのある靴を差し出してきた。
「あらら」なんか歩く度に足が痛いなぁ…なんて思っていたら、どうやら私は靴も履かずに飛び出してたみたい。
「何から何まで、すみません。よければこれをどうぞ」
 私は残っていたアイスの半分を彩音さまに献上。
「…どうも」
彩音ちゃんは釈然としない顔をしながらも、それを受け取り私の隣に座る。
「…なんかごめんね。私達のいざこざに巻き込んじゃって」
「いいですよ、別に。あまり気にしてませんから」
 彩音ちゃんはアイスに口を付ける。
「冬華…なんか言ってた?」
 私は恐る恐る尋ねてみる。
「そうですね…菊菜と付き合っていたらろくなことにならないから、彩音ちゃんも菊菜と縁を切った方がいいって言われました」
「そ、そっか…」
 なんとなく予想していた言葉だけに意外性は皆無だけど、それが真実と変わった今、心が切なさで満たされる。
「なんて、嘘ですよ」
「へっ?」
「私を置いてけぼりにした挙句、手を煩わした罰です」
「い、意外と彩音ちゃんって根に持つタイプだったんだね…」そこは予想外だった。
「本当は、何をしでかすか心配だから追い掛けてくれって言われました」
「そう…だったんだ」
「あと私が家を出る前、色々とアイツが迷惑を掛けるだろうけど、付き合える範疇で付き合ってやってくれ、とも」
「そっか…」
「それより、なんでそこまで冬華先輩にこだわるんです? やっぱり友達だからです?」
「それもあるけど…。私にはあの娘の演奏技術が必要なんだよね」
 何気なく上空を見上げてみると、眩い太陽光が網膜を苛む。
「でも、冬華先輩は楽器が出来ないって…」
「冬華の部屋の隅にあった、黒い布を被せてた物って気付いた?」
 問い掛けてみると、彩音ちゃんはふるふると顔を左右に振る。
「アレってピアノなんだよね」
「ピアノ、ですか?」
 彩音ちゃんは食べるのを中断する。
「そう。冬華は小学5年までピアノを習っていたの」
「へぇ…なんか想像しても様になってます」
「それなりの腕前でコンクールとかにも出場してたぐらいなの。私もよく親に連れられて、冬華の演奏を観にいってたりしてた」
「コンクールに出場するぐらい上手かったのに、どうして辞めちゃったんです?」
「小学5年っていったら、もうそろそろ物心がついてもいい頃じゃない? それと、コンクールを着実に勝ち抜いていって、ついに決勝ってところまでいったのもの相まって、あの娘、尋常じゃないぐらい緊張しちゃったみたいなの。それで…」
「そ、それで…?」
「ピアノの先生とか応援してくれている友達の期待を一身に背負ったことで、いざ演奏って時にね……漏らしちゃったの」
「そ、それってまさか…」
「うん、お察しの通り。その後、大泣きしちゃうわ、演奏は中止になるわで散々だった。それからというものそれがトラウマになっちゃって、小学生最後の学芸会だって裏方だったし、中学の時のイベント事も人前に出るのを極力避けてたよ。今じゃその症状も少しはマシになってるみたいだけど、注目されるのは好きじゃないみたい」
「そ、それはかなりのトラウマですね。幼少期のトラウマって大きくなっても残りますし…」
「でも、ピアノの腕は確かだった。ピアノについてはあまり詳しくないけど、幼いながらに上手いと思ってた。こう…活き活きとしつつも優しい音色で…言葉にするのは難しいけど、とにかく私は冬華のピアノをどうしても加えたいの!」
 心情を大声で吐き出しながら、私は勢い良く立ち上がる。当然、周りから怪訝な視線が集うけど、気にしないよう努めた。
「菊菜先輩の気持ちはよくわかりましたが、どうやって冬華先輩を勧誘する気です? 菊菜先輩の決意も相当強固なものですが、冬華先輩の意地も相当なものですけど…」
「そう。まずそれだよね」
 何か対策を立てなければいけないけど、今の段階だと全くの無策。
「うぬぬぅ」腕を組んで、あれこれと千慮する。直後、きゅるる~とお腹が鳴ってしまう。普段、あまり使わない脳を酷使してしまった結果、急激にカロリーを消費してしまったようだ。
「ふふっ」彩音ちゃんは破顔一笑。「なんです? 今の音」
「どうやら聞こえてしまったらしいね。お恥ずかしい」
 スマホで時間を確認してみると、もうすぐお昼時。私の体内時計は、正確に時間を刻んでるみたい。
「私も少しお腹が空いてきちゃいました。アイスを食べて胃が刺激されたかもです」
「じゃあ、ドーナツでも食べに行こうよ。駅の近くにドーナツ屋さんがあるから」
「わぁ、ドーナツですか! 私、久しぶりです」
「腹が減っては戦は出来ぬって言うしね」
「戦って…誰とです?」
「そりゃ、冬華とに決まってんじゃん」
 とういう訳で、私達は駅近くのドーナツ屋に向かった。さて、ドーナツ屋に到着したのはいいけど、思ったよりも混雑していて人が多い。休日、お昼時という条件が揃っているからだろう。それにしたってお客さんが多い。
 他のお店にしようか、と提案するべく隣にいる彩音ちゃんを見てみると、ガラスケースに綺麗に陳列されている多種多様のドーナツをジッと熟視しているではないか。よっぽどドーナツが好きらしい。まぁ、ドーナツが嫌いなんて言う稀有な女子はそうそういないだろうけど。
 結局、ドーナツを買って空席ができるまで30分ほど待たされる羽目となった。
「じゃあ、早速食べよっか。そろそろお腹が限界」
「はい!」
 対面に座る彩音ちゃんが、溌剌とした返事をする。
「そういえば、彩音ちゃんって普段はどんな音楽聴くの?」
 黙々と食べるのもなんだったので、無難な話題を振ってみる。
「私ですか? そうですね…主にシンガーの方が多いです」
「例えば?」
「椎名林檎さんとかmiwaさんとかYOUさんが好きです」
「あっ、私、ジュディマリ好きだよ」
「ジュディマリは私も好きです。逆に菊菜先輩は?」
「私はもう洋楽ロック! ビートルズとかクイーンとかエアロスミス!」
「へぇ…」 
「だから、最近の音楽にはてんで疎くてのぉ。時代の移り変わりは目まぐるしくて敵わん」
 ずずずーっとお茶、ではなくカフェオレを啜る。
「それってやっぱりお父さんとかの影響とかだったりするんです?」
「うん。お父さんが無類の洋楽好きでね。小さい頃はそればっかり聴いてたから」
「わかります。音楽って両親や兄弟の影響が大きいですよね。私も兄の影響でギターを始めましたから。だから、冬華先輩に親近感を覚えたんですけど…アレって嘘だったんですよね?」
「まぁそうね。お兄ちゃんがいたんなら、私が知らないはずないもん。多分、例のトラウマを言いたくなくて、咄嗟に嘘をついたんじゃないかな」
 それにしたって、あのフィクション話には感服した。恐らくどこかで読んだ小説のネタを、瞬間的に一部改変して話したのだろう。
「あっ、それと私がトラウマの話しをしたのは内緒ね。バレたら絶対に恐ろしいことになるから」
 想像しただけでも、おぞましい未来しか思い浮かばない。
「はい、話しませんよ。それよりこの後、三条京阪に行ってもいいです?」
 次の行き先を私に告げると、彩音ちゃんはドーナツを一口かじる。
「別にいいけど、何しに?」
「行きつけの楽器屋さんがあるんです。そこでよく弦を買ったり、ギターのメンテナンスをしてもらってるんですけど」
「そうなんだ。全然いいよ」
 バンド好きの私としては、楽器屋には前から興味があったので快く承諾しておいた。
 ドーナツを二人して旺盛に平らげた後、電車に揺られて三条京阪へと向かった。

「いきなりですけど、菊菜先輩ってどこに住んでるんです?」
 楽器屋に向かっている道中、彩音ちゃんが素朴な疑問を投じてきた。
「私? 私はここら辺だよ。四条の方」
 私は自宅のある方向を指差す。まぁ、自宅っていうより借家みたなものだけど。
「羨ましいです。私の住んでる所って比較的田舎だから、ちょっと不便なんです」
「そうなの? まぁ、住めば都って言葉もあるからねぇ」
 そんな会話をしている内に、「ここですよ」と彩音ちゃんが足を止める。どうやら目的地に到着したみたいだ。JEAUGIA…じぇあうぎあ? 多分…というか絶対に違う。洋楽は好きだけど、英語にはてんで弱い。でもまぁ、音楽は音を楽しむものだし、と開き直っておく。
 一階はCDコーナーで、地下が弦楽器屋みたい。CDコーナーはかなり気になったけど、彩音ちゃんの後を追って私も地下へと下りる。
「おおっ」と思わず嘆声が漏れた。
 店内は視界を埋め尽くすほどに陳列された楽器達でいっぱいだった。
「菊菜先輩?」
「あっ、ごめん。ちょっと圧倒されちゃった」
「いらっしゃ~い」
 来客に気付いた店員さんが、気怠げな挨拶を寄越す。何気なくそちらに視線を移すと、一驚を余儀なくされた。店員さんの風貌が一目瞭然でロック好きだったからだ。
 胸元まで伸びた髪は全体的に金色に統一され、ほぼ原型がないぐらいの厚化粧。美人ではあるが、化粧を落としたら別人だろうな。それに加えて、エプロンの上から着用している革ジャンには、缶バッジが大量に張り付けてある。
「あれ? 彩音じゃん」
 店員さんに名を呼ばれ、「どうも、真優さん」と彩音ちゃんが軽く会釈。
 どうやら、二人は知り合いみたいだ。そういえば行きつけとか言ってたな。
 店員さんはレジから出てこちらに歩いてくる。髪が揺れることで隠れていた耳が露出したのだが、見ているだけで痛くなるぐらいの装飾が施されていた。つまり、ピアスまみれ。か、かなり気合の入った店員さんだ。
「今日はどうした? ギターのメンテナンス?」
「いえ、ちょっとエレキギターを見に」
「おお、珍しい。彩音もついにエレキの良さに気付いたか」
「ちょっとバンドを組むことになりまして。バンドって言ったら、やっぱりエレキかなって…」
「ん? 彩音ってシンガーソングライター希望じゃなかったか? って君は?」
 店員さんがそこでやっと私の存在に気付く。
「ど、どうも。えっと…私は彩音ちゃんの友達の東西菊菜と申しますです」
 店員さんのような人種と触れ合ったことがないので、言葉遣いがおかしくなってしまった。怒らせたらなんか怖そうだもん。
「私より一年先輩で、バンドメンバーです」
 彩音ちゃんが補足説明してくれた。
「ふぅん…」店員さんが私を無遠慮に眺める。「君って…」
 そこで言葉を区切り、スっと顔を寄せてくる。な、なに?
「化粧映えしそうな顔してるね」
 なにそれ! スッピンだと微妙な顔してるってこと!
「ははっ、そんな怒んないでよ。そのままでも充分だけど、化粧したら更に跳ねるって意味だから」
 どうやら憤っていたのが表情に流露してたらしく、店員さんがフォローの言葉を付け加える。
「ちなみに私は、山城真優っていうの。気軽に真優さまって呼んでくれていいよ」
「さま付けだと、気軽さから遠い気がするのですが…」
「ウソウソ。普通に呼んでくれていいよ」
 見た目に反して、真優さんは気さくな方のようだ。
「真優さん、どれかオススメのギターってありますか?」
「ああ、それなら」
 真優さんが彩音ちゃんの接客に努める。
 一人ポツンと取り残され、暇を持て余す。私も適当に店内を歩き回ってみることにした。
「へぇ…」
 こうやって並べられているギターを見ていると、形状やカラーバリエーションが豊富で眺めているだけで楽しい。更に弾けたら楽しいのだろうだけど、ギターは一筋縄じゃいかないもんなぁ…。
「ん?」目を引かれる物を見つけ、自然と足が止まる。四本の弦と低音が特徴的なベースだ。
「ふ~ん…ベースにもこんなに種類が…あっ」
 様々なベースが並ぶ中で、強い既視感を覚える物を発見。てゆーか、これってビートルズのポールが愛用していたのと同型のヤツだ。いつも画面上でしか拝見したことなかったけど、こうやって目の前にしてみると光沢があって綺麗でカッコいい。なんて言ったっけ?
 確か…「リッケンバウアー」
「リッケンバッカーね」
「っ…!」
 唐突に背後から話し掛けられ、ビクッと驚いてしまう。
「そんな腰を反らすような名前じゃないから」
「ま、真優さん。あ、彩音ちゃんは…?」
「気になったのがあったから、試し弾きしてる。君はそれが気になった感じ?」
「えっと、はい…」
「試し弾きしてみるかい?」
「あっ、いえ。私、弾けないんで…」
「じゃあ、これを機会に練習してみるといい。バンドする気なんだったら、楽器は何かしら出来た方がいいよ。作曲の幅も広がるから」
「これってギターより簡単だったりします?」
「そう世間では思われがちだけど、意外とそんなこともない。弦の数は少ないけど、奏法とか色々あるから」
「そうですか…」
 そんなことを言われたら、せっかくの気概が削がれるではないか。私には舞妓の仕事があって、未熟だから覚えることはまだ沢山あるというのに…。
 次の瞬間、真優さんが私の耳元にそっと顔を近付けた。ドクンッと心臓が脈打つ。
「でも、弾けたらカッコいいよ」そう一言囁く。
「そ、そうですかね…」
 脳内で自身がベースを華麗に演奏している様を思い描く。自然と頬がにやけた。
「一回、担いでみる?」
「いいんですかっ?」自分でも明瞭に声調が弾んだ。
「じゃんじゃん担いでみてよ。ちょっとストラップ持ってくるから待ってて」
 真優さんがその場を離れ、一人取り残される。
 その間に、もう一度ベースをジッと眺める。…やっぱりカッコいい。
「…げっ」
 見た目ばかりに気を取られ値札を見ていなかったが、結構お高いじゃないか! 苦学生の私には到底手が出せない値段である。こ、こんなに高かったのか…。
 しばらくして、真優さんが戻ってくる。
「えっと、やっぱり私……」
 購入を断念しようと声を掛けようとしたが、真優さんは手早くストラップを着用してこちらに手渡してきた。
「ほい」
「あ、ありがとうございます…っておも」
「意外と重いでしょ? ギタリストやベーシストはこれを背負いながら、ライブを頑張ってるんだから」
 ベーシストも一筋縄じゃいかないってことだな…。とりあえず私は、ベースを担いでみることにした。ずっしりとした重量が、左肩に負荷を掛ける。よく、ギタリストやベーシストは肩が凝るって聞くけど、こうやって体験してみて納得いった。こりゃ肩凝るよ。
 そのまま店内にあった姿見に自分を投影。おおっ、なんか立派なベーシストになった気分だ。
「おっ、よくお似合いですよ、お客さん。いやぁ、このリッケンバッカーの似合うJKなんてそうそういませんよ」
 服屋の店員を彷彿とさせる巧みな言葉に、購入意欲を掻き立てられる。ほ、欲しい。
 それと同時に、お金が足りないという現実的な問題が、私の前に威風堂々と立ちはだかる。
「あれ? 菊菜先輩、ベースを買う気です?」
 試し弾きが終わったのか、いつの間にか彩音ちゃんが側まで来ていた。
「これ、どうかな?」
 第三者の客観的な意見も伺ってみる。すると、彩音ちゃんは私を様々な角度から眺め、
「バッチグーですよ」と親指を立てる。
「やっぱりぃ? 私もこの着こなし…じゃなくて構えた様はイケてると思うんだよね」
 彩音ちゃんのちょっと古いリアクションは置いといて、褒めてもらったのは素直に嬉しかった。
「お買い上げでよろしかったでしょうか?」
 真優さんがニコニコ笑顔で購入するか否かを尋ねてきた。
「で、でも…こんなにお金持ってないです」
「そうか…普通に考えてJKには厳しい値段だよね。よっしゃ、二割引で売ってやる」
 大人の懐のデカさを見せつける真優さん。
「そ、それでもちょっと…八割引きっていうのは難しいですか?」
 値引き交渉に打って出ると、真優さんの表情が一変、険しくなる。
「お客さん、冷やかしならもう帰ってくれよ」
 こ、怖い!
「真優さん、そんな威圧的な態度は、お客さんに失礼ですよ」
 そう私を庇ってくれたのは、彩音ちゃんだった。
「だって八割引きだぜ? そんなんじゃ、商売あがったりだよ」
「すんませんです」
「菊菜先輩はそれが欲しいんですよね?」
「うん。これがいい…ううん、これじゃなきゃヤダ」
「ほら、こんなに気に入ってくれてるんですよ。ここは真優さんの腕の見せどころじゃないです?」
「くっ…わーったよ」
 彩音ちゃんの説得の甲斐あってか、真優さんは観念したようにガシガシ乱暴に頭を掻く。
「じゃあ、八割引きでいいよ。その代わりちゃんと練習しないと許さないかんね」
「あ、ありがとうございます!」
 それぐらいの値段であれば、貯金していたお年玉やお小遣いを合算すればなんとかなる。
「よかったですね、菊菜先輩」
「あ~あ、これから何ヶ月かカップ麺生活だぁ」
 山城さんがこれから待つ質素な食生活を嘆く。
「じゃあ菊菜先輩、ついでにアンプとかも買っちゃいましょうか」
「え…?」そうだよ。ベースだけじゃダメじゃん。
「その他もろもろ込みで、この値段ね」
 真優さんが熟練された手付きで電卓を叩き、液晶を私に見せる。た、高い。
「それも八割引きになりませんかね…?」
 私の更なる値引き交渉を聞いた真優さんは、細い眉を吊り上げ一言。
「テメェ、ぶっ飛ばすぞ」
 結局、買えたのは本体と最低限に必要な物だけ。ストラップとかピック。アンプみたいな電子機器は彩音ちゃんが一時的に貸してくれることになった。のはいいけど、またお金を貯めて買わなくちゃな。
「なんか嬉しそうですね、菊菜先輩」
 お店からの帰路、彩音ちゃんからそんな指摘をされる。
「え? そ、そんなことないよ。普通だよ、普通」
 などと反射的に見栄を張ってしまったけど、実際は嬉しくてたまらなかった。
 これから始まるであろう本格的なバンド活動を想像すると、自然と口元が緩んだ。

 翌日、私はベースを背負いながら、コソコソ置屋を出る。他のお姉さん方ならまだしもお母さんに知られる訳にはいかず、細心の注意を払った。昨日はあまり練習が出来なかったので、学校で練習しようと考えたのだ。
 教室に到着してまず目に飛び込んできたのは、無愛想に頬杖をつきながら勉強に励む冬華の姿。
「冬華、おはよ」
「……」
 いつも通り挨拶をしたのだが、見事に無視される。
 あっ、私達、そういえばケンカしてたんだった。ベースを買った喜びの方が勝って、ケンカしていたことなんてすっかり忘れていた。そっちがそんな態度をとるんだったら、こっちだって冬華なんて知らない。
 ベースを机の側面に立て掛け教科書類を整理していると、日菜ちゃんが話し掛けてきた。
「あっ、きぃちゃん、なんなんそれ?」
「これ? 実はねぇ、昨日、一目惚れして買ったんだよね。見たい?」
 問うと、「見たい見たい!」日菜ちゃんは興味を爆発させる。
 リクエストにお応えして、私はベースをケースから取り出してお披露目。
「おおっ、なんかきぃちゃんがバンドマンに見えてきた。…いや、この場合はバンドウーマンやな」
「そうでしょそうでしょ。もっと褒めて」
「ふぅちゃんもそう思わへん?」
「…別に」
 日菜ちゃんに感想を求められた冬華は、冷たくそう言い捨てた。
「な、なんか険悪な雰囲気…もしかしてケンカしてるん?」
「そんな奴となんて喧嘩する価値もない」
 冬華の口調は、依然と冷たい。
「そんな言い方しなくていいじゃん」
「話し掛けないでくれるか。バカが感染する」
「くっ、このぉ…ふんっ」
 思わず怒鳴りそうになったのを抑えて、そっぽを向く。言い返してやりたかったけど、私のワガママが原因なのは理解していたので口を噤んでおいた。
 その後、冬華と一言も交わすことなく昼休みを迎えた。どちらも意固地になってしまい、和解しようにも話し掛けられないでいる。膠着状態だ。
「きぃちゃんとふぅちゃん、まだケンカしとんの? そろそろ仲直りせなあかんよ?」
 私の対面でお弁当を食べていた日菜ちゃんが、呆れ顔で和解することを推奨する。
「わかってるよ。でも…」
 隣席にいる冬華を一瞥してみると、お箸を動かしながら器用に小説のページを片手で捲っているではないか。はっきり言って行儀が悪い。
「本を読むか、お弁当食べるかどっちかにしなさいよ」
 礼儀作法に厳しい舞妓という仕事に勤めている私としては、看過できない行動だった。
「………」
 しかし、冬華は全く意に介さず、読書を続ける。
「そうやでふぅちゃん。お行儀悪いよ」
「…ごめん」
 日菜ちゃんの言葉は素直に聞き入れ、冬華は本を仕舞う。露骨な無視である。
「あっ、そうや。きぃちゃん、これ見て」
 日菜ちゃんはケータイを操作して、画面をこちらに向ける。そこにはピースマークをする日菜ちゃんの背後に、小ぶりの太鼓とシンバルが写っていた。
「なにこれ?」
「いややなぁ。これはドラムやんか。バンド活動しよう思て、こうたんよ」
「…いや、ドラムってもっといっぱいあるような…」
「う~ん、実はな、楽器屋さん行ってドラム買おうと思たんやけど、意外と高かってん。だから、これしか買えへんかった。これを夜にドコドコやっとったら、ママに怒られたわ」
 あはは、と快活に笑う日菜ちゃん。
「ああそう…」
 私も置屋では存分に練習ができない。お母さんに知られでもしたら、ほぼ確実に舞妓を辞めさせられるし。そんなリスキーな状況化では、練習が困難。
「よしっ、日菜ちゃん」
「ん?」
「練習できる場所を探しに行こう」
 私は立ち上がると、日菜ちゃんの手を取って歩き出す。
「ちょ、ちょっと、どこ行くん?」
「職員室」
 困惑する日菜ちゃんを引き連れ、職員室へと向かう。
「きぃちゃん、いきなりでビックリするやん」
 職員室の前で手を離すと、日菜ちゃんが膨れっ面になる。
「ごめん。でも、善は急げって言うでしょ?」
「そやけど…」
 私は職員室の扉をちゃんとノックしてから、中に入る。そして、以前と同じ場所にいる見知った後ろ姿に接近し、声を掛ける。
「亜季ちゃん!」
「ぶふぅ」
 亜季ちゃんはまたしても食べていたカップ麺を吹き出す。きちゃない。
「前にも言ったよね! 職員室では亜季ちゃんって呼ばないでって!」
 こちらを憤然と睨み付け、亜季ちゃんは怒鳴る。
「申し訳ござらん」
「てゆーか、大声で呼ばないでくれる? マジでビックリするから」
 文句を垂れながら、不機嫌そうにティッシュで机を掃除する。
「藤崎先生は生徒との距離感が近くていいですね」
 隣席に座りお茶を啜っていた森川先生が、亜季ちゃんを羨む。
「近過ぎるっていうのも大変なんですよ。それに問題児ばっかりで苦労が絶えません」
「きぃちゃんが問題児なのは納得やけど、ウチは優等生やで」
 亜季ちゃんの発言に、日菜ちゃんが異議を唱える。
「そうそう、私はクラス一の問題児だからね…って私も優等生だから!」
「なに? アンタたち、漫才コンビでも組もうっていうの? お笑いの世界は厳しいよ。人を笑わせるっていうのうはそんなに簡単なことじゃないんだから」
「「なんでやねん!」」
 私達のツッコミは、見事にシンクロした。
「実は私達、バンドを組むことになったの。だから、練習できる部室が欲しくて参ったのだ」
「バンドって…アンタ、舞妓の仕事はどうしたのよ?」
「舞妓は続けるよ。だけど、バンドもやりたくなったの」
「バンドをすることは否定しないけど、そんな中途半端な気持ちで舞妓って務まる訳?」
「中途半端な気持ちで舞妓はしてない」
 私は真っ直ぐに亜季ちゃんを見据え、本心を述べる。
「…そっか。でも、二人だと部として認められないよ。残念だけど」
「大丈夫。私達は三人だから」
「三人だと同好会だね。部として活動するなら、最低でも四人必要だから。同好会は部費を受け取れないよ」
「そこら辺は大丈夫。練習できる場所を貸してくれるんなら、モーマンタイ!」
 ゆくゆくは、冬華もメンバーに入れて四人で活動するつもりだし。
「そう。じゃあ、これに必要事項を記入して提出して」
 亜季ちゃんは机からプリントを一枚取り出し、こちらに手渡してくれた。それを黙読してみると、創部するのに必要な規定や記入欄が散見できた。顧問という欄もあった。
「えっと…顧問は…?」
「私が引き受けてあげるわ。どうせやることなさそうだし、他の先生方に迷惑掛けられないしね」
「亜季ちゃんありがとう!」
「ぐぇ」
 きつく抱き締めてみると、亜季ちゃんが唸り声を上げる。
「じゃあ、ウチも!」
 日菜ちゃんも便乗して亜季ちゃんに抱きつく。
「ああもう! わかったから離れて!」
 身をよじって嫌がる素振りを見せる亜季ちゃんだったが、どこか嬉しそうに私の目には映った。
 
 その日の放課後、無事に同好会として認可されたので、私達は貸し与えられた部室へと向かっていた。場所は部活をしていない人だったら普段通ることもない、旧校舎の二階片隅。貸してもらう身であまり文句を言うのもなんだけど、我が教室から遠い。因みに軽音部だと安直すぎるので、バンド同好会ということにした。
「ここ…ですよね?」
 亜季ちゃんに指定された教室を前にして、彩音ちゃんが不安そうに私を見る。
「そう…みたい」
 扉に備え付けられている小窓から室内を覗いてみると、物で溢れて散らかりまくっていた。
 亜季ちゃんの情報によればここ数年、部室として機能していなかったらしく物置として利用されていたみたい。なので、整理しないと練習できるようなスペースがほぼ皆無。
「掃除せなアカンね。それになんか出そうやな」
 日菜ちゃんが意味深な言葉をポツリと漏らす。
「や、やめてくださいよ、日菜先輩」
 そんな日菜ちゃんの言葉に怯え、彩音ちゃんが私の背中にしがみつく。
 確かに色々と出そうな感じ。例えば蜘蛛とか幽霊とか…。だが、最も畏怖すべきは、全人類から忌み嫌われ排斥されようとも尚、驚異的な繁殖力をもって増殖し続ける黒の軍団。まぁ、平たく言えばGだ。想像しただけで総毛立つ。
「…と、とりあえず中に入ろっか。そうしないと掃除も出来ないし」
 私が率先して、部室の扉を開く。
「うぇっ、埃クサい…」換気もされていなかったのか、心底不快な空気が肺に忍び込んでくる。我慢できなくなった私は、床に散乱する物を掻い潜って窓まで突き進む。そして、一気に開放。
「ん~いい風」春の洗練された涼風が、室内を通り抜けていく。
「よしっ! じゃあ掃除しよっか」
 それから私達は、それぞれ場所を分担しての掃除を開始。
「二人共、ちょっとこっち来て!」
 文化祭か何かに使われていたであろう用途不明の半円形のハリボテをどう処理すべきか悩んでいると、日菜ちゃんの切羽詰まった声が届く。怪我したんじゃ、と私は慌てて日菜ちゃんが作業していた場所へ急ぐ。
「どうかしたのっ!」
「どうかしましたかっ!」
 私より数秒遅れて彩音ちゃんが駆けつける。
「これ見て!」
 笑みを浮かべる日菜ちゃんの隣にあった物は、黒い布を被った謎の物体。結構、デカい。
「なにそれ?」
 とにかく、怪我とかしてなくてよかった。
「なんやと思う?」
「なんだろ…?」
「さぁ? なんでしょうか…」
 私と彩音ちゃんは小首を傾げる。
「じゃーん!」日菜ちゃんが勢い良く黒い布を取り除く。
「それって…ドラムじゃん!」 
 布で覆われていた物は、まさかのドラムセットだった。多少の使用感はあるものの、比較的綺麗な状態だ。
「多分やけど、卒業生のものやないかな…」
「ちょうどいいじゃん! これでドラムを買わなくて済むよ!」
「でも、勝手に使ってええんかなぁ?」
「いいんじゃない? 亜季ちゃんが中にあるものは好きにしていいって言ってたし」
「じゃあ、使わせてもらおっかな。ウチ、金欠やったからマジで助かるわ」
 言いながら、日菜ちゃんはドラムベンチに座る。
「どう? 似合っとる?」
「スゴくお似合いです、日菜先輩」
「うんうん、最早、ドラマーにしか見えない」
「そ、そう? なんや照れるわ」
 私達に褒められ、日菜ちゃんは恥ずかしそうに頬をポリポリ。
 その時、ポケットに入れていたスマホが振動。あらかじめアラームをセットしていたのだ。
「そろそろ帰らないと」
「え? もうです? まだ全然片付いてないですけど…」
「もう帰らないと仕事に遅刻しちゃうんだよね」
「仕事…です?」
「きぃちゃんは舞妓さんの仕事しとるんや」
「えっ!」
 日菜ちゃんが私の職種を明かすと、彩音ちゃんはわかりやすく目を見開く。
「あれ? 彩音ちゃんに言ってなかったっけ?」
「は、初耳です! …てゆーか、舞妓さんってあの舞妓さんです?」
「うん、彩音ちゃんが想像してるもので間違いないよ」
「…このガサツな菊菜先輩が、舞妓なんていう由緒正しい仕事が務まるとは到底思えません」
 そんなに長い付き合いじゃないのに随分とハッキリと言うな、この娘。まぁ、ガサツって部分は否定しないけど…。
「これ、化粧してる時のきぃちゃん」
 日菜ちゃんがスマホの液晶を見せると、「むむむ」と彩音ちゃんは画面に顔をこれでもかってくらい接近させる。
「またまたご冗談を。菊菜先輩はそんなに美人じゃないです」
「……」
 辛辣を通り越して、ただの悪口じゃないかい?
「ホンマやって。きぃちゃん、証拠見せたってや」
「しょ、証拠って…」
 日菜ちゃんにそう言われ、私は対処に困る。舞妓である証拠ってどう証明すればいいのか、さっぱりわからない。踊ればいいのかな? それとも、歌えばいいの?
「…じゃ、じゃあ、職場に来る?」
 もう私にはそれしか思いつかなかった。
「行きた~い!」
「なんで日菜ちゃんが乗り気なのよ」
「だって、きぃちゃんが働いとる所って見たことないんやもん。彩音ちゃんも見てみたいやろ?」
「見たい…かもです」
 こうして二人は、私の働く職場に来ることになった。

「ちょっとここで待ってて」
 私の住む置屋の前にて、私は二人に待機を命ずる。ここまで連れてきたはいいけど、無関係の人間を中に入れていいのかわからなかった。とりあえず私は置屋に入り、自室に向かう。
 経年劣化によってギシギシ軋む廊下を進み行く。どんなに長けた忍者であろうと、ここの廊下を足音一つさせず歩くのはまず不可能。
「あら、菊菜ちゃん、帰ってたん?」
 先輩のお姉さんである晴香さんとばったり遭遇。晴香さんは二十代半ばの芸妓さんで、比較的、温厚な性格をしている優しいお方だ。
 歳も少し離れているので、本当の妹のように扱ってくれている。お母さんの血筋を継承する厳しいお姉ちゃんより断然、接しやすいし話しやすい。
「ちょっと、真希さんにご相談があるのですが…」
「相談? 別にええけど。もしかして彼氏のことだったり?」
 真希さんがニヤニヤしながら、相談の内容を推測する。
「ち、違いますよ! 実はカクカクシカジカで…」
「へぇ、カクカクシカジカか…ってそれでわかる訳ないやん。おちょくってんの?」
「すんません。ちょっとふざけました」
 私はこれまでの経緯を晴香さんに話した。私が本物の舞妓であるのを証明する為に友達を連れてきたことと、置屋に友達を招き入れてもいいのかと言うこと。
「これはチャンスかもやで、菊菜ちゃん」
「え?」意味がわからず、私は聞き返す。
「新しい舞妓を勧誘するチャンスやん。上手くいけば二人も舞妓が増えるかもしれんで。そしたら、この廃れた置屋も持ち直すかも」
「そ、そうですかね…?」
「よしっ、私に任せておき。女将さんには私が言っといてあげるから、存分に二人をもてなしてあげぇな」
「あっ、はい。頑張ってみます!」
 お姉さんからの許諾も得たので、私はバッチリ盛装して二人を出来る限りもてなした。三味線を弾いてみたり、舞踊を披露してみたり、ゲームに興じてみたり、と。
 いつもなら見知らぬおじさんを相手にすることが主だったけど、友達を相手に接客するのは不思議な気分だった。私自身も楽しかったけど、気恥ずかしくもあった。
 だけど、彩音ちゃんの疑念は綺麗に払拭できたみたいで、結果オーライ。

 冬華と初めて出会ったのは、小学一年の頃だ。
 入学当初、彼女は物静かでクラスに溶け込めず、終始、椅子にただ座っているような娘だった。単に恥ずかしがり屋だったのか、寡黙な性格なのかはわからなかったけど、なんとなく気になる存在ではあった。他者を寄せ付けないような不思議な雰囲気を纏い、容姿が突出して可愛かったから。
 話し掛ける好機を窺って数週間経った頃、体育の時間でのことだ。容赦のない直射日光が射すグラウンドでボール遊びをしていた時、幼い私は彼女の違和感に気付いた。顔面蒼白でふらついているように見えたんだ。明らかに体調不良みたいだったけど、彼女は誰にも打ち明けられずに一人耐えていた。見かねた私は、先生に彼女が体調不良なのを伝えて、保健室まで連れて行ってあげた。
『大丈夫…?』
 保健室に向かう道すがら、私は意を決して話し掛けてみた。すると彼女は、こくんと小さく頷いてくれたのだ。それが妙に嬉しくて、私は更に踏み込んでみることにした。
『冬華ちゃんって呼んでいい?』
 また彼女はこくんと頷いてくれた。もう少し話しをしてみたかったけど、早くも保健室に到着してしまう。
『それじゃあ、わたしは戻るね』
 名残惜しかったけど役目を果たした私は、仕方なくグラウンドに戻ろうと歩き出そうとした。その直後――
『…あ』
 彼女が声を発したのだ。消え入りそうで灯火のような儚い声だった。
『えっ?』思わず私は彼女に向き直った。『ど、どうかした…?』
 問い掛けると、彼女は俯き目を泳がせる。やがて、こう呟いた――
『あ、ありがと…』
『う、うん。…どういたしまして』
 私は彼女の声が聞けただけで満足だった。だけど、更なる侵攻を試みのだ。
『…よ、よかったらでいいんだけど、わたしと友達になってくれる?』
 私のその思い切った言葉に、彼女はニコッと微笑んでくれたんだ。
 こうして私達は友達となれた。のはいいけど、話すきっかけがないまま数日が過ぎてしまっていた。
 そんな時、とある噂話が囁かれ出しているのを私は知った。それは、実は冬華が喋れないんじゃないかっていう内容。私は喋れることを知っていたのであまり気にしていなかったが、その根も葉もない虚聞は瞬く間にクラス中に広まってしまった。
『おい、お前って喋れないらしいな』
 ある日、登校するとクラス一のやんちゃ男子が、冬華に詰め寄っていた。
『……』
 彼女は言い返すこともせず、ただあたふたするだけ。
『喋れないとか気持ち悪いな!』
 彼女が反論しないのをいいことに、やんちゃ男子は更に非情な言葉を浴びせかける。
 先生がまだ来ていなかったのと、仕返しが怖いという恐怖心で誰も介入できなかったのだ。
 そんな中、私の腹は煮えくり返っていた。
 ――冬華ちゃんは喋れる! 話せるんだ!
 そうぶちまけてやりたい激情を抱えていたけど、中々言い出せずに躊躇してしまった。私も、やんちゃ男子による報復が怖かった。何故なら、男女問わず暴力を振ることで悪名高かったから。
『お前、喋れないとか死んでんのと一緒じゃん』
 やんちゃ男子の酷薄な一言。瞬間、私の中で何かが弾けた。
『冬華ちゃんはちゃんと喋れるよっ!』
 意志とは無関係に、そんな言葉が勝手に放出されたのだ。教室内の空気がピンッと張り詰めたのを、幼いながらに実感した。
『ウソつくな。コイツは喋れないんだよ』
 やんちゃ男子が私を威圧感の孕んだ眼光で睨む。
『う、ウソじゃないよ! わたし、話したことあるもん! 冬華ちゃんと話したもん!』
 その威圧感に圧されぬよう、私は声を張り上げて言い返した。
『お前、生意気だな』
 やんちゃ男子の矛先が私に向いたのを悟った。恐怖心が一気に膨張する。
 やんちゃ男子はこちらに近付いてくると、私の胸ぐらを掴み上げる。そして、スっと拳を振り上げる。
 私は目をギュッと瞑って、襲い来る脅威に身を強ばらせた。刹那――
『やめて!』
 そんな言葉が耳に届き、私は恐々と目を開いていく。
『も、もうやめて…。き、菊菜ちゃんはわたしの友達だから…』
 そう私を庇護してくれたのは、まさかの彼女だった。今にも泣き出しそうな涙目で、ブルブル震えていたのを今でもしっかり覚えてる。私を守る為に、脆弱な勇気を振り絞ってくれたんだ。
 その後、すぐに先生が教室にやって来てくれたので、最悪の事態は免れたのだった――

 その一件以来、冬華は徐々にクラスメート達と打ち解け友達も増えていったんだ。思い返せば、あのやんちゃ男子がいなければ冬華がクラスに溶け込むこはなく、現在の冬華はいなかったかもしれない。今、懐古しても腹立たしさは変わらないけど、そこだけは少しだけ感謝すべきかもしれない。
 それから、冬華とは十年来の友達だけど、ケンカしてもここまで長引いたことは初めてだった。私も意地を張ってしまって話し掛けるのを極力避けていたけど、いつまでもこの状態でいる訳にもいかない。
 翌日の朝、登校すると早々に冬華とのコンタクトを図る。
「冬華、おはよっ!」
「………」
 朝から自主勉に励む冬華にテンション高く挨拶してみるも、見事にスルーされる。
「実は昨日ね、日菜ちゃんと彩音ちゃんが私の職場に来て、舞妓の仕事がどんなものか披露してあげたんだよね」
「………」
「それで、日菜ちゃんと投扇興で勝負したんだけど、意外と白熱しちゃってね。でもまぁ、最終的には私が勝ったんだけど」
「………」
「いやぁ、昨日はスッゴク楽しかったよ。やっぱり友達が来てくれると、テンションが上がるよね」
「………」
 めげず饒舌に喋り続けてみるが、相槌一つすら打ってくれる様子もなく無視され続ける。無情にも時は過ぎ、昼休み。
「もうっ、まだアンタ等ケンカしてんの? そろそろ仲直りしんとアカンやんか」
 依然とギスギスする私達を見て、日菜ちゃんが和解を推奨する。
「だって…私が話し掛けても無視するんだもん」
「ふぅちゃんもなんで無視なんかすんの?」
「…ソイツと話したくないから」
 日菜ちゃんの問い掛けには反応する冬華。
「ウチも嫌やわ。二人の仲悪いとこなんか、見たないやんか。お弁当も美味しく感じられへんやん」
 それにしては中身の消費が早いよ、日菜ちゃん。
「じゃあほっとけばいいだろ。そもそも日菜には関係ない」
 冬華が日菜ちゃんを部外者扱いする。その言葉に私は、無性に腹が立った。
「そんな言い方しなくていいじゃん。日菜ちゃんだって私達のことを思って、言ってくれてるんだよ」
「………」
「日菜ちゃんに謝りなさいよ」
「別にええよ、きぃちゃん。全然、気にしてへんから」
 そんな切ない顔されても、説得力に欠ける。
「ダメだよ、そんなの。早く謝りなさいよ、冬華」
「………」
 謝罪を促すも、やはり反応を示さない。私に対して冷淡なのはまだいいが、日菜ちゃんに対して冷たいのはお門違いだ。
「謝れって言ってんのよ!」
 フラストレーションが臨界点を突破してしまった私は、我慢できずに怒鳴ってしまう。直後、殷賑を極めていた教室内が、一瞬にして静まり返る。
 不意に冬華は席を立つと、黙ったまま私を睨み付ける。やがて、「チッ」と不躾にも舌打ちを零す。
「日菜、ゴメン」
「えっ…? べ、別にええよ。気にしてへんから」
 それだけを伝えると、冬華は教室を出て行ってしまう。
 だけど、昼休みが終わり五時間目が始まる頃には、ちゃんと冬華は教室に帰ってきた。授業をサボるという選択肢がない、生真面目な性格なんだ。

 冬華との更に深刻化した確執をどう解消すべきか懊悩していると、いつの間にか放課後になっていた。
「冬華、一緒に帰ろ」
 帰り支度を終えた私は、とりあえず帰路の同伴に冬華を誘う。
「………」
 最早、当然のように私の言葉を無視すると、冬華は鞄を担いでさっさと教室を後にする。
「あっ、きぃちゃん、もう帰ってしまうん?」
 追い掛けようと足を踏み出した瞬間、日菜ちゃんに呼び止められる。
「ゴメン、日菜ちゃん。今日は冬華と一緒に帰るね」
「ガンバやで、きぃちゃん。仲直り出来るよう応援しとるよ」
「うん、ありがとう!」
 日菜ちゃんからの鼓舞の言葉に勇気づけられ、私は意気揚々と教室を出た。
 学校から駅までの道中、めげずにずっと話し掛けてみるが、全て見事に無視された。電車の中でも話し掛けてみるが、どうやっても取り合ってくれない。
 山科駅まで到着したので、私も電車を降りる。冬華の自宅に到着するまでの間、更なる意思疎通を図ってみるが、例外なく無視を貫かれる。我慢強さは自負していた私でも、そろそろメンタルが崩壊寸前だった。
「どうしてよ! どうしてそんなに無視すんの! 私のことがそこまで嫌いって言うの!」
 無視され続けることにもう耐えられなかった私は、道のど真ん中にも関わらず叫んでしまう。
 そんな私の悲痛な願いがやっと通じたのか、冬華はピタッと足を止めてくれた。
「……お前は…お前は私のことをどう思っているんだ?」
 冬華が久々に私に向けて放った言葉は、そんな些細な問い掛けだった。
「そんなの大好きに決まってんじゃん! 私は冬華が好き…だって一番の友達だもん!」
「…私は、私が嫌いだ。素直になれない、意固地で頑固で口下手の私が…」
 そう言った冬華の口調は、切なさを帯びていた。
「私も……菊菜が好きだ。恥ずかしがりで内向的だった私を、クラスに打ち解けさせようと奔走してくれたのは知ってる。今の孤独じゃない私がいるのは、紛れもなくお前のお陰だ。お前がいなければ、私は今でも教室の片隅で孤立していたに違いない」
「そんなことないよ。私はキッカケを作っただけ。頑張ったのは冬華だよ」
「…正直、バンドに誘われた時、なに言ってんだ、コイツ、とも思ったが、少し嬉しかった。お前はまず何をするにしても、私を決して仲間外れにしようとしなかったから。これだけ無愛想な私を好いてくれてるのは、素直に嬉しいんだ。だが、私はお前の助けになってやれない」
「そんなのヤダ。私は冬華と一緒にバンドをしたいの。冬華じゃないとダメなの」
「…あの時の記憶が、脳裏に焼き付いて離れないんだよ。人前で演奏するのを想像するだけで、凄まじい緊張感で手足が震える。どれだけ忘れ去ろうとしても、何度も夢に見て忘れることを許してくれないんだよ」
 いつも毅然としていて凛々しい冬華が、弱音を漏らすなんて本当に珍しかった。だけど、私はそれが嬉しくもあった。悩み事やストレスがあっても決して人の力を借りようとせずに、自力でどうにか解決しようと孤軍奮闘するタイプだから。でも、それと同時に憤りも感じていた。
「だったらもっと私を頼ってよ。私、冬華の為だったら、何でもしてあげる自信あるから。一緒に乗り越えようよ」
 私は冬華の背中にそっと近付き、静かに抱きついた。一見、欠点がないように見える冬華だって、年相応のか弱い一人の女の子なんだ。
「ねっ? 諦めないで一緒に立ち向かえば、きっと乗り越えられる」
「…菊菜、今までゴメン。ずっと側にいて支えてくれたのは菊菜だったのに、恩を仇で返すような真似をしてしまって、本当にすまないと思っている。…どこまで出来るかわからないけど、頑張ってみようと思う」
「そ、それって…」私は冬華から離れる。
「バンド、入ってみるよ」
「あ、ありがとう冬華!」
「青春やなぁ」
「えっ?」
 聞き馴染みのある関西弁に振り返ってみると、見知った顔がそこにあった。
「ひ、日菜ちゃん! 何故にそげな所に!」
「二人の行く末が気になって、こっそり付いてきてん」
「ぜ、全然気付かなかった…」
「やろ? ウチにはスパイの素質があるみたいやわ。それよりやっと仲直り出来たんやね、二人共。ウチも嬉しい!」
 まるで自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれる日菜ちゃん。
「なんで日菜が喜んでるんだよ」
 呆れたような顔をする冬華だが、どことなく嬉しそうだ。
「だって二人は、私にとって大事な友達やもん」
 私は夕陽を指差し、
「よしっ! 皆であの夕陽に向かって走ろう!」
 とりあえず気持ちが昂ぶりウズウズしてたまらなかったんだ。
「はぁ?」
「おおっ!」
 突拍子のない言葉に眉を顰める冬華に対し、日菜ちゃんはノリノリ。
「一番遅かった人は、アイス奢りで。よーい、どんっ!」

「えっと…どうも、小野冬華といいます。以後お見知りおきを」
 翌日の放課後、部室にて冬華が皆に自己紹介をする。表情が硬く、緊張しているのが手に取るようにわかった。
「ふ、冬華先輩…やっとメンバーに加入してくれるんですね」
 何故か彩音ちゃんは目をウルウルさせている。よっぽど嬉しいのだろうか…まぁ、私もだけど。
「これも全て私のお陰なんだから」
「なんで菊菜先輩が得意気なんですか」
「ねっ? 日菜ちゃん」
「………」
 私が呼び掛けてみるも、日菜ちゃんは一点を見つめ思い詰めた表情をしていた。
「日菜ちゃん?」
「…え? あっ、ごめん。よく聞いてへんかったわ」
 あはは、とわざとらしく笑う日菜ちゃん。そこには、いつもの精彩を欠いた笑みしかなかった。
 日菜ちゃんの様子がおかしい。朝からその兆候はあったものの、放課後になるにつれ日菜ちゃんの元気は顕著に摩耗していった。
「日菜、朝から元気ないよな。何か悩み事でもあるのか?」
 冬華がそう問うと、日菜ちゃんが気持ちを打ち明ける。
「…言うか迷っとったけど、やっぱり皆に伝えとくわ。せっかくふぅちゃんが入ってくれたのに悪いけど、ウチ、バンド抜ける」
 へぇ…日菜ちゃんがバンドを抜けるか。
「…ってなんで!」
 全く予想だにしない発言だったので、理解するまでに数秒要した。
「ど、どうしてですか日菜先輩!」
「おじいちゃんがな、もう寿命みたいなんやわ」
「…?」噛み合っていない言葉に、疑問符が浮かぶ。どういうことだろ?
「おじいちゃんは数年前から病気で入院してて退院できたんやけど、また調子が悪そうやねん。それで最近、ふと思ったんや。必死におじいちゃんが闘病してるいうのに、ウチだけ毎日気楽に過ごしててええんかなって…。だから、地元に戻っておじいちゃんの面倒を見てやろうと思ってん」
「そ、そんなの他の家族の人に任せればいいじゃん」
 私の言葉を受け、日菜ちゃんは首を横に振る。
「おじいちゃんには昔からお世話になってたし、これからはその恩を返そう思っとるんや。ゴメンな、皆」
「そんなのヤダ!」私は叫ぶ。「やっと冬華も参加を決意してくれてバンドも軌道に乗ってきたったていうのに、日菜ちゃんが抜けるなんてヤダ! 絶対、認めない!」
「おい菊菜、ワガママを言うな。日菜だって悩みに悩んだ末の苦渋の選択なんだよ」
「冬華は黙ってて。私は日菜ちゃんと話してるの。ドラムも頑張って練習してたじゃん」
 拙いながらも懸命に練習していたのを、私は側で見てたんだ。
「ダメですよ、菊菜先輩。無理に引き止めても、日菜先輩が後悔することになるかもです」
「ごめんな、きぃちゃん。また落ち着いたら連絡するから」
 何故か私だけが悪者扱いされているような気がした。わかってる、自分がワガママを言っているだけだって。日菜ちゃんの気持ちを尊重してあげたいとも思ってる。だけど、それでも私は納得できなかった。
「…もういい」
 行き場を失いぐちゃぐちゃになった感情は、逃走するという行動に変わった。
「きぃちゃん待って!」
 日菜ちゃんの呼び止める声が届いたが、構わず廊下を一心不乱に駆け抜ける。一人になって、とりあえず気持ちを落ち着けたかった。
 階段を二段飛ばしで一気に駆け下りる。そのまま中庭を横断して新校舎に入ると、最上階まで一気に駆け上がる。そして、屋上に通ずる扉を開けようとした。だが――
「なんでよぉ!」
 扉は固く閉ざされ、頑丈に施錠されていた。こういった場合、開いてるのがセオリーでしょうが!
「ふぬぅ!」
 無理矢理こじ開けようと渾身の力を込めてみるが、人力でどうにか出来る範疇を超えていたので諦める。
「このぉ!」やってはダメだと理解していながらも、ムカついて扉に蹴打をかます。
「ん~っ!」言わずもがな痛い。バカだ。鉄扉への反抗を断念し、扉に背を向けて座り込む。
 どうしてこうも上手くいかないんだろう…。舞妓だけに専念しろ、という神様からの戒めなのかも。
「………」
 あれから何分経ったのだろう。そろそろ帰らないと仕事に遅刻してしまうけど、そんな活力は今の私に残っていない。心にポッカリと空いてしまったような喪失感が、やる気を全て奪い去っていくんだ。
「きぃちゃん、みっけ」
 反射的に顔を上げてみると、いつもと変わらない柔らかな笑顔がそこにあった。
「そんなに足上げとったら、パンツ丸見えやで」
「…いい。どうせ日菜ちゃんしか見てないし」
「ふふっ、さよか。…隣、座ってええ?」
「…どうぞ」
 日菜ちゃんは私の隣に座る。
「きぃちゃん見つけるの、苦労したわ」
「…ゴメンね」
「こっちこそゴメンな。引越しのことは前々から思とったんやけど、中々踏ん切りがつかんかってん。だから、言うのが寸前になってもうた」
「日菜ちゃんは何も悪くない。私の幼さが悪いだけ。…むしろ立派だよ。おじいちゃんの為に引っ越して、面倒見てあげるなんて」
 私だったら、今の環境を投げ出すなんて到底出来そうにない。
「…そういや、ウチ達が出会った日のことって覚えとる? ウチは今でもハッキリと覚えとるよ。あれは…」
 受験当日の時や、と日菜ちゃんが私との邂逅を語り出す。
「その日は、前日に緊張してもうて寝坊してもうたんや。急いで駅に着いたんはええけど、学校までの行き方がわからんかった。だから、ケータイで調べて学校を探そうとした。今思ったら、駅員さんに聞くのが手っ取り早かったんやろうけど、そこまで頭が回らんかったんや。スマホ片手に歩いとったら、前方不注意でおじさんとぶつかってしもた。その衝撃でスマホは落とすわ、しかも最悪なことに蹴ってもうたんよ。そしたらシュルル~って地面を滑って、見事溝にゴールインや。やってもうた! と思たよ。時間もギリギリやったけど、スマホがなかったら連絡も出来ひんし、行き方もわからん。最悪や。だから、必死こいて取ろうと頑張ってたけど、どうしても届かへん。ホンマにあの時は必死やった。そん時に、『どうしたの?』って声を掛けてくれたんが、きぃちゃんやった」
「覚えてるよ。忘れる訳ない…」
 
 私もその日は、遅刻寸前で急いでいた。遅刻なんかして内申点に響いたらシャレになんないから、もうマジで焦ってたんだ。そしたら、地面にしゃがみ込んで何かをしている女の子がいた。困っていたのは明らかだったけど、急いでいたから無視して行こうと思った。でも、目の前に困っている同年代の女の子がいて、無視なんて出来るはずなかった。不審に思いながらも近寄ると、女の子は側溝に手を突っ込んでいるではないか。
『どうかした?』
 思い切って声を掛けてみると、女の子はこちらを見た。幼い顔付きで、目がクリクリっとした可愛い娘だった。
『じ、実はこの中にスマホが入ってもうて…じゃなくて入ってしまったんです』
 女の子は地面にしゃがみ込み苦戦していた理由を明かす。
 そういえば、この頃の日菜ちゃんは標準語で話していた。後から聞いた話しによると、標準語を話す女子に憧憬していたらしい。
『私が取ってあげるよ』
 加勢を申し出てみるが、女の子はバツが悪そうに断る。
『い、いいです。自分でやりますから』
 振り返ってみても、日菜ちゃんが標準語で話してるのは違和感でしかないな…。
『いいからいいから。私に任せておいて!』
 なんの根拠もなかったけど、とにかく早く解決させることが最優先だった。
『えっと…じゃあ、お願いします』
 場所を譲ってもらい、早速、隙間に手を伸ばしてみる。だけど、見事なまでに届かなかった。
 そこで、思いがけない非情な現実に直面したのを覚えてる。私は腕が短い。指の長さには自信があったんだけど、腕が短いとういのは無自覚だったんだよね…。
 届かないのは明らかだったけど、任せておいて! なんて豪語した手前、諦める訳にはいかなかった。
『ふぬぬぅ!』
 スマホ自体は見えているのに、全く取れる気配がない。もどかしさだけが募る。
『も、もういいですよ。自分で取りますから』
『ちょっと腰辺りに乗って!』
 焦燥を極めた私は、最終手段に打って出た。
『えっ?』
『腰辺りに体重かけて支えてくれたら、取れると思うの!」
『で、でも、そんなことしたら制服が…』
『そんなの後で洗えば大丈夫だから』
『そ、そこまでしてもらわなくても…』
 女の子は困惑した表情を見せる。
『いいから早く!』
 中々踏ん切りのつかない女の子を、私は急かす。
『は、はい!』
 女の子がやっと背中に乗ってくれたので、私は腕を極限まで伸ばす。
『ど、どうですか?』
『これならギリギリ届きそうかもぉ…あっ、届いた!』
 人差し指と中指の間にスマホを挟み込んで、引っ張り出す。
『はい、これ』と無事に救出できたスマホを、持ち主に返還。
『ホンマありがとう!』
 急に抱きつかれ、『ぐぇ』と妙な声が漏れた。
 腰の骨が粉砕されそうなぐらいの力強い抱擁だったのを、よく覚えている。
『く、苦しいぃ』
 私がそんな唸り声を上げると、『あっ、ごめんな』と女の子は抱擁を解いてくれた。
『う、嬉しくてつい…』
『別にいいよ。私もそんなに喜んでくれるなんて逆に嬉しいし』
『改めてありがとうな…えっと…』
『ああ、私は東西菊菜。菊の花の菊に、菜っ葉の菜で菊菜』
『ウチは椥辻日菜。日々の日に、ウチも菜っ葉の菜で日菜』
『おお、そうなんだ。ちょっと似てるね』
『そうやね。…あっ!』
 日菜ちゃんが何かを思い出したような声を発した。
『ど、どうかした?』
『ウチ、今日が受験日やねん!』
『へぇ…って私もだよ!』
 和やかなムードにすっかりと失念していた。このままじゃヤバい! と焦りが加速する。
『もしかしてウチ達、一緒の高校だったりするん?』
 問われたので、受験する高校の名を明かす。
『やっぱり一緒やん!』
『じゃあ、一緒に行こうよ!』
 そして私達は、仲良く手を繋いで学校まで急いだのだった――

「あの時はちょっと遅刻してもうて怒られたけど、今となってはええ思い出や」
「…ひっ、ひっく…」
「きぃちゃん…もしかて泣いとんの?」
「な、泣いてない! 泣いてないから……」
 なんて強がってみたものの、本当は涙が止まらなかった。日菜ちゃんと友達になって一年足らずだけど、一緒に遊んだ思い出がいっぱいあったから。
 遠慮しないで気兼ねなく話せる、ノリも良くて明朗な日菜ちゃんが私は大好きだった。バンドを抜けるとかなんかより、日菜ちゃんと一緒に学校で過ごせなくなるのが悲しかった。
「離れ離れになっても、ウチ等はずっと友達やで」
 日菜ちゃんが私の肩をそっと引き寄せる。
「うん、うん…」
 泣き顔を見られたくなくて顔を上げられなかったけど、多分、日菜ちゃんも涙していたと思う。
 
「お前、最近、全く練習に身が入ってないぞ」
 ある日の放課後、部室にて。上の空でベンベン弦を弾いていると、冬華がキーボードの演奏を中断して注意してきた。ちなみにキーボードも、運良く部室に放置してあったものを再利用させて頂いている。
「日菜がいなくなって傷心なのはわかるが、お前は初心者なんだ。バンドをしたいと言い出した張本人が、練習をサボるんじゃない」
「冬華は平気そうだね、日菜ちゃんがいなくなったっていうのに」
 日菜ちゃんが学校を去ってから、一週間が過ぎた。まだ一週間だというのに、もう一年以上会っていないような気分だ。
「そんなのいつまでも引きずってたって仕方ないだろ。それに、一生会えなくなった訳でもないしな。大阪なんかすぐそこだろ」
「冬華は強いですなぁ。私にもその強靭なメンタルを分けて欲しいぜ」
「とにかく練習しろよ。そんな体たらくじゃ人前で演奏するなんて、夢のまた夢だぞ」
「……」冬華のその言葉で、重要かつ重大な目的を思い出す。
 そうだよ。私はまたあの時のような拍手喝采を浴びる為に、バンドを始めたんじゃん!
「…それより、彩音ちゃん遅いな」
 ふと、冬華が不在メンバーの名を口にする。
「そうだね。何やってんだろ?」
 いつもなら真っ先に部室へ訪れ、練習に精を出しているというにのに…。休むのであれば連絡があるだろうし、少し心配だ。
「すみません! 遅れました!」
 突如として扉が開くと、件の部員が姿を現した。肩を上下させ、息遣いが荒い。どうやら走ってきたみたい。
「今日はどうしたの?」
 私が遅くなった理由を尋ねると、「これを作ってたんです」と彩音ちゃんは一枚のプリントを差し出してきた。
「ん~?」
 それを受け取って、しばし黙読。そこには、『バンド同好会、部員募集中! ※ドラムを嗜んでる方は、更に大歓迎!」とでかでかとカラフルな文字で書かれていた。
 しかし、それよりも私の目を引いたのは、四隅に描画されている様々な楽器だった。ギター、ベース、キーボード、ドラムが描かれており、そのどれもが細部まで忠実に描写されていてクオリティが高い。
「てゆーか、画力がパないっ!」
「ちょっと絵にこだわっていたら、遅くなってしまいました」
「これは勧誘のチラシだね」言いながら、冬華が私の手からプリントを抜き取る。
「はい。日菜先輩が抜けてからドラムが不在だったので、そろそろ加入してもらってもいいかなって…」
 彩音ちゃんが申し訳なさそうな目で私を見る。何やら気を使ってくれているみたい。
「そう…だよね」
 いつかまた日菜ちゃんが戻ってきてくれるんじゃないかって淡い期待を抱いてたけど、そんなことはもうないんだよね。
「やっぱり迷惑です…? まだ切り替えなんてできないですよね」
「そ、そんなことないよ! ただちょっと考え事してただけだから…」
 表情を誤読されたみたいで、私は慌ててフォローする。
「じゃ、じゃあ、これをコピーして廊下に貼り出そう!」
 そんな訳で、私達はそれぞれ場所を分担してプリントを貼って回った。出来る限り目立つ箇所に何枚か貼り付けた後、私は部室に戻る。
 一仕事終えた気分で心地良い疲労感に浸っていると、「今更、気付いたんだが」と冬華が口を開く。
「無許可で廊下にプリントなんか貼って大丈夫だったのか?」
「そういえば、そうでしたね。大丈夫でしょうか…?」
 彩音ちゃんが不安がる。
「大丈夫でしょ、多分…。別に悪いことをした訳じゃないし」根拠は全くないけど。
 
 しかし、部員一同の不安は、見事に的中することになった。

 翌日の朝、登校して自席で授業の準備をしていた時だ。
「菊菜ぁ、お客さんだよぉ!」
 そんな同級生の声が聞こえ廊下側に目を向けると、我が部の愛しい後輩の姿があった。
「で、どうかしたの? 彩音ちゃん。もしかして愛の告白だったりして。いやぁ、先輩、困っちゃうなぁ」
「違います」
 言下に否定する彩音ちゃん。
「あはは、やっぱり?」
 ありえないとわかっていても、わざわざ会いに来てくれた嬉しさについおどけてしまった。
「実は、昨日に貼り出した勧誘のプリントが見事に全部剥がされてて」
「あちゃー、やっぱりダメだったか」
 それにしたって全部を剥がすなんて、だれの仕業か知らないけど非情なことをしてくれるな。せめて何枚かぐらいは残してくれていいものを…。
「どうしましょう…?」
 打開策を問われ、「う~ん」と頭を捻る。
「そうだ。放課後に手渡しで配布しようよ」
 せっかく彩音ちゃんが試行錯誤して作ってくれたプリントを無駄には出来ないもんね。

 放課後となりバンド同好会一同は、校門前で勧誘のプリントを配布していた。
「お願いしま~す」
「……」
 近くを通りかかった生徒にプリントを手渡すが、そのまま通り過ぎて行ってしまう。これで何人目だろうか…。愛想を振りまきながらプリントを渡してるつもりだけど、中々受け取ってくれない。
 よく駅前なんかでチラシとかテッシュやらチラシを配っている人達を見かけるけど、受け取ってくれないとこんなに切ない気持ちになるんだな、とこの身をもって痛感。私も無視することが主だけど、今度からは積極的に受け取ってあげようと固く決意。
 私以外の二人もプリントを配るのに苦戦している様子。比較的外交的な彩音ちゃんはハッキリとした口調で話し掛けているが、冬華はというと人見知りを遺憾なく発揮して殆ど声を掛けられないでいる。
「君達、こんな所で何をやっている?」
 プリント配りに奮闘していると、背後から声を掛けられる。女性にしては低く威厳を感じさせる声音に、私は反射的に振り返る。そこには、かなりの美人さんがいた。
 漆黒のよく手入れの行き届いた艶やかな長い髪、あらゆる部位が意図的に並べられたかのような端正な顔立ち。悔しいことに、才媛なのが一目見て判断できた。
「何をやっているのかと聞いている」
 その美貌に目を奪われていると、彼女が威圧的な口調で再び問う。
「何をって…部員の勧誘ですけど」
私の返答を聞いた彼女は、こちらに歩み寄ってくる。少し警戒して身構えると、彼女が私の手からプリントを奪取。
「やはり君達か」プリントを眺めた後、彼女が私達に視線を移す。「廊下や掲示板に無断でこれを貼っただろう」
「えっ? あ~…身に覚えがないって言ったら、嘘になるような、ならないような…」
 もしかして、この人がプリントを全て剥がした張本人なのかな…?
「惚けても無駄だ。…まあいい。無断でプリントを貼り出したのはこの際、不問にしておく。だが、これは何の真似だ? 誰に許可を取って、こんな物を配布している?」
「許可は…」部員二人を見やる。だが、二人は首を振るのみだった。「取ってないけど、いいかなって思って…」
「いい訳ないだろ。許可を取ってないのであれば、即刻、配布をやめろ」
「悪いことをしてる訳じゃないんだし、別にいいんじゃ…」
 彩音ちゃんが反抗的な言葉を零した瞬間、キッと彼女が彩音ちゃんを睨む。
「ひっ…!」
 彼女の鋭い眼光に怯え、彩音ちゃんは冬華の背中に隠れる。
「悪いか否かの問題ではない。ちゃんとした正式な手続きをしていないのであれば、勝手な行動は許さない。忠告しても尚、続けるようであればそれなりの罰則が待っていると思え。以上」
 言いたいことは終わった、と言わんばかりに彼女は会話を一方的に打ち切り、クルッ振り向いて颯爽と校舎の方へと歩いていった。美人だけど、性格がキツい人だな。その背中に、べぇ~と舌を出す。
「なによ、あの人。めっちゃ偉そうなんだけど。…で、誰?」
「呆れた。お前、あの人のことを知らないとか、ありえないんだけど」
 冬華が言葉通り呆れ顔を見せる。
「あの人、生徒会長です」冬華の背中に隠れていた彩音ちゃんがひょこっと姿を現し、先程の偉そうな人物について述べる。
「えっ!」衝撃的な事実を知らされ、私は目を剥く。「あの異様に偉そうな人が生徒会長だったとは…」
 生徒会などにあまり興味がないので、全く知らなんだ。
「確かに態度やら口調はこの上なく偉そうではあるが、生徒会長になれたのは信望があるからだろうな」
「なんか冬華に似てた。態度とか口調が。ねっ? 彩音ちゃん」
「いえ、全く似てません。私は断然、冬華先輩のことが好きです!」
「…ことが?」
「あっ、違います! 冬華先輩の方が好きです、の間違いです!」
 彩音ちゃんは慌てて前言を訂正する。
「あ、ありがとう…」
 面と向かって好きなどと言われたのが嬉しかったのか、冬華は少し戸惑いを見せる。
「あっ、で、でも、好きって言うのは、先輩としての好きで、決して深い意味はなくて…」
「う、うん。それはわかってる」
「それより、これからどうしよっか?」
 屈服するのは心底ムカつくが、また許可なしに配布していたら、あの会長がまた来る可能性が高い。…いや、絶対に来る。
「そうだな…これ以上続けるのは賢明とは言えない。今日の所は諦めて帰るか。お前も仕事の時間が迫っているだろ」
「いや、ちょっと待って…。思い出したら、なんかムカムカしてきた。ちょっくら一人で行ってくる」
「ちょ、ちょっと菊菜先輩、どこに行く気です?」
「生徒会長の所だよ。ちゃんと許可してもらえば、配ってもいいってことだもんね」
「それはそうだが、お前を一人で行かせるのは不安だな…」
「案ずるな、冬華よ。私がちゃんと話しをつけてくるから。二人はここで待ってて」
 なんてカッコつけていざ生徒会室に乗り込もうと一歩踏み出すも、私はそこで重大な事実に直面する。
「そういえば、生徒会室ってどこにあんの?」
 呆れ果てる冬華に生徒会室の場所を口授してもらい、私は早速そこに向かった。新校舎の二階、左の最奥が生徒会室。
「ちょっと緊張してきたかも…」
 目的地に到着したものの、私は入室を躊躇っていた。意気揚々とここまで来たのはいいものの、この扉の先に生徒会長がいると想像したら中々踏ん切りが付かなかった。だけど、ここで立ち尽くしているような時間は、私には残されていない。
「…よしっ」自らを鼓舞するように、パンパンッと頬を叩く。…力加減を間違えて、ちょっと痛い。
「たのもーっ!」
 勢い良く扉を開け放ち、中に乱入。柔道部の看板を貰いにきた新入部員の如く気合は十分だ。
「…君はさっきの」何かの用紙にペンを走らせていた手を止め、会長が闖入者を見据える。「ノックもなしに入室するなど、君は当たり前の礼儀が欠けてるようだな」
 再会して早々、無礼な行いを注意されてしまう。
「急いでいたもので、つい。あっ、私は二年二組の、」
「東西菊菜くんだろう」
 自己紹介しようとすると、会長が先に私の名を言い当てる。ま、まさか私の心を読み取って…。
「言っておくが、読心術とかじゃないからな」
 この人なんでもお見通しか。
「私は仮にも生徒会長だ。全生徒の名前と顔は大体把握している。それに、君は校内で有名人だからな」
「有名人? 私が?」初耳だ。
「君は舞妓という特異な職種に就いていることで有名だ。誇るといい」
「そ、そりゃどうも…。じゃなくて私がここに来たのは、プリントの配布を許可してもらう為なんです!」
「残念ながら、それは許可できない」
 私の些細な希望は、すぐさま却下される。
「ど、どうしてですかっ!」
「君達が所属する部の名はなんというんだ?」
「え…? バンド同好会ですけど…」
「手元の資料を見る限り、バンド同好会なる部はここに存在しない」
 会長はバインダーに挟まれた用紙に目を通す。
「そ、そんなはずありません! ちゃんと正式な手続きを踏んで創部したんですから!」
 私の語気は自然、勢いを増す。
「じゃあ、君達の顧問は誰になる?」
「亜季…じゃなくて山城先生です」
「創部する場合、教師に承認された後、生徒会に認可され初めて、部として機能する。同好会においても同様。山城先生から何も聞かされていないのか?」
「…はい」亜樹ちゃん、ちょっと抜けてるからな…。
「じゃ、じゃあ、また申請書を持って来ればいいってことですよね?」
「持ってくるのは一向に構わないが、認可はしない」
「ど、どうしてですか!」
「バンド同好会なるものが、この学校に利益を齎すとは思えないからだ」
「利益って…そんなの部を作るのに必要ない!」
「大いに必要だ。最近は本来の活動に精を出さず、部室に篭ってただ怠惰に過ごす部が跋扈しているのが現状。それは、生徒会として看過できない。いずれそういった部を淘汰しようとしている手前、これ以上無意味な部を増やすことはできない。部室だって限りがあるのだからな」
 確かに会長の言っていることは一理ある。だけど、私達が本気で取り組んでいない部だと判断するのは、時期尚早ではないか。
「決め付けないでください。今までだって、ちゃんと私達は練習してました。そんなだらしのない部活と一緒にしないでください」
「ほう…じゃあ、それを証明してくれ」
「証明…?」
「今から一週間の猶予を与える。その間に、我が校に必要とされる部活なのだと私に証明してくれ。方法は問わない。それで私に必要のない部だと判断されれば、即刻、廃部とする」
「そ、そんな勝手な…」
 まだ創部して間もないっていうのに、そんなのあまりに難儀な無茶ぶりだ。しかも、一週間なんてあっという間じゃん。加えてドラムが不在の今、かなり過酷な条件。
「なんだ? 自信なさげだな。さっきまでの威勢の良さはどこいったんだ? まぁ、自信がないのであれば、この場ですぐ廃部にしてやってもいいんだが」
 その会長の挑発するような言葉は、私の負けず嫌いの血を喚起させた。
「ナメないでよ。一週間もあれば、そんなのめっちゃ容易いんで。むしろ、三日でも十分なぐらい」
「自信満々だな…。それじゃあ、猶予は三日にしようか」
「そ、そこは、出来れば一週間で!」
 前言撤回の早い私だった。なんとか期限を一週間に戻してもらい、私は生徒会室を出る。
 これからは寝る間も惜しんで、練習に明け暮れないとな…なんて考えていると、
「菊菜」
 不意に名を呼ばれ、反射的にそちらを見る。
「ふ、冬華…なんでここに?」
「お前のことだから、会長に失礼を働いてないか心配になって様子を見に来た、っておいっ」
 気付くと私は、冬華を抱き締めていた。シャンプーの甘い香気が、鼻腔をくすぐる。
 単身乗り込んでみたものの、私は心細かったんだ。
「…菊菜、どうしたんだよ?」
「会長にね、一週間以内に私達が学校に必要な部活か証明しろって言われた」
「…なんとなく話しの内容は想像できた」
「それにしても、冬華っていい匂いするね。クンカクンカ…ずっと嗅いでたい」
「キモいから」
 辛辣な一言と共に、冬華が私を剥離させる。
「一週間か…こりゃまた難儀だな」
 部室までの帰り道、私達は会長をどう認めさせるか話し合っていた。
「ダイジョブダイジョブ。一週間もあるんだから。その間にこれまで以上に練習を重ねれば、会長をギャフンと言わせるのなんて簡単」
「随分と楽観的だが、一番の問題はお前なんだからな」
「わかってるよ。めちゃくちゃ練習して、会長の度肝を抜いてやる」
「口だけは立派だからな、お前は」
「う、うるさいな。それより彩音ちゃんは?」我が愛しの後輩の姿は見えなかった。
「先に帰ったよ。会長に恐怖心を覚えたのかもしれん」
「…そっか」確かに会長って無駄に偉そうで怖いもんね。
「練習もそうだが、まずはドラムをどうするかだな。いなけりゃいないで構わないが、バンドにとっちゃ大きな欠点だろう」
「そうだよね…てゆーか、その為にプリントを配ってたっていうのに」
 旧校舎2階の部室に辿り着く手前、不意にドコドコというドラムをリズミカルに叩く音が耳に届いた。
「「まさか!」」
 冬華もその音に気付いたようで、私達は顔を見合わせる。反射的に私は駆け出していた。
「日菜ちゃん!」
 扉を思いっ切り開けると、そこには日菜ちゃんの姿…ではなく、見慣れぬ女の子の姿があった。
 一見して綺麗な顔立ちに、胸元まで伸びた髪は茶色で軽くウェーブしている。大きく主張の強い双眸は、つぶらで愛玩動物を彷彿とさせた。
「あっ…か、勝手に入ってしまい、申し訳ございません」
 女の子はドラムベンチから立ち上がり、慇懃に頭を下げる。所作、口調からお嬢さまなのが滲み出ているような娘だった。
「おい、菊菜! …って誰?」
 追いついてきた冬華が、見覚えのない顔に誰何する。
「大変、申し遅れました。私は一年の西大路美月と申します」
 西大路と名乗った彼女は、再び頭を下げる。
「…西大路?」
「冬華、どうかしたの?」
「いや、どこかで聞いたことのある気がして…」
「まぁ、そんなことより西大路さんは何でここに?」
 私が訪問した理由を問うと、彼女は鞄から一枚のプリントを取り出す。
「これを拝見しまして…」
「それって…」私達がさっきまで配りまわってた彩音ちゃん特製の勧誘プリントじゃん。
「それを持ってるってことは…もしかして入部希望だったり?」
「はい。私、ドラムを少し嗜んでまして」
「合格」
「え…?」
「大歓迎だよ、西大路さん!」
 私は思わず西大路さんの両手を握る。ドラムが叩けて、その上美人さんなんて断る理由なんて皆無。むしろ教えて欲しいぐらいだ。
「お、おい、そんなすぐに即決していいのかよ」
「いいに決まってんじゃん! こんなタイミング良くドラマーが現れるなんて奇跡じゃん! あっ、自己紹介しとくね。私は二年の東西菊菜っていうの」
「存じてます」
「私のこと知ってるの?」
「はい。東西さんは校内で有名な方なので」
「東西ってかたいなぁ。菊菜でいいよ」
「…菊菜さん」
「私も美月ちゃんって呼ぶね。で、そっちの娘は、」
 私が紹介してあげようとしたが、冬華は自分で名乗る。
「小野冬華、よろしく」
「冬華さん、ですね。よろしくお願い致します」
 美月ちゃんはまたスっと頭を下げる。かなり礼儀正しくて、好感度高い。今時こんな慇懃丁重な娘がいるなんて驚きだ。
「そういえば、美月ちゃんってドラム歴はどれくらい?」私は疑問を投じる。
「小学生の頃から始めたので、10年ほどです。ずっと、吹奏楽部で叩いておりました」
「吹部は辞めちゃったの?」
「はい。吹奏楽部では既存の曲ばかりを叩いていたので少し飽きを感じて…。なので、オリジナルの曲を叩いてみたいと」
「へぇ…なんかパンクだね」
「お二人のパートは?」
「私はベースボーカルで、冬華がキーボード。もう帰っちゃったけど、あと一人、石田彩音ちゃんって娘もいて、その娘はギターなの。同じ一年なら、彩音ちゃんのことは知ってたりする?」
「はい。クラスは違いますが、名前だけなら」
「それよりも、美月ちゃんには入部早々で悪いんだけど、このバンド同好会は廃部の危機に瀕しているの」
「えっ? そ、そうなのですか…?」
 美月ちゃんの表情に驚愕の色が射す。
「色々と訳あってね…。でも、大丈夫! 美月ちゃんがいれば、この逆境を乗り越えられるから!」
「…よ、よくわかりませんが、出来る限り頑張らせてもらいます」
 気合を体現するかのように、拳をグッと握る美月ちゃん。
 さて、私達の反逆は始まったばかりだ。

「疲れたぁ…」
 仕事を終え疲労困憊の私は、布団に身を投げる。バフっと埃が中を舞う。
 疲弊した身体を休める為、フカフカのベッドで就寝したい気分だけど、置屋にそんなシャレた物はない。
 そのまま寝ようとしたけど、私はスマホを手に取り電話する。何度目かのコールの後、『もしもし』と応答があった。
「日菜ちゃん、元気してる?」
『おっ、きぃちゃんやんか。元気しとるよ』
 日菜ちゃんが転校してからまだ数週間しか経ってないけど、大阪訛りの声に懐かしさを感じる。
「私達が別れてから、もう半年も経ってしまったのね」
『…そうか。もうそんなに時間が経過していたんだね。時の流れは無情なものだ。昔はあんなにも愛し合っていたのに、僕達は今や離れ離れ。そろそろ君のいない生活にも慣れてきたっていうのに、君の声を聞いた途端、また会いたくなってしまったよ』
「私も同じ気持ちだわ。アナタが都会に行ってしまってからというもの、何をしても満たされないの」
『こっちで流行りの指輪を送るよ。君に似合うはずだ』
「そんな物いらない。私はただアナタに会いたい」
『僕達はどんなに離れていても心で繋がっているんだ、菊菜』
「日菜夫さん…」どなたか木綿のハンカチーフをください。
『…ぷっ、あはははっ』
 快活な笑い声が、受話口から発せられる。
「はい、日菜ちゃんの負けぇ」
『だって、日菜夫ってダサいんやもん。ふふっ、思い出したらまた笑けてきたわ』
 いつからやり出したのかは忘れたけど、いつも突如として電話中に開演する茶番劇。明確なルールは定まってないけど、とりあえず笑ったら負けというもの。
「それより聞いてよ。今日ね、ムカつくことがあって――」
 それから、今日あった出来事やら愚痴を吐き出していると、いつの間にか2時間ぐらい経過していた。あまり長電話していると日菜ちゃんの生活リズムを崩してしまうだろうし、私の睡眠時間も減ってしまうので名残惜しいけど電話を切る。
 関西弁で話すのでガサツに思われがちだけど、実は日菜ちゃんは聞き上手だったりする。だから、たまに溜まりに溜まった愚痴を聞いてもらう。それだけで、鬱々とした気分がスッキリとするんだ。

「さて、美月ちゃんが入してくれたのは幸先がいいですが、私達がこれからどうすべきか討論したいと思います」
 翌日の放課後、彩音ちゃんに美月ちゃんが入部した経緯を伝えた後、会長から提示された難題をどう打開すべきかを話し合っていた。
「討論って具体的にどうするんだよ?」
「冬華くん、発言する時は挙手するように」
「はい」
 従順に私の命令に従い挙手したのは、新入部員の美月ちゃん。
「普段、皆さんはどういった曲を練習しているのでしょうか?」
「そういえば、まだ音を合わせたことがないな」
 冬華がそんな言葉を零すと、「そういえばそうですね」と彩音ちゃんが頷く。
「え? それでは、今までどんなことをされていたのでしょうか?」
「ん~と…」腕を組み、私はこれまでの練習風景を回顧。皆、思い思いに練習をするだけで、バンドらしいことは何一つしていない。
「こんな体たらくじゃ駄目ですっ!」
 美月ちゃんの怒声が、室内に響き渡る。
「………」
 清楚でお淑やかだった美月ちゃんがいきなり声を荒げるなんて予想外で、その場にいた全員が言葉を失う。
「…あっ、申し訳ございません。いきなり大声で叫んでしまうなんて…」
 美月ちゃんは頬を赤らめながら、私達に頭を下げる。
「…そうだよね。部の存続が懸かってるんだもんね! 美月ちゃんの言う通り、これからは本格的に頑張らないとだよ!」美月ちゃんの一喝で奮起された私は、声を張り上げる。「あの傲慢会長を見返してやるんだから!」
「えっ…?」
 美月ちゃんが何故か目を丸くする。
「どうかした?」
「い、いえ、なんでもありません…」
「…?」気になったけど、本人が話したくないようなので言及は控えておいた。
「とにかく! なんの曲を演奏するかを決めないとだよ!」
「やっぱりオリジナルですかね…」
 ふと、彩音ちゃんが呟いた言葉に、私は猛然と食らいつく。
「そうだ、皆でオリジナルソングを作ろうよ! 歌詞書いて、作曲してさ」
「私達はまだバンドに関してはド素人なんだぞ。一週間やそこらでオリジナルソングを作るなんて難しいだろ。ここは無難に既存曲をコピーするのが手っ取り早いと思うが」
「コピーなんてダメ」冬華の案を、私は即座に却下する。「会長の度肝を抜いているのはオリジナルじゃないと、インパクトに欠けると思う」
 美月ちゃんはどう思う? と新入部員の意見を窺う。
「私もオリジナルがいいと思います」
「よし! じゃあ、各々歌詞を書いて、明日までに提出ね」
「明日までですか…書けるかなぁ」
「でも、彩音ちゃんって普段、オリジナルソングを作って慣れてるんじゃないの?」
「作ってますけど、私、歌詞を書くのがちょっと苦手で…」
「大丈夫! 私なんて生まれてこのかた歌詞なんて書いたことないし!」
「なんで自慢げなんだよ」冬華が呆れたように一言。
「とにもかくにも、ちゃんと明日までに歌詞を書いてきてください! なお、書いてこなかった者には、厳罰が待っているのであしからず」
「お前が一番書いてこなそうだけどな」
「そこ、うるさいっ」無礼者の冬華を指差し注意する。
 その日はそれで解散となり、私達は帰路についた。いつも通り四条駅で降りて、置屋に向かっている道中、
「あ、あの、菊菜さん」
 唐突に後ろから声を掛けられ、私は振り向く。
 そこにいたのは、「美月ちゃん」だった。
「どうかした? …てゆーか、ここまで付いて来てたの?」
「も、申し訳ございません。中々声を掛けられなくて…」
「何か用だった?」
 中々声を掛けられなかった? もしかして、名ばかりのバンド同好会の実態に落胆して、入部早々に脱退する気では、と一抹の不安が脳裏を過る。
「菊菜さんとお話したくて。少しお時間を頂けませんか?」
「う、うん。いいけど…」
 私達は場所を移して、鴨川近くの岸部に向かう。
「早速なのですが、これを観て頂けませんか?」そう言いながら、美月ちゃんはスマホを操作して液晶をこちらに向ける。「間違えていたら申し訳ないのですが、これって菊菜さんですか?」
 そこに写し出されていたのは、既視感を覚える河川敷での映像。盛装した舞妓さんがバンドサウンドに乗せて熱唱している。某動画サイトに投稿されていた私の映像だ。しかも、再生数が以前よりも大幅に増えてるよ。
「えっと…まぁ、私…かな」
「やっぱりそうなのですね!」
 美月ちゃんの発した大声に、周りから好奇の視線が集う。
「美月ちゃん、声を抑えて」
「あっ、申し訳ございません。…実は私、この場にいたのです」
「え? そ、そうなの?」
 まさかあの場に美月ちゃんがいたなんて…。
「はい。舞妓さんの格好をして、歌声もさることながら、観衆の前で悠々と歌い上げる姿には、深く感銘を受けました」
「そ、そう? …でも、なんで私だってわかったの?」
 褒められたことよりも、まずそっちが気になった。はっきり言って化粧して着物を着ていたら、ほぼ別人だもんね。
「少し前、学校の中庭で歌っておられましたよね? その歌声で菊菜さんだとわかったのです」
「ああ、あの時か…」
「中庭で歌われていた時、奇跡だと思いました。まさか同じ学校にあの時の舞妓さんがいるんて、と。それからずっと菊菜さんに憧れておりました」
「な、なんか照れるなぁ」
 人から憧憬されるのは密かに期待していたことだけど、まさかそれが品格のあるお嬢さまタイプの美月ちゃんからだなんて思いもしなかった。
「それから、出来るならお近付きになりたかったんですけど、勇気が出なくてずっと躊躇っていました。まず学年も違いましたから。ですが、その時にちょうど部活勧誘のプリントを拝見しまして」
 そう顛末を語る美月ちゃんは、まるで片思い中の恋する乙女のようだ。
「菊菜さんがバンド同好会にいるのを聞いて、私はすぐに吹奏楽部を退部しました」
「でも、よかったの? 吹奏楽部に入部したのって最近でしょ? こう言っちゃなんだけど、私達の部に入ってもロクなことがないと思うよ」
 今まさにロクなことに直面してるし。
「構いません。菊菜さんと一緒の部に所属していることが、私にとって嬉しいことなのです」
「そ、そんな風に思っててくれたんだ…」
 なんか告白されたような感じがして、胸の辺りがむず痒くなった。
「…も、もしかして、私、気味が悪かったですか…?」
 私の反応が微妙だったからか、美月ちゃんの表情が曇る。
「い、いや、そんなことないよ! 純粋に私も嬉しいから安心して」
ふと、私は目の前の水面に視線をやる。朱色の夕陽を反照し、キラキラと輝いて幻想的な光景が広がっていた。いつもここに来ると飛び込んでみたい衝動に駆られるが、飛び込んだ末の悲惨な末路を考えたらそんな行為に及ぶことはできなかった。絶対、風邪引く。
「ありがとうございます。私も菊菜さんと一緒にバンドをできるなんて夢のようです」
 どうやら疑惑は晴れたようで、美月ちゃんは相好を崩す。
「話しは変わるけど、美月ちゃんってどうしてドラムを始めたの?」
 美月ちゃんを見る限り、ドラムなんていう力強さを求められる楽器とはほど遠い存在に見える。偏見だけど美月ちゃんのようなお嬢さまは、ヴァイオリニストとかピアニストの方が似合ってる。
「ああ、それは父の影響です。昔、父がジャズバンドのドラムをしていたのですが、たまにご教授して頂いたり」
「へぇ…」
 お父さんがジャズドラマーなんて、なんかカッコいい。私のお父さんはしがない会社員だもんな。
「あっ、私、もうそろそろ帰らないと、仕事に遅れちゃう」
 こんなところで談笑している場合じゃなかった。
「お仕事、でしょうか? 菊菜さん、何かアルバイトをなさっておられるのですか?」
「アレ? さっき見せてくれたじゃん」
「さっき?」と美月ちゃんは不思議そうな表情を見せる。
「私の仕事は舞妓だよ」
「えっ…?」
 美月ちゃんは口をポカンと開いて唖然とする。
「そ、そんなに驚くこと?」
「あっ…いえ、申し訳ございません。先程の菊菜さんは、単なる仮装かと思ってましたので…」
「か、仮装って…。まぁ、いいや」
 私の仕事が舞妓だと発覚すると、何故か皆が一様に驚いて疑念を抱く。皆、私には舞妓が似つかわしくないと思っているのかね…。

「う~む……」
 仕事を終え置屋に帰ると、私は一枚の紙と向き合っていた。勿論、勉強に奮闘しているわけではなく、歌詞作りの真っ最中。
 しかし、一時間ぐら色々と頭を悩ませているが、ほとんど筆は動いていない。…いや、一文字たりとも書けていない。歌詞ぐらいすぐに書き終えてやるぜ! なんて内心では意気込んでいたけど、進捗具合は最悪。
 厳罰が待っていると自ら宣言してしまった手前、早く書き終えなきゃ! という焦る気持ちが重圧となって思考を妨げてくる。
 しかも、普段から使わない脳を酷使しているのと、お風呂上がりで身体が火照っているので、眠くて仕方ない。
「ちょっとだけ寝ようかな…いや、ダメだダメだ!」
 危うく睡眠欲に屈服しそうになった頭を左右に振り、襲い来る睡魔を排除する。一度寝てしまうと、朝まで起きられない可能性がある。てゆーか、絶対に起きられない。
「ふぁ~あ」人目がないので、大口を開けて欠伸。ヤバい。マジで眠い。
 突然、ガチャと扉が開き、反射的に肩が跳ねる。
「アンタ、まだ起きてんの?」
「お、お姉ちゃん! ノックしてよ、ビックリすんじゃん」
「アンタが夜中に勉強なんて珍しい。明日は大雨かな?」
 お姉ちゃんは無断で室内に足を踏み入れる。
「なんでもいいじゃん。ほっといてよ」
 流石に歌詞を書いてるとは恥ずかしくて言えなかった。
「あっ、これがアンタの楽器?」
 壁に立て掛けてあったベースを、お姉ちゃんが手に取る。お姉ちゃんには、バンドを組んだことをもう伝えてあった。
「ギターなんて初めて触ったけど、結構重いんだ。…なんか弦の数が少ない。もしかして初心者用?」
「違うから。それ、ベースだし」
「違いがよくわかんない。試しに弾いてみてよ」
「え~、しょうがないなぁ…」
 至極面倒だったが、ベースを受け取り渋々演奏してみる。そして、聴き終わったお姉ちゃんは一言。
「なんか微妙な音」
「ベースはこんな音なのっ」全世界のベーシストから怒られるぞ。
「もういいでしょ。私だって忙しいんだから、もう出てってよ」
「はいはい。いつからそんな反抗的になったのかねぇ。昔はお姉ちゃん、お姉ちゃんってウザいぐらいに引っ付いてきたっていうのに」
 お姉ちゃんが妹の発育具合を嘆く。
「いつの話ししてんのよ。てゆーか、ウザいと思ってたんかい」
「それより、早く寝なさいよ。アンタ、朝が弱いんだから」
 お姉ちゃんはそう言い残して、部屋を出て行った。
 さて、邪魔者が去って作業に集中できる環境になったのはいいけど、依然と筆は進まない。
「誰かに電話しようかな…」
 電話して歌詞を書けるとは思えないが、何かしらのアドバイスを頂けるかもしれない、そう思い立ちスマホを操作する。
「誰に電話しようかな…」
 まず最初に思い浮かんだのは冬華だけど、邪険にされて即刻電話を切られるのが目に見えてる。日菜ちゃんは…既に就寝しているかもしれないから却下だな。そうなれば、彩音ちゃんしかいない。彩音ちゃんは自身でちょこちょこ作詞はしているみたいだから適任。美月ちゃんっていう選択肢もあるけど、まだそこまで親密になってないからちょっと難しい。早速、掛けてみることにした。
『どうかしましたか? 菊菜先輩』
 受話口から彩音ちゃんの声が送られてくる。
「いきなり電話してゴメンね。何してた?」
『歌詞も書き終えたので、そろそろ寝ようかと思っていたところです』
「やっぱり彩音ちゃんに電話して正解だったよ」
『…どういうことです?』
「いや、実は彩音先生に作詞のアドバイスをご教授頂けないかと思いましてですね」
『アドバイス、ですか…』
「うん。何でもいいから、教えて欲しいの」
『特にこれといってありません』
 私の願意は、早々に棄却される。
「そ、そんなこと言わずに、何でもいいから教えて下さいよ、彩音さまぁ」
『そんなことを言われましてもですね…私は思ったことをそのまま歌詞にしている形なので、教えるっていうのが難しいです。今回書いたのも、ストックしていたのを少し手直ししただけなんで…』
「じゃあ、何かお題をちょうだい」
『それじゃあ…無難に恋愛系とかどうです?』
「…そりゃまた私には縁のないお題だ。ムズい」
『菊菜先輩が何でもいいって言ったんじゃないですか』
「もっとわかりやすのをプリーズ」
『…じゃあ、青春なんてどうです?』
「ほう…青春ねぇ。あっ、なんか降りてきそう!」
『それはよかったです。じゃあ、頑張ってください』
 通話を終えて、再び純白の紙と対峙する。とりあえず、青春という単語から連想できる言葉を紙に羅列していく。学校、部活、夢…おっ、いいのが思い浮かびそう!
 結果、歌詞を書き終えられたのは、夜中の三時ぐらいだった。出来栄えには、かなりの自身がある。試行錯誤を繰り返し、無事に歌詞が完成したのはいいけど目が猛烈にショボショボする。
 授業中、睡魔に襲来されることを覚悟して、私は眠りについた。

「さて、皆さん、ちゃんと歌詞は書いてきましたか?」
 翌日の放課後、いつもの部室。私は部員達に問い掛ける。
「まず、お前はちゃんと書いてきたのかよ?」
 真っ先に問い返してきたのは、冬華である。
「安心なさい。ちゃんと完成させてあるぜ」
「あっそ」
「じゃあ…まずは、皆で回し読みしよっか。それからどの歌詞がいいか選出しよう」
「選出ってどうやってです?」と彩音ちゃんが首を傾げる。
「投票にしよう。それで票の多かった人のを採用ってことで」
「あの…すいません」おずおずと遠慮気味に美月ちゃんが挙手。「言い出し難かったのですが、まだ途中までしか書けてませんでした」
 申し訳ございません、と美月ちゃんは丁寧に頭を下げる。
「い、いいよいいよ。そんなことで謝らなくて。とりあえず、皆で歌詞を読んでいこうよ」
 美月ちゃんは本当に申し訳なさそうに謝るものだから、逆にこっちが恐縮してしまう。
 その後、個々に作成した歌詞を回し読みしていった。一通り読了した感想としては、それぞれ個性があって甲乙つけがたい。
 それにしたって、まだ途中だと言っていた美月ちゃんの歌詞が、全て英語だったのには単純に驚いた。洋楽は嗜むけど、あんまり歌詞の意味を理解せず雰囲気で聴いた私としては、和訳するのは困難だった。直接尋ねてみた所、内容的にはラブソングみたい。
 因みに冬華のは、敬愛する作家の小説をモチーフとした小難しい熟語ばかりの失恋ソングで、彩音ちゃんのはというと最近らしい明るいポジティブな内容。
 そして、各々良かったと思う歌詞に投票をすることに。結果から言うと、綺麗に投票数が分かれた。それぞれ個性的で良い歌詞だと思ったけど、まさかこんな奇跡的な結果になるとは思いもしなかった。
 予想だにしない展開にどうするのがベストなのかと思い悩んでいると、「ちょっといいです?」と不意に彩音ちゃんが手を上げた。
「これを上手くまとめて、一つにするのはどうです?」
「それだよ!」思わず私は叫んでしまう。合作にしてしまえば、皆の努力を無駄にせずに済むじゃないか。
「彩音ちゃん、マジ天才!」
 私が功績を褒め称えると、彩音ちゃんは満更でもなさそうに微笑む。
「えと…どうもです」
 そこから私達は彩音ちゃんの提案通り、協力して歌詞を一つまとめることにした。そのまま繋ぎ合わせただけじゃ意味がよくわからないようになってしまうでので、違和感が残る箇所は少し手直しもしたりした。
「おおっ、良い感じじゃん!」
 工夫に工夫を重ねて出来上がった歌詞は、美月ちゃんの英歌詞も相まってシャレオツなカッケー仕上がりとなった。
「確かに良い感じの出来だな。ちゃんと辻褄もあってるし」
 完成した歌詞を眺めながら、冬華が私の言葉に同調する。
「それじゃあ、次は作曲だね………どうすんの?」
 作詞は字を書くだけなのでまだ簡単だが、作曲って具体的にどうすればいいのか判然としない。
「私、一応ですけど、デモ音源も作ってきました。まぁ、これも以前に作ったものを少し修正しただけですが」
 言いながら、彩音ちゃんは懐からケータイを取り出す。どうやらケータイにデータが入っているみたい。
 デモとは言わば仮曲で、作曲する際には大事な工程となり、それを大元に肉付けをしていく…らしい。
「一度、聴いてみてください」
 彩音ちゃんはそう言うと、ケータイで自ら作った曲を流した。
一聴した感想は、かなり私好みの曲調だった。アップテンポでポップで耳に残りやすい。まぁロック好きな私としては、少し物足りない部分もあったけど、そこは創意工夫していけばいい。
 曲に関しては満場一致だったので、私達は早速練習に打ち込む。だけど、私は大きな障壁と衝突することとなった。歌詞、曲共に決定したのは幸先がいいけど、コード進行を覚えるのにかなり悪戦苦闘した。だがそれも、練習を重ねて地道に覚えていくしか方法がない。練習あるのみ。
 そこから毎日、舞妓の仕事に支障が出ないよう寝る間も惜しんで練習を続けた。途中、あまりに忙殺を極めて『うにゃーっ!』って投げ出しそうになったけど、気力を振り絞って頑張った。そんな私を褒めて欲しいけど、誰にもされなかったので自身で補う。
 頑張ったじゃん、菊菜! きゃー可愛い! サイコー!
 私は至って正常です。

 本番を明日に控えた夜。舞妓の仕事を終えて置屋に帰宅した私は、自室にてベースの練習に励んでいた。
「ふあぁ…」欠伸が漏れ、目に涙が滲む。
 睡魔に襲われながらの練習は、中々に過酷。だけど、寝ている暇はない。明日はとうとうバンド同好会の命運を左右する、大事な日なんだ。
「えっと、ここは…」
 楽譜を確認しながら、コードを押さえる。歌詞は完璧に覚えたけど、まだコードは完全に覚えられていない。焦慮する気持ちが、今の私を突き動かしてくれている。
 不意にコンコンと扉を叩く音がした。
「ん…?」こんな時間に来客とは珍しい。多分、お姉ちゃんだろう、と予測しながら、「は~い」と返事する。
「菊菜、ちょっとええか?」
 それは、聞き覚えのある威厳たっぷりの声音。私の背筋は反射的にピンっと伸びた。
「ちょ、ちょっとだけ待って!」
 当惑を極めた私は、あたふたと室内を行ったり来たり。べ、ベースをとにかく隠さないと!
 ベースをケースに仕舞い込むと、押入れの襖を一気に開け放ち中に押し込む。
「クッ、物が多くて中々入らん」
 半ば無理矢理にベースを押し込め、襖を閉める。早急に押入れを片付けようと心に決めた。
「ふぅふぅ…も、もういいよ」
 乱れた呼吸を整えながら、入室の許可を出す。すると、扉が開き訪問者が顔を覗かせた。
「なんや、またぎょうさん物で散らかっとるな」
 そう言って不快そうに眉を潜めたのは、我が置屋の古参にして女将さんを担う人物。つまり、私のお母さん。
「さ、最近、忙しかったから掃除が出来てないだけだよ」
「まぁ、それはええ。とりあえずそこ座り」
「…うん」
 嫌な予感を覚えながら、私は床に正座。お母さんが私の部屋に訪ねて来るのは、大抵…というか、確実にお説教の時だけ。仕事についてわざわざ褒めに来る可能性なんてないに等しい。
「菊菜、最近、仕事に身ぃ入ってへんのと違うか?」
 私の対面に座りながら、お母さんが問い掛けてくる。座るという動作だけでも、洗練された一挙だった。
「そ、そんなことないよ。頑張ってる…つもり」
「つもりやったらアカン。愛菜から色々聞いとる。昨日も仕事中に居眠りしとったらしいな」
「そ、それは…」お姉ちゃんめ、告げ口しやがったな。
「何回も言うとるけど、両立できんのやったら舞妓を辞めてもらうしかあらへん」
「ヤダ。辞めたくない」
 私の子供じみたワガママに、「ふぅ」とお母さんは露骨な嘆息を見せた。
「ええか、菊菜。この仕事はなぁ、半端な気持ちで務まるような甘いもんじゃない。アンタかて一年間働いてみて、身にしみたんちゃうか?」
 お母さんの言う通り、楽しいことより辛いことの方が圧倒的に多い。だけど、私には成し遂げたい野望がある。それは…お母さんのような立派で優美な芸妓になり、お母さんを見返してやること。
「なんでアンタがそこまで舞妓に固執するんか、私にはわからん」
『お母さんを見返したいからだよ!』
 と本音をぶちまけたい衝動に駆られるけど、どうしてかそれはできない。結局、いつも何も言い返せぬまま、ただお説教を食らうだけで終わってしまう。
 ――私はただ単純に純粋に、お母さんに褒めて欲しいだけなのに…。
 幼少期から私は出来の悪い子で、よくお母さんに怒られていた。いつも褒められるのはお姉ちゃんだけ。褒めてもらおうと躍起になってお姉ちゃんの真似事をするけど、結局、失敗して叱られるのがいつものパターン。私だって頑張っているのに、その努力を認めてもらえないのは非常に悔しい。
 舞妓になろうと思った理由は、お母さんの影響も大きいけど、お姉ちゃんよりどこか優れている長所が一つでも欲しかったから。
 そういたった気持ちを胸に必死に驀進してきたけど、お姉ちゃんにはまだまだ遠く及ばない。気持ちや感情だけじゃ叶わない目標なのは、この一年間で痛いほど学んだ。
「何か言いたいことがあるんやったら、ちゃんと言葉にしなアカン。汲み取ってもらおうなんて考えは、厚かましいで」
「……」わかってる。でも、やっぱり本音は言えなくて。
「どうせ意固地になっとるだけやろ。アンタは昔から負けず嫌いやったしな」
 私が答えられずにいると、お母さんが私の心情を推測する。
「違う! …それもちょっとはあるけど、ちゃんとした理由も、」
 反論しようと勢い良く立ち上がった瞬間、ガタンっと押入れの方で物音がした。
「なんや? 今の音?」
 お母さんが訝しげに発信源の押し入れの方に目をやる。
 げっ、マズい。無理矢理押し込んでしまった為か、私の立ち上がった僅かな衝撃でベースが押し入れの中で倒れたみたいだ。
「さ、さぁ? なんやろか? …虫、ちゃうかな」
「アンタ、なんか隠しとるんちゃうか?」
「な、なんもあらへんよ」
「さっきから目が泳いどるし、言葉遣いが変わってんのが何よりの証拠。アンタはわかりやすい」
 言いながらお母さんは腰を上げ、押し入れの方に近寄る。
「あっ、開けちゃダメ!」
 制止させようと手を伸ばすも、時すでに遅し。
 お母さんは襖をスパンと爽快に開け放つと、物音の根源を掴み取る。つまり、ベースだ。
「アンタ、こんなもんにうつつを抜かしとったんか?」
 あ母さんが呆れと落胆を綯い交ぜにした顔を私に向ける。
「そ、それは友達のヤツだよ。ちょっと興味があったから、借りただけで…」
 怪しまれなような当たり障りのない言い訳で追求を逃れようと試みる。
「へぇ…こんなハッキリとアンタの名前が書かれとんのにか?」
 ギターカバーには、ガッツリと私の名前が記入されたワッペンが張り付いていた。
 げっ、紛失やら盗まれるのが嫌で名前を記入していたのが、仇となってしまった。
「もうええ」
「へ…?」
「そんな半端な気持ちで仕事をやっとんのなら、辞めてくれた方がマシや。別に趣味を作るな言うとんのやない。せやけど、それで仕事が疎かになっとんのなら、話しは別や。荷物纏めとき」
 言い終えると同時、お母さんは部屋を出ようと立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
腕を掴んでお母さんを引き止める。
「なんや?」
「私は絶対に舞妓を辞める気はないから」
「辞める気がないのは結構やけど、やる気がないんやったら続けてくれても迷惑なだけや。それに、見込みのない舞妓を置いとくだけの余裕はウチにはない」
 辛辣で酷薄な言葉が、私の胸を容赦なく打ちのめす。親類であろうと厳しいのは知ってたけど、流石に私も傷付く。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。…私だって頑張ってるよ! お母さんがわかってくれないだけじゃん!」
 溜まりに溜まっていた今までの感情が、意思とは無関係に暴発した。
「いっつもお姉ちゃんばっかりで、私のことなんて見てくれないじゃん! どうせお姉ちゃんの方が大事なんでしょ!」
 刹那――左頬に鋭い衝撃が襲う。その部分が徐々に熱を帯び、口内に鉄臭い不快な味が蔓延していく。
「親に向かってその口の利き方はなんや!」
「…っ」
 気付くと私は駆け出していた。置屋を靴も履かずに飛び出すと、外灯の灯る花街を駆け抜ける。いつもなら華美で風情ある好きなこの景色も、今は全てが疎ましく目に映った。
 なんで私だけ、なんで私だけ、なんで私だけ!
 そんな悲嘆が胸中を埋め尽くす。
「いっ…た」
 無我夢中で走っていると、突如として右足に激痛が駆け抜ける。あえなく失速を余儀なくされた。
 そのまま無視しようとも考えたけど、尋常じゃない痛みだったので立ち止まって足の裏を見る。小石かガラス片でも踏んだのか、血が滲んでいた。
「…マジついてない」お母さんにベースのことを知られたのも含めて。
 負傷した右足を地面に付けないよう気を付けつつ、片足だけでケンケンと飛び跳ねて、近くにあった石壁に背を預けて座り込む。接着した部分がゴツゴツとしていて決して快適とは言えないけど、自由に歩けないので仕方ない。
「………」背中を丸めるようにして膝を抱えていると、普段だと気にも留めない殷賑な音が聞こえてた。
 お酒をあおって酩酊しているおじさんの騒がしい声、宴会ではしゃぐ複数の喧しい男女の声。
 私がこんなにも心身ともに憔悴しているというのにお気楽な人達だ。…そういえば最近、嫌なことがあると全力で走っている気がする。現実から目を背けて後回しにしても良いことないっていうのに、駄目だとわかっていても逃げてしまう。それが、癖になっているのかもしれない。ダイエットには最適だろうけど、私の悪い癖だ。
「…眠い」
 どれくらいそうしていたであろう、急激な睡魔に襲われる。最近、仕事やバンド練習に多忙を極め、あまり寝てないからだ。
「だったら帰れば」
 不意に聞き覚えのある声が頭上から降り注いだ。顔を上げるとそこには、お姉ちゃんがいた。
「…何しにきたのよ」
「アンタを迎えにきたのよ」
「ほっといて」
 つっけんどんに言い捨てると、再び膝を抱える。今は誰とも話したくない気分だったんだ。
「私だってそうしたいけどさ。アンタは妹だから、残念なことに」
 そう言いながら、お姉ちゃんは私の隣にしゃがみ込む。…最後の一言は必要あった?
「お母さんが心配してるわよ」
「ウソ。お母さんが心配するはずない」
「我が娘が飛び出しておいて、心配しない親なんていないわよ。それにねぇ、私はお母さんに頼まれたから、アンタを探しにきたんだから。感謝の一つぐらいして欲しいところ」
「私は頼んでないし」
「そんな軽口を叩けるんだったら、そこまで落ち込んでないみたいね。何があったか話してみなさいよ。なんとなく察しはつくけど…」
「………実は――」
 話すかどうか少し迷ったけど、一人で思い悩んでいても解決しそうになかったので、私は置屋での顛末を述懐することにした。
「とうとう見つかっちゃったか」
「お姉ちゃんの所為でもあるんだからね。わざわざお母さんに居眠りしてたことを告げ口するから」
「私は事実をお母さんに報告しただけだし。罪をなすりつけるなんて、お門違いもいいとこ。そもそもアンタが寝なけりゃいいだけの話しじゃん」
「それは…まぁ…」正論過ぎてぐうの音も出ない。
「あの人は完璧主義だから、半端なことが嫌いなんだよ。逆らおうとする方がバカ」
「そんなことわかってるよ…」何年、一緒にいると思ってんのよ。あの人が融通の利かない頑固者だというのは、私が一番知ってる。
「…私、どうしたらいいの?」
 私が助言を求めるも、「アンタはどうしたい訳?」と逆に問い返される。
「私は…どっちも、舞妓もバンドも続けていきたい」
「じゃあ、そう言うしかないね。アタイはどっちも辞めたくないんだがや! って」
「…どこの誰の真似よ、それ」まぁ、それしかないよね…。
「そんなしょぼくれた顔してたら、お母さんに気持ちは伝わらないよ。アンタは元気だけが取り柄なんだから」
 ほら、頑張れ! とお姉ちゃんが叱咤激励とばかりに私の丸まった背中をバシっと叩く。
「ぃたっ!」
 単純に痛かったけど、それによって不安感や恐怖感が多少マシになった気がする。
「じゃあ、帰るよ」
 お姉ちゃんに腕を掴まれ起立させられると、私は引き摺られるようにして置屋に連れ戻された。
 お母さんのいる部屋の前、私は中々勇気が出なくて入室を躊躇い立ち尽くしていた。正直、生徒会室に乗り込んだ時の緊張とは、雲泥の差と言ってもいい。
 お姉ちゃんは帰ってきて早々に自室へ戻ってしまったので、この場には今私しかいない。
 だけど、ここに立ち尽くしているだけでは、一向に事態は変わらないし時間が無駄に消費されるだけ。
 動き出さなきゃ何も始まらないのだ。…確かそんな歌があったっけ。
「よしっ…」自らを鼓舞するべく、拳をギュッと握る。
 決意を固めた私は、礼儀として襖の扉をコンコンとノック。
「誰や」
 お母さんの声が聞こえた瞬間、凄まじい緊張感が私の身体に駆け巡る。すぐに逃げ出したい気持ちになったけど、グッと堪える。もう私は逃げない。
「…お、お母さん、私」
「…入り」
 入室の許可が下りたので、私は翼々と襖を開いていく。
 室内でお母さんはノートに何かを記入していたみたいだが、手を止めると、
「荷物が纏まったんか?」
「さっきは、その…生意気言ってごめんなさい!」
 とりあえず開口一番、誠心誠意を込めて頭を下げた。
「…それはもうええ。アンタはこれからどうしたいんや」
「私は…どっちも続けていきたいと思ってる。学校も舞妓も。楽器だって中途半端な気持ちじゃなくて本気で頑張りたいと思ってる。だから…認めて欲しい」
 私は真っ直ぐ真摯にお母さんを見つめる。
「アンタが意固地で頑固なのは、もう知っとる。諦め悪くて負けず嫌いなんも。私はそこだけアンタを認めとる。最近は嫌なことがあるとすぐに投げ出す若もんが多い中、その根性だけはアンタの、菊菜のいいとこやと思とる」
 …アレ? もしかして私ってば褒められちゃったりしてる?
 でも、こうして言われると、私とお母さんって似てるのかも。それが嬉しいか否かって問われると、微妙な気持ちだけど…。
「アンタの気持ちはわかった。今回だけ不問にしといたる」
「そ、それって…」
「その代わり今まで以上に仕事に励んでもらわんと、ホンマに辞めてもらうからな」
「うん!」
「返事は『はい』や」
「はい!」
 こうして赦免された私は、明日に備えて時間ギリギリまで練習に没頭したのだった。
 
 練習期間はあっという間に終わり、バンド同好会の行く末を左右する運命の日を迎えた。あの会長の度肝を抜いてやろうと気合はたっぷりだ。
「あっ、そういえば菊菜先輩」
 会長の指定した時刻まで後15分前という時、入念に最後のリハーサルに励んでいると、彩音ちゃんが口を開く。
「どうかした?」私は弦を弾いていた手を止める。
「私達のバンド名ってないんです?」
「そういえばそうだな」と冬華も反応を示す。
 確かに決めてなかったな。練習に没頭するあまり、そんなことさえ忘れていた。
「う~ん…カッコよくて覚えやすいのがいいな」
 額に手をやり、バンド名をあれこれ思案する。ごちゃごちゃした長いバンド名もカッコいいっちゃカッコいいけど、一つの単語の方が皆に親しまれやすくて覚えてもらえる。
「うぬぬぬぬ…あっ」
 ふと、自分の鞄からクリームパンの空袋が飛び出ているのが目に入った。いつか捨てようと思って、一週間ぐらい忘れていたヤツだ。
「クリームってのはどうかなぁ…」
 思いついた単語を、皆に提言。クリームパンは私の大好物なのだ。クリームパンと牛乳、それさえあればもう何もいらない。安直ではあるが、結構カワイイと思う。それに昔、カッコいい同名のバンドもいたことだし。
「クリーム、ですか。なんか可愛いらしい響きですね」
「クリーム…なんか可愛過ぎやしないか?」
 彩音ちゃんには好感触だが、冬華は不満そうだ。
「美月ちゃんはどう?」
 私が問い掛けると、「私も良いと思います」と美月ちゃんも賛意を示してくれた。
「じゃあ、クリームに決定! ドンドンパフパフ」
「おい、私の意見はどうなる?」
「だって三対一じゃん。冬華のボロ負け。それとも、何か他に良い案があったりするの?」
「………ないが」
「じゃあ、いいじゃん。そんなに不満だったら、一時的な仮名にしといて後から考え直す?」
「いや、もういい。クリームで」
「何それ? 明らかに不満そうなんだけど」
「別に不満ではない。ただ、微妙って思っただけだ」
「一緒じゃん。じゃあ、何か他に考えてよ」
「だから、もうそれでいいって言ってるだろ」
「『もう』って何? そんな妥協した形なんか気分悪い」
「気分が悪いのは、私も一緒だから」
「やめてください!」
 険悪な雰囲気が漂う中、彩音ちゃんが私達の間に割って入る。
「これから、会長さんに演奏を披露するっていうのに、ケンカなんかしている場合じゃありません!」
「…そうだよね。すんません」
「確かにそうだな。ごめん、彩音ちゃん」
 言い争ってる場合じゃなかった。
「…やっぱ良い名前だと思うぞ、クリーム」
「えっ? や、やっぱり? いやぁ、私のネームセンスは秀逸だから」
 そんな会話をしていると、コンコンと扉を叩く音が響いた。室内にピンっと緊張感が張り詰める。き、来た!
「はいどうぞ!」
 張り詰めた緊張の糸を切断しようと、わざと明るい口調を意識した。ガラガラっと扉が開かれ姿を現したのは、我が校の頂点に君臨するお方、生徒会長である。
「以前は物で雑然としていたのに随分と片付いて…なっ!」
 部室を見渡し感心していた会長だが、いきなり驚いた顔を見せた。いつも泰然自若としていた会長とは思えぬ珍しい挙動だ。てゆーか、初めて見た。
「み、美月…そこで何をやっている?」
「アレ? 二人はお知り合い?」
「やっぱりな…」
 状況が把握できていない私に対し、冬華は納得したように頷く。
「どゆこと?」
「どこかで西大路って苗字を聞いた覚えがあったんだが、会長の苗字も西大路なんだ」
 西大路…西大路といえば美月ちゃんの苗字だったはず。…ってことは。
「ふ、二人って姉妹なの!」
 驚愕の事実に、私は叫ばずにはいられなかった。よく見れば二人共に端正な顔立ちで少し似ているかもだけど、性格が違い過ぎるでしょ。
「はい。私と葉月お姉さまは姉妹です」
「そんなことは至極どうでもいい。私は、何故お前がこんな所にいるのかと訊いているんだ」
 威圧感の伴った視線で、妹を問い詰める会長。
「私は吹奏楽部を退部致しました。なので、この部に入部したのです」
「何故だ、何故辞めた? 父さんはお前の吹奏楽部での活躍を楽しみにされていたのだぞ」
「父さまのご期待を裏切ってしまったのは心苦しいですが、私は菊菜さんの歌声に惚れ込んでしまいました。これからは、菊菜さんの後ろでドラムを叩きたいと思ってしまいました」
 美月ちゃんの本音を聞いた会長は、敵愾心を剥き出しにした眼光で私を睨む。こ、怖い…。
「駄目だ。こんな低俗な部でくすぶっているぐらいなら、正式に活動しているちゃんとした部活動で腕を磨け」
 …本人達を目の前にして、よくそんなに貶せるなぁ。
「私達は遊び感覚で集まっている訳じゃない。少ない人数でも日々練習を重ねて、部への昇格を目指しているんです。それを低俗なんて表現されるなんて、心底遺憾です。訂正してください」
 よっぽど会長の発言が気に食わなかったのか、冬華が毅然と物申す。
「君は確か…」
「小野冬華です」
「知っている。君が常に成績上位だということも」
「…そうですか」
「そんな君が何故こんなところに? 君は有名大学を目指していると、聞いた覚えがある。バンド活動なんかにうつつを抜かしていたら成績が下がり、大学受験に失敗するぞ」
「ご忠告どうも。でも、そこらへんは抜かりないんで心配無用です」
 全く臆する様子もなく、冬華は言い返す。
「そうやって油断していると、後々後悔する羽目になっても知らないぞ」
「仮に落ちたとしても、私の人生なんで」
 なに、この二人…。傍から見ていてハラハラする。知能の高い者同士の口論というのは、どこか知的な雰囲気が漂うんだな。
「まあいい。それより、これで廃部は決定だ」
「ど、どうしてですかっ! まだ演奏も聴いてないっていうのに!」
 あまりに突然廃部を宣告され、私は異議を申し立てる。
「美月がここにいる時点で、認可できない」
「そんなの完全にそっちの都合じゃないですか!」あまりに横暴すぎる。
「待ってください」美月ちゃんが口を開く。「菊菜さんや皆さんにこれ以上の迷惑は掛けたくないので、私が退部します。姉さま、私は吹奏楽部に戻りますので、どうかバンド同好会を存続させては頂けませんか?」
「そうだな…それであれば、一度、検討してもいいだろう」
「そんなのイヤです!」そんな妥協案に異論を唱えたのは、彩音ちゃんだった。「美月ちゃんは私にとって唯一の同学年の大事な仲間なんです。それを、演奏も聞かずに引き裂くなんて…あんまりです…」
 今までクラスが違うので関わる機会がほぼなかったらしいのだが、二人は同学年ということで徐々に親しくなっていったらしい。
「そうですよ! 私達はこの一週間、今まで以上に練習を頑張ってきました。せめて皆の実力を確かめてから、判断してくださいよ!」
 私も便乗して、会長に直訴。
 会長は目を細め、黙然と私を見据える。私も負けじと会長を見つめ返す。
「…確かにそうだな。元々そういった約束だったしな。約束は守ろう。じゃあ、君達の実力を拝見させてもらおうか」
 そう言いながら、会長は不遜にも壁にもたれかかり腕を組む。あまり期待していないのが明瞭に伝わる。多分、会長は形式上聴いてはくれるが、認可する気など毛頭ないのだろう。
「じゃあ、聴いてください」
 しかし、そんな考えが吹き飛ぶぐらいの演奏を見せつけてやり、会長の鼻を軽くへし折ってやるんだ!

「はあはあ…」
 なんとか歌い終わり、会長の様子を窺う。これといったミスもなく、練習以上の実力は発揮できたと自負。
「…ど、どうだったでしょうか…?」
 私が感想を求めると、会長は険しそうな表情を見せ、
「…まだまだだな」
 そんな淡白な言葉だけを、会長は述べた。あれだけ全身全霊で頑張ったというのに、会長の胸には響かなかったみたい。
「…しかし」
 落胆していると、会長が言葉を付け足す。
「予想していたよりもずっと力強く、熱量を感じた。個々の演奏、一体感等はまだ稚拙な部分もあるが、単純に良いと思ったよ。何より、美月があんなに楽しそうにドラムを叩く姿は、久し振りに見た」
 会長は妹に目をやると、ニコッと穏和な笑みを向ける。
「じゃ、じゃあ…」
「本当のことを言えば、どんな演奏を見せられようが認める気など更々なかった…。だが、バンド同好会の存続を認めようと思う」
「やっ、」
「やったぁ!」
 私の台詞を強奪し諸手を上げて歓喜の声を発したのは、彩音ちゃんだった。そのまま美月ちゃんに駆け寄ると、ギュッと抱き締める。
「やったよ、美月ちゃん!」
「はい、ありがとうござます!」
 仲睦まじく喜びを分かち合う二人は、まさに青春というに相応しいシーンだった。
 負けてなるものか! と対抗意識が芽生えた私は、冬華と熱い抱擁を交わそうと駆け寄る。
「冬華ぁ! …ぶっ」
 だが、抱きつこうとした瞬間、両頬をガシっと掴まれ阻まれる。
「近付くな。暑苦しい」
「もう、冬華ったら照れなくてもいいのにぃ」
 こうして私達、バンド同好会は正式に活動を継続できることとなった。